7時半に学校に着いた。流石にこの時間に学校に来る人はほぼいない。自分しかいない教室にまるで自分だけがこの世界にいるような錯覚がする。周りを気にする必要がなく、自分が女王様の小さな世界に優越感を覚える。この時間がずっと続けば良いのになと思いながら自分の席に着く。
真ん中の1番前の席。自分が思うに1番周りが気にならない席だ。目に見えるは黒板と自分の机だけ。先生に隠れて板書がしづらいのが難点だがそれを除けば素晴らしい席だ。周りが視界に入らないから、あの子の笑顔が自分への嘲笑か気にしなくて済むし、あの子のおしゃべりの内容が自分の悪口か、見えないから気づかない。だから気が楽だ。そんなことを思いながら本を読む。
フランツ・カフカの「変身」だ。セールスマンのグレゴールがある日突然虫になってしまうお話だ。初めは、家族みんながグレゴールの代わりに頑張るのだが、最後は「彼さえこうならなければ」とグレゴールを恨み、最後には死んだグレゴールがゴミ同然の扱いでその身を捨てられても何も感じず、新しい土地で新たな生活を始めるのだ。まるで、グレゴールなんて最初からいなかったように。
きっと私は、氷川家に於けるグレゴールだろう。とく何を生み出すわけでもなく、ただ資源を消費し人の時間を無駄にする毒虫のような存在。
この話通りに現実も進めば、私が死ぬかどうかはともかく間違いなく捨てられる気がする。結果の出せない娘1人捨てたところで両親たちには両手に溢れんばかりの才を持った双子がいるのだから特に問題ないだろう。利益が全てじゃ無いと思うかもしれないが、結果という分かりやすく見える相手が喜ぶものが無いとどうしても不安になるのだ。自分に存在意義があるのか気になって仕方がないのだ。
ちらっと時計を見れば時刻は既に8時を過ぎていた。もうそろそろまばらにだが人が入ってくる。このまま本を読み続けるか、ふて寝するか悩んでから本を机の中にしまい目を閉じる。何度も繰り返し読んだ本だから特に先が読みたいという欲求もなかった。
私は、紗夜姉さんや日菜姉さんのように女子校には行かず、公立の学校に行くことにした。苦痛なのだ。姉と比べられることが。それに女子校は私立だから金が多くかかり親の負担になっていると思うと申し訳なさで勉強に集中できなくなる時もある。公立なら学費は毎月約1万円。バイトをすれば週2でも時間次第で払うことができるだろう。
流石に高校生で一人立ちするのは無理でも学費を払うことくらいはできる。ただですら色々考えすぎて頭が時折痛くなるのだ。少しくらい負担を減らしておきたい。
まぁ、自分が勝手に深く考えすぎているだけだから自業自得と言ってしまえばそこまでなのだが。
授業は特に滞りなく進んだ。元々自分から喋れる性格でも無いので友達なんかできるはずもなく、高校開始ひと月で早くもぼっちが確定してしまった気がする。
まぁ、別に友達ができなくても精々2人組やグループでやる時気まずさで緊張しまくるだけなので問題ないはずだ。一応人並み以上の成績を取っているし話しかけられれば多少どもるがそれでも出来る限り愛想のいい返事をしているはずだからいじめられてもいないはずだ。
気づいてないだけかもしれないが、名前も知らない赤の他人が自分の事をどう言おうと実害がないのなら特に気にならない。だから姉さん達にそう言われないか気にしているのに心情と真逆の行動をする自分に嫌気がさしているのだが。
適度に真面目に授業を受け、あともう少しすれば帰る時間となり、憂鬱な気分になる。誰だって一緒にいて気まずい相手に会いたいと思わないだろう。
しかし、あそこが私が帰らなければならない場所である以上、帰らなければ衣食住を確保できない。友達がいないから泊めてもらいないのだ。大人になったら絶対に1人暮らしを始めよう。家でも外と同じように気を張ってしまっていては休息できない。
…自分が劣等感も妬みも僻みも何もかもを飲み込んで面と向き合ってしまえば良いだけの話なのだが、この弱い心はどうもそれを拒否してしまう。一度逃げる勇気を持ってしまえば、どんなに罪悪感を感じても、少し辛くなったら簡単に逃げてしまう。これを甘えと言う人もいるとは思うが、こればっかりは生まれつきの性格なのだ。自分の納得できる形で折り合いをつけることができるまでは治らないだろう。逃げない事が逃げるよりもより良い結果に繋がると信じられる日までは。そんな日は中々来ないだろうが。
「ただいま」
家に帰り、電気をつける。両親は共働き、姉さん達は部活動がある。帰宅部で誰よりも家に近い学校に行っている自分が1番早く家に着くには自明の理だろう。
しかし、何をしようか。テレビに興味はないし、ゲームもやりたい気分ではない。久しぶりにキーボードで耳コピでもして遊ぶか。音楽の才は残念ながらそこまでなかったのでメロディーをなぞるだけだが、それでも十分楽しめるものだ。
ピアノも小学校でやめてしまったので今だと「エリーゼのために」すら弾けるか怪しいレベルだ。日菜姉さんなら1度聞いただけで弾けていそうだが。
そうと決まれば早速自分の部屋へ行こう。そこなら日菜姉さんにも紗夜姉さんにも急に会うことはないから安心できる。
ドアが3度、ノックされる音に意識を覚醒させる。あの後1時間くらい耳コピで遊んだ後色々な曲を聴いていたら寝落ちしてしまったらしい。
「憂月、晩御飯よ。出てきなさい。」
紗夜姉さんの声が聞こえた。もうそんな時間なのか。食事の時間は否応なしに姉さん達と顔を合わせなければならないが、そうしなければ自分が空腹でヤバいことになるので行かなければならない。それにここまで足を運んでくれた紗夜姉さんの労力が無駄になってしまう。
ガチャリ、とドアノブを回して部屋を出る。音に無性にイライラしてる自分を不思議に思いながら紗夜姉さんの方を見る。口を開けたり閉めたりを繰り返している。多分なんて言葉をかけて良いか分からないのだろう。かく言う私も頰を掻きながら何と言うべきか迷っている。
「えっと、と、取り敢えず、行きましょう。」
紗夜姉さんが頷く。良かった。ちゃんと返事をしてくれた。階段を降りて食卓へ足を運ぶ。既に日菜姉さんと両親は食べ始めていた。
「あっ、おねーちゃん、憂月、遅いから先食べちゃってるよ。」
「見れば分かるわよ。」
短くそう返す紗夜姉さんの後ろで私も頷く。日菜姉さんはすぐに食事に戻った。私もすぐに食べ始めよう。居心地が悪い空間とはさっさとおさらばしたいものだ。
「ねぇ、憂月さ、最近学校とかどう?るんっとすることあった?」
黙々とした雰囲気が嫌だったのか、私にそう聞いてきた。私じゃなくて紗夜姉さんに聞けば良いのにと思いつつ、出来るだけ愛想良く返事をする。自分から突き放しておいてなお、嫌われたくないのだ。
「るんっとが何かは知りませんが概ね楽しい日々を送れていますよ、日菜姉さん。」
勿論嘘だ。独りの学校生活はもう慣れたがそれでも時たま寂しく感じる。でも、姉さん達には心配して欲しくないから、私のことで時間をとって欲しくないから、小さな嘘を重ねる。別にいじめられてないので楽しくはないが辛くもないので100%嘘というわけでもない。
「そっか。ならいいや。おねーちゃんは?」
「私もそのような感じよ。というか日菜、食べながら話すのは良くないわよ。直しなさい。」
「はーい。」
日菜姉さんと紗夜姉さんの会話を聞き流しながらご飯を黙々と食べ続ける。
「ご馳走さま。あとおやすみなさい。」
そう言って立ち上がる。食べ終わった後はしばらく部屋に籠るしシャワーを浴びに行くが恐らく姉さん達には会わないのでここで言っておく。
「あっ、うん、お休み、憂月」
「ええ、お休みなさい、憂月。」
寂しげな表情をする日菜姉さんと紗夜姉さんの返事を聞きながら部屋に戻る。
姉さん達は私のことをどう思っているのだろうか。日菜姉さんは恐らく姉妹仲良く過ごしたいのだろう。紗夜姉さんと私に積極的に話しかけているところからしか分からないが、何となくそんな気がする。
紗夜姉さんに関しては分からない。私は日菜姉さんのようにプレッシャーを与える存在でもないからただいるだけの空気のような存在かもしれない。でもさっきお休みなさいと返してくれた限り私のことを嫌っていない気がする。私だったら本気で嫌いな相手には絶対無視するから。
反対に私はどうだろうか。日菜姉さんや紗夜姉さんのように歩み寄ろうと努力をしているわけでもなく、かといって憎んでもいない。
いや、ある意味では憎んでいると思う。あの才能があったら、私はもっと笑えていただろう。こんなひねくれた性格にならず、もっと素直に人を信じることが出来ただろう。そういう面では、あの人達の才能を妬んでいるし、羨ましいと思っている。
でも人として嫌っているわけじゃない。私だって出来ることなら姉さん達と一緒に寝たり、笑ったり、休日を過ごしてみたい。笑いながら食卓を囲みたい。でも、劣等感や些細なトラウマが枷となって私を封じ続けるのだ。こんな自分にどうして構ってくれるのか。どうして全てにおいて劣っている私に、こんなにも情をかけてくれるのか。
情けないと、ずっと思う。あの日言われたことを今また言われたところで別に気にも留めないだろう。でも、小さい時に言われたからこそ、その小さな言葉は未だに私を劣等種だと否応なしに突きつけ続けるのだ。
嗚呼、いっそこの醜い自分を殺してほしい。過去の小さなトラウマに引き摺られて、家族すら素直に信じることにできない自分をどうか一思いに殺せたらどれだけ楽だろう。
でも死ねない。それをしたら私とよりを戻そうとしている日菜姉さんに申し訳ない。それに家族の寵愛を受けて不自由なく育っているのだ。何かしらの形で恩返しするまでは死ぬわけにはいかない。
結局私は、何がしたいのだろう。仲良くしたいと口では言いながら、態度では突き放し続けている。自嘲気味に笑いながら、ベッドに倒れ伏した。もうこのまま寝てしまおう。シャワーは明日の朝入れば良いだろう。早くこのドロドロとした感情の渦から逃れたい。そこまで考えて、ふと気づく。
何だ。自分からも逃げているじゃないか。そこまで考えて、私は意識を手放した。