神聖転生王国ヴァチカン【バレンタイン短編】 作:源氏物語・葵尋人・物の怪
最近、公式からのまさかの物の怪認定を受けた人です。
いかがお過ごしでしょうか?
俺にはよく分からないのだ――。
この世界が本当に間違っていたのか――。
†
きっと何度地獄に落ちたとしても忘れられない光景はたったの二つ。
一つはあの男との出会いの日。
その日俺はガリラヤ湖のほとりにいた。岸辺の草の無い禿げた地面に腰を落とし、仕事道具の網と銛とを傍に置いて、ただぼうと水面を眺めていた。
この日に限らず、俺はその頃ただ湖を眺めて過ごすことが多かった。
「兄さん、また今日もさぼりか」
そしていつもと同じように年の近い弟が日に焼けた顔いっぱいに呆れを表して、近づいてきて俺の隣に腰を下ろした。
「親父に られるぜ?」
「分かっているさ」
こうして怠け者に付き合っているだけでも屹度、父は激怒し脳天に拳骨を振り下ろしただろう。
同じ親から生まれた兄弟だ。父に付き合った時間の長さも誤差の範囲に過ぎない。故に、父の気性を弟が知らぬ筈はないのだ。
にも関わらずこうして俺に付き合ってくれる弟の優しさがこの時、糜爛になった俺の心に沁みたのをよく覚えている。
「すまないな。ふと気が付くと考え事ばかりしてしまう。そうなると駄目なんだ」
「一体何を考えているんだ?」
初めて弟に己の怠惰の理由を問われた俺はこのように答えた。
「世界のことだ」
その回答に弟は口を半開き、何度も目を瞬いていた。
俺も弟も、父と同じく魚を取って日々の糧とする漁夫に過ぎない。それが世界などと大それたことを言うのだ。
気が触れた以外の何ものでもないだろう。
「徴税は厳しく人々の暮らし向きは悪くなるばかり。厳しい戒律を課す律法学者達ばかりがそれを守ろうと倦む民を見ては“人間とはかくも素晴らしい”と笑う。俺が見えている小さな世界ですらここまで歪んでいる。ならば世界の総てとは一体どれだけの歪みを抱えている?」
弟の言葉を待たず、まるで腹に蠢く虫を吐き出すように俺は己を憂鬱にしていた感情を吐いた。
「幸福な人間が更なる幸福を求めるのは悪いことではない。いや、寧ろ俺はそれを愛すべき祝福すべき人間らしさだとすら思う。だが、その求める心の為に遍く人々に幸福が行き渡らず不幸に嘆く人々が俺の周りにすら映っている。これが歪みでなくてなんだと言う?」
少なくともこの時俺が見ていた世界に於ける人々の幸せとは“定められた大きさのパン”と同義であった。
そのパンをちぎって手に取って食べることを幸福だとしよう。どの程度パンを食えば満足するかなど人に因りけるが、ここで満足出来なかった者はまたパンに手が伸びる。それでもいつかは腹も満たされるのだろうが、満たされたところで人はまた飢える。問題はここからで熱心に、そして盛んな勢いでパンを食らう者だけが食らい続け、そういった者達に押しのけられまたそういった者達を恐れ食えずにいる者がいる。
もっと大きなパンが用意されていれば、それこそ誰が満たされずとも誰が植えるとも無くならないほど大きなパンが。
俺はその頃こんなことばかりを考えていた。
未だに俺には分からないが幸福が定量などというのは、狭窄した目と無知蒙昧たる頭とが生み出した幻なのかもしれない。しかしながら、終ぞ俺の前には世界の総てを見て真理を悟った者など現れなかった。
「そんなことを考えて湖を眺めてたのか」
俺は屹度、この時文字通りふさぎ込んでいたのだろう。
一体、弟がどんな顔でいるのか分からなかった。
「親も同然の湖だ。見つめられていれば、落ち着くと思っていた。この湖と比べればあまりにも小さく、何でもないことだ思えるとそう思った。だが……」
俺は顔を上げ、ガリラヤ湖を見た。
水面にはささくれた様に、波が立っていた。ガリラヤ湖にはよく強い風が吹きつけるから、苛立ったような表情を見せることが多い。
「そう湿気た顔すんなよ、兄貴。お前がそんなだと俺まで辛くなっちまう」
弟は俺の肩に手を回し、豪快に叩いた。
その勢いに驚いてふと弟の顏を見ると、そこには太陽のような笑みがあった。仕事熱心で、いつも日の下で働く弟の黒い顔には、見ている此方の胸が透くような笑みが灯るのだ。
「第一考えろ、兄貴。俺たちはただの漁師だ。世界のことを考えるにはあまりにも小さすぎる。目の前の今日のことを考えるのが精々だ。手の届かない場所のことで悩むことなんかない。それよりも目の前の出来ること、だろ?」
立ち上がって弟は俺に手を差し出した。
「……お前が羨ましいよ」
「なんだよ、馬鹿にしてんのかよ?」
「いやお前は正しいということだ」
屹度俺の顔には馬鹿にしたような微笑が浮かんでいたのだろう。
だが、そんなことはない。俺は本気で弟を羨んでいた。
人間の幸福や苦しみ、普遍的な正義や智についてのあれこれを考える人間ほど立派だと思われがちだがそうではないのだ。ただ生きる、生きるために生きるということに真摯な人間こそが俺の思う尊敬できる人間であり、弟は無意識のうちにそれが出来ている人間だった。
分不相応な苦悩を抱え、憂鬱に呑まれる俺と比べてなんと立派なことだろう。
「さぁ仕事しようぜ、兄貴。俺たちが生れた場所がここで、俺たちがあの親父から生まれたなら屹度それが俺たちのやるべきことで俺たちがここにいる意味ってヤツだ」
弟の手を取って立ち上がろうとしたその時だった。
「いや、案外別の意味があるかもしれねぇぜ?」
その男は突然現れてそんなことを言った。
「……誰だあんた?」
弟はその男に怪訝そうな顔を向けた。
突然やって来て、したり顔でそのようなことを言う見知らぬ男が怪しかったというのもある。加えて男は特異な外見をしていた。長く伸ばされたうねる髪は白く、また麻布の簡素な衣から覗く手も、見目麗しいとも表現すべき顔もまた白かった。そして、瞳だけが鳩の生き血のような鮮やかな赤であった。
「名乗るほどの者じゃあない。ただの根無し草のクソったれさ」
「その根無し草がどうして俺を語る?」
立ち上がり、俺は男を睨んだ。
お道化たような男の態度が激しく気に入らなかったのだ。
「根拠って言われるとちょいと困るが、ただお前さんの運命はここにはないってことが俺には分かっているのサ」
「俺の運命がここにはない? ではどこにあると言うのだ?」
問われると男は己の胸をこつこつと叩いた。
「俺と共にあるのさ、シメオン。湖で魚をとる漁師はお前さんに与えられた運命じゃあねぇ。俺と共に人をとる漁師をやることが与えられた運命なのよ」
「人を取る漁師?」
ああと肯定して男は手を差し出す。
「もっと分かりやすく言うと、俺と一緒に人を幸せにしに行かねぇ? ってハナシ」
一人で盛り上がる男に弟はすっかり呆れ果てため息を吐いた。
「アンタ、何言ってんだ?」
「弟クンも旅の仲間だぜ?」
「聞いてねぇし、ホントに何言ってんだよ」
弟は男のことをまるで狂人のように扱った。
「兄さん、こんな酔狂と付き合っても時間の無駄だ。早く仕事に戻ろう」
弟の反応は全くもって正しかった。
「いや、この男の言葉には不思議と惹かれるものがある」
傍目に見れば狂っていたのはこの場に留まった俺の方であろう。
「だが、アンデレ。お前の言葉にも理がある。この男の言葉は胡乱に過ぎる……故に」
俺はそう言いながら、地面に転がしたままの銛を蹴り上げ手に収め男の顔に突き立てた。
完全に慮外からの一撃であり、男は命を落とした筈であった。
「テメェ! 何しやがる!」
しかし、男は俺の不意打ちを躱した。
「……態々」
「アン?」
男の眉がつり上がる。
「今の動き、直感だとか目測だとかといった動きではなかった。予め知っていた。そういう所作だ」
そこで無理くりではあったのかもしれないがこのような結論を出した。
「であれば、俺が何をするか分かっていたのだろう? このシメオンという名を知っていたのと同じように」
男は分かっているのだ。
これから起こることの殆どを。
「さて、本当にそうだとするならば、俺が何故武器を採ったのかも分かっていると思うが、言葉にしてはくれないか? お前の口を以て」
その言葉を聞くと男は笑った。
そして急に両手が太陽のように輝き、その光が失せたと思った瞬間そこには二本の剣があった。
否――男の言葉を借りればそれは“鍵”であった。
実際にこの時代で見られる鍵と同じような形状の刃を持ち、柄には鍵の頭を思わせる円環の護拳が設けられている。
色は右手に握られた鍵が金で、左手に握られた鍵が銀。
後に普遍的という名で呼ばれる一大宗教の王を現す紋章に描かれる鍵がそのまま剣の大きさにまでなっていると言えば分かりやすいかもしれない。
否、違う。順序が逆だ。
この二本の鍵剣を元にその紋章は設計されたのだ。
尤も今重要な点はそういったところではない。男は金の鍵剣の切っ先を俺に向けこう訊ねた。
「“俺を敗北させてみて欲しい。そうすればお前に着いていくだけの大義名分になる”……ってところかい?」
と。それこそ、まさしく俺がこの時考えていたことで、この場に置いて重要な事柄であった。
俺は屹度その時笑い、“然り”と答える代わりに銛の穂先を男の喉に突き立てたのだ。
男はその一撃に際して、銛を鍵剣で切り裂いたのだと思われる。
少なくとも俺の記憶に在るのは、まるで
併し、俺はここで勝負を諦めはしなかった。無論望みは
その理由は至って単純で、兎に角俺という人間はどうしようもなく負けず嫌いだったからであった。
俺は武器が破壊された時点で男の懐に潜り込んだ。男は俺を遠ざけようと剣を振るおうとしたが、予想通り一瞬躊躇い凪ぎの速力が落ちた。俺はその隙を付き、己の頭蓋を男の顎にねじ込む。
「ガハッ……!」
男は顔を覆いよろめいた。俺はそこから更に畳みかけるように、男の左手に蹴りを放ち銀の鍵を手放させた。そして、手からこぼれた鍵を地に落ちるより先に拾って、男の頭に振り下ろす。
「こんのォ!」
男は血みどろになった顔を覆い毒づきながら、俺の一撃を防いだ。
「……これを防がれるとは思わなんだ。やるな、お前」
俺はこの時無礼にも男のことを見下したような態度で称賛した。
「それはコッチの台詞だぜ。得物も無しに突っ込ん来るかよ、普通」
男は苦笑いを浮かべていた。
「それが最も安全だからそうしたまでだ」
「アン?」
男は不思議そうな顔をしていたが、本当にこの時は懐に潜り込むのが最も安全であったのだ。
「お前には未来が見えている。否、分かっていると言うべきか? 兎に角お前には俺の死も含め、未来が見えていると仮定した。そして、俺を仲間にすることを望む以上“そんな未来は困る”ワケだ。なら話は早い。俺がそういう未来を起こすような行動をすれば、お前は是が非でもそれを起こさぬように立ち回る。そこが隙になるのだ」
分かっていてもそうしなければならない、それを避けられないという状況が訪れることは儘あることだ。この時の俺はそこに男を攻略する糸口を見出した。
俺は男に銀の鍵の切っ先を突き付ける。
「さて、分かったろう? 俺を
俺は問い掛ける。
すると男はにたりと口角を釣り上げ、俺と同じに金の鍵の切っ先を向けて高らかに吠える。
「無論、乗り越えてみせるとも!」
と。
どこかで俺たちを馬鹿だと罵る声が聞こえた。屹度それは弟だったのだろう。
しかし互いに互いの馬鹿は承知の上で、俺と男は刃を交換した。
一体どれほど切り結んでいたのだろう。一進一退、ほぼ互角の戦いがどれほど続いたことか。真昼だった景色はあっという間に暗んで気が付けば夜の帳が降りていた。それは屹度、ガリラヤ湖が干上がってもおかしくないような、辺り一帯が荒れ野と化すような激しい戦いだったのだろう。遠巻きに見守る人々がいつの間にか現れていた。
その“いつ”を俺が正しく認識出来ていないのは、その戦いでは記憶が飛んでいたからだろう。
気が付けば俺は天を仰いで地に転がっていたのだ。視界が開けて最初に見えたのは星空で次々に認識していったものが先程の情報であった。
俺は顔を上げ、男がどこにいるかを確認した。
男は少しばかり離れたところに剣を杖の代わりにして膝を付いていた。
「……俺の負けか。清々しいほどに」
そう独り言ちた俺に向かい男は笑った。
「約束、守ってくれるかい?」
「……当たり前だ。元よりそれが俺の望みでもあった」
無理くり力を振り絞り、俺は立ち上がると男に歩み寄り手を差し出した。
「知っていると思うが、俺の名はシメオン。ヨナの子で漁師をしている。お前は?」
改めて俺は己の名と身分を告げる。
すると男は俺の手を取り、立ち上がってこう答えた。
「メルキゼデクだ。俺のことはそう呼んでくれ」
「“義の王”か。成程、お前には似つかわしい名だ」
俺はその名を刻みつけた。たとえこの男がどのような名で呼ばれようとも、俺だけはその名を忘れることがないようにと。
「よろしく頼むぜ、相棒」
「ああ、末永くな」
そう誓い合った記憶と、その時に見たメルキゼデクの笑顔だけは屹度地獄に何度落ちたって忘れることが出来ない光景であった。
†
もう一つ、地獄に落ちたって忘れることが出来ない光景というものがある。
それは俺に、“巌の男”という渾名が与えられた夜のこと。
その日は星がよく見える日で俺は野に転がって星を見ていた。
「俺が天の国の鍵を授かる者になるか……」
そうしながら考えていたのは仲間に言われた言葉の意味。
その仲間はメルキゼデクに請われ、皆を幸福にする旅に伴われた俺の同類であった。その同類は俺や俺の弟を含めて十二人いて、俺にそのように言ったその人物はその中でもとりわけて聡明な人物であった。
そんな男が俺にメルキゼデクが天の鍵を与えると言ったことの意味を俺は考えていた。
「天の鍵とは……恐らくアレのことなのだろうか……」
そう呟いた俺の目の前に、
「鍵がどうしたんだい?」
とメルキゼデクが現れる。
「うわっ!」
俺はこの時驚いて顔を上げ、
「痛ッ!」
メルキゼデクの顔面に思い切り頭をぶつけた。
「痛ェのはこっちだっつーの。いきなり顔上げやがって! ビックリすんだろうが!」
顏を抑えて俺を非難するメルキゼデクに、
「驚いたのは俺も同じだ。急に顔を近づけやがって……」
俺は抗議をする。
「そりゃ、テメェがなんか考え事している風だったから。心配になったんだよ」
メルキゼデクは痛みに唸り声を上げなら、俺の隣に座り、
「んで天の鍵がどうのこうの言ってたがそれはこれのことを言ってんのか?」
右手を夜空に翳して、その中に金の鍵を現出させる。
「ああ、恐らくマタイが言っていたことはそれのことだろう」
「マタイが? なんて言ってたの?」
メルキゼデクはまるで心当たりがないかのようにきょとんとした顔をしていた。
地上で起こることの総てはこの男にとっては心当たりのある出来事に過ぎないにも関わらず、だ。
「天の鍵をお前から授かる。そしてお前は俺にこう言う。“この天地はお前の思うがままになる”と」
「何だいそりゃ?」
「それが分からんから考えていたんだろうが。マタイの言葉は本当なのか? 天地を思いのままにするとはどういうことか?」
俺はメルキゼデクの手に握られた鍵剣を見つめる。
「そもそもその鍵は一体何なのか?」
メルキゼデクは問われると立ち上がり、左手を宙に翳してその中に銀の鍵を出現させた。
「俺が生れた時に母さんの腹の中から一緒に出てきたモンだ」
「その鍵が……聖母の胎内から?」
鍵の大きさはメルキゼデクの片腕の長さとほぼ等しかった。こんなものが人の体に二本も入るわけがない。
そのように思っているとメルキゼデクは悪戯小僧のような笑みを浮かべて、二本の鍵を交差させた。
すると驚くべきことに鍵は一体化し、鋭角になった二ヶ所、その内鍵頭の方からは柄が、その逆側からは典型的な剣の形状を思わせる刃が姿を現した。
「出てきたものはこの通り、もっとゴツかったんだがな。いやぁ、すげぇな人間の体。こんなモンが入るんだから」
俺は多分、この時呆けたような顔をしたのだろう。
メルキゼデクの手に握られたそれのあまりの現実感の無さに。
「……と、冗談はこれくらいにしてこの鍵の正体なんだが、これは最果ての塔の現身の一つなんだわ」
「最果ての塔?」
聞いたことのない名前であった。
「この星は丸い形をしているが、世界ってのは平たい布のようなモンだ。その布で星を包んでいるわけだから見かけ上の世界には果てがないわけだが、その布は一体どうやってくっついてると思う?」
メルキゼデクが話した以上はそれが実際に世界の真相に近いのだろうと思いながら、俺は考える。
「球をただ布で覆っただけではどこからか剥がれ落ちてくる。そうならない為にはやはり糸で縫い付けるか軛を打つか……だろうか? 成程、最果ての塔というのはそういうものか」
「そういうこと。ああ、実際は星にぴったり張り付いた布がもう一枚あって、俺たちの今いる布に打たれてる軛ってのはその布から打たれてるんだがそういう話しちゃうと複雑になるから例えとして言っているだけだからな」
メルキゼデクという男はよく例え話を用いた。
「で、この鍵はその管理者であることを証明する印象みてぇなモンだ。その鍵を持っていると塔が持つ世界創造の一端を担う権能ってヤツを使うことが出来る。この鍵の場合はあらゆるものとの接続と切断、万物に対する開閉の概念の適応だ。だからこそ二つに分けて力をセーブしていたんだが……」
言っていることは六割方くらいしか分からなかったそれが人の手に余るような恐ろしい武装であることは理解出来た。
そんな恐ろしい力を持った鍵をメルキゼデクは
「ほれ」
と投げ渡した。
「……は?」
「やるよ、お前に」
「お前は馬鹿か? こんなもの俺の手に余るぞ」
「んなこたぁ、分かってるよ。でも、俺以外だったらお前にしか任せられないから渡したんだ」
言っていることの意味がまるで分からなかった。
困惑する俺にメルキゼデクは、
「俺、消えるかもしれないからさ」
と告げた。
何処か悲し気な表情で。
「どういうことだ!?」
俺は驚きのあまりに立ち上がった。
「いや、確定したわけじゃないよ。ただもしかしたらこのまま行くとねぇ、そうなっちゃうかもしれねぇんだわ」
あっけらかんとした口調でメルキゼデクはそう語る。
「それで俺がいなくなった後にこんなヤバイモンがヤバイヤツの手に渡るのはヤバイワケよ。でも、ぶっ壊そうにもそれこそ俺自身が消える覚悟でもしないと消えないくらいカッタい鍵でね、コレ。だから、頼れる仲間に頼もうとしたってわけ。で、その仲間の中でも特に資質がありそうだったのがお前かジューダス。ジューダスにはもしもの時にやって欲しいことがあったから、まぁ頼めるのはお前しかいないってハ・ナ・シ。分かった?」
この時のメルキゼデクはいつものお道化た口調ながら、有無を言わせない圧のようなものを発していた。
「いや、でも消去法ってワケでもないんだぜ? 下手すりゃ世界を思うがままに出るような力だ。お前ならうまく使ってくれるって思ったから渡したんだ」
「何故そう思った?」
その言葉に、メルキゼデクはにぃと口角を釣り上げて、
「お前が優しい人間だと俺が信じたからさ」
と答えた。
俺はその言葉に目を見開いた。根拠も何もあったものではないあまりにも重すぎる信頼に俺は息苦しくなるような、けれど胸が高鳴るような不思議な感覚を得たと記憶している。
「お前が地で繋ぐことは天にあってもまた繋がれる。お前が地で解くことは天にあってもまた解かれる……ってね。期待してるぜ、相棒」
この時俺は、肩に置かれたメルキゼデクの手の温度を、屈託ない笑みを、言葉を体の芯に刻み付けた。
†
そして、俺はメルキゼデクの言葉の通りに鍵の力を上手く使おうとした。
皆が幸福になる世界、幸福な人間が更なる幸福を求めても誰も不幸にならない世界をこの手で作り上げた。
皆が幸福である世界は凄まじい速さで発展し、神秘を有しながら科学力を発展させた理想的な世界だ。
しかし、そんな世界は唐突に終わりを迎えた。
人間という種が種を存続させていく理由は人間という種を完成させることだ。併し、完成させてしまうとそれだけで生存の意義がなくなるというジレンマを抱える。故に、世界は発展が続き人間という種が完成しかけた世界を切除しようとする。
まるで木のそのもの成長の邪魔になる肥大化し過ぎた枝を剪定するかのように。
だが、俺はこのまま切り捨てられることを良しとはしなかった。滅ぶ前にヴァチカンを剪定される世界から切り取り、あらゆる干渉からの入り口を塞いだ。
そして、神都ヴァチカンは平行世界の狭間の海を漂う浮島と化し、永遠を彷徨うことになった。
だが、俺はこれでも物足りなかった。世界の総てを、俺が鍵の力で作った世界の総てを取り戻さなければ気が済まない。それだけを思いながら、けれど何も出来ないまま玉座に腰を置くだけの日々が続いた。
併し――そんな日々は唐突に終わりを迎えた。
「ここは何処だ?」
俺の目の前に突然、一人の青年が現れる。
猫のようにしなやかなレバノン杉の幹のような色をした髪。琥珀色の目は香油のような輝きを持っていた。歳の程は十代を終えるか終えないかと言ったところか。背も高く、鋼のように鍛え抜かれていることが服の上からでも分かるほどの屈強な体の持ち主であった。
「……聖都ヴァチカンの王の間だ」
「聖都ヴァチカン?」
青年は納得がいかぬような顔をして辺りを見渡した。
「在りし世界の中心とも言えたこの国を知らない?」
「いえ、ヴァチカンは知っております。何しろ私はローマ教皇庁に籍を置く神父でありますから。ですが、私の知るヴァチカンにはこのような場所は無かった」
少年の言葉には嘘がある。
俺はそう直感した。
だが、概ねは本当のことを語っている。そうであれば少年は、
「成程。君は別の世界からやって来たのか」
こことは異なる場所からやって来た来訪者ということになる。
青年は首を傾げていた。
いきなり別の世界と言われても困惑するのは当然だろう。
「君、何かこういった時空間の転移に関わるような行動に憶えがないか?」
青年に問うがまるで答えは無かった。
併しその表情は何かを知っていることを物語っていた。
「いや、答えなくて良い。でもこちらの問いには出来れば答えて貰いたい。君の名前は?」
「私は
少し躊躇いながら青年――
「貴方は?」
「シメオン・ケファ。この国の――否、この世界の王と言うべきか」
俺が名を答えたその瞬間であった。
突然、理暒青年が私に何かを投げつけてきた。それはレイピアのような細い刃を持つ男性の上腕とほぼ同じ長さの刀剣だった。
不意を衝かれた形になったがそれでも防げない攻撃ではなかった。俺は鍵剣の片割れを手元に召喚し剣を叩き落とした。
「いきなり何をする?」
理暒青年の顔には狂気を伴った怒りが灯っていた。
「貴様を異端と認定し罰しようとしたまでだ。カトリック教徒の前で聖人の名を騙るなどと不届きにもほどがある」
「聖人? 知らない言葉だ。それはなんだ?」
カトリックというのは分かる。
何故ならそれは俺がその在り方を形作ったものであるから。
「知らないだと!? そんな筈はあるか!? シメオン・ケファの名を騙ってそれを知らないなどと言える筈がない」
またも青年は何処からか剣を取り出し俺に向かって投げつけてきた。
それを再び叩き落しながら、俺はこのままでは話し合いも儘ならないと考え、
「レギオン」
友人に助けを求めた。
「ッ……!? なんだこれは!? 体が動かない……!?」
「所謂霊障というモノだ。君の体の中に悪霊を入れた」
「何だと……!?」
「だが安心したまえ。私の友は、君を取り殺したりなどはない。私はただ君と話がしたいのだ」
何故ここまで怒気を向けられるのか、俺は考えた。
もしかしたら理暒青年の世界に於ける俺とは、彼にとって何か重大な意味を持つ存在なのではないのだろうかと。
「答えてくれ。君の世界で私は如何なる存在だった?」
私は理暒青年に近付き顔にそっと手を触れる。
「……僕の知るシメオン・ケファは主に代わり奇跡を起こした人。主の教えを遍く人々に伝えた全ての信徒の見本となった人物――最初の教皇となった者だ!」
「最初の……君の世界では私は死んだのか?」
意外だった。この俺が死ぬような世界が存在するというのが。
いや、或いはその世界に於いて敢えて死を選んだのか。何か大きな理由があって。
「……お前はまだ自分がシメオン・ケファだと言うのか?」
「ああシメオン・ケファだ。君の世界と変わりのない、奇跡を起こした信徒。そこは何があろうとも偽れないさ」
違いと言えば死んだか、生き続けることを選んだかのどちらかだ。
俺はメルキゼデクの考えと言葉を伝えようとしたし、その言葉の受け取り方をも言葉を伝えた人々に伝えたつもりだ。
「――それを今証明してみせよう」
無論、奇跡も起こしてきたし、今この瞬間にも起こすつもりである。
両手に二本の鍵を顕現させそれを交差し、その真の姿を開放する。
最果ての塔の現身――銘を“
その切っ先を中空に向ける。
すると空間に穴が開き、道が開けた。
「……この世界はあらゆる干渉を絶って来た。そうしなければ、抑止力に見つかり今度こそこの世界が消えるかもしれなかったからな。だが、そんな閉じた世界にどういうわけか君が現れた。何故か分かるか?」
理暒は首を横に振った。
「私はこの星の外からの干渉があったからだと考えている。そして、その考えの通りに扉が開いた」
「……貴方は何をしようとしているんだ?」
「報いたいものがある」
理暒の問いに俺は答える。
「この世界の在り方を守るために切り捨ててしまった命がある。私はその命に報いなければならない。だから、私はここまで生き永らえた。苦渋を飲み続けながら私はここまで生き続けた。この浮島のような世界を、もう一度正しく世界として存在させる為に」
理暒は俺の言葉に目を見開いていた。
一体彼は何を思っているのだろう。この時ばかりは全てが分かるメルキゼデクのことが羨ましくなった。
「……ありがとう、理暒。だが私はその言葉以外に君に捧げるものがない」
俺は開けた道に向かって歩き出した。
すると、
「待ってくれ!」
理暒が私の腕掴んだ。
そして青年は訴えた。
「僕も、連れて行って!」
タグにも書いた通り嘘マス(ニコ動とかに上がってるアイマスの二次創作の形式の一つ。一話だけ投稿とか最終回だけ投稿だとかの形式で行う)みたいなもんなので続きは多分書かないです。
あとこれが何故バレンタイン小説なのかって?
殉教者の話だからさ!
(バレンタインはそもそもある聖人の殉教に由来する祭事です。お菓子メーカーの陰謀とは本来無縁なのです)