Oracion   作:若布.

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やっとこさ終わりです。


第八章

 ただ、生きていたかっただけなのだ。

 呼吸をして、心臓を動かして、という『生命活動』としての生ではなくて。ただ、愛した者と共に、愛した者の生きたはずの世界を一緒に歩きたかっただけなのだ。

 成り行きで人類最後のマスターなんてご大層なものになって、それでも頑張って頑張って血反吐まで吐いて、世界を救うため奔走した。それは何も名誉が欲しかったからではないし、お金の為でもないし、誰かに認めてもらいたかったからでもない。大事な人に笑っていてほしかった。大事な人と一緒に笑っていたかった。 大事な人の生きた世界を守りたかった。

 それでも、否、だからこそ、その先に待つ終わりに怯えた。

 絵本に描かれるハッピーエンドを望んだとて、現実世界はそんなに綺麗に出来ていない。汚い大人も、醜い思惑も、掃いて捨てる程存在するのだから。

 救けてなんて言えなかった。

 自分は救世主で、英雄で、皆のマスターなのだから。弱音を吐いたら心配されてしまうから。

 救いなんて期待していなかった。

 きっと自分にできるのは、自分を救おうとして大事な人が傷つくことのないように、自分から手を離すことだけだ。

 本当は生きていたかった。

 けれど。ああ、けれど仕方がないじゃないか。

 自分一人、救われないとしても。世界すら救ってみせた自分が、自分自身を救えないとしても。

 それで愛しい人が笑っていられる世界を残せるなら、仕方ないと受け入れよう。

 だって一番欲しかったのは、そんな優しい世界だったのだから。

 

 そう、思っていたはずなのに。

 

 憎い。

 愛しい。

 憎い、憎い、愛しい、愛しい、違う、憎くて堪らない。

 世界を救ったのに。生きるために頑張ったのに。

 どうして『私』は切り捨てられるの?

 当然だ。もう要らない。救世主なんて平和な世界には要らない。それでいいと諦めた。

 違う違う、諦めたくなんかない。もう要らないなんて言わないで。私を置いていかないで。

 私だって幸せになりたかった。

 ――それは許されない。私は救世主だ。

 私だって穏やかに在りたかった。

 ――それは許されない。私は排斥されなければ。

 憎い。憎い。世界が憎い。運命が憎い。『私』を不要と断じた全ての人間が憎い。恨めしい恨めしい恨めしい。

 でも諦めた。それは不要な感情だし、不要な憤りだ。これは当然の結果だ、分かっていたでしょう。これでいい。これで全てお終い、全てハッピーエンド。

 諦めたくない。認めるなんて嫌だ。愛しかった。大好きだった。だから守った。救ってみせた。見てよ、ほら、たくさんたくさん救えたでしょう? 私一人の力ではないけれど、それでも頑張って、あの魔神王だって倒した。星一つを丸ごと救った。みんなと一緒に駆け抜けてみせた。

 なのに、どうして『私』は私を救えないの。

 ――そういうものだと納得したはずでしょう。

 どうして私は救われないの。

 ――そういうものだと諦めたはずでしょう。

 ならばそんな世界も運命も消えてしまえ。残らず灰になってしまえ。これは正当な報復でしょう。これくらいしたって誰も怒らないでしょう。憎い、憎い、憎い。恨めしい、恨めしい、恨めしい。殺して滅ぼして燃やし尽くしてまだ足りない。全部全部壊れてしまえ。

 ――違う、私はそこまでしたいとは思っていなかった。確かにとても悲しかったし、憤りもした。でも、それでも私は世界を守りたかったのに。愛していたのに。ああ、壊したくない、壊したくない、壊したくない! お願いだから止まってよ! 何も殺したくない、殺したくないの!

 誰か救けて。

 いいえ、救けないで。

 私を、『私』を、どうか誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か――

 殺して。

 

 

 ふと、目が覚めた。

 空の夢を、見ていたようだ。

願いの欠片が散っていった碧空の、涙が出るほどうつくしい夢を。

 ――ここはどこだろう。

 自分の形が意識できない。肉の身体が無いのだから、当然と言えば当然だった。

 闇の中のようでもあるし、海の中のようでもある。それとも二つは同義であるのか?

 海の中ならこのまま窒息するのだろうか。

 違う。息はしなくていい。身体が無いのだから当たり前だ。

 なのに、不思議と呼吸がしたかった。

 どうやったって吸えない空気を、無いはずの肺腑が求めている気がした。

 いつだったか、手を離して呼吸を停めた。空を夢見て泥濘に沈んだ。

 そうか、これは闇ではなく、海でもなく。深い深い泥の中。

 ――呼吸が、したいな。

 叶わぬ願いを飲み込んで、目を閉じる。いや、身体が無いから閉じようもないのだが、とにかく感覚を切った。そのつもりだった。

 そのはず、だった。

 

 ――救いを見た。

 

 唐突に伸ばされた手があった。

 一人ではなかった。何人もの誰かの手が、必死に伸ばされ泥を掻き混ぜた。

 救いを見た。

 その手が掠める度に、自分は呼吸を取り戻した。ゆっくり、一つ一つ、確かめるように。

 救いを見た。

 人類の総意思と一時的に繋がっていたせいであろうか。自ら閉ざした視界に不思議と映像が映る。胸に咲く剣の花。誰かの笑顔。聞こえる声はいつかの約束を、ただ只管に優しく紡いだ。

 今度は泥。そして戦場の光景。

 救いを、見た。

 戦っている。叫んでいる。どうか、どうかと悲痛な程に。

 呼吸が戻る。息ができる。あんなにも夢見た、届かなかった空がすぐ近くにある。

 鐘の音が聞こえる。天高く歌う誰かの声がする。

 なんて幸せな、なんて安らかな。

 ――ああ、救いを見たのだ。いま見たこれは救いなのだ。

 生あるうちは決して届かぬと諦めた、自分自身への救いなのだ。

 

 ならば。

 

 今こそ我が真名を謳おう。我が声を高らかに響かせよう。最早嘆くべきものはどこにも無く、それ故に我が人生に心残りはひとつも無い。

 聞け、聞け、愛する世界よ。たとえあなたたちに弾かれようとも、命を無為に散らそうとも。

 私は、確かに救いを得た。

 

 

 ――鐘が鳴る。

 歌が聴こえる。

 空が裂けた。雲の割れ目から差す太陽の光を吸い込んで、天に浮遊する少女の夕焼け色の髪が煌めく。

 

『あ、あ』

 

 ビーストØ/Dが意味の無い母音を吐く。あたかも驚愕しているかのように。

 次の瞬間、ビーストの頭上に展開される宝具――乖離剣エア。それは数多のサーヴァントに甚大なダメージを与える魔剣。

 ビーストには分からなかった。最早プログラムに沿って兵器を使うだけのそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何故なら獣はそれを見たことがなかったからだ。この英霊は今この瞬間初めて現界した、ビーストのデータベースには存在しない英霊だった。

 故に、ビーストはエアを引き出した。多くの英霊を滅ぼせるこの剣ならば、有効ではないかと。

 しかし。

 

『……裁きの時、だ』

 

 回転を始めたエアを目にした少女は、令呪の宿る右手を高く掲げた。

 

「忘れたの、『私』。あの時のそれは、もっと慢心してなかったでしょう?」

 

 全く同じひと振りの魔剣がその手に現れる。

 少女の目が強い光を宿す。琥珀に己が屍を映し込む。

 そして、もうひと振りの乖離剣は唸りをあげる。

 

「――原初を語る!」

 

 それは、母を討ち滅ぼした一撃。

 その一撃を以て訣別の儀とした、ある一人の王の剣。

 

「天地は乖離し無は開闢を言祝ぐ!」

 

 互いの乖離剣が凄まじい勢いで回転数を増していく。

 

『世界を裂くは』

「我が乖離剣!!」

 

 全く同じに見えるだろう。

 事実、その中身は完全に同一。引き出せる威力も同じはず。

 ただ一つ、違うのは。

 

「星々を廻す渦、天上の地獄とは創世前夜の終着よ」

 

 その後ろに、何を見ているか。

 かの王は慢心せずして何が王かと豪語した。

 かの王は慢心を排して母を滅ぼさんとした。

 忘れたのかと少女は尋ねた。

 あの背中を。あの勇姿を。

 あの燃え盛るウルクの地下に咲き乱れた花の中、最後の戦いで見た背中を――!

 

『受けよ』

「死を以て鎮まるがいい!」

 

 王よ、どうか私に力を。

 少女は祈る。そして信じる。

 その手に宿した力は、ただ誰かを守るために。

 

『「――『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』!!」』

 

第八章 我が使命にて

 

 閃光の収まったとき、ビーストØ/Hはその激突の結末を知った。

 屍の獣の下半身が半分程度まで体積を減らしていた。山が丘になったくらいだが、それでも軍配の上がった先は獣ではないのだ。

 防ぎきれない一撃を、下手をすれば致命傷になる一撃を、すぐ再生できる下半身の肉と泥を以て防いだ。つまりはそういうことである。

 

「……ふむ、こんなものかな? ていうか重っ! エアってこんなに重いの!?」

 

 ふわりと花園に音もなく降り立った見覚えのある白い礼装の少女が、やっぱり王様はすごいなどと独りごちている。その右手にあった乖離剣が、泡のように跡形もなく消えた。

 

「今ので……うん、まだ全然いけるね。無辜って良いことなんて無いように思えたけど、メッフィーみたいな感じなら確かに恩恵はある、のかな?」

 

 やはりぶつぶつと呟く彼女は、そこでようやくぱっと肩口までの夕焼け色の髪を靡かせ振り向いた。琥珀色の瞳が輝く。

 

「立香、それ、サーヴァント」

 

 少年の声は掠れ、たどたどしいものになってしまった。ぶつ切りの問いに、しかし少女は微笑んで頷き、答える。

 

「うん。アラヤに無理言って、リソースぶんどって来ちゃっ、うわぁっ!?」

 

 ……最後の悲鳴は、キャスターが彼女をがっちり抱きしめたことによる。

 

「く、苦しい苦しいキャスター苦しい! 待って待って落ち着いて! 私のステータス見る!? ゴミだよ!? そんな強くされたら痛いんだって苦しい助けてーー! 立香、立香! これ何とかして!!」

 

 助けてと言われても。

 少年はあまりの光景に呆然と突っ立っていることしかできなかった。あと、自分の素のステータスも正直ゴミである。キャスタークラスにすら負ける筋力値である。自己改造も施していない今、助ける力は少年には無い。

 と、今まで無言だったキャスターが小さく何事か呟いた。少年には聞き取れなかったが、耳元で囁かれていた少女はふっと表情を緩めて二、三度確かめるように頷いてみせている。とん、とん、と青い背中を優しく叩いている。それはあたかも、幼子を宥めているかのように。

 

「……マスター」

 

 ふいに、エミヤオルタがそう言った。

 もう契約は無く、どころか彼女は人間ですらない。けれど、彼は確かにそう呼んだ。

 キャスターの腕から静かに離れた少女が、一瞬壊れそうに儚く笑った。それもすぐに、ちょっと怒ったような渋面に取って代わられる。

 

「こらエミヤ、また勝手に髄液を使ったでしょう。こんなに罅割れて」

 

 めっ、とまるで悪戯っ子を叱るような口振りに、寸の間真鍮の瞳を見開いた黒い弓兵は、やがていつもの皮肉を纏った嘲笑で以てそれに応じた。

 

「さて、禁じられた覚えも無いのでな。悪いがもう少しこまめに注意してもらわんとその叱咤は通用せんぞ?」

「はいはい、分かった分かった……。じゃあ今から禁止。今から金輪際禁止。OK?」

「了解した、マスター」

 

 何だか了解の二字にも揶揄いが透けて見えている。主従漫才かな、と思わなくもない立香である。

 ――感動の再会なんて、似合わない。

 もし今この正義の味方に「もっと何か無いのか」なんて聞こうものなら、そんな答えしか返ってこないであろう。だからこそあの少女は十年前と同じように彼へ注意をしたのだ。そして彼もまた、十年前と同じように。

 停まっていた二人の時間が、鎖を噛んでなお回ろうとする歯車の如く、緩慢に動き出していた。

 

「マスター」

 

 今度は赤い弓兵である。とりあえず、先程まで周りの一切を置いてけぼりにして元マスターを抱きしめていたドルイドについてはスルーしていく方針であるらしい。

 

「今、アラヤと言ったな。今回の君の現界は独断ではない……と、いうことか?」

 

 問われて、少女は穏やかに首肯する。

 

「召喚自体は単独顕現だけでも何とかなったんだけど、今回はそれじゃそのあとのためのリソースが足らない。あと諸々の都合上、私が好き勝手するにはどうしてもアラヤの認可が要るわけね。なので無理を通してきました!」

「きました、じゃない。そこで胸を張るな。……つまり、現在君は冠位(グランド)サーヴァントと似たような状態で現界しているのか」

 

 そこで少女はぱちりと一つ瞬きをすると、納得したように歓声をあげた。

 

「そういう感じ! さすがアーチャー、的確!」

「なるほどな……、!?」

 

 アーチャーが勢いよく屍の獣を仰ぎ見る。今まで停止したそれが再び天に宝具を喚んでいた。その魔力の動き自体は全員が感知していたことであった。

 掲げられているのは――刀。針の筵かと錯覚できる程の大量の刀。

 

「あれは……」

「ああ、鈴鹿ちゃんだねえ。あれは綺麗だった」

 

 身構えるサーヴァント達の中でただ一人、落ち着いた風情の少女である。

 そんな悠長な、と思わず彼女を見た立香であったが、直後に彼女の前に出現した城壁を認め、息を呑んだ。

 

「数には数で。物量には物量で……ね?」

 

 実際、彼女や少年らビーストが喚び出しているのは誰かの宝具そのものではない。膨大なる魔力を用いて組み上げられる、言わば完璧な模造品(コピー)。スキルを軸にし、投影魔術とは全く異なる理論のもと、威力含めた何もかもが本物と一切の差無く再現される。神々の権能が関わる類の宝具や、宝具のカテゴリから外れる奥義は例外だが。

 そう、コピーであるが故に。

 一度使えば壊れるものだろうが、何の躊躇いも無く使用可能である。

 

『恋愛発破、『天鬼雨』』

「全砲門開錠――『王の号砲(メラム・ディンギル)』!」

 

 大量の刀に対するは、量産のきかない量産型『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。否、それは何度でも何度でも撃ち出される。魔力さえあれば、弾である宝物はいくらでもコピーがきくのだから。

 果たして、刀の雨を食い破るは王の宝物、その模造品。一つ一つの威力自体が段違いであり、弾幕の役割を担いつつも反撃となってビーストØ/Dに突き刺さる――!

 

「……す、げえ」

 

 知らず知らず、少年は見とれていた。

 上手い。ただ防ぐだけではなくダメージを叩き込んでいくそのやり方はまさに最適解。

 自分には真似できないと少年は悟っていた。それはこの世界の彼には圧倒的に戦闘経験が足りていないがため。世界を救うその道筋を辿ったのは、他ならぬ彼女であったため。

 結局、自分では届かないのだ。そこに至って唇を噛む。

 そのとき少女が振り向いた。城壁は霧散し、再び修復を始めたビーストを意に介さず。

 

「――救いを見たんだ」

 

 唐突に、言った。

 

「……え?」

「それは血塗れで、絶望も諦念も全部は消えてくれてない、それでも足掻いた誰かの夢だった」

 

 歌うように、彼女は告げる。

 

「私は救われなかった。救われずに終わるはずだった。知ってる? 英霊候補の魂は、死後英霊の座に至ることを拒むことがある。……私も最初はそうしようと思っていた。十年間、あの日真実を知ってから、私は英霊になることを拒むと決めていた」

 

 英霊の座に至ることを、拒む?

 いったい何故。そう尋ねた少年に、彼女は寂しそうに微笑んだ。

 

「だって、私は救われないまま終わってしまった。苦しいまま、憎んだまま終わってしまった。諦めたつもりで、でもどこかで叫んでいた。何故私は救われないの、と。そんな英霊が登録されて、その思いを抱えて喚ばれてしまったら、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なるほど確かにセイヴァーとしては召喚され得るだろう。世界を救った彼女の功績からすれば妥当な結果だ。

 ならばその反転体、オルタナティブとしてビーストが出現する可能性も当然、ゼロではない。

 

「だから、ね。そんなことになるくらいなら英霊になんてなりたくなかった。この私が喚ばれることもなかった」

 

 でもね、と彼女は一転して底抜けに明るく告げた。

 

「エミヤが私を殺してくれた。あなたが、皆が、あの『私』が誰も殺さないように頑張ってくれた。それで私は――私の心は、救われたの。私を救おうとしてくれる人がいたから。たとえ命を落としても、私は本当に、心から、救われた」

 

 ありがとう。

 少女はまだ明るく、けれど目尻に涙を浮かべて礼を繰り返す。

 その琥珀が映しているのは獣の少年だけではなく、この場で足掻いた者達全て。

 エミヤオルタが目を閉じて、彼にしては本当に珍しく、大層穏やかに笑っていた。

 

「私は救いを見た。救いを見たんだよ、立香。もう私は決して獣にはならない。救われたのだから、もう二度とあの救われない獣にはならない。あなた達が救いをくれたおかげで、私は英霊になることを受け入れて、今ここにいる」

 

 ――涙が、こぼれ落ちた。

 濁った血の色の瞳から、大粒の滴が流れていく。ぼたぼたと透明な感情の欠片が頬を伝って地に落ちる。

 

「りつか」

「うん」

「おれ、がんばった」

「うん」

「きみを、すくいたくて。でもこんなやりかたしかおもいつかなくて。きみをしなせて」

「うん」

「おれたち、きみを、すくえたの」

「……うん」

 

 涙が止まらない。どうして泣くのか分からなくて、でもどうしようもなく泣きたくて堪らなくて。

 正面からぎゅうと抱きしめられる。泥が、と思う間もなく彼女は言った。

 

「汚染は心配しなくていいんだよ。私にそれは効かない。だからいっぱい泣いていい」

 

 ――ああ。

 そんな、優しい声で促さないでほしい。

 まだ終わってはいない。なのに、ずっとこのままでいたくなる。

 ほんの十秒程だった。まるで永遠にも感じられる十秒。

 そして、また獣が咆哮するのを二人で聞いた。

 

「……無粋だなあ、全く」

 

 冷えきった声は彼女のもの。

 ゆるりと身を離し、少女は己の屍を睨みつける。

 

「全員、聞いて。今から立香以外は私とパスを繋いでほしい。私から直接リソースと指示を流す」

 

 右手の令呪は三画、欠けることなく揃っている。

 サーヴァント達が了解を返すと同時、それは一瞬強く輝きを示した。数多のサーヴァントと契約を結び従える。そのスキルこそが彼女の本領。

 ビーストØ/Dが下半身を膨張させ、その裂け目からまたラフムを生み始めた。数には数で。先の少女の言葉をあちらも実践している。こちらの戦力の増大に手数を増やすことで対抗しようとしているのだろう。

 まるで時間を巻き戻したかのようだった。あれだけ減らしに減らしたティアマトの子らが今や百を超える頭数で楽園を踏みしめている。相変わらずきいきいと意味不明な言葉を零しながら、前進を始めている。

 

「……立香、俺、もう一回冥界を」

「その方がいいね。万が一にでも飛散されたらお終いだ。お願いできる?」

 

 少年は強く頷いて霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)を展開する。再び壁が聳り立ち、ビーストを取り囲んだ。

 

「まずは生まれなくなるまでラフムの殲滅を。それが済んだら本体への攻撃開始。立香は私とキャスターで守る。今まで立香がしてくれてた援護は全部私が引き受けるよ」

 

 弓兵二騎とカルナが応じた。しかし、キャスターがただ一人口もとに手を当て神妙な顔つきでビーストØ/Dを見つめている。

 

「キャスター?」

 

 救世主の少女も訝しんだのであろう。首を傾げて放たれた呼び声にも反応しなかったキャスターは、長い沈黙の末口を開いた。

 

「…………なあマスター。真名看破持ちっての、ありゃ嘘だな?」

 

 突然何を言い出すのだろう。話が長引くと踏んだのか、少女が他三騎のサーヴァントに目配せした。その意を汲んで彼らはラフムを抑えにかかる。

 それを確認してから、改めて彼女はキャスターに向き直った。

 

「うんまあ、嘘だね。あのときはああいう説明しかできなかっただけで」

 

 立香は『あのとき』がいつであるか推測しつつも黙って彼らの会話を聞いていた。大方、彼女は敵サーヴァントの真名を言い当てた理由についてそのような説明をしたのだろう。

 だよな、とキャスターは動かなくなったビーストに注意を払いつつ続ける。

 

「で、さっきのを見る限り、アレは自分のデータベースに無い英霊を見ると処理落ち(フリーズ)するってことで、合ってるか?」

「…………よく見てたねえ、たぶんそれで合ってるよ」

「え、ちょっと、ちょっと待って! そんな隙あった!?」

 

 少女があっさりキャスターの推論を認めた。立香は思わず会話に割って入る。自分のことで手一杯だったせいか、全然周りが見えていなかったのである。

 

「あったよ。だいたい十秒……いやもっと短いかな? 少なくとも数秒のラグがあった」

 

 それはつまり、相手にとって致命的な隙に他ならない。

 二人の立香の会話が一区切りついたところで、さらにキャスターは質問を重ねた。

 

「んで、その法則は宝具に関しても適用される。違うか?」

 

 ……その確認からたっぷり数秒、少女は驚いたと言わんばかりに目を見張って、それからにやりと好戦的な笑みを浮かべた。

 

「……違わない。その話を今持ち出すってことはさ、あるんだね? ()()()()()()()()()

 

 おう、とキャスターも獰猛に笑う。

 この主従――十年前もそうだったが――たまに表情が似るのである。長いこと一緒にいると色々うつるのだと彼女は随分昔に笑っていた。

 

「準備にちと時間がかかる。無防備にもなるからな、何とかやってくれや」

「分かった、それならこちらも方針を変える」

「方針?」

「私だけで二人も守れないの。私は防衛に適した英霊じゃない。できるのはあくまで『従える』ことと『陣頭指揮』だけ。餅は餅屋って言うでしょう」

 

 ()()()()()

 旋風が彼女の眼前に渦巻く。小さな竜巻にも似ている。その中心、地に薄く青く浮かび上がるものを見てキャスターが息を呑んだ。

 

「――素に銀と鉄。礎に石と、契約の大公」

 

 青い火花が魔法陣から断続的に発生している。そのペースはどんどん速くなり、風もまたその勢いを増していく。

 

「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国へと至る三叉路は循環せよ」

 

 何度も唱えた呪文だった。

 身に染みついた呪文だった。

 縁の絡みついた、呪文だった。

 そう、これこそが、この行為こそが、彼女を彼女たらしめる最初の一手。

 

閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)閉じよ(満たせ)。繰り返す都度に五度、ただ満たされる刻を破却する」

 

 青の中で、令呪が輝く。

 風に煽られる髪も、その後ろ姿も、懐かしいと立香は感じていた。召喚を教わったときのことがまるで昨日のことのように思い出される。

 

「――告げる。汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。()()()の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ。……誓いを此処に。我は常世全ての(救い)と成る者。我は常世全ての()を敷く者」

 

 所々、呪文が違う。それで立香は理解した。これはただの召喚ではない。そもそも基軸になるような、あの少女の円卓や聖杯といったアイテムが一つも無いのに英霊召喚などできる訳がない。

 だが実際、彼女は喚ぶ。従える。使役する。それこそが彼女の真髄、彼女を象徴する概念であるが故に。

 そう、これは――彼女の宝具。

 

「汝三大の言霊を纏う七天、今こそ――! 『我が使命にて集えよ盟友(ロード・カルデアス)』!!」

 

 旋風が一瞬膨らんだかと思うと、掻き消えた。

 そこにいたのは一人の騎士。紫紺の鎧と、巨大な盾。

 立香達に背を向けている彼女の菫色の髪が、風の残滓に柔らかく揺れる。

 

「――シールダー、マシュ・キリエライト。マスターの求めに応じ参上しました」

 

 こちらを向いた彼女の深い紫色の瞳が、強く輝いている。

 彼女は救世主の少女と獣の少年を順番に認め、盾を持つ手に力を込めた。

 

「……無茶をしたのですね、先輩」

 

 少しばかり苦しそうに目元を歪めた彼女の肩を、救世主が軽く叩いた。

 

「マシュ、ここで立香とキャスターを守ってほしい。私は……あっちに混ざってくるよ」

 

 あっち、と彼女が指さした先では三騎のサーヴァントがラフムと戦っている。かなりの数を駆逐していたが、まだ終わりは見えない。

 無言で承知したマシュを置いて、救世主は爆発的な速度で三騎に合流していった。

 ――マシュへの指示は立香に任せる、と言い残して。

 

「状況は召喚時点で把握しています。マスター、今は指示を」

 

 盾を構えた少女が強い口調で指揮を求める。

 少年は戸惑っていた。否、混乱していた。そもそもデミ・サーヴァントであったマシュが何故召喚され得たのか、何故自分を『マスター』と呼ぶのか。加えてこの獣になった少年の最期の記憶が脳内で絶叫しているようで。泥に塗れた頭は混乱に対処しきれず吐き気まで引き起こし始めていた。

 

「マスター……?」

「坊主、どうした? 頭痛えのか」

 

 違う。痛くない。痛くないはず、なのに。

 ぐちゃぐちゃだ。思考回路を滅茶苦茶に荒らされたようなおぞましい感覚。

 獣の記憶がうるさい。自分が呑まれてしまう。

 

「先輩」

 

 呼ばないで。その名前で呼ばないで。

 それは自分には相応しくない。

 

「……でも、継いでいるのでしょう」

「……!!」

 

 弾かれたように顔を上げる。どこか泣きそうな、崩れてしまいそうな微笑みがそこにはあった。

 

「わたしもあの『わたし』ではありません。あなたに泣きながら縋ったわたしではない――けど、ちゃんと継いできましたから」

 

 ここに来ると分かったときに、ちゃんと持ってきたと。

 視界が一瞬、切り替わった気がした。

 極天を落ちる流星雨の、悲しくも美しい最期の情景が見えた気がした。

 ビーストは前を向き、白い手を横に差し出す。

 

「……マシュ、お願いがあるんだ」

「はい、先輩」

「手を、繋いでいてくれないか」

 

 泥で汚してしまうかもしれない。半分駄目元で、けれど彼女は――その手を取った。

 

「……いいの?」

「ふふ、お願いしたのは先輩ですよ? ……言いたいことは分かります。でも大丈夫。わたしは英霊『藤丸立香』に付随する形でのみ召喚されるサーヴァントです。マスターの性質も一部引き継いでいますから、泥への耐性も」

 

 握り返された手が温かくて、泣きたくなった。

 彼は最期まで繋げなかった。その手を取ることはできなかった。

 だから、今だけは。

 

「この俺はあのオレじゃない。君もあの君じゃない。でも」

「ええ、でも」

 

 この手を、ずっと願っていたから。

 ――咆哮が地を揺らす。ビーストØ/D本体がついに攻撃を再開した。爆発が随所に起こる中、少年は傍らの少女の手を強く握りしめる。

 

「マシュ! 雪花の壁、最大展開!」

「――はい!」

 

 吐き気はもう、無かった。

 

 

 

「『朧裏月十一式』っ! せえ、の!」

 

 少女の振るう十文字槍がラフムを縦に両断した。塵になる遺骸からすぐ離れ、続いて二体のラフムを突きで仕留める。

 アーチャーは少女の傍らで夫婦剣を繰りながら、冷静にその戦いぶりを観察していた。流れるような一連の動きは、しかしあの槍の名手にはどうしても劣る。それを察しているのだろう、伝う汗を拭った彼女は歯噛みした。

 

「……っ、胤舜みたいには、いかないか。これでも随分修練したんだけ、ど!」

 

 袈裟懸けに振るわれた槍がまた一体ラフムを屠る。アーチャーはすかさず彼女の背後で脚を振り上げていた別のラフムを斬り捨てた。少女からの礼もそこそこに、再稼働を始めたビーストØ/Dを仰ぐ。そして、幾度目か分からない舌打ちを一つ。

 嫌なものを見た。屍の頭上に構築されつつある宝具は、アーチャーの目が狂っていなければ間違いなくこの場を壊滅させる一手である。

 

「マスター、君は積極的にラフムを倒さずともいい! あれを!」

 

 あれ、と示した先のものを少女も認識したらしい。血相を変えた彼女は槍を消す。

 

「間に合わない、か! 仕方ないなあ、あんまり使いたくないけど……『時のある間に薔薇を摘め(クロノス・ローズ)』!」

 

 短い破裂音を残して少女は消えた。否、サーヴァントですら一瞬見失う程の凄まじいスピードで天高く飛び上がったのだ。紡がれた真名が意味するのは固有時制御(タイムアルター)。そこまでしなければ――発動したあとに防ぐのではなく発動を未然に防がなければ――ならない程危険な宝具をビーストØ/Dは展開しようとしている。

 

『神性領域拡大、空間固定、神罰執行期限設定』

「させるかっ!! 『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』!」

 

 間一髪、臨界点を迎えかけていた破壊神の手翳(パーシュパタ)を真紅の槍が貫通した。

 大爆発が地を揺らした。閃光の中落下してくる少女をアーチャーは何とか受け止める。しっかり受け身を取ってキャッチされた彼女は煤まみれであった。あちこち破けた礼装に血が滲んでいる。

 

「はは、ありがとアーチャー……いてて」

「馬鹿者、あんな無理なキャンセルがあるか! いくら治るとはいえ……!」

「ごめんて。うあっ! 痛い痛い思念が痛いごめんなさぁーい! もう使わないって痛い痛い!」

 

 それでも一息ついたかと思えば、彼女は突然頭を押さえて苦しみだした。何事かと慌てるアーチャーの腕の中で彼女は暫く謝罪を繰り返し、やがてぐったりと身体の力を抜いた。

 どうした、と恐る恐る尋ねたアーチャーに、少女は気まずそうに返した。

 

「キャスターに文句言われた」

「……あー…………」

 

 全てを察した。

 オレは今回も使えないのに槍槍槍槍……と呪詛に匹敵する念話が飛んできたのだそうだ。無理もない。だが時と場所は選んでほしい。

 

「うんゲイ・ボルクは封印。封印で」

「苦労するな君も……」

「慣れてるよ」

「悲しい慣れだな」

 

 言いつつ、アーチャーは少女を地に降ろす。花の上に着地した彼女はすかさず接近していたラフムの一撃を躱した。その異形をどこからともなく飛んできた銃弾が蜂の巣にしていく。

 

「……っと、ありがとうエミヤ」

「いい。損傷は」

「もう治ったよ。そっちはどう? 多めに魔力送ってるのだけど」

「……問題ない」

 

 金色に罅割れた上半身を晒した男はどこか不機嫌そうに淡々と返答し、それからやっと数十体程度まで減ってきたラフムの殲滅に向かっていった。

 きょとんと首を傾げている少女にアーチャーは少々頭を抱えたくなった。どうも、自分が無茶をしたという自覚が薄い。いやそれは前からなのだが、なまじ戦闘能力を得てしまった分、無茶をすることに対する抵抗がさらに減ってしまったのであろう。彼女はもう、無力ではないのだ。

 

「とにかく、君は宝具の相殺に専念してくれ。ラフムも残り少ない、ここは――」

 

 任せろ、と言おうとした矢先であった。

 自分達よりさらに前方、膨れ上がる魔力の昂りが肌を焼くかのようだ。喩えるならば太陽か、炎か。

 

「命令はもう出してあったの。アーチャー、私を持ってマシュのところまで退れる?」

「……了解した」

 

 再度少女を抱えたアーチャーは地を蹴る。エミヤオルタも既に後退を始めていた。

 直後に脳へ送られてきた戦術を瞬時に把握し、赤い弓兵は剣を強く握った。

 

「マシュ」

「はい! 真名、開帳。わたしは災厄の席に立つ――!」

 

 全員の安全が確保できたところで、マシュが白亜の城を展開する。

 

「できたよカルナ! キャスター、準備を!」

「おう!」

 

 キャスターが杖を消した、その瞬間。

 神殺しの槍が火を噴いた。膨大なる熱量は先程ビーストの一撃を相殺したものよりさらに巨大で、少女と接続した恩恵を最大限利用できているのがよく分かる。

 ラフムは元々神の子供である。今でこそビーストに造り出されているが、彼らは本質的に神性を有している。それ故にカルナの宝具は絶大な効果を発揮するのだ。

 爆音と豪炎の末、守りの体勢に入っていたビーストを除く全ての敵性体が消失した。倒された、という表現はこの場に限って言えば誤りであった。文字通り、跡形も無く蒸発して消滅したのである。

 そして、この一撃は嚆矢であった。

 

「――原初のルーン、『大神刻印(オホド・デウグ・オーディン)』!!」

 

 ドルイドの周囲に十八字のルーン全てが円形に広がり、続いてビーストØ/Dの下半身を囲むように展開される。

 キャスタークラスのクー・フーリンが有するもう一つの宝具。十八のルーンを全て一度に使う超高威力の対軍宝具――実際に目にするのはアーチャーも初めてである。前回の現界において、彼は最後までこの宝具を使わなかった。それがビースト打倒のための最大にして最後のピースになるとは、誰が想像するだろう。

 

「――鶴翼(しんぎ)欠落ヲ不ラズ(むけつにしてばんじゃく)

 

 アーチャーはただ一人踏み出す。

 原初のルーンが発動するその直前に、夫婦剣の一対を投影しビーストの背後へと投擲する。

 

心技(ちから) 泰山ニ至リ(やまをぬき)

 

 閃光が世界を埋めた。

 魔力の核爆弾とでも言うべきか。純粋な威力ならば英霊の中でも最高峰に位置するであろうその宝具は、当然余波も凄まじい。本来飛び出した自分が無傷でいられるはずもない、が。

 

心技(つるぎ) 黄河ヲ渡ル(みずをわかつ)

 

 透明な力の壁がその猛威を阻む。

 マシュのスキル、時に煙る白亜の壁。澄んだ水晶のように美しい無色の防壁がルーンの力を丁寧に受け流し、無力化させている。

 

唯名(せいめい) 別天ニ納メ(りきゅうにとどき)

 

 閃光の収まった先には、下半身を丸ごと消亡したビーストØ/Dの上半身がゆるりと落下を始めていた。地脈との連絡はこれで絶たれたも同然。本来最適解を弾き出し続けるあの獣なら、当然再生を優先させ地脈への再接続を狙うはずだが――その動きは、無い。まるで時を止めたかと思わせる、完全停止である。処理落ちを起こしていることは明白であった。

 その隙も数秒あるか無いか。それでも、そこを見逃すアーチャーではない。

 投擲していた夫婦剣がビーストの腹部を切り裂いた。血の色の瞳が大きく見開かれる。手にしたもう一対で、さらに一撃。

 

両雄(われら)共ニ命ヲ別ツ(ともにてんをいだかず)……!!」

 

 そのまま、真っ白な首を狙って最後の一対を叩き込む――!

 

『あーちゃー』

「……っ」

 

 ぎしり、歪な音が呼んだ気がした。

 

『あり、が』

 

 何かを言った、気がした。

 

「――鶴翼、三連!!」

 

 最期に何かが微笑んだ。そんな、気がした。

 

 

 冥界の壁が地に沈んでいく。

 花は次々と枯れてゆき、楽園のかたちを解いていく。

 金色の光が、蛍のように少女の身体から立ち上った。

 それはアーチャーも、エミヤオルタも、キャスターも、カルナも、そしてマシュも皆同じ。役割を終えた霊基が崩壊を始めていた。

 

「帰ろうか、皆」

 

 雲ひとつない青空を見上げていた少女が、安らかに呟いた。

 

「行くんだね、立香」

「……ええ、立香」

 

 少年が淡く微笑むと、少女も鏡写しのように相好を崩した。

 ――少年に、未来は無い。

 この世界にビーストは要らず、排斥されるべきものである。故に結末は皆分かっていた。少年自身も分かっていて口にはしなかった。

 しかし。

 

「ねえ立香。私、あなたに救われたの」

 

 唐突に救世主がそう言った。

 何を言い出すのかと目を白黒させる少年に、彼女は歌うように続けた。

 

「だからこそ、あなたは救われなければ。だってあなたは私で」

「君は、俺……」

 

 呆然としながらも少年は言葉を継ぐ。

 そういうこと、と救世主は楽しそうに言った。

 

「私が救われたのならあなたも救われる。当然でしょう? 今度は私の番なの、立香」

「……でも、俺は」

 

 変化は不可逆。無かったことにはできない。ルビーに初めにされた説明である。

 そうだね、と救世主は頷いた。

 

「本来なら、無理でしょうね。でもね? 思い出して、あなたには願う権利がある」

「え?」

「ねえ、カルナ? あなたはどうかな、願いはある?」

 

 唐突に救世主はカルナに問う。目を瞬かせたカルナは暫し首を傾げてから、言った。

 

「無い……と、以前のオレなら言っただろうが、今はそうだな、まだ彼と共にいたい」

「へ」

 

 思わず間抜けな声が漏れた。それも全く意に介さぬまま、カルナは断言した。

 

「まだ彼の名を呼んでいたい。まだ、話したいことがたくさんある。聞きたいことも。オレがいなかった十年の話、才能の無い彼に魔術を教えた物好きな恩師の話」

「才能無くて悪かったな……」

 

 よく言った、と。セイヴァーは本当に楽しそうに、カルナの胸に手を翳した。

 するりと取り出されたるは金の杯。エミヤオルタが預けた、魔術王の残滓。その最後のひとつ。

 

「聞いたでしょう、アラヤ。今回の戦争でサーヴァントとマスター、ひと揃いなのはもう彼らだけ。彼らはこの聖杯戦争の勝者であり、願いを叶える権利がある。そして、私を守護者にしようなんて高望みのツケはまだ残っているでしょう?」

 

 彼にだけ払わせるなど許さない。

 ふわ、と聖杯に一陣の風がまとわりついた。空だったそこへ清らかな何かが満たされていく。最初よりずっとずっとたくさんの何かが。

 

「……君への負い目、罪悪感。それもまた人間ということだな」

 

 アーチャーがふと呟いた。皮肉を織り交ぜた視線はどこへともなく向けられている。

 阿頼耶識とは人類の総意思。そこに個人は無いが、意思である以上、人間である以上、それは決して物思わぬ冷たい機械ではない。

 

「でもね立香、このままあなたがこの世界とさようならしたいと言うなら、私は止めない。あなたへの救いは独りよがりにしたくないの。あなたが本当に望むことを。私と共に行きたいというなら、それでもいいでしょう」

 

 少女は優しく諭してくる。

 彼女が何かを理不尽に強制することは決して無かった。優しくもあったし、甘くもあった。多くのサーヴァントが彼女の捧げた肯定を喜びと共に受け入れていた、その気持ちを少年はようやく心の底から理解した。

 自分の胸に手を当てて、考えてみる。未来なんて最初に棄てたものだった。何も想像できない。そこにさらにカルナがいるなんてもっと訳が分からない。

 訳が分からないけど、それはとても、ああ、なんて幸福な――

 

「……立香、俺、まだ生きててもいいのかな?」

 

 声が震えるのを抑えられない。歓喜とは違う。戸惑いなのかもしれない。決して、悪いものではないけれど。

 む、と少女が唇を尖らせた。今度は怒っているのだろうか。何だか幼子にあれこれ言い聞かせる母親のようだ。

 

「何を今さら。私を救ってくれたあなたが生きてちゃ駄目なんて。そんなの私が認めないんだから」

 

 聖杯が差し出される。恐る恐る、少年は願いを口にした。

 全身から澱みが抜けていく。泥が洗い流されていく。獣と同期したことで巻き戻った肉体年齢はそのままに、髪も瞳も本来の色を取り戻していく。

 抜き去られた泥が集まって、小さな子供のかたちになった。すうすうと寝息を立てている黒髪の男の子を少女が抱きかかえる。

 続いてカルナから零れていた金色の光が止まり、消滅がキャンセルされたのが見て取れた。彼は数度手を握ったり開いたり、不思議そうに肉の身を確かめている。

 二つの願いを叶えて空っぽになった聖杯は、救世主の胸へと仕舞われた。

聖杯戦争は、ここに終結したのである。

 顔を上げた少女は晴れやかな顔で、さようなら、と別れを告げた。また、ではなく、さようなら。二度とこの世界に呼ばれることが無いように。二度と獣が生まれることが無いように。祈りを込めた別れの挨拶だった。

 そうして彼女は燐光の中、殊更明るく満面の笑みで手を振った。

 

「この子は私が連れて行く。さあ時間だよ、早くカルデアに帰らなきゃ!」

 

 

『立香さあああーーーーん!!』

「うげっふぅ! 痛い痛いルビー痛い! 手加減! カルナ助けて!!」

 

 飛びついてきたルビーをカルナが引っぺがす。これが愉快型魔術礼装……と興味深げに白い羽飾りを引っ張ってみたり柄の部分を持って素振りしてみたり。やめなさい魔法少女になりたいのか。

立香は施しの英雄に好き放題弄られているルビーを慌てて回収した。そのままあまりの無遠慮さに戦々恐々としているステッキを背に庇う。ちょっと残念そうなカルナである。

 たくさんの燐光が溶けていった空は、見えない星々に覆われている。昼の星。太陽光で掻き消されて、それでも確かにある輝き。

 じゃあ、と少年は呼吸を整えてから言った。

 

「俺達も帰ろうか、カルナ。遠坂先輩にボコられに行こう――一緒に」

「……ああ、一緒に」

 

 

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