翌日の登校時、緑谷はいつも《彼》と待ち合わせている場所に行けなかった。
うつむいて席につき、陰鬱な表情で携帯端末をスワイプする。
『廃工場で人身事故!? 中学生一人が重体。オールマイトが救う』
好きだったオールマイトの記事を見ても、何も感じられない。
一睡もできなかったし、胃が食べ物を受け付けなかった。それでも無理に学校に来たのは、現実の直視ではなくその逆。何事も無かったかのような日常が待っているのではないか、という逃避だ。
「緑谷おまえなんか顔色悪いぞ」
とクラスメートが話しかけて来るが耳に入らない。
ほどなくして先生が教室に入ってきた。
妙だった。態度に反して優等生な《彼》がまだ来ていない。
「あれ、《彼》くん休み? 珍し」
「遅刻じゃない? 《彼》、風邪にかかった事無いって聞いたけど」
「あー、静かに。落ち着いて聞いてくだ、さい。はい、ちょっとね、ご家庭の事情で《彼》はしばらくお休みします――」
そこから先の事は、緑谷はあまり覚えていない。ただ風景がぼんやりとしていて、白昼夢が醒めたように、学校は終わっていた。
自宅に帰り、自室で目頭を強く揉んだ。視野が狭い。震える手で携帯端末を操作し、《彼》の番号に電話を掛けた。
しばらくして繋がる。粘土で固められた心臓が、ふっと軽くなった気がした。ニュースの被害者とは別人だったのだと気が楽になった。楽になって、聞き覚えのある《彼》の母親の声に打ちのめされた。
気が付くと部屋はすっかり暗くなっていた。さっきの事は夢なのだろうか。恐る恐る携帯端末の履歴を確認すると、通話の事実が残っている。
僕が《彼》にあんな事を言わなければこんなことには、とベッドの中で頭を抱え、小刻みに震える。電話口で、数日が山と、動けるまで数か月と言った涙声を聞いた。
リハビリも合わせればもっとかかる。受験は諦めなければならないだろう。
僕が傷つけるようなことを言わなければ。僕の責任だ。
僕が半端に生きていたから。僕がもっと強い志を《彼》に見せていれば。僕が《彼》の夢を壊してしまったんだ。
緑谷は自責の念に切り裂かれた、生きる為に必要な意思を必死になって掻き集めようとした。
死んでしまいたい。
だが死は、既に目を背けているとはいえ、偶像に対する更なる裏切りに他ならないし、《彼》に対する加虐にも思えた。
故に生存本能は生きる理由を模索し、一つのあがないを見つける。
台無しにしてしまった《彼》の夢は、僕が叶えなければならない。
その因果関係は曖昧で不確かなものだった。論理立ったものでもない。
ただただ、自尽を避けるという目的の為に無意識的に作り上げられた自衛の手段。
そうすると、身体の震えは収まった。空腹に気付き、リビングに向かって夕食を取る。
「大丈夫? 出久」
今日一日、様子のおかしかった息子を案じた母が尋ねる。
「ちょっと具合が悪くて。でももう大丈夫だよ」
「そう……さっきね。《彼》くんのお母さんと電話して、もう知ってると思うけど、その……」
「平気だよ。オールマイトが助けてくれたんだから」
つい先ほどまで、まったく食事を受け付けず、目の隈もひどかった息子がどうやって立ち直ったのか。母親にはわからなかった。
親友の怪我に心を痛めている節はまだ残っているものの、割り切っているような。それでもこうして元気にご飯を食べてくれる事実に安心した。
いかに母親だとしても、見抜けるはずがない。今の出久は、罪悪感の糸で自ら操られているに過ぎないという事を。
「あ、そうだ。お願いがあるんだけど、いい?」
「ん? なに」
「食事制限しようと思って。あ、食べないんじゃなくて、食べる物を決める感じ。ヒーロー科を受けるわけだから、なるべく追い込んでおきたくて」
「いいよ。身体に無理のない範囲でなら」
「ありがとう。じゃあ後でリストにまとめるけど、とりあえずはレバーとか、鉄分を摂取できるやつかな」
本気なんだな、としか母親は思わなかった。
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次の日、出久が全身の皮膚を真っ赤にさせて帰ってきた。
話を聞くと、どうやら学校の個性練習スペースで『爆破』の練習をしてきたらしい。
「ちょっと出久! 大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。これくらい。僕は個性制御がヘタだから、練習しないといけないんだ」
「でもそれって、血が出るし凄く痛いって……」
「うーん、まあ。でもヒーロー科を受ける人は皆これくらいやってるよ? 雄英なんだし」
母親はその答えに懐疑的なものを覚えたものの、雰囲気や口調はいつもの息子だった。雄英を目指す子供は、これくらいが普通なのだろうか。
「ホントに?」
「そうだよ。それより、今日から三食はこれでお願いね」
そう言って差し出されたメニュー表は、汗をかく為に新陳代謝を上げ、出血を想定した造血が考慮された物だった。
「でも」
「大丈夫だってば」
と困ったように笑う。
「受験が近いのに本当に無理して身体を壊したら、元も子もないしさ」
「……そう」
母親を納得させ、出久はシャワーを浴びた。まだじんわりと汗腺から滲み出る血が洗い流され、アイボリーのタイルを彩る。
風呂上がりにスキンケアをしても衣擦れすら痛くて痛くて、寝返りの度に目が醒めそうになる。
だがそれでよかった。痛みは謝罪の理由になる気がしたから。
そしてたびたび夢を見る。親友を刺したあの夜の出来事だ。
暗夜の中の《彼》の全体像は、水彩画に水を垂らしたかのように滲んでおり、絶えず不安定に揺れ動いている。言葉も壊れたスピーカーやメガホンを通しているようで、何を言っているのか分からない。
《彼》が自分の胸ぐらを掴み上げる。街灯の下に間近になった《彼》の顔の歪みがひどくなる。恐ろしい怪物にも見えるし、悲痛な叫びをあげているようにも見える、責め立ててもいるし、怒り狂っている。そして泣いている。
不明瞭な存在が、自分に対して糾弾を浴びせる夢だ。
自分は《彼》にとても酷い事をしてしまったのだ。だからこれは罰なのだと出久は考えた。
受け入れるしかない、罰の夢を。
罰夢に出る不定形のそれは、既に自分でも気づかぬうちに《彼》の情報を無意識的に遮断していたせいだった。
心因性視覚障害というものがある。人は誰でも、強いストレスや恐怖を感じると視野が極端に狭くなる。乱暴に言えば、見たくないモノ、知ってしまえば耐えられないモノを脳と心で拒絶する能力があった。
出久の無意識的防衛本能が呼び覚ましたそれは、誰かが喋る、あるいは筆記した《彼》の名前を水の中で聞く音のようにぼかした。記憶や視覚に映る姿の解像度を変えた。防衛本能によって生み出された機構は、それを不自然と感じる事は無い。
学校から呼び出された母親に、もうやめてと泣きながら背に抱き付かれた出久は、己の中でそう呟いた。
個性練習スペースにあるテニスコートほどの貸し切られた一室で、緑谷出久は血の滴る掌に『爆破』を発動させる。
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「そのガリガリが現状の本当の姿で、ヒーロー活動時の時は個性で無理やり全盛期の姿を保ってる訳か」
気持ちの良い春の風が吹く誰も居ない大病院の屋上で、視線をオールマイトから青い空へ向けた爆豪が言った。シャツにジーンズのラフな格好。
緊急入院の後に一命をとりとめた爆豪は、個性により発達した医療により、なんとか入試に間に合うほどには回復した。約三ヶ月の病院生活だったのでだいぶブランクが出来てしまったが、もともと何でもできる才能はあった。筆記は問題ないだろう。
「つまりまあ、あんたはいずれ平和の象徴として身を引くし、その後継者を探していたと」
咳をして、骨と皮だけのオールマイトは「そんなところだ」と答える。
あの夜。爆豪を生かすには『ワン・フォー・オール』を継承させるしかなかった。
代々受け継がれて来たその『個性を譲渡する個性』は、培われてきた力も内包されている。その個性でもってして身体の頑強さを底上げし、オールマイトの高速移動に耐える他に方法は無かった。
怪我を検める為に服を裂いた時、肉体はかなり鍛えられていた事から譲渡の際の力に耐えきれると判断した。
したが、なんだその
「そっか。まあそりゃあアレだ、マズいわな。平和の象徴がいなくなるのは」
「事後承諾に近い形になってしまったが、返答は?」
「聞かれるまでもねえ。なるよ、あんたの代わりに」
いなくなるんならしょうがねえか、穴は誰かが埋めなきゃならねえ。と省略して頭を掻いて続ける。
「俺が平和の象徴を務める。
「そう言ってくれると思っていたよ」
しかしまあ、実力も必要になってくる。と個性を起動し、全盛期のマッスルフォームになる。
「取り急ぎ、病み上がりで悪いがいま現在のきみの実力を確かめたい。打って来てくれ。受験だからと無理言って退院した身で、治癒していない事をくれぐれも忘れずにな」
「いいのか。けっこー暇してたから」
フェンスに背を預けて空を見上げていた爆豪が、上半身を反動で正して自然体になる。
「だいぶ理解できてると思うけど」
「生意気なこと言うじゃあないか。来いよ、有精」
炎色の雷光だけが、爆豪の立っていた場所に残った。
オールマイトはその場で予備動作の無い数メートルの宙返り。背後からの側頭部を狙った回し蹴りを避ける。その途中、逆さ状態の瞬間に剛腕で爆豪を捕縛しにかかる。回避と攻撃が一連の動きだ。
爆豪はあえて過剰な力で蹴り抜くことで自分の体勢を崩し、その手を逃れ、オールマイトの着地を待ち構える距離と体勢を整える。
kickass! どういう事だよ、とオールマイトは内心で舌を巻いた。おいおい、たった数ヶ月程度、それも怪我人がこれほど使うとは。
着地に合わせた、爆豪がいま放つことの出来る完成に近い一撃。その腰の乗ったボディブローは、無数の掌底から発する空圧で相殺された。
「オーケー、爆豪少年。ここまでだ。これ以上は病院に被害が及ぶ」
フェンスまで吹き飛ばされて呆然とする爆豪は信じらんねえと零す。痛みをほとんど感じない事から、かなり手加減されたことを痛感した。
「いや空気と衝撃で打撃を無効化するとかどんだけだよ。布団を殴ったみてえだった」
それはきみの方だろ。ガリガリのトゥルーフォームに戻ったオールマイトは末恐ろしさを覚えた。
戦闘、精神および個性制御の圧倒的センスはなんなんだ。この才能マンめ。
服についた埃を払い、屋上を後にしながら尋ねた。
「なあ、オールマイト」
「うん?」
「あんたをそこまで傷つけたヴィランてさ。まだ生きてこの社会に潜んでんの?」
「……恥ずかしながら、まだね」
「そっか、ムカつくな」
「そうでもないさ」
「なんで」
私か、少なくともきみの代で仕留められるから。そう言おうとして、やめた。天賦の片鱗を見たとはいえまだ教えなければならない事はある。たぶん。
もう戻る事の無い病室を通ると、待っていた中年男性がおずおずと壁から背を離した。
私は先に行っているよ、とオールマイトは爆豪を残して行った。
「すまんね、見舞いに来れなくて。まあ、きみのご両親と会いたくなかったというか、なんというか」
「別に気にしてねーよ。つーかあんたこそ生きてたのかよ」
いや、まあ……。と中年男性は頭を掻いた。フケがぽろぽろと落ちる。
「流石に何も言わずに死ぬのもなって……ま、ちょっと生きてみた。別にこれから頑張ろうとか思ってないし、頑張ったところで未来が無いのは変わらん。多分このままマトモに働けずにズルズルとフリーターで歳食ってくんだろうしさ。めちゃ怖いよ」
「かもな」
「たぶんまた死にてーって思うし、結果的にやっぱ自殺するかも、きみには悪いけど。でも、思い出してみるよ。練炭だか飛び降りだか吊るのかわからんけど、火を点ける手前、身を投げ出す手前、踏み台から足を外す手前にきみが俺にしてくれた事を。とにかく最後の手前に考えてみる」
「ああ」
「俺はまだ、誰も知らないヒーローに助けられた最初のファンなんだって事を、何回死のうとしても、何回でも考えてみるよ」
「そっか」
んじゃ俺行くわ、家族待たせてるし。
爆豪は、涙を流して嗚咽を堪える中年男性に視線を合わせることなくその場を後にした。
もしもあれ以上言葉を投げ掛けられていれば、泣いてしまいそうだったから。
泣く事は、もう金輪際無いと考えた。
泣いてる人を助けるヒーローが、泣くわけにはいかないからだ。
取りあえずは、サポート科を通る事だな。今からヒーロー科に願書なんて遅すぎるし。
病院のロビーに着くと、涙ぐんだ両親が出迎えていた。
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かつて。
オールマイトみたいなヒーローになると言った子供がいた。
オールマイトを超えるヒーローになると言った子供がいた。
いまは。
互いが互いの偶像を目指す事になった二人がいるだけだ。
想いの言語化が非可逆圧縮である以上、受け取れば情報は必ず欠落して形を変える。他者のそれを己の中に導入すれば尚の事。
誰かの偶像の象りは、込められていた本質もまた