まるで時が止まった様だった。
轟音鳴り響く外とは打って変わって、静かな空間。
周囲を覆う黒い風が、此処が風の球体の中なのだと示していた。
「……どこで知ったの?」
よほど密閉性が高いのか。少女の言葉が反響した。
聴き慣れた声。何度も聞いた声。
ーー止まったのか……!
唖然としていた矢野は、そこでようやくヴェーチェルを『止めることが出来た』という実感が湧いた。
まさに千載一遇の機会。
ーーこの機会を逃してはいけない。
両の目から流れていた涙を服の裾で払い、慌てて口を開く。
「街で出会った少年に聞いたんだ」
「……そっか、圭介かな。今度は忘れなかったんだね」
何かを堪えるように、少女は寂しそうな表情を作り、ギュッと拳を握った。
「君は本当に…『もりしまゆう』なのか?」
「あはは…うん。まぁそうだよ。私はヴェーチェルじゃない。『もりしまゆう』だよ。この身体には気付いたらなってたんだ。騙しててごめんね」
「別にそれはいいさ。ただ、何でオレだったんだ? オレなんかよりも頼れる人がいただろ? 家族とか、それこそ…圭介君とか」
彼女が本物のヴェーチェルじゃないのだとしたら自分を頼る理由なんてない。
それこそ元の身体を知る人を頼ればいいのだから。
初めは信じてもらえないかもしれないが、『もりしまゆう』だけが知っているだろう情報を提供していけば、本人あるいはそれに近い存在として保護される可能性は高いだろう。
だけど彼女はそれをしなかった。
「あっは…あはははは!」
矢野の疑問の言葉に少女は一瞬キョトンとした顔を浮かべた後、泣きそうな顔で嗤った。
そして静かに俯いた。
「皆私のことを覚えてないよ。家族も圭介も。忘れちゃったんだよ。この世界で私のことを覚えている人は誰もいない」
俯いたままの少女の体は小刻みに震えていた。
「そんな…」
誰一人自分のことを思い出せない、自分の存在が認められない世界。もし、自分ならと考えるだけでもゾッとする。
慰めの言葉はかけられなかった。
なんで言えばいいのか言葉が見つからなかった。
少女の独白は続く。
「だから消そうと思ったんだよ。こんな理不尽な世界は存在していちゃダメだから」
顔を上げ、歪に嗤う少女を見て。
そんな表情をさせてはダメだと思いながらも、矢野は何も言えなかった。
重い沈黙が流れる。
矢野はふと思った。こんな時憧れていた主人公なら何て言っただろう、と。
どんな逆境に立たされても挫けない。
主人公なら、きっと彼女を救える言葉を選べたのだろう、と。
だが、沈黙を破ったのは矢野ではなく、少女だった。
少女はあっけらかんとした口調で言い、また小さく笑った。
「ま…最期に私を『もりしまゆう』を認識してくれる人に会えてよかったよ」
「さい…ご?」
「うん。もう私消えるんだ」
「消えるって…?」
「本来の『私』の人格が目覚めてるの。もう上書き寸前ってくらいにまでね」
「…何を言って……」
「だから本当に悪いんだけど、この風を止めたかったら『私』を説得してね。もう私じゃ無理だからさ」
「……」
頭がついていかない。
矢野には少女が言っていることが理解できなかった。理解したくなかった。
ーーあぁ…どうして。
「じゃあね。ありがとう、お父さん」
ーーどうして、そんなに笑っていられるんだ。
残酷なまでに綺麗な笑顔を浮かべていた。
◇
「ふーん。なるほどね。どうしてこんな状況になってるのか不明だったけど、ようやく理解したよ」
響くは少女の声。
心なしか先ほどまでと声の高さが変わっているような気がした。
「ヴェーチェル…」
「うん。私はヴェーチェルだよ。ヴェーチェル・ディザスタ。私としては初めましてだね」
クルリと風を纏わせ、ヴェーチェルは軽く頭を下げた。
矢野は呆然と立ち尽くしながらも、掠れた声で問いかける。
「…なぁ、ヴェーチェル……『もりしまゆう』は何処へ行ったんだ」
「さぁ? 私にも分かんないよ。そもそも人に宿るなんて初体験だし。それに私のことなら私よりも君の方が詳しいんじゃないかな、創造主さん」
グッパーグッパーと両手をにぎにぎしていたヴェーチェルは「うーん」と大きく伸びをして、ピョンっとその場で跳ねた。
やがて俯く矢野に近づくと、その顔を覗き込むように視線を上げる。
「ねぇ。私も聞きたいことがあるんだけどいいかな。 どうして、君は私を止めようとしてたの? 世界を守るため?」
その言葉に、矢野は弱々しく首を横に振った。
「俺は主人公じゃない。世界だなんて、そんな大きなものを守れない」
「だったらーー」
ーーなんで?
そう繋げようとしたヴェーチェルの言葉を遮り、今度は強い口調ではっきりと告げた。
「だから『もりしまゆう』に罪を背負わせないこと。それだけを目的に止めに来たんだ。…それも空回りしたけどさ」
護りたかった者は既にいない。
虚しさと喪失感が矢野の中を燻っていた。
「ーーいいね」
自傷気味に呟く矢野に、ヴェーチェルは目を細めて笑みを溢す。
「うん、チャンスをあげることにするよ」
「チャンス…?」
「勝負をしようよ、君が勝ったら風は消してあげるし、私も消えてあげる。まぁ私が消えたところで『私』が戻ってくる保証はないけどね。逆に私が勝ったら都市が消える。面白いでしょ」
「……!?」
矢野は目を見開いた。
確かにこれはチャンスだ、と。風を止めることが出来ると同時に、『もりしまゆう』を取り戻せるかもしれない。
しかし、勝負とは一体。
「あははは。そう身構えなくてもいいよ。勝負と言ってもガチンコなバトルじゃないからさ。私と非力な人間。勝敗なんてわかり切ってるじゃん。そんなつまんないことはしないよ。ゲームするだけ」
「ゲーム?」
「うん、ゲーム。簡単なゲームだよ。君が作った【神の使いの災禍姫】。それをやろう。勿論、君の実況有りでね! さぁ、やろっか」
爛々と目を輝かせるヴェーチェルに、
「…うぇ?」
矢野の口からは変な声が出た。