時計塔の一室で、とある男がソファに腰かけ、長い黒髪を苛立たし気にかきむしっていた。
高級品と思しき重厚なオーク材のローテーブルに置かれた銀の灰皿には、フィルターまできっちり吸い尽くされた紙巻きの残骸が山と積まれている。室内の空気はどことなく靄がかかっているかのように見えたし、壁を埋める作り付けの書棚にも、毛足の長いカーペットにも、煙草の苦い香りが染みついてしまっていた。
失礼します、と澄んだソプラノが煙に濁った空気を揺らす。
静かに重い開き戸を開けた黒髪の女性は、まあ、と上品に海色の瞳を丸くした。
「吸いすぎではありませんこと? 窓も開けないで、息が詰まりそうですわ」
穏やかな口調とは裏腹に、彼女は凛々しい足取りで部屋を突っ切り、一つだけある出窓を勢いよく押し開けた。真夜中の冷たい風が彼女の白い頬を撫で、煙草臭い澱んだ空気を外へ連れ去っていく。
ソファの上で何やら書き物をしていた長髪の男は、その紙面から目を離し、眼鏡を外して眉間をぐりぐりと揉む。かと思えばテーブルに転がっていたシガレットケースに手を伸ばし――あっさりそれを闖入者に奪い取られた。
「吸いすぎではと申し上げましたが」
空を切った手を引き戻し、男は背後でにっこり微笑む女に苦々しい視線を送る。
「……吸わせてくれ遠坂、正直やってられん」
いいえ、と遠坂と呼ばれた女は頭を振る。彼女は男の受けたある報告の内容を知ってはいたが、落ち着いていた。
「藤丸くんは無事目標と接触できたのでしょう? なら大丈夫、あの子は私のお気に入りですもの」
あの青年は弱い。だが弱くても脆くはない。だから。
だといいがね。黒髪をかき上げ、ロード・エルメロイⅡ世は忌々しげに吐き出した。
第二章 本日の天気は晴れ時々ゴーレム、炎と落雷にご注意下さい
東の空が白んで、太陽が昇りきった頃合いだった。
どんがらがっしゃん、と騒々しい音が隠れ家の中から聞こえてきて、結界の構築を終えてから寝ずの番をしていたキャスターは思わず家の方を見遣った。
やがてよたよたと覚束ない足取りで這い出てきた黒髪の青年は、おはよう、としゃがれた声で朝の挨拶をしてきた。下ろした髪があちこち跳ねているし、シャツもよれてみっともない有様である。
「おはようさん。どうした朝っぱらから」
結界には一切反応がなく、サーヴァントが襲ってきたというわけではなさそうだ。暢気に問いかけたキャスターに、ひくつく頬を必死に抑えているらしい立香が苦しそうに愛想笑いを浮かべた。
「いやちょっと、うん、朝からとんでもないもの見ちゃったなーって、あはは」
とんでもないものとは。片眉を上げたキャスターに、立香は震える声で、立香が、と呟いた。
「マスターが、どうした?」
耳を寄せたところで、背後の引き戸が再び開いた。噂をすれば影、出てきたのは自分のマスターである。
「おはよ……ねむ」
くああ、と大きな欠伸を一つした彼女は白い簡素なワンピース姿で、おそらくはそれが寝巻なのだろう。
いかにも今起きましたといったゆるふわ加減のまま、マスターは目をこする。
「立香どうしたの~? なんかうるさいから起きちゃったよう」
「え!? い、いや何でも、そうだ虫! 虫がいてさ、でっかいのが! あでっ」
苦し紛れと傍から見ても分かる言い訳をかます彼の頭を、ばしんといつの間にか来ていたエミヤオルタが叩いた。彼もまた黒の上下のラフな格好である。
「噓をつけ。お前、そういうの平気だっただろう」
「~~~っ、うっさいな、アンタが悪い! 目が覚めたら正面に強面がいて、しかも立香抱きしめて寝てんだぞ!? 二重の意味でびっくりしたわ! 心臓止まるかと思ったわ!」
「慣れろ」
「無茶言うな!!」
立香と全く同じ感想を抱いたキャスターであった。そもそも添い寝に抱っこの必要はあるのだろうか?
「エミヤ、あさごはん何がいい?」
ふわふわのままのマスターだけが一人、立香の叫びをまるで無視して尋ねていた。
さて。
「ごちそうさまでした」
この国の作法を知っているキャスターは、空になった朝食の膳を前に行儀よく手を合わせた。皆で囲んだ囲炉裏には鉄鍋がかかっていて、もうほとんど残っていない味噌汁が湯気という残滓だけを吐き出している。
はい、お粗末様でした。そう言って上機嫌に破顔したマスターは手際よく片づけを始めた。昨日と似たようなシャツワンピースの裾を揺らしてまめまめしく動く姿は、先程の寝惚けた様からは想像できない程に洗練されている。
「簡単なものしか作れなかったけど、お口にはあったかしら」
ふと彼女が尋ねた相手はキャスターの向かいで茶を啜るランサーである。最初、食事は必要ないと言っていた彼だったが、皆で食べるご飯が好きなのだと言われてしまっては席につかざるを得なかったようだ。で、結局残さず平らげていた。
「ああ、大変美味だった」
単純だが心のこもった賛美に、マスターがちょっとはにかんで台所へと引っ込んだ。相当嬉しかったらしい。
「相変わらず美味しいよな、立香のご飯。俺は卵茹でるくらいしかできないから尊敬するよ……っと」
こちらもランサーの隣で満足げに腹をさする立香が、ふと何かに気づいて席を立った。
ぱたぱたと縁側を兼ねた廊下を小走りで去っていった彼は、ややあって一枚の紙を手に戻ってきた。
「立香、ロードからの連絡来たよ」
「あら本当」
皿を洗っていた彼女が手を拭きつつ戻ってきて、彼と共に紙面を覗き込む。
途端、二人の立香は全く同時に眉間に皺を寄せた。
「……マスター」
キャスターの隣でとうに食事を終えていたエミヤオルタが促す。既にスーツに着替えた彼の声は押し殺したように低い。
紙面から顔を上げ、マスターが口を開く。
「ちょっと、まずいことになった」
「あと二人協力者がいるって話、覚えてる?」
マスターの問いかけにキャスターは是を返す。頷いて、彼女は深刻な表情で告げた。
「その人達の居場所がバレた可能性が高い。一刻も早く救出しないと、マスター殺しに遭うかもって」
「さらに悪いことに、二人ともまだサーヴァントを召喚できてないらしい。何でもここに来るまでにも何度か襲われてて、その対処のせいで魔力が足りてないんだそうだ。仮に召喚できたとしても、奪われたらかなりまずい」
後を引き取った立香も半分青ざめている。
マスター殺しだけならまだいい。それが令呪を奪われ、果てはサーヴァントを奪われることになれば最悪だ。今回の聖杯戦争は実質二つの派閥による団体戦であるため、こちらの駒が取られればそれだけ不利になる。この場の全員が張り詰めた空気を感じていた。
「あちらの動向は」
質問したのはエミヤオルタである。が、マスターは唇を噛みしめ首を振った。
「駄目。魔術師だけならともかく、アサシンは全くもって掴めないって。今まで襲撃をしのげたのは奇跡だけど、きっと次は防ぎきれないってアーチャーのマスターが言っているのだって」
「さらに向こうにはセイバーがいて、バーサーカーも未だ真名すら分からない状態……まずいな」
黒い弓兵の呟きが、事態の緊急性を如実に表していた。
とにかく、とマスターが紙をルーンで燃やしてから宣言した。
「救出しましょう。こちらも二手に分かれて一人ずつ救けるのが最善だと思うのだけど、どう?」
キャスターに異論は無かった。どちらかを救けてどちらかを見捨てる、という選択肢もあったが、マスターはそれを許すまい。優しい彼女に何かを切り捨てることができる訳もなかった。そしてキャスターは、主の方針に異を唱えるつもりは元より無い。
ちらとエミヤオルタを窺うと、彼は何やら考え込んでいたが、やがて肩を竦め頷いた。どうせさっき自分が一瞬考えたように、片側に戦力を寄せた方が確実とかそんなことを思案していたに違いない。しかしそれを口に出さないあたり、彼もまたマスターの性質をよく分かっているようだった。
「じゃあ、やろうか。とりあえず俺とランサーでライダー陣営に向かうから、そっちはアーチャーの方に向かってくれ。触媒があることからして、ライダー側にセイバーが来る確率が高い」
引き締まった顔つきで立香が言う。触媒、となると、ライダーの方はもう喚ぶ英霊が決まっているようである。おそらくそれもバレている可能性が高い。こう情報を掴まれていては、触媒の情報ですら隠しきれているとは限らないのだ。
こうして、ランサー主従がライダー陣営、キャスター主従及びエミヤオルタがアーチャー陣営の救出に向かうこととなった。
*
この谷は実はY字型になっていて、途中で二本の川が合流している形なのであった。隠れ家を出たキャスターはすぐにそれを知ることとなった。山沿いに移動を続けていたら突然その山が途切れて、川の合流地点に辿り着いたからだ。
そこから西へ暫く狭い平地を突っ切り、もう一本の川を横切り――遮蔽物の無い場所のため最大限の警戒を行いながら――辿り着いたのは小さな小さな木造の小学校であった。
「……ここまで、何の妨害も無かったね」
校門の前で、ひそりとマスターが囁く。既にスイッチが入っているようで、その瞳は強く戦場になるかもしれない校舎を睨んでいた。
黒い弓兵が、投影した銃剣を携え頷く。
「まだ来ていないか、それとも、もう終わったあとか……前者であってほしいがね」
校舎のぐるりは結界に覆われ、中の様子を窺い知ることができない。不気味な程静かな木造の建物を望みながら、キャスターはその結界に手をかざし、そうしてエミヤオルタの言葉が完全に裏切られたことを知った。
「……マスター。この結界、破れてるぜ。こことは反対側に一つでかい穴が開いてる」
「っ、じゃあ」
「ああ、急ぐぞ」
杖を振りかざし、尖った先端で乱暴に結界をぶち破る。既に穴が開いて綻び始めていた結界が完全に消滅したと同時、校内から凄まじい魔力が迸った。
召喚式だ。嫌な予感が悉く当たる。
全員無言で駆け出した。途中からエミヤオルタがマスターを抱え、移動速度をサーヴァントのそれに合わせる。
狭い校庭を囲む塀に沿って校舎へ向かう。
半ばまで来たとき、ごぼりと校庭の赤土が盛り上がった。
隆起した土は固まって形を成し、やがて幾多のゴーレムへと変貌を遂げた。その身の丈、およそ三メートル。中心に赤い鉱石が妖しく光る。
「排除!!」
マスターの号令を受け取り、キャスターが先行する。
移動速度を落とさぬまま、ルーンを組んで火球を放つ。腕を振り上げた正面の二体が火に包まれ爆散した。その破片と火の粉の中を駆け抜ける。
左側から迫る土塊の人形の核が、銃声と共に砕けた。土に還るそれに見向きもせず、キャスターは右から襲い来るゴーレムを焔を纏った杖で薙ぎ倒す。
際限なく増え続けるゴーレムに弓兵が舌打ちしたが、土間まで到達するとぴたりと彼らは追撃を止めた。そもそも彼らの巨体では建物内への侵入ができないし、下手に壁を壊せば建物自体が倒壊する恐れもある。それを見越して敵はゴーレムを止めたのだ。
つまり、ここからは別の手で来る。
薄い窓ガラスから射し込む陽光が、その別の手を浮かび上がらせた。
「……用意周到すぎんだろうがよ」
思わずキャスターは呟く。
待ち構えるは骨の群。かたかたと不気味に蠢く異形の骸骨。もう数えきれない程のそれらが狭い廊下を埋め尽くしていた。
竜牙兵、とマスターがその名を呼んだ、同時に骸骨どもが一斉に襲いかかってくる。
「エミヤ、キャスターと前後交代」
「……忙しいな」
ぽい、と雑に下ろされたマスターをキャスターは慌ててキャッチした。それを尻目にエミヤオルタが進み出て、空いた手にもう一つ銃剣を投影する。キャスターの手から離れたマスターがその背後で指を拳銃のように構えた。
この狭い室内で炎の魔術を行使するリスクはキャスターにも分かる。分かるが、この数をほぼ一人で殲滅するつもりか。
「貴様はあまり手を出すなよ、マスターの防衛に徹しておけ。こんなところで火事を起こされては堪らん」
よく燃えそうだからな、と男は嘯く。
そして、銃口が火を噴いた。
その男はまるで機械のようであった。
的確に、最も近く最も脅威となる敵から素早く弾丸を叩き込んで砕いていく。歪な頭部を蹴りで吹っ飛ばしたかと思えば、すぐ隣の骸骨の背骨を撃ち砕く。裏拳の要領で薙いだ反対側の腕の銃剣が、いつの間にか迫っていた骸骨を両断した。迷いのない動きは全て無駄がなく、効率を重視した最適解であった。
それでもまだ蠢く骨の群。そこに、銃弾と共に黒い魔術が飛ぶ。
「ガンド!!」
マスターの指から放たれたそれが、黒い弓兵の死角にいた竜牙兵の動きを止める。彼の対応が間に合いそうにない敵だけを見定める眼力にキャスターは舌を巻いた。
そして全員歩みは止めない。最低限の敵のみを倒してひたすら前へ。
追い抜かれて踵を返し向かってくる骸骨は、後衛に下がった自分の担当だ。
「おら、よっと!!」
火炎弾は撃てない。ならばと先程と同様に焔を帯びた杖を槍のように振り回して竜牙兵を薙ぎ倒していく。なんだ、意外とこのクラスでも肉弾戦はできるじゃねえかとキャスターは口角を吊り上げた。
しかし当然、
「――ハッ、下手くそめ。基点くらいちゃんと隠しとけや!!」
ごん、と一見何も無いように見える壁を殴る。
途端に竜牙兵の何割かが崩れ落ちた。驚いたようにこちらを見るマスターに獰猛に笑いかけて、キャスターはまた新たにこの召喚式の基点を探る。
まだ一つ。この校内に張り巡らされたトラップである召喚式の基点は多いが、少なくともあと三つはこの領域に隠れている。そして隠し方が杜撰だ。適当に過ぎる。ゴーレムは丁寧にできていたがこちらの竜牙兵は手抜きであった。ゴーレムを過信していたのか、この兵士を造るのが専門外なのか、知ったことではないが好都合だ。
「もう少しキャスターらしく壊せないのかね」
「うっせ、探すとこまではキャスターっぽかっただろ。殴る方が早いんだよ」
「な、何にせよちょっと楽になったよ、ありがとうキャスター」
ため息混じりに揶揄するエミヤオルタにはまだ余裕があるし、マスターも息を切らしているが元気なものだ。これなら切り抜けられる。
まだ大量に蠢く骨どもに、三人はそれぞれの得物を構えた。
「この辺りだよね、キャスター分かる!?」
「この下だ、ぶち抜くぞ!!」
「掴まれ!!」
木の床とその下のコンクリートに魔術一発で大穴が開き、そこへ飛び込む。竜牙兵は追ってこない。
凄まじい破壊音がして、キャスターと、マスターを抱えたエミヤオルタは地下室に落ちた。
土埃が視界を満たす。それを銃剣で斬り払った弓兵が、舌打ちした。マスターの息を呑む音が聞こえた。
「遅かった。見ろ、腕が無い」
叩きっぱなしのコンクリートにうつ伏せで横たわる一人の男性。周囲は真っ赤に汚れていて、床に描かれた白い魔法陣の一部を潰してしまっていた。
ざわり、殺気が肌を撫でる。
ぱちぱちぱちぱち、と。いっそ場違いに思えるような拍手が鳴った。
「素晴らしい、素晴らしいわ。よくぞその少人数で我が術式を切り抜けたものです。褒めてあげましょう、『ビースト』。貴女、なかなか見所があるわ」
女が一人、パイプ椅子に足を組んで腰掛けていた。
愉悦と侮蔑の滲む笑みを秀麗な顔に浮かべた、長いブロンドの髪の妙齢の女である。膝下まである長袖のタイトワンピースを纏い、豊満な胸の下で腕を抱えていた。左手には、奪い取ったと思しき令呪が赤く浮かんでいる。
蛇のようだ、と感想を抱く。
この女、絶対面倒な性格してやがる、とも。
そしてその背後。実体化はしていないが、確かにそこに『アーチャー』がいた。
最悪だ。結局こうなるんじゃねえか。キャスターは歯噛みする。
「さてと、アーチャー? 外野気取ってないでさっさと出てきなさい。私に手間を取らせないで」
ゆらり、彼女の背後にサーヴァントが現界する。
――ああ、やっぱり会ってしまった。あの赤い弓兵に!
腐れ縁はここでも健在か、と内心うんざりしながら、キャスターはその赤い外套の男を睨みつけた。
彼は静かに微笑んで――それは彼にしては珍しく、皮肉も嫌味も孕んでいない素直な微笑みであった――こう言った。
「久しいな、
その瞬間、おそらく驚愕したのはキャスターだけではないだろう。
今アーチャーのマスターである女も、またその長い睫毛に縁取られた瞳を皿のようにして彼に振り向いたのだから。
「……うん、久しぶりだね、アーチャー」
己の背後で、夕焼け色の女が応じる。
「随分髪が伸びたな。背も少し伸びたか……ああ、何年経っているのかね?」
「十年だよ、アーチャー。あれからもう、十年経った」
そうか、と赤い弓兵が言葉を落とした。
そのとき、ようやく衝撃から我に返ったらしいアーチャーのマスターが声を荒げた。
「何よ貴女、アーチャーの元マスターってわけ!? あは、皮肉なものね、今は敵同士だなんて!」
最後に嘲笑った女に、しかし会話を行なっていた二人は見向きもしない。
「さてマスター、残念なことに私には令呪で規制がかかっていてな。この現在のマスターに『危害を加えることができない』。よって、
「っ、黙りなさいアーチャー! これ以上情報をバラすなら――」
「令呪を以てお喋りな口を縫いつける、かね? 好きにするといいが、そんなことに使ってしまっては令呪が勿体なかろう」
何だいつもの弓兵か。聞いているだけで分かってしまってますますうんざりしたキャスターだが、ふと違和感を感じて思考回路を動かした。何か重大な点を見落としている気がする。
『マスターに危害を加える』ことができなくても、彼には投影魔術がある。あの魔女の宝具がある。ならば裏切るのも容易いだろうに、何故今の今まであの女の言いなりになって配下に甘んじている? 何故、キャスター達が来るまで――違う。
この男は、自分達が来るのを待っていたのだ。
ではそれは何故か。簡単だ、自分達が辿り着く前に一人はぐれサーヴァントと化すことが、弓兵にとって不都合だからに他ならない。
魔力の問題ではない。召喚したての、しかも単独行動スキル持ちがそんなことを気にする必要はこれっぽっちも無い。
ならばそれは――思い至った結論に、キャスターは全身の血が騒ぐのを感じて咄嗟にマスターを庇って杖を構えた。
それと、全く同時。
天井から影が降ってきた。
「……っ!」
「ハッ、そういう、ことかよ……!」
落ちてきた刃を杖が受けて耳障りな音を立てた。眼前で、小柄な赤毛の少年が片側だけ見える緋色の目に僅かな驚愕の色を宿す。
即座、振り払った杖から素早く距離を取ったその少年は、醜く歯噛みする女の傍らに控えた。灰色の室内に揺れる紅い襟巻が、いやに目につく。
「……よく、気づきましたね」
少年がやや感心したように言った。その手には黒光りする短い刃物――苦無と呼ばれる東洋の武器である。
そりゃあな、とキャスターは杖を肩に凭せ掛け苦々しく吐き捨てた。
「そこのよく裏切る赤い馬鹿が今までお人形さんでいたんだ、ちっとは怪しむさ」
「聞き捨てならんな貴様。馬鹿とは何だ馬鹿とは」
「よく裏切るのは否定しないのかよ」
事実だからな、とあっさり認める赤い弓兵。
そういうところが大変カンに触るのだが、無視してキャスターは臨戦体勢をとった。
――相手がただの魔術師だけなら、アーチャーだって遠慮なく契約破棄していたはずだ。さっきこの弓兵は『藤丸立香を守るために現界した』と言った。理由はまだ判然としないがおそらくエミヤオルタと同様守護者としてなのだろう。ならば望まぬ契約を続ける意味がない。
それでも待っていたのは、脅威があったから。一人で戦うにはリスクが大きいから。
つまり。少なくとも一人は、向こうのサーヴァントが控えているからだ。
「……行きなさいアサシン。貴方の役目は終わりです」
襲撃の失敗に肩を震わせ怒る女の指令通りに、アサシンのサーヴァントが霊体化して姿を消した。途端に気配も掴めなくなる。高ランクの気配遮断スキルを持っているようだ。
「……キャスター」
不意に、マスターに呼ばれた。
目だけで返事をすると、何かを決意したような強い眼差しが己を射た。
「アサシンを追って、排除を。ここは私とエミヤで何とかする。
――あなたなら、気配が無くても追えるでしょう?」
「……っ!」
ぞくり、背中が興奮に粟立つのを感じた。
不敵に笑う彼女に、底知れぬ高揚を覚えた。
キャスターならできると彼女は言いきった。それは主人が己に向ける、全幅の信頼。
これで高揚しない従者がどこにいる!
「ああ、任せとけ」
彼女と同じ、不敵な笑みを浮かべる。
すぐさま霊体化し、アサシンを追った。
*
「――あはっ、あははははははははははははははは!」
哄笑が、冷えたコンクリートに反響して喧しい。
「バッカじゃないの、サーヴァントを自分から離して! これで貴女の守りはそこの黒いのだけ! ふっふ、ふふふふ、さあアーチャー、殺しなさい、殺して死体を回収するの! ビーストは私達の物よ!」
両手を広げ、高らかに命令し、宣言する女。
しかし、彼女をつまらなそうに眺めていたアーチャーは、
「断る」
あっさり、その命令を拒絶した。
「……え?」
ぽかん、と。彼女の顔にあった傲慢と歓喜が根刮ぎ抜け落ちる。
「断ると言った。生憎、私は今回彼女を守るために現界している。どこぞの魔術師が令呪を奪わなければもっとスムーズに事が運んだのだがね。よって彼女を殺すなど以ての外だ。というか先程の遣り取りで分からなかったのかね? 君は存外頭が回らないようだな」
赤い弓兵は悪びれもせずすらすらと言葉を吐き出す。立香は嬉しさ半分、同情半分の複雑な気持ちでその様子を眺めていた。アーチャーとはこういう男である。特にプライドの高い連中は軒並み彼の言動に神経を逆撫でされるのだが……些かやり過ぎじゃないかと思えてくる有様であった。
あまりの物言いに暫し我を忘れていたらしい女であったが、次第に憤怒に顔を歪ませていく。
怒髪天とはこのことである。ブロンドの髪を振り乱し、彼女は金切り声で命令を繰り返した。
「黙れ黙れ黙れ! 殺せと言っているのよ、従いなさいアーチャー!!」
きん、とその左手に宿った令呪が赤く光って、二画目が消費された。
が。
「……さて。マスター、そちらへ行っても?」
「はえ? あ、うん、いいよ」
何食わぬ顔でのんびり歩き、殺気ゼロで立香の前に立つ錬鉄の英雄。
そうして彼はくるりと振り返り、誠にいい笑顔(とても愉悦と軽蔑と嘲弄を混ぜた笑顔)で、右手に歪な短剣を取り出した。
あ、と立香はそれの正体に気づき間抜けな声を漏らす。
「これはたいして殺傷能力の無い短剣だがね、ありとあらゆる契約を無効化する代物だ。名を、
黒い弓兵が呆れている。理解の追いついていないらしいブロンドの女に、赤い弓兵はさらっと言ってのけた。
「先程君が下品に高笑いしている最中に、自分に使わせてもらった。確かに君に危害を加えてはならなかったが、自傷行為は認められていたようなのでね」
つまり現在この私は、晴れて主を捨てたはぐれサーヴァントである、と。
やっぱり誠にいい笑顔で宣言したアーチャーであった。
*
山中に炎が走る。
「――!」
一際大きな火球を自らの眼前に進路を妨げるように撃ち込まれ、足を止めたアサシンは実体化して振り向いた。
ひゅん、と杖を回し、地面に突き立てたドルイドは獰猛に笑う。
「気配遮断ってなたいしたもんだがよ、お前さん色々見落としてるぜ? 何も探す材料は気配だけじゃないってこった」
その人差し指が指す先は、アサシンの左腕。
そこに
加えてアサシンは与り知らぬことであったが。
キャスターが操る原初のルーン、十八字のその中に、失せ物探しにもってこいな一字がある。
「さらに、ベルカナ。悪いが二重三重に策を張らせてもらったぜ」
彼の足元に転がった宝石は、出立直前にマスターから預かったルーンストーンのうち一つ。丁寧に刻まれた探索のルーン。
「…………」
少年は確実に気づいていた。今己を囲む異様な空気、それは間違いなく目の前の魔術師によって構築された即席の結界である、と。
したがって彼は撤退を諦め――目の前の敵を排除することに決めたようだ。
その姿が、消える。
「っ!」
凄まじい敏捷性を以て背後に回ったアサシンの苦無を、キャスターは咄嗟に振り向いて杖で受けた。数合打ち合ったあとキャスターは大きく距離を取ってルーンを刻む。虚空に浮かび上がる青いルーンはアンサズの文字。火炎弾が大量に放たれるが、その悉くをアサシンは躱してみせた。伸びた距離を縮めんと彼は走る。
このアサシン、力はそれ程無いがひたすらに速い。キャスターは舌打ちを一つしてさらに後ろへ下がった。
クー・フーリンは最速の英霊の一人である。ランサークラスの現界であれば遅れをとることはなかろうが、残念なことにキャスタークラスの場合敏捷値は大きく下がる。その点に関してはアサシンに軍配が上がった。
だが彼は今、『ドルイド』である。
ケルトの魔術師。森の賢者。であれば、武器は何もルーンだけではない。
「アンサズ!!」
再び放たれる火球を容易く躱し、アサシンが地を駆ける。
凄まじい勢いでその手の鎖鎌がキャスターの首を搔き切る、一歩前で。
ぎちりと小柄な体躯を伸びてきた何かが搦め捕った。
「戦う場所が悪かったな。オレは魔術に関しては元々ただのルーン使いだが、ケルトの術者ってのは多くがドルイドでね。その属性がくっついたオレも当然、こういうことができる訳だ」
一ミリたりとも動けずにいるアサシンを巻き取っていたのは、地から伸びる木の根であった。
森はドルイドの領域なのだと、それさえ知っていれば逃走経路に山中など選ばなかっただろう。アサシンの敗因はただ一つ、地の利である。
さて、とキャスターは少年を覆う根にルーンを刻もうとして――気づいた。
いつの間にかアサシンの手には丸いものが握られていた。そこから伸びる導火線に火がついている。
本能のままに全力でキャスターは退がった。直後、花火のような爆発音が響き渡り、アサシンが煙に包まれる。
自爆かと思ったが、違う。目の前の煙の中にはまだあれがいる。
「即ち此処は阿鼻叫喚、大炎熱地獄……!!」
ざわざわと森が騒いでいる。何かとても良くないものがくる。
キャスターが身構えたその瞬間、真名解放の一声が森を震わせた。
「――『
轟、と炎が渦巻く。キャスターの生み出すルーンの炎ではない。不穏な揺らめきを纏った大量の焔がキャスターの周囲を取り囲む。
煙の晴れた先には折れた木の根ばかりが転がっていて、アサシンは忽然と消えていた。
「……んだよ、これ」
気配を感じる。魔力を感じる。一つ、二つ、三つ四つ五六七、まだ数えきれない程――!
「我が名は風魔。風魔小太郎。異国の術師よ、我ら風魔忍群、全力を以てお相手しましょう」
その総数、二百。
キャスターを取り囲む焔の中でゆらりと躍る、亡霊に近い忍びの集団。
その中でただ一人、風魔小太郎が紅い襟巻を靡かせ叫んだ。
「貴様は此処より退くこと能わず。辞世の句でも詠んでおけ……!!」
「くっそが!」
悪態ばかりが口を突いて出る。それも仕方のないことだった。キャスターから数十メートル離れた円周上に揺れる忍びの亡霊は、四方八方から焔を纏って襲いかかってくる。捌くのが精一杯で本体の風魔小太郎に集中できない。ジリ貧という言葉が頭に浮かぶ。
悪いマスター。心の中で、キャスターはこっそり謝った。
あの忍びの言う通りにここで果てるからではない。彼女の少ない魔力を、これからかなり食い潰すことになるからだ。ゲイ・ボルクであればもっと省エネだったのに、と歯噛みして、また槍が欲しくなる。
だが無いものは無いのだ。代わりに与えられたのは、ドルイド達を象徴する宝具。
杖を回し、地に突き刺すが如く垂直に打ち立て、魔力を魔術回路に大量に回す。
「……我が魔術は炎の檻。茨の如き緑の巨人」
キャスターの纏う雰囲気が一変したことに気づいたのか、一斉に風魔が襲い来る。それらを全て、足元に張った風の陣を起動して吹き飛ばした。回避行動の最中に術式を組むのは骨が折れたが、おかげで時間稼ぎは十分だ。
「因果応報、人事の厄を浄める社――!」
杖の先、落ち葉に覆われた地から木の枝が伸びる。絡み合い、纏まり、離れて、形を作る。
ドルイド達の呪術道具。その身の内に生贄を籠めて燃やす、木々の巨人!
「倒壊するは『
足元で燃え盛る炎を踏み潰し、巨大な木の人形が立ち上がった。
木立のさらに上、巨人の肩に乗るキャスターは遥か地上を睥睨する。
驚愕に緋色の瞳を見開いた忍びが、すぐに配下を差し向け果敢に巨人に挑んだ。しかし彼らの一撃は、宝具を構成する木を一本ずつ砕こうとするものの巨人そのものを崩すには至らない。
お返しだとばかりに巨人の歪な手が伸びる。足が持ち上がり亡霊を踏み潰さんと迫る。
そこを逃れた少年は、再び瞠目した。
「な――」
逃走した先で背にした木の枝が急激に伸び、幹に彼を縛りつけた。亡霊どもが助けようと寄りつくが間に合わない。
その木ごと巨人の手が掴んで、空いた腹に投げ入れる。ここに、生贄は決まった。
ぐらりと風魔を籠めた巨体が力を失い、炎の中へ倒れ込んだ。
轟音と衝撃が地を震わせ、地震でも起きたかのようなその様に森中の鳥が驚いて飛び立つ。
――亡霊が揺らぎ搔き消えた。
炎の中、地に足をつけたキャスターは、既に山火事になりつつある巨人の残骸に目を向ける。既に魔力の反応は無い。青い長髪が炎熱の作る気流に煽られた。
「……言ったろ、戦う場所が悪いってよ」
返事は、無かった。
*
キャスターとアサシンが交戦を開始したのと、ほぼ同時刻。
「…………」
俯き一言も発さなくなってしまったブロンドの女の様子を、立香はじっと窺っていた。
こういう手合いはだいたいの場合、制御不能になり手がつけられなくなるのだが、どうも不気味なまでに静かすぎる。警告を発し続ける頭が疲れと緊張で痛んできた。それでも、その場を動けない。いっそ異様な空気が狭い地下室を満たしている。
「……マスター、悪い報せがある」
突然、アーチャーが口火を切った。
「召喚されたのは私だけではない。先程キャスターが言っていたが、唯々諾々と従っていたのは、敵わないと分かったからだ。あれは本当に、今回最強かもしれん」
「……アサシン以外に、サーヴァントがいるの?」
前を見据えたままアーチャーが首肯する。
だとすれば、残るサーヴァントはあと二騎。ライダーか、バーサーカー。
「……殺せ」
何一つ感情のこもっていない声であった。
殺せ。殺せ。殺せ。無感動に、そして無慈悲に。女は繰り返し命じる。
かと思えば、突如声を荒げて絶叫した。
「殺しなさい、ツヴェルフ。召喚は終わったのでしょう!」
――かつん、と靴音が聞こえた。
彼女の背後にある錆びた鉄扉が、軋みながら開く。
そのドアノブを持っていた者を目にした瞬間、立香の全細胞が一斉に警鐘を鳴らした。
あれは駄目だ。絶対無理だ。
おかしい。有り得ない。あれは確かに強かったが、
「……あらあら、まあまあ」
艶やかな黒髪を靡かせ、鎧武者が優美に歩く。彼女が歩を進めるたびに、薄紫色の礼装に包まれた豊満な胸が揺れた。
隣に並んだ彼女に、ブロンドの女は高慢に刺々しくまくし立て、
「バーサーカー、ツヴェルフはどうしたの? 私が命じているのだから顔を見せろと伝えなさ――」
最後まで、言えなかった。
立香は戦慄した。抜刀の動作すら見えなかった。気がつけば、女の左胸を妖しく輝く日本刀が貫いていた。
こぷり、女が血を吐いて、茫然と己の胸から生える刃に視線を落とした。
「な、に……? なに、これ……?」
血と共に零れた言葉に、だって、と穏やかに微笑んで頬に手を当てた武者が言う。
「その手にあるのは令呪でしょう? でしたら、あの子の敵ではありませんか」
彼女はのんびりと一画だけ残った令呪を指差す。
アーチャーに使いきっていれば、と思ってももうどうしようもない。ずるりと刀が抜き取られ、ブロンドの女は崩れ落ちた。
「……あら、そちらの方」
ひゅう、と歪に息を吸う。
藍色の双眸が己の右手に向いている。
にげなければ。
にげなければいけないのに。
からだが、うごかない。
「そちらの手、令呪がございますね?」
紫電が散った。
雷を纏った刀の鋒がアーチャーのクロスした陰陽剣と激突したのと、エミヤオルタが立香を抱えて退いたのがほぼ同時であった。雷電の空気を割る鋭い音の中に、剣の罅割れる不吉な音が混ざる。
「「マスター!!」」
二人の弓兵の絶叫で、硬直が解けた。
素早くオルタにしがみつけば、それを確認したと同時にアーチャーが渾身の力で壊れかけの双剣を振り切り、刀を弾く。直後に剣は砕け散って魔力へ還った。
追撃が来る。二人の弓兵は同時に地を蹴った。天井の穴へと吸いこまれる三人の足元で、極太の紫電が迸るのを立香は唇を噛みしめて見下ろしていた。
「逃がしませんよ?」
一階廊下に何とか着地した瞬間、にこやかな宣言と共に紫電が飛んだ。今度の雷は垂直に噴水の如く床の穴から噴出し、一階の天井をぶち抜いてまだ止まない。真名解放を伴わない、ただの魔力放出である。なのに並の宝具レベルのこの威力。まるで紙を引き裂くが如く、木造の校舎が破断されていく。
律儀に廊下を辿って脱出している暇など無い。薄い窓ガラスを叩き割って校庭に出た三人は、しかしつい数十分前に生み出されていたゴーレムの群れと再び遭遇することとなった。無機質な視線が一斉にこちらに向く。
そのとき、二人の弓兵に指示を出そうとした立香は、突然増加した魔力消費に瞠目した。
「――ぐ、う」
急激な消耗にぐらりと目眩がする。力が吸い取られる感覚に覚えがあった。何度も何度も経験した感覚だ。
同時にばきばきと生木を裂く騒々しい音、そして、西の森から巨人が身を擡げた。
「ウィッカーマン!? キャスターめ、マスターの負担を増やしおって!」
アーチャーが憎々しげに叫ぶ間にも、ゴーレムが迫り来る。
さらに背後から紫電がビームのように飛来する。
「前門のゴーレム、後門の雷……」
思わず立香は呟いた。その頭上でエミヤオルタが鼻で笑う。
「虎と狼の方がまだマシだな。だが前門の方は切り抜けられる」
「そう、だね。二人とも、とにかくここから離脱します。キャスターには私が頼んだのだから、しっかりアサシンを仕留めてもらう。そのあと合流しよう」
「了解した」
「ああ。掴まっていろよマスター、少々荒っぽくなる」
その言葉に立香が頷いたのを皮切りに、二人の移動速度が爆発的に上がった。
倒す時間も勿体ないと言うように、彼らは攻撃をひたすらに躱し、進路上に立ち塞がるゴーレムだけを赤い弓兵が排除する。立香はただ黒い弓兵のジャケットに必死でしがみつき、足枷にならぬよう身を縮こめて耐えた。
その間にも背後から魔力放出の波が来る。雷の形をとって地平すれすれを超速で這うそれがゴーレムを巻き添えにして襲いかかる。元より防御などできる訳もなく、その度に二人は回避行動をとった。
直近の塀までたった十秒程度であったにも関わらず、まるで何十分も走っていたような錯覚に捕らわれる。ようやく到達した校庭を囲む塀を二人の弓兵が跳び越し、着地と同時に再び走り出す。
ちょうどそこで、キャスターの宝具が倒壊していくのが立香の激しく揺れる視界の端に写った。ついで轟音と衝撃が地を揺らす。
ここだ。立香は残り少ない魔力を必死に遣り繰りして念話を繋いだ。
「キャスター聞こえる!?」
『おうマスターか。今ちょうど終わったぜ』
返ってくる平然とした思念に安堵しつつ、立香は叫んだ。
「セイバーじゃないけどやばいのが来た! 今エミヤとアーチャーと撤退してるけど、まだ追撃が――うあっ!」
頭上を極太の紫電が駆け抜けていった。オゾンの匂いが鼻をつく。
とにかく、と立香は指示を飛ばす。
「私の位置は分かるね? すぐ合流して、逃げるよ!」
『了解だ。さっきは悪かったな、マスター』
「……次はちゃんと言ってくれるとありがたいかな。私も結構ポンコツだからね」
おう、と苦笑混じりの軽い返答で念話は切れた。
さあ、あとは逃げるだけ――という立香の考えは。
その瞬間、いとも容易く裏切られた。
「追いかけっこはお終いですか?」
いつの間に、とか、どうやって、とか。そんな疑問を抱く余裕も無かった。
眼前で嫋やかに微笑む鎧武者は、その表情とは逆に氷のように冷たい輝きを放つ刀をすらりと抜いた。
詰みである。二人の弓兵では絶対に埋まらない戦力差を鑑みても、追いつかれないよう振り切ってしまうのが唯一の生存ルートであった。故にこれではどうやっても、生き延びることなど不可能だ。
――いいや。
駄目だ。立香は湧き起こる諦観の念を轢き潰す。
まだ死ねない。まだ死ぬ訳にはいかない。まだ務めを果たせていない。
だが、そのとき。不意に狂戦士がぴくりと身動いだ。
「……え?」
心底意外だと言わんばかりの呟きがその口から漏れる。追撃は来ない。化物のような重圧が、ほんの少し和らいだ気がした。
時間にしてほんの数秒、しかし永遠とも思える沈黙が場を支配する。
――やがて彼女は刀を収めると、戸惑いながらも口を開いた。
「本日は見逃せと、あの子が言いました。私と致しましてはここであなた方を潰してしまうのが一番良いと思うのですが……まあ、いいでしょう。去りなさい、二度とこの領域に足を運ばぬよう」
ふっとその姿が搔き消える。重圧が消え、気配が去っていく。
「……助かった?」
「そのようだな」
立香の声にアーチャーが同意し、そうして全員、糸の切れた人形のようにその場に頽れた。
「何だあれは。あんな化物が隠れていたのか」
立香を抱えたまま、深い深いため息を吐いてオルタがぼやく。それに答える形でアーチャーが言った。
「私を召喚した女は一人ホムンクルスを飼っていてな、そいつに召喚をやらせたらしい。まあその結果があれだったんだが」
「な、何にせよその子が私達を見逃せって言ったんだよね。次会ったらお礼言わなきゃなあ……」
「能天気すぎないかね」
「礼儀は大事だよアーチャー。さ、見逃してもらえたんだから早く立ち去ろう。いつまでもここにいたらまた雷が落ちる」
立香の一声で二人の弓兵は緩慢に立ち上がった。そのとき、見知った気配の接近を感じて立香は顔を上げる。
「っと、無事だな。逃げきったか」
何食わぬ顔で現界したキャスターは、三人の疲労困憊した顔を見比べ首を捻った。
「そんなにおっかねえ奴だったのかよ」
「正直言って二度とお目にかかりたくない。知名度補正の真の恐ろしさを知ったよ」
赤い弓兵が肩を竦める。それを聞いていた立香は、ああやっぱり知名度補正のせいかと黒い弓兵の腕を離れながら納得していた。
それから全員足早に学校から離れ、元の隠れ家までの道すがら、山中でふとキャスターが尋ねてきた。
「知名度補正があるってことは、そのバーサーカーは日本の英霊ってことだよな。オレァあんま詳しくねえけど、真名は?」
答えかけた立香の耳に、電子音が飛び込んできた。
慌ててシャツワンピースの腰ポケットから取り出したスマートフォンは、その画面に『立香』と映している。
戦闘中は電源を切っていた、そして先程起動させた文明の利器である。とはいえもう一人の立香とエミヤオルタの番号しか入っていない、実質無線連絡機みたいなものだが。
通話ボタンを押して耳に当てると、聞き慣れた声がスピーカーから出た。
『もしもし立香? そっちはどうなった? なんかウィッカーマンが見えたけど』
「あらそっちからも見えたの……ごめんなさい、アーチャーはこちらにいるのだけど、マスターの方は駄目だった。キャスターがアサシンを倒してくれたけどね」
そっか、と返ってくる声音は落ち着いている。
『悪い、俺の方も間に合わなかった。来たときにはもうマスターが殺されてて、令呪も奪われた。ライダーは確認できてないけど、触媒が無くなってたんだ』
「……召喚前に襲撃され、令呪と触媒を奪い取られた」
『おそらく。ライダーはあっちの戦力だと割りきった方がいい……ごめん立香、俺』
「仕方ないよ。そちらにセイバーは?」
『いなかった。俺とランサーが辿り着いたときにはもう、もぬけの殻だったんだ。もしかしたら夜の間に襲われてたかもしれない』
「了解。なら二人とも怪我は無いんだね」
『ああ。立香は?』
言われて三人のサーヴァントを見る。全員、魔力の消費は激しかっただろうが外傷は少ない。これならば自分の治癒魔術で十分だろう。
「こっちも大丈夫、大きな損害は無いよ。でもちょっと、まずいことになった」
『……何があった?』
深刻な問いかけに、少し間を置いてゆっくりと告げる。
「――バーサーカーに遭遇した。真名は、源頼光。ただでさえ強いのに知名度補正で化物と化した、母性に狂ったサーヴァントだよ」