今より数時間前の事である。近代化が進み続ける日本国内で、他の市と比較しても空気が綺麗だと語られた街があった。
他の街では多発していた不可解な事件性を持つ殺人や自殺が無いに等しいほど少なく、その反面女子中学生の失踪率が多く見られていた街――見滝原市は、語られていた光景が見る影も無くなるほどの大嵐に見舞われ荒れてしまっていた。
その光景へ作り変えた原因であるワルプルギスの夜は、今も見滝原の上空に顕現し続けて赤色の魔法少女と火花を散らしている。
その鍔迫り合いは互角。いや、僅かながら魔法少女に軍配が上がっていた。
しかし、たった一人では魔女の勢いを全てを止めることは不可能であった。
ワルプルギスの夜が存在しているだけで巻き起こる暴風により、道端に設置されていた立体物や壁に貼り付けられている看板は容易く引き剥がされてしまう。それらは強風と共に空へと舞い上がり、まるで隕石のように街中へ降り注いでしまう二次災害へ変化していた。
コンクリートで作られた建物を削り取ってしまうほどの勢いがあり、人知を超えた肉体を持っている魔法少女であれど、それらが身体へ打ち付けられれば強い痛みを覚えるだろう――だが、それだけの事であった。
少しばかりの流血と、衝撃による痛みを覚えてしまう事で済んでしまい、数秒と言う僅かでも時間が経ってしまえば身体を巡っている魔力が肉体を再生して、何ごともなかったかのように振る舞えてしまう。
そんな魔法少女にとっては物が強く吹き荒れる台風など、危険性が多少あるだけで大した問題ではなかった。
「(人の形に動く魔力は……向こうね)」
それは見滝原を駆け回っている黄色の魔法少女――巴マミにも言えた事である。
だが、魔法少女以外の存在であればどうだろうか。
元々魔法少女という存在が特異な事例であり、この地球上に暮らしている人間には台風の中を悠々と闊歩出来てしまう異常な肉体を持ってはいない。
避難勧告を出し続け、人影が見当たらないはずの街の中。その中に逃げ遅れている人達がいるのなら、その人もまた、魔法少女ではないただの人間だ。
空中に物が吹き荒れてしまっている見滝原。仮に強風に煽られた立体物が逃げ遅れている人々へと襲いかかってしまえば、最悪の場合を考えなくとも行き着く先が死だということは誰がどう考えても明解である。
だからこそマミは街中を飛び続けていた。
そんな事になってしまう前に救助を進め、逃げ遅れた人達を一人残らず助け出す。
強い信念と想いを胸に懐き、マミの本体を司令塔に動いている分身たちは人の形を象っている魔力へと走り周り、建物の間を飛び、身体を動かし続け――そして、脚を止めた。
この地獄のような街の中で、助けを呼ぶ声すら上げられない者へと手を差し伸べるために。
「頑張ったわね。もう大丈夫よ」
それは物が吹き荒れる外界の驚異から少しでも身体を守ろうと、建物の物陰に小さくうずくまる少年だった。
嗚咽を漏らし、涙を流すことしか出来ないたった一人の少年だった。
だが、ごうごうと吹き荒れる無機質な風の音とは違う、明らかに生気と温かみのある声が響き、小さな肩を一瞬だけ震わせつつも丸めていた顔をゆっくりと上げ始めていた。
「だ、誰? 誰なの?」
薄暗い建物の隙間。その中で不安がる少年を優しく包むように、マミは身体を淡く光らせ近づいて行く――しかしこの台風の最中、信頼する親元から離れてしまった事や、その小さな体では身動き取れない絶望は少年の心を酷く痛めつけ、怯え切ってしまった表情を作り出していた。
「……辛かったわよね」
少年の怯えきった表情を見てしまったマミは、思わず目元から涙を流し謝り続けてしまった。
「あぁ……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「お姉さん、泣いてるの? どうして……?」
マミが魔法少女になって間もない頃の記憶だ。
今の様に圧倒的な力を手に入れたマミではない、覚悟も決意も正義も、何もかも取るに足らない魔法少女だった過去の記憶。
正義の味方である魔法少女を目指していたはずなのに、力が及ばず目の前の魔女から逃げ出すことしか出来なかった記憶。
逃げ出した魔女の結界に小さな少年が飲み込まれていたとしても、不安と恐怖に染められながら助けを求める叫び声が聞こえたとしても、答えることを諦め見殺しにすることを選んでしまった記憶。
この世界にたった一つしか存在しない無垢な命を、助け出さなければならない人間を見捨ててしまった無様な魔法少女の記憶。
少年を見捨てて結界から抜け出したときに聞こえてきたのは、少年の母親らしき女性が涙ながらに名前を呼ぶ悲痛な声だった。
それは、巴マミという魔法少女の土台を作り上げた分岐点。永遠に忘れることのない様に脳髄へ刻み込まれていた後悔であり、その時の少年の姿が目の前に映る少年の姿に思わず重ねてしまっていた。
――私がここへ訪れるまで、どれだけ不安だったのだろう。どれだけ辛かったのだろう。どれだけ痛かったのだろう。どれだけ怖かったのだろう。
何も出来ず、どうしようもない感情に、この小さな少年はどれだけ絶望したのだろう。
「(――って、いけないわ。そんなことをしている場合じゃないもの)」
自分自身の不甲斐ない過去の記憶を思い返している場合ではないと思いながらも、様々な感情が入り乱れて涙を流す姿を見せてしまった。
泣きたいのは身動きも取れずに不安を抱えて膝を抱えることしか出来なかったこの子だと言うのに。そう思うとマミは、これ以上不安を与えるような事は出来ないと意識を切り替え、服の袖で目元を手早く拭い取った。
「お姉ちゃん……?」
すると、不安げに怯えていた少年はいつの間にかマミの側に近寄っていたようだ。
涙を見せてしまったが私は大丈夫だ。心配は要らない。そんな風に声をかけようと手を伸ばそうとしたのだが――
「大丈夫? 泣かないで」
「……っ!」
先程まで不安に押しつぶされ、身体を小さく丸め込むことしか出来ずにいたはずの少年は、涙を流す少女の手を触れてそう言った。
今も尚少年は不安げな表情を見せている。しかし、その表情には先程まで流し続けていた涙を止め、目の前の少女を泣かせないようにとする意思が含まれていた。
「(違う、違うの……私が悪いの。私に力が無かったから。弱くて逃げ出して、助けることが出来なかったから)」
マミは少年の目線へ合わせるように姿勢を低くすると、ゆっくりとその小さな体に手を回して強く抱きしめた。
その行為は不安がっていた少年を安心させるためだったのか、それとも過去の出来事を思い出した自分に対してのものだったのか分からなかった。
だが、一つだけはっきりしていることが確かにあった。
記憶が混濁し、涙を流し、助けを求めていた目の前の少年に励まされたとしても、巴マミという魔法少女は崩れることなく存在していたという事を。
「ありがとう、私は大丈夫よ。そしてあなたも大丈夫。今度こそ必ず、私があなた達を護ります。だから、お母さんの所へ行きましょう」
抱きしめられていた少年はマミの声に対して何も言うことはなかった。
だが、抱きしめられた事に答えるように少年もまたマミの背中へと手を伸ばし、小さく細い腕を目一杯に使い抱きしめ返していた。
目の前にいる少女から必ず離れないように。
「うぅ……こ、ここは……」
「大丈夫です。私が必ず助けますから安心してください」
強風に煽られてしまい、倒れてしまっている人に手を伸ばした。
「おやまぁ、なんと可愛らしい」
「一緒に避難所へ行きましょう。安心してください」
年老いてしまった身体では急ぎ足で動くことが難しく、被害が大きくなる前に逃げそびれてしまった老人へ手を伸ばした。
「あ、貴女は……!」
「私が道案内します。付いてきてください」
ワルプルギスの夜が顕現した事により突然激しくなり始めた自然災害。それに戸惑い行き場を失っている人々へ手を伸ばした。
民間人の救助を優先していた消防隊や警察の働き。事前に警報を鳴らし続けていた事により、マミの予想よりも逃げ遅れている人々の数は少なかった。
それでも少ない魔力で作られた分身の数や、ワルプルギスの夜からの被害を食い止めながらの指示では動きが鈍くなってしまい、救助活動の時間は着々とかかってしまっていたのも事実であった。
「避難所にいる鹿目さんは――うん、大丈夫そうね」
逃げ遅れている人々のもとへ向かいながらだが、キュゥべえに契約を迫られ続けているまどかにも目を配らせ続けることを忘れはしなかった。
余程の事をキュゥべえから語られなかければ、まどかが契約に踏み込む心配が無いのは分かっている。魔法少女の成り立ちを聞き終え、まどかに巻き付いた数多の因果による副作用か、時々見せる異様な雰囲気や、それによる意志の強さが膨れ上がってしまったのは誰もが知っていた。
だが、それらが全て良い方向へ向いている訳ではない。
意思の強さが強固だからこそ契約に至る決意を一度でも固めてしまえば、ここにいる魔法少女たちにも止めることは出来なくなり、築き上げられた全てが終わってしまう。
多少のことでは動じないと分かっていたとしても、キュゥべえがまどかの側に居続けているのは無視することが出来なかった。
ただ、今更何を言ったとしても状況が変わる訳もなく、今は契約しないと語るまどかを信じるしかない。マミに出来ることは一人。また一人と街の中に取り残されている人々を少しでも早く救助する事であった。
「(少しばかり時間を使っちゃったけど、その分殆どの人達を助けることは出来たわ。後は……)」
多くの人たちを助けることが出来ているマミは一息をつき、先程から気になっている場所へと足を運び始める。
それは付与された魔力の様子から複数の人達が塊となって集まっており、とある二つの魔力を中心にして様々な場所へ散らばりながら動いていた。
「(もしかしてだけど、誰かを探しているのかしら?)」
魔力の塊の中にいる人の身内が避難に遅れてしまい、何処かに彷徨っている所を探しているのだろう。そう思いながらマミは向かうと、魔力の塊に近づくにつれて人影が少しづつ見え始めていた。
車事情には詳しくないマミでも高級そうだと思える黒塗りの車の近くには、スーツ姿の男性やその妻と見られる女性が心配そうな表情で付添らしき人々が慌ただしく大声を出していた。
やはり誰かを探している。きっと、あの夫婦の身内が何処かに消えてしまったのだろう。
そう思ったときにはあの集団から少し離れた場所に二つの反応を感じ取っていた。
探している人物であろう反応を見つけてしまえば、後はあの集団を急いで避難所へ向かわせるだけだと思い、マミはビルからビルへ飛び移る勢いのままその集団の目の前に着地した。
「皆さんここは危険です。早く避難所へ向かってください」
「なっ!?」
空から突如現れた人間。それも、私服とは言い難いファンシーな衣装に身を纏っている少女を目にして、驚きを隠せない様子を見せていた。
「私のことは構わず、今は台風による被害から身を守ることを第一に考えてください」
確かに目を疑うような光景を目撃している最中かもしれない。その証拠に、マミの姿を見た大人たちの視線を集めて注目を浴びていた。
それが丁度良いと思ったマミはそのまま避難を誘導し始めるのだが、それには答えることが出来ないのか一人の男性が遮っていた。
「ちょ、ちょっとまってくれ! いきなり現れて一体何なんだ君は! 今は私の息子と友人――いや、未来の娘となるかもしれない女の子が、幼馴染の少女を探しに行ったきり戻っていないのだ! その子を探し終えるまでは私達も動くことは出来ない!」
「(男の子と女の子にその幼馴染……?)」
マミがこの場へ向かう時に予想を考えていたことが当たってしまい、危険を承知でこの場に留まっていると語るのだが、その内容に既視感のある組み合わせを聞いてマミは表情を歪ませる。
もしやと思いながらも、目の前の男性に一つの質問を投げかけた。
「そうですか。もしよろしければ、その方々の写真をお持ちでしょうか?」
「あ、ああ……この子だよ」
男性の傍に近寄ったマミは差し出された携帯電話の画面に映る写真を見せられ、心の中で深くため息をついてしまう。
「(さやかさん、一体何をしているの)」
差し出された写真には、現在魔法少女として戦っているさやかの顔と、大きな怪我をして後遺症が残ってしまった幼馴染の体を治すために、さやか自身の生命を天秤にかけて祈りを捧げた少年――上条恭介の二人が写っている写真であった。
「青色の髪の毛をした女の子は美樹さやかと言うんだが、息子にとって大切な幼馴染なんだ。そして、その子のご両親が恭介に電話してきたんだよ。さやかが行方不明で連絡がつかない。君の近くに居ないかとね。それを聞いた恭介が探しに行ったきり戻ってこないんだ。このままじゃ恭介までもが……」
探していると言っても見つかるはずがないのは当たり前だった。
まさかその少女が自分たちと似たような格好をして、台風の元凶となっている怪物と戦っているとは思わないだろう。
探している人物が見つけられない場所にいるなら、ここに集まっている人達は危険な目にあっているだけだ。
そう思ったマミはこの場にいる人達に声をかけ始める。
「私に心当たりのある少女です。皆さんは先に避難所へ戻っていてください」
「こ、心当たりがあるとは本当ですか!?」
「私は避難に遅れてしまった方々を助けに回っているのですが、その中に写真と同じ子がいました。ですので、避難所に向かえば大丈夫です」
ワルプルギスの夜と戦い続けているさやかが避難所にいる訳が無く、マミが咄嗟に考えた嘘だ。
しかし、探している人物が居ないのならここにいる意味も無く、立ち往生になっているのも事実であり、嘘を吐いてでもここから離れるべきだと判断した結果であった。
「さぁ、ここは危険です。早く避難所へ向かいましょう」
「その前に恭介へ連絡を……なっ、電波が通っていない? どうしてだ……!」
ワルプルギスの夜が顕現してしまった影響だろうか。力が強すぎるあまり結界を持たない魔女だからこそ、現実世界に大きな影響を及ぼしてしまうが故に強力な磁波が見滝原を襲っているのだろう。
さやかを探し回っている息子へと連絡しようとしていた男性は連絡が取れないことに焦りを見せていたが、マミは落ち着かせるように声をかけていた。
「あなた方から見れば私はとても怪しい人物に見えているかも知れません。今出会ったばかりで信用することも難しいでしょう……ですが、私が必ず息子さんをあなたの所へ送ります」
「……」
「息子さんを向かい入れるご両親――あなた方が無事でいることも第一に考えて欲しいんです。お願いします」
そう言いながらマミは頭を下げた。
急に現れた名前も知らない怪しげな少女のお願いを受け入れて欲しいなどと言われても、目の前の両親からすれば難しい話かもしれない。そんな事はお願いをしているマミ自身も承知の上で頼み込んでいたのだが――
「分かった……私は君を信じる。どうか、息子をお願いします」
「……ありがとうございます」
マミが纏う雰囲気が伝わったのか、恭介の父親は静かに頭を頷きながら答えていた。
その言葉を聞き受けたマミは急ぎ足でその場から離れ、さやかを探している二人らしき魔力に向かって飛ぼうとした瞬間だった。
「待ってくれ! 最後に教えて欲しい。君は一体何者なんだ」
まだ車に乗っていなかった恭介の父が、マミを呼び止める。
「……」
一瞬立ち止まったマミだったが、恭介の父に答えることも振り返ることもせず、その場を立ち去った。
「さやかー! 何処にいるんだー!」
「さやかさーん! 一体何処にいらっしゃいますのー!?」
さやかの両親から娘が近くにいないかと連絡を受けた恭介と仁美は、台風の風が吹き荒れる中だと言うのに大声を出しながら街の中を歩いていた。
肉体が成熟しきっていない少年と少女には、この強風に煽られる中を歩くのは体力を削られてしまい、少しでも身を守ろうと遮蔽物を利用しながら歩いていた。
しかし、それが二人の行動を制限してしまい思うように動けず時間がかかるばかりであった。
「はぁ、はぁ……さやか、一体何処に行ったんだ」
「恭介君……」
いくら声を出そうと返事も無く、人らしき影も見当たらずに表情が暗くなってしまう恭介だったが、それでもさやかを探すことを諦めることはなかった。
そんな恭介の横顔を、仁美はじっと見つめていた。
誰が見ても今の見滝原を歩くのは多くの危険が及んでしまうだろう。しかし、恭介はそんな事を分かりきった上で足を踏み入れている。
恭介にとってさやかが大切な幼馴染だと言うのは仁美も理解していた。だが、大切だからとは言え恋人でも血縁関係でも何もない人のために、自らの命を落としかねない場所へと向かう事が出来るのだろうか。
そう思ったときにはもう、仁美の口がゆっくりと恭介に向けて開き始めていた。
「恭介君。もしかしたら、こんな事を聞くのはいけないことかもしれません。ですがどうしてもお聞かせ願いたいことがありますの」
「どうしたのこんな状況で。今は一刻も早くさやかを探さないと――」
「本当は、さやかさんの事が好き。そうではありませんか……?」
恭介は隣にいる仁美からそう問われ、上下していた呼吸もせわしなく動かしていた口も。幼馴染を探そうと止めていなかった足までもピタリと動きを止めた。
荒れ狂う風の中。人の話し声などその風に遮られて聞こえなくなる程なのに、恭介にはこの世の全ての音が無くなり、仁美の声だけが透き通るように耳へと入っていた。
「私の告白を受けてくださいましたのは本当に嬉しく思いました。でも、恭介君はさやかさんの事を、心の中では今もお想いになっているのではありませんか?」
「想ってるってそんな! さやかは大切な――」
「親友、でしょうか。本当は――いえ、本来なら、私ではなくさやかさんが恋人になる可能性だって、あったんじゃありませんか?」
「そ、そんなこと言われたって、僕には……」
恭介はさやかのことを大切な幼馴染であり親友だと言うが、仁美と同じように告白を受ければ答えた可能性があるんじゃないのかと言われ、言葉を詰まらせる。
はっきりと否定をすることは出来なかった。
もしかしたらそんな未来もあったんじゃ無いかと言われても、恭介には全く無いと言い切れる自信が湧かなかった。
「否定は出来ないのですね」
「それでも! 僕は志筑さんに告白をされて嬉しかった。バイオリンしか取り柄のない僕を、志筑さんは上条恭介として見ようとしてくれて……でも、もし志筑さんの言う通り、さやかに告白を受けた時、僕は何ていうのか……今の僕じゃ、分からないんだ……」
「それは……さやかさんをお慕いしているからではありませんか?」
「さやかは僕にとって大切な親友だよ。大切な幼馴染で、それ以上の感情を持っている訳では無いって、思ってるはずなんだ……」
親友だと断言出来るはずなのに、今では出来ないと言うように、恭介の声が徐々に小さくなり顔を俯かせる。
そして、ぽつりぽつりと心の中に留めていた思いのようなものを漏らし始めた。
「僕が入院してた時、お医者さんから腕が治らないって断言された事があったんだ」
「腕が治らない、ですか? そんな。恭介君の腕はしっかりと動いていらっしゃいますのに」
「うん、そうなんだ。僕の腕はこんなにも動いている。怪我をする前と同じくらいに……治っている今でも信じられないくらい、違和感も何も感じない元通りの腕なんだ」
怪我をしていた左腕を見て、手のひらを握ったり開いたりを繰り返す。目の前に存在している腕が自分自身の腕であることを確認するように。
「でもね、僕はその事を聞いてさやかに強く当たったことがあったんだ。奇跡や魔法がない限り治らないって突き飛ばしたんだ。喧嘩じゃない。僕の一方的な八つ当たりだよ」
「恭介君とさやかさんが……」
恭介からその話を聞いた時、仁美はさやかと恋愛相談をしたときの事を思い出していた。
まるで仲違い――恭介を傷付けてしまったと語るさやかの姿から、きっと今話している八つ当たりをしたと言う場面はそこから来ているのだろうと。
「その時さやかに言われたんだ――何の対価もない奇跡は無いって。そう僕に問いかけて来たさやかの表情は、今でも忘れられない。何年も一緒に過ごしてきたはずなのに、僕の知らないさやかの表情だった」
「……」
「腕が治ったのは本当に奇跡だよ。でも、奇跡だと思う度に、さやかに言われた言葉が頭に過るんだ……もしかしたら僕は、さやかにとんでもないことを言ったんじゃないかって。この奇跡の対価は一体何なんだって。さやかは僕の左腕を治す代わりに、さやか自身が何かしらの対価を払ったんじゃないかって……」
「そんな、事……」
あまりにも突拍子もなく、馬鹿げた話だった。
誰が聞いても信じられない話を恭介は語っている。しかし仁美は、そんな馬鹿げた話を否定する事が出来なかった。
医師から腕が治ることが無いと断言されたはずなのにその数日後には元通りに治ってしまうなど、本当に奇跡と言うしか他に無い現象だ。
そして仁美は考える。恭介の語る話がその通りなら、さやかが支払った対価とは一体何処から来ているのだろうかと。さやかと話していたときに感じた違和感。まるで人が変わったような雰囲気を持ったさやかの姿を鮮明に思い出していた仁美は、考えたとしても答えが出ることはなかった。
仁美が怪訝な顔つきをしながら思考に没頭していると、それを見た恭介は困ったような笑顔を浮かべつつ声をかける。
「変だよね。ごめん。こんな話をしている僕でさえ、変だって思うんだ……でも、さやかは大切な親友で、それから先のことは無かった。志筑さんの言う通り、さやかが隣にいてくれる未来があったのかもしれない。でも、今の僕に寄り添ってくれるのは他でもない志筑さんだよ」
恭介はそう言いながら仁美の手を握った。
恋人から握られた手の温もりを感じた仁美は、思わず恭介の胸の飛び込み涙を流して不安を漏らし始めた。
「私は……私は不安なんです。恭介くんの話は決して嘘だと思いません。私が恭介くんをお慕いしているとさやかさんにお話したとき、私の知っているさやかさんとはまた違う様に見えました……」
「それを作った切っ掛けは僕にある。さやかを変えてしまったのは、あのときの僕が……さやかの命をかけてでも、壊れた腕を治したいって答えてしまったから」
「っ!」
その言葉を聞いた仁美は勢いよく顔を上げてしまった。
恭介がさやかのことをどれだけ大切にしているのか、それは幼馴染であり恭介とさやかを見続けていた仁美だからこそ理解していた。
たとえその感情が愛ではなく友情の類だとしても、恭介がさやかを捨てるような選択を選ぶとは思わなかった。
幼馴染を捨てたからと言って腕が治るはずがない。誰がどう聞いても信じられない話をしていると分かっていても、それでも腕を治したいと言う願いに縋るまで追い詰められていた。
その事実に仁美は顔を俯かせ、表情は暗くなり目元に涙を滲ませてしまう。
さやかは仁美に語っていた。恭介に対して命を捧げれる程愛していると。
仁美の目にはその言葉に嘘偽りのない覚悟を感じ取っていた。
もし、自分の命を捧げて恭介の腕を治せると言うのなら、ほんの少しの間もなく頷くことが出来る覚悟がそこにはあった。
だが恭介はどうだろうか。さやかにそれだけの愛を持っていたとしても、恭介から見るさやかは大切な親友止まりだ。
好いてはいても愛は含まれていない。しかしそんな事はさやかが一番理解していて、理解した上で命を捧げれると語っていた。
何も見返りなどは望んではいなかった。
恭介を幸せにしたいと言う願いだけで命を捧げる覚悟を持ち、隣に寄り添うこと無く身を引いてしまっていた。まるでそれが当たり前だと言うように。
そんな事をするさやかの心情など、仁美には理解が出来なかった。
愛しい男性の隣に寄り添いたいと願うのが愛を知る女性では無いのだろうかと思っていても、自分よりも深い愛を見せつけたさやかはその場にはいなかった。
ただ、さやかの親友と自負する仁美には許せなかった。
そこまでして何故身を引くのか。身を引く理由が何処にあるのか。一体何に巻き込まれているのか。様々な疑問が混じり合う中、さやかが一言も相談すらしてくれない事に怒りが沸きさえした。
それ以上に、さやかの親友として寄り添えず、頼りになれない自分自身に対しても腹がたった。
さやかと同じく正義感の強い仁美には、自分一人では大切に思う幼馴染の手助けすら出来ない事実が、あまりにも受け入れ難いものだった。
「(ですが……ですが、ここで諦めて、さやかさんの親友と語る志筑仁美がここで諦めてしまっては、一体誰がさやかさんの親友と語れるのでしょうか!?)」
受け入れ難い事実かもしれない。しかし立ち止まる訳には行かないと言い聞かせながら拳を強く握り、目元に溜まっていた涙を拭い払うと恭介へと顔を向けた。
「お願いです恭介くん! さやかさんを助けてあげてください! 私だけではさやかさんの心を動かすことが出来ませんでした! ですが恭介くんならさやかさんを助けれるはずです! だって、さやかさんは恭介くんを――っ!!」
思いが積み重なりまくし立ててる様に話し始めた仁美だったが、最後まで話し終える前にはその言葉を止めてしまう。恭介が仁美の身体を抱きしめてしまったからだった。
「うん……さやかに僕のことを許してもらえるのか分からない。それでも僕にとってさやかは大切な人だって今更ながら思い知った。さやかが側にいなくなってやっと分かったんだ。さやかが僕から離れていくのは、腕を失った時よりも辛いって。自分で言って最低だって分かってる。腕が治ってからこんな事を思うだなんて……でも、今ここでさやかに問い詰めることが出来なかった、僕は親友……ううん、人間として失格だ」
「恭介くん……っ!」
「だけど志筑さん。僕だけでも駄目なんだ。志筑さんと僕の二人ならきっと、さやかも分かってくれる筈だよ」
「もちろんですわ! 恭介くんとでしたら、きっと!」
仁美は抱きしめられた事や、さやかを心配している気持ちが同じだと分かったことで感極まり恭介を抱きしめ返してしまうのだが、そんな恭介は仁美の肩に手を添えてゆっくりと引き剥がしてしまった。
「付き合ってまだ数日しか経ってないのに暗い話ばかりしてしまったね。それに、いつまでもこんな所で話し込んでたらさやかを探し終える前に僕達が危ない目にあってしまうよ」
「そ、そうですわね。私がさやかさんの事を聞いたばかりに……」
「良いんだ。それよりも早く移動し――志筑さんっ!!」
「えっ?」
身を守る手段が乏しいこの台風の中で立ち話をしてしまっては、いつ身の危険が襲いかかってくるか分からない。そう思ったときだった。
恭介の視線には、強風に煽られて引き剥がされてしまった大きな看板が、仁美に向かい勢いよく迫ってきていた。
その光景を見てしまった恭介は、仁美を庇おうとして咄嗟に抱きかかえてしまう。
人の命を奪うには容易い十分な速度を持った質量が向かってきている。肉体も成長しきっていない少年一人が壁になったとしても、仁美の大怪我は免れないだろう。
恭介自身、そんな事は知っていて仁美を庇う選択を取っており、看板が身体に打ち付ければ確実に死ぬことも分かっていた。
「(ごめん、さやか――っ!!)」
恭介には仁美と共に助かる方法がは思いつかなかったのだ。どちらか一方の命を犠牲にするしか、どちらかを生き残らせる手段は無い。そう思い目を閉じ、交通事故にあったときの様な記憶が飛んでしまうほどの強烈な痛みを覚悟していたのだが――。
「(どうして、痛みが襲ってこないんだ……?)」
あの勢いがあれば既に恭介の身体に看板が打つかってもおかしくない。しかしいつまで経っても恭介の身体に衝撃が走ることが無かった。
不思議に思い、恭介は強く閉じていた両目を恐る恐る開き始める。すると、向かってきていたはずの看板は空中で静止していたのだ――この薄暗い台風には不釣り合いな、パステルカラーの黄色いリボンが巻かれた状態で。
「女の子を護る姿、とっても格好良かったわよ。でももう大丈夫。安心して頂戴」
「あ、貴女は!」
優しく語りかけてくる少女の声が聞こえる。恭介は声が聞こえる方向に目を向けると、リボンと似たような色調を散りばめていた衣装を身に纏うマミの姿が現れていた。
「もう、貴方のお父さんが随分と心配していたわ。こんなところでデートなんてしていたら、いくら命があっても足りないわよ」
「あ、いや……その……」
恭介は確実に死を覚悟していた。
不意に起きてしまった交通事故とは違い、自ら死ぬ覚悟を持って脅威に立ち向かっていた。
だからこそ五体満足で助かるとは思わず、しかも助かったと思えば不思議な格好をしているマミの姿や、空中でリボンに巻き付かれながら不自然に浮遊している大きな看板。それが当たり前だと言わんばかりに自然と話しかけて来ている状況に混乱して、恭介は上手く言葉が出てこなかった。
「もしかして、巴マミさんですか?」
そんな恭介を他所に、今も守られるように抱きしめられながらもマミの姿を見た仁美は答え始めていた。
「あら、私のことを知っていたの? さやかさんから聞いたのかしら……そう言えば自己紹介がまだよね。私の名前は巴マミ。さやかさんの先輩――つまりはあなた達の先輩でもあって、あなた達の事はさやかさんから聞いているわ。とっても仲の良い幼馴染だってね」
「はい、私も巴さんの事は存じておりました。ご紹介が遅れましたが、私は志筑仁美です。彼が上条恭介君と言いますわ」
「あ、か、上条恭介です」
「さぁ、自己紹介も済んだのだからこんな所にいつまでもいられないわよ。早く避難所へ向かいましょう」
多少混乱が残っている恭介だが、マミは気にしない様子で微笑みながら二人の側に近寄っていた。
ここから離れる意思を見せながら、二人を抱えようとリボンをクッション代わりに巻き付けるのだが、それを見た恭介が大声を上げながら抵抗し始めていた。
「待ってください! さやかが避難所にいないんです! だから僕たちはこうして台風の中を歩いていたんです! 僕たちも危険に危険な目にあってしまいましたが、それ以上にさやかが危険な目にあっているかもしれません! だから早く探さないと……!」
長話をしてしまっていたが、恭介たちの目的は避難所にいないさやかの救出だった。それがまだ済んでいないので離れる訳にはいかないと言い、マミの提案を拒否して見せるのだが、それでもマミは落ち着いた様子で話しかけていた。
「ええ、恭介くんのお父さんから聞いたわ。でもさやかさんなら大丈夫よ。だから、まずはあなた達が避難所へ行きましょう」
「さやかが何処にいるか知っているんですか!? だ、だったらさやかの所へ……!」
「うーん、それは少し難しいかな。今からあなた達にさやかさんを会わせることは出来ません。少なくとも今はって話よ? あなた達が避難してくれれば必ずさやかさんに会えるわ」
「それは何故でしょうか? さやかさんは一体……それに、貴女の格好や先ほどのリボンはどういうことでしょうか? さやかさんは何に巻き込まれているんですの?」
「それを説明するには少しだけ時間が足りないわね。もう少し落ち着いた場所ならお話が出来るかもしれないけど……とにかく、さやかさんは必ず無事に戻ってくる。その為にも、まずはあなた達は避難所へ行って、危ない場所からいち早く離れましょう」
「巴さん、お願いです。僕たちはさやかと長い付き合いなんです。幼馴染が危ない目にあっていて、それを無視する訳にはいきません」
「(ある程度予想通りだけど、少し困ったわね……)」
落ち着いて説得しようにも、この台風の中を歩こうとしていた少年少女だ。生半可な説得では避難所へ向かおうとする意思を見せはしなかった。
恭介の父親があそこまで簡単に引いてくれたのは、自分たちの立場や精神的にも成熟してくれていたのが大きい。
恭介の父親自身もこの台風で無闇に動けば被害が大きくなるだけだと十二分に理解していて、急に現れた巴マミには対抗策を持っている。そして、マミの言い分通り迎え入れて上げれられる大人が大怪我をしたら、本当に元も子もないだろうと落ち着いた思考で判断してくれたおかげだ。
この台風の中で長時間いるのはただの人間には負担が大きい。そして、マミとしては一刻も早く避難を終わらせて災害の現況であるワルプルギスの夜へ立ち向かいたかった。
だが、目の前にいる二人は一歩も譲らない様子である。このまま無理やり連れて行くのも一つの方法ではあるのだが、出来ればそんな事はしたくない。
仕方がないと思いながらほんの少し心の中でため息を吐いたマミは、先程まで優しげな表情を浮かべていた顔つきを変え始めていた。
「少し質問させて頂戴。あなた達はさやかさん本人から、私達の事について何か話をしたかしら?」
「……」
マミにそう問われ、恭介たちは何も言わずに黙ってしまう。何も知らないからこそマミから話を聞こうとしていたのだから、さやかが巻き込まれている内容についてなど知る由もなかった。
「そう、やっぱり何も話して貰っていないのね。だったら尚更私が話す事は何もないわ。さやかさんが話したいと思っていないからあなた達に話していないの。なのに、私がその事を話したらさやかさんの気持ちを蔑ろにするんじゃないかしら?」
「そんな事――」
「そんな事があるの。今のあなた達は関係がない。さやかさんの心配をするのは自由よ? でもね、さやかさんが話したくない内容を私から聞き出そうとするのは、少しずるいと思わない?」
命を落としかけている親友の話を聞こうとしているのだから、目の前の二人が形振り構っていられないのは分かっていた。
厳しいことも言っているのも分かっていた。
それでも二人の親友であるさやかが話していないのなら、マミ自身が話す事は何も無いと判断するのが道理だろうとも考えていた。
「だからこそ私から話を聞くんじゃなく、あなた達二人が真正面からさやかさんに話を聞きに行きなさい。その方がさやかさんも喜ぶはずよ。その為にもあなた達は必ず生きて帰るの。こんな所に居続ければさやかさんに会うこともなく命を落としてしまうわよ」
さやかの事を心配するなら、まずは自分たちが無事であることを強調して説得し始める。それもそうで、先程マミが助けに現れなければ二人のどちらかが命を落としていた可能性があったのだ。
その事も頭に過ぎっていたのか、二人はほんの少し頭を悩ませながらも口を開き始めた。
「さやかは、無事に戻ってくるんですよね?」
「ええ。あなた達が生きているのなら、さやかさんは必ず帰ってくるわ。私が保証します」
「……分かりました。僕たちは大人しく、避難所へ行こうと思います」
「(ふぅ……良かったわ)」
避難所へ向かってくれる意思を見せてくれた事に、マミは一安心したような表情を浮かべる。
「ありがとう。それじゃ、しっかり掴まっててね」
難しい決断だっただろう。しかし、何とか説得に応じてくれたことに感謝を述べながら、避難所へ二人を連れて行こうと両脇へ抱えるように腰へ手を回しながら体に密着させていた。
魔法で作り上げたリボンを二人の周りに浮かばせて、風の抵抗を和らげるクッションを作り、そのまま避難所へと飛んで見せ始めた。
「(もう少し……あと、もう少しで向かうから。皆、頑張って頂戴)」
ワルプルギスとの戦闘が始まって数十分程度しか時間が経っていない。しかし、あれ程の魔女を相手に十分以上続けて戦い続けている杏子達には、想像以上に大きな負担が伸し掛かっている事だろう――が、それももう終わりだ。
この二人さえ救助してしまえば、街に取り残されている人達の救助を終えた意味となる。それは同時に、サポートに徹底していた巴マミが戦場へ介入する事を示していた。
多くの人々を巻き込んでしまったこの戦いの終幕。その足音は、直ぐ側まで近寄っていたのだった。