私は大変に臆病なので、   作:たぬき0401

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病める臆病者の郷愁

 私は大変に臆病なので、必要外の知識を身につけることが苦手だった。知ってしまうともっと知りたくなる。そうしてしまうと明日への希望を持ってしまうのが嫌だったのだ。

 人間というものは厄介で、皆等しく好奇心を持っている。一度でもそれに身を任せると無味乾燥な日々に戻れない。そうやっていなくなった人々を知っていた。

 

 38.5℃、人間にしては高温だ。頭はぐわんぐわん痛むし、立てばまっすぐ歩けないし、体の節々は痛むしぼんやりとして何もできない。所謂風邪というやつのようで。

「私が指揮をとりますからお休みください」

 と、M4に司令室から引きはがされたのが今朝。今は自室のベッドに沈み込んでいる。

 風邪なんて久しぶりだ。あまりに久しぶりすぎてどうしたらいいか分からず、とりあえず起きてられないから寝ることにした。

 普段は目を閉じてからあれやこれやと考える。お恥ずかしながら眠るのが怖いのだ。そのまま二度と目が覚めない方がいいと思うことすらある。予測のつかない明日にいつも怯えている。

 しかし今回は目を閉じると恐怖を感じる前に意識の奥底へ引きずり込まれた。

 

 子供の頃、物心がついた頃には女性と生活していた。彼女は母親と呼ぶには若すぎて、姉と呼ぶには年が離れすぎていた。血縁がなければよかったのだが残念なことに彼女と私の目は同じ色をしていた。

 外に出れば母親、姉、どちらとしても振る舞う彼女をどう呼んだらいいのか分からず、私は『お姉さん』と呼ぶことにしていた。

 やや他人行儀な呼び方でも彼女は受け入れてくれたので、なんでもよかったんだと思う。

 それに私が住んでいた世界の底辺のような地域ではこういった微妙な年齢差の親子や兄弟は珍しくなかった。

 彼女がどうやって私を養ってくれていたのかは知らない。昼間に働いていたことは知っているが何の仕事をしているかまでは知らなかった。

 お姉さんのいない昼間、私は近所に住んでいた元軍人の老人を訪ねていた。

 彼は目が悪く足も片方しかなかったが、よく遊びに来る物好きな子供に文字の読み書きと算数、それからチェスを教えてくれた。

 私が一通りの文字が読めるようになると、老人は喜んで本やら軍にいた頃の手記やらを読ませてくれた。

 嬉しかった私は家でお姉さんにできるようになったことを話した。彼女は大いに喜んで私を抱きしめこう言った。

「あなたはこれで生きていけるわ」

 それからお姉さんは夜にも働くようになり、そして、ついぞ帰ってこなかった。

 紛れもなく悪夢だ。

 

 重たいまぶたを持ち上げると誰かが部屋にいた。焦点の定まらない目はなかなか相手をとらえられず、もやっとした輪郭と色だけが目に入る。

「……おねえさん?」

「はい?」

 つい口から出た言葉に相手は反応したが、私の記憶の中にある声とは一致しなかった。

 目をこすって相手を確認しようとする。

「指揮官、そんなに目をこすってはいけません」

「スプリング、フィールドか」

 二度目に聞こえた声でやっと相手を特定した。目の焦点も大分合ってきたようで、輪郭と顔がはっきり確認できた。

 もそもそと体を起こすと、額からべしゃりと濡れたタオルが落ちた。手に触れた感触はそれなりにぬるい。

「看病にきてくれたの?」

「はい。今日は非番ですので」

「そうか、ありがとう」

 礼を告げるがどうも力が入らない。

「体温計を取ってもらっていいかな?」

「どうぞ」

 渡されたプラスチックの体温計が妙に冷たく感じた。この感覚だとまだ熱は高そうだ。

 案の定先ほどと温度は変わらない。はぁ、とため息をついてもう一度横になる。

「お薬お持ちしましたが飲まれますか?」

「あるのなら飲みたいけど、使用期限とか大丈夫?」

「問題ありませんよ。人間用の薬品は毎月入れ替えられてますから」

「……知らなかった」

 ぼそりと呟くとスプリングフィールドはくすくす笑った。

「よかったですねカリーナさんが管理してくださってて」

「後でお礼を言わないと」

 グラス1杯の水で粉薬を飲み下す。舌の奥に触れた薬が苦味を残しながらのどの奥に消えていった。

「にがい」

「おいしいものではないかと」

「なんでにがいんだ」

「さぁ? 不思議なことに身体にいいものは得てして甘くないのです」

 微笑みながら答える彼女に妙な恥ずかしさとこそばゆさを覚える。

「君の作るお菓子は甘いんだけどなぁ」

 拗ねたように言ってみるとスプリングフィールドは私の額に手を当てた。人工皮膚の感触と幾分かひやりとした温度を感じる。

「この熱が下がったらつくってさしあげますよ」

「本当? じゃあこの前の、なんだったか、クリームチーズと乾燥ベリーの入ったあれを」

「スコーンですね。確か紅茶もあったと思いますから、元気になったらお茶会にしましょう」

「スコーン、そうか、名前があるのか」

「ええ。お菓子にも名前はあるのですよ」

 今まで興味を持ったことはあまりなかったが、確かにクッキーとチョコは違うものだった。そう認識してしまうとどうも恋しくなってしまっていけない。

「よくならないと」

「そのためにもきちんと薬を飲んで寝てください」

 わかっているけれど起きたばかりでまだ眠れそうにない。

「すまないけれど少し話し相手になってもらえるかな? 直に眠気が来るはずだから」

「かまいませんよ。では」

 彼女はただずまいを正してこう問うてきた。

「先ほど誰と間違えたのですか?」

「まあ、聞くよね」

 ため息とともに話すことを観念した。別に隠す必要もないのだ。私の素性などG&Kのデータベースにアクセスしてしまえばすぐわかるのだから。

「子どもの頃一緒に住んでた女性に間違えたんだ」

「お母さまですか?」

「年齢が半端でさ。母と呼ぶのはなんだか嫌で、姉と呼ぶには違和感があった。血縁であることは確かなんだろうけどね」

 そう説明するとスプリングフィールドは合点がいったように頷いた。

「だから『お姉さん』と」

「そう。変でしょ?」

「いいえ。形は人それぞれですから」

「ありがとう」

 そう仕組まれている気遣いだということは理解しているけれど、私を否定しない彼女たちは時に優しい。特に風邪で弱っている時はなおさらだ。

 次の話は彼女に聞かれる前に自分から話さなければならない。二度目の気遣いをもらうわけにはいかないから。

「お姉さんは、今はどこにいるのかもうわからない。ある日帰ってこなかったんだ」

「辛かったですか?」

「いいや、なんとなくそんな気がしてた」

 お姉さんが夜も仕事に出るようになってから、いつかいなくなってしまうことは覚悟していた。具体的な理由があるわけじゃないけれどそんな勘が働いた。

 

 ある朝目が覚めるとお姉さんはいなかった。いつもは夜に出かけて朝には家にいて、そしてまた昼間の仕事に出ていくのに。

 その内帰ってくると思って数日過ごして、もうその内がないことを悟った。知らない大人が家にやってきて重たい布袋を寄越した日、悟ったことが正しかったと理解した。

 お姉さんがいなくなったのは紛れもなく私のせいだった。

 文字の読み書きができるようになったから。算数ができるようになったから。チェスができるようになったから。好奇心に負けて知識を身に着けてしまったから。

 底辺で生きるのには必要ないものだったのに、お姉さんはそれを責めずに自分を犠牲にしてしまった。もしもう学ぶなと言われれば大人しくそれに従ったのに、そんなこともしないで。

 私は家を出て元軍人の老人を訪ねた。

「じいちゃん、僕にもっとたくさん教えてくれ。お金ならある。ここに住んでじいちゃんの世話もする。掃除も洗濯もなんでもする。だから」

 家に駆け込むなり一気にまくしたてる子供はさぞかし滑稽だったろう。それでも老人は静かだった。

「僕が身に着けた知識で生きていけるようにしてくれ」

 老人は口ひげをもしゃもしゃいじりながらしばらく私を見つめ、やがて口を開いた。まあ髭のせいでほとんど見えないのだが。

「その『僕』というのは軍人になるには弱いな。変えていくか」

 最初の課題がそれだった。その後も次々と課題を与えられた。お姉さんの喪失を憂う暇などなかった。

 

 暇がなかったのではなく考えなかっただけなんだ、と今になって気づいた。老人は暇を与えないほどに厳しく、私は振り返るのが怖い程に憶病だった。

 今なら少し振り返っても風邪を言い訳にできる。

「やっぱり辛いかな。何も返せなかった」

「指揮官は何を返したかったのですか?」

 椅子が床をこする音がした。目をやるとスプリングフィールドが椅子をずらして少し私に近づいているようだった。

「お礼が言いたかったし、姉なのか母なのか聞きたかった」

「そこ気にしてたんですね」

「やっぱり気になるよ。知っていれば正しく呼べたのにね」

 話しているうちにうとうとと瞼が重たくなり頭にももやがかかってきた。

「スコーンのさ、作り方教えてよ」

「いいですよ。元気になったら教えてさしあげます。でも珍しいですねお料理のこと聞くなんて」

「自分のものにした方が安心するんだ」

 スプリングフィールドが手を伸ばし一定のリズムで胸を叩く。穏やかな振動が余計に眠気を誘う。

「申し訳ないけれど目が覚めるまでここにいて」

「構いませんよ」

「そうか、ありがとう……」

 深く息を吸って吐く。胸の上に乗せられた重さが心地よい。薄目で見た光景で理解した。彼女たちは同じ髪の色をしている。

 元気になったらスコーンの作り方を聞いて、作って、みんなを呼んで、紅茶を淹れて、それから、それから……

「おやすみなさい」

 聞こえた声は夢か現か分からなかったけれど、それでもいいのだ。

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