暖かい朝陽が意識を覚醒させる。チュンチュン、と雀の囀りが聞こえてくる。後頭部から柔らかな感触が伝わる。目の前では、赤いメッシュがゆっくり揺れている。蘭ちゃんが少し辛そうな顔で船を漕いでいた。
しまった。完全にやらかした。いくら初めて人に甘えたからと言ってもこれはやりすぎた。
いつのまにかされていた膝枕から急いで頭を上げ、上体を起こす。蘭ちゃんの肩には花柄の可愛らしい毛布がかけられていた。自分でかけたのだろうか。
いや、蘭ちゃんは私のせいで身動きが取れなかったはずだから彼女のお母さんか蘭パパがかけてくれたのだろう。
とりあえず今日は彼女にとって大事な日だ。父にバンド活動を認めてもらうためのライブの日。
そんな日に体調を壊してしまっては今までの全ての努力が泡となってしまう。これ以上辛い姿勢でいてもらっては困るので、起こそうと声をかける。
こんな姿勢では碌に疲れも取れていないだろうし時間も既に日は出ているが少しくらい、30分か1時間くらいならきちんとベッドで休めるだろう。
「おーい!蘭ちゃーん!」
耳元で囁きながらゆっくりと肩を揺らす。
すると、んんっと唸りながらローズピンクの瞳が姿を表す。
寝ぼけ眼でふあ〜、とあくびをしてから大きく伸びをする。バキッボキッと背中から音が鳴り、少しの罪悪感を覚える。
やがて、部屋の周りをぐるりと見渡し、私の姿を捉えたところで一瞬フリーズし、首をかしげる。そしてみるみる頬を赤らめていった。
「あー、その、おはよう」
その一連の行動を目にして、私が思ったことは、蘭ちゃんが寝起きは不機嫌なタイプの人間じゃなくてよかったということだけだった。
お互いに何も話せず、階下のテレビと外の小鳥の声だけが六畳間にこだまする。しかし、蘭ちゃんを起こした理由を思い出し、私が先に沈黙を破る。
「蘭ちゃん、身体まだ疲れているでしょ?もうちょっと寝たら?時間を教えてくれたら起こすから」
その言葉を聞いてようやく蘭ちゃんも再起動し始めた。朝の間抜けな顔を見られたのが未だに恥ずかしいのか、顔は少し赤かったが、それも私が二度寝を促した頃にはだいぶ収まっていた。
「ありがとう。じゃあ30分後くらいに起こして」
「ん、分かった」
そう言って立ち上がり、ベッドの方へとよろよろと蘭ちゃんは足を向ける。私は彼女の犠牲の元、今までにないほどに良質な睡眠を貪ることができたので朝から頭が冴えている。なので、蘭ちゃんが私の隣を通り過ぎて行こうとした時、耳元でこう呟いてみた。
「寝起きの蘭ちゃん、可愛かったよ」
視界の端で大きく背筋を伸ばし、耳まで真っ赤にしている蘭ちゃんを確認して、私は上機嫌に部屋を出て行く。
自分の心の内を知っている人間がいるというのは存外良いものなのかもしれない。
コツコツと、小気味良い足音を立てて階段を降り、リビングへと向かう。携帯を取り出し、時刻を確認しようと携帯を取り出すと、ロック画面にはおびただしい量の通知が来ていた。全て日菜姉さんからだった。しかもどれも同じ内容。紗夜姉さんからきてないのは、日菜姉さんが送っているから必要ないと思ったのか、それとも私に対して興味がないのか。
まあ十中八九後者だろう。血が繋がった姉妹とはいえもはや紗夜姉さんとの距離感がどういうものだったか思い出せない。15年同じ屋根の下で生きてきて、私は紗夜姉さんのことをあまりにも知らなすぎる。それこそ、赤の他人も同然の量しか彼女に関する知識を持ち合わせていない。
─歩み寄れる出来るだろうか。今まで避け続けてきたあの人から。きっとひどく罵られるんじゃないだろうか。今更何をと侮蔑の視線を向けられるんじゃないだろうか。
いや、きっと大丈夫だろう。良くも悪くも私と紗夜姉さんはお互いに不干渉だったから、彼女に対して日菜姉さんのように暴言を吐いてしまったことはない。
というよりも今は紗夜姉さんよりも日菜姉さんと仲直りすることが先決だ。
謎の全能感に浸りながら、リビングに入る。通知に関してはどうせ今日家に帰るからと最低限の返事だけをしておく。泊めてもらったお礼に朝ご飯を作ろうと思っていたが、どうやら食卓には既に用意されていた。
味噌汁、鮭の塩焼き、炊きたての白米が置かれている。隣には空の茶碗と味噌汁のお椀がひっくり返った状態で置かれていて、鮭の皿にはラップが巻かれている。
蒸気を放つご飯と味噌汁に食欲を唆られつつも、どうして冷めてないのか疑問に思っていると、ソファで蘭パパが新聞を読んでいるのを見て一人合点する。おそらく私の足音を聞いて入れてくれたのだろう。
「おはようございます。泊めてもらっただけでなく朝ご飯も用意してくださりありがとうございます」
背もたれから覗く彼の黒い頭に向かって感謝を述べてから手を合わせ、いただきますと小さく口にする。
朝は基本パン派なのでご飯を食べるのは新鮮だ。温かな液体が胃を浮かび上がらせる。はふはふを火傷しないように暑い白米を鮭とともに咀嚼する。
とっとっと、フローリングを歩む音がこちらに向かってくる。黒色の着物が目の前の椅子に座る。バサッと少し派手な音を立てて新聞紙が開かれる。
「あの、どうしてこちらに?」
何故かこちらに移動してきた蘭パパにそう聞く。
彼は素っ頓狂な顔をして少し顔をかしげる。どことなく今朝見た蘭ちゃんと似ていてやっぱり親子なんだなと再認識させられる。
「どうしてって一人で食事は寂しいだろ?」
まるでなにを当たり前のことを言わんがばかりにそう言う。
思わず箸を口に咥えたまま唖然としてしまう。
誰かと一緒に食べるのが当たり前という考えがそもそも私にはなかったからつい無礼をなしてしまった。姉たちとは余所余所しいし両親は顔を合わせるとよく喧嘩しているので私の中で食事とは一人の方が心休まるものなのだが、今日はどうしてだろうか。誰かが同じ食卓にいても余所余所しい雰囲気も嫌悪感もなにも感じない。こんなことが果たして今まであっただろうか。ただ誰かと同じ食卓でご飯を食べる。それだけでこんなにも心が温まると、過去の私が知ったらどう思うのだろう。
「ああそうだ」
新聞を閉じて蘭パパは思い出したようにそう言った。味噌汁を啜りながら視線で続きを待つ。
「君、今日蘭のバンドのライブを見に行くのだろう?」
「えっどうしてそれを…」
「えっと、それは…その…だな…ま、まあ!とにかく!行くのだろう?」
「まぁ…行きますけど」
何故知っているのか尋ねたら強引にはぐらかされてしまった。絶対にこの人盗み聞きしてたな。冷ややかな視線を蘭パパに浴びさせる。少しを身を強張らせていたが、ごほんと咳払いをして要件を言う。
「実は私、ああいう場所にあまり行ったことがなくてな…」
「ああ、まぁ予想はつきます」
寧ろ行ってたらなにしてんだって思う。
「だからもし君がよければついてきて欲しいんだが…」
少し気まずそうに蘭パパが私にそう頼む。確かに、あのキャーキャー甲高い声で叫びまくる空間はいい年した男性が一人で行くには少し、いやかなりきついかもしれない。彼にも私が勝手にそう思ってるだけだがこの家に引き止めてくれた恩がある。昨日彼と話していなかったら私はきっと一人精神を狂わせながら孤独に身を投じていただろう。それを阻止してくれた恩返しとしては寧ろ安すぎるくらいだ。
「ええ、それくらいなら全然問題ないですよ」
「そうか。なら、よろしく頼むよ」
あくまで態度はいつもと同じだったが、声音には明らかすぎるほどの安堵が含まれていた。
食事も食べ終えた頃にはちょうど30分ほど経っていたので、二階に登り蘭ちゃんを起こしに行こうと腰をあげると、廊下の方から足音が聞こえてきた。どうやら私が起こすよりも早く自分で起きたらしい。
せっかく立ったのだしと、そのまま逆さになっている二つの茶碗を片手に一つずつ持ち、ホカホカの白米と味噌汁を掬っていく。
「あ、ありがとう」
背後から女性にしては少し低めな声をかけられる。振り向くと、疲れが取れたのか目をパチリと開けた蘭ちゃんが食卓に座ろうとしていた。
「二回も泊めてくれたんだからこれくらいするよ」
左から二つの茶腕を彼女の前に置く。
「今日ライブいつからなの?」
「えっと、夕方くらいからかな」
「そっか。楽しみにしてるね」
「ちゃんと姉さんたちと仲直りしてよね」
「もちろん!これで出来なかったら死ぬよ、私」
「やめてよ、縁起でもない」
食事中に交わされる会話についふふっと笑いながら彼女が食べ終わるのをテレビをぼーっと見ながら待つ。今日もあいからわず店の食レポや芸能人のスキャンダル、元号が変わるなどの雑多なニュースが目まぐるしく伝えられる。
かちっ。箸を箸置きに置く音が聞こえた。目を向けると蘭ちゃんが水を飲み、手で口を拭っていた。そしてごちそうさまと言って席を立ち、リビングを出て行った。何をしに行ったんだを疑問に思っていると、シャワーのような音が聞こえて納得する。昨日はあのまま寝てしまったので風呂に入れてなかったのだろう。水の跳ねる音が自分の体を意識させる。服も涙で少し湿っているし気持ち悪い。衣類は別にそのままでいいとしてシャワーだけでも浴びさせてもらえるように後で頼もう。
水しぶきの音が止み、しばらくしたかと思えば、蘭ちゃんが大きなギターケースを背中に担いでひょこりと顔を覗かせた。
「じゃあ、私そろそろ行くから」
「ん、いってらっしゃい。後で行くから」
「分かった」
太陽はもうすでに南下していそうな位置まで昇っていた。リハーサルや衣装などの事を考えたらもうそろそろ出た方が良いのだろう。
リビングを出て行く蘭ちゃんを見送ってから、キッチンへ行き、シンクにたまった食器を洗う。
流れる水道水とカーテンの衣擦れの音だけが聞こえる。二人分の皿洗いはすぐに終わるもので、すぐに手持ち無沙汰になる。
「少しシャワーを借りてもいいですか?」
いつの間にかリビングのソファに戻っていた蘭パパに許可をもらおうと訊ねる。
「ああ、構わんよ」
「ありがとうございます」
バスタオルの位置だけ確認して手早く服や下着を脱ぎ、無心でシャワーを浴びる。2日くらい同じ服でもそんなに臭わなかったし大丈夫だろう、多分。
水滴を白い柔らかなバスタオルで拭き取り、生温さを残している服を着る。歯ブラシは借りたくなかったので、申し訳程度に口の中を何度か濯ぐ。
ドライヤーくらいはちょっとくらい良いだろうと電源を入れる。温風が錆納戸の髪を勢い良く吹き飛ばす。
手短に髪を乾かして、リビングに戻ると、ライブハウスに向かうのに丁度いい時間になっていた。
「もうそろそろ行きませんか?」
「ああ、そうだな」
蘭パパと共に美竹家からライブハウスへと足を向ける。
途中で差し入れにとドーナツ屋へ寄り道をしてから、ライブハウスに入る。スタッフさんに差し入れを渡してから、店内の角で蘭ちゃん達の出番を待つ。蘭パパは慣れない場所に居心地悪そうにしている。戸惑っているだけかもしれないが。
私は前にやらかしてしまっているので本当に居心地悪い。現にあの騒ぎを見たり噂を聞いた人たちなんか私の方を見てヒソヒソ小さな声で会話していたりする。被害妄想だろうが。流石に誰も1週間も前の騒ぎが誰のものだったか覚えていないだろう。多分蘭パパと私の関係性を疑っているのだろう。それはそれで問題だが。
気を紛らわすために蘭パパには悪いと思いつつイヤホンを耳にブッ挿して時間を潰していると、蘭ちゃん達のライブの時間になった。彼と共に、地下のステージへと移動する。
照明の落とされたステージはブラックホールのように真っ暗だった。まだ灯りの灯されていないペンライトを両手、或いは片手に持った人たちの合間を縫って、目立たないように隅へと移動する。
数分ほど静寂が続いたが、照明が急にステージ上に立った彼女達を照らし出した。蘭ちゃんがマイクを手に取る。
「……今、この瞬間から、会場の熱を全てあたし達のモノにする。見逃さないでついてきて!いくよ!」
黄色い歓声が会場を包み込む。それが10秒程度続き、再び静かな空間が生まれた刹那、ドラムのスティックがカウントを始めた。
夕暮れを想起させる照明に当てられて、彼女達はひたすらに演奏をし、私たちを魅了する。
歌声が体に侵略してくる。ギターが会場に轟き、ドラムが五臓を激しく撼わす。キーボードが他の主張を調和し、ベースが全体の底上げをする。
何もかもが、先週見た練習の時を違った。演奏レベルが上がったというのもあるだろうが、なによりも覚悟が違った。
全員が今に全力をかけている。彼女らの気持ちが音に乗って心に伝わってくる。
数曲連続でしたのちに、音は止んだ。どうやら少し休憩みたいなものを入れるらしい。
「ふい〜。蘭、いつもよりもいい感じだねえ」
「モカもね」
短い会話を挟んでから、蘭ちゃんは観客達に向けて言葉を発した。
「……次で、最後の曲です」
「あたしが道に迷った時……そばにはいつもメンバーがいてくれた。今、ここに立っていられるのも4人のおかげだと思っている」
蘭ちゃんの告白だけがステージにこだまする。それを聞いて、今更ながらに罪悪感に駆られる。
絶対に成功させなければならない大事な時に、私という存在は邪魔でしかなかった筈だ。それを自分で気づく事すら出来ず、優しさに甘えてしまった。
私がいなければ、彼女達は、というより蘭ちゃんはもっとライブに向けて集中できただろう。より質の良いモノを隣に立っている蘭パパへ見せることが出来た筈なのだ。
それを、私が邪魔してしまった。消えていた自己嫌悪が再び体を巣喰い出す。
「それと」
今まで聞こえていなかった蘭ちゃんの声が耳に届いた。
「今、最近知り合ったけど、友達が辛い思いをして、悩んで、必死にもがいているんだ。でも私じゃ上手く彼女を励ませない」
後ろで、4人が驚いた顔をしていた。が、モカは心当たりがあったのかああっと小さな声をあげ、ノイズが鳴らないように注意しながら他の3人に誰のことか告げに行っている。
「……だから、その気持ちを歌にして、届けたい──!」
真紅のレスポールが、その特徴的な野太いサウンドを響かせる。そこに更にギター、ドラムなどが加わっていく。そして、彼女は歌い出す。今までの想いを、歌詞に乗せて。
歌詞の一語一句が心に沁みた。その全てに自分を重ね合わせた。無論、これらは彼女が幼馴染達と自分の環境をもとに書いたものであって、そこに私が関係したところなど1ミリもない。けれど、まるで私のことを歌っているように聞こえてしまった。
─本当の声を届けたいんだ
歌がサビに入る。歌声に更に力が入り、楽器隊も更に音量を上げる。
彼女は今何を思いながら歌っているのだろう。
彼女たちは何を考えながら弾いているのだろう。
彼は何を感じながらこれを見ているのだろう。
そして私は何を想いながらこれを聴いているのだろう。
「おい、大丈夫か?」
蘭パパの不安げな声で我に帰る。気づけばライブは終わっていた。先までペンライトを振ってはしゃいでいた観客達はもう散り散りになっている。
「私はこれから蘭がいる楽屋へ行くが、君はどうする?」
閑散とした地下のステージに蘭パパの声が必要以上に大きく聞こえる。
─君はどうする?
そんなものはもうとっくに決まっている。彼が心配しないように努めて、明るい声をして返事をする。
「いえ、行くところがありますので私は失礼させて頂きます」
「そうか。日も暮れかけているだろうから気をつけると良い」
「はい。ありがとうございました。ではまた」
「ああ、またね」
柔和な顔を浮かべた蘭パパの顔を見てから、早足で階段を駆け上がる。ライブハウスを出て、外の空気を肌に感じた瞬間早足をダッシュに切り替える。
家に向けて全速力で走り続ける。体は決意で漲っている。大丈夫だ。勇気は蘭ちゃんから、afterglowのみんなからもらった。喧嘩のことは蘭ちゃんしか知らない。他のメンバーには何がどうやらよく分かっていないだろう。でも、あの歌の歌詞は私に変わるきっかけを与えてくれた。耐えることが常に最適解じゃないことを教えてくれた。今まで、弱い心でずっと踠いてきた。変わりたくても変われない、矮小な心では変化するには足らなかった。
私は弱い。昔も、今も、これから先も、私の心は弱いままだ。でも、今は、支えてくれる存在がいる。それはとても一方的で、友達とすら呼べない関係だけど、彼女らは私に眩しすぎるほどの希望を与えてくれた。
これが終わったら、改めて「友達になってください」と申し込もう。作詞のためにいろいろな本を読んでいるそうだしきっと読書などの趣味も合いそうだ。afterglowのみんなとも仲良くしたい。幼馴染で固まっているけど決して内向的な人たちでは無いのできっと楽しい日々を過ごせるだろう。
大丈夫。きっと上手くいく。今までは私だけの決意だった。私だけの力だった。でも今は違う。私だけじゃ無い。私は一人じゃ無い。多分。一方的で、一時的で、日菜姉さんよりも薄く、短い繋がりだけど、私だけだった世界に、彩りをくれた。
家の前に着く。怖く無いと言ったら嘘になる。自分から日菜姉さんを散々言っておいて嫌われていたらどうしよう。話してくれなかったらどうしよう。不安でいっぱいだ。懸念材料しか存在しない。動悸が急速に速まる。吐き気がする。心臓が押しつぶされそうになる。足は震えるし、焦点が上手く合わない。
でも、眩む視界を精一杯抑え込む。止まらない憂慮を、なんの根拠もない希望でストップをかける。
肩でしていた呼吸を落ち着かせる。決意を胸に、希望を目に抱いて、チャイムを押す。ドア越しに足音が聞こえ、こちらに近づいてくる。後戻りはしない。今度こそ、同じ過ちは犯さない。今度こそ本当の
ドアが開く。開いた隙間からターコイスブルーの髪が覗く。夢で感じた甘いシトラスの香りが鼻腔を擽る。
「ッ!憂月…」
「ただいま、日菜姉さん。少し、お話をしましょう。」
じっと、力を込めて日菜姉さんの瞳を見つめる。見開かれていた瞳はなにかを読み取ったのか、ゆっくりと頷いた。
日菜姉さんの後ろについて行きながら我が家へ入っていく。1日帰らなかっただけなのにひどく懐かしく見える。回りをキョロキョロと見渡しながらダイニングへと向かうが、途中で日菜姉さんに手を洗ってきなよと言われた。いつも奇想天外なことばかりしているが、こういうところでは律儀なんだなと思いながら洗面所でしっかりと手を洗ってから彼女の元へ向かう。
日菜姉さんは既にダイニングの食卓で席についていた。向かい合うようにして私も席に着く。
嫌な沈黙が漂う。それを振り払うように、私は頭を下げた。
「まずは、ごめんなさい」
鈍い音をたてて額が机にぶつかる。痛みが頭を襲うが、これが私の今までの罪の一部だと思うと不快感は無かった。
「どっどうしたの、急に?」
慌てた声で日菜姉さんがそう言う。私は頭を上げずに言葉を続ける。
「ごめんなさい。心配かけて、迷惑かけて、傷つけて」
「今まで、ずっと辛かったんだ。日菜姉さんや紗夜姉さんと比べられて。日菜姉さん達に嫉妬して悪口を言いまくる人達を見続けて。その1人に自分が入ってることが許せなくて」
「それなのに、こんな出来損ないの私に日菜姉さん達は優しくしてくれて。やめて欲しかった。無能なんだからほっといてよ、ってずっと言いたかった。私は貴方の期待に応えられるほどの能力を持った人間じゃないし、優しさが罪悪感となって私に襲っていつか貴方に強く当たってしまうから」
「そっそんなこと!」
「あるよ。あったよ。先週のこと、日菜姉さんは忘れてないでしょ?」
「そっそれはそうだけど…」
腰を浮かした日菜姉さんを一度沈めて、私は話を続けた。
「ねぇ、日菜姉さん。日菜姉さんがピアノのコンクールで2回目の受賞をした時に言った言葉と昔の口癖、覚えてる?私、あれがトラウマで今でも貴方の笑顔と『好き』って言葉を聞くと気持ち悪くなるんだよ?」
「……」
日菜姉さんが苦虫を潰したような顔をする。違う、そうじゃない。私がしたいのはそういうことじゃないんだ。
「でもね、私は日菜姉さんを嫌ったことなんてただの一度も無かった」
そう言った瞬間、日菜姉さんの目がまるで信じられないとばかりに大きく見開かれた。
「確かに辛かった。貴方と比べられる人生が。貴方から向けられる優しさが。貴方の無神経さが。でも、貴方だけが私を見てくれた。両親から期待されない日々の中で、私に話しかけてくれる貴方だけが私の人生の救いだったんだ」
私は顔を上げて立ち上がり日菜姉さんの隣に立つ。
「だからね、もし日菜姉さんが私を許してくれるのなら…また、仲良くしてくれないかな?昔みたいに、楽しく一緒に笑って過ごせないかな?」
そう言って再度、頭を下げる。
返事が返ってくるまでの時間が、1時間、2時間のように長く感じられた。
「憂月」
日菜姉さんの声が頭上から聞こえる。声は心なしか震えて聞こえる。
「顔を上げて」
言われた通りに顔を上げると、甘い香りと暖かな感触が全身を包み込んだ。
力強く抱きしめられる。肩から冷たい感触が脊髄を通して脳に伝わる。
「ごめんね、今まで気づけなくて」
嗚咽を交えながら謝ってくる日菜姉さんの頭をそっと優しく撫でる。
「いいよ。私が捻くれてただけなんだから。それよりも返事は?」
ぐしぐしと止まらない涙をぬぐいながら、日菜姉さんは満面の笑顔を私に向けた。
「勿論、仲直りしよ、憂月!」
そう言って、再度強く抱きしめてくる。
「痛いって、日菜姉さん」
「んっふ〜」
満足げな表情で強く抱きしめる日菜姉さんを見て、引き剥がそうにもあまり強く言えずに苦笑いする。
お返しだと言わんがばかりに先までよりもさらに強い力で抱きしめると、うわっと日菜姉さんは声をあげたが、すぐに満足げに目を細めた。
「好きだよ〜憂月」
「もう、だから好きって言わないで」