ヒーロー、目指してみたいなって。
貴方に逢ってそう思えたと微笑む彼女に、私は。
君ならなれるさと、笑いかけた。
空を飛ぶ。
上に、上に、上に。眩い太陽をまともに直視することになっても、上空の雲に真正面から突っ込んでも、速度を落とすことなく飛んでいって。つい先ほどまではすぐ傍にあった人が、建物が、街が小さくなるまでずっとずっと飛んで――不意に、上昇を止める。
此処からは、星がよく見えた。
半ば呆けたように宇宙を見渡していた彼女が見下ろすのは人も街も碌に見えなくなった、けれど都市圏は無駄に明るくてわかりやすい日本。高度は約10キロ半といったところで、もう少し飛べば成層圏に届くくらいだ。確か対流圏なんていったっけと、自身の個性に関連した調査資料からの知識を引っ張り出しながらふよふよと浮く。軽く見上げると、ここまで来てもまだ遥か遠くに在る太陽がぎらぎらと輝いていた。
『ん……』
既にこの場は、生身の人間が生存できるような環境ではない。気温は氷点下50度を下回り、ジェット気流の吹き荒れる空域では雲が生み出されては吹き散らされていく。酸素も碌に存在しない環境である、如何なる個性の持ち主であったとしても、生身でこの空間を漂うのは不可能だといえた。
故に。
のんびりと空を見上げ、ふよふよと対流圏を浮かぶその少女は。肉体などという枷を持ってきてはいない。
『んあー……』
いまいち信用ならない――そもそも臓器だとかホルモンだとかいったものに依存する生物的な機能は今は持ち合わせてはいない――体内時計が正しければ、時刻は午後1時か2時程度。だが、時刻や天気といった概念も、ここまでの高度までくれば限りなく希薄になる。
24時間星見日和であった。
暴風に翻弄されるでもなく、逆らうでもなく。ふわふわ気ままに浮かんで標高10キロを超えることで薄汚れた大気や都市圏の光に邪魔されることのなく見ることのできるようになった星空を見上げていた少女は、やがて姿勢を変えて地上を見下ろす。地に向けて身を捻り、見様見真似ののクラウチングスタートでも切るかのように腰を曲げ、虚空で構えを取って。
堕ちる。
片道30分にも満たぬ空中旅行、その帰路。速度を緩めるでも、早めるでもなく。自由に、気ままに地上へと向かう。
少しして、雲を突き抜けた。下方に見かけた飛行機の邪魔にならぬよう真後ろを落ちていった。重力に囚われぬ自由な動きで落下速度を緩め大質量を回避すると、またすぐに最高速度で落ちていく。こうした動きをしていく上の懸念のひとつは、やはり空を飛ぶ他の生物の存在なのだが――流石にこの高度である。余程の竜巻にでも巻き込まれたならともかく、太陽の燦燦と輝く真昼間から鳥と遭遇して驚かせることはなかった。
『よッ……と』
宇宙にまで飛び出してはいないとはいえこの大移動である。誤差ひとつでどこに堕ちるかわかったものでもないが……落下中であろうとも体の場所を気配で理解できるくらいには、個性を鍛えていた。見慣れた街を空から見下ろし、空中で遭遇したカラスを迂回し、落下する軌道を水平に捻じ曲げ、並ぶ建物の数々の上方を飛行していく。
一度ビルの中から垂直に落下する様子を目撃され自殺だなんだといった騒ぎを起こしてからは、あまり人を驚かせるような挙動は控えるようにしていた。本気で隠密するならまだしも、普通に目視される状態で他所様に迷惑をかける訳にはいかないという訳である。
上空で見下ろす街並みから我が家を見つけ接近、不規則な挙動で天井をすり抜け、兄と向かい合って席についている目標を見定めて――
がくんと、身体が揺らいで。色素も質感も抜けていた体に、色と、肉感がついたのを自覚して。簡素な衣装を纏い、椅子に腰かけた姿勢であちこちの関節を動かして調子を確認していると、受肉した彼女と向かい合うようにして座っていた青年が、目を通していた資料の数々から目を離して笑いかける。
「……おかえりなさい、カナタ」
「……ただいま、兄さん」
端的な、けれども温かな感情の籠められていた家族の言葉に破顔し、頼城カナタは穏やかな表情で瞼を閉じる。
――今日も。
憧れを思い出す。
早朝に届いた、雄英高校の合格通知。電子機器から立体映像で表示されたNo.1ヒーローの姿を思い浮かべ、かつての感触に思いを馳せる。
私は、成れるのだろうか。
私は、逢えるのだろうか。
あの日笑いかけてくれた彼のような、素敵なヒーローに。
**
一体、どのような試みによってそのような発想が生まれたのか。数年ほど前から彼女が始め、そこそこに時間を費やせば成層圏にまで至れるまでになった空中旅行。
人体を持たない彼女がどのような行動をしたところで霊体には疲弊はないが、それはそれとしても個性の駆動には相応の消耗というものがある。
俗にいうお姫様だっこであるが、青年に持ちあげられる当人が何の協力もしてくれないこともあり普通に重たい、が――プロになってからも、ヒーローとしての鍛錬は欠かしてない。見た目以上の重量にも苦しむことなく難なく階段を上って妹の寝室に足を踏み入れた彼は特注の照明機器、複数の機材を取りそろえた特徴的な部屋の片隅にある寝台にカナタをおろす。
「んむ……」
身に纏う手術衣をはだけさせて微睡む姿は年頃の少女としてはなかなかに無防備ではあったが――慣れ親しんだ行為とはいえ、これからすることは多少刺激が強い。しっかり眠っていた方が、互いの精神衛生的に都合がいいだろうと判断する。
メス、鋏、糸、包帯、薬剤、注射器、ドライバー、螺子。ベッド脇の棚から複数の仕事道具を取り出した青年は、雄英からの合格通知を見て飛び出してから半日ぶりに眼前の体に戻ってきた妹の【調律】にとりかかる。
静謐な室内に響く金属音と断裂音。最大限の光度の照明で施術中の室内を照らしながら調律に取り組んでいく彼は、脳裏に妹の、否ヒーローを志す少年少女の誰もが憧れる『象徴』の勇姿を思い浮かべた。
衰弱した英雄。最盛期が冗談のように弱体しながらも気合と根性だけで悪漢を打ちのめしているような輩に前線で虚勢を張られるのも悩みものであったとはいえ……まさか、講師として雄英に参加するのは想定外だった。
事情を認識している関係者に何度止められようとも頑固にヒーローをやってきた彼が、今更教員をやると言い出したのは……とうとう、後継者でも見つけたということか。
他者に譲渡することで発現する、事実上の増強系最強格の個性がとうとう英雄から受け継がれようとしている。――そんなことには、何の感慨も浮かびやしない。
元より彼の優先事項は、今現在も裂かれた肌から機器を埋め込まれ、施術を受ける少女ひとり。
(カナタが入学しようとしている以上、今潰れられて困るのはこちらなんだ……ヒーローとしての活動と教員を両立しようと無理して、いざという時に動けないような状況に陥らなければいいんだが)
施術痕の縫合に用いた糸を抜き取り、先程までざくざくと機材を埋め込んでいた素肌の様子を確認していると――不意に、もぞもぞと動いたカナタと目が合った。
「……目を覚ましていたか。なにか違和感は?」
「特には、ないかな。全力で動かした場合どうなるのかはわからないけれど」
「少なくとも試験のロボット狩りで見せたような動きをする分には負担はないだろう。一般人の身体能力は確実に超えているのだしな」
「んー……そっかあ」
雄英の教職に就いている訳でもない兄が自身の受けた試験内容を完全に把握していることに疑問を持つこともなく。傷一つない縫合痕を指でなぞる少女は、あやうく胸の中心を突き破りそうになって慌てたように手を引っ込める。
「やっぱり実感がないなあ」
「……」
「でも、良かったと思うよ、私」
「……そうか」
「友達、できるかな」
「できるさ」
「ヒーローに、なれるかな」
「勿論。頼城の一族は、いつだって頼りにされてた」
「
個性のない時代とは違うし――何より、自分の家から女がまともに外に出たことはないでしょう、と。反論のしようもないはっきりとした物言いに苦笑する。
だが――妹の活躍を、決して疑いはしなかった。
君なら最高のヒーローになれると、それだけのポテンシャルを秘めていることは間違いないと言って。
少しだけ、後悔した。
「ん……そっか」
そっか。
小さな呟きを繰り返して、ベッドに寝転がったままごろごろと転がりだしたカナタを見守り――
施術を終えて妹の部屋から離れ、指の関節を鳴らしながら手を洗う彼は。いずれ解決しなければならないいくつもの案件をピックアップして……疲れ果てたように、洗面台の前で座り込む。
正直なところ、もうどうしようもないというのが本音だった。
今年は荒れる。
だが、嗚呼、せめて、せめて。
彼女だけは。
「どうか――どうか。君の、君だけの、