歯車の軋む音が響く中を、私は走っていた。
あたりにはこの場における主たる獲物のアラーム――筋肉満ち満ちた巨大ハト時計と形容するにふさわしい異形であるが、どこかユーモラスである――がキチキチと音を立てながら徘徊している。
しかしそれらをぶちのめしている暇はない。見かけたうちの幾体はこちらへと襲い掛かるべく近寄ってきていたが、足が遅いためスルーして私は走り続けた。
――いや、これは敵性モンスターの不特定多数へのなすりつけ、トレイン等といった類ではない、迷惑行為ではないのだ、断じて。
そんな周囲を完全に無視して、私はさらに走った。否、正確に言おう――逃げていた。
手に持つ杖はバランスをとる妨げとなり、肩にかけたマントもひらひらと風に煽られ非常にうっとおしい。しかしこの二つは走る速度を上げる魔法がかかっているので、私を追う存在から逃げる上で必要不可欠であった。
ちらりと背後をうかがえば、先ほど曲がった角から空を滑るように現れる、無数の見上げるような巨体。そしてそれらの巨体の中、ひとつだけやや頭一つ小さな姿がある。その姿こそまさしく大悪魔・ダークロードのものであった。
ダークロードとその取り巻きである分身達は周囲に巨大な火炎弾を撒き散らし、黒雷を振り撒きながら、こちらを猛追してくる。そこから強烈に感じられるのは、ただ私を害そうという悪意だけだ。
全く、一体何故こんなところにこんな超大物がいるのだか。背後に迫る絶望的な状況をよそに、私は独りごちる。
本来ダークロードというのはグラストヘイムの古城、その地下墓地に住まう存在である。この国、ミッドガルドを手中にすべく策略を練り分身を送り込んでいるというが、実際の詳しいことを把握できる立場にはないし、知識という形の設定としてもほとんど覚えていない。
さて現在、私はそんなことを考えながら高低差の激しい細くくねった道を走っているわけだが、ここであることに気付いた。
それはここ時計塔に篭り長いことモンスターの討伐をしていた私だからこそ判る事であったのだが、つまるところ、道を間違えたのだ。
背後に気を取られ、さらに思考を割かれたがための致命的なミス。この先は残念ながら行き止まりである。
行き着く先のやや開けた広間、そこがいろんな意味での終点。まるで舞台のようなその場所の周りには壁がなく、足場の淵は切り立った構造物によってまさしく崖と化していた。その行き着くところは構造的には下の階へと続いているはずだが、まったくもって底の見えない闇となっている。落ちればまず助からないことは明白だった。
広間最奥、奈落へと真っ逆さまな崖っぷちまでたどり着き、私は元来た方へと振り向く。
もはやこちらの状況を理解しているのだろう、ダークロードとその取り巻きは恐怖を与えるような火球も威嚇するような黒雷もなく、ただ静かに滑るように広間へと入ってきた。
そしてそのまま立ち止まって唯一の逃げ道を塞ぐように陣取り、嘲りを含ませるように顔をゆがめる。
この身が未だダークロードとも渡り合えるほどの英雄としての資格を持たぬこと。本来いるはずのない存在への疑問を、適度にプレッシャーを与えることで刺激して加速させ、逃走経路の取り違えを起こさせたこと。
相手は知能の高い大悪魔である、それらを全て理解していた上での鬼ごっこだったのだろう。さながら狐狩りをする貴族のようだ。優雅といいつつその実は醜悪な趣味でしかないことも含めて。
こんなときのために、何時もであれば緊急逃走用のハエの羽・蝶の羽といったアイテム群を持ち歩いているのだが、両者は今手元にはない。
使用すれば時計塔の麓、アルデバランの街まで長距離テレポートで戻れる蝶の羽は、私にとってこの時計塔そのものの攻略難易度が低いせいもあって置いてきてしまった。
一方短距離テレポート用のハエの羽はいくら使えどダークロードの探知範囲から逃れられなかった。どこへ飛ぶかは完全にランダムであるとはいえ、あまりにも運が悪いと言わざるをえない。主神への信仰が薄かったせいだろうか、と今更ながら後悔しても時既に遅し、である。
故に私は覚悟を決める。
逃走用の杖とマントを手早く仕舞い、致命的な威力を持つダークロードの魔法に耐えうる耐久装備へと付け替える。そして杖のあった右手には、もはやお守り代わりにしかならない短剣。
当然ダークロードはこんな装備で倒せるほど可愛い相手ではない。これは唯一の道――すなわち、中央突破への準備である。
頭の中でこのフロアの地図を思い描き、現在位置とそこからの確実な逃走ルートを書き入れ、一つ深呼吸。
そして私は一歩を踏み出し、それに呼応し痺れを切らしたかのように襲い来るダークロードの分身たちの隙間へと身を躍らせる。まるで電流イライラ棒にでもなったみたいだな、と体を捩じらせながらの高飛びで、なんとか二体の分身をスルーできた。
巨体である分身たちの隙間は存外に大きいものであったが、しかし第一波をすり抜けても次がさらに襲い掛かってきた。一瞬で打ち出される黒雷を手にした短剣で打ち払いながらギリギリのところで回避。伊達に身のこなしを鍛えてはいない、と自画自賛したのが悪かったのか、足元の小さな段差に足を取られ、体勢を崩したたらを踏む。
まさかそれすらも計算のうちだったのだろうか、と思ってしまうほどのタイミング。転ばぬように足をしっかりと床につけて踏ん張る私を待っていたかのように、ダークロードの口からはおぞましい声による詠唱――それも人には真似の出来ない高速詠唱が紡がれ、しまったと思った時には全てが完成していた。
私を中心にした目標設定の魔法陣は、魔法の発動により役目を終えて薄れ、消える。直後、ただ直感でとっさに背後へと一歩下がった私の目の前に巨大な火球が降り注いだ。火球が地面に炸裂する轟音と衝撃に耐えれば、先ほどの後退によって自分がその効果範囲から一歩分ずれていて、命拾いしたことを悟る。だが幸運に感謝し続けるわけにはいかない。なにしろ、この火球は一発では終わらないのだから。
さらに二発、三発目が立て続けに降り注ぐのを、さらに直感だけを頼りにただがむしゃらに前に出ることで効果範囲からの離脱を試みる。結果、火球の影響外へと逃れることは出来たのだが、前に進むということは当然ダークロードの目の前へと進み出ることになる。
どことなく見えていた破滅の未来。やっぱりな、と思うと同時に振り払われたダークロードの掌から黒雷が奔った。直撃だ。
一瞬体が硬直し、動きが止まる。そこへ、火球の四発目がピンポイントで落下し、私は多段に我が身を蝕む熱と衝撃と痛みを味わう羽目になった。
まるで永遠のように長い時間。私は体を削られ、命を削られ――あまりにも長過ぎるのではと思えば、どうやら五発目もジャストミートだったらしい。つまるところ、それらは私が地に伏せるまで途切れなかった。
さて、この世界において死とは宿命的なものであり、定められたその時まで人は死ぬことはない。
仮に何らかの理由でその命を失い、死んでしまったとしても、その者が望めば天に御座します主神の眷属たるヴァルキリーの手によって安全なところへと生前通りの肉体・魂が送られる。ほんの少し、経験という名の手間賃を貰われるだけである。
とはいえ絶対的な終焉としての死は存在する。だがその死を間近に控えた者はヴァルキリーの啓示かどうかは知らないが、前もって自らの死期を悟るのだという。
そのような世界環境であるが故に、人が自身の死のに対して慣れるというまったくもって不可思議な現象が起こっていたのだった。
かくいう私も、冒険者として中堅に位置づけられているわけだが、ここに至るまでに幾度となく死を経験した。
知らずに強敵に挑み返り討ちにあったり、雑魚だと思っていた相手が次から次に沸いてきて押しつぶされたり、まるで出会い頭の事故の如くダークロードと同じような等級の魔物にひねられたり。
そのたびにヴァルキリーのお世話になり、今まさに黄泉返ったのだと呆けた頭でおぼろげに理解をした。
それらの死の記憶の、最後の光景はいつもこのようなものだった。
最期の最期に見るのは、倒れ臥す自分の視界。そのなかに映るのは、興味をなくしたかのように去っていく魔物たちの姿。無力感と悔しさをかみ締め、意識を失う。それが常である。
だが、今回は一体どうしたことか。
たった二発の魔法と黒雷による攻撃で私を沈めたダークロードは、しかし去っていく気配はなく、さらにもう一発の火球を招来する。まさか、と思えば火球は私へと降り注いできた。
かつて主神と魔物は、人間の魂のやり取りに関する協定を結んだという。それがあるからこそ前述のようにヴァルキリーが魔物のもとから人の肉体と魂を送り返すことができるのだろう。
つまり、今の状況はその協定を真っ向から無視する所業である。
だというのにダークロードは表情一つ変えず――もともと表情の読みにくい面ではあったが――すぐにでも死体へと存在が移り変わる私にメテオストームの火球をぶち込んできていたのだった。
その刹那、私は何を考えていただろう。
様々なものが脳裏に浮かび、去っていく。
それらの先に見えたものはいつかに見た最期の記憶。目に涙を浮かべ、こちらへと手を伸ばす妹の姿が―
轟音が炸裂した。であるならば私は死んだのか、と思えばどうもそうではないようだ。
止めとなる一撃は明らかにオーバーキルで、肉体は消し飛ばされるはずだというのに、意識は未だ存在している。痛みを始めとする感覚も残っているため、魂だけの存在となったわけでもなさそうだ。
瀕死の身であるためその頭を微かに上げる程度しかできなかったが、それでも霞む視界で何が起こったのかを見極めんとして、見た。
銀に輝く鏡。それがダークロードと私の間に浮かんでいた。
まるで私を護るかのように存在するそれは、周囲の空間から独立しているかのような不思議な印象をこちらに抱かせた。
そして思い当たるのは、先ほどの轟音。ダークロードの火球の着弾した音である。とするならばどこに?という疑問は目の前の鏡が物語っていた。
おそらくは、その裏面に当たったのだろう。よく見れば、鏡の背後には猛烈な熱量により陽炎の如く歪んだダークロードの姿があった。
つまり、私にとっては致命的だったダークロードの魔法も、この鏡には一切通用していない。
そんな馬鹿なと思いつつも、しかし鏡は静かに佇む。その姿はまるで、人類の護り手たるヴァルキリーのようで――そして、何故だか先ほどの走馬灯の最後に現れた妹の姿にも被って見えた。
だからだろうか。私は無意識に手を伸ばしていた。
庇護を求め、縋り付くように、その鏡へと――
騒々しい声が響く。その中心には少女と少年、そして周囲には少女と同じ立場の生徒達の姿がある。
『使い魔召喚の儀』により呼び出された少年は、それを不服とする召喚主である少女と、そんな少女をいつも通りに野次る生徒達のなかで混乱していた。
何しろ、全てが違うのだ。周囲の騒がしい言葉の意味も理解できず、周りにちらほらと創作でしか見たことのないような生物達が存在している。そんな自分の常識の外にある状況をいきなり正しく把握しろといわれてもどだい無理な話であった。
一方、周囲の声に少女は苛立ちを募らせていた。
自分に浴びせられる言葉は普段と変わらず、更に今回は呼び出した存在があまりにもらしくないがためにそのバリエーションが増している。本人も不本意なものであることを自覚していたので、余計に腹立たしかった。
監督役である教師に助けを求めても次の工程である契約に移れの一点張り。自棄になって呪文を唱えて契約のキスをすれば、マヌケを絵に描いたような使い魔はルーンが刻まれる痛みで七転八倒している。
それを見ながら何故、こんなことになってしまったのかと己が運命を呪った。
轟音があたりに響き渡ったのは、教師が少年の手に浮かんだ文字のスケッチを書き取ろうとした、まさにそのときだった。
少女は苛立ち、少年は混乱し、生徒達はあざ笑い、教師は興味を持って少年の手をとる。
その間も少年を吐き出した鏡が未だに存在し、かつ幽かに震えていたことに気付くものはいなかった。だが、鏡の中から熱風と爆音を伴った空気が放出されると、その場にいた者は一様に驚きをもって鏡へと顔を向ける。
しかし鏡からのアプローチはそれで途絶え、しばしの時間があってもそれ以上の変化がない。
一瞬の出来事に驚いた生徒達の中には、突然の轟音に驚きを僅かな恐怖を感じた気恥ずかしさ故、それを誤魔化すかのように少女へと再び罵詈雑言を向ける輩もいた。曰く、自棄になって鏡に当たるな、と。
確かに少女には魔法を使えばその対象は全て爆発するという不名誉極まりない特性があったが、しかし今回に限っては冤罪であった。とはいえ、それを証明する手立てはなく、少女が反論しても嘲笑われるだけ。
悔しさに少女が涙を浮かべる。その姿を見て少年は、目の前の可憐な少女に対する周囲の生意気な生徒達に一言言ってやろうと口を開きかけ、
ずるり、と鏡の中から手が生えた。
鏡は突然の出来事に呆気にとられる一同など意にも介さず――無機物であるのだから当然であるが――続く腕、頭、胴体と吐き出していく。そして最後に足先が出ると、何事もなかったかのように中空に消えた。
あとに残されたのは鏡の中から現れた人物だけ。だが、一握りを除いたその場にいた者の多くはその姿に違和感を覚える。
主に目立つのは薄青色の長い髪の毛だが、その隙間から見えるのは、あまりにも力の篭っていない四肢。意識がないということを差っ引いたとしても不自然なほどだった。
ピクリとも動かないその者に多くのものが不安を覚える一方で、すぐさま動いたのは従軍経験のある監督の教師だけだった。
生徒達に近寄らないようにと一言言い残し、一人で倒れ伏すものへと歩み寄り、その手をとる。仰向けにしないのは一種の予感があったからであり、そしてその予感が正しいものであることを知った。
――脈がない。
即ち、死者である。一体何故使い魔を呼び出すための鏡から死者が現れたのかと、今一度その姿を観察する。
まず目に付くのは、その露出の多さである。後ろから見たところ、身に纏っていたのはマントというには短すぎる砂色の外套と、大きな切れ込みの入った長い砂色の布地。それらが肩と腰を後ろから覆う下に、素肌に直接付けるような衣服があるようだった。あとは肩に大きな金属質のリングと、長く伸び先端に円形の装飾のついた布がある以外、地肌が完全に見えてしまっている。
そして厄介なことに、その見えている肌は明らかに女性のものだった。モロに見えているくびれのはっきりとしたウェスト等は、教師とはいえ男性である彼にとってなんとも気まずい部分であった。
が、今回に限ってはそれ以上に問題となる部分があった。火傷、焦げ跡を始めとしたそれらは、全身を覆う『火』の力による破壊の痕だ。かつて所属した軍において『火』の使い手として名を馳せていた教師だからわかる、圧倒的な力の残滓。
そのような物を受けて五体が残っているだけで奇跡だ――教師がそう認識した時。
「――――む、うむ……すまないがそこの方、少しよろしいかな」
目の前の死体から発せられる声を聞いた。
というわけでお初お目にかかります豚派です。
処女作ですが豚美味しいよね。