食欲がないという如月のために、睦月はおかゆを作っていた。多めに水を入れた米を、焦がさないようにかき混ぜながら炊いていく。寝室で横になっている如月のことは、吹雪と夕立が見ていてくれていた。
白くどろどろとした粥をかき混ぜながら、睦月は午前の演習のことを思い返していた。
体調がよかった如月は、明石の指示で早速艤装の試験に入った。調整済みだった如月の艤装を装着し、演習場に出る。睦月は陸上でそれを見守り、洋上で補助するのは吹雪と夕立だ。
航行試験は滞りなく進んだ。久しぶりの海に如月も満足げだった。
異変は砲撃試験が始まってからだった。軽炸薬の演習弾を用いていたのだが、途中から如月の様子がおかしくなり始めた。小刻みな震え、焦点の合わない目、額を伝う冷や汗。次第に狙いが、演習の的から外れていく。
きっと何かの手違いだったのだろう。それでも如月の最後のトリガーを引くには十分だった。
パニック状態になった如月を吹雪と夕立がなだめ、何とか陸に抱え上げる。明石のところに連れて行ったが、とりあえず体に異常はないとのことで、今は寮に戻ってきていた。
ただ、気が沈んでいることに変わりはなく、三人が何を話しかけても、小さな返事を返すばかりであった。
(大丈夫。ちょっと急ぎ過ぎたんだよね。これからはもっとゆっくり、やっていけばいいんだから)
そう言い聞かせて、睦月は頬を叩く。自分まで暗い顔をしてはいけない。
出来上がったお粥を皿に移して、スプーンと共にお盆に乗せる。彩に梅干しを一つ。
部屋に戻ると、如月はベッドのふちに腰かけて、俯いていた。待っていてくれた吹雪と夕立は、お手上げといった様子で睦月を見る。
睦月はできるだけの笑顔で、如月に話しかけた。
「お待たせ、如月ちゃん。お粥持ってきたよ」
睦月の声に如月が顔を上げ、微かに笑った。力無い頷きと、蚊の鳴くような返事。夕陽の中で、それらが随分と儚げに見えた。
お盆ごとお粥を受け取った如月が、スプーンに手を付ける。ゆっくりとした動作でお粥をすくい、口元へと近づける。
だが、如月がお粥を口にすることはなかった。スプーンを置き、元のように暗い表情で俯く。薄い色の唇が、重々しく開かれた。
「睦月ちゃん……私、ここにいていいのかな」
その言葉は、自分の存在を最大限に否定するものだった。睦月も含めて、その場にいた全員が息を飲む。冗談では済まされない、重い問いかけであるように、睦月には感じられた。
「何言ってるのっ。そんなの、当たり前だよ」
咄嗟に口から出た言葉に、吹雪も夕立も大きく頷く。如月がここにいてはいけない理由なんて、ない。
それでも如月は首を振る。
「だって……だって私、何も憶えてないんだよ。吹雪ちゃんや夕立ちゃんのことも、皆との思い出も、自分が……自分が、沈んだ時の、ことも」
口を挟ませまいと、これ以上にないほど閉じたままの言葉が並べられる。両手で顔を覆ってしまった如月にかける言葉がない。
憶えていることと、憶えていないこと。今の如月にはそのどちらもがある。いっそ何も憶えていなかった方が、楽だったのかもしれない。
「それなのに……それなのに、暗い海をあてどもなく彷徨った事だけは、はっきり憶えてるんだよ。行きたくないのに、皆のところに帰りたいのに、戻れなくて。やっぱり、私はあっちに行かなきゃいけないのかも、って」
後半は最早うわ言だった。あまりにも抽象的で、それなのに具体性を伴った言葉が、重しのように空気を圧迫する。金縛りのような感覚に支配され、身じろぎすらできない。そんな迫力が如月の言葉にはあった。
(――それでも)
それでも、口を開かねば。私が如月を守らなければ。もう二度と失わぬように、その心を繋ぎ止めねば。
「違うよ、如月ちゃん。今までもこれからも、ずっとずっと、如月ちゃんのいる場所はここだよ。悪い夢を見てたから、そんな風に思っちゃうだけだよ」
「違う、違うの睦月ちゃんっ。そういうことじゃ、ないのっ」
睦月の言葉を遮って如月が叫ぶ。夕陽の中、こちらを見つめた瞳は、その端一杯に涙を溜めていた。
「夢じゃないの。確かに感じる。誰かに……何かに、呼ばれてる。怖いけど、逆らえなくて・・・だから私、今日、気づいたら、撃ってた」
そこまで言い切って、如月はまた顔を覆う。
「あれは、事故だ、って。間違って、演習弾に実弾が紛れてただけだから……」
「でも、撃ったのは私なのっ。私が自分の意志で、あの時撃ったのっ。いつか……いつか私……皆の、ことも……」
泣き崩れる如月。その背中に手を伸ばすことが、睦月にはできなかった。
泣き疲れた如月は、そのまま眠ってしまった。無造作になってしまった髪をいくらか整え、睦月は溜め息を吐く。
記憶の欠如を如月がこれほどに引きずっているとは思わなかった。
否、それだけではない。
暗い海。誰かに呼ばれている。そのうわ言が頭の中で繰り返される。
如月には「悪い夢」と言い切ったが、果たしてそうだろうか。W島沖で轟沈してからサーモン海域で発見されるまで、如月に何があったのかは誰にもわからないのだから。
「大丈夫だよ、睦月ちゃん。如月ちゃん、まだ誤射のことで、混乱してるんだよ。一度寝て、落ち着いたら、きっと元気になるよ」
吹雪がそう言って励ましてくれる。隣で見ていた彼女が誤射だというのだ。自分の意志で撃ったなんて、きっと如月の勘違いだ。
「うん……そうだよね」
そう思うのに、返事はどうしても小さくなった。
結局手を付けることなく、冷めきってしまったお粥のお盆を取ろうと、膝を折る。二段ベッドのすぐ横、小さなテーブルに置かれたそれに手を伸ばせば、必然的に如月の寝顔が目に入る。
安らかな表情とは思えない。時折眉間に寄る皺は、また何か悪い夢を見ているのか。
「如月ちゃん、制服のまま寝ちゃったっぽい。寝苦しそうっぽい」
夕立がそんなことを呟いた。言われて気づく。眉間の皺は、単に寝苦しかったからか。
「そうだね。あとで、寝巻に着替えてもらわないと」
元々泣き疲れて寝てしまったこともあり、如月は腕を頭の方に上げるようにして寝ている。少し汗ばんだ首筋と二の腕が並んでいた。目を覚ますころにはお風呂は閉まっているだろうし(そもそも如月は、まだ経過観察中の身であるため、入浴は工廠で明石観察の元行われている)、軽くタオルで拭いてから着替えてもらわないと。
その時ふと、如月の袖口が見えた。光の加減か、そこに濃い影が映る。
(あれ……?)
何かおかしい。影というには、光との位置関係が違うような。どちらかといえば、痣のように見えた。
打ち身か何かかな?ショートランドに来てから原因になるようなことはなかったし、その前にできたものだろうか。
明石なら、その辺り何かを知っているかもしれない。
「お粥、戻してくるね」
とりあえず目の前のやる事を片付けようと、立ち上がる。
部屋の扉がノックされたのは丁度その時だ。こんな時間に誰だろうか。不思議に思いつつ、吹雪に扉を開けてもらう。
オレンジの電灯が点り始めた廊下には、二人分の影があった。長身の女性が二人。いつものことではあるのだが、妙な威圧感を醸し出している。赤城と加賀だった。
「如月さんは?」
先に口を開いたのは、珍しく加賀の方であった。その視線がチラリとベッドの方を窺う。
「今、寝たところです」
睦月の答えに、加賀は「そう」とだけ返事をした。それから、ここからが本題と言うように、居住まいを正す。
「三人に話があるわ。少し外に出てもらえるかしら」
お願いというよりも、命令に近い語気だった。ここでは――如月の前ではできない話らしい。
ドクリ。胸の辺りで嫌な音がする。予感というにはあまりに生々しい。
「あの、お粥だけ戻してきていいですか?」
「ええ。ここで待っているわ」
加賀が頷く。ここまで赤城がなんの反応も示していないのが、逆に怖い。
共用の台所でお粥を処理し、睦月は部屋に戻る。部屋の前では、遠目にもわかる険しい表情の加賀と隣の赤城、そして不安げな僚艦二人が待っていた。
寮を出た睦月たちを、加賀は近くの茂みへ案内する。灯火管制で街頭は消されているから、ここなら人目につかない。木の幹に隠れてしまえばなおさらだ。
薄闇の中、月明かりだけを頼りに加賀の表情を窺う。血色の良い肌にくっきりと影が落ち、目の輝きを一層際立たせる。その美しさには月が似合った。
「端的に言うわ」
月下の美人は、その光と同じように、冷めた声で話し始める。
「
加賀の言葉は、異国のそれであるかのように理解できなかった。並べられた文字は聞き取れる。だというのに、その内容を理解することを、頭が拒んでいるようだった。
「どういう、意味ですか」
それだけ喉から絞り出す。加賀の真意はわからない。冷静沈着な表情はいつも以上に感情を映し出さず、鉄面皮か能面のようにこちらを見つめ続ける。
「そのままの意味よ。あれは駆逐艦如月ではない。その姿に似た、深海棲艦」
頭の中でカチリ、何かが途切れる音がした。今まで押しとどめていたタガが、外れる音だった。
「そんな……そんなわけないじゃないですかっ!!」
普段では考えられない叫び声に、自分でも驚く。慣れていないせいか、声の端は掠れて震えた。それでも叫ばずにいられない。それだけは認められない。
加賀が目を細める。
「如月ちゃんの偽物だっていうんですか?深海棲艦が如月ちゃんに化けてるって。そんなわけないっ!だってちゃんと憶えてた、睦月のこと憶えてた!」
それでも加賀の表情は変わらない。それが何だと言わんばかりに、こちらを見つめている。そのすまし顔があまりにも憎らしく、睦月はこれでもかと睨み返した。
それを見かねたのか、困り顔で赤城が助け舟を出す。
「そうね。そういう意味では、あの娘は正真正銘、駆逐艦如月です。貴女たちと過ごした記憶を持つ、駆逐艦如月です。だから、貴女たちの思っているのとは逆。彼女は今まさに、深海棲艦になろうとしているの」
「何を……言って」
半ば微笑すら湛えたまま、そんなことをのたまう赤城の方が、余程恐ろしい。絶望は睦月の想像よりはるかに大きく、険しかった。
「深海棲艦は船の怨念。だから、同じく船である艦娘も、轟沈すれば深海棲艦になる」
赤城が続ける。端的な、報告書をそのまま読み上げたような、そんな声色だ。
「W島沖で轟沈した如月さんは、もはや艦娘ではない。深海棲艦になりかけている、とても中途半端な状態と言えるわ」
「貴女たちも気が付かなかった?彼女の二の腕に、痣のような影があることに。あれは、深海棲艦に侵食されている証拠よ。それほど時間はない。数日以内に、如月は完全に深海棲艦になる」
最後の加賀の言葉がとどめとなる。
嘘だ。そう言いたい。言えてしまえばどんなに楽か。しかし、嘘というにはあまりにも現実味を帯び過ぎていた。何よりも睦月自身が、如月の異常を一番に感じ取っているのだから。
それがまるで、如月を裏切っているみたいに思えた。反論の言葉は出てこず、代わりに強く唇を噛み締める。
「方法は……助ける方法は、ないんですか?」
すがるような吹雪の言葉に、二人が首を横に振る。
「残念ながら、深海棲艦になるのを止める方法はないわ」
「そん……な」
吹雪の肩がガクリと落ちる。このまま座して別れを待つしかないのか。夕立もまた、力なく俯いていた。
「ただ……一つ、如月を取り戻す方法なら、ある」
加賀がポツリと、珍しく力の籠らない声で呟いた。期待などするな、言外の意味は感じ取れたが、それでも視線を向ける。加賀は溜め息を一つ。
「艦娘が深海棲艦になるように、深海棲艦も艦娘になることがある。――私のように」
そっと息を飲む。今、加賀は何と言ったか。
「私には、深海棲艦だった時の記憶がある。とても断片的だけれど、確かなものよ。だから如月も、もしかしたら、深海棲艦から艦娘に戻ってこられるかもしれない」
衝撃の波状攻撃に、頭の処理が追い付かない。吹雪と夕立も似たような状態だ。目を真ん丸に見開き、開いた口が塞がらない様子で、加賀の言葉を反芻している。
「それじゃあ……加賀さんは、私たちの敵だった、ってことですか?」
「……そうなるわね」
加賀は否定しなかった。細められていた目が、今度は閉じられる。記憶の片鱗を思い出しているのか、表情がいつもよりさらに冷たい。もしかしたらそれは、艦娘を襲った記憶なのかもしれない。
「……加賀さんは、どうやって艦娘に戻れたんですか?」
「詳しい理屈はわからない。けれど方法は一つ」
「深海棲艦が、艦娘によって沈められることよ」