私は大変に臆病なので、新しいことに挑戦するのが苦手だった。
これが頭脳面の改善ならまあ受け入れる。私はそれしか取り柄がないし、頭を使うことでしか生きていけないから。それで生き延びられる可能性が上がるのであれば挑戦することを受け入れる。
肉体面は嫌だ。疲れるし、眠たくなるし、空腹になるし。元々体力がないのだからいいじゃないか。改善する必要なんてない。
痛いのも疲れるのも好んでやりたくないんだ。怠惰だと言いたいのなら言えばいい。
鏡の前で自分の身体をまじまじ観察する。
姿見の正面で一回転してみると、確かに体型的には板とか紙のが近いのではないかと思った。要するに薄い。
普段めったにこんなに自分の身体なんて見ないが、今日はそれなりに理由がある。
昨夜Vectorに、以下のことを言われたのだ。
「指揮官、貧相な身体してるよね」
今までこんなこと気にしてはいなかったし彼女に言われたこともなかった。
突然言われた理由には心当たりがある。昨日物資の配達にやってきた本部の職員が、とても逞しかったのだ。
私は受け取りのために彼と話したのだが、性格も明るく声も大きく、太陽そのものみたいな人だった。そしてVectorも副官としてその場にいたのだった。
その、つまり、めったに会わない余所の男と比較された。
ショックだ。しかもよりによって情事の最中に。ぺたぺた触られて、貧相だって、言われた。ショックだ。夕べは失意にまみれて寝た。
「うおあああ……」
部屋に誰もいないのをいいことに、唸りながら頭を抱えてしゃがみ込んだ。
逞しくて明るい太陽男と違って、私は声も小さいし、明るいわけではないし、身体も貧相だし。
「カイワレダイコンかよ」
自分で口に出して納得した。もやし以下だ。
ひとえにこれまで肉体改造に励まなかったせいだ。同年代の少年少女が書に興味を持たず外を駆けずり回っていた頃に私は書にかじりついて外を嫌悪までしていた。
生粋のインドアなのだ。お外で遊ぶよりお勉強したり古びたフィルム鑑賞にふける方がうんと好きだったし自分に向いていた。
しかし自分に向いていることだけやってはいけなかったようだ。その結果が恋人に貧相と言われる始末だ。
辛い、悲しい、惨めだ。
今からでは遅いだろうか? 決心するのが遅れただろうか? 否、今この瞬間が一番早いのだ。
思い立ったが吉日、後は全部凶。善は急げ、遅れるは悪。動きやすい服に着替えて部屋から飛び出した。
かくしてカイワレダイコンは外に出たのだった。
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最近の指揮官は疲れている。妙に眠そうだし、反応も鈍いし、書類にミスも多い。
おまけに業務終了後にいそいそとどこかに出かける。どこへ行っているのか聞いてもはぐらかされる。怪しい。
「いつにも増して不機嫌ですね」
カフェのカウンター、その向こう側からスプリングフィールドが話しかけてくる。
「最近指揮官が変で」
砂糖もミルクも入ってないアメリカンコーヒーを啜る。香りで頭が冴えると思考も動き始める。機械に作用するのが不思議だけど。
「妙に疲れててミスが多い」
「心配なんですね」
「そんなんじゃないよ」
ミスをされるとあたしに迷惑がかかるからやめてほしいだけだ。気にかけてなんていない。
「なんか隠し事してるみたいなんだけど、スプリングフィールドは知ってる?」
「えぇ知ってますよ」
「……あっさり言うってことは教えてくれないんだね」
「もちろん。口止めされてますから」
空になったマグカップにおかわりが注がれた。もう少し話してもいいみたい。
「ろくでもないことでなければいいけど」
「大丈夫ですよ。M16とトンプソンがついてますから」
「一気に心配になった」
いつものトラブルの元三人組じゃないか、と思って頭が痛くなった。無意識にその三人がしでかしたろくでもないことログを参照している。
「信じてあげてください。私も気をつけて見てますから」
「それならいいけど。ただちょっと、あまり疲れさせるのは業務に支障が出るからやめて」
「業務だけですか?」
「ノーコメント」
次のコーヒーが出てくる前に席を立った。
スプリングフィールドなら信用していいし、全部説明しなくても何に困ってるか演算から導いてくれる。彼女はその手の演算に強いから。
「許してあげてくださいね。あの子Vectorさんの前ではかっこつけですから」
「かっこついてないんだけど」
あたしに色々と邪推されてしまうようでは意味がない。
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紆余曲折あって背中にはスコーピオンが乗ることになった。
M16とトンプソンは重たすぎたのだ。
「ほらボス、あと十回したら休憩だ」
「あーっうわ、むり、むり!」
ただスコーピオンも十分重たくて、ピクリとも動かせない。
「しきかーん、まだー?」
「スコーピオン、ごめんおりて」
「えーせっかく乗ったのに」
スコーピオンが渋々背中からおりてすぐ、私は大の字に倒れ伏した。
トレーニングのために腕立て伏せをしていたのだ。
「ダメだねー指揮官。そんなんじゃ筋肉つかないよ?」
M16がしゃがんで顔をのぞき込んでくる。今回の負荷をかけて腕立て伏せをするのは彼女提案だ。
「無理だよ。とても動けない」
「そんなこと言ったって、これが最短ルートなんだけど」
「無茶言わないでよ」
M16とトンプソンが考えるメニューはとにかくきつい。これを毎日やっているわけだから毎日へとへとだ。眠たくてしょうがない。
ただ一向に成果は出てない。当たり前だ、きつすぎてろくにできない。先に疲れがくる。あと筋肉痛。
最初の日、司令部に併設されているジムに向かったところM16とトンプソンに会い、筋肉をつけたいと話した結果がこの様である。
最近はスコーピオンも面白がってやってくる始末。ありがたいが成果がないなら無意味だ。
「もっとこう、初心者向けにないの?」
「初心者ってもなぁ」
「私ら元々身体動かせるし」
「うん、私もー」
「くっ……」
人形と人間を同列に考えてはいけなかった。言いようのない敗北感だ。
「そろそろ休憩にしませんか?」
スプリングフィールドの声が聞こえた。彼女は頃合いを見計らって休憩の時間をくれる。
「スポーツドリンクお持ちしましたよ」
「ありがとう」
なんとか起き上がって受け取る。既に腕がだるかった。これは明日筋肉痛で腕は動かないな……
「先ほどカフェにVectorさんがいらっしゃいましたよ」
「バレてない?」
「話してないので大丈夫ですよ」
ほっと胸をなで下ろす。今やってることがVectorに知られたら何を言われるか。
「ただ、最近疲れすぎだと思われてるそうです」
「…………心当たりある」
最近帰るなり最低限のことをして眠ってしまうからVectorの相手をできていないのだ。正直、申し訳なく思ってる。
「なので、M16とトンプソンは指揮官のメニューを考え直してみては?」
「んーそうだなぁ。このままじゃ指揮官がケガしそうだし」
「へばってばかりでボスもろくに何もできてないからな」
「正しく休息も取りましょう。どうも人間は筋肉と靭帯の修復期間が必要らしいですから、私たちのように毎日繰り返しても意味がないようです」
「げ、そうなんだ。人間って面倒だな」
M16が心底驚いたようにそう言った。改めて認識するけど、彼女らは人間ではないんだな。
「とりあえず週に二回三回にしてはいかがですか? それから指揮官はちゃんとお肉も召し上がってください」
「う……肉あんまり好きじゃなくて」
好きでないというよりは食べ慣れてなくて苦手だ。それこそ子供の頃は合成肉すら食べたことなかったから。
「好き嫌いはいけませんよ」
「はい」
大人しく受け入れるとこにした。どうもこの手の話はスプリングフィールドに逆らえない。
「とりあえず、そうだな。ボスは動かす筋肉をつける前に支える筋肉をつけるか」
「支える? 動かさずに体勢を保持しろってこと?」
「そうだ。負荷は自分の体重で十分だろ。M16はどう思う?」
「それがいいな。じゃあ休憩終わったらそっちやってみよう」
スポーツドリンクを飲みながら頷いた。
自室で重たくなった腕にスプレーをかける。この鼻にツンとくる匂いは好きじゃないけど、痛くなって泣くよりはうんとマシだ。
「背中やろうか?」
「うん、ありがとうベク……」
背後にスプレーを渡そうとして椅子から転がり落ちた。椅子も倒れて派手な音がする。
「いつの間に」
「指揮官がシャワー浴びてる間に。ベッドに座ってたの見えなかった?」
「全く気づいてなかった」
「疲れすぎ」
ぐうの音も出ない。部屋に帰ってきて安心してはいるけれど、少し注意散漫すぎる。
「筋トレ捗った?」
「うんまあってどうしてそれを」
スプリングフィールドは隠したはずだ。そのあたりは疑ってない。
「カフェの店員がどこかに行くのを、後ろからついて行っても咎められなかったよ」
「……おのれ」
確かに言ってはいない。完全にやられた。
「多分ジムにいた連中は気付いてたよ」
「そりゃそうだよね」
思わず顔を覆った。
彼女らについてる立派なセンサを私は持ち合わせてない。同じ部屋にいても気付かない体たらくなのだから、センサがついていたところで使えるかわからないけれど。
「うわぁかっこ悪い」
「どうして隠してたの?」
「かっこ悪いから」
「なおさらかっこ悪くなったけど」
「うまくいく予定だったんだ」
全体的に見通しが甘い。勢いで突っ走ると自分はこうなることを自覚しなければ。
「どうして突然筋トレなんて始めたの?」
「この前君に貧相だと言われて」
「あんなの気にしてたんだ」
「気にするよ!?」
「なんで?」
「なんでって」
説明しないといけないだろうか? いやしなければならない。そうやってはぐらかすと彼女はまたネガティブになるのだから。
このめんどくさい女と付き合っていくためにはそんな恥を投げ捨てなければならない。
「好きな子に、かっこいいと思われたいのは、人のサガなんです」
「ふぅん」
「どうでもいい、みたいな反応しないでよ」
「実際どうでもいいし」
「自分で聞いといてそれか」
キャンキャン言い返していると背中にスプレーをぶっかけられた。
「うわひゃあっ」
予想外の冷たさに背中がピンと伸びた。
「この前食堂に出た虫に殺虫剤かけたらこんな動きしてたよ」
「パートナーを油虫扱いしないで! あと、その情報食堂管轄に回しといて!」
「休日なんだから仕事の話やめようよ。生真面目」
背後から例のツンとする匂いが漂ってきて顔をしかめた。
「別にさ、慣れないことやるのは構わないけど。無茶だけはしないでよ」
少し落ちたトーンで語りかけられるとつい耳を傾けてしまう。こういうテンションのときの話は聞いておくに限る。
「善処します」
「すぐ寝られるとルーチンワークに支障が出るから」
「……ん?」
ちょっと追いつけなかった。多分いつもの、Vectorの中ではロジックが繋がってるけど間を省いて結論が出てきてるやつで。
「それってどういう」
「会話の時間が減る」
「つまり、Vectorは私とのプライベートなコミュニケーションをルーチンワークとして組み込んでる?」
「そうだけど」
よくもそんな恥ずかしいことが言えたな……
つまり、彼女は私と一定時間以上コミュニケーションが取れないとパフォーマンスが落ちるというわけで。戦術人形となればそれは生存にも影響が出る。責任重大だ。
「細心の注意を払います」
「そうして」
起き上がって自分の腕を触ってみる。何も変わってるようには思えない。
「せめてカイワレダイコンからもやしくらいにはならないと」
「いきなりダイコンになるのは無理だよ」
「目標は小刻みにします」
部屋の中がほんのりスプレー臭になっていることに気付いた。換気扇のスイッチを入れる。
「それにしてもこのスプレー臭い」
「指揮官は嫌い?」
「好きではない」
「ふぅん。あたしは指揮官がかっこつけようと筋トレなんて始めるくらいあたしのこと好きだってこと思い出すトリガにしようと思ってるけど」
「……左様ですか」
私がかっこつけたくても、彼女はそれの上をいくほどかっこよくて困る。