「ほむら、おはよう!」
「……おはよう美樹さん」
仁美が魔女の口づけを受けてしまい、それを助けてから翌日。さやかは通学路で出会ったほむらに、自分がいることを教えるように大きく手を振って挨拶をしていた。
ほむらはいつも通りの無表情だったが、ここまでされて無視をするのが忍びないと思ったのか、さやかに聞こえる程度の小さな声量で返していた。
「おはようほむらちゃん」
「ええ、おはようまどか」
さやかの後ろから小さく現れたまどかは、同じようにほむらに向けて小さく手を振り挨拶をしている。すると、無表情のほむらではあったが、明らかに雰囲気が柔らかくなりながら、まどかと同じように小さく手を振り返していた。
「ちょっとちょっと、何であたしだけそんな感じになるのかね?」
「鬱陶しいわよ美樹さやか。離れなさい」
「フルネームって私達の関係を格下げたってことかぁ!?」
体が触れ合う近さのスキンシップが好みなさやかは、ほむらの肩に腕を回しながら歩こうとしていた。
ほむらは回された腕を振りほどきはしなくとも、距離の図り方が近いと突き飛ばすように鬱陶しいと言いながら、遠ざけるようにフルネームで呼んでいた。
昨日のことがありながらも、さやかが笑いながらほむらに近づいていったのには理由があった。
少し強引かもしれなかったが、ほむらの耳元に近づき、話をしたかったと思っていたからだった。
話をすること自体はテレパシーでも使えば出来たかもしれないが、さやかはどうしても面と向かって話をしたいと思い、ほむらの側に近寄っていた。
「ねぇほむら……昨日はごめん。そしてありがとう。私のことを心配してくれて」
「……」
「何ていうか、ほむらはまどかの事しか見てないように思えてたんだ。だけど、昨日のほむらはあたしのことも、すっごく心配してくれてたのがよく分かったよ」
「私はただ、魔法少女になってほしくなかった。それだけよ」
「うん、それでも嬉しかったんだ。だけど認めてほしい。あたしはもう、魔法少女になっちゃったことを」
真剣な目つきで、ほむらに説得をしようとしていた。
だが、それでもほむらには、願いを叶えたさやかが疑問で仕方がないことがあった。
「巴マミのこと。あなたは知っているの?」
「マミさんのこと? ……あぁ、魔法少女を殺してるって話?」
ほむらはそうだと言わんばかりに、小さく首を縦に振った。
魔法少女になった者は、そのまま生き続けることは難しい存在だ。いつ死んでもおかしくない世界で、終わりの見えない戦いに身を投じてしまう。
しかしこの世界の見滝原にいる魔法少女は、更に生きることが難しい。それは、巴マミという魔法少女が、同じ魔法少女を意図的に殺しているからだ。
ほむらは杏子から話を聞いてそれを知っている。どれだけ異常なことかも理解している。だが、それでもさやかは魔法少女になった。
さやかがその話を知らないわけではない。魔女とは違い、魔法少女は意識のある人間であり、手負いの得物を逃がすような生き物ではない。だからと言って、見滝原市から出て行くことも、逃げ続けることが難しい問題だ。
魔女以上に脅威になるはずの者がいるというのに、それを知っている上で魔法少女になったさやかを、ほむらは認めることが出来ずにいた。
「ほむらも知ってたんだ……んー、まどかにも言ったんだけど、もしあたしがマミさんに出会わなくてもさ、結局恭介の____あ、怪我をして入院している幼馴染なんだけど、その子の怪我のために願いを叶えていたと思うんだ」
はっきりとした口調。まるでマミと出会わなかった時の未来を知っていたかのようにさやかは言った。
そしてさやかの言うことは、過去と未来を何度も行き来していたほむらにとって、その通りの光景を何度も見覚えがあってしまった。
「マミさんのおかげで中途半端な気持ちじゃなくて、覚悟を決めて願いを叶えることが出来た。それに、殺されるって言っても、一年二年の話じゃないんだよね。あと、これはもしも何だけど、マミさんの教え無しに一人で魔法少女になってたら、多分、数ヶ月も生きれてないかもしれない……まぁ、これは正直分からないから自信ないけどさ」
「(……正解よ。貴女が生きている時間はいつも少なかった。鈍いのに変な所で鋭い。意地っ張りで言うことをあまり聞いてくれない。こんなにもイレギュラーな時間軸でも、美樹さんはやっぱり美樹さんなのね……)」
ほむらが知っている魔法少女になったさやかは、ワルプルギスを迎える数日前には死んでいることが多かった。
しかしそれには理由がある。精神的なゆらぎが致命傷になりかねない魔法少女にとって、その数日の内に、さやかにはまるで試練を与えられるかのように、ソウルジェムを濁らせてしまう事態が起きてしまう。
その時のさやかは、目の前で偽物ではないマミが食べられる瞬間を目撃して、願いを叶える対象となった恭介との折り合いもあまり良くはなかった。
というよりも、いざと言うときにヘタれて、想い人に一歩踏み出すようなことをせず、自分で自分を追い込むような事をし続けてしまう、さやかの悪い癖が出てしまっていた事もあった。
マミとの出会いが無くても契約をしてしまう。マミと出会ったとしても契約をしてしまう。ほむらの記憶の中では、さやかが契約をしていない時など、ほむらが魔法少女になり時間を逆行し始めてからは、一度も見覚えがないかもしれないでいた。
それでもこの時間軸にいるさやかは、マミのこともあって契約をしない未来があるかもしれないと思っていた。
魔女との戦いの過酷さを知り、魔法少女のマミに蹂躙されてしまう可能性を知っている。だからこそ、むやみに契約はしないだろうと思っていたのに、結局さやかはどこまで言っても契約をしてしまうことを知ったほむらは、失望の念を抱かずにはいられなかった。
「まー、だからさ、魔法少女にしたくないほむらの気持ちを知っていても、結局あたしは魔法少女になる未来しか無かったんだよ。ほむらからしてみれば迷惑な話かもしれないけどさ……だから、えーっと、つまり……」
「……?」
なにか言いづらそうに、モゴモゴと口を動かしていたさやかを見て、ほむらは首をかしげている。すると、何かを諦めた様子で徐々に口を開いていった。
「まどかを、護ってあげてほしいんだ」
肩を組んでいた腕を離した後も、肩同士が触れるか触れないかの距離で歩き続けていたさやかは、その足を止めて、ほむらを瞳をじっと見つめていた。
「ほむらはさ、まどかに何か特別な思いを抱いてる。どうしてか分からないけど、時々マミさんと同じ雰囲気をしてるんだ……だから、これからもまどかを護って欲しい。それで、良かったらあたしとも仲良くしてほしい。あたしはほむらのこと、好きだからさ」
「美樹さん……」
「しかぁし! あたしの心のなかにある嫁の座は、まどかで埋まってるけどね! 残念でした!」
「さ、さやかちゃん! 急に抱きついてきたら危ないよ!」
そう言いながら、さやかに言われてなるべく二人の話を聞かないようにして、小さく後ろからついてきていたまどかに抱きついていた。
「こんなに可愛いお姫様の王子様役を、ほむらが断れる訳ないよねー」
「何の話をしてたのか気になるけど、と、取り敢えず抱きつくにしても場所を選んでほしいよ」
「場所を選べば抱きつかせてくれるのか! かー! 愛しいぞまどか!」
先程までの真剣な表情は何処へやら。さやかはまどかの体を撫でるように抱きつき、そんなまどかも満更ではない様子を見せていた。
ほむらは過去を思い返してみても、いつになく真剣な表情のさやかに感心していたのだが、結局いつもの様子に戻ってしまっていることに、ため息をつくしか無かった。
「はぁ……貴女に言われるまでもないわよ。私が必ずまどかを護る。それが私の役目だから」
「それなんだけどさ、結局ほむらは一体何者なの?」
「……いつか話す時が来るわ。その時まで、待っててくれないかしら」
「ん、了解。聞かれたくないことを無理やり聞くのは好きじゃないし、ほむらのタイミングで話してくれていいよ」
「ありがとう、美樹さん」
お礼を言いながらほむらは、もつれ合っている二人に背を向けて止めていた足を動かし始めると、さやかとまどかは小走で追いかけていた。
そして、ほむらを挟むように隣同士に並び、学校に着くまでになんてことのない世間話をする、ただの中学生に戻っていたのであった。
「ふあぁぁ……あ、はしたない。ごめんあそばせ」
「どうしたのよ仁美。寝不足?」
学校の教室で、酷く眠たそうにしている仁美は、はしたないと言いながらも気を緩ませてしまい、口に手を当ててあくびを漏らしていた。
普段なら聞き慣れないお嬢様言葉を、まるでそれが当たり前のように使っている姿は、本物のお嬢様である仁美だからこそ違和感が無いように聞こえていた。
「ええ、昨日は病院やら警察やらで夜遅くまで……何だか私、夢遊病っていうのか。それも同じような症状の方が大勢いて。気がついたら、みんな同じ場所で倒れていたんですの」
「はぁー、そんなこともあるんだね」
魔女の口づけを受けたその日のことを、自分でも何故そこにいたのかが思い出せないように、頭を悩ませながら話していた。
さやかとまどかは実際にその場所にいて、元凶を知っていたり、方やその元凶と対峙して打ち勝った一人だったのだが、まるで何のことやらと言った風に知らないフリを突き通していた。
「お医者様は集団幻覚だとか何とか……今日も放課後に精密検査に行かなくてはなりませんの。はぁ、面倒くさいわ……」
「それでも、異常があるのは寝不足ぐらいで、大事もなく無事で良かったよ」
「そうですわね。もしかしたら大変なことになってたかもしれませんのに……ご心配おかけいたしましたわ」
仁美には知られていないが、現場にいたさやかだからこそ、本当に何事もなかったことに心から安心しているような様子をみせていた。
そんなさやかを見た仁美は、寝不足気味の目を擦り、少し涙が混じって潤んでいた目元を見せながらも、笑顔でお礼を言っていた。
さやかもそんな仁美に笑い返していたのだが、まどかはやはり、魔法少女になったことを心配そうに、さやかのことを見つめていたのだった。
その日の授業は何事もなく終わり、放課後には仁美が精密検査を受けるために病院へ行くことになっていたので、教室内でまどかたちと別れの挨拶をして出ていった。
仁美と別れた後、ほむらに声をかけようとしていたまどかは、いつの間にか消えていることに気が付き、思わず回りを見渡していた。
すると、教室で荷物を整理し終えたさやかが、一緒に帰ろうとひと声かけようとしていたのだった。
「どうしたのまどか?」
「ほむらちゃんも一緒に帰ろうって言おうと思ったんだけど……」
そう言われてさやかも探そうと一緒に見渡していたのだが、それらしき人影が見当たらない事にため息を吐いていた。
「もう、まどかを護るって言ったくせに、もう少しまどかと一緒にいてやれっての」
「そんな、ほむらちゃんに悪いよ。もしかしたら用事があっただけかもしれないのに」
ほむらの事をまだまだ知らないまどかは、何故あそこまで自分に対して気に掛けてくれる理由なんて事も知らないでいた。
それはさやかも同じことであるはずなのだが、何も言わず帰っていたことを若干責めるような言い方をするのを見て、まどかは思わず庇うように口を挟む。しかし、さやかも本気で言っていないという風に、おどけた様子を見せていた。
「勿論分かってるって。ほむらも多分、まどかのために何かしてるんじゃないかな」
「ねぇ、どうしてほむらちゃんは私を護ろうとするのかな。初めてあったはずなのに……」
当然の疑問だった。
初めて出会った人間から、甲斐甲斐しくとまでは言わないが、事あるごとに心配をかけてくれるほむらには不思議で堪らないでいた。
しかしさやかは、不安そうにしているまどかとは正反対のように、まるで自分のことのように自信に満ちた表情で語り始めた。
「ほむらがまどかを絶対に護りたいっていうのは本当のこと。魔法少女にしたくないっていうのも本当。理由はあたしも聞いてないよ? 聞いてないけどさ、ほむらにとってまどかは、かけがいのない存在なんだよ」
「かけがえのない存在って、私とほむらちゃん、出会ってまだそんなに経ってないはずだよ?」
「うん、それでも大切なんだよ。だってほむらは、マミさんと同じような感じがするから……手段を選ばないっていうか、極端っていうか。決意を抱いてる。信念を持っているって感じかな。まどかの事が、まどかの事だけが大切なんだって気持ちが、あたしには伝わってくるんだ」
「どうしてなんだろう……私、ほむらちゃんに何かしたのかなぁ」
「心配し過ぎだって! ほむらはまどかのことが大切なだけ! それだけだよ」
少しばかり不安そうな表情をしているまどかを見て、さやかは笑いながら頭を撫でてあげていた。
何も心配はいらないと言う風に、その不安を取り除こうとしていた。
「うん……さやかちゃんは今日はどうするの?」
「あたしは一度恭介の所に行くよ。体がちゃんと治ってるかどうか確かめないといけないからさ」
「そっか……」
さやかは願いを叶えた対象の、恭介の事を思い出しながら、怪我をしていた左手のことを考えていたように、自分自身の左手を上げて見つめていた。
それを聞いたまどかは、流石に病院まで一緒に着いて行ってしまうのは悪いと思い、おとなしく一人で帰ろうと思い始めて、少しだけ暗い表情をしてしまった。
「一緒に帰りたいの?」
「えっ!?」
まどかの雰囲気が伝わってしまったのか、一緒に帰りたいのかと聞かれてしまい、思わず声を上げてしまう。
どう言おうか迷っていると、さやかは仕方ないと言う手振りを見せながら教室に出ようとしていた。
「ほら、何してんの。一緒に帰りたいんでしょ? 帰ろう」
「でも、さやかちゃん」
「そんな表情をした親友を置いて行けてたまりますか。それに、あたしとなるべく一緒にいたいんだよね。多分だけど」
「あ……うん……」
魔法少女に生まれ変わってしまったせいで、さやかの命が終わりを告げる瞬間が、もしかしたら明日になるかもしれないと思っていた。
だからこそ、さやかと一緒にいる時間が今日で終わってしまうのではないかと不安で、なるべくさやかと過ごしたいと考えてしまっていた。
さやかはそんな不安を汲み取ってあげるように、まどかと一緒に帰ろうと、強引に腕を引っ張り始める。まどかは慌てながらさやかの腕に捕まり、こけないようにバランスを取ろうとしていた。
「全く、言いたいことがあるんだったら言いなよ? そんな風に思うからこそ、早めに言わないと後悔しちゃうからさ」
明日になったらまどかに会えなくなるかもしれないということを、受け入れているかのようにさやかの口調は穏やかだった。
しかしまどかは、受け入れたくても受け入れられないと思っているのか、そんな事を言うさやかの言葉を聞いて、徐々に小さく震えながら泣き始めてしまっていた。
「嫌だよ、さやかちゃん……私、マミさんの頭がなくなっちゃった時のこと、今でも思い出すの……あんなの、酷すぎるよ……さやかちゃんに、もしもの事があったら、私……私……っ!
「そうだね……まどかには、酷いことをしたよね。それでも、あたしの命をかけても良いって思っちゃったから」
「さやかちゃん……もっと、一緒にいてよ……死なないでよ……」
さやかの胸に顔を押し付けるように抱きついていた。
まるでこの世から離さないように、強く抱きしめていたまどかを、さやかは困ったように、しかし嬉しそうにしながら、まどかのことを抱きしめ返していた。
「あたしは幸せだよ。こんなに可愛い親友に好かれて、新しい友達は頼りになるやつで、これ以上にないほど最高の先輩が側にいて、大切な幼馴染を救うことが出来た。だから、この幸せを捨てたくはない。あたしは生きて、まどかの隣にいつまでもいるから」
泣き続けるまどかをあやすように、優しい声をかけながら落ち着かせていった。
やがてまどかはさやかの胸から顔を離し、泣き続けたせいで赤く腫れ上がった瞼を見せながら、スンスンと鼻を鳴らしていた。
さやかは涙で汚れているまどかの顔を、ポケットから取り出したハンカチで丁寧に拭き始め、頭を優しく叩いてあげていた。
「さ、帰ろう帰ろう! いつまでも学校の中にいちゃ、先生に怒られるぞ!」
「うん……ありがとうさやかちゃん……ごめんね……」
「もー何言ってるのよ。あたしとまどかの仲なんだから、気にしなくてもいいのになぁ」
気落ちしているまどかに、さやかは体温を移すように手を握り帰ろうとしていた。
鼻歌を歌いながら、引っ張ってくれるさやかの横顔を見ていたまどかは、その表情に釣られるように笑顔を見せ始めると、さやかは嬉しそうに腕を組み帰っていたのだった。
まどかを家まで送り終わる頃にはすっかり日が暮れて、夕方が顔を覗かせており、辺りを赤く染め上げていた。
送る時間分、病院に行くのを遅れてしまったと思っていたが、元々恭介のお見舞いに行く時間帯は、いつも夕方が出ているこのぐらいだったと思い出しながら、病室の扉をノックしていた。
「よっ、恭介!」
「さやか……」
片手を上げながら笑顔で声をかけているさやかは、扉の先にいた恭介を見て、安心した様子を浮かべていた。
それは、いつもなら自分の足で立つことが難しい恭介は、ベッドの上で寝転んでいるはずなのに、松葉杖も使わず自分の足でその場に立っている姿を見せていたからだった。
「恭介……良かった、自分の足で立てれるようになったんだね」
「う、うん。僕自身、これが現実のものなのか今でも疑っているんだけど、本当に自分の足で立っているみたいなんだ」
恭介はその場で何度も足を踏みならしていたのだが、地面を踏む感覚に違和感がないことに、逆に違和感を感じていると言うように、奇妙なものを見るような目つきで自分の足を眺めていた。
恭介が事故に巻き込まれてからと言うもの、入院している間の表情には何処が影がかかり、薄っすらと疲弊していた様子を浮かべているのが常だった。
今では急に歩けることに困惑を隠せていないものの、久しぶりに見せる表情を浮かべなら、補助なしに歩けている自分自身を感じて喜びを滲み出していた。
さやかは言葉通り、命をかけて願いを叶えた内容が、恭介の体にしっかりと作用していることが分かって、安心しながら病室へ入って行った。
「腕はどうなの? 足はまだ大丈夫だったけど、腕には神経が通ってなかったよね」
「それが、腕の方も全く異常がないんだ。本当に怪我をしていたのが嘘だったみたいに、検査を一度受けたんだけど、本当に何も問題ないって……」
恭介はさやかに向けて左手を伸ばし、手のひらを握ったり開いたりを繰り返して、神経が繋がっている事が本当だという事を再確認するように見せていた。
さやかは伸ばされた左腕に自分の手の平を合わせて、指を絡ませるように、そこに恭介の体温と感覚が存在することを確かめるように沿わせていた。
「うん……本当に、恭介の手なんだね。前の傷跡もすっかり塞がってる……良かった。本当に良かったよ」
「さ、さやか?」
「え? あ、ごめん。あたしも嬉しくてさ。ついうっかりうっかり! あはは!」
いきなり指を絡まされて、まるで恋人繋ぎのように握られたことを、恥ずかしがりながらさやかの名前を呼んでいた恭介は、さやかも思わず握ってしまったことに、後から気づいて指を解いていた。
「恭介の体に、何かおかしなとこあったりする?」
「いや、なさ過ぎて怖いぐらいだよ。おかしなことと言えば、急に腕と足が治ったことぐらいさ。こんなこと奇跡としか、言いようが、ない、よ……」
ずっと怪我のことを心配してくれていたさやかと話して、興奮気味になり不意に口に出てしまった奇跡という言葉。それを言った恭介は、あの時の事を思い出してしまったかのように、困惑しながらも嬉しそうに笑っていた表情は、徐々に青ざめるように、何かに責められているような表情に変わっていった。
腕が治らないことを宣告され、そのことで自暴自棄になり、プレゼントされたCDやプレイヤーに腕を叩き続けたあの日。今まで見せてこなかったさやかの雰囲気。その事を思い出し、目の前にいるさやかの表情を覗き見るように、恭介は目線を動かしていた。
「奇跡、か……うん、奇跡だよ。恭介のどうしても腕を治したいって気持ちが、奇跡を呼んだんだよ」
恭介から奇跡という言葉を聞いたさやかの口調は、今までにないほど穏やかで、あのとき見せていたは雰囲気が嘘みたいに落ち着いていた。
だが、恭介は覚えている。忘れられもしない出来事だった。
笑う表情や走り回っている姿がよく似合うさやかが、あんなにも意識に突き刺すような視線を送る姿など、長年さやかの側で親友をやってきた恭介には、忘れられることなど出来なかった。
「ねぇ、さやか」
「ん? どうしたの?」
恭介が今から言う質問は、しても良いのか悪いのか正直判断しかねる質問だった。だが、それでも聞くことを選んだ。
自分の身に起きているこの現象が、どうしても目の前にいるさやかが絡んでいるようにしか思えなかったからだ。
「君は、一体何を知っているんだ。僕の体に、何をしたんだい?」
緊張して、溜まった唾液を飲み込むように喉を鳴らす。身構えながらした質問は酷く曖昧だった。
だが、恭介は身の回りに起きていることを自分自身でさえ把握しかねていたので、詳しいことを指摘するような質問が出来なかった。
たとえ曖昧だとしても、これで伝わらないさやかではない。そう思い、あの時に変わった表情になる瞬間を逃さないように、さやかの瞳を見つめ続けていたのだが、それでも穏やかな表情のままでいた。
「もう、そんなに見つめられたら恥ずかしいって。あたしは何もしてないよ。恭介の腕が治った。それで良いじゃん。それとも、あたしが何かして恭介の腕を治したっていうの? 無理無理、あたしがそんなこと出来るわけないよ」
冗談を言うように、笑いながら恭介の背中を叩くさやかは、いつも見ていたさやかだった。
質問をした恭介自身も冗談交じりに言われたことを聞いて、何を言っているんだろうと思い始め、頬を人差し指でかきながら、バツが悪そうに視線を下げていた。
「そう、だよね。ごめん、ちょっと不安だったんだ……何だか、さやかが遠くに行ってしまうような、そんな気がしてさ」
「あはは、ないない! あたしは恭介の幼馴染で親友でしょ? それでも不安だったら言ってあげる。今もこれからも、恭介と一緒。これで良い?」
「あ……はは、何だか久しぶりな気がするよ。いつもお見舞いに来てくれて話してたはずなのに、こうしてさやかと話すのが、昔のように思えるんだ」
心の底から笑いながら話せているような気がして、まるで怪我をする前の時のような感覚が恭介に流れていた。
心身ともに落ち着いている今だからこそ、恭介は理解していた。まるで世界の終わりが来たかのように、何もかもが敵に見えていた入院生活。無理やり笑顔を作るようにしていたこと。だからこそ、どれだけ自分自身を追い込んでいたかが、さやかと話していて分かり始めるように、言えなかった言葉が溢れ出てくるように話していた。
そんな様子の恭介を、さやかも懐かしみながら笑っていると、何かを思い出したかのように恭介の腕を掴み引っ張り始め、外に出ようとしていた。
「それなら、もっと大切なものを思い出してもらおうかな? ほら、こっちに来て」
「ちょ、ちょっと」
「良いから良いから」
急に加えられた力に驚き、恭介はそのまま病室から流れるように出ていき、さやかの後を躓かないように着いていった。
恭介は若干抵抗を加えようともしたのだが、入院生活が長く続いていた体に、力が上手く入らないのか分からないでいたが、さやかの力が強く、そのまま抵抗も許さず屋上へ向かうエレベーターに乗せられた。
「屋上になんて、何のようなんだい?」
「まぁまぁ、行けば分かるよ」
何も言われずに無理やり連れて行かれたことに、困った様子を見せながらも、さやか嬉しそうな表情を見て口を挟むことを止めてしまい、恭介はおとなしくさやかの隣で黙っていた。
しばらくすると エレベーターが屋上に着いた音が鳴り、扉がゆっくりと開かれいく。そこで目にしたのは、恭介に関わっていた医師や看護婦。そして、綺麗に整えられていたバイオリンを持っていた、恭介の父親の姿だった。
「あっ……みんな」
「本当のお祝いは退院してからなんだけど、退院してからもバタバタしそうだからね。落ち着いている今が良いかなってさ」
「お前に処分してくれと言われていたが、どうしても捨てられなかったんだ」
そう言いながら、バイオリンを恭介の手に収めようとして渡してきた。
腕が壊れ、バイオリンを奏でることはもう無いだろうと思っていた。
だからこそ、腕が治った後のことなど考えてなかったはずなのに、捨てるよう言っていたその楽器を目の当たりにしてしまった恭介は、少しだけ震えながら、バイオリンと父の顔を交互に見ていた。
「さぁ、試してごらん。怖がらなくていい」
そんな恭介の後ろを押すように、父は声をかけた。
そして、恭介は震えを抑えながらバイオリンに手をかけ始めると、入院生活で長期間触ってい無かったにも関わらず、まるで元の鞘に収まるかのように、慣れている格好を取り始めていた。
息を呑みながら、バイオリンの弦にゆっくりと弓を当てていく。そして恭介は、親友を地獄に突き落としてでも欲しいと願っていたその音を、自分自身の腕で奏でる美しい音色を弾いてみせた。
天才と言われるほどの腕は、たとえブランクがあったとしても、まるで損なわれていないように堂々とした姿で、ここにいる人間を魅了させた。
「(本当に良かった。だけど、あたしなんかの命で出来ることはこれだけ。もう二度と、失っちゃ駄目だよ。恭介)」
スイッチが入ったかのように、嬉しそうに弾き続ける恭介を見たさやかは、満足げな様子を浮かべていたが、何処か諦めたような雰囲気も見せていた。
しかし、バイオリンを弾けることに無我夢中になっていた恭介では、そんなさやかの事など知る由もなかったのであった。