見滝原市に襲い続けている大型台風。その中心部には常人が目視する事が出来ない大災害の核であるワルプルギスの夜が、耳障りな金切り声を上げながら笑い続けていた。
空間に存在しているだけで暴風や豪雨を撒き散らし、使い魔を放出してしまえば数時間で大地をひっくり返されたかのように更地へ変えてしまう存在。
しかし、ワルプルギスの夜が顕現してから十分以上が経過しているにもかかわらず、見滝原市を崩壊に追い込むことも叶わず、移動すらままならないでいた。
そう、街一つを軽々と破壊してしまう魔女は、見滝原市に深く入り込めずに二の足を踏み続けていたのだ。
「バカみたいに使い魔を送り込もうともさぁ! 本物のあたしに攻撃しない限り無駄なんだよ!」
それは、空中を駆け回りながらワルプルギスの夜に対して攻撃を与え続けてる深紅の魔法少女――佐倉杏子が魔女の攻撃を相殺していたからだった。
ワルプルギスの夜は他の魔女とは一線を凌駕する魔女として言い伝えられ、その伝承通りに破壊的な強さを持つ魔女である。
酷く寿命の短い魔法少女の間でも語り継がれてしまう魔女。その強さが計り知れない事を意味するには十分であり、一人で挑むには無謀だと誰しもが理解出来るだろう。
しかし現在の見滝原市上空に映し出されている光景はどう説明出来るのだろうか。それ程の魔女を相手にしていたとしても、杏子は多少の疲れを見せるだけで危なげなく受け切る姿を見せていた。
後方でサポートを続けている仲間の力もあるだろうが、それを加味したとしても数多くの攻撃は杏子の力のみで対応しており、ただ受けるだけではなく魔女に対し追撃を加えることすら可能にしていたのが佐倉杏子と言う魔法少女だった。
「キャハハハハ!!」
だが、ワルプルギスの夜は杏子の攻撃を受けようとも笑い続ける。まるで無駄だと言うように立ち向かう魔法少女たちを嘲笑い続けていた。
そんな笑い声に呼応するように巨体からは魔力が溢れ出し、空中に漂いながら先程と同じ魔法少女らしき形をした使い魔が形成され、進行を阻止する魔法少女に対して向かわせていた。
「だから無駄だって言ってんだよっ!」
大型魔女から生み出された使い魔には魔女並みの力が含まれているだろう。しかし杏子の扱う幻覚を見破れない限りは、その力を満足に振るうことが不可能であり、無意味な戦いが続いていた。
本物の杏子はと言うと姿を隠しながら魔法を操り、集団から外れた使い魔を鎖型の結界に閉じ込め至る所から槍を出現させて串刺しに。強力な使い魔を退ければ本体へ攻撃を与える。その繰り返しであった。
あのワルプルギスの夜に対して防戦一方の状況へ作り出したのは杏子と言う魔法少女の力があってこそだ。
魔女たちの進軍を抑え込めている状態を作り出しているのは杏子も想定通りかもしれない――が、ここまで一方的な戦局を作り出そうとも、ワルプルギスの夜は笑い声を絶やすことはない。
それはあの魔女に対してどれだけ攻撃しても、戦局を変える程の傷を与えられていない証拠だ。
「(攻撃があたしに当たらない分まだマシだが、ここのままってのも埒が明かない――だがな)」
お互いがお互いに決め手を作る事が出来ていない現状維持が長らく続いている。
ここまで有利な状況を作れているにもかかわらず押し切れなければ歯痒さを覚えてしまう所だろう。しかし杏子はそんな事など予定通りだと言うように笑みを浮かべて見せていた。
「魔力が減る様子が見られないのは確かに不安だが、そろそろ大きな亀裂を入れる頃合いなんじゃない?」
戦闘を開始してから数十分。魔法少女と魔女の戦いにしては余りにも長い時間が経過してしまっている。相手が大型魔女であれば持久戦を挑むのは尚更悪手であり、グリーフシードも幾つか消費してしまっていた。
その備蓄も考えれば一気に勝負を決めたいのが杏子の本音だったが、ワルプルギスの夜が使い魔を作ろうと、光線を打ってこようと魔力が減っている様子が見られないことが引っかかり、戦局を大きく変えてしまうような大技――大量の魔力を使う事に踏み出せないでいた。
だが、この数十分の間に何も考えず戦いを続けていた訳では無い。
その準備が整ったと言うように停滞した戦場に風穴を開けると意気込んだ杏子は、有利な状況を作り出していた要であるロッソ・ファンタズマを完全に解除してしまうのだった。
「分かりやすい大きな傷は与えられてないかもしれないけどさ、この数十分の攻防であんたの至る所に傷を負わせられた。確かにそれは小さな傷かもしれない……が、小さな傷も重なれば深くなるし、繋がれば大きくなる。そんな状態のあんたに大技一発決めてしまえば――流石に擦り傷だけでは済まないだろ」
身を包む雰囲気が変わり、先程までの笑みが消え失せる。ロッソ・ファンタズマを解除した反動を落ち着かせるように、ゆっくりと息を整え始めていた。
呼吸する毎に杏子の周りの空気は徐々に張り詰めた緊張感が帯びていく。命の源であるソウルジェムの奥底から魔力を汲み出しているのか、杏子の身体から今まで以上の魔力が滲み出していた。
惑わす事に特化したロッソ・ファンタズマだが、身に纏う魔力は更に攻撃的な雰囲気を放っていた。
「この手の大技はマミのほうが似合うけどっ!!」
準備が整いつつある杏子は得物である赤い色の槍を前に構え出し、開放させんと力を込めた。
足元から赤い輝きを放つ巨大な魔法陣が現れ、身に宿す魔力を膨れ上がらせ解放する。
解放した魔力は足元にある陣が全て取り込み、輝きを一層強くさせ――その上にいた杏子は何かに押し上げられるように空中へと上昇し始めていたのだった。
「ワルプルギスの夜。これがあたしが持つ大技の一つだけど、どうだい? ただの魔法少女と目線が同じになった感想はさ」
その何かとは、杏子が持つ槍が巨大化したものだった。
魔力で満たされる水面の底から現れたその槍は、十倍二十倍の桁では到底届くことの出来ない大きさであり、関節を持つ多節棍によりその姿は赤い龍にも見える迫力を放っていた。
ワルプルギスの夜と見比べても引けを取らない存在感を持つその槍は、ゆらゆらと動く度に分厚く重苦しい鎖がうねりを上げ不快な音を響かせる――末端にある巨大な槍の先を、攻撃対象であるワルプルギスの夜へと狙いを定める為に。
「さぁ、貫きやがれっ!」
杏子の指示により槍先はワルプルギスの夜の胴体に一直線に向かい始めた。
その巨体には似合わない速力を持っていた槍は、ワルプルギスの夜を逃がすことなくいとも簡単に捉えてしまう。
杏子が作り出した強力な攻撃魔法と、一つの街を脅かしかねない魔女同士が打つかり合う衝撃は凄まじいものだった。
辺りの空間を怯えさせるように震わせ、この世の素材では無い物同士が生み出す不快な音と、激しく飛び散る火花が辺りを照らし続けていた――つまり、それ程の衝撃を生み出す魔法を持ってしても、ワルプルギスの夜を貫く事が出来ないことを意味していたのである。
「(へっ!流石に硬いよな!)」
しかし杏子は焦りを見せてはいなかった。
これだけの大技を使いワルプルギスの夜の身体へ刃が沈むことなく、不快な音を鳴らし続けるだけだとしても、魔法少女は何一つ諦めてはいなかった。
「あんたが諦めた魔法少女はなぁ! こんなもんじゃ――無いんだよぉおおおおおお!!!」
魂を揺すぶる杏子の咆哮に、身に付けていたソウルジェムが共鳴して強い輝き生み出し始める。生み出された輝きは文字通り命を燃やしていると言っても過言ではない。
焚き火に焼べる木材が燃料としての役目を終えて黒く焼き焦げて変色してしまうように、ソウルジェムは魔力を生成する毎に魔法少女の生命を停止させようとどす黒い濁りに蝕まれていた。
だが、命を燃料とした対価は凄まじく、濁りに身を溶かし続けるれば続けるほど膨大な魔力が全身から溢れ出し、槍の勢いを更に加速したのだった。
「(これが本当に現実だって言うの……?)」
杏子の後ろで戦っているほむらが目の当たりにする光景は、今まで見て来ていた光景と見比べればありえない物を見ている感覚だろう。
幾度となく繰り返し戦い続けたワルプルギスの夜。それを打倒することがほむらが掲げていた一つの目標であり、超えなければならない壁であった。
その強さは時を繰り返し続けているほむらでさえ未だ計り知れず、しかし強大であることは理解していた。
繰り返しては辛酸を舐めさせられ、繰り返しては次こそ倒してみせると意気込み、繰り返しては解決策を探し出し、そうして集めた資料と照らし合わせた行動パターンを把握しては、最適な攻撃を仕掛け続けて来た。
今では相手の行動を全て把握していると言っても良い。
反則紛いの方法を取っているにもかかわらず、それでも倒せるか分からない強さを持ち、存在するだけで辺りに大きな傷跡を残す大災害。それがワルプルギスの夜と言う魔女だった。
だが、そんな魔女はたった一人の少女の攻撃により亀裂を作り始めていたのだ。
「今度こそ貫きやがれぇえええええええ!!」
激しく燃える炎のように生み出され続ける魔力は追い打ちをかけ、槍の勢いを更に加速させる。拮抗していた力が大きく崩れるのを見せた。
巨大な槍が魔女の身体へ侵食する。それを切っ掛けに身体中に付けられていた浅い傷同士は繋がり、巨体を引き裂く深い傷を作り始めた。
遂に、堅牢なワルプルギスの夜が笑いを止める。杏子から溢れ出す魔力は止まることを知らず、巨大な槍は加速し続ける。
槍が沈む毎にひび割れが広がり、次第にワルプルギスの夜の肉体は脆くなり、更に槍は沈み続け、身体を維持するのが難しい程の亀裂へと昇華した。
「アハ――ハハ――ハ――」
あの大災害が。高らかに笑い続けていた魔女の姿は何処にもない。徐々に小さく沈むように掠れ、最後には静まり返るように止んでしまった。
杏子の目の前に広がるのは、回り続けていた巨大な歯車が粉々に砕かれた瞬間――ワルプルギスの夜を完全に崩壊させた光景であった。
「嘘……嘘でしょう……」
杏子の背中を見つめていたほむらは、驚きの余り口を押さえつつもその場から駆け出したい気持ちが抑えれず、ビルを足場に飛び始める。
「やった……やったわっ!! 遂にやったのよ!! ワルプルギスの夜を倒したの! 杏子! 本当に……本当に凄いわっ!」
魔法少女が魔女になる運命だとしても。魂がソウルジェムという置物に変わることを知っていても尚、魔法少女になることを決意したあの日。本当の願いの為にどれだけの長い時を過ごしてきたか、そんな事も分からなくなってしまうぐらいに時の狭間の中に囚われ続けたほむらの宿敵が崩れた。
それがほむらの心をどれだけ震わせるものなのか、狂気のような時を過ごして来たほむらにしか理解出来ないだろう。
だが、繰り返す度に神経をすり減らして、身も心も鋭く尖ってしまったあのほむらが、感情の赴くままに強い喜びを顕にして杏子の胸に飛び込んでしまう。それ程までにほむらの感情は強い高ぶりを見せていたのであった。
「終わったのよ……やっと。やっと終わったの……っ! まどかを……まどかを救えたの……あなたたちのお陰で……」
「ほむら……」
胸に縋り付いていたほむらは小さく嗚咽を交じらせながら涙を流してしまう。長い時間を過ごしていたのは、たとえ当事者ではない杏子でも配られた資料を見れば分かっていた。
ほむらの抱えている感情の全てを理解することは出来ないが、そんなほむらがどれだけの想いで涙を流しているのか感じることは出来ていた。
喜びの余り涙を流し続ける彼女の肩を抱き、慰めてあげることが命を預けあった仲間の行動なのだろう――しかし杏子は、そんなほむらを優しく抱きしめてあげることもせず肩に手を置くと、ほむらの身体を剥がすように力を込めてしまったのだ。
「杏子? ど、どうしたの?」
ほむらは困惑した。
確かに柄では無かったかもしれない。だが、この時間軸の杏子は喜びを顕にする少女を無理やり剥がすような事はしないはずだろう。
そう思ったほむらは困惑したまま杏子の表情を見ようと顔を上げた。
そこにはほむらのように喜びに打ち震えた様子でも無く、強敵を倒した事による喜びの表情でもなく、残念そうな。何処か申し訳無さそうな表情でほむらを見つめていた。
不思議に思っていたほむらに向けて、杏子はゆっくりと口を開く。
「ごめん、ほむら……仕留め損なった」
「……え?」
歓喜に打ち震えている少女の想いを砕いてしまう、残酷な言葉を添えて。
「な、何を言っ――きゃっ!!」
杏子が謝る様子を見せた次の瞬間だった。ワルプルギスの夜が崩壊したその場所から突如魔力が吹き出し始め、ほむらはその魔力を感じ取り声を上げながらも目を向けた。
「ァh……アhaha! Aハha――Ahahahahahahaha!!」
体を完全に貫かれ、小さな傷同士はお互いに連鎖しバラバラに砕かれたワルプルギスの夜。しかし、魔女によって作り出された空を覆う曇天は消え失せる様子も見せず、突如発生した魔力の渦は崩れ堕ちた肉体を押し上げ始めていた。
「う、嘘よね? こんな、こんな事って……」
嘘だと呟いているほむらの思いも虚しく、倒されたはずのワルプルギスの夜は何処からともなく魔力が溢れ出し続けていた。
そして貫かれた傷やひび割れた箇所の元に戻るかのように繋がり。塞がり。やがては傷一つ無い姿でその巨体を再構築した――不格好に逆さ吊りになっていた状態から、正位置に戻るように回転して。
「(こいつは……魔力の量や質がさっきまでと別格じゃねぇか)」
道化師のように逆さまな姿を晒していたワルプルギスの夜。内包する魔力の桁は他の魔女と比べれば一線を凌駕するものの、敵意や悪意のような負の感覚が疎らで、何処か掴みどころが無い印象を杏子は覚えていた。
しかし、今はどうだろうか。目の前の魔女から感じられる悪意は恐ろしく鋭利であり、杏子の身体を見えない刃物で何度も何度も、ズタズタに切り裂かんばかりの悪意を放っていた。
杏子程の魔法少女ですら放たれる悪意に飲み込まれかねない圧力。そんなものを困惑したまま隙を晒し続けているほむらに対して放ってしまえば、何かしらの反応はあるはずだろう。
だが、肝心のほむらは未だに何が起きているのか理解出来ずに立つ尽くすだけだった。
「あたしを敵と認めて、今から本気で戦ってやるとでも言ってんのかよ、お前は」
ここまでの重圧が自分にしか向けられていないこの状況が、まるでワルプルギスの夜から好敵手と認められたと考えてしまう。
そんなはずはありえない。本能のままに悪意を振りまくだけの魔女がそんな回りくどい事をするはずがない。
杏子は苦虫を噛み潰したような表情を作りながら考える。だが、考えた所で不透明な答えばかりが浮かぶだけであり、目の前に存在している魔女が今まで以上に凶悪な存在として復活を果たした事だけが逃れようのない現実だった。
「本気……ですって? な、何を言っているのよ杏子、あなたも私の資料を見たでしょう? 何回も何回も繰り返しては集めてきた、私の資料を……」
そんな杏子の呟きを聞いてほむらは抗議する。ほむらが見ていた光景に逆さ吊りになっていたワルプルギスが元の状態に戻るなんてことは書いてはいない。
今見ている光景は幾度となく繰り返し続けていたほむらにも知り得なかった形態変化であり、杏子もそんな事は理解しているだろうと。
「多分だが、ほむらが見てきたのは元に戻る前に倒されていた光景だったのかもしれない」
「ありえないわ!! 杏子の攻撃は今まで倒してきたまどかの攻撃と同じぐらいに強力だった!! だからそんな事は――っ!」
「落ち着けほむら!」
取り乱すほむらを落ち着かせようと肩を掴むが、杏子もハッキリとした答えが分かないままであり、その表情は不安げな様子を隠せずにいた。
「いや、この状況を見てあんたに落ち着けってのも無理な話なのは分かっている。あたしも詳しいことは何も分からないが、目の前の現実を受け入れるならそう考える方が妥当だと思うんだ」
崩壊したワルプルギスの夜が傷一つ無く復活を果たした光景など受け入れたくても受け入れ難いものだろう。
喜びを顕にしていた少女にその現実は余りにも残酷であり、受け入れたとしてもその絶望は大きい。そんなほむらの心情を杏子も理解していたが、慰めの声をかけるにしても言葉が見つからなかった。
だが、投げかける言葉が見つからなくても、到底受け入れ難い現実だとしても、否応なく迎えなければならない。
先程の状態よりも強大過ぎる敵として復活を果た魔女と、もう一度戦わなければならない現実と。
「(何も無ければあの大技で倒せる予定だった。そして、あたしの予定通りに倒してみせたさ――けど、まさかワルプルギスの夜にこんな変化があるとは思っても見なかった。加えて復活したあいつの魔力。魔力の消費が無かったり、傷一つ無い状態に戻ったり……どうやら、あたしがあいつを倒すことは不可能に近い、か)」
戦闘が始まる前にマミが伝えた言葉。「もし倒せるのなら、私が戻る前に倒しても構わない」と、そう言われた杏子は軽口と受け取ることはしなかった。
本気で受け取りあの魔女を倒すことが叶わなかった場合、この戦いで命を落とす魔法少女が必ず現れてしまい、その目星も分かっていた。
だが、あの攻撃でワルプルギスの夜を倒せられなければ最早何をしても無駄になる可能性が高い。何より以前の姿よりも強大な力を持って復活を果たした相手に出来ることなどたった一つしか無かった。
それは、
ここにいる魔法少女。ほむらやさやかに出来ない、佐倉杏子と言う魔法少女だからこそ出来る事だった。
「分かっていると思うが、あたしでもあいつを倒すことはもう無理だよ」
「私にだって……あれほどの魔力を持った魔女の攻撃。私の盾でも受けられる自信、無いもの」
以前よりも魔力感知が出来るようになったからこそ、ほむらも目の前にいる魔女との力の差が歴然だということは理解出来ていた。
出来てしまった。
盾の中に眠っている消費されることが無かった武器を使い尽くそうとも、あの魔女に対して満足に傷を与えられない。
まどかを守るために作られた盾を使っても攻撃を満足に防ぐことは出来ない。
暁美ほむらと言う魔法少女に出来ることは何もない。
顔を下に俯かせ、無力であることに溺れ、そう言いかけたほむらだったのだが、突如肩の辺りに叩かれる様な衝撃が加わる。
それにより虚ろだった意識は正常になり、はっとして思わず顔を上げた。そこには、安心させるような表情でほむらの肩を叩く杏子がいた。
「大丈夫。確かに倒せないかもしれないけど、あたしの全力を出してあいつを食い止めることは出来る。これはあたしにしか出来ない役目だからな」
全力で戦い見滝原への侵入を止める。その前準備だと言うようにストレッチを始めている杏子に、ほむらは怪訝な表情を向けた――まるで、先程までは全力で戦っていなかったと。
「ぜ、全力を出すって、今まで全力で戦っていたんじゃ」
「本気では戦っていた。でも、全力を出してはいなかった。グリーフシードの消費を抑えるってのもあったけど、あたしは今の今まで全力を出して戦う事をしてこなかったし、必要も無いからね。それに全力を出した後、ソウルジェムにどれだけ負担が来るか分からないんだ。まぁこの様子じゃそうも言ってられないだろ? だけどこれからは、正真正銘あたしが持っている全ての力を出し切って戦うつもりだ」
そんな事はありえないはずなのに、その語気には嘘偽りがないと言う雰囲気が感じられてしまい、ほむらは益々混乱してしまう。
だが、困惑しているほむらを他所に淡々と杏子は話し続けた。
「良いかいほむら。時を止める能力は一時的に身を守る力として最強の魔法だ。あたしにも出来ない力をほむらは持っていて、その力が無ければあたしも思う存分に戦えないんだ。その意味があんたにも分かるはずだろ?」
「それって……」
「あたしはほむらを必要としてる。今、あたしを助けることが出来るのはほむらしかいないんだよ。だからもし、あたしの身が危なくなったら時を止めて助けて欲しいんだ。良いね?」
何も出来ないなんて事はない。ほむらにしか頼めない事がまだまだある。そんな風に杏子から語られ、ほむらの目は思わず見開き身体に力が入った。
その様子を見た杏子は口元を吊り上げてもう一度肩を強く叩くと、ほむらに背中を見せワルプルギスの夜へ向き合った。
ほむらにはその背中が頼もしく見えただろう。しかし背中を見せていた杏子の表情は、ほむらの思うような面影はなく冷や汗を流しながら思いつめた顔を作っていた。
その表情は、とても覚悟を決めた者の表情では無かった。
「(ソウルジェムの負担? はは、確かにそれもあるけど、本当の理由はそんなことじゃないだろ……あたしは怖いだけなんだよ。ほんとうの意味であの子に向き合うのが)」
杏子にとって覚悟なんてものはとうの昔に決めていた。
全力を出すことが恐ろしいのではない。ソウルジェムは魔法少女の魂であり、命であり、その者の感情に恐ろしく左右される宝石だ。
全ての力を解放してしまえば、抑えていた感情も解放される。それは、魔法少女として生まれ変わった切っ掛けの全てが蘇ってしまう事も意味していた。
杏子には拭いきれていない過去がある。それに対面した時、自分自身に突き立てた誓いが偽りのない覚悟だったのか。本当に向き合えているのかを確認することが恐ろしかった。
「(あたしはここにいる護りたい者を持つ人たちを護る。見滝原にいる人たちも、魔法少女も全員だ。それが難しいのは分かってるさ。けどさ、あの子もきっと。あたしたちに立ち向かったあの子も、同じ様な想いを抱いていたはずだ――そうだろ?)」
杏子はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
緊張で張り詰めた身体から自然体を取り戻すように呼吸の仕方を意識すると、胸に身に着けてあるソウルジェムへ優しく手を添えた。
無意識に制御していた己の限界を無理やり抉じ開けるように、魂の奥底に眠る魔力の本流へと意識を落とし込んだ、その瞬間だった。
『あ――たちね!悪―魔―少女――っていう――!』
ノイズが交じりながらも、杏子にとっては聞き覚えのある少女の声が聞こえ始めていた。
それは杏子の魂に刻み込まれていたとある魔法少女の声だった。
その声が聞こえた瞬間、杏子の身体は思わず硬直してしまう。だが、それも一瞬の出来事だった。
意を決していた杏子は強ばる身体なんてもので止めることはしなかった。
ただ意識を深く落とし込む。そして、意識を集中させればさせるほどにノイズが交じっていた声に鮮明さが取り戻され始めた。
『あんたたちね!悪い魔法少女っていうのは!!』
それは魂の奥深くに仕舞い込んでいた杏子の過ちだ。
限界を超える魔力を手に入れようと扉を開こうとすれば、同時に仕舞い込んでいる記憶も鮮明に映し出され始めていた。
声だけに留まらない。
妙に湿気を帯びた空気。
夕焼けに照らされ赤黒く染まった路地裏。
そして、その先に仁王立ちしている正義感に満ち溢れている緑色の魔法少女の姿が、瞼を閉じている杏子の目の前にはっきりと浮かび上がっていた。
マミと同じ位置に上り、どんな感情を抱いているのかを理解出来たとしても、未だに乗り越えることが出来ずにいた過去。
見滝原――マミから遠ざかった後も、風見野で過ごしていた時も、考え悩み続けていた出来事だ。
そんなものが鮮明に映し出されてしまえば激しく取り乱すのは時間の問題だろう。だが、それも以前の杏子であればの話だ。
「(あぁ。あんたの言う通り、あたしは悪い魔法少女だよ)」
杏子は真っ直ぐに彼女を見つめていた。
後ろめたさに駆られて目を逸らすことはない。恐怖心を抱いて脂汗が滲み出ることもない。
ただ真っ直ぐに。全ての出来事を受け止めるように見つめていた。
『この私があんたたちみたいな悪い魔法少女なんて倒しちゃうんだから! 両方かかってきても構わないのよ!』
「(あんたが生きていたら、出来たかもしれないね)」
あの時、出会い頭に捲し立てられた言葉が一言一句間違えること無く流れ込んでくる。このまま彼女が喋り続ければ、何が待ち受けているのか理解している筈だろう。
しかし杏子は少女の言葉をじっと聞き続けていた。
『あんたたちが倒されてくれれば私を助けてくれたあの人たちも喜んでくれるの! 私の命を救ってくれたあの人たちを! だからあんたたちみたいな悪い奴は早く倒されちゃえばいいんだから!』
「(そうかもしれない……けど、ごめんな。もう少しだけ待ってて欲しいんだ)」
彼女の言う通りにこの魂を望むのなら、杏子は何も言わず差し出してしまうだろう。
だが、少女の言葉を肯定して聞き続けていた杏子は、初めて困ったような表情を作り待ってて欲しいと望みを伝えた。
『い、痛いじゃないの……う、ぐぅ……それでも、まだ私は……やれるわよ!!』
「(もう少し。もう少しだけやり残してる事があるんだ。だから――)」
そうして、記憶の中にいる杏子は彼女の胸に赤い槍を突き刺すのだろう。
彼女をもう一度殺して、あの時の光景を焼き付けるのだろう。
見たくはない出来事を。思い出したくもない現実を繰り返す。
事実を受け要られた杏子にとっても耐え難いものであり、真っ直ぐに見つめていた視線を思わず下に反らしてしまう――その時だった。
『だったら……だったら顔を上げてしっかりやってみなさいよ!』
「っ!?」
録画されていた映像のように流れ続けていた内容が変わり、杏子は思わず俯かせていた顔を上げた。
これから彼女は記憶の中にいる杏子に殺される筈なのに、記憶の中の彼女は、記憶の中にいる杏子を見てはいなかった。
今の佐倉杏子に目を向けていたのだ。
『もう一度私を殺してでも悪い魔女を止めたいんでしょ!! 皆を助けたいんでしょ!? だったらちゃんと前を向きなさいよ!!』
目や耳を疑ってしまう状況や彼女の力強い問に息を飲んでしまい、杏子は思うように口を開くことが出来なかった。
『助けたいの? 助けたくないの!? どっちなのよ!!』
そんな、目を見開き驚いた表情のまま固まっている杏子に対して、少しばかりの苛立ちを含んだ声色でもう一度問いただす。情けない姿を見せる少女に活を入れるその声は、あやふやな世界に響き良く通っていた。
杏子には今でも何が起きているのか分からない。だが、目の前で起きている光景が。こうして視線を交差し、対話している現状が。自分自身の魔法により作り出した幻影だとしても構わなかった。
「(あたしは……あたしは助けたい。皆を助けたいんだ。もう、あんたみたいな子の命を理不尽に奪いたくない。そんな事をさせたくはない! あたしにはあの魔女を倒す事は出来ないし止めることしか出来ないかもしれない! それでも救える命があるのなら、あたしは最後まで足掻いて役目を全うしたい! こんなあたしでも! あんたと同じ正義の魔法少女に、あたしはなりたいんだよっ!!)」
あのとき出来なかった話し合いが出来る。言葉を交わすことが出来る。助けたいと願う想いを重ね合える。それだけで杏子は、魂の奥底から勢い良く湧き上がる力に押し出される感覚が身体中に巡っていた。
制御していた限界の錠が外れ、今まで感じたことのないような想いと力が、ソウルジェムに共鳴する感覚を。
『正義の魔法少女、か……あんたは皆を助けようとしてくれてる。魔法少女だけじゃない。魔女だってもしかしたらってね。あんたは諦めずに考えてくれていたわ』
「あ、あぁ……」
『大丈夫よ。あんたは自分が思っているよりとっても良い子なんだから。色々あったかもしれない。だけどあんたはそれから逃げようとはしなかった。全部まとめて受け入れようとしたもの』
「あたしは……あたしはそんな奴じゃないよ。自分勝手にあんたを殺した……最低な魔法少女だ」
『ちょっと! 正義の魔法少女になるんでしょ! そんな顔せずにしっかり顔を上げなさい!』
「だけどあたしは――」
『ほーら! 良いからそんな顔しないの!』
慰めるような優しい声に思わず弱音を吐き続けている杏子に向けて、少女はほんの少し怒りながらも杏子の胸に身に着けていたソウルジェムに手を添えた。
その瞬間、ソウルジェムを中心に少女の温かい想いが杏子に流れ込んだ。
「これは……」
『あんたは最低なんかじゃない。あたしだっていっぱい失敗したもん。同じ同じ!』
流れ込んでくる想いに不快感は無い。
ほんのりと感じる暖かさ。誰かが側に居てくれる様な安心感と共に、今まで雁字搦めに鎖で縛られ、鉛が重く伸し掛かっていた過ちが全て解かれ、身も心も全てが解放された気分に包まれていった。
「あんたの想いが伝わってくる……あぁ、凄く暖かいな」
『それでぇ? あんたを恨んでるって想いも伝わるかしら?』
意地悪そうに喋る少女だったがそこに悪意は微塵もなく、悪戯を成功させた子供のように純粋な笑顔を浮かばせていた。
その笑顔を見た杏子は涙を流しぐちゃぐちゃになった顔を綻ばせ、つられて笑顔を作ってしまった。
『全く、やっと笑ったわね!』
「あぁ、ごめんな。あたしが頑張らないと行けないのに」
『本当よ! 次不甲斐ない姿見せたら今度こそあたしがあんたをぶっ飛ばしてやるわよ! だから、さっさと行って止めてあげなさい?』
「うん、分かったよ」
『そう! それじゃ……頑張ってね――』
鮮明に聞こえた少女の声は、いつの間にか消えかかっていた。
杏子は思わず手を伸ばそうとしたのだが、伸ばし切ること無く腕をおろしたのだった。
「(あたしはあたしが許せないでいた。だけど、過ちを受け入れるだけじゃなく、自分自身で許すことも必要だった。あんたの想い、受け取ったよ)」
この現象を作り出してくれたであろう少女は、既に空気に解けてしまい姿を見せることは無い。
目の前で起きていた出来事が夢か現か杏子には分からない。
杏子の願いによって作り出された魔法――大切な家族を崩壊に追い込んでしまった幻覚魔法により生み出された都合の良い夢なのか、それとも杏子に巻き付いていた彼女の因果が起こした現象なのか、そんな事はどうでも良かった。
少女がソウルジェムに触れた時に感じられた暖かさ。それが本物だと言うのは、涙で瞳を濡らしている杏子にも理解していたからだ。
「(見ててくれよ。あんたにぶっ飛ばされないあたしの姿を)」
杏子の感情を。魂を。ソウルジェムを縛り付ける鎖は何もない。
「あたしは佐倉杏子。正義の魔法少女――佐倉杏子だ!!」
己の限界を超え、全ての力を解放させた魔法少女が今、誕生した。
ソウルジェムは紅い色を強烈に輝かせ、この曇天に包まれた闇の世界に灯火を生み出した。
涙で濡らしていた目元を拭い開眼する。決意に満ちた迷いのない瞳は何処までも透き通り、深紅色の宝石のように艶やかだった。
無垢な少女とは言えないだろう。人の死に触れすぎた罪深き少女かもしれない。しかし今だけは。そんな彼女の佇まいは余りにも純粋過ぎる少女であった。
「(私と同じ魔法少女とは思えないほど無垢な輝き。それでいて杏子らしい力強く生み出された魔力。美樹さんが魔法少女の契約を結んだと聞いたときに放っていた魔力なんて目じゃない力……)」
怒りに身を任せて魔力を撒き散らしていたあの時とは訳が違う。
さやかと出会い。マミに並び。迷いや戸惑い。杭のように突き刺さっていた後悔も飲み込み受け入れ、自ら許す事が出来た杏子は、魔法少女として――いや、一人の人間として成長を果たしていた。
感情に大きく影響を受けるソウルジェム。今まで溜め込んでいた感情を爆発させたその力は、確実に限界の果を突き抜けた魔法少女へと開花させた。
真紅の魔法少女は災悪の力を持つワルプルギスの夜と同じ立ち位置へ上り詰めていたかもしれないだろう――だが。
「(それだけの力を持ってしても、あの魔女に勝てないなんて一体何が起きていると言うのよ)」
ほむらの言う通り、ここまでの力を持っている杏子自身があの魔女に勝つことが出来ない。止めることしか出来ないと断言した。
魔法少女としての願いや資質を固有魔法に注ぎ込み、魔法少女としての成長を半ば諦めていたほむらにはこの戦場に介入することは難しい。そんな事は自分自身が一番良く知っている。
だが、目の前で長年戦い続けて来た宿敵と、倒せないことが分かっていても挑む仲間の姿を見るだけに留まらなければいけないのは、悔しくてたまらず血が滲むほどに強く握りこぶしを作ることしか出来なかった。
「Ahahahahahahahahahahahahahahaha!!!」
突如現れた光り輝く魔力。魔女の持つ禍々しい魔力とは正反対な性質に拒否反応を示したのか、ワルプルギスの夜は間も無く熱光線を放った。
変化前の熱光線とは比べ物にならないほどに強力であり、全力を出す前の杏子であれば受け止めることすら叶わず消し飛ばされていただろう。
だが、全てを解放させた杏子は避ける動作を見せることなく熱光線に向けて右腕かざした。
すると、熱光線から身を守るように結界を作り出される。それは何重にも重なり合い、目の前に壁を形成させていた――垂直に作るのではなく、斜めに傾けた状態で。
「っ!!」
勢い良く発射された熱光線は結界に触れると、その威力と衝撃に杏子の表情が歪む。しかし光線が結界を貫くことは無い。斜めに作られた結界に沿うように、魔女の攻撃は上空へと流れていった。
「杏子!」
「大丈夫。今のあたしなら確かに受けられるけど、背後には見滝原があるんだ。前と違ってあの威力の光線が見滝原を通り過ぎれば、その余波だけで大きな被害を受けるだろうな」
今の杏子であれば真正面から受け切ることも可能だった。
だが、あれほどの破壊力を持つ攻撃を綺麗に相殺出来るかは怪しいと判断していた。
仮に出来なかった場合、攻撃の余波が街へ襲いかかる可能性も十分にある。そう思った杏子は態と相手の攻撃を被害の出ることがない上空へ逃がすように結界を作り出していた。
「さぁ、先制は譲ってやったが今度はあたしの番だ。ほむら、危なくなったら頼んだよっ!」
攻撃を受けたときに感じた手応え。その感覚は今の状態なら戦える事が確実になり、軽い足取りで地面を蹴り上げワルプルギスの元へと飛び去った。
「うおっ!?」
しかし軽い足取りで踏み込んだにもかかわらず地面を大きく割れてしまう。
余計な衝撃が生み出された事に驚き、思っていた場所へ飛べずに空中で体勢を大きく崩してしまっていた。
「(思っていたよりも力が出やがるのか!?)」
杏子はいつも通りの感覚で力を込めていたのだが、想像以上の出力が生み出されてしまい顔をしかめていた。
普段扱っている魔力とは思えない桁違いな出力。
ソウルジェムに眠る制御されていた魔力が全て解き放たれ、ワルプルギスの夜を止める力を手に入れたのは良いかもしれない。しかしそれは、制御不能の力が杏子を振り回し始める切っ掛けを作ってしまっていた。
「(だが、今はそれで良いんだよ!)」
慣れていない力であり、その制御もままならないかもしれない。しかし魔女に当てられさえすれば何も問題は無かった。
特に今回の魔女は的が大きく、攻撃を当てられないと思うことが難しい程に巨大だ。
振り回してくるのなら存分に振り回されよう。その代わり、振り回してくる力の全てをあの魔女に与えてやろう。そんな風に考え体勢を整えながら空中に浮かんでいる瓦礫へと飛び乗り、今度は軽い足取りではなく力のままに踏み込んだ。
軽く蹴っただけで大きな亀裂を作り上げる脚力では、足場にされた瓦礫は破裂し粉々に砕け散ってしまう。細かい魔力操作が出来ない現状で、ワルプルギスの夜へと一直線に向かうことしか出来なかった。
フェイントも幻影も使わずに突進するのは極めて危険だ。
だが、目視するのが難しい速力があれば話は別だった。
「今度はあたしの一撃を食らってみろ!!」
捉えきることの出来ない速力を乗せたまま力任せに放つ大振りの攻撃は、素早く動くことが不可能な巨体では避けられず渾身の一撃が直撃した。
限界を超えた威力を持つ攻撃とワルプルギスの夜の肉体。その両方が打つかり合えば、思わず耳を塞いでしまうほどの衝撃波が生み出されるのは明白であり、その衝撃により何かが粉々に砕ける音も響き渡った。
大方、衝撃で辺りに浮かぶ石つぶてが粉々に砕け散ったのだろう。杏子はそう考えていたのだが、目の前には赤色の破片が宙を舞っていたのが見えて砕けたのが岩ではないと分かった。
しかし杏子そんな事よりもは気になっていることがあった。
手に持っていたはずの得物が無くなっている。力任せに振り回した使い慣れている赤い色の槍が見当たらない。
そう考えた時、目の前に舞っている赤色の破片が何処から来たのかが理解出来てしまった。
杏子の持っていた武器が威力に耐えきれず、粉々に砕け散ってしまったのだと。
魔法少女たちが持っている武器は決して壊れない代物ではない。武器を形成するのにも魔力を使い、その武器が如何に頑丈であるかも魔法少女の魔力次第だ。
多くの魔力を流し込めば確かに相応の力を出すことは出来るだろう。だが、身の丈にあっていない器。魔力を受け止める武器の許容量を超えていれば、そのまま破壊してしまうのは当然の出来事だった。
今の杏子には暴力的な魔力の波に振り回され、細かい操作など不可能である。
そして、今手にしていた武器は以前の杏子が作り出したものであり、その武器に合った魔力を流し込む操作も難しく、自ら武器を破壊してしまう事になってしまった――しかし。
「武器が砕けたからってぇ!」
武器が砕けようが杏子の勢いは止まらない。粉々に砕けた武器を後目に力の限り右足を大きく振り上げ、ワルプルギスの夜へと蹴り上げてしまった。
使い慣れている武器が壊れたとしても、杏子は攻撃の手を休めることはしない。
今はただ、身体の中に駆け巡る魔力を力任せに振りかざすだけだった。
「くそっ、流石に来やがったか!!」
勢いのままに攻撃を与え続けていた杏子だったが、そのまま許される訳もなく魔法少女型の使い魔が杏子を囲み始めていた。
熱光線と同様に、以前の使い魔とは見違える強さを持っている。これだけの数を素手で相手をするのは流石に骨が折れる作業だろう。
そう思ったときにはもう、杏子の右手には魔力が集まり始めていた。
「あたしは武器を作れない訳じゃないんだよ!」
魔法少女がいくつもの武器を形成するのは珍しくない。それが使い捨てられる物もあれば、常に振るわれる物もある。
杏子は幾つもの本数を形成する魔法少女ではないが、出来ないと言う訳でもなく、扱う魔法で言えば多くの武器を形成する方が得意な分野だろう。
だが、今の杏子は上手く魔法を扱えない。
内側から溢れ出す魔力が膨大過ぎる余り、何時もの使い慣れた多節棍状の槍を思うように生み出せないでいた。
それでも杏子の手元には見慣れた赤い色の武器を形成しているが、槍を伸ばし振り回す機能は付いていない、何の変哲もない赤い色の槍だった。
遠くの敵や囲まれた時に槍を伸ばし、一網打尽にする事が難しいかもしれないが、それも振るう者の力量が足りていなければの話だろう。
「消え失せろ!」
力任せに杏子が武器を振るう。たったそれだけだ。たったそれだけで大気が震え、衝撃波を生み出され、空を裂く。射線状に漂っていた使い魔はその衝撃波に身を引き裂かれ、塵と消えた。
武器を当てる必要もない。身体中に駆け巡る魔力を乗せた武器を振るえば使い魔を倒せてしまう暴力的な能力を、今の杏子は持ち合わせていたのだ。
「(攻撃範囲が馬鹿みたいに広い熱光線を出させなければ良い。こいつをあたしに釘付けにしておけばなっ!!)」
ロッソ・ファンタズマを使い面での攻撃を仕掛けてしまえば、先程のように熱光線を出されて薙ぎ払われてしまうだろう。そうなってしまえば杏子の作り出した分身だけに留まらずその土地そのものも消滅に追い込んでしまう。
魔法を使うにも使えない状況。魔法少女として致命的な状態に陥っていたが、自分自身を追い込んでしまっているその状態は杏子本来の力を加速させていた。
内側から溢れ出る魔力を何も考えずに振るう考え方が、結果的に杏子の勢いを後押しする形になり、白兵戦に専念することが出来た。
使い魔や瓦礫を飛ばされるも全て薙ぎ払い、巨体を生かした攻撃を仕掛けてくるも杏子の力任せな攻撃で難なく跳ね返し続ける。
現在の状況だけを見れば、ワルプルギスの夜が元に戻る前と同じように一方的な戦況を作り出していただろうが、それも時間の問題である事には変わりない。
「(思った以上に、消耗が早すぎる……っ!!)」
復活したワルプルギスの夜と戦闘が始まってから一分も経っていない。しかし杏子の顔色は悪くなり始め、頬には大きな汗が流れていた。
「(こちとら文字通り全力で戦ってる!さっきと違ってあたしの魔力を全開にしてんだ! たった数十秒かもしれないが、本来ならその数十秒の内に勝負を決めるのが今の状態だ! 普通の魔女なら一瞬で破壊出来る力を長期的に使ってる所為で無理が来てやがる!)」
杏子の中に内包している魔力を全て解放してワルプルギスへ立ち向かっている。
本気になったワルプルギス相手に一歩も引くことのない攻防を見せていたが、それだけに魔力の消費は想像していた以上の消耗を強いられていた。
「(そのためのグリーフシードだ! でも問題はそんなことじゃない! 目の前の敵が、ワルプルギスの夜の魔力が一切減ってないとこが問題なんだ! このからくりを解かない限り先に潰れんのは確実にあたしらの方だ!)」
グリーフシードが残っていれば消耗を気にすること無く戦い続けられるだろう。
だが、戦い続ける事が目的ではない。ワルプルギスの夜を倒すことが本来の目的だ。
そして杏子はその目的を一人でも達成出来る自信はあった。
自信もあれば実力も備わっていた。
しかし、魔女の魔力は減ること無く存在し続けていた。
「(どんな魔女だろうと魔法や魔力を使えば前兆はあるし消費もする。だが、こいつはそれが無い……こいつを止めるのは簡単でも、倒すことは出来ないって言ってんのかよ! これだけの力があっても、あたしはまだまだ無力だってのか……!?)」
目の前の魔女には、他の魔女には無い特別な仕組みが存在している。そんなことは分かっていたはずだったが、それでも倒そうと戦った。
どのような手段を用いて目の前の化け物を倒せるのか分からない。何らかの解決方法を知ってるのはマミなのは知っている。だが、その方法を使ってしまえばマミの身がどうなるのかは分かっていたからだ。
ベッドの中で漂っていた死の匂い。それは紛れもなくマミの身体から漂っていることなど杏子は感じ取れていた。
マミが来るまでに倒さなければ、ここにいる全ての魔法少女が生還して戻ることは出来ないなんてことは分かり切っていた。
それでも全ての力を開放した状態でワルプルギスの夜を倒すことが不可能である現実を突きつけられ、苦い表情を作ってしまっていたその時だった。
「ぐあっ!?」
放たれていた魔法少女型の使い魔が杏子の体を切り裂いてしまい、思考に没頭していた不意の一撃に体を歪ませる。
「(いつの間に囲まれた!? 防御――駄目だ! 魔力が足りないっ!?)」
大きく隙を晒してしまった魔法少女へ追い打ちをかけるように、空中に漂っていた使い魔達は至る所から襲いかかった。
即座に防御態勢を作るのだが、ソウルジェムから魔力を上手く汲み出せずに焦りを見せてしまいながらも、ソウルジェムだけでも守ろうと身体を丸めるが、両腕の隙間から見えた景色は巨大な影が迫って来ている景色が映っていた。
それは、魔女の巨大な腕が杏子を叩きつけようと覆いかぶさった影であった。
魔力を身に纏うことが出来ていない状態で受けてしまえば身体は粉々に砕け、ソウルジェムも同じく粉々になるかもしれない。
しかし杏子は死を覚悟していなかった。
絶体絶命の状態だとしても、杏子は信じていた。この状況から救い出してくれる魔法少女を。
「大丈夫?」
「あぁ、良いタイミングだったよほむら」
攻撃を受けるその瞬間だ。気付いたときには杏子の右手にほむらの手が握られ、周りを見渡せば世界がモノクロに変化していた。
それは、ほむらの魔法である時を止めた世界。この世界ではほむら以外の物質は動きを止め、使い魔やワルプルギスの夜も例外ではない。
どれだけ強力な魔女だとしても全てが凍りついたように固まってしまう魔法が、絶体絶命の杏子を救い出したのだった。
「信じてたよ、時を止めて助けに来てくれるってさ」
「貴女が私を信じてくれたから動けたのよ」
二人以外の時が停止した状態に入り一先ず落ち着ける事が出来たことで、杏子は先程の傷を癒そうと魔法を使い治療を試みたのだが、何時ものように一瞬にして傷口や魔法で作られた服装が傷が治ることはなかった。
それ以上に魔法を使用すると不快感や吐き気などが強く出てしまい思わず手を口元へ運んでしまう。
「杏子、そんな状態で無理に魔法を使っちゃ駄目よ。あなたのソウルジェムがもう……」
隣で見ていたほむらが杏子の胸元にあるソウルジェムへ指を差す。そこには汚れを知ることのなかった深紅色のソウルジェムがどす黒く変色し、穢れが容赦なく侵食していた。
「(道理で魔法が上手く使えない訳だ。久しぶりにここまで変色したが、やっぱり全力を出せばこうなるか……)」
杏子ほどの魔法少女が扱う力の代償は大きい。それを見せつけるように命の輝きを闇に蝕んでいた。
だが、ここまでしてもあの魔女を倒すことが出来ないと言うのは杏子にとって辛い真実であり、大きくため息を吐いてしまう。
「体力の回復が間に合ってないわ。一度美樹さんの所に戻って本格的に回復をしましょう」
「あぁ……」
そう言われながらほむらが持っているグリーフシードが変色したソウルジェムに触れあった。
どす黒い色に染まっていたソウルジェムはみるみると穢れを吸い込み始め、新品同様の宝石の輝きを取り戻していく。
不快感を取り除かれた杏子は一息を吐き、そのままさやかの元へ向かい始めていたのだが、ほむらの表情は依然として暗いままであった。
「どうしたほむら、何不安そうな顔してんだよ」
先程まで自分の無力さに打ち震えて魔女の攻撃を受けた者が言うセリフではないかもしれない。しかし、命を救ってくれた仲間の暗い表情を無視することは出来ずに声をかけると、その言葉に反応したほむらは重い口をゆっくり開いた。
「あんな姿……私は長い時間戦ってきたけど一度も見たことは無かったわ。魔法少女のまどかがワルプルギスの夜を倒す姿を何度も見てきたし、そうして崩れていく姿は杏子が倒したときと全く同じだった。でも、同じはずなのにワルプルギスの夜は元の姿に戻っただけじゃなく、今まで逆さまだった姿を変化させた……一体何が起きているのか、私にはもう分からないのよ」
今ここにいる魔法少女。ほむらを除いた三人の少女たちはワルプルギスの夜の資料に目を通したとは言え、その姿と対面したのはこれが初めてであり、変化した姿を見るのも初めてだ。
真新しい物を見ている少女たちと比べ、ほむらは長い時間ワルプルギスの夜に対面し、長い時間乗り越える敵として資料を集めていた少女である。当然見慣れない変化を遂げたワルプルギスの夜に対しての驚きも大きく、今まで集めていた資料が無駄になる可能性も突きつけられたのだ。
ほむらの思っている以上にその絶望は大きく、変化したワルプルギスの夜に対して戦いを挑むのは無謀だということも理解出来ている事もあり、表情を暗くさせる要因を助長していた。
だが、話を聞いていた杏子は軽く笑みを浮かべ、ほむらの身体を抱き寄せ、安心させるように頭を撫で始めていた。
「倒せない魔女はこの世には居ないよ。あたしたちが知らないだけで、何かしらの方法で倒すことは出来るはずだ」
弱音を吐いているほむらとは対照的に、杏子は至って普段通りに受け答えをしていた。
それがほむらには不思議でならなかった。
何故この状況でそこまで言えるのだろうかと。
「杏子は何を知っていると言うの?」
「知ってるっていうか、ワルプルギスの夜を倒せない理由は何となく分かるんだよ。ほむらの持っていた資料とキュゥべえの言葉にマミの意見。その三つであたしの中にとある仮説が出来上がった。その仮説が正しければ、あの魔女を倒せるのは確かにまどかしか居ない。もしかしたら、仕組みみたいな物が作り上げられているんじゃないかってな」
「仕組みですって? 何を言っているよ。まどかにしか倒せないってそんなこと……」
「言っただろ、あたしも本当の所は分からないって。その解決方法もまだ教えられてないから、あたしもお手上げ状態だ」
「教えられてないって、まさか――」
まるで誰かから伝えられたような言い方をしている杏子に、ほむらは何かを察した様子を見せると、それを見た杏子も静かに頷いた。
「この話には勿論マミも関係している。仕組みを解く方法もあいつが握ってるはずだ。あたしの役目はワルプルギスの夜を倒すことが出来るなら倒してしまう。それが出来ないのなら食い止めるだけだ。まぁ、結果はご覧の通りだけどね」
自虐したような笑みを浮かべながら肩を竦ませた杏子だったが、その言葉と裏腹に酷く悔しそうな雰囲気も混じらせていた。
時を止めながらさやかの所へ向かった二人は、そのままさやかの手を握りほむらの世界へと誘う。
「おわっ!……って、杏子!!」
「よう、無事そうだな」
「ちょっとちょっとあの魔女どうしちゃったの!? 回転しちゃったんだけど!」
突然手を掴まれたことに驚いたさやかだったが、杏子の姿が目に写った事。握られた先の人物がほむらであることに気付き落ち着きを取り戻すのだが、それとは別にワルプルギスの夜の変わりように戸惑いを隠せない様子を見せていた。
「悪いけど説明する暇は無い。一つだけ言える事はあいつを食い止めるのがあたしの役目だ。その為にも回復を頼めるか?」
「え? う、うん、分かったよ」
杏子とさやかの身体に触れたままのほむらや、モノクロの世界を解くことなくお願いする杏子。時を止められる時間は有限であることを知ってるさやかは、疑問が多く残りつつも杏子の指示通りに回復魔法を使い始めていた。
「砂の量はどのぐらい残っている?」
時を戻せば標的にされている杏子に向けて遠距離攻撃や瓦礫か使い魔。最悪広範囲に亘って被害をもたらす熱光線を放たれてしまう。被害を広げてしまう事を懸念していた杏子たちは時を止めたまま回復に専念していたのだが、それは時を止める砂を消費し続ける事を意味していた。
これまでの戦いの中でどれだけ消費しているのかも分からない。ほむらの魔法はこの戦いに於いて貴重な戦力であることから少しばかり心配していたのだが――
「大丈夫。杏子たちのお陰でまだまだ余裕があるわ」
誰かに頼ることを半ば諦めていた他の時間軸とは大きく違い、四人の魔法少女でワルプルギスの夜を迎えられた。
たった一人のみ最前線で戦う事を余儀なくされることもなく、消費する砂も少なく済むのには十分な理由であった。
その証拠に身に付けている盾を開いて見せたとき、そこには思っていた以上の砂が残されていた。
「(ほむらの魔法が使える間はある程度安全に戦い続けるれる。だけど元凶のワルプルギスの夜を倒せない限りは、結局現状維持の一手しかないか……)」
時を止められる時間やグリーフシードが多く残されていると言っても何れは限界を迎える。しかしこの状況を打開する手段が一つもないことも事実であり、八方塞がりな現状は変わらないことに眉をひそめてしまっていた。
そう思いながら辺りを見渡せば、さやかがいる位置よりも後方で壁を作るようにリボンを展開しているマミの姿が目に映る。
「なぁさやか、マミは動きを見せたりしたか?」
「動きは見せてないけどなんていうか、こっちで魔力を使う量が増えた気がするよ。最初は人命救助優先で魔力を使えなかったけど、今はある程度終わってこっちにも集中出来るようになったんじゃないかな」
大半の使い魔は杏子が引き受けている。現在のワルプルギスの夜から生まれだす使い魔は先程と比べれば飛躍的に強さが増していた。
魔法少女になったばかりのさやかでは、後方に流れ込んでくる使い魔達を対処するのは難しい筈だ。
それでも戦況維持出来ていたのは更に後方に立っているマミの人命救助が終わり、ある程度の余裕が生まれて支援が増えたおかげだろう。
「(って事はもうすぐであいつも合流しやがんのか?……くそ、見滝原に包まれたあいつの魔力と混じって見つけにくいか)」
瞳を閉じ、集中して魔力を感知しようと試みていた杏子だったが、上手く魔力を扱えない状態に加えて移動しているはずの魔力が小さすぎていた。
何処にいるのかは分からないが、何かしらの動きを見せているのならば合流するのも時間の問題だと考えていると、身体を包んでいた癒やしの魔法が消えていくのを感じた。
「杏子! 回復魔法と強化魔法使い終わったけど調子はどう?」
回復魔法を専門にしている少女からの治療が終わり身体を軽く回し始めるが、異変や違和感が見当たらない無いことに小さく頷いて見せた。
「ん、大丈夫そうだ。魔法が身体に馴染んでるし力が湧いてくるよ。ありがとうさやか」
「あたしはこれぐらいしか出来ないからね。後は杏子に任せたよ」
お礼を言われたことにさやかは笑顔を見せていると、そんなさやかの表情を見た杏子も柔らかい笑みを浮かべる。だが、身体の異常が治ったことが分かるとワルプルギスの夜に向き直り、瞳に輝きを灯らせソウルジェムの奥底から魔力を放出させた。
「分かってると思うけど二人共、今まで以上に気を付けなよ。あいつの魔力を感じた通り今までとは桁違いに強力だ。あたし一人で押さえられる範囲も限られてるから攻撃の余波が来る可能性もあるけど、それでも生き残って帰らないといけない。あたしたちにはまだ、護るべき人や帰りを待っている人がいるんだからな」
「分かってる。まどかを護るまで私は死ぬ訳にはいかないもの」
「あたしだって! それに、一番危ないのは杏子でしょ? 無事に戻って来てくれたら何度でも回復してあげるからね!」
ここにいる魔法少女。ほむらとさやかの二人は杏子のように圧倒的な魔力を持っておらず、ワルプルギスの夜を一人で抑え込める事が出来る魔法少女ではない。目の前にいる魔女の攻撃を一人で対処することが難しいだけに、その不安は大きいはずだろう。
しかし杏子に答える声にはまだまだ活気があり、それだけ信頼があることなのかもしれないと考えた杏子は、緊張していた表情を少しだけほぐすように微笑んでいた。
「(必ずあたしが……いや、あたしたちが必ず持ち堪えてやる。だからマミ、一秒でも早く戻れよ)」
救助を続けているであろう少女が最前線に合流するまで、どれ位の時間が必要なのか分からない。
目の前の魔女を倒すことは今のままでは不可能だと分かっていても、魔力を振り絞り立ち向かうしかない。
それを理解している杏子は耐えるばかりの戦場で、絶望を振り払うようにソウルジェムを煌めかせたのだった。
全ての魔力を解放した杏子と、変化を遂げた魔女との戦い。その影響は戦場だけに留まらず、まどかがいる避難所にも影響が出ていた。
世界最大規模のスーパーセルとは言え、その被害で出されたとは思えない音が鳴り響く。
硬い物同士が強く擦れ合う事で鳴る金属音。大量の火薬に着火させた様な爆発音。それらは凄まじい威力持ち、音が鳴る度に衝撃波が生み出され、大気は震え、その衝撃波が空気を伝って避難所へと降り注いでいた。
本来であれば避難所内はパニックを起こしているはずだが、中にいる人々は無理矢理移動することなく不安そうに空を見上げるだけに留めていた。
それはマミによって作られていた結界によりその衝撃や音。風の威力を和らげる働きをしていたからであった。
だが、不安そうに怯えることしか出来ない人々は、空一面に敷き詰められていた濁った雲を見続けることしか出来ずにいた。
「……」
そんな人々と同じく空を見上げていたまどかだったが、台風に怯えている様子を見せること無く、魔女と戦っているであろう魔法少女たちの無事を祈るように空を見つめていた。
現在見滝原を襲っている大型台風がある意味人工的に作られたものであり、その元凶を潰そうと戦っている者たちがいることを知っているのは、この場にまどかしか存在しない。
知っていた所で無事を祈ることしか出来ないが、そんなまどかはおもむろに立ち上がりその場を離れようとしていた。
「どうしたまどか?」
「お手洗いに行ってくるね。すぐ戻るから心配しないで大丈夫だよ」
突然立ち上がった娘を心配した詢子は母親として当たり前のように声をかけたのだが、特に何もない用事だとまどかは答えていた。
お手洗いと言うには急ぐ様子もない足取りでその場を立ち去り、廊下へ向かう後ろ姿には何処となく強い意志を感じられた。
隠しきれていないその意志。そして、まどかの口調には嘘が交じる雰囲気があることを詢子は見逃さなかった。
まどかの瞳の奥に、何かを決意したものが抱いている輝きを含んでいたことに気付いていた。
そんな雰囲気を持ちながら立ち去っていくまどかの背中を、詢子は何も言わず静かに見つめていた。
まどかが向かっていたのは避難所にある広い通路だった。
全面がガラス張りにされたその通路は、大型台風に苛まれているこの状況では近づくのには自殺行為だろう。いつ飛来した立体物が接触してガラスの破片が飛び散るのか分からない。
しかしまどかは怖がる様子も見せずに手すりにもたれかかり、外の風景を眺めていた。
住民が集まっていた室内よりも外の様子が一面に映し出され、ガラス張りから見える光景は激しく揺れる木々や物が吹き荒れる空模様だけではなく、杏子たちが作り出しているだろう爆音による光や衝撃らしきものが一段と透き通って見えていた。
まどかはじっと、手すりに体を預けながらその様子を眺めていたのだが、数分経たずして何者かの足音が聞こえてきた。
靴が床に触れる硬い音ではない。余りにも柔らかい足音が向かって来るのが分かり、まどかがそれに気づいたときにはもう、隣には先程まで姿を現していなかった白い獣――キュゥべえが、小さく座っていた。
まどかはいつの間にかキュゥべえがいることに何かしらの反応や驚く様子も見せず、寧ろ隣に座っていることが当たり前だったと言うようにそのまま喋りかけ始めた。
「あそこでほむらちゃんたちが戦っているんだよね」
「そうだね、魔法少女や素質を持っていない人にはワルプルギスの姿は観測できない。自然災害である台風として見られているけど、まどかの言う通り今も戦い続けているよ」
不自然な曇り空が浮かび上がり数十分。魔法少女と魔女との戦いを詳しく見眺めたことがないまどかでも、この数十分がどれだけ長い時間であることは理解していた。
ほむらから渡された資料。それに載っていた巨大な魔女とあの少女たちは今も尚戦い続けている。
宝石に魂を閉じ込めた、傀儡人形のような身体にさせられた少女たちが戦い続けている。
大切な親友や先輩。新しく知り合えた友たちが血を流し戦い続けている。
キュゥべえが当たり前のように語るその言葉だけで、まどかは胸に鈍い痛みを走らせていた。
「ほむらちゃんたちは……一体、いつまで戦い続ければ良いの?」
一体いつまで戦い続ければ良いのか。その言葉には多くの意味が込められていた。
ほむらが同じ時を巻き戻す運命から外れる道を。
魔法少女同士で戦わなければならない定めを。
絶望の果に化け物へと生まれ堕ちる運命を。
この世に生きる――過去も未来も、全ての魔法少女たちが救われる世界を望むまどかの想いが込められた言葉だった。
「進行は食い止められているだろう? 実際に、避難所に通るはずのワルプルギスの夜は来ていないからね」
だが、人間の想い――感情と言うものを理解出来ない。理解する道を諦めている生物たちは、淡々とまどかの質問に回答するだけだ。
「それに、彼女を倒すことは今いる魔法少女が何人集まろうと難しいだろう。マミたちがいくら強い力を持っていても、食い止めるだけで精一杯なのさ」
キュゥべえが語る通り、まどかたちが滞在している避難所はワルプルギスの夜の通過経路である。
本来ならば通過していても不思議ではない時間が経っているのだが、その避難所の中にまどかたちが無事でいると言うことが杏子たちの結果だろう。
しかし、キュゥべえは続けざまに語った。魔法少女としての力を持ってしても、多くの魔法少女が集まったとしても、ワルプルギスの夜を打倒することは難しいと。
キュゥべえは人間が扱う嘘を言わない
実際に強力な力を持った魔法少女たちが束になっても、あの魔女を倒すことは未だに出来ておらず、杏子ですら食い止めることが限界だと言い切っていた。
白い生物の言う通り、あの魔女を滅ぼすことは不可能に近いのだろう――だが、そんな魔女を。完全に消滅してしまえる方法をまどかたちは知っていた。
多くの魔法少女が集まったとしても倒せない魔女を、たった一人の少女の願いが――まどかが魔法少女になってしまえば、そんな災悪を消し去る事が可能だった。
「(私が願いを叶えてしまえば、全てが終る)」
まどかが願いを叶える。
それは、先の見えない程に途方もない戦いを続けるマミを。
まどかを救うために時空の狭間に囚われ続けているほむらを。
愛している親友のために命を投げ捨てる覚悟を持ってしまったさやかを。
両親を亡くし、残された唯一の家族である妹を護る杏子を――救うことが出来る。
「(私が願いを叶えてしまえば、ただそれだけで……)」
取り巻く全てを救い出し終わらせることが出来る。
救済を望む少女の想いは、その身に巻き付いてしまった数多の因果の糸を揺れ動かした。
「キュゥべえ、前に言ってたよね。私が魔法少女にならないとワルプルギスの夜を倒せないって」
「僕たちは嘘を言えない。君が魔法少女になれば、彼女を倒すことは実に簡単だ。君が願いを叶えてしまうだけで、この戦いに終止符を打てるだろうね」
宇宙の中心となってしまった小さな器に、まどかたちの願いが満たされ始めた。
芽生えてしまったその想いに触れてしまえば必ず成就するだろう。
「私は……私が魔法少女になることでしか救えない物語があるのなら、私が叶える願いは戦いを終わらせる為だけじゃない。全ての魔法少女を救う魔法少女になりたい。ほむらちゃんだけじゃない。過去や未来。全ての宇宙に存在している魔法少女の魂の救済を、私は願うよ」
キュゥべえの問に呟くように答える願いが、たとえ宇宙の根底を作り変えてしまう願いだとしても。
異様な静寂が辺りを包み込む。
全てを救うと語る少女の瞳には、驚異的な力を手に入れた魔法少女たちにも引けを取らない気迫を生み出し、その背後からは神々しい雰囲気がゆらゆらと映し出され始めていた。
「全ての宇宙にいる魔法少女の救済? 君は……それがどんな願いなのか理解しているのかい? そんな事をしたら、世界が書き換えられてしまう程の願いになってしまう。それだけじゃない。君という存在は無くなり、一つの概念と化してしまうだろう」
「それでも私は願うよ。もう誰も傷付くことの無い世界を、全ての魔法少女が救われる世界を作ることが出来るのなら、私が願い――叶えてみせる」
まどかに眠る因果。数多くの命を焼べなければ延命出来なかった宇宙をたった一人で解決してしまう程のものをたった一つの願いに注ぎ叶えようとした。
この世の全てを変えてしまう願いだとしても。キュゥべえの言う通りに概念となり、鹿目まどかと言う存在が消滅したとしても、全てが救われるのなら受け入れる覚悟を宿していた。
少女たちが受けてきた絶望の全てを受け入れる器や素質を、彼女は既に持ってしまっていた。
たとえこの世界が少女の思い通りに作り変えられるとしても、願いを叶えることしか出来ないキュゥべえはその想いを止めることはしない。
感情のない生物はまどかを説得することも無く受け入れるだけであり、二本の白い触手をまどかへと伸ばし始めた。
「(ごめんねほむらちゃん。マミさん。さやかちゃん。杏子ちゃん……だけど、皆が争わない世界を私が作るから。皆が安心して生きて欲しいから。そのためなら私は、魔法少女になるよ)」
願いを受け入れられれば少女の魂はソウルジェムへと作り変えられ、魔法少女へと生まれ変わる。同時にこの世界は終わりを告げ、まどかと同じように新しい世界に生まれ変わるだろう。
世界はそれを拒みはしない。彼女がそう願うのならば、世界もまた同じように願うだろう――だが、一人の魔法少女は否定する。
まどかの思い描いた世界など、到底許容することは出来ないと言うように。
「まどかさんっ!!」
「マ、マミさん!?」
キュゥべえから伸ばされた触手が届く瞬間、突如現れたマミがまどかの腕を引き、二人の間へと割り込んだのだった。
「はぁ……はぁ……」
「マミさん、どうしてここに」
「本当に、本当に焦ったわよ……異様な雰囲気を感じ取ったと思えばやっぱり、まどかさんが願いを叶えようとしていた、なんてね……」
普段の冷静な姿を脱ぎ捨てるように肩で息をして見せ、焦りで口数は多くなり、表情には冷や汗を流していた。
「やぁマミ。どうしたんだいこんな所で? ワルプルギスの夜と戦っているんじゃなかったのかな」
魔女と戦っているはずのマミが避難所に現れたことでまどかは混乱していたが、感情のないキュゥべえはいつも通りの調子で質問をしていた。
しかし、当の本人は質問に答えること無くまどかの顔を見つめる。そのまま息を整えつつも、何時ものように優しく語り続けた。
「大丈夫よ、まどかさん。ワルプルギスの夜は必ず私が倒します。貴女が魔法少女に生まれ変わる必要……ましてや、存在を消してしまう程の願いを叶える必要は無いのよ」
「それでも、キュゥべえが嘘を言うことは無いんですよね。私が魔法少女にならなければあの魔女を倒せない。私が願いを叶えないと、皆を助けることは出来ないって」
まどかが願いを叶えてしまえば、この状況を確実に変えることが出来る。それは、全ての救済に繋がる最も近い答えであった。
「そうね、確かにまどかさんの言う通り、キュゥべえは嘘を言わないし、貴女が魔法少女になれば皆を助けられると思うわ」
「なら――」
まどかの考えが間違いではない。その通りだと肯定している姿を見せると、まどかは続けざまに口を開こうとしたのだが、その唇はマミの人差し指によって止められてしまう。
「言っていることは正解かもしれないわ。でもね、私達が直面している問題の回答は一つだけじゃないと思っているの。まどかさんが出した答えは、その中でも最も近くて最も簡単で、考える事を止めてしまった人の答え……私と同じね」
「マミさんと同じ、ですか?」
まどかの答え。それは、考える事を止めてしまった人の答えと言うのだが、そんな答えが自分自身と同じだと語るマミに聞き返す。
「まどかさんは私がこの世界で成し遂げようとしている事は、何となく理解しているかしら?」
成し遂げる目的は何かと聞かれ、まどか思わず口をつむいでしまう。まどかが想像している救いとは程遠い手段が、彼女は行おうとしていたからだ。
「まどかさんが想像している通り、私は魔法少女や魔女を一人残らず抹殺するつもりよ。それが世界の平和に繋がると信じてね。でもね、世界の平和を望んでいるのなら、態々少女たちを皆殺しにする必要が本当にあるのかしら? 他にも方法はあるとは思わないかしら?」
「そ、それは……」
眼の前の少女は魔法少女たちを手にかけている。人間の皮を被った化け物と見なし、殺すことを躊躇することはなかった。
現に今の見滝原にはマミ以外の魔法少女は存在していたのだが、その人影を見ることはもう出来ない。
マミにとってその行動は、見滝原に住んでいる人々の安全を考えて行っている。魔法少女が魔女という化け物に変化し、住民に無差別な悪意が降り注がないように。
だが、マミが言う通りに他にも方法は無かったのだろうかと考えないはずがなかった。
魔法少女の仕組み。魔女との関係性。この世界への被害。多くのことを語られ、魔法少女たちを殺し回っているその行動原理もまどかは理解出来た――が、殺す以外の選択肢を取る事は出来ないのかと、疑問に思わないはずがなかった。
「ふふ、まどかさんは優しいわね」
まどかの表情に出ていたのか、マミはくすりと笑いながら語り続ける。
「まどかさんの言いたいことは尤もよ。だけど、あの時の私にはそんな事を考える余裕なんて無かった。何もかも嫌になっていた私はね――考えることを止めちゃったの。考えることを止めて出した答えは貴女と同じ最も簡単な手段だった。それが、全ての魔法少女を無に帰すこと。私は皆を救うことを諦めちゃった魔法少女なのよ」
「それは……私が取る選択も、マミさんと同じ事をしているって言いたいんですか?」
「ええ、少なくとも私にはそう思えたわ」
皆を救おうとしている願いが、マミが行っている行動と同意義だと言われてもまどかには理解が出来なかった。
「私が願いを叶えてしまえば全てが上手くいきます。マミさんが殺してきた魔法少女たちも全て救い出すことだって……!」
「救う事は出来るでしょう。だけどね、貴女の犠牲で成り立った世界で救われた人々は本当に報われるのかしら? 残念だけどそんな事は不可能よ。私達が行おうとしている救済に都合良く全ての人間が救われる結末なんて存在しない。必ず誰かが不幸になってしまうはずよ。それは、貴女自身も分かっているもの」
「……」
誰かが不幸になると言われ、一番初めに浮かび上がった顔はほむらだった。
何度も何度もまどかに縋るように悲願して来たほむらを裏切ってしまう。さやかやマミ。杏子に対してもそうだ。
魔法少女になってはいけないと言われ続けても願いを叶えようとしていた。
この世界にいられなくなると分かっていても、それで全てが救われるのならと思っていた。
「まどかさん。貴女は巻き込まれてしまっただけの人間なの。持つべきものではない力を持ってしまった、ただの人間。でも私たちは違う。私たちは人間の理を破り魔法少女に生まれ変わってしまった化け物よ。そんな化け物たちは、貴女が人間であり続けることが最後の望みなの」
「それでも、ワルプルギスの夜を倒さないと……皆を救わないと……」
虚ろに輝く瞳を持ったまどかは呟くように全ての救済を求めていた。
ゆらゆらと揺れ動く身体。その身体を抱き止めたのは、他でもない
「まどかさん。私は全てを救う魔法少女にはなれなかった。でも、
「私が……私が願いを叶える事無く、ワルプルギスの夜を倒す。そんな答えを、マミさんは知っているんですか?」
答えは幾つもあると言ったように、眼の前の少女はあの魔女を倒すと豪語した。
一体その方法とは何なのか。まどかはその先の話を聞こうとしていたのだが、抱き締められていたマミの腕は解かれ、その代わりまどかに向けて腕を伸ばしていた。
まるで、まどか自身がその手を取る事を決めさせているように。
「さぁ、行きましょう。私はまどかさんを迎えに来たの。貴女が魔法少女にならなくても良い。世界を変えなくても良い。あなたがあなたらしく、人として生きていける未来を、まどかさんの目で確かめてもらうためにね」
魔法少女でも魔女にも詳しくないまどかにとっては、手を伸ばして来ている少女が何を考えているのかを察する事は出来ない。その場を振り返り白い獣へと手を伸ばせば、まどかの望む願いが確実に手に入るだろう。
しかしその考えはきっと、本当に魔法少女にさせないように考えてくれているのは理解していた。
魔法少女に生まれ変わることのない未来。
その未来を見せると言うのならばきっと、その未来を見せてくれるのだろう。
そう思ったときにはもう、伸ばされた手を掴もうとまどかも同じように伸ばし始めていた。
今まで避け続けていた魔法少女の世界へ足を踏み入れる。一人の人間は、
「何処行こうってんだ? オイ」
まどかの身体を引き寄せたのは、まどかを不審に思って追って来た詢子であった。
「マ、ママ。どうして……!」
「あんただな。最近まどかの様子が変わった原因は。多分、ここにいないさやかちゃんも関係あるはずだ」
絢子はマミの姿を見たことがなければ声を聞いたこともない。しかしマミが身に付けている不思議な衣装や、自分の娘と同じぐらいの子供とは思えない異様な雰囲気から、明らかに唯事ではない気配を感じた瞬間にはもう、まどかの身体を抱き止めていた。
「避難所の連中が大きな声で言ってはなかったが、黄色い衣装を身に付けた少女に助けられたって言ってる奴らがいた。それがあんたを指している事は分かっているが、あたしの大切な家族は――まどかは何に巻き込まれてやがる、答えな」
眼の前の少女から異様な雰囲気を感じるかもしれない。人一人では抑えられない不思議な力を持っているかもしれない。しかしまどかの母親である詢子にはそんなものは関係が無かった。
大切な家族を護る。たったそれだけの理由で良かった。
詢子にはそれ以外の理由など必要は無かった。
まどかを護れるのなら、その身を挺してでも動かしてしまえたからだ。
家族を護る意思表示しているかのように鋭い目つきを浮かべている詢子だが、それとは対照的に睨まれているはずのマミは笑みを浮かべてしまっていた。
「(優しいまどかさんとそっくりだわ。こんなに優しい人を、私は最後まで護れるのね)」
一般人に睨まれた程度で、と言った余裕から来ている笑みでは決して無い。その笑みには嬉しいと言った感情や、護ってくれる母親がいる事が羨ましいとも言える感情が入り乱れていた笑みだった。
「(何だ……? いきなり笑ったと思ったら羨ましげな目線を送りやがって、一体何考えてやがんだ?)」
異常なまでに感性が鋭い詢子はマミの浮かべる笑みに眉をひそめてしまうが、いきなり現れてしまったまどかの母親に向けてマミは口を開いた。
「まどかさんのお母さん。私の名前は巴マミと言います。先ずは、大切な娘さんを何度も連れ回してしまったことを謝罪します。ですが、さやかさんとまどかさんが巻き込まれている理由に関しては、今は詳しくお答えすることが出来ないんです」
「まぁそう言うだろうと思ったが、それでも私の大切な愛娘が危ない目に巻き込まれてんのにハイそうですかって言う訳にはいかないんだよ」
「ええ、私もきっとお母さんの立場ならそうすると思います。私の母も……生きていたのなら、同じようにすると思います」
まどかを避難所から連れ出そうとする行動は、最早マミ個人の自己満足に近い行いだった。
これから先の未来。世界を作り変えてしまう程の因果を持つ少女が存在し続けた場合、何を切っ掛けにして願いを叶え、何を望み世界を作り変えてしまうのかは分からない。だが、少なくともその可能性が0%だと言い切れる保証は無いだろう。
救いを願い、望みを叶えてしまえばきっと、世界にとっては良い方向へ進むのかもしれない。
しかしそんな事をすれば願いを叶えた本人は本当に幸せと言い切れる未来が訪れるのだろうか。
まどかの周りにいる人たちは、まどかを人柱にした世界で暮らすことが幸せだと思うのだろうか。
さやかやほむら、そして眼の前にいる心優しいまどかの母親は、そんな事を望むのだろうか。
まどかの存在が概念と化して作り変えられた世界で、愛情に包まれながら迎えられた愛娘が消え去った世界で、不幸を感じる暇も無く、只々理由も分からないまま何かがぽっかりと無くなってしまった喪失感に駆られてしまう世界を作ることが、本当にまどかの望む世界と言えるのだろうか。
この見滝原を護り続けていたマミにはそんな風には決して思えなかった。
「――私には、愛する二人の両親がいました。私には勿体ないぐらいに素敵な両親でした。ですが、私の身勝手で愚かな決断で、その両親を救える立場にいたにもかかわらず、両親は命を……まどかさんは私と同じ立場に立たされています。私はそれを無視することは出来ない。まどかさんや、まどかさんのお母さんには私と同じ想いをさせたくはありません。ですが、今なら私が助け出すことが出来る。それだけなんです。その為にもまどかさんには私の側に居て欲しいんです」
「お前……」
魔法少女の世界に関して何も知らない絢子には、マミが語っている意味は何一つ理解出来る立場ではない。
しかし目の前にいる娘と同じ年頃の少女が、全てを悟ってしまった表情を作らざるを得なくなるまで追い込まれている。その意図を汲み取れてしまうだけ、状況が如何に急を要するのか理解出来てしまっていた。
「どうして、どうしてまどかなんだ。言っちゃ何だが、私の娘はそこまで特別な環境に居た訳じゃないんだ。あんたみたいな、不思議な力を持っている訳じゃないんだよ」
何の変哲もないと言うのは自分の愛娘に対してあまり使う表現では無いかもしれない。しかし特別何かの危険に巻き込ませるような育て方もしていなければ、特殊な環境に置いていた訳でもなかった。
だからと言って、他の追随を許さないほどの特別な力や秀でた才能を必ず持っていて欲しいとも思ってはいなかった。
誰かのために心を痛め、手を差し伸べてしまう心優しい子に育ってくれた。
意識して出来るものではない。それを出来るだけで母である絢子はまどかの事を自慢の娘だといつも思っていた。
そんなまどかが何故、ここまで重要視される立場に立たされてしまったのか。絢子には到底理解が追いつかない話であり、言い方が悪くなったとしても聞かざるを得なかった。
「まどかさんはある日を境に強制的に巻き込まれてしまった被害者です。ですが、まどかさんの存在は私たちの世界に――いえ、この世界に大きな影響を及ぼしてしまう可能性が分かりました。それを回避することはもう、私たちの力を持ってしても出来ませんでした。それでも私はまどかさんが普段の日常を取り戻すために。この世界の未来を護るためにここにいます」
目の前に立っている絢子のように、人間である少女の帰りを待っていてくれる存在がいる。願いを叶えてしまった魔法少女たちとは違う、正真正銘の人間であるまどかには手を差し伸べられる。
まどかの親友であるさやかを救えなかった後悔。
願いを叶えた内容が癒やしの類であれば救えたかもしれない。それ以上に、魔法に対しての理解力や知識があれば、キュゥべえの代わりに望みを叶えることが出来たかもしれない。
今更考えた所で全て過ぎてしまった事であり、変えることは出来ないだろう。
しかしこれ以上は、見滝原を護ることや世界を護ると誓ったマミには手放す事は出来なかった。
眼の前の少女を手放してしまえば、この世界は地獄へ変えられる可能性も含んでいた。
最早手段を問うことなど出来ない。たとえ己の全ての力を――命に代えてでもまどかを救う。
それが、今この世界を護る唯一の方法だと信じていた。
マミの覚悟を感じ取っていたまどかは、前へ進もうと足を動かし始めた。
しかし身体は動かない。まどかを引き留めようとする絢子は、まどかを離そうとはしなかった。
「ママ、ごめんなさい。私が行かないといけないんだ。みんなが待ってるから」
「てめぇ一人のための命じゃねぇんだ!」
絢子には理解出来ない世界がある。眼の前にいる少女が語り出した話は余りにも並外れていた。
その話に自分の娘は巻き込まれてしまい、彼女は護ろうとしてくれている。きっとその言葉に嘘偽りはないのだろう――だが、外は激しい風に見舞われ、飛来物も多い。人間が外を出歩くには余りにも危険過ぎていた。
それだけではない。最悪の場合まどかがこの世からいなくなってしまう可能性も考えられてしまった。
そう考えても仕方がないだろう。どんな理由があれ絢子の大切な娘は不思議な力も持っていないただの人間だ。
十分に身を守る力もないただの女の子だ。
「あのなぁ、そういう勝手やらかして、周りがどれだけ――っ!」
絢子はそう思ったからこそまどかを離さなかった――だが、それは違っていた。
「私じゃなきゃ駄目なの」
まどかの瞳の奥底から感じる同じ人間とは思えない気配に、絢子は気を押されて息を呑んでしまっていた。
目の前の黄色い少女と同様。いや、それ以上の雰囲気をまどかから感じ取り、最早巻き込まれただけとは言えない状態に陥っているのだと理解してしまった。
「安心してください。今日限り、私は今後一切あなた方に関わることはありません。もう二度と私の姿を目にすることは無くなります。だからお願いします。私の最後の願いを、叶えて下さい」
「……何を言ってるの? 最後って? どういう事なの?」
「あたしは……あんたたちが何をするのかは分からないし理解は出来無いだろう――だがなぁ!!」
もう二度と現れることはない。そう伝えながら頭を下げるマミに、まどかは不安げな声を出していた。
何を言っているのかわからない様子のまどかとは対照的に、隣にいた絢子は身体を震わせながら口を開いた。
「今から死ぬんだって表情してる子供を止めない大人だと、あんたはあたしを見てそう思ってんのかっ!? ふざけんじゃ無いよ!!」
絢子は声を荒らげてマミに伝えていた。マミから滲み出る隠しきれていない死臭は絢子にも伝わってしまっている。
「もしも、私の事を思ってくださるのでしたら、どうかお願いします。私にまどかさんを。貴女を。皆さんを最後まで護らせてください」
分かっていた。まどかだけではなく、眼の前の少女に何を言っても言葉が届かないことなど詢子も理解していた、
そして眼の前の少女を止めてしまえば、代わりに娘が何処かへ消えてしまうのではないかと言う事も。頭に過ってしまったときにはもう、まどかを掴んでいた手が思わず緩み、まどかはマミの下に走って行った。
マミは顔を上げ、まどかの腰に手を添えて、その場を立ち去ろうとしていたのだが、背後から声が聞こえてくる。
「マミちゃんって言ったね……マミちゃんが今までどんな育ちをして、どんな世界に足を踏み入れていたのか今のあたしにはまだ分からない。だけど、これから分かり合うことだって出来るんだ。遅いことなんて無い。マミちゃんはまだまだ子供で、大人に甘えても良い娘なんだよ。甘えられる大人が居ないなら、あたしたちの家に遊びに来な。私の夫が作った料理は美味しくてね、すっかり胃袋を掴まれちまってんのさ。思わず何度も食べに来たくなるって。きっとマミちゃんも、そう思うはずだよ」
引き止めるような声色だった。
絢子自身も何をしても無駄だと言うのは既に理解していた。
それでも、死ぬ気でいる彼女の心を揺さぶれるのなら。ほんの少しの可能性をかけて、万が一でも引き止めることが出来るのならと思い声をかけていた。
それを最後まで聴いていた少女は立ち止まり振り返る。
「ありがとう、ございます」
子供らしく甘えても良い。そう言われたからだろうか。魔法少女の真実を知り、それまで閉ざしていた感情を開けるようにマミの表情は柔らかい笑顔を見せていた。
魔法少女としての存在意義で作られる表情ではない。16歳にも満たない少女として、子供らしい笑顔を見せていた。
これから命を散らせる少女とは思えないほど、人間の頃を彷彿とさせる笑顔を浮かべていたのだった。
絢子が瞼を閉じたときにはもう、目の前にいたはずの二人は消えていた。
ここから去ったことを知ると、大きなため息を吐きながら手すりにもたれ掛かかっていた。
「眼の前で子供が……娘と同じ年頃の女の子が消えちまう姿を見せられて、それを止めることが出来なかったんだぞ……くそっ」
絢子にとってあの少女のことは、まどかから聞いた話以上の事は何も知らない。しかし、実際に会って話してしまえばある程度の事は分かってしまうのが絢子という人間だった。
無駄だとは分かっていても声をかけるしか無かった。少女の意志が強すぎると理解出来ていたとしても、声をかけるしか無かったのだ。
きっと、あの笑顔が絢子の見る最後の笑顔になるだろう。
少女を食卓の席に誘う機会は二度と起きないだろう。
これ以上、何も出来る事はない。
絢子はただ、彼女たちの無事を祈り、大きな窓ガラス越しに災害の中心へと目線を移動させた。
そこには爆音が轟く原因となっているであろう中心部に向けて、黄色い線が引かれている光景が映るのだった。