私は大変に臆病なので、自分の中にある欲が苦手だった。
食欲と睡眠欲は理解できる。この二つがなければ生命を保てない。実際に食べれなかったとき、眠れなかったときは生命の危機を感じた。日々のパフォーマンスも落ちるし、この二つは満たしておくに越したことはない。
問題は三つ目だ。正直生きるためにこれは必要ない。人類という種の保存には必要だと理解している。
ただ私は終末世界の若者らしく未来に対して前向きにはいられないので、そんなことする必要はないんじゃないかなと思っている。今の代さえよければそれでいい、とまでは言わないけれど、残すことを考える余裕もないのだ。
時に性欲は食欲に近いとされる。
どうも脳の近いところにそれらを制御する場所があって、男性は空腹時、女性は満腹時に性的欲求が高まるとかいう、信じていいのか怪しい話を耳にしたことがある。
バーで聞いた話であるため与太話の可能性が高いのだけれども。
何故私がこんなことを気にしているかというと、先日負った怪我が治るまで激しい運動は禁止だからだ。
私はそれこそ周囲から馬鹿がつくほど真面目と言われるくらいなので、医師の言いつけはきちっと守る。ただ、その、予想外にもっと真面目だった奴がいて。
真面目というか心配故か、Vectorは私が少しでもそれっぽい触り方をすると拒む。曰く、
「激しい運動禁止って言われてるんでしょ」
ごもっとも、その通り、彼女が正しい。
なんせ体内を弾丸が通ったんだ。大人しくするのが一番いい、ことは重々理解している。
でもけれどしかし、私も所詮は人の子だった。別に最後までしなくていいからVectorに触りたいんだ。
そんなことしなくても眠れるし何の問題もない。普通にそういうことができてた時は何もしないで寝ることだって多々あったのだから。
そうであっても、禁止されると余計に恋しくなるわけで。おまけに既に三週間は何もしてないわけで。最長記録だ。
「はああぁ……くたばれ煩悩」
執務室で一人なのをいいことに、デスクに向かったまま頭を抱えて唸った。ここ数日悶々としているのはこのせいだ。
生憎とこういった悩みを相談できる相手はいない。カリーナに相談するのはセクハラだし、ペルシカさんに話せば椅子から転げ落ちるほど笑われてろくでもないことをされそうだし、ヘリアンさんを相手に選ぶのは嫌味だ。
そもそも悩み続けてもしょうもない。これは自分でなんとかするべきで、といつも堂々めぐりする場所まできたところでドアがノックされた。
「どうぞ」
「よっ指揮官。後方支援の報告だよ」
M16だった。報告書を受け取り軽く確認する。結果は上々のようだった。
「ありがとう、お疲れさま。今日はゆっくり休んで」
「よーしじゃあ飲みに行こうかな」
「程々にしてね」
そのまま出て行くと思ったM16だったが、怪訝そうに眉をひそめて私の顔をのぞき込んできた。
「えっと、なにかついてる?」
「いや。調子悪そうだなって思ってさ」
先ほどまで考えていたことが頭をよぎり、背中を嫌な汗が伝う。
「そんなことはないよ」
「じゃあ悩み事でも?」
「いや」
「指揮官無理してない?」
「特に」
「本当かなぁ」
なかなか引き下がってくれなくてちょっと困る。答えに詰まっていると彼女は椅子を持ってきてデスクの反対側に座った。
「別に話したくないなら無理強いはしないけどさ、家族の力にはなりたい」
「家族?」
「M4が家族って言ったろ? じゃあ私にとっても指揮官は家族」
そう言われればわかるけれど、生憎私には家族がどんなものなのかしっかりと掴めていない。ただM16が定める家族というものは何か困っているなら手をさしのべたいもののようで。
お言葉に甘えるとしようか。
「実はちょっと悩みがあって」
M16が聞く体勢に入った。ありがたいのだけど、ちょっとこの、成人しているにも関わらず思春期の少年みたいな話をするのは、気が引けるような……えぇいなるようになれ!
まるで窃盗でもしにきたかのようにこそこそと自室に入った。振り返ってドアを閉め、きっちり施錠したことを確認。
それから制服をハンガーにかけて、シャワーを浴びて、もう一度施錠したことを確認。さらにVectorのスケジュールを確認。
今日は夕食後に後方支援に向かったから戻ってくるのは深夜近い。よし。
ここまできてやっとM16からもらった物を取り出した。なんてことはない、ただの、ポルノ雑誌だ。
昼間に悩み事を話したところ、彼女は笑わずに心底同情してくれて、人間の制御できない部分について理解を示し、Vectorに無理強いしなかったことをほめてくれた。そして、
『後でいいもの渡すからうまく活用してな』
と部屋を出て行き、夕食の後にこそっとこれを渡してきたて、一言、
『今回のメイン、お宅のパートナーに似てるから』
と耳打ちして、健闘を祈るとばかりにバシンと背中を叩いた。割と痛い。
もらった物をすぐに手放してもよかったけどそうしなかったのは厚意を受け取りたかったのと、結構切羽詰まっていると実感したから。よってこうして自室に持ち帰り、おっかなびっくり中身を確認しようとしている。
そっとページをめくる。途端に目に飛び込んでくる刺激的すぎる視覚情報に次ぐ視覚情報。考えてみればこんなもの見かけることはあっても読んだことはなかった。
「う、うわぁ」
声を発してみても落ち着くことはなく、かえって自分がいつもと違うことを認識するだけだった。
M16の言葉を思い出し、雑誌のメインとなる部分までページを進める。なるほど、言わんとしてることはわかった。面影がある。
どちらかというと細身で、肩までの銀髪は毛先が少し跳ねている。笑顔よりも澄まし顔の方が映える顔で、見るからに高価そうな下着を身につけたモデルが真ん中に写っている。なるほど、特集ですか、へぇ。
ペラペラ内容を確認して、また特集の頭に戻って確認して、さらにもう一回。
えぇ……こんなことするの? そこまで咥えられるんだ……わあすごいあんなとこも見えてる。あ、全部脱がしはしないんだ……へぇ、へぇ、わぁ。
世の人々はこういう澄まし顔で生意気そうな女性を屈服させることに性的興奮を覚えるのか。なるほど、わかった。見聞が開けた。ありがとうM16、面白かった。本人に明日お礼を言おうそうしよう。
そうやってやめればよかった。しかし身体の中心にエンジンがかかったのを無視することもできなかった。
Vectorが帰ってくるまでかなり時間があるし、彼女曰く私は早いらしいので、問題ないだろう。
ごそごそと部屋着をずらし、例のページを開いて……もう二ページ先のやつ、そうそれ。思えばVectorと生活するようになってすっかりご無沙汰の自家発電を
「ただいま」
「え」
今まさに脳内で思い浮かべていた相手が部屋に入ってきたのが、妄想だったらどんなによかったか。
「…………なるほど」
「何が!?」
「M16が後方支援代わるって言ってきて。よくわからなかったけどAR小隊の任務関連って言われたから代わってもらって、戻ってきた。それで」
「くっそあいつやりやがった」
「これを見せたかったわけね」
史上最大のおせっかいをされた。そりゃ確かに言えないなら見せた方が早いだろう。だからってこれはない。
とりあえず部屋着に突っ込んだ手は引き抜いた。冷水をぶっかけられてとてもそんな気分じゃない。
「ごめんなさい」
「なんで指揮官が謝るの」
「Vectorが心配して制限かけようとしてくれてるのにこんな」
「人間ってさ、そういうのどうしようもないの?」
「残念ながら。人形はスイッチ一つで制御できるんだよね」
「うん」
「いいなぁ。人形になりたい」
ベッドに大の字にひっくり返った。恥ずかしいし惨めだしもうなんだかなぁ。
Vectorも隣に横になり、両の目に私を映す。
「指揮官は人形だったら退屈な奴になりそう」
「そうかな?」
「自分のできる範囲から出ようとしないのが人形だから。指揮官その範囲狭いもの」
「まあうん、その通りだ。でも自分を制御できるのはうらやましい」
「制御できなくて転げ回ってるのが指揮官の面白いとこだよ」
「うっわ性格悪い」
眉間に皺を寄せると彼女の指がそこをぐりぐりつつく。むずかゆさに目を閉じると指はそのまま鼻先へ、そこをたどって唇を通り、顎から喉へ到達した。
指は喉をくすぐるように動き、離れていった。ぞぞぞと鳥肌が立って奥歯から力が抜けた。
「そういう触られ方をされると困るのですが」
「ほら制御できてない」
何か言い返してやりたいけど、あまりにもごもっともすぎるのでいじけて背中を向けた。
「言ってくれたら考えたよ。それとも雑誌のがよかった?」
なるほど、いじけているのは私だけではないらしい。
「でもVectorいつも激しい運動禁止って言うじゃん」
「激しい運動にならない範囲内ならいいよ」
「難しいことを言う……」
「人間には難しいだろうね」
かといって今日何もできないと完治するまでずっと何もできないんじゃないかなと思う。
振り返ってVectorの頬に触れてみると彼女の視線が手の方へ向いた。けど拒否はされない。
「絶頂を迎えることだけが性行為ではないのでは?」
「けど人間はそうはいかないんでしょ?」
「うんまあ。でもそうすると激しい運動の範囲になりそうだから、制御はVectorが担当して」
我ながらずるい提案だ。それでもこれは適材適所だから、自分のできないことは相手に任せるべきだ。
「仕方ないなぁ」
Vectorがくすりと笑いながらさらに近くへ寄ってくる。親密な関係に許されるパーソナルスペースの更に内側へ。
本当にいいんだ、と理解してしまうともうあれこれ考える余裕なんてない。
「具体的にどうするの?」
「性感帯じゃないところを心地いいに収まる程度に触ればいいんじゃないかな」
「指揮官が触る分にはいいんじゃない?」
「無理。盛り上がっちゃう。あったかくてきもちいいくらいの感覚にとどめよう」
「こだわるね」
「そりゃあね。Vectorもスイッチ入れておいて。私だけあたふたするのは不平等だ」
「それだと制御から外れるかもしれないよ」
「がんばって」
「無茶言うね。けど指揮官の触っていいとこかぁ。こことか?」
「うあ」
「ダメじゃん」
「今のは不意打ちだ、それはずるい」
「贅沢言わないでよ。雑誌読んで興奮してたのがいけないんでしょ」
「雑誌に妬くなよ、めんどくさい」
「妬いてなんかないよ。何のページ見てたかも知ってるし」
「目ざとい。だって君に似てるんだもの」
「へー、代わりにしようとしたんだ。写真の真似してあげようか?」
「めんどくせえ」
「うるさい」
「ひぃそこ触るのは」
「弱いもんね。大丈夫だよ、心拍数はモニターしながら触ってるから」
「そういう問題じゃないって。こいつめっ」
「あっ」
「……へぇ」
「今のなし」
「待ったなし」
「スケベ、変態」
やっぱり多少生意気な奴は生意気なまま、こういうことをするのが一番、私にとってはいいのだ。
翌朝、フラフラと廊下を歩いていると派手に背中を叩かれた。
「いってぇ!」
「おっはよー指揮官」
「M16、元気なのはいいけど少し優しくして」
「ごめんごめん。いやぁお宅のパートナー首に色々つけて出社するのはどうかと思うよ」
「あいつめ……隠せって言ったのに」
いや、わかってる。つけた私も悪い。でもつけさせた本人も悪いし隠さないのはもっとダメだ。
「大方、M16に対する抗議だろうね」
「だね。気を回してやったのになぁ」
「おせっかいされるの嫌なんだよ。まあでも、私は助かったよ。ありがとう」
素直にお礼を言うとM16はにっと歯を見せて笑った。家族として、彼女の厚意は正しく受け取れたようだ。
「それでそれで、どんなことしたんだい?」
ただこうして馴れ馴れしく肩を組まれるのはちょっと過剰で。
「別に、普通だよ」
「水くさいなぁ、話しちゃえって」
ここでやり過ごそうとしても離してくれそうになさそうだし、他に観客が増えても困る。話してしまおう。
「激しい運動にならない範囲で、お互いに心地いいと感じる箇所を、触ったり噛んだりしたりしてただけだよ。ただのコミュニケーションの延長」
「お、おう」
「なんだよ」
M16は少し離れ、顎に手を当てて考えた。そして数秒後に口を開いた。
「それ、性感帯増えない?」
「……増えた」
悩みは尽きない。