28話 後悔なんて、あるわけない
お菓子の魔女との一戦を乗り越えたとある日、さやかはいつものように学校の放課後病院へと足を運んでいた。
目的の少年に会えない日が続いていたが、その日は久しぶりに病室のベッドで休んでいる姿を見かけれたことで、夕焼けに紛れながらもほんのりと頬を染め、CDを渡していた。
窓から風が入って来ているからか、ベッドの側にある白いカーテンがゆらゆらと揺れる。病院の中は騒音が少なく、恭介が付けているイヤホンから音楽が漏れている音が聞こえてしまうほど静かだった。
恭介は音楽に集中しているのか、ゆらゆらと揺れるカーテンの先にある空をじっと見つめていた。
さやかはそんな恭介の横顔を見ていると、恭介が音楽を聞きながらだが喋りかけてきた。
「さやかは僕をいじめているのかい?」
「え?」
しんと静まり返った病室。さやかの目の前でベッドに腰を掛けている恭介は、ゆっくりとイヤホンを耳から外しながらさやかに向けて、冷たい空気を隠すこともなく言いつけていた。
いつも通りにCDを持ってきて、音楽を恭介の側で聞き、恭介と話をしようとしていただけだったさやかにとっては、何故そんなことを言われているのか分からなかった。
静かに震える恭介の気持ちが、さやかには分かってはいなかった。
「何で今でもまだ、僕に音楽なんか聴かせるんだ。嫌がらせのつもりなのか?」
「だって恭介、音楽好きだから…」
バイオリンにあれほどまでに情熱を注いで、天才少年と言われるまでに努力を続けてきた恭介が、音楽を聞かせて嫌がらせをしているのかと言われても、さやかにはそう答えることしか出来なかった。
しかし励まそうとしていたその行動こそが、恭介にとってはどれだけ苦痛なものか、さやかには知らなかった。
「もう聴きたくなんかないんだよ! 自分で弾けもしない曲、ただ聴いてるだけなんて……僕は……僕は……っ! ああ!!」
そして恭介は、さやかに持ってきて貰っていたCDプレイヤーに、自分の左腕を思い切り振りかぶり叩きつけていた。
何度も、何度も、何度も。プラスチックやCDの破片が肌に刺さり、血が溢れ出てベッドに滴っていようとも。決して頑丈とは言えない薄い素材でできていた金属が大きく凹みを付け、骨が折れているだろうとも。何度も、何度も、何度も。まるで痛みがないかのように叩き続けていた。
さやかはそんな恭介の姿に声をかけることも出来ず、止めることすら出来ず、腕が壊れ続けていく恭介の腕を見ていることしか出来なかった。
「動かないんだ……もう、痛みさえ感じない。こんな手なんてっ」
何度も大きく腕を振りかぶる動作を続けた恭介は、行き場のない怒りに息を荒らげさせている。ベッドには大きな血溜まりを作ろうとも、それでもなお痛みが襲ってこない腕に失望し、涙を流していた。
いっそ、頭がおかしくなるほどの痛みが襲ってくれたらどんなに嬉しいことか。恭介は動く片腕で頭を抱え、涙を流し続けていた。
「大丈夫だよ。きっと何とかなるよ。諦めなければきっと、いつか……」
いつか。そう投げかけたさやかでさえ、それはとてもひどい言葉だと口に出してから理解してしまった。
恭介にとってそのいつかは、一体いつになるのだろう。十年、二十年。もしかしたら恭介が生きているうちにはそのいつかは現れないかもしれない。そう考えてしまったさやかの耳に、全てを諦めているように生気のない声が通った。
「諦めろって、言われたのさ……もう演奏は諦めろってさ。先生から直々に言われたよ。今の医学じゃ無理だって……僕の手はもう二度と動かない。奇跡か、魔法でもない限り治らない」
病院にいた魔女を倒してからも、さやかは当たり前のように何度も恭介の病室に立ち寄ったことがあった。
その時恭介はリハビリ室にいることが多くなり、何度も会えない日が続くことがあった。
きっとその時からもう、恭介には残酷な真実が伝えられたのだろう。バイオリンを愛していた少年は、そんなバイオリンを二度と弾くことの出来ないという残酷な真実を乗り越えることは出来ず、ただがむしゃらにリハビリに励もうとも、動かない指に絶望をしてしまったのだ。
「はは……」
奇跡か魔法がない限り治らない。そう口に出した恭介に向かって、さやかは自分が出したとは思えないほどに、乾いた笑いを漏らしてしまった。
さやかの目の前には、手の届く範囲にはその奇跡や魔法なんてものが存在してしまう。自分の命を天秤にぶら下げ、その重さに見合った願いを叶えてくれる奇跡と魔法。大きな代償を伴い、悪魔から渡されるような契約書に自分の名前をサインしてしまえば、恭介が願う腕を手に入れられる。しかし、それにサインするのは恭介ではなく、その目の前にいるさやかだ。
「……さやか、君は……僕を笑っているのかい? バイオリンしか脳のない僕から、バイオリンを取り上げられた姿を見て、君は……」
恭介は今まで友人を築いてきた人たちを振り返ってみれば、さやかはもしかしたら今までで長く付き合っているかもしれない幼馴染であり、恭介から見てもお互いに親友だと言えるほどに仲の良い存在だと思っていた。
どんなときでも明るく、前向きで活発な少女。容姿も少女らしく、しかし男勝りな一面もあるからか、男女別け隔てなく仲良くなっている姿をよく見ていた。
そんな恭介でさえ、さやかの乾いた笑いを聞くのは初めてであり、それが自分に向けて吐かれているとは信じられなかった。
今思えば、さやかはいつも自分に優しく接してくれているような気がしていた。
交通事故で怪我をしてから優しくしているのではない。それより前からずっと、さやかは特に明るく見せてくれているような気がしていた。
怪我をしたときも、いつも病室にお見舞いに来てくれるのがさやかであり、少し鬱陶しくも思うときはあったが、それでも気持ちが落ち込んでいるであろう自分のことを心配して、さやかは接してくれていたと恭介は思っていた。
だからこそさやかの乾いた声は今までにないほどに恭介を意識させた。
八つ当たりをして酷いことをしてしまっただろう。軽蔑されてもおかしくはないだろう。だが、それでもさやかは自分のことを心配するだろうと無意識に思っていたのか、叩きつける腕を止めにも入らず乾いた笑いを吐いたさやかを見た恭介は、信じられないような表情をしていた。
「恭介」
「っ!」
ベッドの上で驚愕を隠せない表情で見ていた恭介に、さやかはその身を前に乗り出して覆いかぶさり、恭介の瞳をじっと見つめるように顔を近づけ語りかけた。
「恭介が望む、奇跡も魔法もこの世にはあるんだよ____だけど、何の対価もない奇跡や魔法なんてものはない……ねぇ恭介、もし、たった一人の親友を地獄に突き落としてでも腕を治したいかって言われたら、恭介は自分の腕を治す? 親友を捨ててまで、腕を治す奇跡を望む覚悟はある?」
「な、何を言って____」
「答えて」
突然突拍子もない事を言い始め豹変してみせたさやかの質問に、恭介は答えることなくさやかを止めようとしたのだが、有無を言わさないその態度に息を呑んでいた。
答えるまでは絶対に離れない。恭介の瞳に写り込んでいたさやかの表情は、まるでそう言っているように思えていた。
緊迫している空気に恭介の肌は鳥肌が立つ。目の前の幼馴染は、こんな雰囲気を出すような子だっただろうか。そう思いながらも、答えろと訴えかけてくるさやかの瞳に唇が震え始め、意を決したように答えを振り絞るように出した。
「それでも僕は、腕を治したい。僕にはバイオリンしか無いんだ。それさえあれば……」
それさえあれば。その先のことは言えなかった。
いっそ言ってしまいたかった。
今まで溜まっていた思いの丈を全てぶちまけたい。そう思っていたが、恭介の答えた腕を治したいという言葉に反応したさやかの表情が、複雑でなんとも言えないような表情に変わった事で、恭介は口を瞑るしか出来なかった。
「そっか……」
「さやか……?」
恭介に覆いかぶさっていたさやかは、座っていた椅子にゆっくりと戻っていった。
雰囲気に飲まれ答えてしまった手前、訳のわからない様子の恭介は、顔を下げて表情の見えないさやかに声をかけようとすると、声を掛ける前には勢いよくその場から立ち上がり、先程までの暗い表情を打ち消すかのようにいつもの元気そうな笑顔を見せていた。
「いやあー、変なこと聞いちゃってごめんねー! 大丈夫大丈夫! 恭介なら絶対に治るからさ! この見滝原の天使であるさやかちゃんが言うんだもん間違いないって! あ、そういえば塾の時間だ! それじゃーねー!」
恭介が声を出す間もなく、一方的にまくし立てたさやかは飛び出すように病室から立ち去っていった。
「さやか、君は……塾になんて通っていないだろう……」
幼馴染じゃなくても分かる嘘をついて出ていくさやかの背中を、恭介は眺めることしか出来なかった。
大きな疑問を残されやるせない気持ちのまま、血だらけになっているベッドの上にあるボロボロの左腕を、恭介は静かに見つめていた。
「はぁ……はぁ……」
さやかは走っていた。
「はぁ……はぁ……」
恭介の病室から急いで立ち去ったさやかの脚は、最初はゆっくり歩いていたが抑える気持ちを振り切られるように早めていき、廊下に居た看護師の注意も無視して走り出していた。
非常階段へ続く廊下を走り、固く閉ざされていた扉の鍵を開け、そのまま階段を流れる滝のように降りていった。
「はぁ……はぁ……」
長い階段を降り終わろうとも、さやかは走り続けた。
呼吸が激しくなろうとも、息を荒げようとも、さやかは走って走って、走り続けた。
目的地は決めていない。脚が動き続けるまで。肺が躍動をし続けるまで。心臓が血を送り続けることを止めるまで。さやかは走り続けた。
見滝原市内をただひたすらに。通行人から変な視線を送られようとも、それでもさやかは走り続けた。
「はぁ……! はぁ……!」
激しく息を吐き続けたことにより喉が焼けそうな感覚が襲ってきたとしても、溢れ出る汗で目が痛くなろうとも、その痛みで違う液体が頬を伝っていたとしても、それでもさやかは限界の一滴を振り絞るまで走り続けた。
「はぁ、はぁ……ぁあ、ああ、ああああああああ!!! あああああ!!!」
さやかは呼吸をすることも辛くなるまで走り続けていたのに、それでも限界まで酷使していた喉を震わせ叫んだ。
血が体を巡っている感覚が。脳が思考をし続ける感覚が。地面に足をつくたびに骨がきしみ、筋肉が波打つ感覚が。肺が空気を送り続ける感覚が。街の音。空気の冷たさ。土の香り。カビの匂い。人の声。
今まで意識していなかった全てが、さやかの神経を刺激し続けていた。
自分はこれ以上にないほど生きている。生命を実感している。電撃に打たれたように、さやかの脳内には、まるでこれから死にに行く人間が見ている走馬灯のように、いつも当たり前のように感じていた景色が流れていた。
目が覚めた時にみた寝癖立っている自分の姿。口うるさい母親。通学路で待っている仁美とまどか。学校の校舎やその友人。教卓に立っている先生。疲れた様子を見せているまどかたちと食べたファーストフード。そして、最後には音楽を聞きながら泣いていた恭介の姿。
腕がちぎれる。血飛沫を上げる。魔女に飲み込まれる。人が死ぬ。人を殺す。人だったものを壊す。だが、それを取り込み生き続ける魔法少女。
さやかは途切れそうになる意識の中で思っていた。
何も知らないほうが幸せだったかもしれない。好きな男の子の腕を治す方法を知らないほうが良かったのかもしれない。何も出来ない自分でいたほうが良かったのかもしてない。側で苦しんでいる姿を見て、何も出来ない自分が不甲斐ないと嘆いたほうが良かったのかもしれない。だが、知ってしまった。
今すぐ助けてしまえる方法を知ってしまった。
だから教えてしまう。人間を一人生贄にしてでも願いを叶える方法を。そして彼は選択した。
私はそれを肯定した。
肯定出来てしまった。
彼が唯一の親友を、幼馴染を捨ててまで手に入れたい腕を、私は用意することが出来る。大好きな少年の破壊的な衝動に押されて出てきた想いを聞き入れ、縋るような願いを私だけが肯定し叶えることができる。
だから私は幸せだ。
『後悔なんて、あるわけない____』
限界を迎えたさやかの体。暗い路地裏で崩れ行く意識の末、最後の一滴を振り絞り出していた答えだった。