多分、今の僕は普通に幸せだ。
あの恋は実らなかったけど。
日本のどこか、あるいはどこにでもある学校。
ありふれた高校生だった僕は、溢れそうな想いとともに、恋をした。
初恋だった。
きっと、などと抱くことのない、確かな純情だった。
朝起きてドキドキして、朝ごはんを食べてワクワクして、登校して胸が苦しくて、あの人と同じ場所にいるだけで胸が一杯になって、何もできないで家に帰った。
恋をした相手は浮わついた噂には縁がなくて、多分僕は、失恋するなんて思っていなかったんだと思う。けど、同時にその恋が成就するとも思ってなかった気がする。
初恋は成就しないなんて言葉があったし、彼女との距離は遠かったし、なにより僕は、自分に自信がなかった。こんな気持ちを知るまでは背丈や容姿を気にかけたことがなかったし、学力や財力なんて自分の勝手だ、なんて踏ん反り返っていた。
これが、気になる相手ができただけで一気に『彼女との釣り合い』だとか独りよがりな気負いを感じるんだから、おかしな話だった。
彼女──名前を白状させてもらうと──そう、高橋さんは、普通の女の子だった。容姿だけを切り取ればクラスに10人はいそうな可愛さで、性格は大人しめ。強いて言うなら、なんとなく窓を眺めることが多い子だった。
僕がなぜ、彼女に懸想するようになったか、といえばそこに大したキッカケはない。けど、今から思えばその『大したことなさ』が重要だったように思える。思い出さないようなキッカケだったのかは分からないが、もし思い出さなければおかしいようなキッカケだったとしても、それを塗りつぶすような勢いで僕の想いは肥大化していったということだから。
さて、そんな僕の失恋は唐突に始まった。もしくは終わった。
それは、僕が想いを募らせ始めてから約半年後のことだった。
僕はいつものように(といっても、この場合の『いつも』とは彼女に恋してからのいつもだった)始業二時間前に起きて、牛乳とパンをお腹の中に詰め込んで、家を出た。
自転車を走らせて学校へ向かう。急いで、向かう。自分が風になったのではないかと錯覚するほどのスピードで自転車を漕ぎ、ものの十数分で学校に着いた。
学校付近ではややフライング気味の蝉が、求愛行動なのか産声なのか、鳴いていた。
自転車置き場を最速で駆け抜けて、校舎に、教室に入る。そして、自分の鞄を机に置いて、僕は一目散に駆け出した。
僕の目的は図書室だった。
大方の予想はつくだろうが、目的は高橋さんだった。
彼女は毎朝図書室の窓のそばで勉学に励んでいたのだった。
そして、僕はそれを見るのが日課だった。
見る、と言っても彼女の目の前にノコノコ出歩いて行くわけではない。気付かれないように図書室に入り込み、本棚の影からバレないように観察するのだ。
初恋を盾にしたストーカー行為だと、今だからこそ思えるが、かつての僕にとってそれは、自分の激流の如き想いを留める唯一の方法だった。
そろりと図書室に入れば、彼女は、いつものように窓のそばに腰掛けていた。僕もまた、いつものように、ファンタジー小説の並ぶ本棚に身を忍び込ませた。
いつものように、そう、『いつものように』。
たしかにその行動はいつものようだったが、しかし。その日の僕は、その『いつも』にやけに引っ掛かりを覚えた。
つまり、なぜいつものように彼女がそこに座るのかがやけに気になってしまったのだ。
思い返せば、奇妙なことだった。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も。いつなんときも欠かさず彼女は同じ席に腰掛けていた。
ここ最近のあの席は、日差しが直接あたり、本などが読めたものではなかったはずなのに。
思わず僕は、本棚から身を出した。
そして、窓の外に目を向けた。
彼女がワザワザ朝早くにこんなとこに出向いて窓の近くに座る理由なんて、そこにしかないと思ったから。
見えたのは、ただの校庭だった。
けど、それを見た僕は、もう、分かっていた。
目をそらして彼女を見やれば、確信していた。
彼女の心は既に、
校庭には、シュート練習をする見知ったサッカー部員がいた。
一人で、ボールを籠に入れ続ける男がいた。
つまり、そう言うことだった。
あれから一年。
高橋さんからは浮わついた話を聞かなかった。
だから、僕は彼女に告白することにしてみた。
あの時の僕は、一世一代の勇気を振り絞ったと思う。
彼女は、彼と付き合っていた。
それを聞いた時、僕はなんとなく愉快な気持ちが湧いてきて彼女と別れた後、思わず笑ってしまった。たしかに、浮わついた噂はなかったけど、それがフリーであることとイコールではないのだな、と一本取られた気持ちだった──いや、当時はそんなこと考えてなかった。ゴルフクラブで心を抉られた気分だった。
最初は口が歪む程度だったけど、だんだん声が漏れてきて、最終的には、幸い近くに誰もいなかったからなんてことはなかったけど、ケラケラと外聞も構わず笑っていた。
さようなら、高橋さん。
左様なら、ご機嫌よく生きて欲しい。
それだけが、恋を失った僕が得られた唯一の想いだった。