強く気高く孤高のマミさん【完結】   作:ss書くマン

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エピローグ

 とあるマンションの一室。その扉の前で、艷やかな黒髪を揺らす少女がインターホンに指を重ねていた。

 扉越しに聞こえるかすかなチャイムの音。その音に反応して、バタバタと足音を鳴らしこちらに向かってくるのが一人、少女には聞こえていた。

 扉の近くに立っているのは危険かもしれない――そう思った少女は、扉が開いても当たらない位置に下がると、想像通りに勢いよく扉が開かれた。

 

「ほむらお姉ちゃん!」

 

「うん。こんにちは――モモちゃん」

 

 黒髪の少女――暁美ほむらの来訪に元気よく出迎えてくれた部屋の住人。それは、この時間軸で生き残った佐倉杏子の妹であるモモの姿であった。

 お姉さんの友人であるほむらの姿に喜び、扉を開ける勢いで抱きついていたモモ。ほむらはそんな年相応の反応をしっかり受け止め、落ち着かせるように頭を撫でながら、彼女たちは部屋の中へと入っていった。

 

「お姉ちゃん! 本当にほむらお姉ちゃんだったよ!」

 

「ほら、あたしの言う通りだったろ? ――よう、ほむら」

 

「ふふっ、お邪魔するわね、杏子」

 

 モモが腰に抱きついたまま部屋に入ると、ほむらの目の前にはエプロン姿に身を包み、台所で食器を洗っている杏子が現れた。

 杏子たち魔法少女はテレパシーや魔力感知でお互いの場所を把握し、念じるだけで会話をすることができる。そのことを知らないモモは、ほむらに連絡する素振りを見せていないのにも関わらず、彼女が訪問者であると当てたことに驚いていた。

 そんな、他の時間軸では見られることが無かった仲の良い姉妹の姿に、ほむらも釣られて笑みを浮かべていた。

 

「それにしても、いつ見ても不思議な光景。あの佐倉杏子がエプロンを着て台所に立つ、家庭的な姿を見られるなんて」

 

「似合ってるだろ?」

 

 台所で洗い物をする杏子は、いつもの水色のパーカーを脱ぎ捨て、落ち着いた雰囲気のある白いニットに袖を通してる。エプロン姿も相まって、ほむらには小さな主婦のように見えていた。

 ほむらが知っている人物とはかけ離れた格好に思わず皮肉めいた言葉を口にするのだが、それを聞いた杏子は特に気にすることもなく、良いものを見ただろうと笑っていた。

 

「杏子、ちょっとだけいいかしら」

 

「ん? ……あぁ、いいよ」

 

 ほむらは杏子の返事を聞くと同時に歩み寄り、洗い物をしている彼女の背中に体重を預け、腰から腹部に手を回して抱きしめた。

 唐突な抱擁。それも、スキンシップを好まないと思われていたほむらの行動に本来なら驚くはずだが、杏子はいつものことのように受け入れ、背中に体温を感じながら話しかけた。

 

「やっぱり不安?」

 

「――ごめんなさい。本当はこの世界が夢で、目を覚ましたらまた同じ病室にいるんじゃないかって、何度も、何度も……そう考えてしまうの」

 

 数多くのループを繰り返してきた魔法少女――暁美ほむら。肉体は中学生のままでも、過ごしてきた時間を考えれば、彼女の精神年齢はすでに大人の仲間入りを果たしていた。

 精神は擦り切れ、心を壊しても仕方ない時を何度も繰り返してきたかもしれない。しかし、繰り返してきたループの先に、彼女が求めていた未来を掴み取ることはできた――が、普通の日常を無事に送ることが難しくなるほどに、彼女は過去に囚われていた。

 繰り返してきた一ヶ月がほむらの日常だと錯覚し続けるほど長く、苦しい時間を。

 

「それはきっと、時間じゃ解決できないと思う。ほむらの願いや行動が、(ソウルジェム)に刻み込まれているかもしれないからね」

 

 杏子の答えを聞いたほむらは、背中越しに小さく頷いた。

 どんなに絶望を迎えても、最後まで手放すことはなかった願いの産物。それはほむら自身も、時間が経てば自然に解決できるほど簡単なものではないと考えていたからだ。

 

「そう、よね……ごめんなさい。こんなこと言って――」

 

「でも」

 

 静かに募る不安を吐露したほむら。自分でも制御できない想いをぶつけてしまい、謝ろうとする彼女の言葉を遮るように、杏子は洗い物の水を止めた。

 背中からほむらの手を解くと、今度は杏子がエプロンで水気を拭いた少し冷たい手で彼女を抱きしめ返していた。

 

「でもさ、不安な思い出を見つけるのが難しくなるくらい、楽しい思い出であんたを埋められる。私やさやか、あんたの大好きなまどかもいるんだ。それに――この世界でしか見られない、モモの姿も、な?」

 

「お姉ちゃんばっかりずるいよ! あたしもあたしも!」

 

「杏子……モモちゃん……」

 

 ほむらが掴み取った未来にはまどかだけでなく、他の時間軸では見られなかったモモの姿がある。それは、この時代がほむらの望んだ未来である証拠の一つでもあった。

 脳裏に刻まれた傷は、子供の頃に負った古傷のように残り続けるだろう。彼女たちが持つ魔法でもその傷を完全に癒すことはできない。見た目では分からないその傷は、彼女の心中に深く根付いていた。

 しかし杏子の言う通り、ループしていた時間以上の新しい思い出を作り、負った傷を埋めることができるだろう。

 

「ほら、モモちゃん。こっちおいで」

 

「ほむらお姉ちゃん!」

 

 姉が抱きしめられているのを見て不公平だと言わんばかりに跳ねているモモを、ほむらは片手を広げて二人の間に迎え入れた。

 二人のお姉さんに抱きしめられて満足そうに笑顔を見せる幼い少女。そんな、今まで見たことのない新しい思い出が、心の不安を軽くしてくれるような感覚を、ほむらは感じていた。

 

「やっぱり杏子はすごいわ。あなたの言葉で、私は少し救われた」

 

「んな、大げさだよ。あたしは友達の悩みを聞いて、それに答えただけ。そんなの普通だろ?」

 

「友達……そう、杏子は私のことを友達だと思っていたの?」

 

「え、違うの?」

 

 杏子にとって、ほむらは大切な友人だった。確かに共に過ごした時間は短いかもしれないが、お互いに命を預け合い、運命に抗う道を探してもがき続けた者同士、時間以上の関係を築けていると思っていた。

 にも関わらず、想像していた反応と違い、思わず悲しげな表情を見せてしまう――が、それは全くの誤解だとすぐに分かった。

 

「友達なんて、そんな言葉じゃ言い表せないくらい深い関係。私と杏子はそう思っていたのだけど……」

 

「あ、あぁ、そういうことか……って、ほむら! 驚かせやがって!」

 

「ふふっ、だって友達だなんて言うから」

 

「お姉ちゃん、苦しいよー!」

 

 遠回しな言い方に驚きながらも、杏子は笑顔に戻り、彼女の肩に手を回して抱きしめた

 二人の間にいたモモは苦しそうな声を出していたが、大切な姉とその友人が仲が良いことに喜ぶのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無理させるわね。せっかくお姉さんと一緒に過ごせるようになったのに」

 

「モモには申し訳ないけど、聞かれたくない話ばかりしてるからな」

 

 洗い物を済ませていた杏子と共に、許可を取ることもなく紅茶の準備を進めていたほむらは、一人で部屋に向かうモモの後ろ姿を見て申し訳なさを感じ、言葉を漏らしていた。

 ほむらと杏子、そしてここにはいないさやかの三人は、魔法少女関連の話をすることが多かった。

 もちろん毎日ではないが、このマンション――マミが住んでいた部屋に彼女たちを呼ぶと、魔法少女関連の話が多くなり、そのたびに席を外してほしいとお願いしていた。

 一緒に暮らしている以上、最後まで隠し通すのは困難を極めるだろう。それでも、彼女は大切な妹。たった一人の家族であるモモだけは巻き込みたくないという強い思いを抱き続けていた。

 そんな思いがモモに伝わっているのか、彼女のお願いを不思議がることなく素直に聞き入れ、今では自ら部屋へ行くようになっていた。

 

「モモは大丈夫って言ってくれてるけど、やっぱり寂しそうにしてるんだ。あたしの友達だってほむらやさやかを連れてきたとき、すごく嬉しそうな顔してただろ?」

 

「ええ、よく覚えているわ。私がモモちゃんに初めて会った日だから、新鮮だったのよ」

 

「あんたは新しい人に会うなんて数年ぶりだもんな。確かに印象深いか」

 

 杏子の言う通り、ほむらはモモという少女に初めて会ったときのことをよく覚えている。長い時間、同じ景色、同じ空間、同じ人間にしか会わない生活を繰り返してきた彼女にとって、モモという存在は今まで見たことのない異物のように感じられた。

 その上小さい子と接するのは久しぶりで、どう声をかけていいかうろたえるほむらに、彼女の方から元気な挨拶と気持ちの良い突進があったのは記憶に新しい。

 だが、それ以上に彼女を見て思うことがあった。

 

「モモちゃん、辛いはずなのに笑顔が見られて良かったわ」

 

「……ああ、そうだな」

 

 それは、ほむらが彼女を見たときに言葉を詰まらせた理由の一つでもあった。

 杏子に会うために風見野を訪れ、今いる時間軸の話を聞いたあの日。モモが一日にして大切な両親を失うという最悪の事態に巻き込まれた幼い少女だと知ったほむらは、何と声をかけたらいいのか分からなかった。

 辛かったよね。悲しかったよね。そんな言葉で誤魔化せるものではない。それはほむら自身がよく知っていることであり、悩みを聞いてくれた杏子が言った通り、何の慰めにもならない。傷を深くするだけの押し付けがましいまやかしだ。

 そんな悪い方向に思考を巡らせるほむらを出迎えてくれたモモの表情は、彼女の悪い考えを吹き飛ばしてくれるほど純粋で、可愛らしい笑顔だった。

 

「強いわ。私なんかよりずっと」

 

「モモが強いのはあたしもそう思う。でも、あたしたち姉妹がこうして仲良くしていられるのは、ほむらのおかげなんだよ」

 

「え?」

 

「言っただろ? 他の杏子にはできないことを、あたしはできたって。あんたから聞いた他の佐倉杏子の話を聞いて、あたしがやったことは間違いじゃなかった。だからモモにさ……お前だけは()()()()()って、そう言えたんだ」

 

 ほむらが歩き続けた時間軸の中で、杏子の家族が生き残っている世界にたどり着いたことは一度もない。しかし、モモと杏子が生き残れた時間軸はこの世界にしか存在しなかった。

 その話を聞く前までは、モモを助けたのは本当に正しかったのか。自らの願いで崩壊を招いた状況で、妹を助けられたと考えるのは正気ではないのではないかと、いつも悩んでいた。

 もし、ほむらがこの世界線に現れず、他の時間軸にいた杏子の話を聞かないままであれば、自らを罰し続け、モモの瞳をまっすぐに見ることができなかった。

 大切な妹であることに変わりはない。しかし、そんな大切な妹と、両親を間接的に殺してしまった自分が一緒にいてもいいのか。離れた場所から護り続けるほうが良いのではないか――そんな考えばかりが頭を巡り、以前のように話すことが難しくなり、想いのすれ違いが重なっていただろうと考えていた。

 

「なんて言われるのか怖かったよ。でも、ちゃんと話をするべきだって。あたしのせいでお父さんとお母さんは助けられなかったって。何度も何度も謝ってさ。それでもあいつは、こんなお姉ちゃんを抱きしめてくれて――ありがとうって言ってくれたんだ。それを聞いたとき、我慢しようとしたけど、嬉しすぎて大泣きしたよ」

 

「……我慢することじゃないわ」

 

「今まで妹の前では強い姉を見せてきて、魔法少女として感情をコントロールすることも覚えてたのにな……えーっと、だからさ、ほむらには本当に感謝してるって言いたかったんだ。今更かもしれないけど、ありがとうな」

 

「私だって。まどかを助ける願いを叶えられたのは他でもないあなたたちのおかげ。それに杏子は、初めて会った私の話を少しも疑わずに受け入れてくれた……本当に嬉しかったわ」

 

 お互いが必要不可欠な存在であり、どちらかが欠けても手に入れられない結末(みらい)だった。

 こうして平和を享受できているのは、他ならぬあなたのおかげだと。彼女たちはいつの間にか、紅茶を作る手を止めて顔を見合わせ、熱を帯びた視線を向けていた。

 

「ほむら……」

 

「杏子……」

 

 話をしているうちにそのときの感情が蘇り、二人の強い想いは距離を近づけた。ぶつかり合った視線は絡み合い、まるで一本の糸で繋がっているかのような感覚さえ覚えていた。

 この空間を邪魔する者は誰もいない。今はただ、感情の高ぶりに身を任せ腕を伸ばすだけで良い。

 命を預け合い、化け物との死闘を戦い抜いた少女たちが育んだ愛を確かめるために、無意識に動き出した――その時だった。

 

「うわっ!」

 

「キャッ!」

 

 紅茶を淹れるために温めていたポットからホイッスル音が鳴り響く。急な音に驚いた二人は、声を上げて飛び跳ねた。

 お互い目を丸くし、顔を見合わせる――先程の自分たちは一体何をしていたのだろう。そんなふうに思いながら、ポットのお湯は沸騰したものの、二人の熱は急激に冷めてしまい、ため息をついていた。

 

「……立ち話もなんだし、紅茶を飲みながらゆっくり座って話そうか」

 

「……それもそうね」

 

 彼女の提案を受け入れて沸騰したポットの火を止め、事前に温めておいたカップを使って紅茶を淹れ始める。杏子はその間にエプロンを片付け、ガラステーブルにピンクのケーキを並べ、二人は先程の行動を紛らわせるように動いていたのだった。

 

「それ、もしかして手作り?」

 

「ああ、モモと一緒に作ったんだ。材料が余ってたし、使わないのも勿体ないからな」

 

 冷蔵庫から取り出したそのケーキは少しばかり型崩れしていて、一目で買ったものではないと分かった。

 そのケーキは、マミの家に残されていた材料を使って、モモと杏子。二人で作ったお手製ケーキだった。

 ほむらも紅茶を淹れ終わり次第テーブルに向かい、ケーキと共にカップを並べた。慣れた手つきで淹れた紅茶と少し型崩れしたケーキの並びは少し不格好に見えるかもしれないが、二人は満足そうな表情をしていた。

 

「ほら、さっさと食べな」

 

「もう、焦らせないで。せっかくの杏子とモモちゃんの手作りなんだから、じっくり味わいたいの」

 

「な、なんだか恥ずかしいんだって。いいから早く食べてくれない?」

 

 他人に手作りのものを渡すのが初めてだからか、杏子は落ち着きがない様子で見つめていた。

 ケーキを作るのは初めてではない。修行時代にマミと一緒に作ったことはあったが、ほとんど見ているだけで終わり、それを手作りとは言いがたかった。しかし目の前にあるケーキは正真正銘、杏子の手で作り出されたものだった。

 慣れない手作りの料理を人に食べさせる。その事実が居心地の悪さを感じさせ、早めに感想を聞きたがっていたのだが、そんな杏子をよそに、ほむらはゆっくりとフォークを刺し、じっくり味わっていた。

 

「どう……?」

 

「――ええ、とっても美味しいわ。甘くて柔らかい、杏子とモモちゃんみたいに優しいケーキ」

 

「そ、そうか? それは良かった。うん、良かったよ。はは」

 

「ふふ、今までで一番緊張してるって言われてもおかしくないわね」

 

「人に手作りを食べてもらうって結構緊張するんだよ」

 

 マミに比べれば味は劣るかもしれない。一人暮らしで培った料理の経験と、それを裏付ける出来栄えの良さ。そうして積み重ねた自信があるからこそ、彼女は当たり前のように料理を振る舞っていたのだろう。しかし、杏子にとって料理の経験は数えるほどしかなく、モモの手助けはあれどほぼ一人で完成させたのはこれが初めてだ。

 ほむらから今までで一番緊張しているのではないかと問われていたが、確かに彼女が向けていた眼差しは魔女との戦闘よりも真剣だったのは間違いない。手料理を口に含んだほむらの表情に笑顔が見られたとき、杏子は心底ほっとしていた。

 感想を聞けたことで手持無沙汰な杏子は、淹れてもらっていた紅茶で緊張して乾いた口を潤していたのだが、本来の目的である彼女を呼び出した理由を話し始めた。

 

「さてと、今日ほむらを呼んだ理由なんだけどさ」

 

「ん……ええ、以前から杏子が悩んでいたあの話でしょう?」

 

「時間かかったけど決心がついたよ――あたしは、マミの遺体を火葬することに決めた。ほむらたちにはその立会人になってほしいんだ」

 

 これは、ワルプルギスの夜が完全に消滅した後の話だ。

 巴マミの魔女化によって作り出された一つの世界は魔女を飲み込み、崩壊し、二つの巨大な魔力がこの世から跡形もなく消えたことが杏子たちにも伝わっていた。

 曇天が覆いかぶさっていた空は完全に消え失せ、悪意に満ちた魔力で淀んでいた空気も元通りになり、重力を無視するように空中に浮かんでいた瓦礫は全て地面に落下した。

 見滝原市には激闘の跡が強く残るものの、彼女たちの手によって人々を護り切ることに成功したのだ。

 

 魔力の消滅を確認し、安全を確保した杏子は魔女化した際に抜け殻となったマミの遺体を回収するため、衝撃波で吹き飛ばされた肉体へと向かった。

 魔女化の余波。落下した衝撃により肉体の損傷は激しいが、原型は残されていたため、杏子とさやかの修復魔法により元の綺麗な肉体へと戻し、これからのことを話し合っていた。

 

『ねぇ杏子、これからどうするの?』

 

『あたしはこの遺体を教会に持っていく。遺体をどうするかは後で話すよ。あと、マミの家に行って遺物の整理だな。あいつがいなくなったから危ない状態になってるかもしれない――って、あたしを気にしてる場合じゃないだろ。さやかたちは今すぐやるべきことがあるんだから』

 

『え?』

 

『家族のもとに帰るんだ。顔を見せて、さっさと安心させてあげなよ』

 

 そしてたっぷり叱られな――と、付け加えて遺体を背負いその場を立ち去った。

 杏子に言われた通り、さやかとほむらは途中から来たまどかを連れて、杏子の後を追うように避難所へ急ぐことにした。

 魔力は枯渇していても魔法少女としての身体能力は健在だ。瓦礫を足場に避難所へ飛んだ少女たちの目の前に映ったのは、巨大台風が嘘のように消え、街への壊滅的な脅威が無くなったことを知って、避難していた人々が自衛隊らしき者たちの指示で出てくる光景だった。

 その中にはさやかとまどかの両親。そして、マミの手で救出された恭介や仁美たちも含まれていた。

 

『あ、あはは。えーっと……ただいま帰り――ぐわっ!! ぶほぉ!!』

 

 魔法少女の変身を解くために物陰に隠れ、いつもの制服で怪我一つない姿で現れた瞬間、さやかの両親はまるで死んだ娘が目の前に現れたような驚愕の表情を浮かべていた。

 驚き、青ざめ、そして涙を浮かべた最後に怒りの表情を作り、さやかに向かって走り出すと、父は彼女の頭に固く握った拳を。母は頬に強烈なビンタを見舞った。

 それも当然だろう。物が吹き荒れる大嵐の中一人彷徨っていたら、後日遺体として見つかってもおかしくはない。一般人の恭介たちも、マミの助けがなければあの場で命を落としていた。

 さやかが魔法少女であり、人知を超えた力の持ち主であることを知らない両親にとっては至極当然の反応。むしろ拳骨とビンタで済むのなら甘いと言えた。

 

『おわっ!』

 

 そして、我が子が無事だったことに安堵し、彼女を強く抱きしめるのもまた当然の行動だった。

 

『……何度も心配かけてごめんなさい。お父さん。お母さん』

 

 彼らにとっては奇跡としか言いようがない。一つの街を吹き飛ばす大嵐の中から帰ってきたはずなのに、擦り傷一つ負わずに戻ってくるなど、絶望の果てに現実逃避で作り出した偽りの娘だと言われてもおかしくない現象だ。

 奇跡的な状態で生還を果たした我が子が現実であると確かめるように、強く抱きしめ、溢れ出る涙で彼女の服を濡らし続けた。

 そんな二人が落ち着くまでなされるがままのさやかとは対照的に、まどかの母親である絢子との再会は静かなものだった。

 

『まどか、おかえり』

 

『ママ、ただいま』

 

『(まどかが生きている。魔法少女じゃないまどかが……)』

 

 無事に戻ったことに安心した絢子は両手を広げ、まどかを優しく抱きしめていた。

 それを見ていたほむらは、親しい者から歓迎されることなく二人の姿を眺めていたが、彼女にとって今、この瞬間が最高の指定席であることに変わりはしない。

 ワルプルギスの夜を越えて、鹿目まどかが無事に帰る。魔法少女になることなく、化け物に変わることなく、人の子として家族に迎えられる。そんな、何処にでもある光景がほむらにとっての救いだった。

 

『あぁ、まどか……良かった――』

 

 その光景を確かに見届けたほむら。本当の願いが成就したことによる達成感、魔女との死闘で受けた痛み、それに加えて、幾度も時間軸を飛び越え続けたことで蓄積された疲労が今になって彼女を襲った。

 身体を支える力が失われるほどの倦怠感。もうこれ以上何かを考えることができないほどに疲弊していたほむらは、静かに目を閉じる。そのまま膝から崩れ落ち、地面に倒れそうになっていたのだが――。

 

『ほむらちゃん』

 

『ま、どか……』

 

 受け身も取れないまま地面に倒れ込む前に、まどかがその身体をしっかりと受け止めた。

 

鹿()()()()()を救ってくれてありがとう。おやすみなさい、ほむらちゃん』

 

『うん……少しだけ……休むね……』

 

 まどかの声と匂いに導かれるまま、彼女の胸の中で眠りについたほむらの姿は、いつもより幼く見えていた。

 完全に脱力しているほむらを支えるにはまどかの力では足りず、それに気付いた絢子が二人を支えた。

 

『この子は……』

 

『私の恩人で、大切な友達』

 

『そうか、この子もまどかを……ありがとうな。うちの娘を助けてくれて』

 

 まどかの言葉から、同じく訳アリの少女であることを察した絢子は、大切な家族を守ってくれたであろうほむらの頭を優しく撫でた。

 

『なぁ、まどか――マミちゃんはどうしたんだ?』

 

『……』

 

『そう、か……』

 

 まどか一人で同年代の子を支えながら歩くのは大変だろうと考えほむらを受け取り、そのまま姿を見せない少女の名を上げる。それを聞かれていたまどかは何も言わず、ただ首を小さく振るうことしかできなかった。

 絢子にも分かっていた。あれほどまどかが重んじていた少女が共にいないという意味は一つしかない。しかし、聞かざるを得なかった。万が一にも生きていてほしかった。娘を守ってくれたお礼を少しでも伝えたかった――その想いは彼女がいなければ伝えられない。

 

『ん……』

 

『おっと……ごめんな?』

 

 彼女たちが抱えている問題の外にいる自分にできることなど限られている。避難所で試みた説得が失敗に終わり、まどかの代わりに犠牲になったであろう事実に打ちひしがれていた絢子は、無意識に力が入り、ほむらを強く抱きしめてしまっていた。

 苦しそうな声を上げるほむらに謝りながら、絢子は彼女の目元に大量の涙を流した跡があることに気づいた。

 

『(こんなに目元腫らして、折れそうなほど細い体で、うちの娘を助けてくれたんだよな)』

 

『まどか……もう、二度と……』

 

 優しく抱きしめているほむらの身体は、一体どこから力が出ているのか分からないほど細く、軽かった。そんな身体で娘を助けてくれた事実に、絢子はほむらを抱きかかえる腕に力を入れた。

 無理やり抱きしめるようにではなく、母が子を愛するように、優しくほむらを抱きしめていた。

 

『まどか、お願いだから無理はすんなよ。アタシたちやこの子、あんた自身のためにもね』

 

『ママ……ごめんなさい、いっぱい迷惑かけて』

 

『ったく、変なところでアタシに似ちゃって』

 

 謝る娘の頭を撫でながら、避難所から誘導されて出ていく人々を眺めていた。その中には、先に外へ出ていた絢子の他に、まどかの父親である知久と、両手で抱えている弟のタツヤの姿があった。

 絢子としばらく姿を見せていなかったまどかが見えた知久は、片手を大きく振りながらこちらへ小走りに走る姿が二人からは見えていた。

 

『帰ろう。アタシたちの家に』

 

『うん、ママ』

 

 見滝原市に襲来した嵐は最悪の事態を免れた。市そのものが崩壊する危機は去ったものの、大きな爪痕を残してしまった事実に変わりはない。インキュベーターという存在がもたらした恩恵か、技術の進歩が目覚ましいこの世界にとっても、魔女が残した戦いの跡はそれほど大きなものだった。

 復興という言葉が使われる状態には保たれていたとしても、見滝原市に住む人々が満足な生活を取り戻すには多くの時間が必要とされるだろう。しかし魔女という存在を知らない人々からすれば、あれほどの巨大な嵐が起きてここまでの被害で収まるわけがないと考える人間は少なくない。そして、台風が起きていた時間帯に、街の様子を監視カメラで確認する者がいたのだが――彼らが見たものはモノクロの砂嵐だった。

 ワルプルギスの夜が現実世界に及んだ影響力。生み出したのは嵐だけではなく、強力な電磁波が周囲に拡散されていた。その影響は映像を砂嵐に変化させ、彼らが欲しい情報は全て消え失せていた。

 ただ一つ、不思議な衣装を身に着けた黄色い少女の活躍があったことだけは、避難所に後から入っていった人たちの噂話に上っていた。確固たる証拠がないために真相は闇の中に葬られたが、それが唯一の行方不明者である巴マミという少女であると噂話を――。

 

「中々見ない大災害だからな。工事の音がしばらくは響いてるだろうけど――そういえば、魔法少女の活動はどうだ? あたしはしばらく参加できなかったからさ」

 

「そうね……あまり順調とは言えないわ。今の見滝原市には魔女や使い魔の数が増え続けてる一方で、私は魔法が使えなくなった。時間停止魔法に頼り続けてたのもあって、今の私は正真正銘最弱の魔法少女と言ってもいいもの」

 

 人々の心の隙間に入り込み喰い物にする魔女や使い魔。今の見滝原市に住む人々には大災害により、心に余裕がない者が多く作り出されていた。

 人は人と争い、物資を奪い合い、悪意や憎悪は伝染し、そんな人々が現れるこの地は魔女たちにとって恰好の餌場となっていた。

 何もしなければ人々は魔女の口づけを刻み込まれ、そのまま取り込まれてしまうだろうが、巴マミからこの街を託された魔法少女の一人である美樹さやかがそれを許すわけもなく、魔女たちが起こした悪意だけでも摘み取り続けていた。

 それはさやかだけではなく、暁美ほむらも当事者の一人だった――。

 

『(一体の魔女にこれだけの時間と消耗。早く何とかしないと……)』

 

 長年の経験や、マミたちとの特訓により自力を向上させていたほむらは、各所を回っているさやかの手を借りることなく魔女を倒すことに成功していた――が、しかし以前とは比べて多くの時間を費やし、辛勝と言えるほどに芳しくない様子であった。

 ほむらという魔法少女が持っている資質は他の者と比べて少ない。だが、一ヶ月という縛りや様々な条件や制約。少ない資質の全てを固有魔法に振り切ったことにより、時を操る魔法を一時的ながらも手に入れることができていた。それを失った現在では、魔女と魔法少女を倒した命の因果による強さと経験だけで戦うことを余儀なくされていた。

 魔女を倒すときに使われていた武器は自作の物もあれば時を止める能力があったからこそ盗み出した重火器。むしろその重火器こそが主力武器にほかならないが、魔法による入手経路を失った今では、残された数少ない重火器と自作した爆弾のみで魔女と戦うことを強いられていた。

 その爆弾すらも数は乏しく、作成資金も中学生にとってはかなりの痛手であり、安定した火力を出すことはほぼ不可能という状態に陥っている。基礎魔力も少ない彼女にとって魔法武器を生成することができず、あるのは左手に身に着けている小さな盾と広大な貯蔵空間。重火器も爆弾も能力も乏しい現状では魔女を一体倒すだけでも多量の苦労を背負い、だましだまし戦い続けていた。

 

『(こんな状態をいつまでも続けてたら近い内に死んでもおかしくない。けど、今の私にこれ以上の力を出すなんて――っ!!)』

 

 さやかたちの手を借りず、たった一人で魔女に立ち向かうことで明確に浮き彫りになった不甲斐なさ。そんな現状を解決しようにも、打開する方法が見当たらないもどかしさに頭を悩ませていたその瞬間だ。

 無理やり鍛えられた魔力感知が、こちらに勢いよく向かってくる魔力を微かに捉え、危険を感じたほむらは目視確認することなく目一杯の飛翔をした。そしてその場には、魔法少女を容易く吹き飛ばすほどの爆発が作り出されていたのだ。

 

『ちょっと! 魔女一体に手こずってる魔法少女相手に何外してんのよ!』

 

『ご、ごめん! けど思ってたよりも反応早くて!』

 

『(……警戒心を怠らずにしていたから助かったけど、問答無用なのはさすがに肝を冷やすわね)』

 

 襲撃を仕掛けてきた見覚えのない二人の魔法少女。それは見滝原市で活動している者ではなく、他の土地から入り込んできた少女たちであった。

 見滝原市を支配していた巴マミの死。決して消えることがなかった魔力の壁や、圧倒的な存在感を放っていた彼女の魔力が完全に失われたことにより、周辺の土地に住んでいた魔法少女たちにまことしやかに囁かれていた。

 近づけば殺される。見滝原の魔女と畏怖された少女の話を噂程度にしか知らない者たちが面白半分に足を踏み入れ、生還したことにより噂は確信に変わり、多くの魔法少女たちが見滝原市へと向かった。

 本来であれば数十人の魔法少女が縄張りとして持っていてもおかしくない大きさの街。そんな広大な土地をたった一人で専有していたため、他の土地では数少ないグリーフシードを奪い合う飽和状態が起きていた。しかしその所有者が消え、飽和状態から脱却しようとした魔法少女たちが縄張りを広げようと続々とやってきていた。ほむらを攻撃した魔法少女もその一部だ。

 グリーフシード目的でやってきたのであればさやかたちは何も思わないだろう。数十人の魔法少女たちがいるからこそ管理できる土地を、杏子が前線に出られない状態で管理するのは難しかった。

 この街や人々を護りたいという強い意志を持つさやかは、少しでも多くの魔女たちを狩ってくれるのであれば静観するだけに留めていた――が、マミが残した禍根は彼女たちが想像していたよりも深く大きく、現状のほむらのように他の魔法少女からどこからともなく攻撃を受けることになっていた。

 

『あなたたち、私に攻撃するのはやめなさい。戦うメリットなんてないはずよ』

 

『は? 私たち二人相手にどの立場でものを言ってるわけ? それにメリットならあるわ。あんたはあのクソ魔女の仲間でしょ? だったら私たちの敵。魔女一体に苦戦しているようだし、ここで死んでくれたほうが都合良さそうだわ』

 

 先ほどほむらが戦っている様子を見ていた彼女たちの言う通り、有象無象の魔女を相手に苦戦を強いられていたのは事実であり、彼女たちの言うクソ魔女――巴マミと共闘し、一時的に仲間として活動していたのも事実だが、それはお互いの利害が一致していた上での行動だ。

 しかしそんな説明をしても信じてくれることはないだろう。ワルプルギスの夜から少ししか経っていないが、ほむらが襲われたのはこれが初めてではない。彼女たちが抱えていた憎悪は元凶の巴マミが死んだとしても消えることはなく、やり場のない怒りはその関係者であるほむらたちにぶつけられていた。

 

『巴マミは死んで、私たちは争う気が無いわ。これ以上の戦いは無意味よ』

 

『それでもあんたたちは私たちにとって邪魔な存在よ。いくらあいつが死んだって言っても、仲間が残っている限り新たな巴マミが生まれる可能性だってあるわ。言ってる意味分かる?』

 

『引く気がないってことね』

 

『元々、魔法少女同士が戦うことなんて珍しくないでしょ。それで死ぬこともある。私の知り合いだって、あの魔女に……今度はあんたが死ぬ番よ――魔女の使い魔ども』

 

『(はぁ……やるしかなさそうね、この状況は)』

 

 明確な恨みを持つ者に何を言っても無駄だと悟ったほむらは、表面上は冷静さを保ちながらも内心穏やかではなかった。

 相手は理性を失った魔女ではなく魔法少女だ。魔女とは違う戦い方をしなければならない上に、時を止める魔法なしで戦うのはあまりにも経験が少なすぎた。

 ここから逃げ出すだけでも、先程の戦闘で体力を消耗している上に目の前の二人からの攻撃を凌ぐのは命がけだ。元々魔力が乏しいほむらが純粋な身体強化で上を取るのは難しい。ならば経験の差で彼女たちの脳髄に数少ない弾丸を撃ち込むしか方法はなかった。

 命を落とす可能性も十分にある危険な綱渡りだ。しかし、ここで死ぬつもりなど毛頭ないほむらは、彼女たちに向けて盾を構え、動き出そうとした――その瞬間だった。

 

『ちょっとまったああああああああ!!!』

 

『な、何!?』

 

 狭い路地裏に響き渡る勇ましくも可愛らしい声。彼女たちがにらみ合う頭上から純白のマントを翻して飛んできた一人の少女が、ほむらを守るように背中を向けて着地した。

 まるでヒーローのように力強く頼もしい後ろ姿。武器を構える二人に対して、意気揚々と立ちはだかる青色の魔法少女。ほむらにとっては慣れ親しみ、敵対している少女たちにとっては忌々しい感情を向けている、その少女の名は――

 

『見滝原の天使こと――美樹さやか、見参っ! これ以上の戦いは、このさやかちゃんが許しませんよ!!』

 

『さやか!? どうしてここに――』

 

『出たわね、うざったい使い魔……っ!』

 

『もー使い魔じゃない! あんたたちと同じ魔法少女だって!』

 

 唐突なさやかの登場に、ほむらを襲っていた少女たちは表情を強張らせた。それもそのはずで、彼女たちにとってさやかはほむらと同様に討伐対象であり、精力的に縄張りを広げている者たちにとって目障りな存在だった。

 魔法が使えなくなり細々と活動を続けているほむらとは違い、さやかは後釜として見滝原市内を飛び回っていた。

 この見滝原には美樹さやかがいる――まるで彼女自身が高らかに宣言しているかのように、他の魔法少女たちの間では彼女の存在感が大きく映っていた。しかしそれは、魔法少女たちと幾度となく衝突を起こす原因にもなり、そのたびに彼女たちを撃退する日々を続けていた。

 

『もうちょっと穏便にしない? 何度も何度も、本気で殺し合うなんてやめようよ』

 

『つ、都合良いこと言ってんじゃないわよ! あんたたちがどれだけ魔法少女たちを殺しているかみんな知ってるの! なのにどの口が……!』

 

『あたしは誰も殺してない――けど、あんたたちが何を指して言ってるのか、それは分かるよ』

 

 さやかは誰も殺してはいない。彼女たちが指摘する言葉はお門違いであり、受け止めず切り捨てることもできた――が、それをすることはしなかった。

 あの魔法少女の後を継ぐ。それがどのような意味をもたらすのか、風見野市で出会った魔法少女の反応である程度は理解していたからだ。

 

『マミさんの後を継いだあたしは、正直その罪を背負うこともできない。だって、あんたたちの怒りはもっともだ。誰だって大切な友達が殺されたらきっと、あんたと同じ気持ちになるから』

 

『同情なんて今更いらないんだよっ! あの魔女の仲間なら、お前は一生あたしたちの敵だ! 死んだ先輩や友達のためにも、お前らは殺されるべきだ!』

 

『……今更許してって言っても命は帰ってこない。我慢しろって言っても無理な話だよね』

 

 さやかは冷静に彼女の言葉を受け止めていた。目の前にいる魔法少女たちの怒りや憎しみを、感情を揺らすことなく、今起きている事象から目を逸らすことなく、耳を塞ぐことなく、全てを受け止め、受け入れていた。受け入れなければ先に進めないことが分かっていたからだ。

 巴マミのように人ならざる化け物を殺し、世界の平和を作ろうとしているわけではない。

 まどかのように誰もが救われる世界を作ろうとしているわけではない。

 ただ、できるだけ手を伸ばしたい。自己満足であろうとも、おせっかいであろうとも、生きている限りその手を掴みたい――それは、敵対している彼女たちも例外ではないのだ。

 

『あたしって馬鹿だからさー、やっぱ考える前に行動で示さないと駄目らしいわ』

 

『――っ』

 

 さやかの言葉を皮切りに、右腕を広げマントをひらりとなびかせた。その瞬間、流れるような魔力操作が警戒を怠らなかった魔法少女たちの目の前で行われ、さやかと二人、全てを取り囲むように青色の魔法陣が作り上げられた。

 マミが使う銃撃魔法に似た魔法がいくつも展開され、魔法陣からは銃の代わりにさやかが愛用しているサーベルが顔を覗かせ、その照準を敵対している魔法少女たちに合わせられていたのだった。

 

『あたしの速さは知ってるよね。折角来てくれた所申し訳ないんだけど、色々と都合が悪いし今日は帰ってくれないかな?』

 

『く、くそ……っ!』

 

『どうしよう……!』

 

『もちろん背後を見せた瞬間攻撃するなんてことはしないよ。他の子と同じく、大人しく帰ってくれるなら何もしないから』

 

『あ、あんたは一体何なのよ!あたしたちを逃がして何のメリットがあるってのっ!?』

 

『メリット?』

 

 魔法少女の争いごとに相手を生かしておくメリットはほぼないに等しい。人を殺したという罪を背負いたくないとなれば、さやかたちは人の生死を経験している魔法少女と言え、それこそメリットは無くなってしまうだろう。

 敵対する魔法少女たちも同じだ。マミと交戦し、多くの魔法少女が犠牲となった。その経験は深く心に突き刺さり、見滝原市で活動していた魔法少女は人として見れない存在になった。

 そんな思想を抱えている彼女たちを逃がしたところで、何度も襲われてしまうデメリットを常に抱え続けることになる。遅かれ早かれ争いの種である彼女たちを始末しておくことは、さやかたちにとって大きなメリットであることは変わりない。見滝原市に湧いている魔女たちを倒してもらったところで、費用対効果はあまりにも不釣り合いだった。

 そんな疑問を抱えている彼女たちに、さやかは迷うことなくはっきりと告げた。

 

『あたしがそうしたいってだけだよ。あたしが生きているうちは全員助けたい。それがあたしに託されたバトンで、願いでもあるから』

 

『な、によそれ。意味わかんない。くだらないわ。全員助けたい……? ふざけたことを言って、死んだのよ!? みんな殺されたのよ!? 一体誰を助けたいって……!』

 

『人も、街も、魔法少女も、魔女――は、流石に難しそうだけど、できるだけ全部。あんたたちも含めてね!……まー、それをするには力も信頼も全然足りないけど』

 

 笑いながらそう語るさやかに向けて、敵対している少女は冷ややかなものだった。

 

『そうよ、誰があんたなんかを信頼するもんですか』

 

『あはは、そうだよね。今は恨んでるんだから仕方ないけど、諦める理由にはならない。ちなみに、これ以上の答えを持ち合わせてないよ』

 

『ふ、ふざけたこと言って……』

 

『まーまー、そうは言ってもあたしは信じて行動しないと何もできないの。だから信じてるよ。あんたたちと一緒に手を取る未来を、ね』

 

 誰が聞いても裏表のない本心だと分かる口調。そして信じていると、殺意を向けられていた者とは思えない笑顔が彼女たちに向けられていた。

 本当にそれ以外の理由がないということに、彼女たちは毒気を抜かれる思いだった。

 くだらない。ふざけている。苛つくと、彼女たちはぶつぶつと呟き様々な感情が渦巻いていたが、先程まで力強く武器を握っていた手のひらが緩んでいくことも確かであった。

 

『今までの鬱憤が溜まってるならまた来なよ。あんたたちの気が済むまで何度でも相手になるから。でも私生活中は勘弁してね? 後はあたしの考えを他のみんなに伝えてくれたらもっと嬉しいかな』

 

『……行くわよ』

 

『う、うん』

 

 さやかの言葉に何かを返すこと無く、依然として魔法陣を構えていた目の前から、二人の魔法少女がその場を立ち去った。

 姿形だけではなく、さやかが感じ取っていた二人の魔力が消えたことが分かると、一息をつきながら警戒心と共に空中に浮かぶ魔法陣も消えていた。

 

『ふぅ、魔法少女を相手にするのは緊張するなぁ――大丈夫ほむら? どこも怪我してない?』

 

『え、ええ』

 

『あれ? どうしたの? 変な顔してるけど』

 

 先程まで漂っていた一触即発の空気。いつ殺し合いに発展してもおかしくない緊張感は体を強張らせ、さやかは一息をつきながらもほむらに声をかけていた。

 肝心のほむらは心底驚いた様子でこちらを見ていることに気が付き、首をかしげながらそのことについて訪ねていた。

 

『え? いえ、そうね……後ろから見ていたあなたの背中がとても頼もしくて、少し驚いたの』

 

『あら、ほむらがそんなこと言うの珍しいね。やっぱりどこか打った?』

 

『素直な感想よ。今まで見てきた美樹さやかとは思えないほど、とても冷静で、自信に満ち溢れて、しっかりしていた……一言で言うなら、格好良かったわ』

 

『うーん、そう言ってくれるのは嬉しいよ。けど、あたしは一人じゃ何もできないし、ほむらたちがいてくれるから頑張れてるだけだからさ。あんまり期待しないでくれたまえよ?』

 

『ふふ、何よその上から目線――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私が言うのも何だけど、さやかはとても成長したわ」

 

「あぁ。その話を聞いたとき、本当に痺れたよ。あいつは……美樹さやかという魔法少女は、英雄(ヒーロー)になるべき器を持ってるって」

 

「英雄……まさに正義の味方ね」

 

 それは、佐倉杏子が掲げていた旗。弱きを助け強きを挫く魔法少女。マミと出会い、彼女を真正面から否定することができなかった杏子は、正義の味方という己の信念を貫き通すことができなかった。しかし、そんな杏子とは反して、美樹さやかは全てを受け入れ進み続けていた。

 杏子にとって美樹さやかは希望だ。混沌とした見滝原の最前線で戦い続けながらも、決して折れることのない希望の旗を掲げる者。杏子と魔法少女としての力を比べればその差は歴然だろう。しかし彼女の手は汚れすぎていた。

 力を手に入れるためだけに、二度と消すことができない罪を背負ってしまった。

 さやかの持つ旗を杏子が掲げることは二度とできない。偽物が掲げても後に続く者は誰もいない。純粋無垢なさやかだからこそ、その旗を掲げて進むことができたのだ。

 反発する者は多く現れるだろう。マミが残した根強い禍根。多くの魔法少女たちに植え付けた悪意がすぐに消えるわけもなく、マミの使い魔と称される魔法少女たちに降りかかるだろう――が、その悪意が終息するのは時間の問題であった。

 

「(元々魔法少女って生き物は、考えている以上に短命だ。一年生き残れただけでも十分なんだからな)」

 

 彼女たちが生きる環境は、過酷という言葉だけでは表現しきれないものばかりだ。

 魔女という化け物との戦いに明け暮れ、時には同じ魔法少女同士で争い、人間として日々の生活も維持しなければならない。

 彼女たちは常に戦いの連続を強いられ、その過程で避けられないストレスが蓄積していく。

 知らず知らずのうちにソウルジェムは悪意に侵食され、その末路は事実上の死だ。

 確固たる意思がなければ長く生き続けることは困難であり、多くの魔法少女たちの寿命は短い。しかし、ここにいるほむらたちは強靭であり確固たる意思を備えている者たちだ。

 意志の弱い者たちは、ふるいにかけられるように淘汰され、時間が経つだけでほむらたちを襲い続けていた者たちは姿を消してしまう。だからこそ、直接手を下さなくとも時間の問題であろうと杏子は考えていた。

 

「とりあえず、さやかは問題ない――が、肝心なのはほむら。あんただ」

 

「えぇ、そうね……」

 

 落ちぶれていく自分の力は隠し通せるものではない。

 ワルプルギスの夜を乗り越えるために特訓を受けたことで、ほむらの基礎は以前よりも向上していた。しかし元が低ければどれだけ向上しようとも、経験や知識がどれだけ役立とうとも、魔法少女としての力が極端に不足している現実を変えることはできない。杏子に言われるまでもなく、ほむら自身が痛いほどに理解していた。

 こうなることはほむらを知るものであれば誰にでも分かっていた。経験や知識を駆使して何とかやっているとはいえ、危ない橋を渡り続けている状態をいつまでも続けられるわけがない。そう、顔を暗くしていたのだが――。

 

「ほむらは覚えてるか? マミが最後に言ったこと」

 

「そう言えば……魔法少女の活動を再開する頃に、訓練でもしてくれるのかと思っていたけれど、今の私じゃ――」

 

 覚えているかと言われ、一瞬考え込んだ彼女は当時のことを思い出した。あなたの不安は佐倉さんがなんとかしてくれるわ――それは、マミが死ぬ前に残した言葉だ。

 しかし、今更伸びしろのない自分を鍛え直しても時間の無駄だろう。そう思い口にしようとしたほむらだったが、それは勘違いだと杏子は首を振った。

 

「いや、訓練じゃない。あんたに伸びしろがないのはマミもあたしも分かってるさ――だから、このノートを渡したかったんだろうな」

 

 そう言いながら、杏子は一冊のノートを取り出していた。どこにでも売っているようなノート。ほむらも見慣れていた市販のノートであり、見る限りでは魔法で作られたものではなかった。

 所々にシミが付着し、お世辞にも綺麗とは言えないぐらいしか特徴が見当たらないノートに、ほむらは手を伸ばした――が、受け取る寸前、彼女はその手を止めてしまう。触れようとした瞬間、彼女は強烈な殺意を感じ全身に悪寒が走るのを覚えたからだ。

 

「これは、一体何? 恐ろしい量の意思と威圧感……まるで、怨念よ」

 

 迂闊に手を触れてはいけない。これは危険だ。そんな警告音が脳内に鳴り響くほど酷く嫌な雰囲気を感じ取り、杏子の顔を伺っていた。

 

「あいつに頼まれてた触れてはいけない物の一つで、所有者から手放された所をあたしが受け継いだんだ」

 

「当たり前だけど、魔法少女に関する物よね?」

 

「もちろん。しかも、あんたの悩みはある程度解決する代物でもあるよ」

 

「まさか、そんな物が……」

 

 悩みをある程度解決できると言われ、信じられないという表情を浮かべた。

 それも無理はない。魔法少女としての力を大きく失った今、それを解決するのがどれだけ困難な問題か、杏子も分かっているはずだ。

 正に死活問題だった。いつ死んでもおかしくないこの状況で、目の前のノートが解決策になるのか。ほむらは半信半疑で杏子を見つめていた。

 

「このノートは一体何なの?」

 

「あいつの強さの源だった一部――つまり、殺してきた魔法少女のソウルジェムから作られた、後付けの因果を封じ込めたもんだよ」

 

「後付けの因果を……?」

 

「キュゥべえ曰く、魔法少女の強さは因果の量で決まる。けど、そんなものをあたしやマミが初めから大量に持ってるわけない。そんなあたしたちが強くなれた理由はあんたも知ってるだろ?」

 

 この時代に現れた杏子とマミの二人は、魔法少女として無類の強さを誇っていた。その手法は、人間が本来持っている因果の糸を無理やり自分のものにすることだ。

 それは人の因果を背負うこと。この街に住む人々の命を魔女から護ることで間接的に預かる方法もあれば、より効果的に因果を奪う――つまり、人の命を自らの手で奪い、業を背負い、自身に取り込む方法があった。

 その効果が絶大であることは、目の前にいる杏子やマミが結果として裏付けている。そして、途方もない因果が集まりさえすれば神へと至る可能性――鹿目まどかという存在が生まれてしまうことも理解していた。

 

「たった一人で人々を護ることで、結果的に因果を背負い、更には魔法少女の命を吸い上げ、あいつやあたしは強くなった」

 

「それを言うなら私にも言えることでしょう。自分で言うのも何だけど、私はさやかのようにお綺麗な魔法少女ではないわ」

 

 ほむらの言う()()()()()()()()――つまり、一度たりとも他の魔法少女の命を奪っていないわけではない。自らの願いのため、争いを防ぐために片方の命を絶つことは珍しくはなかった。

 回数で言えば彼女たちほどではないだろう。ワルプルギスの夜を討伐するためには戦力が必要だったため、自ら戦力を削ぐことは好ましくはなかった。

 最終的に戦力となる魔法少女はいつもの3人に決まっていたが、それまでの過程で複数人の命を奪ってしまったことに変わりはない。ならば、杏子の言う因果を背負っているのではないかと考えたが――

 

「ほむらは素質の全てを魔法に振り分けたせいで、本来あるはずの力が残っていなかった。普通はそんな状態で戦うのは難しいけど、それでも戦い続けられたのは、あんたにも因果が巻き付いている証拠だと思う」

 

「これでも?」

 

「これでも、だ。そもそもあたしやマミと比べたら、基礎も魔法の理解力もまるで違うし、効率や相乗効果も少ないんだ。殺してきた魔法少女の数が両手で数えられる程度なら、十分強くなったほうじゃないかな」

 

 そう言われたほむらは、確かに納得できる部分があると小さく頷いていた。

 魔法少女になったばかりの自分は思い返すのが億劫になるほど酷く、走る速度は平均的な人間以下。腕力は身体強化の恩恵でドラム缶を凹ませることはできたが、成人男性の方が力があった。

 確かにあの状態からよく生き残れたものだと感じたが、それは伸びしろがほとんどないのと同じことでは――と、追い込まれるように感じて表情を暗くした。

 そんなほむらに、話の続きがあると示すように、杏子はノートを指で叩き視線を向かせた。

 

「不安そうなほむらのために用意したこれはな、魔法の理解力がなくても、基礎が疎かでも、資質がなくても、どんな魔法少女でも、強さの源である因果の糸を無理やり身体に縫い付けて、手っ取り早く力を手に入れられる代物だ」

 

「そんな夢のような道具があるとは思えないけど」

 

「そんな夢のような道具なんだ――と言えたら良かったけど、もちろんこの話には裏がある」

 

「その裏って……」

 

「使用者が魔女になるクソみたいな(リスク)だ」

 

 うまい話には裏がある。夢のような道具と言われたそのノートには、大きなリスクがあった。

 杏子の言うリスク。それは、魔法少女にとって最悪の末路である魔女化だ。

 その代わり、魔法少女としての能力を大幅に向上させる力を誰でも手に入れられる、まさにハイリスク・ハイリターンの代物であった。

 

「ところで、どうして魔女化するのか教えてもらえるかしら?」

 

「そうだな……あんたの魂の器にはあんたの魂が入っているだろ? そこに無理やり他人の魂を入れたらどうなると思う?」

 

「想像はできないけど、何となくの予想はつくわ。つまり、その道具は杏子の言う他人の魂を無理やり入れる行為で、それによって因果を背負うことになるのね?」

 

「細かいことは知らないけどね。ただ、魔法少女を殺す手間も無い。誰かを護る必要も無い。持っている資質に縛られず、他の子の力を手軽に受け取れる。ただし、強い拒否反応を引き換えにな」

 

「それに耐えられなければ魔女化する」

 

「そういうことだ」

 

 ソウルジェム――死者の魂を再利用して作られたマミの魔道具。魔法少女の力の源が組み込まれたそのノートは、もはや呪物と言える代物だ。

 強い覚悟や意思を持たない魔法少女が漠然と力を求め、この魔道具に手を伸ばせば、ほぼ確実に魔女化へと誘われるだろう。しかし、これから使用する暁美ほむらは、そんな魔法少女とは一線を画す意志と覚悟を持つ者だ。

 

「あんたの精神力は並大抵じゃない。他の子ならとっくに狂っている時間を――いや、とっくに狂ってるんだろうな。じゃないと、ここまで生き延びることなんてできない。だからほむらに託したんだ」

 

「それでも失敗すれば――」

 

「あんたは魔女化して、あたしに処理される」

 

 確実に扱えると信じているからこそ、杏子はこの魔道具を渡す決意に至った。それだけの資格が彼女にはあると確信しているが、ほむらの言う通り失敗すれば魔女化は避けられない。

 万が一、億が一の確率でもその可能性を完全には捨てきれない。しかし、魔女化のリスクがあろうとも、この世界を生き抜くための力を求めている彼女は、立ち止まることはなかった。

 

「私は強くならないといけない。まどかを護るために、どんな犠牲を払ってでも走り続けた――こんなところで、まどかの未来を手に入れた世界で死ぬわけにはいかないのよ」

 

「そうだ、ほむら。まどかと一緒に生きていたいなら、こんな所でくたばる暇はないんだ。その覚悟が今でも失われていないのなら、こいつを扱うことができるはずだよ」

 

 一度は強烈な怨念を感じて手を引いたが、今は違う。まどかを救うために走り続けてきた意思は今も変わらず、この世界で彼女と共に歩み、護り続けるために、ノートへ手を伸ばした。

 

「何よこれ……」

 

 多くの魔法少女の魂が封じ込められたノート。意を決してページを開くと、そこには文字の羅列はなく、子どものお絵描き帳のように様々な配色で描かれた絵があった。

 不規則に見えながらも、一定の形や配色で描かれたその絵は、どこの美術館や画集でも決して見ることのできない、まさに魂を宿す絵画だった。それなのに、ほむらには見覚えがある気がしてならなかった。

 一度ではない。何度も、何度も、数えるのも億劫になるほど目撃した既視感に、彼女は襲われていた。

 

「もしかして、魔女の結界の……絵?」

 

 まるで魔女の世界をそのまま貼り付けたような絵画だった。

 その絵を見たほむらは意識が虚ろになり、引きずり込まれる感覚が体を巡った。無意識のまま彼女は手を伸ばし、絵に触れた――その瞬間。

 

「うっ!?」

 

 突然襲ってきた不確かな何かから、心が蝕まれる感覚に囚われる。小さな虫が皮膚の内側を突き破り、うじゃうじゃと這いずり回るような強烈な不快感が体中に駆け巡り、耐えきれず悲鳴を上げた。

 吐き気を催すほどの不快感。彼女は反射的に引き剥がそうとしたが、その意思とは無関係に、手は吸い込まれ離れなかった――まるで、魂と魂を結合させるかのように。

 彼女の精神は奈落の底にある暗闇の中へと落ち、悪意の濁流に逆らえず、無抵抗の意識が飛ばされる。突如襲われた感覚は肉体の輪郭を曖昧にされ、ただ思念体だけが虚無の中に漂っているような状態に陥った。

 

「ここは……どこ……?」

 

 目の前に広がるのは魔女の結界。目に優しくない色とりどりの物体は、意識が朦朧としている彼女には毒であるはずなのに、自分がどこにいるのか、何をしているのか、すべてが分からなくなっていた。

 精神と意識が錯乱し、現実感が次第に失われていく中、ぼんやりとした意識と視界の中で、目の前に何かが現れた。

 

「ちょうだい……あなたの体、ちょうだい……」

 

 ほむらと同じように揺らめく思念体。意識が混濁しつつも、その思念体が近づき、手を伸ばそうとしているのが分かった。

 近づくにつれてその存在は明確になり、ぼんやりしていた輪郭がはっきりと浮かび上がる。薄れる意識の中で、その姿が徐々に形を成し、伸ばした腕が喉元に迫ってくるのが見えた。

 そして、この思念体がノートに封じ込められた魂の持ち主であることも、ほむらには理解できた。強烈な怨念と化した者が、ノートに引きずり込まれた少女の肉体を奪おうと、手を伸ばしているのだと。

 

「私の……ワタシノ、カラダ……!」

 

 冷たく執拗な手がほむらの細い首を鷲掴みにする。手のひらからじわじわとほむらの精神が侵食され、まるで氷の刃が押し当てられているようだった。

 ほむらの息が止まり、意識が薄れ、心の奥底が蝕まれ、すべては彼女のものになる。渇望した肉体、魂の器を手に入れると確信したのか、亀裂が入るほど破顔し、狂気に満ちた表情をのぞかせた――が、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。

 

 狂気に満ちた表情をのぞかせていたのは、彼女だけではない。

 

「ギャッ!?」

 

「あげるわけ、ないでしょう……まどかが看取られるまで、私は死ねない……」

 

 ほむらに宿すまどかへの狂気。狂気に蝕まれた精神を、より強い狂気で弾き飛ばし、首を捕まれたことで肉体の輪郭を取り戻し、そのまま彼女の腕を掴み取ると全身の力を込めて握りつぶした。

 この精神世界では折れた骨が飛び出し、血しぶきが吹き出すことはなかった。しかし、肉体らしきものが強制的に崩され、苦痛に染まったうめき声が彼女の口から漏れ出ていた。

 

「寄越しなさい……あなたの因果を……っ!!」

 

 腕を砕いたほむらは、うめき声を上げている彼女の喉元に向けて腕を伸ばし、鷲掴みにした。腕を砕いた力のまま掴まれた彼女は、先程のうめき声を上げることすら許されず、無力に抵抗を試みる。だが、ほむらには一切の躊躇はなかった。

 冷酷なまでの決意を込めて、彼女は力任せにその首を握りしめ――不自然に割れるような音が、虚無の中に響き渡った。

 ほむらが掴んでいたモノには先程までの力が感じられず、あるべきではない方向にだらしなく傾いていた。

 彼女は思念体だ。実態のない、魂だけの存在。しかし人として形をなしていたモノの急所を無理やり壊し、一つの命を無慈悲に奪い去った後の冷たい感覚が、彼女の手のひらからどうしようもなく伝わってきた。

 

「……ごめんなさい」

 

 ほむらの口から、自然とその言葉が漏れ出た。

 後悔はしていなかった。震えてもいなかった。もし無抵抗でいたなら、目の前にいた少女に精神を壊され、ほむらが先に命を落としていただろう。だからこそ、自分が取った行動を否定するつもりはなかった――が、謝罪の言葉は無意識のうちに口をついて出てしまっていた。

 そうして、まるで役目が終えたように彼女の意識が遠のき始め、目の前の全てが暗闇に包まれてしまい――目を覚ましたときには、ほむらが見慣れた人間の面影を見上げていた。

 

「大丈夫か、ほむら」

 

「……気絶、していたの?」

 

「五分程度。気分――は、聞かなくても分かるか」

 

「えぇ、最悪の気分よ……」

 

「頑張ったな、ほむら」

 

 杏子がそう言いながら、膝枕を受けているほむらの頭を優しく撫で始めた。

 頭を撫でられるのはいつぶりだろう――そう思いながら、ほむらは体に残る疲労を隠せず、無抵抗に杏子の手を受け入れる。瞼は重く、目を細くし、手のひらから伝わる優しさを一心に受け止め、放心していた脳は少しずつ回復した。すると、撫でられていることを切っ掛けに、両親に撫でられた記憶がふと浮かび上がった。

 魔法少女になる前。心臓が弱く、療養のためになるべく空気が綺麗な見滝原市へと引っ越しした以前の記憶。一人で生活するのは寂しいと感じていたが、そんな彼女を安心させるようにほむらの両親は彼女を抱きしめ、撫でていた。

 

「(懐かしいわ……)」

 

 病院生活が長く、気がしれた友人が少なかったほむらは、両親のように他人から髪の毛を触れられる回数は少ない。長いループを重ねていた関係上、ほむらには遠い記憶に思えて仕方がない大切な思い出――と、考えていたのだが、妙に撫で慣れているような矛盾も感じてしまい、疑問符を浮かばせた。

 そして、数秒思考を巡らせた彼女は思い出してしまう――最近の自分は、思っていたよりも頻繁に頭を撫でられていたことを。

 

「おっと、もう良いのか?」

 

「ええ、ありがとう杏子」

 

 誰かに甘えないようにしていたはずなのに、平和を取り戻した今では特定の人物に甘えていた事実に気づき、ほむらは彼女の膝から頭を離していた。

 いきなり起き上がったことに杏子は驚きつつ、調子は大丈夫なのかと心配の声をかけていたが、お礼の言葉を述べていた。

 

「それじゃ、ほら」

 

「グリーフシード?」

 

 ほむらが起き上がると、魔力を使っていないのにも関わらずグリーフシードを渡される。しかし用途は一つしかなく、ソウルジェムを取り出すとそこには、先程まで汚れてはいなかった紫色のソウルジェムが黒く変色していた。

 ノートに封じ込められた因果を奪った際、強烈な不快感やストレスで汚れが溜まったのだろう。そう思いながらほむらはグリーフシードを使い、汚れを吸収させる。不快感が取り除かれる感覚に一息ついたが、それだけではなかった。

 

「凄い、不思議と力があふれてくる感覚がある。以前の自分では使えないはずの魔力が、身体の内から湧き上がってくるわ」

 

「とりあえず上手くいったみたいだな」

 

 何事もなく終わると分かっていたが、魔女になるリスクは完全に拭い去れない。しかし魔女化することなく、予定通りに事が運び、魔法少女としての力が増したことを確認した杏子は安堵の息を吐いていた。

 彼女が安堵している反面、ほむらは一つの疑問を抱いていた。

 

「……杏子は、この道具を使ったことがあるの?」

 

 一人の因果を奪うことでどれほどの力を得られるのか。自分の身体で理解したからこそ、その疑問を抱かざるを得なかった。

 杏子は因果を奪い強くなった。既に圧倒的な力を有している今、さらに力を求めるならマミが残したこの道具を使い、彼女のように飛躍的な能力を手に入れられるのではないかと考え、口にした――が、その答えは首を横に振る杏子の姿であった。

 

「実は一回だけ使ったんだ。でも、ほむらが想像してる使い方じゃないよ」

 

「どういうこと?」

 

「ほら、こいつが元になってるのはソウルジェムだろ? 使い方は違うけど、それを利用して会いたい子がいたんだ……まあ、結局ダメだったけどね」

 

「会いたい子って……」

 

「なんとなく想像ついてるだろうけど――この子だよ」

 

 この子だと言い、肩を竦めながら取り出したのは見慣れない緑色のソウルジェムだった。

 生きている魔法少女が持っている物とは違い、光は完全に失われている。生気がないのがはっきりと分かるソウルジェムを、杏子は悲しそうに見つめていた。

 

「ここにある大量のジェムに意思はないけど、機能の一部は残ってた。強制的に延命して、再利用して、この魔道具が作られた。だからこの子も――あたしが最初に殺した魔法少女のソウルジェムも、残ってたんだ」

 

「もしかして、他のソウルジェムもその状態に……?」

 

 杏子が手に持っているソウルジェムの状態から、大量に残されたソウルジェムも同じく光を失い、ただの魔力を持った魂と化しているのだろう。そう問われた杏子は静かに頷いていた。

 しかしたった一つだけ、このソウルジェムだけは他とは少し違っていたと語りだした。

 

「ただ、この子だけは光を絶やしていなかったと思う――不思議だったんだ。見滝原に入ってから、あたしの魔力が強まるごとに、あの子に近づいている感覚があった。挙句の果てには幻覚まで見えて……でも、少し納得した」

 

「納得?」

 

「見滝原にはマミの魔力が満ちていたろ? このソウルジェムも、マミの魔道具の一部として組み込まれてた。満ちた魔力を通して、この子の魔力も漂っていたんだ。固有魔法の強い回復力のおかげで、命の灯火を絶やさないようにして、あたしの魔力を見つけてくれたんじゃないかって」

 

「絶やさないようにって、そんな状態で生きていたの?」

 

「仮死状態って言えばいいのかな。あたしが部屋に踏み込んだときには、完全に消えたけど、形跡が残ってたんだ……もしかしたら、あたしが来たことに安心してくれたのかもしれないね――この子を殺した張本人なのにさ」

 

 緑色のソウルジェムを優しく抱いている杏子の姿は、慈愛に満ちていた。

 その宝石が、彼女の背負う十字架であることはほむらも知っている。どんな気持ちでそのソウルジェムを持っているのか、本人にしか分からない。ただ、それが彼女の救いになるなら、本来部外者である自分は口を挟むべきではないと思い、静かにその姿を見つめていた。

 

「それと、あたしが引き継いで封印してるから感知できないと思うけど、大本があるマミの部屋を漁るのは止めときなよ。」

 

「そんなことしないわよ。一部を読んだだけでこれなら、その源に触れれば良くない結果になるわ」

 

 グリーフシードを既に使い終わり先程の穢は取り除かれたが、その穢は魔女と戦い終わった後以上に蓄積していた。

 杏子から強靭な精神力を称賛されたが、一度利用しただけでこれほど穢れてしまうのなら、この魔道具を全て使い切れば、魔女化するのは容易に想像できる。ほむらはそんな自殺行為はごめんだと口にしていた。

 

「危険な代物かもしれないけど、耐えてしまえば自分の力を何倍にも高められる。魔女化を逆手に取って悪用することもできるんだ。強制的に触れさせることでね」

 

「恐ろしいわね」

 

「かもしれない――でも、そんな恐ろしい道具を使って、暁美ほむら。あんたは力を手に入れる必要がある。これから先も生き続けるために、今のままじゃ圧倒的に力不足なんだよ」

 

 杏子は、現状のほむらが力不足であることを率直に指摘した。それは、彼女自身もよく理解している問題だった。

 このまま戦い続けるには、どう足掻いても力が足りない。さやかでさえ、魔法少女になったばかりの頃から、たった一人で魔女と戦い、余裕を持って制する力を有していた。

 ほむらの武器が盾であることを考えれば、今までよく戦ってきた方だ。しかし、これからも戦い続けられるかと言われたら、答えは否だろう。だが、それだけではない。杏子がこの魔道具をほむらに手渡すのには、もう一つ大きな理由が存在していた。

 

「これはあたし個人の意見だが――あたしは、あんたを失いたくないんだ。だから、この力を受け取って生きていて欲しい」

 

「……もしかして、口説かれてる?」

 

「あ、いや……んんっ」

 

 それは、杏子が抱えていたもう一つの率直な感情だった。

 ほむらが他の魔法少女や魔女たちに殺されるのを見たくはない。ワルプルギスの夜という巨悪に立ち向かい、生き残った大切な仲間を失いたくない。そんな思いが全面に出た言葉は、まるで口説き文句になってしまい、杏子は赤面を隠せず誤魔化すように咳払いをした。

 

「と、とにかく、あんたはまどかのためにこの力を受け取ればいい。分かったな?」

 

「……まぁ、いいわ。可愛らしい姿を見れたから許してあげる」

 

 先程まで、ほむらの命や世界の運命に関わる真面目な話をしていたはずだ。

 しかし、口説いているなどと意図していなかった状態を引き起こし、いつの間にか照れ隠しのようなやり取りに変わってしまったことに、杏子は少し困惑し頭を掻いた。

 

「それと、読むときはここで読むんだよ。外に持ち出すのは厳禁。できれば、あたしが近くにいるときに読んでほしい」

 

「読み終わったらどうするの?」

 

「ノートは燃やして、ソウルジェムは教会で供養したい。少しずつ丁寧に、あの子たちをあの世に送ってあげたいんだ」

 

「そう、杏子らしいわね」

 

「ただの自己満足だよ。マミの部屋を引き継いだあたしができる唯一の手向けさ。恨まれて当然のことをしてるんだから、誰かに褒められることじゃない」

 

「それでも私だけは言わせて。杏子のそういうところ、とても好きよ」

 

「これ以上は何も言わないからな」

 

「ふふっ、それは残念」

 

 暫くはからかわれそうだ――杏子はそう思いながらも、ほむらの笑顔を見て困ったように微笑んでいた。

 話しが一通り終わると、杏子は緑色のソウルジェムを大切にしまい、机に置いていたノートを手の届かない場所に保管しようと立ち上がった。

 そんな、小走りでマミの部屋に向かう杏子の姿を見て、ほむらはしみじみと思うことを口にしていた。

 

「それにしても、マミの家を本当に引き継げたなんて、今でも信じられないわね」

 

「あー? まぁ、ほむらが言う通り、あたし一人じゃ何もできなかったよ。こうして他人の家を自由に出入りできるようになったのも、色んな人が手伝ってくれたおかげだ。引き継いだ今でも見慣れない書類と格闘して――」

 

 子供が後ろ盾もないまま、血の繋がりがない他人の家を引き継ごうとするのは無理難題だ。

 元の持ち主から家を任されたと言われても、用意された書類があったとしても、簡単に事が運ぶ話ではない。それは世間知らずの少女たちにも理解できていた。

 だからこそ、ほむらはその問題を乗り越えたという現実を今でも不思議そうに口にしていたのだが――そんな、赤の他人の家の扉を、インターホンも鳴らさずに開ける者が現れた。

 

「杏子ーただいまー!」

 

ドタドタと遠慮のない足音で現れたのは、見滝原市のパトロールを日課にしている美樹さやかだった。

 

「まったくさやかは……おい、さやか! これでも他人の家なんだから、インターホンぐらい鳴らしなよ!」

 

「えー、別にいいじゃん! 誰が来るかなんて分かってるんだからさー! ほむら、学校ぶり! モモちゃんはお部屋かな~?」

 

「ええ、学校ぶり――って、もう見えないわね」

 

 半ば諦めている何度目の忠告を聞き流していたさやかは、彼女たちの話も最後まで聞かずにモモの部屋へ向かってしまう。すると、喜びを露わにして楽しげにじゃれ合う二人の声が、リビングにいる杏子たちの耳にも届いていた。

 

「街中を走り回ってたとは思えないわね」

 

「元気なのはいいけど、元気すぎるのもなぁ」

 

 迷惑そうに言いながらも、大きな怪我一つないさやかの姿に表情を少しばかり緩ませる。そして、身体に目立つ傷はなくとも、精神的には疲れているだろうと考えながら、杏子は中身が減っていた紅茶を淹れ直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやーごめんね、モモちゃんと遊んでて」

 

「モモが楽しそうにしてた声、こっちの部屋まで届いてたよ。いつもありがとうな」

 

「なーに言ってるの。モモちゃんが可愛いから勝手に抱きしめたくなっちゃうだけだって! ……って、このケーキもしかして手作り!?」

 

 モモと遊んで部屋から出てきたさやかを迎え、温め直した紅茶とケーキを並べて渡した。ほむらと同じく手作りであることに驚きながらも、早速手を合わせてケーキにフォークを刺そうとしたが――。

 

「っと、それで? さっきは何話してたの?」

 

「ん? あぁ、この部屋をよく引き継げたなって話をしてたんだ。さやかもこの件には大きく関わってるだろ? この部屋が引き継げたのは、さやかのお陰なんだから」

 

「あー……まぁ、あたしは勝手に喋っただけで、実際に手伝ってくれたのは恭介たちだから――」

 

 彼女たちが当たり前のように持つ異能の力。魔法少女という存在は、本来、この世の人々には秘密にされてきた。歴史を紐解いても、魔法少女が文明を支えてきたという記述はない――ただ、かつての偉人たちが不思議な力を持っていたと仄めかされていた記述は、数多く存在していた。

 なぜ魔法少女たちは秘密にされ、歴史から姿を消しているのか。その理由は定かではない。

 世界の混乱を招くからなのか、あるいはマミが言うように()()()()()()()()()()()だからか――それは誰にも分からない。

 しかし、マミが異能の力を使って上条恭介を救い、彼の住む世界にその力を知らしめた事実は覆らなかった。

 それをきっかけに、彼の親友である美樹さやかもまた、異能の力を持つことが明らかになってしまった。

 恭介を含めた親族、さらに親友の志筑仁美にもその秘密が知られてしまったのだ。

 

『久しぶりだね、恭介の家に上がるのは』

 

『そうだね。僕が入院していた時期も合わせると、一年以上ぶりかもしれない』

 

 見滝原市に突如襲いかかった大災害による復興作業の影響で、学生たちは一時的に休校を余儀なくされた。その休みの間に恭介から誘いを受けたさやかは、久しぶりに彼の家を訪れていた。

 部屋の中は目新しいものはなく、相変わらず恭介らしい空間だという感想以外に思い浮かぶことはなかった。強いて言うのなら、怪我で手付かずだったバイオリンを練習するために、新しいCDや楽譜が散らばっていること以外は特に変わらない。

 かつては意中の――魔法少女になる前は恋仲として付き合いたいとまで思っていた男の子の部屋。にも関わらず、さやかの表情はどこか涼しげで、やはり恭介の部屋だなという印象しか浮かび上がらなかった。

 

『それにしても良いのかな? 初めての彼女ができたっていうのに、もう他の女の子を部屋に連れ込むなんて。いやー恭介君も悪い男になったもんだねぇ』

 

『さやか、それなんだけど――』

 

 さやかの言う通り、恭介には今、仁美という恋人がいる。彼にとって初めての恋人だ。かつて同じ意中の相手だったはずのさやかも心から祝福し、二人は命がけで護るべき存在でもあった。

 ワルプルギスの夜という巨悪を乗り越えて早々に、彼の部屋を訪れることになるとは思ってもいなかったさやかは、仁美のこともあり断ろうとしていた――が、恭介の真剣な声色と表情に断ることができなかった。

 もっとも、仁美という彼女がいる状況で他の女の子を部屋に連れ込むなんて、少し手が早いんじゃないか――そんな冗談を軽く言ってみせる程度には余裕があり、その言葉に対する恭介の反応を見ようとしていたのだが、彼が反応をする間もなく、ここにはいるはずのない彼女が部屋の扉から現れたのだった。

 

『もちろん問題ありませんわ。何故ならさやかさんの親友であるこの仁美、お先に来ておりましたの』

 

『え、仁美? 先に来て……えーっと、これはどういう――』

 

『ごめん、さやか! 僕たち二人は君と話したくて、騙すような真似をしてしまったんだ!』

 

 押しの強い仁美が恭介のそばにいれば、もしかしたらいつかこうなるのでは――と、さやかは思ってはいた。しかしこんなにも早くその時が来るとは思わず、少し面食らいながらも二人に目を向けていた。

 そんなさやかに申し訳なさそうに頭を下げる恭介に対し、仁美は堂々とした面持ちでさやかに視線をぶつけている。今度は決して逃さないと語るように。

 

『(なんだか大変なことになっちゃったなぁ)』

 

 さやかは頭をかきつつ他人事のように思いながらも、立ったままでは落ち着かないと判断し、用意されていた椅子に腰を下ろして話を始めた。

 

『はぁ……まぁ、とりあえず未来のおしどり夫婦のお二人が、こんな私に一体何を聞きたいわけ?』

 

『マミさんとのご関係についてですわ』

 

『マミさん? どうして仁美がマミさんの……知ってると思うけど、マミさんは私たちの学校の――』

 

『魔法のような力について、だよ』

 

『先輩、だよ……』

 

 さやかは一瞬、まさかと思いつつも、マミとの関係を尋ねられたので、学校の先輩だと答えて終わらせようとしていた――その矢先、恭介が魔法少女に関する話を持ち出して、さやかの言葉が尻すぼみになった。

 一体どこからそんな話が出てきたのか? そんなことを考えても仕方がないと判断したさやかは、魔法なんて非科学的な話として切り抜けようと考えたが――。

 

『ま、魔法? 何それ? マミさんが? いやいや、それと私に何の関係が――』

 

『巴さんから詳しいことはさやかさんから聞きなさいと言われたんだ。さやか、もう誤魔化せないよ』

 

『はぁ!?』

 

 魔法の話題を持ち出されたとはいえ、それがさやかに関連するとは誰も証明できないはずだ。もし彼女が二人の前で魔法少女に変身して見せたのなら、否定の余地はない。しかし、さやかはその力の片鱗を彼らに一切見せていない。だから、関係がないと突っぱねるつもりだった。

 しかし、同じ魔法少女であるマミがさやかから聞けと明言した以上、反論は難しい。マミ自身が、さやかの繋がりを証明してしまっているのだ。頭の中で、もうこの世にいないマミに向かって悲鳴を上げながらも、迷いに迷っていた。

 

『(あたしは……それでも、仁美たちには話したくない。何とかして話を逸らさないと……)』

 

 たとえマミから話を通されていたとしても、さやかには彼女たちを巻き込みたくない思いがあった。

 一瞬、逃げ出そうかという考えが頭によぎる。しかし、逃げれば追いかけられるのは明白だ。この場で話を終わらせずに立ち去れば、二人は彼女の秘密を知るまで決して諦めないだろう。恭介と仁美の真剣な眼差しに、さやかは追い詰められたような気分になってしまった。

 深いため息をつき、さやかはようやく観念したように話し始める。

 

『それで、マミさんから何を聞いたわけ?』

 

 さやかは重い口を開く。少しでも話題を限定させようと、なるべく淡々と聞き返していた。仁美と恭介が知っていること以上は、絶対に話すまいと心に決めながら。

 仁美はまっすぐにさやかを見つめ、落ち着いた声で答えた。

 

『具体的なことは何も聞かされておりませんの。だからこそ、さやかさんから直接聞きなさい――と、巴さんがおっしゃったのです』

 

 その言葉にほんの少しの安堵を覚えた。

 魔法少女の真実についてすべて知っているわけではなく、魔法という漠然とした概念に触れただけなのだろう。仁美も恭介も、まだこの世界の本当の残酷さには気づいていない――そう、さやかは自分に言い聞かせた。

 

『そっか』

 

 短く答え、動揺を押し隠す。魔法という世界があることは知っているが、巴マミや美樹さやかが具体的に何に巻き込まれ、何をしているのかは分からない――そう仁美が言ったことで、自分たちがどのような契約を経て、どんな運命に繋がれているのか、この二人には知られていないことが分かる。それはさやかにとって唯一の救いだった。

 

『(これ以上深入りされなければ……きっと大丈夫……)』

 

 うわべだけを話し、分かった気になってくれればいい。聞かれたくない部分を隠し通せる状況なら――そう考えていたさやかの希望は、次の恭介の一言であっさりと打ち砕かれることになったのだ。

 

『さやか、僕にはずっと心に引っかかっている疑問があるんだ――どうして僕の身体が治ったのか。さやかは知ってるんだよね?』

 

『っ!』

 

 さやかの心臓が跳ね上がる。彼の身体が()()()()()()()()()――それは、彼女にとって最も触れられたくない秘密だった。

 

『ね、ねぇ恭介、やめようよ。こんな話』

 

『僕は……いや、僕たちは聞くべきなんだ。だから、巴先輩は僕たちが君に直接聞くように言ったんだ』

 

 一呼吸もする間もなく顔を青ざめ制止する親友の姿に目もくれず、恭介は静かに、しかし確かな決意を込めて言葉を続けた。

 

『……今さらそんなこと言わないでよ。あんな辛い日々、もう思い出したくないじゃん。恭介が……恭介が自分で頑張ったんだよ。それだけだって』

 

 着実に踏み込んでほしくない彼女の領域に足を踏み入れているからか、唇はかすかに震え、冷や汗をかいている。必死に言葉を絞り出し、何とか話題を逸らそうとしているのは、二人にも明白だ。

 しかし、恭介は悲しげに首を振り、彼女の目をじっと見つめ――口を開き続けた。

 

『違うんだ、さやか。僕が頑張ったとか、そんなことじゃないんだよ。あれだけの努力や希望を持っても、医者は僕に限界だと言った。それでも治ったんだ。あれは、ただの努力じゃ説明できない――奇跡なんだ』

 

 さやかの表情がこわばる。恭介の問いかけは、真実に迫るからこそ刃のように彼女の胸を貫いていた。

 そう、奇跡だ。恭介の身体には奇跡が起きた。だからこそ、治ったのだ。

 医療の限界を告げられ、絶望に沈んでいた彼の怪我が、一夜にして完治する――そんなことが現実に起きるなど、奇跡としか言い表せない現象であった。

 

 『その奇跡が起きただけだよ。それ以上、何もないってば』

 

 さやかは無理に笑顔を作り、そこで話を終わらせようとした。

 しかし、恭介は止まらない。

 

『僕はただ祈っただけだ。奇跡を起こしたのは僕じゃない……でも、僕以外にも、もう一人祈ってくれた人がいたよね。命をかけて、願ってくれた子が』

 

『……違うよ。やめてよ、恭介』

 

 咄嗟に作り上げた笑顔は容易く崩れ、さやかは動揺を隠せず必死に言葉を遮ろうとする。しかし、彼はまっすぐにさやかを見つめ、真実を求めるようにさらに踏み込んだ。

 

『さやか。僕の怪我を治してくれたのは――君だ。僕が祈っても届かなかった願いに、君が命をかけて応えてくれたんだ。そうなんだろう?』

 

 さやかの心臓が痛いほどに脈打つ。隠し続けたはずの秘密が、今、恭介の言葉で一つずつ剥がされていく。その瞬間、彼女は何も言い返せず、ただ唇を噛み締めていた。

 さやかは答えられなかった。いや、答えたくなかったのだ。

 恭介の言う通りだった。彼の怪我を治すために命を捧げ、化け物と戦う宿命を引き受けた。たとえそれが、人としての生活を捨てることになっても、悪魔に魂を売るような行為であっても――さやかは迷うことなくその手を伸ばした。

 だが、彼を助けたことを理由に何かを求めたり、期待したことは一度もなかった。すべては自分で決めたこと。恭介には何も知られず、ただ穏やかに日々を過ごしてほしかった。それがさやかの願いだった。

 しかし、その願いも今、崩れ去ろうとしていた。

 

『愚かな僕は、親友の命を犠牲にして、やっとの思いでこの身体を手に入れたんだ』

 

『違う……違うよ、恭介。そんなことない。何も関係ないよ』

 

『関係ないわけがないだろう! 僕が、君を無理やりあの世界に追いやったんだ。君が巴さんと同じ運命に巻き込まれることになったのは僕のせいじゃないか!』

 

『違うよ……あたしが自分で決めたんだ。誰のせいでもない……誰にも、関係ないんだ……』

 

『さやかさん! もし本当にあなたが巴さんと同じ世界にいるなら、私たちが知らないうちに行方不明になる可能性だってあるのでしょう? ならば、さやかさんの親友であるこの志筑仁美、関係ないとは言わせません!』

 

『お願いだ、さやか。本当に僕たちのことを想ってくれるなら、君の口から真実を聞かせてほしい。僕にも、君の覚悟を背負わせてほしいんだ』

 

 恭介と仁美の視線がさやかに向けられる。その目には、ただの好奇心ではなく、親友としての真剣な思いが込められていた。

 何も知らぬままにさやかを支えることができない自分への不甲斐なさ。そして、さやかが命を懸けて護ろうとしているものの重さに気づき、彼らはその覚悟を共に背負おうと決意していた。

 さやかは視線を落とし、震える拳を握りしめる。今まで隠してきたことを、打ち明けるべきなのか。この二人に、自分が負っている宿命を知ってもらうべきなのか。

 心の中で、答えを出すまでの沈黙が続く。しかし、その沈黙が重くのしかかるほどに、さやかの心は、次第に削られていった。

 

 さやかが必死に説き伏せようとしても、仁美と恭介の想いは揺らぐことはない。彼らにとって、さやかの存在は単なる知り合いではない。彼女が命を懸けて戦っているということだけでなく、その裏で抱えている苦しみを理解したい、支えたい――そう強く願っていた。

 見滝原中学校で唯一の行方不明者となった巴マミ。あの大災害以来、彼女と連絡が取れず、学生の間でも彼女の消息については噂が絶えなかった。そのマミと同じ力を持つさやかが、いつか彼女と同じように忽然と姿を消してしまうのではないか――彼らにはそう思わずにはいられなかった。

 

『これはあたしの覚悟だ。あたしが決めたんだ。誰のものでもないあたしだけの覚悟……だから、無理に関わる必要なんてない』

 

『それは違いますわ! 私たちはさやかさんのことが大切なんです。大切な人と関わり合いたい、理解し合いたい――それは悪いことでしょうか?』

 

『今更虫のいい話かもしれない。でも、聞いてほしいんだ。僕が間違いだった。愚かだった。君を失うぐらいなら、僕は腕なんてなくても――』

 

『だから止めてよっ! 仁美も、恭介も! あたしは二人に幸せになってほしいだけなんだよ! 恩着せがましく何かをして欲しいなんて、そんなこと思ってない!』

 

『私たちの幸せを願ってくださるなら、あなたも幸せでなければ意味がありません! どうして私たちの世界の中にさやかさんが含まれていないと思われているんですか!?』

 

『っ……』

 

 仁美の熱意ある言葉に、さやかは一瞬言葉を失った。彼女にとって、仁美の存在は護るべき対象であり、遠ざけておきたい存在だった。

 だが、仁美にとっては違う。彼らはさやかに護られるだけの存在ではなく、大切な親友と共に幸せを分かち合いたいと願う存在だったのだ。

 

『僕たちは君の言うことを聞くつもりはない。君が()()()してきたことを、ただ素直に受け入れてしまったら、それは親友として失格だと思う。僕たちは君と一緒に生きていたいんだ』

 

 恭介の言葉が、さやかの心に鋭く突き刺さる。彼らの真剣な眼差しに、さやかは戸惑いながらも、心の奥底で感じていた孤独が少しずつ崩れ始めるのを感じた。彼女にとって、魔法少女としての戦いは一人で背負うべきものだった。しかし、目の前にいる二人の親友は、それを一緒に背負おうとしていた――が、今更、彼らが何を言おうともう遅い。

 さやかは足を踏み入れた。決して折れることのない意思を形成し、二度と戻ることができない世界へ踏み入れたのだ。

 何を言われようと自分が選んだ道は、彼らとは異なる世界であり、彼らを巻き込むことは許されない――そう信じていた。

 

『ごめんね、何もかも遅いんだ。必要以上に関わるべきじゃない。あたしとは生きる世界が違う。見て見ぬふりをしていれば、みんな幸せになれる。それで良いんだよ。お願いだから、もうほっといて欲しい――ごめんね』

 

 無理やりに話を切り上げ、立ち去ろうとするさやか。しかし、その背を追いかけてきた恭介と仁美は、さやかの両脇から彼女を抱きしめ、行く手を塞いだ。

 

『言っただろう! 僕たちは君のお願いなんて聞く気はない!』

 

『さやかさんが一緒にいてくださるまで、私たちは決して離れませんわ!』

 

『なんで……もう、いいじゃん……恭介は身体が治って、仁美は恋のライバルが消える。それで、この話は終わりで良いんだよ。みんな救われるんだよ……』

 

『大切な親友を捨ててまで得られる救いに価値なんて無い!』

 

『さやかさんと共に歩めるまで終わりませんわ!』

 

 二人に挟まれて身動きが取れなくなり、その場に立ち尽くしてしまう。彼女が本気で力を解き放てば、二人を無理やり引き剥がすことはできるだろうが、さやかにはできなかった。

 大切な彼らを傷つけたくないという理由だけではない。恭介と仁美の真っ直ぐな想いが、かつての魔法少女ではないさやかがマミに対して、自分の願いを押し通した時の気持ちと重なって見えてしまったからだ。

 

『(あはは、マミさんも……私の願いを聞いたとき、こんな気持ちだったのかなぁ……)』

 

 命をかけて、恭介の身体を治したいと覚悟を決めたあの日。魔法少女になりたいと啖呵を切ったさやかは、あのマミに何を言われようとも引き下がることはしなかった。

 目の前に映る彼らはそのときの自分自身を見ているようで、今の自分が抱いている気持ちが当時のマミの気持ちだったのだろうと考えてしまい、その軌跡をなぞるように口を開くことしかできなかった。

 

『恭介の腕……私の命をかけても後悔はなかったよ。そんな重い女の子が近くにいるんだよ? 仁美だって、あたしが近くにいたら、折角付き合えた恭介を取られちゃうかもしれないんだよ?』

 

『優柔不断で、人の気持ちを無視していた僕を、それでも大切にしてくれる親友がいる。本当に嬉しいよ』

 

『望むところですわ。さやかさんがどれだけ想いを寄せようと、私の愛を見せつけてあげます』

 

 魔法少女の願いが叶わないように、さやかの望んだ世界は彼らにとって必要のないものだった。人と化け物が共に歩む世界を、彼らは望んでいたのだ。

 

『あぁ……あたしって、ほんとに馬鹿だな……』

 

 彼らの言葉と想いが、さやかが纏っていた殻を打ち砕いた。魔法少女として強い自分を作り上げた殻、命を賭けるほどの強い決意で築いたその殻を、彼らは粉々にしたのだ。

 まるで肩の荷が下りたような感覚に襲われたさやかは、自然と涙が流れてしまう。彼女の目元から溢れる涙を止めようと、恭介と仁美が抱きしめ、さやかも二人を抱きしめ返していた。

 

『二人とも、ありがとう。こんなあたしを受け入れてくれて……でも、全部を話すことはできないんだ』

 

『さやかさん……』

 

 彼らの気持ちを受け入れたものの、さやかは自分の状況について話すことはできないと伝えると、仁美たちは暗い表情を浮かべた。

 しかしそれは早とちりであると、さやかは小さく首を振った。

 

『もちろん、なるべく心配をかけないように相談するよ。でも、危険なことには変わりないから、話せないことは話せない。あたしも二人のことは大好きだし、危険な目には遭わせたくない……今、できるのはこれぐらいかな』

 

『あ、歩み寄ってくださるだけで十分ですわ! さやかさん!』

 

『もう、苦しいよ、仁美』

 

 さやかの言葉に安心した二人は、顔を見合わせて喜び、仁美はさやかを強く抱きしめる。人並み外れているさやかの体ははしっかりとそれを受け止め、嬉しそうに涙を流す仁美の背中をさすっていた。

 そんな二人の様子を、安堵の表情で見守っていた恭介が、ふと何かを思い出したようにさやかに声をかけた。

 

『さやか、もう少しだけ時間をくれないかな? 父さんが、話しが無事に済んだら君と話したいと言ってたんだ』

 

『恭介のお父さんが? どうしてあたしに?』

 

『もちろん、さやかさんが関わっている世界のことですよ。恭介くんのお父さんを助けたのは、他ならぬ巴さんですから――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「恭介のお父さんが、マミさんとの関係や不思議な力について聞いてきてさ。正直ほとんど話せなかったけど――息子と未来のお嫁さんのため、そして恭介の体を治してくれた君には、返しきれない恩がある。なんて言ってくれて……もう、どうしていいか分からなかったよ」

 

「そのおかげで、杏子がこの家を引き継ぐ話しを進められたんでしょう?」

 

「ああ、本当に頭が上がらないよ。ほむらの言う通り、あたし一人じゃどうにもならなかった状況を助けてくれたんだから」

 

 見滝原市で有数の名家である上条家と志筑家。その影響力は広く、強い。

 普通の家庭なら、他人の家を引き継ぐのはほぼほぼ不可能であり、仮に可能でも、膨大な時間と費用がかかっただろう。知識も人脈もなく、資金も乏しい杏子にとって、恭介の父の支援はまさに希望の光だった。

 

「今思えば、マミさんは切っ掛けを残してくれたんだと思う。あたしが巻き込まれてる何かに仁美たちが気づいてて、もう隠しきれない状況だったから」

 

()()()()()()()()()()って言葉は、魔法少女だけじゃなくて、普通の人間にも向けたものだったのかもね」

 

 マミがさやかに残した最後の言葉。魔法少女同士で協力する意味だと捉えていた彼女たちだったが、ただの人間である恭介や仁美にも手を差し伸べることを指していたのかもしれない。そう、改めて思わされた一件であったと、彼女たちは勝手ながらに納得していた。

 

「それと、まどかのお母さんも色々気にかけてくれて嬉しかったよ」

 

「まどかの家に泊まりに行ったときだよね。まどかの知り合い――っていうか、この災害で動いていた関係者を集めて、ご飯でも一緒にって」

 

 まどかの母――鹿目絢子は、避難所でまどかを連れ去ろうとするマミに直接声をかけ、死に急ごうとする彼女を止めようとした。しかし、マミの覚悟は人一人の言葉で変えられるものではなく、絢子が提案した食事の約束も果たせなかった。

 その後、まどかを助け出した暁美ほむら、美樹さやか、佐倉杏子の3人は、絢子の願いで家に招かれ、マミとは果たせなかった食事会を共に行う約束を取り付けていた。

 

『ママ! みんなが来てくれたよ!』

 

『おー、まどか、助かったよ! さてと――久しぶりだね、さやかちゃん』

 

『あはは、お久しぶりです。避難所以来ですね』

 

『それと、ほむらちゃん。ほむらちゃんはよく家に来てくれるけど、今日は改めてありがとうね』

 

『お邪魔します』

 

『それと、あなたが佐倉杏子ちゃん……で、合ってるかい?』

 

『は、はい。初めまして、佐倉杏子です。えーと、本日は、お日柄もよく――』

 

『あはは! なんだいその使い慣れてない敬語は! まどかから杏子ちゃんのことは聞いてるから、遠慮しないでタメ口で話してくれていいんだよ? アタシは、素の杏子ちゃんと仲良くなりたいんだからさ』

 

『あー……すみません、敬語とか使い慣れてなくて。そう言ってもらえると助かります』

 

『本当に、いつも通りでいいんだよ?』

 

『い、いや、さすがに失礼だと思うので、その……』

 

 杏子はぎこちなく視線を逸らしながら返事する。緊張しているというよりも、失礼にならないようにと気を遣いすぎてたどたどしくなっている様子に、絢子は微笑を浮かべた。

 彼女の目には、杏子がとても行儀の良い子に映っていたのだろう。彼女の気遣いや誠実さが、自然と伝わってくるようだった。

 そんな、緊張を隠せずにいる杏子の手をそっと取ると、その手を両手で優しく包み込んだ。杏子は少し驚いた表情を見せながらも、逸らしていた視線が自然と彼女の顔に向いた。

 

『ほむらちゃんもよく家に来てくれるからね。杏子ちゃんがどれだけ頑張って、みんなを助けてくれたかって。お礼を言うのが遅れてしまったけど――娘の命を助けてくれて、本当にありがとう』

 

『そんな、あたしはお礼を言われるようなことなんて……』

 

『アタシの大切な家族を助けてくれたんだ。だったら、アタシがお礼を言うには十分すぎる理由だよ』

 

『ち、違うんです、あたしたちは――』

 

 杏子には何も知らない絢子から伝えられる純粋な言葉が、かえって重く感じられてしまう。自分にはお礼を言われる資格はない。そこまで杏子は何かを言いかけたが、言葉は続かなかった。

 

『杏子ちゃん』

 

 あまりにも突然のことで、杏子は戸惑いを隠すことができず硬直してしまう。杏子の葛藤を感じ取った絢子は、迷いなくそっと引き寄せて抱きしめたのだ。

 

『アタシたちは杏子ちゃんたちの事情を、詳しく知っているわけじゃない。でも、杏子ちゃんやみんなが何とかしてくれたことは事実だ。だから、せめてものお礼を言わせてほしいんだよ』

 

『……』

 

 杏子は何も言えず、絢子の腕の中で身を縮めていた。その姿がどこか幼く見えたのか、絢子はそっと手を離し、優しく微笑んだ。

 

『ごめんね、急に抱きしめちゃって』

 

『いえ……あたしこそすみません。気を使わせてしまって』

 

『いいんだよ。杏子ちゃんは子供で、アタシは大人だ。いっぱい甘えてくれたら嬉しいもんなんだよ……さ、玄関で立ち話ばかりさせちゃって申し訳なかったね。みんなも家に入りなよ』

 

 絢子に促され、少女たちはリビングへと案内された。そこには、食事の準備をしているまどかの父、知久の姿があり、まどかの弟であるタツヤも嬉しそうにリビングを駆け回っていた。

 

『やあ、みんな。今日は来てくれてありがとう。食事の用意はもう少しかかるけど、それまで待っていてほしいんだ』

 

『パパの料理は絶品なんだよ! ねー、タツヤ』

 

『あい! 姉ちゃ、ほむら、さやか! ……う?』

 

 まどかからにこやかに話しかけられたタツヤは同じく笑顔で返し、ほむらとさやかに名前を呼びながら指を指す。しかし、普段見慣れていない杏子に視線が移ると、首を傾げていた。

 

『こんにちは、あたしの名前は杏子だ。よろしくな』

 

 タツヤに向かって、自分に敵意はないと優しく微笑みながら自己紹介をする。先程の絢子と同じくタツヤの目線に合わせるようにしゃがみ、小さな頭を撫でていた。

 

『きょうこ……? きょうこ!』

 

 彼女の優しい眼差しと柔らかな声が、タツヤに安心感を与えたのだろう。タツヤは一瞬、不思議そうに杏子を見つめていたが、すぐに嬉しそうな表情になり、名前を呼びながら杏子の懐に飛び込んだ。

 

『もータッくんったら、お姉ちゃんにもそれぐらい甘えてくれていいのに』

 

『まどかは毎日いるからね。でも手慣れてるようだけど、もしかして弟妹がいるのかい?』

 

『はい、モモっていう妹がいます。小学生だからこの子よりは大きいですけど』

 

『そっか、その子も誘えば良かったかもしれないね』

 

『えーっと、それは……』

 

『まどかのお母さん! く、詳しい話は後にしませんか?』

 

 施設にいる妹の話題が出て、バツの悪そうな表情を浮かべた杏子に、さやかがさりげなく助け舟を出す。絢子もその様子を察して、小さく頷いた。

 

『ん……そうだね、せっかくの食事だもんね。ごめんね、杏子ちゃん。さやかちゃんもありがとう』

 

『いやいや、全然大丈夫です! とりあえず、私たちは邪魔にならないようにまどかの部屋に行ってきますね! ほら、みんな行こう!』

 

『ちょ、ちょっとさやかちゃん押さないで! それじゃあママ、また後でね!』

 

『よっと……タッくん、また後でな』

 

 まどかはさやかに背中を押されながら階段を上がり、ほむらは小さくお辞儀してその後をついて行く。杏子も抱えていたタッくんを絢子に渡し、ほむらに続いてまどかたちの後を追った。

 

『はぁ……まったく、アタシったらダメだね。子供たちに気を使わせちゃって』

 

『ちょっと肩に力が入りすぎてるのかもね。ほら、リラックスして』

 

 知久はそう言って、少し落ち込んでいる絢子の両肩にそっと手を置き、軽くマッサージを始めた。

 彼の穏やかな手のひらが、張り詰めていた絢子の気持ちを少しずつほぐしていく。絢子は知久に少しもたれかかり、彼の優しさに甘えるように目を閉じた。

 

『話をして、あの子たちにできることがあればいいんだけど……』

 

 妻の不安を感じ取ったのか、知久は優しく微笑み、そばにいたタツヤも含めて彼女を抱きしめた。

 彼の腕の中で、絢子は少しだけ肩の力を抜き、家族の温もりに身を委ねている。家族を護ってくれた女の子ために何かをしたいという気持ちと、自分に何ができるのかという迷い。その両方が、純子の胸の中で渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あたし、ここに来て良かったんだよな?』

 

『急にどうしたの? もしかして居心地悪かった?』

 

『いや、なんだかね……』

 

 絢子の優しさは本物だった。裏表のない言葉で、心から感謝を伝えてくれていることは、杏子だけでなくその場にいる少女たちも感じていた。

 彼女は、目の前にいる一回り小さな少女が見滝原を救い、家族を救い、まどかを救ってくれたことを知っていて、それに心からの敬意を持って接している。杏子たち魔法少女にとって、絢子のまっすぐな想いは、少し戸惑いすら感じさせるものだった。

 

『慣れてないのよ。最近の私もそうだけど、一般人から魔法少女のことについて触れられるのは、妙な感じがするわ』

 

『確かに! 誰かからありがとうなんて言われたことほとんどないもんね』

 

 さやかたちは感謝を求めて街を護っているわけではなく、何かの見返りが欲しいわけでもなかった。

 魔女を倒し、街の人々を護る行為が命がけであっても、それは自分たちで決めたこと。だが、いざこうして正面から感謝の言葉をかけられると、魔法少女とは無縁な一般人からのその言葉に、妙な居心地の悪さを感じるのも確かであった。

 

『でもさ、杏子は慣れてるはずじゃないの? 魔法の力を使って仕事してるって聞いたし』

 

『うーん、それはそうなんだけど、仕事は利害の一致ってやつだろ? でも、まどかのお母さんみたいに純粋なお礼を言われると、なんかむずがゆいんだよ。しかもあたしのことを凄く良い目で見てくれてるけど、本当のあたしはそんな良い子じゃないから、まるで嘘をついてるみたいで嫌なんだ……』

 

『私を助けてくれたのはみんなで、その中には杏子ちゃんも含まれてる。それだって嘘じゃないよ』

 

『まどかだけじゃない。私も返しきれないほどの恩を感じているわ』

 

『そうそう、みんな杏子に助けられたんだよ。もちろんあたしもね? 難しく考えたって仕方ないよ』

 

『そう言われても、あたしはやっぱり罪の意識を持っていたい。一生背負って生きていきたいからさ』

 

 魔法少女の世界は、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの選択を迫られる厳しい世界だ。誰を守り、誰を犠牲にするか、そんな決断を日々繰り返してきた杏子にとって、絢子たちのように善意から差し出される言葉は、どうしても戸惑いを感じさせるものだった。

 いつもの彼女とは違う一面を見て、さやかたちは難しく考えすぎだと思いつつ見つめていたのだが――。

 

『そう言えば、玄関で話してたけど、ほむらはまどかの家によく来てるの?』

 

『え? まぁ、そうね。今は休校中で、時間もあるからお邪魔させてもらっているわ。おじさんもおばさんも優しくて……』

 

『泊まってるの?』

 

『ええ、何回か……今まで誰かの家にお泊まりなんてしたことなかったから、ついでにそうさせてもらっているわ』

 

 友達の家に泊まる。仲が良い友達なら特に珍しくもない出来事だが、ほむらがまどかの家に泊まるのはそれと理由が違うのはさやかにも分かっていた。

 そして、泊まっていることに言及されたときのほむらは、言葉を選びながら答えていたり、ほんの少し照れくさそうに答えてる様子を見逃さなかった。

 

『まどかのベッドで一緒に?』

 

『えぇ!? あの、えーっと……』

 

『そうだよ』

 

『ちょっ』

 

 さやかに投げかけられた鋭いメス。作り上げていたポーカーフェイスが完全に崩れ去っていたほむらは動揺を隠せず、慌てた様子で返事に詰まっていると、隣りに座っていたまどかが笑顔を作りながら、特に何も気にしていない様子ではっきりと答えていた。

 

『今まで仲良くできなかった分、たくさん甘えてもらってるんだ』

 

『まどか、あの……』

 

『お布団の中でほむらちゃんの頭を撫でながら褒めてあげると、泣きそうな声で名前を呼んでくるんだよ! とっても可愛いよね!』

 

 小声で静止しようとしたほむらを完全に振り切ったまどかは、聞いてもいないことを全て暴露する。それが本当のことであると裏付けるように、ほむらの口から否定の言葉が一言も発せられず、表情は瞬時に青ざめ、次には真っ赤に染め上げていた。

 

『まぁ、今まで甘えることを許されなかったんだろう? まどかが受け入れてくれてるなら、思う存分堪能したら良いんじゃないか?』

 

『あ、いや……えぇ……』

 

 次々と暴露され、どうすればいいのか分からずに顔を俯かせるほむら。その肩を軽く叩いた杏子は、慰めになっているか分からないが、安心させようと優しく声をかけていた。

 良い所も悪い所も、本来なら誰にも知られたくない恥ずかしい一面も、ここにいるみんなは受け入れてくれることは、ほむらも分かっていた。しかし、長い無限ループから抜け出してようやく芽生えた幼い衝動のような甘えは、できればまどかにだけ知られていたかった。

 そんな思いが強いのか、ほむらは顔を真っ赤に染めたまま何も取り繕うことができず、戸惑い続けていた。

 

『他にもね! ほむらちゃんが――』

 

『ちょーっとちょっと、まどかー? そのまま続けちゃうとほむらちゃんのライフがゼロどころかマイナスになっちゃうから、一旦止めてあげようねー』

 

『えー? せっかくほむらちゃんの可愛いお話をしようと思ったのに……』

 

 まだまだ語りたいことが山ほどあると口を開き始める幼馴染の暴走を、さやかが慌てて制止した。

 これ以上は流石に可哀想だと思っての行動だったのだが、肝心のまどかは残念そうに頬を膨らませて抗議の声を漏らしていた。

 

『一応、ほむらちゃんにもイメージってものがあるんだよ。崩すのも可哀想だろ? それに、そういう一面はまどかだけが知ってるほうが特別感あるんじゃないか?』

 

『あー! 確かに杏子ちゃんの言う通りかもしれないね! じゃあ内緒にしとかないと……』

 

 杏子がニヤリと笑いながら言うとまどかの顔がぱっと明るくなり、抗議の声を止め納得して頷いた。

 

『そう思うなら、()()()()()()って言うのを止めなさいよ……』

 

 既に十二分に語り尽くされ、ほむらのイメージなど崩れてしまっている。これ以上ほむらの体裁を崩しては駄目だと止めに入ってくれた戦友たちだが、言葉のはしはしにからかいの気持ちを隠せていない。それを指摘したほむらは顔を赤くしたまま、せめてもの抵抗に小さくぼやいていた。

 

『ねぇ、さやかちゃん』

 

『んー?』

 

『マミさんがいなくなった後の見滝原……その、もし良かったら聞いてもいい?』

 

 まどかは少し不安そうに尋ねた。

 現在の見滝原市は、ワルプルギスの夜がもたらしたスーパーセルの被害と、魔法少女と魔女の戦闘による爪痕が色濃く残っている。街の外に出れば、復旧作業の音が絶えず響き、混乱の名残があちらこちらに見て取れた。

 まどかはただの一般人ではない。彼女には、これが単なる自然災害ではなく、人の心が絡む人災とも言える出来事だと知っている。休養中のほむらからは聞けない今の見滝原の状況を、完全に無関係とは言えないまどかだからこそ尋ねておきたかった。

 

『面白い話はないけどさ、他の魔法少女が徐々に街に入ってきて、衝突が絶えないって感じかな』

 

 さやかは特に隠す様子もなく、少し苦笑いを浮かべながらそのことを答えた。

 

『魔法少女同士で戦ってるってことだよね?』

 

『まぁ、そうだね。なるべく穏便に済ませたいけど、マミさんが残した恨みは大きいからね』

 

『そっか……』

 

 まどかは悲しげに視線を落とした。

 マミが残した負の遺産は、魔法少女たちの間に暗い影を落としている。それは、まどかにとっても胸が痛む現実だった。

 一度魔法少女と出会えば、衝突は避けられない。さやかは何とか話し合いに持ち込みたいと思っているが、他の魔法少女たちの警戒心は根深く、時間がいくらあっても足りない状況だ。

 今は顔を合わせて衝突と呼ばれる挨拶を繰り返し、さやかが危害を加える者ではないと証明し続けるしかなかった。

 それがいつまで続くのか、戦い続けているさやかにも答えは分からない――が、その時間が長く続くことのない未来が待っていることを、まだ知る由もなかった。

 

 しばらくして、少女たちは失っていた時間を取り戻すかのように話に花を咲かせた。

 いつこの世を去るか分からない戦いの中、苦しみや不安を抱えながらも、こうして共に顔を見合わせるひとときが、彼女たちにとってはかけがえのない瞬間だった。

 そんな時、まどかの部屋の扉が小さく叩かれる音が響いた。

 

『まどか、食事の支度が済んだわよ』

 

『はーい、ママ! それじゃあみんな、行こっか!』

 

 絢子の明るい声がほんのりと暗い雰囲気が漂っていた部屋に響くと、まどかは弾むような声で応えた。その一言で、部屋の空気が少し明るく和らいだようだった。

 それぞれが複雑な思いを抱えている。しかし今だけは、激しい戦いの果てに手に入れた安らぎの時間を楽しむために、彼女たちは立ち上がり、まどかの部屋を後にした。

 階段を降りてダイニングに向かうと、テーブルの上には驚くほど豪華な料理が並んでいた。

 

『す、すごい……本当に家庭の手料理なんですか? お店に出される料理かと思うぐらい、どれも美味しそうです』

 

『いつも美味しそうだけど今日は特に凄いよ! パパ、ママ!』

 

『アタシはパパほど上手じゃないけど、パパと頑張って作ったんだ。そう言ってもらえると嬉しいよ』

 

 テーブルいっぱいに並べられた手料理たちは、一般的な家庭料理とは思えないほどの手の込みようで、その豪華さに杏子は目を丸くしていた。

 最近お世話になっているほむらはともかく、実の両親である絢子と知久の料理に慣れているはずのまどかでさえ驚くほどで、それだけ今日の食事に気合を入れていることが感じ取れた。

 

『何と言っても、今日のお客様は、私たち家族の命の恩人なんだからね。これぐらい力を入れないと罰が当たるわ』

 

『そんな、恩人だなんて――』

 

『まぁまぁ、杏子! まどかのお父さんとお母さんが折角作ってくれた手料理なんだから、冷めないうちに食べないともったいないって!』

 

 

 命の恩人と言われ、複雑な表情を浮かべていた杏子だが、さやかが彼女の背中を軽く押し、用意された椅子に無理やり座らせていた。

 その後を追うように、まどかとほむらも自分の席に座ると、絢子と知久もテーブルを囲むように腰を下ろしていた。

 

『さ、今日はアタシのお願いを聞いて集まってくれてありがとう。こんなお礼ぐらいしかできないけどさ、もしよかったら、アタシたちの手料理を堪能してくれたら嬉しいよ』

 

『ママ、お話は後にして、今はご飯をいただこうか』

 

『おっと、パパの言う通りだね。それじゃあ、ご飯が冷める前に手を合わせて……いただきます』

 

 絢子の掛け声に合わせて、食卓に座っていた少女たちも揃っていただきますと声を揃えた。彼女たちは思い思いに箸を伸ばし、取り皿に料理を盛りつけて、さっそく口に運び始めた。

 一口、また一口と料理を味わううちに、少女たちの目は輝き、頬がほころんでいく。

 

『とっても美味しいです! こんなご馳走、久しぶりです!』

 

 杏子は嬉しそうに、そして感動したように声を上げた。まどかの両親が腕によりをかけて作り上げた豪勢な料理の数々。まさにご馳走という言葉にふさわしいものだった。

 杏子の素直な言葉に、絢子は微笑みを隠すこともなく、満足げに杏子の顔を見つめていた。

 

『(そう言えば、久しぶりだっけ。こうやって誰かと一緒にご飯を食べるの……)』

 

 杏子に続いて、さやかや他の少女たちも次々に料理を口に運び、互いに感想をこぼしあう。温かな光の中で、家庭的な食事を誰かと一緒に食べる――それは、ワルプルギスの夜が現れる前夜、マミが開いたお泊り会での最後の晩餐とは全く異なる、穏やかな空気に満ちたひとときだった。

 そんな光景を目にした杏子の心に、封じ込めていた記憶がゆっくりと蘇ってきた。

 

『(そっか、ずっと蓋をしてたんだ……一人で食べるのが当たり前になって、モモを護るために躍起になって――父さんと母さんと一緒にご飯を食べてた頃と、似てるんだ……)』

 

 願いを叶え、魔法少女になる以前――父と母が生きていた頃の記憶。家族みんなで食卓を囲み、温かな食事をともにしたあの懐かしい光景が、杏子の心に鮮明に浮かび上がってきた。

 その時、杏子の様子に気づいた絢子が、少し心配そうに声をかけた。

 

『きょ、杏子ちゃん……? どうしたんだい? もしかして、何か変なものでも入ってたかな?』

 

『え……?』

 

 杏子は驚いたように顔を向け、戸惑いの表情を浮かべる。しかし周りに目を向けると、絢子だけでなく知久やまどか、さやか、ほむらまでもが心配そうにこちらを見つめていることに気がついた。

 視線に気づいた杏子は、ふと違和感を覚える。自身の目元にゆっくりと手を当て、そこに触れた瞬間、彼女はようやく気づいた。目元から溢れ出る涙に、彼女たちは目を向けていたのだと。

 

『(はは、もしかして……泣いてたのか、あたしは……)』

 

 久しく忘れていた母の手料理。味は似ても似つかない――が、この温かな食卓の雰囲気や、誰かと一緒に囲む食事の楽しさが、自然と彼女の心に刻まれた思い出を呼び覚ましていた。

 杏子には耐えられる痛みや苦しさとは違う感情。久しぶりに襲われた感覚は、杏子の思いとは否応なしに涙として流れ出ていた。

 

『あの……すみません。とっても美味しくて、その……』

 

『……ありがとう、杏子ちゃん。そんなに美味しいって思ってくれたなら、アタシもパパも、作った甲斐があったよ』

 

 心配かけないよう、その場を取り繕う言葉を出そうとするのだが、自分が涙を流していることを意識してしまいうまく言葉が出ず、もごもごと口を動かすことしかできなかった。

 そんな杏子を。折角の食卓の場を台無しにしたくはないという気持ちが伝わったのか、絢子は彼女の涙に深く聞くことはせず、手料理が美味しいと思ってくれていると微笑み、頷いていたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『さっきはごめんなさい。急に泣いたりして、困らせてしまいました』

 

『気にしてないよ――と、言いたいところだけど、ちょっとびっくりしたかな。でも、杏子ちゃんが心配かけたくないって思ってたのも伝わったから』

 

『あたしはびびったけど』

 

『全く、さやかちゃんは相変わらずだね』

 

 食事が終わり、杏子は洗い物を手伝いたいと申し出たが、お客さんにそんなことさせられないと知久が断り、片付けを始めた。

 杏子とさやか、そして絢子は片付いたテーブルを囲み会話を続け、ここにはいないほむらとまどかは、まだ一人でお風呂に入れないタツヤと一緒に入浴をお願いしており、浴室の方から楽しそうな声がかすかに聞こえていた。

 

『杏子ちゃんとこうして話すのは初めてだけど、改めて――アタシたち家族、特にまどかを助けてくれてありがとう。詳しいことは分からないし、聞くべきではないのかもしれないけど……やっぱりお礼だけは言わせてちょうだい』

 

 絢子の真剣なまなざしに杏子は視線を合わせられず、俯きながら手元のお茶に口をつけた。

 

『あたしは……本当に、褒められるような人間じゃないんです。酷くて、醜くて、誰かに手を差し伸べてもらえるような子じゃないんです』

 

『どうして、そこまで頑なに思うのか……聞いてもいいかな?』

 

『さっき泣いたのもそのせいです。誰かと一緒にご飯を食べるのが久しぶりで、昔のことを思い出してしまって』

 

『誰かとご飯を食べるのが久しぶりって――』

 

『あたしの大切な家族は、あたしの愚かな行いで失いました。あたしのせいで、あたしの想いで家族を殺したんです』

 

『杏子ちゃんが、ご家族を……?』

 

 大切な家族を失ったという話に絢子が問いかけると、杏子は小さく頷いた。

 そんな冗談を言う子ではないことなど、少し会って話しをしただけの純子にも分かっている。しかし冗談であってほしいという気持ちが強く、思いもよらない答えに口を閉じてしまった。

 

『杏子がご両親を助けたいって想いは本物だった。直接見ていないあたしでも、杏子の話からその気持ちは伝わってきた。あんたが語る酷い人間が、そんな想いを抱えるわけがないじゃない』

 

『あたしの想い(かてい)は結果に結びつかなかった。何を想っていても、両親を失う理由にはならないよ』

 

 自己嫌悪に満ちた杏子の言葉に、さやかは思わず強い口調で口を挟んだ。

 本当に酷く醜い人間なら、誰かのために行動したり、手を差し伸べたりなんてしない。過去の痛みがあるとはいえ、さやかには杏子が抱えるその重荷を少しでも軽くしてほしかったのだ。

 

『それに、さやかも知ってるだろ? あたしは家族だけじゃない。無関係な子も――』

 

『杏子!』

 

 さやかの剣幕に、杏子は言葉を飲み込んだ。

 あの日、自分勝手な理由で、何の関わりもない緑の魔法少女の命を奪ってしまったこと。その瞬間から、杏子にとって他の魔法少女を殺すという行為は、生き延びるための手段のひとつになってしまった。

 自分の都合で他人の生死を決め、命を奪い、生殺与奪の権利を振りかざす。彼女が生き残るために犠牲にしてきた、無数の命。それらは、足元を見れば無造作に転がっている。たとえ魔法少女の世界では強者が生き延びることが摂理であったとしても、他人の命を奪ったという事実は変えられない。

 家族を失った痛ましい記憶が彼女の心に傷を残していたとしても、そんな自分が普通の人間として日常を営んでいる人々からの称賛を、ただ素直に受け取ることはできなかった。

 

『さやかには止められましたけど、何となく分かると思います。そんな世界であたしは生きてきた。だから、まどかのお母さんがありがとうって言ってくれる度に、どう返せば良いのか分からなくなるんです』

 

 日常の温かい言葉や優しさが、彼女の中の暗い影を余計に浮き彫りにしてしまう。どれだけ善行を重ねても、生き残るために戦い続けても、普通の人から向けられる純粋な感謝の言葉は、彼女にとってあまりにも眩しすぎた。

 

『(どうして……どいつもこいつも……)』

 

 困ったような笑顔を浮かべる杏子に、絢子は何かを言いたくても、結局言葉を飲み込んでしまう。大切な家族を失ったこと――彼女の両親が既に亡くなっているという事実を、さやかの証言もあり絢子は理解したが、彼女の歩んでいる現実の重さに、動揺を隠すことができなかった。

 そして目の前の少女が、他の少女たちを犠牲にして生きてきたことを暗に語る物言いも、絢子には痛ましく感じられた。全てを語らずとも、その暗い過去が見え隠れする言葉の端々に、声をかける隙間さえ見出せなかった。

 一体いつから――娘と同じ年頃の杏子が、両親を早くに失い、たった一人残された妹を守るために過酷な日々を生き抜いてきたのか。その想像を巡らせるだけで胸は締めつけられる。

 自分たちのような普通の人間には知り得ない何らかの脅威から人々を守り、同じ少女たちと生命の奪い合いをする――その過酷さがどれほどのものか、絢子には想像もできなかった。

 

『酷い娘ですよね。まどかのお母さんが思ってるほど、あたしは良い子じゃないんです。だから――』

 

『それでも』

 

 今さら慰めの言葉を並べても、杏子にとっては気休めにもならないかもしれない。こんなおばさんの言葉など、力になどならないだろう。そう思っていても、分かっていても、それでも――絢子にはどうしても抑えきれない衝動があった。

 衝動に突き動かされるように絢子は立ち上がり、杏子を力強く抱きしめてしまったのだ。

 

『ごめんね、杏子ちゃん。分かってるんだ、これはアタシが勝手にしてる我儘だって。勝手に同情して、押し付けて、迷惑かけてしまってるって……でも、それでも抑えきれなかったんだ。やっぱり、アタシは駄目な大人だね……』

 

 そんな環境に身を置きながらも、杏子がここまで真っ直ぐで、人を思いやる心を持った子に育っていることが、絢子にはたまらなく嬉しかった。そして、少しでもこの少女の心の支えになりたいと強く感じた。

 

『……まどかのお母さんも、お父さんも、たっくんも優しくて、嬉しいです。けど、やっぱり、あたしには勿体ないですよ。こんな温かい言葉をもらえるような人間じゃないんです』

 

 杏子は目を伏せ、静かに呟いた。

 突然の抱擁に、杏子は一瞬息を飲んだ。こんな自分のために泣いてくれる人など、この世にもういないと思っていた。それどころか、こうして自分を抱きしめてくれる存在が、かつての家族以外に現れるなんて夢にも思わなかった――が、杏子には受け入れられなかった。

 

 それでも、絢子は諦めなかった。

 

『こんな見ず知らずのおばさんの言葉なんて信じられないかもしれない。でも、アタシは言いたかったんだ……ちゃんと話したかった。もう二度と、目の前から死にに行く子供を見たくなかったんだ』

 

『もしかして、マミさん……?』

 

 目の前から死ににいく子供。絢子の実の娘であるまどかを連れ出した関係者。二度とと言う物言いから、マミの姿が浮かびその名を口に出すと、小さく頷いていた。

 魔女と戦い続けていた杏子には、避難場所で二人が何を話したかなど知りはしない。しかし、実の娘を連れ出す怪しい衣装に身を包んだ少女に持ちかけられた話など、碌でもないとしか言えないだろう――だが、絢子の物言いや様子から、そんなマミの手のひらも掴もうとしていた、頭が痛くなるほどのお人好しであることが良く分かった。

 

『(子が子なら、親も親か……)』

 

 杏子は心の中で苦笑いを浮かべた。

 鹿目まどかが持った純粋な願い。その自己犠牲の精神を極限まで高め、世界の平和を祈り、自ら神様になろうとした想いを持つ少女の母親もまた、目の前で命を懸けて戦う者を見過ごすことができない人間。まさに、血は争えないと思わされるほど、二人の母娘には共通した強さと優しさがあった。

 杏子にはその姿が羨ましくもあり、同時に自分とはまるで異なる世界の人間のようにも思えた。絢子の行動や言葉は、どこか遠く、眩しく感じられたのだ。

 

『マミちゃんを説得できなかったときのこと、今でも頭に残ってるんだ。その日に会って、少し話しただけの関係だけど……目の前から子供が死にに行くのを見過ごせなかった。説得なんて、できるわけがなかったんだけどね』

 

 絢子の言葉は苦しげだった。マミを止めることができなかったあの日の記憶が、今も彼女の胸に深く残っているのだろう。

 

『アタシもまどかも、あの子が避難所にいるみんなを守ろうとしてくれてたことは分かってた。でも、それでも、目の前から死にに行く姿を黙って見送るなんて、できなかったんだよ』

 

 マミを説得するということは、彼女が守ろうとしていた見滝原市の人々、避難所にいた絢子を含む多くの命を、魔女の脅威に晒すことを意味していた。絢子には、その重い選択を迫られることがどれだけ辛いことか痛いほど理解できた。だからこそ、覚悟を決めていたマミが、たった一人の人間による説得で立ち止まるはずがなかったのだ。

 絢子はただ、目の前の少女が無事に帰ってきてくれることを願った。戦いに行くその背中に、どれだけの重圧がのしかかっているかを想像して、ただ生きて帰ってきてほしいと心の中で祈った――が、その願いは決して叶うことはなかった。

 

『何もできない自分が不甲斐なかったよ。マミちゃんのいた世界ではそれが当たり前だったのかもしれないけど……それでも、やっぱり彼女に会って、ちゃんと話をしたかった。だからね、こうして杏子ちゃんと話せること、お礼を言えることが、すごく嬉しいんだよ』

 

 絢子の言葉には、心の奥底から湧き出る感謝と安堵が込められていた。その真剣な眼差しに、杏子は何を言うわけでもなく聞いている。そんな杏子に、さやかが肩を軽く叩きながら言った。

 

『私たちの事情を話すべきだ――とは、思わないよ。でも、歩み寄ってくれるなら、理解者がいるなら、話せるときに話したほうが良いかもしれない。ため込んでると、いつか自分が壊れちゃうからね』

 

『……はは、何だよさやか。そんなこと言うなんて、珍しいじゃん』

 

『まぁ、ね。どちらかと言うと、あたしも杏子よりの考え方だったんだけど……最近、恭介たちと話して、少し考え方を変えたほうがいいのかなって思ったんだ』

 

 恭介と仁美との対話を終えていたさやかにとって、絢子の想いには強い既視感を覚えていた。

 絢子と杏子の関係はまだ始まったばかりだ。しかし、お互いにかけた時間が大事なのではなく、お互いを理解し、歩み寄ろうとすることが大切なのだとさやかは思っていた。

 杏子がほんの少しでも心を開き、絢子に手を伸ばそうとする。それだけで、この人たちは本当に嬉しく思うのだろう、と。

 そんな空気の中で、ふと絢子が何か誤魔化すような表情で口を開いた。

 

『あー、それで何だけどさ。杏子ちゃんが良かったらだけど……』

 

『……?』

 

 杏子は少し首をかしげる。先ほどまで力強く、毅然とした態度だった絢子が、なぜか急に照れくさそうに頬をかきながら、言いにくそうにしている。その姿に、不思議そうな表情を浮かべていたが――絢子は視線を正し、意を決したように小さく息を吸い込み、それを言った。

 

『良かったら、鹿目家の養子にならないかな……?』

 

『……はぁ!?』

 

『いやー、これには流石のさやかちゃんもびっくりだ』

 

 彼女の突拍子もない提案に、杏子は目を大きく見開いて叫んだ。その声には驚きと戸惑い、そしてわずかな恐れさえ混じっていた。

 隣で聞いていたさやかも驚きのあまり口を開けている。彼女がここまで踏み込んだこと言い出すとは想像すらしていなかった。

 そして、放心していた杏子は意識を取り戻し、ようやく言葉を振り絞るようにして口を開いた。

 

『い……いや、いやいやいや、まどかのお母さん! あたしが両親を亡くしたって話、さっき言ったばかりだよ!? 同情した勢いでそんな提案されても――』

 

『勢いじゃないよ。マミちゃんと話していたときにね、彼女も幼くしてご両親を亡くして、ずっと一人で頑張ってきたって話をしてくれたの。だからその時から、もしあたしが何かできるとしたらって考えてた』

 

『……だから、マミの代わりにあたしをってことか?』

 

 杏子は少し俯きながら、そう問いかけた。

 声にはわずかに刺々しさが含まれている。勢いではないと言うが、自分が単なる代わりではないのか――と、そう疑わざるを得ない心境であった。

 

『勿論違うよ』

 

 彼女の不安や疑い。ほんの少しの悪意に絢子はすぐさま首を振った。

 その視線はまっすぐで揺るぎなかった。

 

 『そう思われても仕方ないかもしれないけど、これでもアタシは一家を養ってる大人だよ。誰彼構わずこんなことは言わない。誰でもない杏子ちゃんだから、あたしは提案したんだ』

 

 彼女の真剣な眼差しと言葉に、杏子はぐっと詰まった。

 たとえ本当にそう思って口を出しているのだとしても、絢子とは会ったばかりだ。彼女の人となりなど、杏子にはまだ分かりきれていない。それは絢子も同じだろう。それなのに、いきなり養子にならないかと言われても、どう答えればいいのか、杏子には分からなかった。

 適当に流して断るのは簡単だ。しかし、それだけで絢子が納得してくれるとは到底思えなかった。何より――杏子は、彼女の優しさを無下にすることができなかった。

 彼女の優しさや想いは本物だ。杏子にも分かっていた。さやかの言う通り、心を開いても良いのではないかと考えていたのだが――。

 

『その……まどかのお母さんと会って話すのはこれが初めてで、お互いのことはまだよく知らない。でも、あんたの想いが本物だってことは、この短い時間の中でもよく分かった。だからこそ――その話は断らせてもらうよ』

 

 杏子は苦しそうに、しかしはっきりとした声でそう言った。

 その言葉を聞いた絢子の表情が、一瞬だけ沈んだ。

 

『そう、か……まぁ、いきなりこんなこと言われて分かりましたなんて答えられる話じゃないよ。だからさ、もう一度時間を空けて――』

 

 早急に答えを出せる内容ではないことは絢子にも分かっていた。分かっていたからこそ、話を一度持ち帰ってもらい、時間を置いて答えを出して欲しいと考えていたのだが、そう言い切る前には杏子は首を横に振っていた。

 

『見ず知らずのおばさんって言ったけどさ、あたしなんて家族を殺した得体の知れない不気味なガキだ。そんなやつを家族にしようだなんて、普通の人なら絶対に言えないよ。だからこそ、まどかのお母さんの提案は凄く嬉しい……本当に心の底からそう思ってる』

 

『あぁ、適当なことを言って杏子ちゃんに迷惑をかけるような真似はしたくなかった。だから、本気で言ったんだよ。本気で、杏子ちゃんに家族になって欲しいと思ったから、こうして言い出したんだ』

 

 その言葉には、一切の迷いや躊躇がなかった。まどかの母親として、そして一人の人間として、絢子の想いは確固たるものだった。

 

『その想いは十分に伝わってるよ。その上で、あんたが出してくれた提案を断りたいんだ』

 

『……理由、聞かせてもらっても良いかい?』

 

 絢子の問いは静かで、優しいものだった。しかしその瞳の奥には、何とか杏子の心の奥深くに触れたいという切実な想いが込められていた。

 杏子は少しの間、黙り込んだ。彼女が絢子に感謝していること、その真意を理解していること。それは嘘ではなかった。

 不思議な力を持つ不気味な子供を家族に引き入れるなど、言い方次第では不用意に傷つけてしまう発言にもなりかねない。そんなこと、絢子もよく理解しており、想いは杏子にも十分伝わっていた――それでも、彼女にはどうしても断らなければならない理由があった。

 

『きっと、あんたの家族になったら、ずっと甘えそうで嫌なんだ。あたしが死んでもさ、たった一人の家族――妹のモモを助けてくれる人がいるって、そんな風に心のどこかで思いそうなんだよ』

 

 明日死んでもおかしくないという魔法少女としての現実――まるで死と隣り合わせに生きているような杏子の物言いに、絢子は何も言えなかった。それは彼女の語る内容が、裏付けられていると分かっていたからだ。

 そして、杏子が絢子の提案を断る理由。それは甘えられる人間がいることで、心のどこかで安心してしまい、結果としてモモを一人にしてしまうかもしれない――と、自分自身の弱さを恐れてのことだった。

 誰の手助けも借りず一人で生きていくことで、常に死を意識し、強い緊張感を持ち続けることができる。それは杏子のエゴに過ぎなかった。

 モモが安全に生きる道を作るのであれば、魔法少女といういつ死ぬか分からない姉の手を離れ、人として生きる家庭の養子に入るのが一番だということは分かっていた。しかし杏子は、自分のエゴによって生かしてしまった、たった一人の大切な妹を、最後まで責任を持って護り、自らの手で償いたいと願っていたのだ。

 

『(結局、アタシなんかじゃ、この子たちを助けることはできないのかよ……)』 

 

 絢子の想いが強いゆえに杏子を弱くする――絢子の言葉や優しさに感謝しているのは確かだったが、結果としてその優しさが杏子の覚悟を揺るがしてしまう。助けたいという想いが、逆に重荷になってしまっていた。

 街や家族。娘を助けてくれた子供たちが、命を削って戦い続けている姿を、ただ後ろで見ているしかなかった無力感。目の前にいる、なんとか生きて帰ってきた杏子にすら、それ以上の言葉をかけられないことが分かり、彼女の表情は自然と暗くなっていた。

 良い大人が子供の前で泣き顔を見せるわけにはいかない――そんな思いがどこかにあったのだろう。絢子は杏子を抱きしめ、その肩に顔を埋めることで自分の表情を隠した。その姿を見た杏子は、申し訳なさそうに彼女を抱き返した。

 そうして時間だけが過ぎていく前に、杏子はまるで気を使うかのように、一つのお願いを持ちかけた。

 

『家族になるのは難しいけど、近いお願いがあってさ……』

 

『……? それって、どういうことだい?』

 

『あんたが避難所で会ったマミってやつ。そいつの家を、あたしが引き継ごうって話になってるんだよ。けど、残された紙に書いてある言葉とか、正直なに書いてるのかさっぱりなんだよね。あたし、学校も満足に行ってなかったし、その辺が全然ダメで、誰かに教えてほしくて……駄目かな?』

 

『あ、ああ! それぐらいお安い御用だ! 何なら、もっと言ってくれてもいいぐらいだよ!』

 

『本当? すごく困ってたから、とっても助かるよ』

 

 絢子が思い描いていた手助けをする形にはならなかったが、それでも、杏子が自分に助けを求めてくれたことが純粋に嬉しかった。彼女は表情をぱっと明るくし、目を輝かせながら杏子にもう一度抱きしめていた。

 そんな人懐っこい包容を受けた杏子は苦笑いを浮かべる。力強く抱きしめられて少し苦しそうではあるものの、その表情に嫌悪感はまるでなく、むしろ彼女の温かさに心がじんわりと和らいでいくのを感じていた。

 

『あ、杏子。その話なんだけど、ちょっと待って』

 

 会話を静かに聞いていたさやかが、遠慮がちに手を挙げた。その言葉に、杏子は視線を向ける。

 

『その……マミさんの家の件で、手伝いたいって人がいるんだよね』

 

『は、はぁ? この話を知ってるのって、あたしたちぐらいだと思うけど――って、まさか』

 

『あはは、まぁ、その()()()だよ。あたしが話した内容って、実はあたしのことだけじゃなくて、マミさん関連のことも含んでるから――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まどかのお母さんも驚いてたなぁ。まさか上条家と志筑家がタッグを組んでたなんて」

 

「いや、あたしだって驚いたよ。知らないところでたくさんの人が動いてくれてたなんてさ。まどかのお母さん、それを聞いてちょっと意気消沈してたし……」

 

 鹿目家は一般家庭――良くて中流階級。そんな鹿目家とは対照的に、杏子の手助けを申し出ていた上条家と志筑家は、文句なしの上流階級だった。

 関わる人員や関係者の質、さらには資金力まで、どれをとってもトップクラス。その事実を知った絢子は、喜びもつかの間、思わず顔を覆ってしまった。

 一方、杏子にとっては、さやかの話は完全に寝耳に水だった。それでも、突然告げられたその話を受けて、絢子という信頼できる大人がそばにいてくれることに、心の底から感謝していた。

 さやかの持ち出した話が、マミの家を引き継ぐという目標をほぼ達成する内容であったとしても――やはり、身近で頼れる存在がいるという事実は、別格だったのだ。

 

「意気消沈してたけど、杏子ちゃんと仲良くなれて嬉しいって言ってたよね。養子の話が出たときなんて、杏子驚きすぎて似合わない敬語が無くなってたし」

 

「まぁ、それは……って、似合わないって言うなよ! 慣れないなりに頑張ってたんだからさ」

 

 杏子は照れ隠しに顔を背ける。しかし、そのやりとりに不快感は全くなく、むしろ彼女の心の壁を壊す一助となっていたのだろう。話が進むにつれて、杏子が敬語を使うことは少なくなり、そんな彼女の素の部分を見せてもらえたことに、絢子もどこか嬉しそうだった。

 絢子はもともと、素の杏子と仲良くなりたいと言っていた。それが、わずか一日足らずで叶ってしまったことに、杏子自身も驚きを隠せなかった。

 

「あと、一緒にお風呂入ろうなんて誘われたときは流石に遠慮したよ。他人の母親とお風呂の中でどう会話すればいいか分かんないって」

 

「あはは、とりあえず好かれてるみたいで何よりですよ」

 

 上条家と志筑家の強力な助力により、杏子はマミの家を引き継ぐという大きな問題を解決する糸口を掴むことができた杏子は、こうして姉妹と共に安定した生活を送ることができていた。

 その過程で、上条家と志筑家の関係者たちと直接顔を合わせる場面もあったが、杏子は質問攻めに遭い、慣れない状況に困惑するばかりだった。

 それでも、落ち着きを取り戻し新しい日常を送ることができている。そんな杏子は今、キッチンに立ち、自分で作った手料理をさやかたちに振る舞っているのだった。

 

「そういえば、以前住んでた風見野はどうしたんだっけ?」

 

「そうね。風見野市の魔法少女関連は杏子がまとめていたのでしょう? その杏子が抜けて、あの悪名高い見滝原に移ったのだから、反発があったんじゃないかしら」

 

「いや、そうでもないさ。問題が起きればあたしが止めてた程度で、その問題も大抵は見滝原が原因だったからな」

 

 見滝原に隣接する風見野市――それは、魔法少女たちにとって長らく混沌の代名詞であり続けた場所だった。

 キュゥべえにとっては、資質がある少女を見つけては見境なく契約を結び続ける。見滝原や風見野周辺で発生していた問題も、彼らにとっては問題ではなく宇宙の寿命を伸ばすための機会に過ぎなかった。

 グリーフシードの枯渇、魔法少女の飽和、そして魔法少女同士の衝突や魔女化――これらの現象は、彼の目にはさして重要なことには映らない。

 しかし、キュゥべえの甘い囁きに釣られて魔法少女になる少女たちは、後先を考えず契約を結んでいく。その結果、既に活動していた魔法少女たちと新参者が衝突し、グリーフシードを巡る奪い合いが繰り広げられる。奪い合いに敗れ、命のやり取りに恐怖した者たちは絶望し、やがて魔女へと堕ちていく――そんな無秩序な混沌の中で、まとめ上げていたのが佐倉杏子だった。

 

 杏子は、他の追随を許さない圧倒的な力を持ちながら、それだけで魔法少女たちを従わせるのではなく、対話を重視していた。彼女の精神力とカリスマ性は、混乱が渦巻く風見野市で光を放つ存在だった。

 一方で、かつて見滝原の魔女と呼ばれたマミとの関係者ということもあり、多くの反発も受けた。それでも彼女は役目を果たし、特定の仲間を侍らせることもなく、孤高の存在として風見野に君臨していたのだ。

 しかし現在、杏子は見滝原市へと拠点を移した。これを機に、風見野市の魔法少女たちも見滝原に足を運ぶようになり、飽和状態が少しずつ緩和され始めた。

 その結果、魔法少女同士の衝突も少なくなり、同時に心の余裕を取り戻した少女たちも増えつつあった。

 

「――あの子はどうしてる?」

 

「あの子って……あー、あいつのことか」

 

「あの子?」

 

「さやかが風見野市に来たとき一悶着あったんだけど、その子のことを言ってるんだよ。あたしに懐いてた子っていうか……寂しいのか知らないけど、結構泣いてたなぁ――」

 

 杏子は他の魔法少女と比べて活動量が少ない部類だ。無理やり作り上げられた体質もあり、風見野内での活動は他の魔法少女と比べて少ない方であった杏子だが――マミが死亡し、見滝原に足を運ぶ機会が多くなり、更に回数が少なくなったこと。そんな杏子の姿を見ていた強気な少女が黙っていられるわけもなく、杏子を捕まえ何をしているか話を聞き、杏子の前で暴れ出していた。

 

『どうして杏子ちゃんがあんな所に行くのよおおお!! 今まで通り風見野に住めばいいじゃないのおお!!??』

 

『元々、風見野に住む場所なんて無かったんだよ。だから雨風しのげる見滝原に移動してるんだって』

 

『だったら私の家にいそーろーしていいからあああああ!!!』

 

『無茶言うなぁ……』

 

 さやかが風見野に来た際に起きてしまった一連の事件。その影響で彼女たちの間には気まずい空気が漂うかと思われたが、杏子の適切な対応と少女の持ち前の明るさのおかげで、彼女たちの関係は以前とほとんど変わらなかった。むしろ、かつてよりも少女が杏子に懐いている印象すらあってしまった。

 マミの死という大きな事実が風見野の魔法少女たちの衝突を和らげ、彼女たちにかかっていたストレスを軽減した。それが、杏子に対する抵抗感を自然と取り除き、むしろ親しみを深める結果を生んだのだろう。杏子自身も、以前よりも少女たちが彼女に頼るようになったことを感じていた。

 

『もうあの魔女はいないんでしょ? だったら、杏子ちゃんが風見野にいても誰も文句言わないし、言わせないよ。それに、あたし杏子ちゃんと一緒にいたいもん……』

 

『そう言ってくれるのはすごく嬉しいよ。でも、見滝原にはまだやり残してることがあるんだ。託されたものもたくさんある。あたしじゃないと駄目なことばっかりで、大変だけどね』

 

 少女の真っ直ぐな言葉を聞き、杏子は表情を曇らせた。率直な気持ちを伝えられたことに胸が痛み、彼女の頭に手を伸ばしてしまう。なされるがままに頭を撫でられる少女は、嬉しそうな表情を浮かべながらも、悲しみを隠すことができなかった。瞼からは涙が止めどなく流れ続け、その涙の中に、全ての感情が詰まっているようだった。

 少女は知っていた。佐倉杏子という存在は、誰かの手に収まる魔法少女ではない。だからこそ、風見野に留まってほしいと涙ながらにお願いしても、その願いが叶わないことも理解していた。

 それでも――それでも、彼女はうちに秘める気持ちを秘めたままで終わらせず、杏子に伝えたくて仕方がなかったのだ。

 

『ねぇ、杏子ちゃん』

 

『ん?』

 

『杏子ちゃんが良かったら、遊びに行っても良い?』

 

『あぁ、もちろん来てくれて良いよ――と言っても、色々落ち着いたらだけどね。それに、あたしたち魔法少女は市ひとつぐらい飛んで行けるんだ。一生離れ離れになるわけじゃないんだよ』

 

 だから、そんなに悲しむことないだろ?――と、そう言いたげに優しく微笑む杏子は、少女の瞼に溜まった涙を指先でそっと拭った。

 マミの件が片付き、柔らかい雰囲気をまとい始めた杏子の姿は、まるで憑き物が落ちたかのようだった。以前はどこか張り詰めていた空気が、今では穏やかさを感じさせる。そんな杏子の優しげな笑顔に、少女は思わず飛びついて抱きしめていた。

 少女は風見野にいる魔法少女の中でも、比較的杏子と仲が良いと言えた。というのも、杏子が見滝原から風見野に戻り、一人で活動していた頃、頻繁に喧嘩を売ってきたのがこの少女だったのだ。

 実力差は歴然としていた。少女の攻撃を軽く受け流しているだけで戦いにすらならなかったある日、魔女に苦戦していた少女を杏子が助けたことで、関係は大きく変わった。喧嘩を売られる回数は減り、代わりに話しかけられる機会が増え、そして気がつけば、彼女は杏子に懐くようになっていた。

 

「(まるで聖騎士と同じ末路だな――)」

 

 杏子は内心で苦笑していた。

 魔女に苦戦している魔法少女を助け、その日を境に慕われるようになった。少女の明るく活発な性格までもが、緑の魔法少女と重なって見える。同じ末路を辿っていると自虐的な思いを抱えつつも、結局、杏子は彼女を強く突き放すことができなかった。

 それにしても、ここまで泣いてまで止められるとは杏子も思わなかった。これほどまでに自分を頼りにしているとは想像しておらず、もしかしたら何か悪いことをしてしまったのかもしれない――そう思いながらも、めそめそと泣き続ける少女の頭を、杏子はそっと撫で続けていたのだった。

 

『杏子ちゃん』

 

『あぁ、どうした?』

 

『今更だけど、今までごめんなさい。いっぱい迷惑かけて、一方的に攻撃して、悪口言って、傷つけて……』

 

『何だよ、本当に今更だね。けど、まぁ――ちゃんと謝れるなら、それで十分さ。だからさ、困ったことがあったら何でも相談しなよ。あたしなんかの力で良いならね』

 

 杏子に慰められ落ち着きを取り戻していたのか、涙をこぼして俯いていた少女はゆっくりと顔を上げた。

 今まで行ってきた攻撃の数々。それらを謝罪する少女であったが、本当に今更だと言うように杏子は困ったような笑みを浮かべていた。

 そのとき目に映った杏子の表情は、どこまでも優しく、そして明るかった。

 

『(ずるいよ、杏子ちゃん……)』

 

 特徴的な八重歯を見せて笑うその顔が、少女の胸に抱いていた想いを溢れ出す。それは、魔法少女としての憧れではなかった。佐倉杏子という、一人の女の子に向けた密やかな想いだった。

 その想いを隠しておくことなど、今の彼女にはもうできなかった。

 感情のままに動いた身体が、杏子の頬にそっと顔を寄せる、その瞬間――。

 

『――またね、杏子ちゃん』

 

『……またな』

 

 突然、杏子の頬に触れた柔らかな感触。目を丸くし、理解が追いついてない様子で立ち尽くしていた杏子であったが、先ほどまでぴったりと引っ付いていた彼女は離れ、別れの挨拶を告げたことで意識を取り戻した。

 振り返らず、赤く染まった表情も隠そうとせずに立ち去る少女。その後ろ姿に向けた杏子の返事は、かすかな声で空気に溶けていった――しかし、きっと彼女に届いているだろう。自分の頬に残る柔らかい感触を指でそっとなぞりながら、少女が残した魔力の軌跡を見つめていたのだった。

 

「――まぁ、色々あったけど嬉しかったよ。こんなあたしを信頼してくれて、唇まで許してくれるなんてさ」

 

「やっぱり杏子ってモテるんだなぁ」

 

「でしょうね」

 

 さやかは語るまでもなく、あからさまに表面に出してはいないが杏子を強く慕っているほむらも大きく頷いていた。

 同性から見ても、杏子の振る舞いや精神は人を惹きつけるものがあった。加えて、整った容貌や引き締まった体躯、さらにはほんの少し抜けている部分も、彼女の周囲の人間にとっては魅力的なチャームポイントとして映っている。そんな彼女が自覚なしに行動するため、さやかや他の少女たちが次々に惚れ込んでしまうのは、ある意味で当然の成り行きだった。

 

「じ、自分から話した手前なんだか恥ずかしいね……にしてもさ、魔法少女同士ってこういうの多いのか? さやかとかほむらを見てると……何て言うか、その、この手の趣味っぽく見えるんだけど」

 

「え!? い、いやいや! ほむらはそうだけど、あたしは違うって! ボディタッチが多いからそう見えるだけだよ!」

 

「は? 美樹さやか、一体何を言い出しているのかしら?」 

 

 突然話題を振られたさやかは慌てて手を振りながら、しかし罪をなすりつけるようにほむらに流した。

 彼女の勝手な物言いを聞いたむらは、眉間は皺を寄せ睨みつけていた。

 

「やっぱりあなたは大馬鹿者ね。間抜けで馬鹿で愚か者。第一、あなたも告白まがいのことを――」

 

「はぁ!? あんたはまどかにお熱、杏子にお熱、優しくて可愛い子ならとりあえず手を出そうとしてるでしょうが! そもそもあんた、まどかを愛してるんじゃないの!?」

 

「この話題はよくなかったか……」

 

 二人の応酬がエスカレートしていく様子を、杏子は少し引き気味で見つめていた。彼女としてはただ純粋な疑問を口にしただけで、それ以上でも以下でもないつもりだったのだが、どうやら二人にとっては触れられたくない繊細な問題だったらしい。

 険悪になった空気を宥めることもせず、杏子は肩を竦めて目の前のケーキをフォークで一口すくった。その甘い味を楽しみながら、二人が落ち着くのをただ待つことにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もー、お姉ちゃんたちうるさい! ごめんなさいして!」

 

「ごめん……」

 

「ごめんなさい……」

 

「うるさくしてごめんな、モモ。あたしも変な話題を出して悪かったよ」

 

 さやかとほむらが激しい言い合いを続け、喧嘩の声量は近所迷惑になりかねないほど熱を帯びていたのだが、様子を伺っていたモモが我慢の限界とばかりに現れた。そして、彼女の鋭い一言が場の空気を一変させ、喧嘩していた二人も落ち着きを取り戻し、三人揃って頭を下げていた。

 

「……それで、何を話していたのかしら?」

 

 喧嘩を収めたモモはついでとばかりに飲み物を取りに冷蔵庫へ向かい、冷静さを取り戻したほむらは改めて話題を振り返るように問いかけた。

 

「まぁ、皆さん色々あったけど、最後は案外落ち着いたよねって話――って、あれ? そろそろ時間じゃないの?」

 

「ん、確かにいい時間だね。そろそろ行かないとまた怒られるな」

 

 話題は自然と彼女たちが抱える予定に移っていく。時計を指差したさやかに続き、杏子も立ち上がった。

 昔話というほど大げさではないが、魔女との戦いを乗り越えた後の後日談。ここにはいないマミが残した後始末や、それを通じて新たに築かれた人との繋がり――彼女たちはそんな話に花を咲かせていた。しかし、時間が経つのは早い。気づけば、待ち合わせの時間が迫っていた。

 予定している時間に遅れては待たせている子にも申し訳ない。そう思いながら彼女たちは動き出し、それぞれの荷物をまとめ、家を出る準備を済ませていた。

 

「お姉ちゃん、行ってくるの?」

 

「モモ……あぁ。お姉ちゃん、最後のお別れを言いに行ってくるよ。あたしにとって――大好きで、大嫌いなお姉さんにね」

 

 準備を終え、玄関に向かう杏子たちを、モモはじっと待っていた。

 これから彼女たちが向かう先にはすでにマミの魂はなく、その肉体だけが残されている。顔を見合わせたことがあるモモに、一度だけでも彼女の顔を見せておきたいというのが杏子の本心ではあった。

 ここはマミが住んでいた家。モモにとっては、この家に住めるようになった経緯は不可解なままだった。

 施設での生活を終え、姉と一緒に過ごせるようになった喜びの裏で、なぜマミがここにいないのかという疑問が無いわけではない。

 台風の被害で亡くなったと杏子は説明していたが、それは苦しい嘘だった。家族を失った現実に、仲良くなったお姉さんまで失った事実が追い打ちをかけ、モモの心には深い傷を残していた。

 マミの遺体は美しく保管されているため、顔を見てお別れをすることで、モモも一区切りをつけられるかもしれない――だが、これから行われるのは、魔法少女だけが知る、特異な別れの儀式だった。

 そこに正式な火葬場はない。参列者の祈りも、安らかな眠りを願う言葉もない。ただ、魔法少女としての役目の区切りとして、静かに火によって還されるだけだ。

 そして、モモに魔法少女関連と不必要に関わらせたくない。その気持ちもまた、杏子の本心であった。

 

「それじゃあ、モモ。行ってくる」

 

「うん、行ってらっしゃい。お姉ちゃん」

 

 杏子は腕を広げ、モモをしっかりと抱きしめた。

 モモは小さな手で杏子の背中をぎゅっと掴み、笑顔で送り出してくれる。その笑顔に応えるように杏子も微笑んだ。

 この幸せを噛みしめるために。失わないために。ただいまと言えるように――そう、心に誓いながら。

 

 こうして、三人の魔法少女は予定していた少女を迎えに行くため、夕焼け空の街を飛び立った。

 本来なら建物の影や物陰を利用して移動するのが常だが、杏子の幻覚魔法の手にかかれば、魔法少女の姿は人目に触れることなく保たれる。そんな彼女たちが向かった先はさやか――最近では、ほむらにとっても見慣れていた家だった。

 

「いやー、やっぱり似合ってるよねぇ」

 

「なんだよ、別に似合ってるとかじゃなくて、いつもの服じゃないから珍しいだけだろ?」

 

「いいえ、とても可愛いと思うわ」

 

 玄関前でチャイムを鳴らすと、三人はそれぞれ魔法少女の変身を解いていく。さやかとほむらはいつもの見慣れた見滝原中学校の制服姿へ戻ったが、その中でひときわ目を引いたのは杏子だった。

 さやかたちは身支度を済ませている間にいち早くお目にかかっていたが、とある服装に袖を通している杏子が珍しく、だからこそ新鮮で、二人はつい口に出さずにはいられなかった。

 

 「……ほら、いつまでもジロジロ見てんなよ。落ち着かないだろ」 

 

 杏子がぶっきらぼうにそう言うと、二人はくすくすと笑いながら肩をすくめた。

 そうして暇を潰すように話していると、扉の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。

 

「さやかちゃん! ほむらちゃん! 杏子ちゃん! おまたせ!」

 

 扉が開き、笑顔で顔を出したのは鹿目まどかだった。

 

「いや、こっちこそ待たせてゴメンな」 

 

 杏子が手を挙げて応えると、まどかはにっこりと微笑んで見せた。

 彼女は魔法少女ではない。だが、魔法少女として生きる彼女たち、そしてワルプルギスの夜との戦いで失ったマミ――その誰にとっても、鹿目まどかという存在は特別だ。

 人と魔法。二つの世界に生きる住民。彼女がそこにいること自体が、杏子たちにとって一つの救いとも言えるのだから。

 

 そんな少女を迎えに来た彼女たちだったが、まどかのう背後にはもう一つの人影が現れた。

 

「久しぶり――までは言わないけど、数日ぶりだね、あんたたち。元気にしてた?」

 

「こんばんは、まどかのお母さん。今日は、まどかに付き合って欲しいことがあって来ました」 

 

 もう一つの人影は絢子であった。

 普段から鹿目家にお邪魔しているほむらが率先して礼儀正しく挨拶をする。軽く手を上げて返事をする絢子であったが、彼女の視線はほむらから杏子の姿に目を留めた。

 

「杏子ちゃん。その格好……」

 

「あー! 本当だ、ママ! 杏子ちゃん、私たちと同じ見滝原中学校の制服だよ!」 

 

「正装ってことで、一応着てきたんだよ。入学するのはまだまだ先のことだけど」

 

 さやかたちが目を引いた理由。それは、杏子が袖を通している服装が見滝原中学校の制服であったからだ。

 彼女が正式に入学するのはまだまだ先の話だが、手元に正装らしい正装がなかったため、マミの遺品として残されていた制服を借りていた。

 身長もほぼ同じだったため、杏子が着ても全く違和感がなく、それがまた絢子やまどかの目を引いたのだろう。

 

「とっても似合ってるよ、杏子ちゃん。もし入学することが決まったら、みんなで写真でも撮りたいぐらい」

 

「気が早いですって。でも、入学が決まったらまた遊びに来ます」 

 

「そうしてくれたら嬉しいよ――っと、今はおばさんとお喋りしてる暇はないんだろ? ほら、行っておいで。まどかをよろしくな」

 

 そう言うと、絢子はまどかの背中を軽く叩き、杏子たちの方へ促した。

 

「ママ、行ってくるね」

 

「あぁ、行ってらっしゃい」

 

 まどかが小さく手を振りながら玄関を出ると、彼女を迎えた杏子たちはそろって絢子に向かって一礼した。絢子はそんな彼女たちを優しく見守るように腕を組みながら立ち尽くしていたが、やがて彼女たちの姿がぼやけ、空気に溶け込むように消えていく。

 杏子たちが不自然に消えたその瞬間を目の当たりにしても、絢子は驚く素振りも見せなかった。ただ静かに玄関を振り返り、扉をゆっくりと閉めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風見野市のとある焼け焦げた教会。それはかつて杏子の父親が管理していた教会であり、今ではマミが安置されている場所でもあった。

 杏子の祈りによって多くの信者たちが集まっていた教会は、今ではその面影もなく、黒く変色し、いつ崩れてもおかしくない廃墟と化している。雨風を凌ぐことすら難しいこの場所に、住み着く者などいるはずもない。

 そんな荒廃した場所へ、杏子たちはいつものように足を踏み入れる。彼女たちの目的は、祭壇のとある箇所に手を伸ばすことだった。その場所には、焼け焦げて黒く変色した木材とは似ても似つかない、整然とした美しい棺桶が置かれていた。

 

「ほら、最後の見納めだよ」

 

 杏子がそう言って棺桶を開けると、中には今にも動き出しそうなほど血の気が通ったように見えるマミの肉体が静かに収められていた。

 死んでいるとは思えない美しく整った表情。青白く変色することもなく、柔らかく健康的に見える肌。棺桶の中は様々な色彩の花で満たされ、まるで眠っているかのように微笑みを浮かべる彼女がそこにいた。

 杏子たちは、これが最後の思い出になると心に刻むように、じっと彼女を見つめていた。

 

「本当に……死んでるんだよね……」

 

 まどかが思わず漏らしたその言葉は、あまりにも生前と変わらない姿を目の当たりにした驚きからだった。死んでいると言われても、どうしても信じられないという思いが滲んでいた。

 

「死んでるよ。ソウルジェムが砕かれて、正真正銘魂が抜け落ちた、ただの肉体だけのマミだ――」

 

 目の前にある肉体に魂は無い。その言葉を投げかけながら、杏子は突然声を張り上げた。

 

「おい、キュゥべえ!」

 

「杏子!?」

 

「何か用かい?」

 

 杏子に呼ばれるや否や、何の前触れもなく現れたのは無表情な白い獣――インキュベーターだった。

 そのそしらぬ顔には、相変わらず何の感情も宿っていないのだろう。マミの遺体を目の当たりにしても何一つ動じることのないその姿に、ほむらは強い嫌悪感を覚えた。

 親の仇以上の外道――ほむらにとってインキュベーターは、今もなおそのような存在であり、共存の余地すらないと考えていた。

 何故、インキュベーターを何故呼ぶ必要があるのか。その意味を問おうとしたのだが、答えを聞く前にはほむらの疑問について口を開いていた。

 

「あたしが呼ぼうと呼ぶまいと、どうせ見えない所で監視してるんだろ。それに、こいつが死ぬ瞬間まで一番付き合いが長かったのはキュゥべえだ。だったら、あたしらだけじゃなく、キュゥべえにも面倒を見させないとな」

 

 杏子が棺桶を見下ろしながらそう言うと、ほむらは驚いたように視線を上げた。その言葉には、彼女なりの皮肉と嫌悪、そしてどこか諦めのような響きがあった。

 

「そんなことをして何になるのかは知らないけど、君たちがそうしたいと言うのであればそうすることにするよ」

 

 彼女の言葉にキュゥべえは無感情に答えた。

 その言葉には相変わらずの無機質さしか感じられない。続けて、まるで当然の提案をするようにこう付け加えた。

 

「まどかが望むなら、彼女を生き返らせることもできるんだけどね」

 

「このっ!!」

 

 キュゥべえの言葉にほむらは激昂し、反射的にソウルジェムから引き出した拳銃に手を伸ばした。

 まどかの肩に飛び乗り、なおも契約を結ばせようとしているキュゥべえ。その冷淡な態度に、ほむらは数少ない弾丸を全て撃ち込むつもりだ――だが、その瞬間、さやかが素早くほむらの手を掴んで止めてしまう。

 

「分かるよ、ほむらがムカつくのは。でも、今はそれをやる時間じゃないってこと、ちゃんと分かってるでしょ?」

 

「でもこいつは……!」

 

 ほむらは怒りで震える声を上げるが、さやかは毅然とした態度でほむらを制す。続けて、彼女の固く握られた手を握り、ゆっくりと拳銃を抜き取った。

 それでも怒りが静まらないほむらに肩を竦めていたさやかは、拳銃が奪われ空いた手のひらをそのまま掴み、まどかの手のひらに重ねた。

 

「ほむらちゃんはまどかちゃんとお手てを繋いでおきましょうねー」

 

「ば、馬鹿にしないで頂戴」

 

「うぇひひ。ほむらちゃん、嫌だったかな?」

 

「嫌じゃないわ……」

 

 その即答ぶりに、さやかはほむらの怒りが多少は鎮まったことを確認しつつ、これでキュゥべえが何かしでかしても、すぐに大きな問題には発展しないだろうと判断した。そして、静かに棺桶へと歩み寄った。

 棺桶を覗き込むさやか。その中に眠るのは、彼女の親愛なる先輩。さやかの胸には、数々の思い出が一気に押し寄せる。何度も無理を言って甘え、泣かせてしまったこと。少ない時間を彼女に使わせてしまったこと。自分があの頃どれほど幼く、無遠慮だったか――それらが次々と心に浮かんでは消えていった。

 

「マミさん」

 

 思わず声に出してしまうさやかの目には、涙が浮かんでいた。

 彼女はにじみ出る涙を拭おうともせずそのままに、棺桶の中で静かに微笑む巴マミを見つめ続けていた。

 

「ねぇ杏子、触れても良いかな」

 

 眠るように横たわる少女。その姿はあまりにも美しく整えられていて、一見するとただ眠っているだけのように見える。しかし、どれだけ綺麗に見えてもそれは死体であり、生きている者とは違う静けさを纏っていた。

 死体の取り扱い方など知らないさやかは、触れても良いのか分からず一度尋ねる。杏子は特に気にした様子もなく、頷いて示した。

 

 「マミさん、お久しぶりです。あたし、あなたに託された見滝原市で頑張ってますよ。色んな魔法少女と戦って、会話して、それでも上手く行かなくて……やっぱり大変ですね、みんなを救おうとするなんて。でも、やっぱり諦めたくないんです。大好きな人に託されたバトンでもあるから……」

 

 さやかは右腕を伸ばし、マミの頬に手を添えた。指先が触れると同時に、柔らかい感触が伝わってくる。今にも動き出しそうなほどにリアルで、生前の彼女そのものを思わせるものだった。しかし同時に、その手の平から伝わる冷たさが、これが確かに死体であることを証明していた。

 体温という体温が全く感じられない。かつて彼女に抱きしめられたときの温かさは、ここには存在しなかった。

 魂は完全に壊れてしまい、マミたらしめるものはもはやどこにもない――それが現実だった。

 それでも、この肉体がマミのものであるという事実は、変えようもなかった。

 

「これで最後なんですよね……」

 

 本物の死体に触れることで、さやかの脳裏には、かつて一度考えたことが甦った。

 ソウルジェムの真実を知ったときのこと。魂を形にしたものが肉体から分離され、それによって魔法少女が成り立っているという現実。あのとき、まるでゾンビのような存在だと考えてしまった。魔法少女は動く屍であり、生きていると言えるのかと、自問自答したのだ。

 その考えがさやかをどれほど追い詰めたか、彼女自身が一番よく分かっている。思考は混乱し、感情は暴走し、危うく魔女化しかけた――それほどまでに、魔法少女の真実は残酷で、冷酷だった。

 しかしそのとき、杏子が手を差し伸べてくれたおかげで、さやかは辛うじて冷静さを取り戻すことができた。それは彼女にとって乗り越えるべき事柄でもあり、苦い思い出の一つだ。

 

 今こうして、本物の死体と化したマミに触れていると、あのときの結論は感情に流されすぎたものだったのではないかと、さやかは思わずにはいられなかった。

 魔法少女は魂が分離され、肉体のみが動いている。そこだけ見れば動く屍と言えるかもしれない。実際に、そう考える者も少なからずいるだろう。しかし、それでも魔法少女たちはこの世界で熱を帯び、一人の人間として確かに生を受けている。

 ここに横たわるマミは、正真正銘、魂のありかを失った本物の死体だ。マミたらしめるものは何も残っていない――ただの屍。覆すことができない事実だ。

 さやかには、その違いが分かっていた。理解していた。それでもなお、目の前にある肉体だけのマミは、美しく整えられた顔と表情を見せていて、まるで今にも起き上がりそうなほど生前の彼女そのものに見えた。

 その事実が、どこか切なく、耐えがたいほどにさやかの胸を締め付けた。

 

「マミさん。最後のお願いです。あたしに――美樹さやかに、最後の思い出を授けてください」

 

 たとえ目の前に横たわるマミが、魂の存在しないただの肉体であったとしても、さやかには関係のないことだった。

 もう二度と会えない。触れることもできない。その現実を目の前にし、最後に彼女との思い出を残したかった。

 さやかはその一心で、力の入っていないマミの手の平をそっと持ち上げ――無防備に露出した手の甲へと唇を落とした。

 

「マミさん、最後までありがとうございました」

 

「……ったく、死体相手になんてことしてんだか」

 

 その行動には何のためらいもなかった。まるで、敬意と感謝のすべてを込めたような一瞬だった。

 そんなさやかの姿に驚いた杏子は、ため息を吐きながら頭を掻いた。

 

「うん、まぁそうだね。馬鹿だとは思うけど、やらなかったときのほうが後悔してそうだからさ」

 

 さやかは静かに笑いながらそう言った。その声には、自分自身でも少し呆れているような響きがあったが、それでもやるべきだと思ったのだろう。

 一方で、さやかの行動を見ていたほむらは、隠す様子もなく引き気味な表情を浮かべていた。しかしそれ以上に、隣でその光景を見守っていたまどかが、小さく呟いた言葉に気を取られてしまった。

 

「まるで本物の騎士様みたい……」

 

 そう言いながら、まどかはほんのりと頬を赤く染めていた。

 彼女の呟きは、隣で手を繋いでいたほむらの耳にも確かに届いていた。その瞬間、彼女のソウルジェムがほんの少し濁ったことは、誰にも知られることのない秘密だった。

 

「さ、ほむらちゃんも最後のお別れをしないとね」

 

「え、ええ……」

 

 さやかが最後の挨拶を終えたのを確認すると、まどかは表情を暗くしているほむらの手をそっと引き、マミのもとへと向かわせた。

 棺桶の中に眠る彼女の顔は、生前と何も変わらない――その美しく整えられた表情。しかし、ほむらにとってはその光景も見慣れたものだった。生きている姿も、死んでいる姿も、どちらも何度も目にしてきたからだ。

 だからこそ、どれだけ美しい姿であっても、そこに特別な感想を抱くことはなかった。

 感謝していないわけではない。異なる時間軸の中で、魔法少女としての基礎を叩き込んでくれたのは他ならぬマミだった。魔法少女の真実を知って以降は敵対することが多くなり、まどかを救うための道を幾度となく阻む存在として現れることも多かった。

 しかし、それでも。ループする時間の中で出口を見つけるきっかけをくれたのもまた、彼女だった。

 

「あなたには辛酸を舐め続けられたけど、感謝しているわよ。あなたのおかげでまどかは救われた。そして、私も救われた」

 

 ほむらの声は静かだったが、確かな想いが込められていた。

 終わりの見えなかった戦いに終止符を打てた。まどかと共に歩む時間にたどり着けた。

 それだけではない。魔法少女としての力をほとんど使い果たし、絞りカスのような魔力しか残っていない自分に、この世界で生き残るための道を示してくれた。

 まどかを救った後も、まどかを救い続けるために――その未来を掴む手助けをしてくれたのだ。

 

「ええ、これが最後。最後の挨拶よ――巴さん、ありがとうございました」

 

 作り上げている刺々しい雰囲気とはかけ離れた、弱々しくも優しく、柔らかい印象を持っていた以前の姿を思い出し、穏やかな声で最後の言葉を紡いだ。

 かつて、優しく手を差し伸べてくれた大切な先輩に、その思いを込めて――ほむらは別れを告げたのだった。

 

 その言葉を隣で聞いていたまどかは、少しだけ安心したように微笑みを浮かべた。

 そして、自分の番だと覚悟を決めたように、小さく息を吐き、普段とは異なる真剣な表情で棺桶に向き合った。

 

「マミさん、あなたの言葉は忘れていません。私は魔法少女にはなりません。きっと、あなたと同じように、私の大切な人が眠りにつく瞬間が訪れるでしょう」

 

 まどかの声は静かで、それでいて揺るぎない決意が感じられた。その瞳には、これまでマミから受け取った言葉の数々が刻み込まれているようだった。

 

 キュゥべえが差し出す命の天秤。もしまどかがその天秤に自らの生命を捧げたなら、この宇宙はまどかの指先一つで創り直すことができてしまう。それほどの力を持っていることを忘れるはずもなかった。そして、彼女は神ではなく、一人の人間としてこの世界に存在することを決断した。

 

 魔法少女の身体はソウルジェムが砕かれない限り半永久的に生き延びる構造に組み替えられている。若さは保たれ、彼女たちは自分が望む最高の状態を維持できるだろう。しかし、それでも死という運命だけは如何なる存在にも平等に訪れる。棺桶の中で眠るマミのように、いずれ誰もがその瞬間を迎えるのだ。

 まどかにとって大切な存在であるさやか。長い年月をかけて彼女を救い出してくれたほむら。見滝原市や家族を救ってくれた杏子――彼女たちも例外ではない。いつかはみな、眠りにつく日が来る。そのとき、まどかはどのように思い、何を感じ、何を語るのだろうか。それを彼女は想像することすらできなかった。

 キュゥべえは言った。まどかの資質を持ってすれば、マミを蘇らせることなど容易いと。もし未来、さやかや杏子、ほむらたちが消え、まどか一人だけが残された時代が訪れたとしても、彼女が望むなら四人を蘇らせる願いを叶えたとしても、取るに足らない要望だ。

 誰もが一度は考えるだろう。大切な人を失ったとき、蘇らせる選択肢が目の前に差し出されたなら、自分はその選択肢を選ぶだろうか、と。そして、ほとんどの人がそれを選ぶはずだ。

 まどかも例外ではなかった。その選択を迫られる瞬間がいつか訪れるだろう。そして、彼女にはそれを叶えられる力がある――しかしまどかは、静かに言葉を紡いだ。

 

「それでも、私が誰かのために祈りを捧げることはありません。神様にもなりません。それが魔法少女ではない、ただの人間、鹿目まどかだけが叶えられる救いですから」

 

 他の誰にもできない人間でい続けること。それが今の世界における最大の救いである――まどかはそう信じていた。

 その思いは、マミや暁美ほむらたちの覚悟を確かに受け取ったからこそ生まれたものだ。

 神のような存在として他者の運命を操ることはしない。彼女はこの世界で、ただ一人の人間として、自分にできることを見つけ、歩み続けるだろう。

 たとえマミの肉体がこの世から消えても、彼女の思いが作り出した杭は、まどかの心の中に深く刺さり続ける。そんな決意と覚悟が確かに込められていた。

 

「全く、君は厄介なものを残してくれたよ。鹿目まどかとの契約は、僕たちだけじゃない。同じ人類、そして宇宙に存在するすべてにとって有益なものだったのにね」

 

 まどかの肩に乗り、静かに死体へと語りかけるキュゥべえ。その小さな身体が微かに揺れると同時に、彼は小さく首を振った。

 まどかが契約を結んでいれば、途方もない年月を費やさずとも、たった一人の人間から莫大な感情エネルギーを獲得することができた。それこそ、宇宙の延命を一人で賄えてしまうほどの量だ。

 そんな存在をインキュベーターが見過ごすはずもなく、契約を持ちかけ続けていた――が、その試みはたった一人の人間に阻止され、死亡した今もなお抑え込まれたままだ。

 インキュベーターにとって時間の概念は人間とは全く異なる。有史以前から人類に接触し続けてきた彼らにとって、一人の人間の一生は刹那に過ぎない。しかし、まどかという一つの個体が生きる時間――特に最も効率よくエネルギーを収穫できる第二次性徴期で契約を結ぶことが、今や絶望的になっている事実は、彼らにとっても無視できない問題だった。

 

「僕たちは人間を理解できていないと君は言ったね。確かに僕たちは、長い年月を君たち人類と共に過ごしてきた。けど、やはり人間の想いというものは――訳が分からないよ」

 

 同じ人間である魔法少女が自身の糧として犠牲にしながら、同じ人間である鹿目まどかを助ける。たった一人の個体を護るために、自らが持つ全てを投げ打ち行動した。

 同じ種族で一体何が違うのか。魔法少女を糧にして人間を――ひいては宇宙を救おうとするインキュベーターと、何が違うのか。その違いが一体何なのか――それは、彼には永遠に理解できないものだろう。

 君の行動は理解できないと言い捨て、インキュベーターは口を閉ざしたのだった。

 

「……あたしから言うことは、まぁ……一応感謝してるよ」

 

 キュゥべえの言葉が途切れたところで、杏子がポツリと口を開いた。その声には、感謝と恨みが複雑に入り混じっていた。

 

「結局、力がなければ何も成し遂げられないからね。でも――もちろん恨んでもいるから。勘違いすんなよ」

 

 その言葉に嘘はない。マミへの感謝も、憎しみも、どちらも杏子の中で確かなものだ。

 彼女が生き抜く中で積み上げてきた矛盾と葛藤。憎悪と愛情、強さと脆さ、全てを内包し作り上げられたのが、佐倉杏子という魔法少女だった。

 

「……何ていうか……はぁ、参ったね。言いたいことなんていっぱいあったはずなのに、死んじまったこいつに、何を言えばいいのか分からなくなっちまった」

 

 棺桶の中で眠るマミを見下ろしながら、杏子の瞳には言葉にしきれない思いが映っていた。それは複雑すぎて、誰かに説明することすらできない感情の渦だった。

 多くを語りたい気持ちはあった。吐き捨てるように感情をぶつける言葉も山ほど浮かんでいた。けれど、その濁流のように溢れていた感情は、喉元で詰まり、いつの間にか静かに鳴りを潜めてしまっていた。

 杏子は結局、簡単な言葉しか紡ぐことができず、もどかしそうに頭をかいていた。

 ありがとうと言うのは、何か違う。ざまぁみろと言うのも、やっぱり違う。全てが正解で、全てが間違いであるような感覚に苛まれ、杏子は何を言えば良いのか分からなくなっていた。

 マミという存在に、ただ一言で語り尽くせるようなものではなかった。彼女は大切なお姉さんでありながら、殺意を向けてしまえる相手でもあった。

 この手で助けたいと思う反面、この手で殺したいと願ってしまう存在だった。好きで、嫌いで――その矛盾が杏子の心を掻き乱し続けていた。

 さやかやほむらがスラスラと最後の言葉を紡いでいく姿を横目に見ながら、杏子はため息を吐いた。いざ自分の番となると、こうも言葉が出てこないものなのかと、自嘲気味に笑う。

 何も言わないのも違う。けれど、何を言えば良いのか分からない――そんなふうにまごついていると、背中に軽い衝撃を感じ、振り返るとそこには、さやかの姿が見えていた。

 

「杏子、とりあえず全部言えばいいんだよ。思ったこと、感じたこと、何でもさ。正しいことを言おうとしなくていいんだよ」

 

「正しいことじゃなくて、全部……か」

 

 杏子はつぶやくように繰り返した。さやかの言葉に、何かに縛られていた心が少しだけ解放された気がした。

 考える必要なんてない。そもそも、考えたところで答えなんて出るわけがない。杏子とマミの関係は、そんな単純なものではなかった。

 一体、どの立場で物事を考えていたんだろう。

 魔法少女として。

 人間として。

 後輩として。

 妹として。

 どの側面で彼女を見ようとしていたんだろうか――。

 杏子は一度目を閉じ、深く息を吐き出した。そして、まっすぐに棺桶の中で眠るマミを見つめた。

 

「なぁ、マミ。あんたのこと、好きだよ。そんで――大嫌いだ」

 

 彼女の声は震えていなかった。ただ、どこか力強さと優しさが入り混じった調子で続ける。

 

「あんたの悪口は、たくさん言うし。好きなところだって、たくさんある。あんたが死んでくれたことには感謝してるけど、生きていて欲しい想いもあった――あんたと一緒に、暮らしたかったんだ……」

 

 その言葉は、杏子の心の奥底から絞り出されたものだった。

 マミの家に移り住み、彼女の使っていたベッドに潜り込むのは、一度ではない。彼女が残していった服に袖を通すのも、一度ではない。何度も、何度も――マミが残した物に触れるたびに、彼女の姿や声が蘇る日々を繰り返した。それは、嬉しさと苦痛が同時に押し寄せる感情だった。

 匂いが邪魔をし、想像が掻き立てられ、止めることができない。もし彼女と共に暮らし、過ごし、歩むことができていたら――そんな日々を手に入れられたのではないか、と。魔法少女としてではなく、一人の人間として生きる道もあったのではないか――と。

 マミの行動からすればそれはあり得ない想像だろう。しかし、ほむらが語る他の時間軸の話を聞くたびに、この世界だけが異質であると主張するたびに、杏子はその可能性を完全には捨てきれなかった。

 

「どうしてあたしに頼んだんだよ。どうして信頼してるなんて言ったんだよ。あたしのことなんて嫌いじゃないのかよ。殺したいんじゃなかったのかよ。理解し合えたって言うなら、どうして、どうしてどうして……っ! どうして、あんたは……」

 

 杏子の声はかすれ、想いの奔流に押し流されるようにして溢れ出す言葉が止まらなかった。膨れ上がる感情に任せて喋り続ける彼女の頬を、知らぬ間に涙が伝っていた。

 唯一、理解してくれたと言うのなら、背中を合わせて戦うことだってできたはずだ。

 嫌いだと言ってほしかった。徹底的に突き放してほしかった。そうすれば、何も考えずにいられたのに、彼女が遺したものの中には、確かに愛が存在していた。

 大好きで、大嫌いだった。この手で殺したくて、殺したくなかった。共に生きたくて、それが嫌だった。

 矛盾だらけで、ぐちゃぐちゃで、考えるほどに何が正しいのか分からなくなる。それでも、考えることを止められない――それが今の杏子だった。

 

「あたしにはもう、答えなんて出せないよ。一生出せる気がしないさ――けど、だったら一生引きずって生きていくよ。忘れられないなら、あんたと一緒に生きていける。だろ……?」

 

 マミは死んだ。どれだけ感情が揺さぶられようとも、その事実は変わらない。だが、記憶に残り、想いが心にこびりつき、一生忘れられないのなら――その一生を引きずって生きていくと杏子は彼女に誓った。

 偽物ばかりで矛盾だらけ。そんな想いを抱えていたとしても、それが佐倉杏子が作り出した本物だった。

 

「じゃあな、マミ。あたしたちは生きるよ。何年でも。何十年でも……あんたとは違って、一緒に生きていたい人がいるからね」

 

 そう言い捨てると、杏子は周囲を見回し、ここにいる全ての者が最後の別れを終えたことを確認した。そして、棺桶の蓋を元に戻し、マミの姿形は完全に見えなくなった。

 杏子は、ほむらから預かった着火剤を取り出す。焼き焦げた祭壇の上には、大量の木材が積み上げられている。その上に棺桶を慎重に置き、彼女はゆっくりと後ろに下がった。

 そして、マミとの決別の儀式が、彼女たちの手によって始まろうとしていた。

 

「それじゃあ、始めるよ――これが、あんたに捧げる最後の魔法だ」

 

 杏子の静かな宣言が教会内に響いた。少女たちは棺桶から距離を取り、手にしていた指輪をそっと変化させ、鮮やかな赤色のソウルジェムを出現させた。

 胸元に輝く宝石を両手で優しく握りしめた瞬間、杏子の全身が魔法少女の装いへと変わり、彼女の魔力が完全に解放されていく。

 透明感のある美しい赤い煙が教会内を包み込む。焼け焦げ、崩れ果てた建物の中を満たしたその煙がゆっくりと晴れていくと――そこにはかつての姿を取り戻した教会が現れていた。

 新築同様に整えられ、傷一つない荘厳な姿。その中に立つ杏子は静かに目を閉じ、心の中で父に呼びかけた。

 

「(ねぇ、父さん。もし良かったら、力を貸してくれないかな)」

 

 その瞬間、教会内には多くの信者たちの姿が形作られた。そこには、幻で作り上げたモモや、鹿目家で世話になった絢子と知久、生前の父と母――彼女が知る人々が、次々と現れていた。

 

「(ごめんな。できればあんたたちにも見守ってほしいんだ)」

 

 その中には、杏子自身の手で命を奪ってしまった魔法少女たちの姿さえも例外ではなかった。

 次第に、杏子の服装が変わり始める。着慣れた修道服へとその姿を変えると、彼女は集まった作り物の信者たちと共に聖歌を歌い始めた。

 祈りを捧げる歌声が響く教会の中、棺桶に火が灯される。炎は激しく燃え盛り、マミの遺体を包み込む。杏子が作り出した教会内で繰り広げられるこの光景は、そこに立ち会った少女たちだけが知る出来事となるだろう。

 

「マミ、ゆっくり眠りな」

 

「さようなら、巴さん」

 

「マミさん、お元気で」

 

「マミさん、忘れないよ」

 

 ごうごうと勢いよく燃え上がる炎の中、マミの美しく整えられた遺体が次第に灰へと還っていく様子を、少女たちは決して目を逸らさずに見守り続けた。遺体が完全に灰になるその瞬間まで、彼女たちはその光景を心に焼き付けていた。

 世界を救おうとし、多くの少女――人々を巻き込んだ一人の魔法少女。その結末を決して忘れることがないように。そして、巴マミという存在を胸に刻み続けるために。これから訪れる未来を信じ、自分たちの足でその道を歩んでいくために。

 彼女たちは、それぞれの想いを胸に抱きながら、新たな可能性を産み出すだろう。

 

 魂という名の宝石を、胸に宿しながら――。

 

 

 

 

終劇

 

 

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