始まりは、否、終焉は、全人類の意志だった。
逃げろ、と片方の男は言った。
そういうシステムだと知っていて、抗えないと知っていて、けれど絶望に身を沈めて彼は弓に矢を番えた。
片方の男は何も言わなかった。
そういうシステムだと知っていて、抗えないと知っていて、だから最小限の労力で済むよう彼は引き金に指をかけた。
人類なんて、そんなものだ。
世界はかくも残酷で、無慈悲である。
序章 今、再び破滅への道を
「――素に銀と鉄」
青い燐光が地下室の闇を僅かに照らす。
床に描かれているのは魔法陣。
「礎に石と、契約の大公」
夕焼け色の髪が、魔法陣から起こる風に揺れていた。
冷たい石の壁に身を凭せ掛け、男は黙ってその様を見守っていた。
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国へ至る三叉路は循環せよ」
結局、彼女は逃げなかった。
もう止まってもよかった。もう眠ってもよかった。
それでも歩み続けたのは、きっとこのときのため。
運命なんて信じる柄ではないけれど、と男は目を細め、青い光を見つめる。
けれど、今まで彼女が変生もせず死にもせず、ひたすら彼女のままで生きてきたのは。
「
何度も唱えた呪文だった。
身に染みついた呪文だった。
縁の絡みついた、呪文だった。
「――告げる。汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」
応えた者は数知れず、彼女を支えて前へ進んだ。
情などもう消えた身だ。己はシステムを回すだけに過ぎず、その上で彼女はこの剣に身を預けると言った。
「誓いを此処に。我は常世全ての善と成る者。我は常世全ての悪を敷く者」
青い光は優しくて、どこかあのからりと笑う魔術師を思い出させた。
当たり前か、と思い直す。だって、この召喚の触媒は『彼女自身』。
ならば喚ばれる者は決まったも同然。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の護り手よ――!」
いっそう強くなる閃光が花火のように一瞬で爆発して、消えた。
霧中で息を切らす彼女を男は冷静に分析する。やはり魔力がぎりぎりまで削られていた。これでは立っているのもつらいだろう。
「召喚に応じ参上し、って何だこりゃ、キャスタークラス!? あれ槍が無え! どうなってんだ!」
しかし、霧の晴れた先でわたわたと己の槍を探す浅葱色の男を目にした途端、彼女は思わずといったように吹き出した。
「槍が無いのはキャスターの標準仕様なのかなあ、三度目でこれじゃ確定? 何か申し訳無くなってくるねえ」
くるりと振り向いた彼女があまりにズタボロな微笑みを浮かべていたから、見るに見かねた男は壁から身を離して歩み寄る。
「ランサーの枠が埋まっている以上こうなるのは目に見えていたがね。幸運Dになっても運が無いのは相変わらずということだろうさ……さて」
ようこそクー・フーリン、一人と一騎のカルデアへ。
皮肉混じりに口角を吊り上げた男と夕焼け色の彼女を、ドルイドは唖然と凝視していた。
どうなってんだ。目の前で人を小馬鹿にした笑みを湛える黒いスーツの男を、クー・フーリンは穴が開く程見つめる。
自分を喚んだのはその隣の女だろう。右手の令呪が何よりの証拠。それは別にいいのだ。
問題は、衣装に負けずとも劣らぬ黒い肌の男から感じられる気配が、人間というには『自分達』に寄りすぎているということ。
「……てめえ、サーヴァントか?」
杖を槍のように構え、臨戦体勢に入る。
少なくとも味方なのは確かなようだが、怪しいにも程がある。
すると、男は真鍮色の瞳を愉悦に溶かしてくつくつ笑声を漏らした。
「見ろマスター、戦闘民族らしく狗がもう戦う気でいる。早く説明しないと火事になるぞ?」
「煽らないの!! ご、ごめんねキャスター、彼は味方だし、悪気があった訳じゃないの! ちょっと捻くれてるだけから、悪い人じゃないから!」
慌てて自分と黒い男の間に割って入る、マスターと呼ばれた女。
年の頃は二十代後半といったところか。白い長袖のシャツワンピースが細いふくらはぎの中程までを覆っている。腰まで伸びた夕焼け色の髪に、琥珀色の瞳。どうも見覚えがあるなと最早記憶に近くなる程身に馴染んだ記録を引っ張りだせば何のことはない、冬木で会ったあの餓鬼によく似ている。
「アンタ、名前は?」
もしかして坊主の親族かな、と思い名を訊ねる。途端、ぐっと痛みを堪えるような顔をした彼女は、一瞬で元の表情を取り戻すと令呪の宿る手を差し出した。
「立香。藤丸立香。よろしくね、クー・フーリン」
「おう、よろしく」
握手に応える。握った手は、小さかった。
「……で、ここをとりあえず神殿にしてくれていいからね。何か欲しいものがあったら言って頂戴」
「おー」
湿っぽい地下室から一転、地上に出ると見事な森の中であった。
正確には、森の真ん中を切り開いて造られた石造りの遺跡の中である。一見ギリシャの神殿に近いが所々の意匠はケルト風で、いったいいつの時代のどういう遺物なのか見当がつかない。少なくとも、崩れた石柱に蔦が這っているし、石畳のあちこちから草が芽吹いているしで、永らく使われていなかったのは明らかだ。
良い場所だと気づいた。古代の神殿が建てられるとあって、霊脈の真上に位置した絶好のポイントである。これならばかなり陣地作成が捗るだろう。
感心しつつ辺りを見回している間に、マスターはいつの間にか森の中に入っていってしまった。が、あの黒衣の男は残って柱を背にじっとこちらを見てくる。
「んだよ、言いたいことあんならはっきり言えや」
正直良い気分ではない。観察されているのだから当たり前だ。
「いや、別に。強いて言うなら、貴様の疑問に答えてやれとの命令だ。マスターはもう体力も魔力も限界だ……何せ、才能が無いのでな」
主人に対しても一言多い奴だった。
しかし、答えてくれるならちょうどいい。聞きたいことは山程ある。
「じゃあ聞くが、お前さんは『何だ』?」
サーヴァントでもない、人間でもない。
彼女をマスターと呼ぶが、敬っているようにも見えない。
ほう、と男は片眉を吊り上げ呟いた。
「なるほど、腐ってもキャスタークラス、質問の仕方を選ぶだけの知能はあるらしい」
「あのな……喧嘩売ってんなら買うぞコラ」
「マスターから禁じられているので売りたくても売れないのだがね。まあいい、それで、オレが何か、だったな」
そうだな、と口元に手を当てる仕草に、妙に既視感を覚えた。
それに、声が。
さっき冬木の記録を引き出したときに気づいた。この男、あの弓兵と――
「オレは以前サーヴァントをやっていた。真名も言っておけと言われているから言っておく。『エミヤ』だ」
「――!」
もっとも、あの赤いオレからの
あれがどうなったらこうなるんだ。
頰を引き攣らせて劇的ビフォーアフターを眺めるキャスターに、エミヤオルタはさらなる爆弾を投下していく。
「で、現在は受肉した人もどきだ。ああそれと、我がマスターの『監視者』でもある」
「ああ受肉してるから変な気配なのか……待て待て、監視者だと?」
「そうだ。真名でだいたい分かると思うが、オレは『守護者』だ。ここまではいいな?」
キャスターは頷く。守護者の何たるかは知っている。
人類存続のための抑止力。自壊を防ぐ防衛機構。それがどうして監視者などと――まさか。
「ほう、やはり多少は頭が回るらしいな。気づいたか」
「……全くわけわかんねえぞ。あの姉ちゃんがどうやったら『人類を滅ぼす悪』になんぞなりうる。あれはただの魔術師だろう」
弾き出された答えに納得がいかずキャスターは訝しむ。
つまりこの守護者エミヤは、いずれ人類を滅ぼすかもしれない存在を見張っているというのだ。少しでもその兆候が見られたら殺せるように。
「オレはただ、一度殺し損ねただけだ。だがその直後あれは見逃された。いつかあれが人類悪へと変生する可能性はあったが、面倒なことに、あれ単体では人類悪には成り得ない。あれは道具だ。自ら変生するのではなく、他人の悪に使われる」
「外的要因が必要、ってことか」
情報を整理しつつ確認すると、首肯が一つ返ってきた。
「だからアラヤは、オレという監視者をつけることでそのリスクを減らしつつ、もし人類悪になった場合即座に排除できるようにした訳だ」
納得できないこともない。が、いかんせん現実味が湧かない話である。
「変な話だな。あいつが生きてる限り人類悪とやらのリスクは無くならないんだろ。何でわざわざ生かして監視までする必要がある」
殺し損ねたとエミヤオルタは言った。ならばもう一度殺せばいいではないか。
しかし、黒衣の守護者は首を横に振った。
「残念ながら前提条件が間違っているぞ、クー・フーリン。
「……はあ?」
またも意味の分からない情報を提示され、キャスターは思わず間抜けな声を漏らした。
「だから殺さない。
「はあ!?」
さっきからどんどん理解の追いつかない情報が増えている。真っ白のジグソーパズルのようだ。
アラヤの道具。それはつまり眼前で話す男と同じ。
「ああ、アラヤが契約を望んでいることを我がマスターは知らないので、黙っておいてくれ」
「何だそれ……」
「ただ殺すだけでは契約できないということだ。あれは少々変わった経歴の持ち主でね。本人の戦闘能力は正直お笑いレベルだが、培ってきた特別なものがある。アラヤはそれを狙っている。ヒントを与えるなら、そうだな。お前達通常の英霊にも関係しているものだ」
ますます訳が分からない。
「オレ達にも関わる力だと? そんなものあったらオレだって知っていてもおかしくねえ。なのに聞いたこともないのはどういうことだ」
「……ふむ、ではもう一つだけヒントをくれてやろう。お前達があれについて知らないのはな」
無かったことになっているから、だ。
*
その報せを聞いたとき、心臓が捩じ切れるかと思った。
「……あーあ、やっぱりキャスターが来ちゃった」
無かったことにしたところで、結局あの人が来るんじゃないか。
――十年前のあの日、離した手はそのままに。
今日もう一度握った手はきっと別のものだ。
木の小屋に置かれたベッドで仰向けに横たわり、目を閉じる。
冬木の聖杯戦争の二番煎じが、間も無くこの地で行われる。
あの日使いきったはずだったのに、まさか残っていたなんて。
いや、持ち逃げした人がいたに違いない。自分の詰めが甘かったのだ。
「自分のしたことだもの、最後までやり遂げなくちゃ」
たとえそれが罠でも。
大丈夫だ、と信じている。これから先起こることへの恐怖など、十年前に棄てきった。
だって、あの人がいてくれるから。
「エミヤが止めてくれるなら、きっと私は大丈夫」