『それ』はずっと憶えていた。
「あは、はははははは! すごいぞ、カルデアの奴等の理論は間違ってなかった! これが複合英霊! 素晴らしい、素晴らしい! さあ殺せ、あの『ビースト』を殺して持ってこい!」
忘れないことこそが、『それ』が復讐者たり得る証であった。
いつかは忘れるものを、時とともに風化し薄らいでいくものを、その凄まじいまでの憎悪と憤怒にて留めおく。そうしていつからか、他の記憶もまた忘れぬまま抱いてきた。
『それ』は忘れない。決して、絶対に、忘れることはない。
だから、まずあの故郷の黄昏の色を探した。生きているときはそんな色など分からなかったけれど、この背の男と融合したときから、視界はとても鮮やかになった。
いつの日か、時代は違えど再びあの荒野に降り立ったときの、赤く燃える夕焼けの色。やっと見せてあげられた、という言葉。
『それ』はずっと憶えていた。色彩を、声を、匂いを、憶えていた。
微かに匂いがした。あの黄昏がここにいる。
ならば、行かねば。
「さあ、殺せライ――」
うるさい。
千切りとった喉笛から赤いものが噴水のように噴き出る。己の毛並みを濡らすのはいつだってこの色。
ああ、それでも忘れるものか。
たとえ赤く塗り潰されても忘れはしない。その程度で忘れるならば、あの荒れ果てた故郷で、あの退廃の摩天楼で、己の思いと憎悪はこの身と共にとうに朽ちていたはずなのだから。
どこだ、■■■。どこにいる。
我らが守るべきあの黄昏は、いったいどこに――
第三章 獣よ、蒼く迸れ
源頼光。平安時代、頼光四天王と共に数々の魔を滅し京の都を守護した貴族。平安時代最強の『神秘殺し』であり、日本においては坂田金時、酒呑童子などとの繋がりもあってかなりの知名度を誇る。
また牛頭天王の化身でもあり、高位の神性を有する。
さらに。クラス適性はセイバー、ランサー、ライダー、バーサーカーが確認されているが、バーサーカーで召喚された場合。
「……なんていうか、『息子大好きで息子に危害加える者は皆殺す』な、イかれたママになっちゃうんだよ。母性愛に振り切れたメンヘラ英霊というか」
やっとの思いで帰ってきた隠れ家の炉端で、頭を抱えるマスターの途方に暮れた説明をキャスターは若干引きつつ聞いていた。
「そっち方面で狂ってるバーサーカーには初めて会うな……」
「ちなみに狂化ランクはEX」
「バケモンじゃねえか」
測定不能の狂化ってどんなだ。
火かき棒で炭を無意味に転がしながら、マスターは立てた膝にこてんと頭を預ける。琥珀の虹彩に炎がゆらゆらと反射していた。
「幸いバーサーカーのマスターはあそこから動こうとしていない。まだ分からないけど、仮に向こうが行動を始めた場合は極力接触を避けることにする」
妥当な線だろう。キャスターは頷く。
バーサーカーのマスター――アーチャーの話ではホムンクルスだというが――は、どうやら第三勢力に位置づけられそうだ。こちらから手を出さない限りは襲いかかってはこないはず。一度見逃されたことからもそれが窺える。
「それが賢明だな。マスター、ココアを淹れたから飲むといい」
気怠げに火かき棒を操るマスターの顔に、ふっと影がかかった。
影の持主であるアーチャーが、片手にマグカップを携えていた。マスターが礼を述べてカップを受け取ると、彼は聖骸布を後ろに捌いてマスターの隣に腰を下ろす。
「……それを飲んだらもう寝たまえ」
優しく、しかし有無を言わせぬ諭し方であった。
ぼんやりと火をその目に映し続けるマスターは、表情の抜け落ちた顔でココアを口に含む。度重なる戦闘、急激な魔力消費、新たな脅威、色々なものがまとめてのしかかってきて、疲労は並ではないだろう。アーチャーが就寝を促すのも無理なかった。
「エミヤは?」
「あれなら外で見張りをしている。君が寝るときになったら呼ぶから、心配しなくていい」
エミヤ、という名は、彼女にとってはあの黒い弓兵のものであった。赤い方をアーチャーと呼び、そして二人もそれを心得ている。
そっか、と彼女はやはり感情のこもっていない反応をするばかりで、どうにも危うい。存在自体が希薄になっているような錯覚に、キャスターは少し苛立って、それから内心首を傾げた。
はて、己は何故こうも苛立っているのか?
ぱちりと炭が爆ぜる。それ以外は音の無い、痛い程静かな夜だった。
「……で、お前どうすんだよ」
ココアを飲みきったマスターが黒い弓兵に大人しく連行されてから暫し。今宵の見張り役に収まっていた赤い弓兵に、実体化したキャスターは徐に尋ねた。
今日も月が綺麗だった。雲がゆるりと棚引いて、月影を覆い隠してはまた露わにする。
「どうするとは」
隣にいきなり現界したキャスターに特別驚くこともなく、アーチャーは尋ね返す。珍しく、この男の常である眉間の皺がとれていた。些か幼くも見える彼に、だから、とキャスターは言い募る。
「分かってんだろ。お前の魔力供給源はどうすんだ」
う、とアーチャーが言葉に詰まる。考えないようにしていたに違いない。
はぐれサーヴァントになったのはいいが、早く次のマスターもとい魔力供給源を見つけないことには消滅を待つばかりになってしまう。単独行動スキルで誤魔化しが効くのも数日だから、やはり誰かマスターを見つけねばなるまい。
「マスターは既に君と契約している。私の魔力を賄う余裕など無いだろうし」
「ランサーの方のマスターも同上。じゃ、あと一人しかいねえわな」
「……やはり、あれしかないか」
つまり、受肉しており一応は魔術師である同位体との契約である。
だから考えないようにしていたのだろう。自分同士でパスを繋ぐなど、ましてや自分が養われる側など、この男が快諾するはずがない。苦虫を噛み潰したような顔でアーチャーは唸った。
「ま、繋ぐこと自体は難しくねえだろ。同一存在同士だし」
「マスターは何と?」
「何も。ただ、これしかないのはあいつも知ってると思うがな」
これでもキャスタークラスだ、手伝ってやろうかと持ちかければ、結構だとにべもない。
月が隠れて、他に明かりのない草地が暗く闇に染まる。
「……君は」
どこまで聞いているのかね、と。
腕を組み、真っ直ぐ前を見据えたままの弓兵が問うた。
さわさわと風が木の葉を揺らし、赤い聖骸布を煽る。
「……そうさな、人類悪だの、聖杯が燃料不足だの、色々おかしなことばかり聞いたが」
「そうか」
キャスターはちらりと褐色の顔を窺う。良くないな、と思った。皮肉と嫌味で塗り固めた仮面が、今度は無表情に取って代わっている。それを引っぺがしてしまわないと、ことの本質すら覆い隠されその胸中に仕舞われてしまう。
「なあ、一つ聞いていいか」
キャスターもまた、相手を見ぬまま尋ねる。
返事は無い。
「お前、今日言ったよな。あいつを守るための現界だって」
ざわり、一際強く夜風が騒いだ。
ようやく顔を出した月が銀の光を投げかける。隣の男の白い髪がそれを吸い込んで、新雪のように輝いた。
「……約束をしたんだ」
落ちる言葉は幽けき、しかし確かに芯のあるものだった。
「いつか彼女が全てを終わらせるときに、きっと抗うと約束した。アラヤもガイアも関係ない、私と彼女の間だけの約定を」
だから。
初めて男が向き直り、キャスターの瞳をその鋼色で真っ直ぐに射抜いた。
「私は出来損ないの救い手だが、今回ばかりは救うと誓った。邪魔をするなよ、クー・フーリン。貴様が彼女を苦しめることがあれば、私は躊躇なく貴様を殺す」
いっそ苛烈とも言える眼差しに、キャスターは少しだけ驚いて、それから破顔しくつくつと喉奥で笑った。
「何がおかしい」
「悪い悪い、お前さんがそんなに執心すんのは珍しいなと思ってよ。
……いいぜ、好きにしろよ。オレもあいつのことは気に入ってんだ、苦しめはしない」
アーチャーは何故かひどく痛みを覚えたかのような顔を伏せて、どの口が、と呟いた。
キャスターは片眉を上げ首を傾げる。はて、己は彼女を苦しませたことは――魔力的な意味以外では――無かったはずだが。それとも、彼女が時折見せる寂しそうな表情と関係しているのだろうか。
「……一つ忠告だ、キャスター。
「は? んだそれどういう――っておい」
ふっと燐光を残して霊体化し立ち去った赤い弓兵の残した言葉の意味は、結局一晩考えても分からなかった。
*
『――リツカ』
ふと、目が覚めた。
横臥したまま目だけを外へ向ける。薄いガラス戸から差し込む光は柔らかく、ちらと見えた空は白雲の浮かぶ淡い青空だ。
視線を戻す。黒い布に包まれた胸板がある。背中に回された腕は温かかった。いつもの熱に己は包まれている。
珍しく、彼より先に起きてしまったらしい。もそもそと起き上がり、煎餅蒲団にぺたんと座したまま伸びをする。
「……起きたのか」
「エミヤ」
まだ少しだけぼんやりと眠気を孕んだ真鍮の瞳を見下ろす。これはさらに珍しい。寝惚けた彼など一度か二度しか見たことはない。
「おはよう。まだ随分と早いけど、なんか起きちゃったね」
声が聞こえた気がした。
己を呼ばう声がした。誰のものかも、またどんな声かも知らないけれど、とにかく誰かに呼ばれたのだ。だから、目が覚めてしまった。
上体を起こしたエミヤオルタは壁掛け時計を見て、苦い顔になった。
「早すぎる。昨日の疲れが取れないだろう、まだ寝ておけ」
「んー、眠気が全く無いんだよなあ……いいや、起きる。立香はまだ寝かせておこうね」
横の蒲団でぐっすり眠っている青年を起こさぬように、静かに二人は部屋を出た。
早朝の森は土と草木の澄んだ匂いに満ちていた。
「おはようキャスター、どうしたの?」
玄関の軋む引き戸を開けて外のサーヴァントに挨拶すれば、どうも怪訝そうに唇に手を当てている彼が振り向いた。追随する青い長髪が陽光を吸って煌めいている。相変わらず、黙っていれば綺麗な男である。
「おはようさん、いや、何か森が騒がしくてな」
言われて耳を澄ましてみるが、何も聞こえない。
きょとりと首を傾げた己に苦笑して、キャスターは森の奥に目を向けた。
「数は少ないが、精霊どもも騒いでやがる。その上どうも森全体が、何つーかな、身震いしてるみてえな」
「震えてる? 怖がってるの?」
「ああなるほど、そうだな。まさにそれだ」
立香の表現にいたく納得した様子でキャスターはうんうんと頷く。
怖がっている。森が、何かを恐れている。
バーサーカーだろうかと思いついて、違う、と立香は即座に否定した。それならば昨日の時点でキャスターの言う森の震えは発生しているはずだ。
「……ライダーのサーヴァント?」
「有り得るな。召喚されんのは誰の予定だったんだ?」
言われて立香は、事前に知らされていた情報を思い返す。
触媒は『ベイヤードの鬣』。守護に特化したとある英霊が喚ばれる予定であった。
「聖ゲオルギウス。でも、たぶんライダーは彼じゃない。触媒がなくなっていたのはこちらの召喚を確実に防ぐためだと思う」
「つまり、全く分からない、と」
「森が怯えるくらいだから、またとんでもないのかも……待って、何か聞こえる」
かさかさと、幽かな葉ずれの音にも似た物音が、森の奥からさざめいた。
キャスターも口をつぐみ、厳しい顔で音のする方向を睨む。
さざめきは徐々に大きくなり、葉ずれが喧騒に変わり、喧騒が騒音に変貌する。音の源が近づいてくる。
やがて、森から飛び出したのは――一匹の、鼠であった。体長十センチかそこらの、茶褐色の齧歯類である。
鼠は驚異的な速度で草地を突っ切り、反対側の森へと飛び込んだ。
はて。キャスターと二人、顔を見合わせ首を傾げる。騒音の正体はあの鼠だったのか?
しかし次の瞬間、二人は揃って絶句することとなった。
先駆者に続いて現れたのは茶褐色の帯。否、それは小さな生き物の集合体であった。二人の眼前を猛スピードで横切っていく、全く途切れることなく続くその帯が草地を真っ二つに分断する。一メートル近い幅の、鼠、鼠、鼠、大量の鼠の群れ! 小さな足が地を蹴る音が、何百何千と集まってまるでダンプカーの行進するが如き音を作り出していた。
そうして、時間にして三十秒。最後の鼠が森に飛び込み、騒音は遠ざかっていった。
「…………」
「…………」
音の去った草地に、二人の沈黙が佇む。
「おい、今の音は――なんて顔をしている」
軋む引き戸を開けて顔を出てたエミヤオルタが、振り向いた主従の顔を見て呆れ果てたと言わんばかりに肩を竦めた。
「……ねえ、キャスター」
「……おう」
衝撃から立ち直れぬまま、震えをおして立香は呟く。
「相当やばいのが、喚ばれちゃったみたい」
*
匂いを辿り、石造りの半壊した建造物に行き着いた。
しかし匂いはここでふっつり途切れている。ここから先、『あれ』はどう移動したのだろう。
背の男が地に降り立ち、石柱に刻まれた何かの模様をなぞった。
考えが伝わる。ここにいると敵が襲い来るという。
仕方ない。手がかりから離れるのは不本意だが、ここで無闇に消耗しては『あれ』を守れぬ。道中狩った獣の
『あれ』は群れの一員である。己と同じく虐げられ、大切なものを根こそぎ奪われた者である。だのに自分が悪いからとたった一人で抱え込む、不器用に過ぎる人間である。
あの地に召喚されてから、ヒトにも種類があるのだと知った。かつて己から故郷を奪い、妻を奪い、己の命すら奪った人間と、あの儚い黄昏は全く違うものであった。ヒトは憎い。より多くのヒトを殺さねばならない。だが、あの黄昏はもはや群れの仲間であり、殺すべき者ではなくなった。
背に男が乗る。また一から捜し直すため、漂う匂いを追った。
*
「今日は動きません」
朝餉の膳を下げ、茶を出したマスターが炉端に座した面々にそう宣言した。
キャスターは即座にその意図を読み取ったが、ランサー主従が揃って怪訝そうな顔をしている。無理もない。聖杯の在り処を探さねばならないのに、動かないとは。
「立香、質問」
「はい立香、どうぞ」
手を挙げ発言権を求めた黒髪の青年をマスターが指さした。
「俺達も待機? 元気なんだけど」
「待機です。今日は一日休息とします」
もう決めた、と言わんばかりに胸を張るマスターだったが、直後に眉を下げ、物憂げに語った。
「理由を言うね。一つ、エミヤとアーチャーでパスを繋いでもらうのだけど、その経過観察が必要なこと。二つ、今朝、鼠が森から逃げたの……おそらくはライダーのサーヴァントを恐れて。よって、ここ一帯を危険なものが彷徨いていると考えられること。三つ、バーサーカーのマスターが動くかどうか見定めたいこと。以上、何か質問は?」
理路整然と説明され、全員が沈黙を了承として返した。
うち弓兵二人はかなり嫌そうに顔を顰めている。とうとうマスターの口からもパスについて言及されてしまったのである。
「エミヤとアーチャーは、念の為キャスターと私の立ち会いの下で契約を。何か異常があったらすぐに報告すること。それが終わったら、私は少し休むかな。こういうときに動いて怒られたことあるし」
今度は何度も頷く弓兵どもは、まるで保護者のようである。
じゃあ、と立香が明るく提言した。
「俺はバーサーカー対策を考えるかな。ランサー、付き合ってくれるか?」
「了解した。キャスターのマスター、情報が欲しい。回復し次第こちらに協力してくれ」
確かに、真名看破に加え昨日実際にバーサーカーに遭遇した彼女であれば、ある程度の対抗策は立案できるかもしれない。
「うん、分かった」
快諾した彼女に、立香が無理をするなよと念を押していた。
日当たりの良い空っぽの客間を一つ占領し、向かい合って座したまま動かない弓兵が二人。
「じゃ、始めよっか」
とは言っても、私は門外漢なのだけど。
場の空気を和らげようとしたのか、冗談混じりの明るい発言は、しかし二人のエミヤが醸し出すギスギスとした空気に弾かれ宙ぶらりんになった。
必死で二人の緩衝材にならんとしているマスターを、キャスターはよくやるなあと半ば感心しつつ、部屋の柱に背を預けて遠巻きに眺めていた。自分だったら絶対こんな面倒の二乗に関わろうとは思わない。君子危うきに近寄らず、というこの国の諺をふと思い出した。
マスターがその二人を宥めていたのだが、いい加減埒が明かないことに多少苛立ったキャスターは痺れを切らして三人に歩み寄った。
「あーもうめんどくせぇ、とっととやれお前ら。あんまマスターを困らせんなよ」
ぐ、と痛いところを突かれたらしいアーチャーが呻く。困らせている自覚はあったようだ。
一方のオルタは機嫌の悪そうな渋面をさらに苦く歪め、地の底を這うような低い声で、とっとと済ませるさ、と零した。
「おい腐っていないオレ」
「……分かっている」
褐色とさらに色黒の右手が握り合う。身体接触はパスを繋ぐために必須の項目であるが――それにしたって握手如きでどれだけ躊躇うんだこいつら、とキャスターは呆れ果てた。
さてマスターはといえば、好奇心と心配のごたまぜになった複雑な感情をその琥珀の瞳に宿し、二人を見守っている。再契約を見たことは無いらしい。
手を繋いでからたっぷり十秒。ようやく、たいそう苦々しい口調でオルタが呪を唱えた。
「告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら、我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう」
棒読みである。
さあオレは言ったぞ貴様も言え、と言わんばかりの苛烈な眼光が向かいの赤い男に向けられ、それを受け取った赤い方が深々とため息を吐いた。
「……アーチャーの名に懸け誓いを受ける。貴様を主として認めよう、名前を棄てた私」
あくまで形式的に、という言葉が隠れているに違いない。
ぱき、と硬い音がして、魔力の暴風がマスターの夕焼け色の長髪を宙に靡かせた。それも収まり、やっと手を離せた彼らに、マスターが矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「どう? どう? 何かおかしなところは? 魔力ちゃんといってる? エミヤの方の負担はどれくらい?」
「落ち着けマスター……そうだな、特に問題は無い。この程度の消耗なら全く支障ないだろう。ああ、令呪も出たな、見るか?」
「見る!」
左手の赤を、瞳を輝かせてマスターが覗き込む。立ったままのキャスターもひょいと上から目を向けて、そうして、噴き出した。
「あーあーあーあー、やっぱこれか、こうなんのか、だよなーそうなるよなーそりゃそうだよなーー」
「? キャスター何か知ってるの?」
「んんー? いんや、ただ、こいつも結局『エミヤ』なんだなって思っただけさね」
にまにま笑ってはぐらかしつつ、マスターのきょとりと幼く首を傾げた様をまた愉快に思う。
「……自害しろランサー」
が、上機嫌は一瞬で赤いエミヤの低音に潰された。
「おっまやめろよ! 大丈夫って分かってても嫌になんだろうが! あと今はキャスターだから! 槍ねえから!」
「ハッ、自分が嫌なら他人の過去など面白半分にからかうな。それとも今日の夕飯は麻婆豆腐がいいかね?」
「材料どうすんだよってかマジでやめろ」
どこぞの神父を思い出し苦い気持ちになったキャスターだったが、ぎゃあぎゃあ言い合う自分達に二人分の視線が向けられているのにふと気がついた。
二人分?
ぴたりと口喧嘩を止めて黒い方の弓兵をまじまじと見つめる。訝しげに眉を顰めた、かつて『衛宮士郎』だったもの。
「……おい、オルタ」
「何だ」
「お前さん、まさか」
憶えていないというのか。
そう続きかけた言葉を、アーチャーの盛大な咳払いが引っ込ませた。
「さあとにかく私の問題は解決した。あとは君だマスター、休みたまえ。仮眠を摂るのもよかろう。眠れないならそこの私を連れていくといい」
突然話を振られたマスターは寸の間停止していたが、彼女の手をエミヤオルタが取って立ち上がった。つられて彼女も腰を上げ、戸惑いながらも頷く。
「う、うん、じゃあお言葉に甘えてもっかい寝てこようかな。エミヤごめんね、またお願いしていい?」
「別に構わん」
夕焼け色の髪を揺らして縁側を去っていくマスターと、その後ろを手を繋いだまま護衛のようについていくエミヤオルタを見送って、ふう、とアーチャーは一息吐いた。
「……あまり、掘り返すなよ。もうあれは何も憶えていまい。以前の私が召喚に応じたのはあれより後のことだったが、その時にはもうああなっていた」
私とて憶えていることは少ないが、と彼は言い足して、どこか寂しそうにあの『エミヤ』が消えた縁側の向こうを見遣った。
「マスターは、あの
そこで言葉を切り、アーチャーはあっという間にいつもの仏頂面を被ってキャスターを睨んだ。
「そういうことだ、あれは放っておけ。あの令呪のこともだ。私は見張りに行く、貴様はマスターの睡眠の邪魔をせんようにな」
音もなく霊体化して、彼は表に出ていった。
一人残されたキャスターは部屋の隅に胡座をかき、染みだらけの天井を仰ぐ。
何をしようとも思わなかったから、マスターに負担をかけぬよう、時間潰しに彼女に倣ってひと眠りしようかとそのまま目を閉じた。
――別に、何もかも忘れ果てたあの黒い男に対して哀れみなんて抱いてはいないし、あの男が全て忘れたことに何の感傷も持たない。むしろ些末なことに感じる。だから何だ、と。
ただあの男を必死で『人間』にしようとした人々を知っているから、少しだけ、彼らがあの黒い男を見たらどう思うのだろう、なんて詮無きことを考えただけ。
マスターもまた、その一人であると知っただけ。
「あのマスターを泣かせんのは、やめろよ」
今はもうこの場にいない男にぽつりと小さく忠告して、意識を沈めた。
――白い壁と、黒い床が広がっている。
違う。この床は元々黒くなんてなかったのだ。誰かが踏むたびにぐちゃりと怖気のする音を立てる、どす黒い泥が広がっているだけ。
足元に、虫けらのようにちっぽけな三つの人影がある。一人は弓に矢を番え、一人は銃口をこちらへ向け、一人は――二人の陰で金色の何かを握りしめている。
ああ、と意味の無い音が口から零れて、広々としたがらんどうの室内に空虚に響いた。
おかしい、おかしい、おかしい、どうして、『私』は魔力を回している?
敵性対象を確認、属性は人、神性無し。片方は悪を司る――他、特性無し。排除に適切な宝具を検索。検索終了、顕現、真名解放。
やめて。
殺さないで。
『私』は誰も殺したくない――!
「――っ!!」
全身から汗が噴き出す。仮初の心臓が肋から飛び出す程激しく鼓動を打ち、震える口が必要無いはずの呼吸を大きく繰り返す。背にした柱の、腰を下ろした畳の、触感がまるで失せている。実体化しているのに霊体であるかのようだ。現実に帰ってこれない。まだ、鮮烈な夢に引っ張られている。
白い壁に囲まれた泥の海、絶叫する人でない『己』、武器を構える二人の守護者、その後ろの、まだ若い黒髪の男。
恐怖だった。恐怖しかなかった。殺気を向けられていることに、ではない。
戻れ。頭蓋の中で冷静な声がする。己は何だ。己は誰だ。今いるここは、どこだ。
「………………オレ、は」
ひゅう、と最後の息が終わる。
それでようやく、世界が帰ってきた。徐々にではあるが感覚が戻る。木の柱、少し擦れた畳、滴る汗の気持ち悪さ。
痺れたように強ばる手足の先を何度か曲げ伸ばしして、改めて自分が現実に戻れたことに安堵する。同時に、あの見た者全てを発狂させかねない凄まじい悪夢は誰のものか、思い至って総毛立った。
今現在、自分とパスの繋がっていることで、記憶や夢の共有が発生する可能性があるのは――
「マスター!」
未だ感覚の遠い脚を叱咤して、彼女の眠る部屋へ走る。何故駆けつけようとする、とまた冷静な声が頭蓋に響く。自分が行ったところで何が変わる訳でもない。そもそもあれは聖杯戦争での一時のマスターに過ぎず、己がそこまで気にかける必要も無いではないか。
そんなこと、理屈では理解できている。なのに早く向かわねばと思ってしまうのは、どうしてもあのどこか儚い夕焼け色を放っておけないからだ。今までもずっとそうだった。それこそ召喚に応じたときから、あれの身も心も守らねばならぬと霊核が叫ぶような、不思議な感覚がずっと続いていた。気づいたのは、彼女に協力すると断言したときだ。
その感覚に従って脚を動かす。脳裏に過ぎるのはエミヤオルタの言葉だ。
『あのマスターは添い寝しないと夜中に悪夢で目を覚ます』
添い寝はきちんとしているはずだった。だがこれはいったいどういうことだ。あの空間はどこなのか。そもそもあの夢は彼女の記憶なのか、それとも仮想の世界なのか。聞きたいことが多過ぎて吐き気がしてくる。ただ一番気がかりなのは、あの恐怖に包まれた悪夢を見たマスターのことであった。
縁側を突っ切り、突き当たりの角部屋の障子を勢いよく開ける。がたついた木枠がつっかえながらもサッシを滑り、顕になった部屋の中。延べられた蒲団の上を、逸る鼓動を抑えながら、見た。
「……来たか」
その様子だと、見たな。
静かに確認する低い声は、蒲団の上でかいた胡座にマスターを乗せ、抱き寄せているエミヤオルタのものだ。
キャスターは足音荒く室内に踏み入り、弓兵の正面にかがみ込んで彼女の顔色を窺った。
息を、呑む。
「……何で、魘されてない」
着ているワンピースと同じくらい真白の頬に血の気は欠片も無く、桃色だった唇も紫に染まりかけている。
だが、おかしいのはそこではない。
何故、あの悪夢を見ていながら、ただひたすら静かに涙を流すだけなのだ。何故その顔は、デスマスクのように固く動かぬままなのだ。
魘されて、苦しんでいるならまだいい。泣き喚くならまだいい。いっそそのせいで起きてしまえばどれほど楽か。
これではまるで、もう既に壊れてしまっているようではないか。
「たまに、こういうことがある。オレがいても意味を成さないことが。いくら声をかけようとも、揺り起こそうとも、これはこのまま、夢の終焉まで目覚めることはない」
淡々と、淡々と、黒い弓兵が事実だけを述べていく。
「何で、と聞いたな。当たり前だ。オレとて一度共有したから知っている。あんなものを一度ならず繰り返し何度も見て、
彼女は静かに発狂しているだけ。
魘され、泣き喚くような段階などとうに過ぎていた。彼女はそれすらできなくなって、ただ恐怖に呑まれ狂っている。
「あれこそが人類悪だ。本来生まれるはずのなかった、番外の個体。十年前の災厄。オレ達が殺せなかったモノ」
「……あの夢は、記憶だって言うのか」
果たして、返ってきたのは肯定であった。
つまり彼女の悪夢とは、十年前の自身が変生した記憶の再生に他ならない。繰り返し、繰り返し、彼女はあの恐怖を追体験している。
微動だにしないマスターの血の気の失せた指先を手に包んでさすりながら、エミヤオルタは表情の消えた顔で再び語った。
「こいつはあの事件の日に狂い果てた。もう手のつけようが無いほど壊れてしまった。今この女を人たらしめているのは、役目を果たさんとする意志だけだ。生きなければならない目標が消えれば、すぐ抜け殻の死に体になってそのまま衰弱死するだろうさ」
その目標とは、聖杯の奪還に他ならない。
ぎり、とキャスターは歯を噛みしめる。こんな報われない話があってたまるか。役目を果たせても果たせなくても、結局彼女は死ぬのではないか。
こんなことのために、協力すると言ったんじゃない――
「……ん」
不意に、眠っていたはずのマスターの瞼が震え、琥珀の瞳が覗いた。
ぞっと、した。食事を作るときの柔和な笑みも、戦場に赴いたときの苛烈な色も、根こそぎ抜け落ちた空っぽの瞳だった。例えるならば、人形だ。ガラス玉を生の眼球の代わりにはめ込まれたかのようだった。まるで、普段の感情は全て上辺だけのものだとでも言うような。普段は必死でひとの真似事をしているのだとでも、言うような。
「エミヤ」
空っぽのままマスターが無感動に名を呼ぶ。見えているに違いないのに、彼女はキャスターに気がついていない。ガラス玉の如き琥珀の瞳が、じっと頭上の黒い弓兵の顔を凝視している。
「ああ、マスター。大丈夫だ。必ずお前を殺してやる」
何も殺させはしないから。
その返事に満足したのか、納得したのか。再び瞼を下ろしたマスターから規則正しい呼吸音が聞こえてきた。また、眠ったのだ。
「……見ての通りだ。別に、普段のこれが嘘な訳じゃない。ただ一度壊れてしまったものは二度と元通りにはならないというだけの話だ」
それくらい、キャスターにも分かる。分かりたくなくても分かってしまう。どんなに綺麗に直ったように見えたとて、それは外側だけ。内側に残った痕は決して消えず、楔のように刺さったままだ。
「分かったら去れ、
どこか遠くから響くようなエミヤオルタの言葉が、キャスターの胸を強く抉った。
*
ここだ。
この辺りに間違いない。かなり時間がかかってしまったが、ようやっと見つけることができた。
だが、何か己の鬣をぴりぴりと刺激するような脅威が近づきつつある。
己を狙ったものではない。殺気の行先は己らの目的地と同一だと気づいた背の男が、ぎり、と強く鎌の柄を握りしめた。
行かねばならない。今度こそ、守らねばならない。
たとえ彼女が望まずとも、己は必ず彼女を守る。
地を蹴る。さあ、群れの仲間を守りに行こう。
*
この家の主は煙草飲みだったらしい。
居間の棚の上に置き去りにされていた安物の紙巻をくわえ、指先に生み出した小さな炎で火を点ける。肺腑の奥まで吸い込んだ煙を長く吐き出して、憎たらしい程晴れやかな青空を見上げる。放置され雑草の楽園と化した庭には、自分以外の人影は無い。
ちくちくと執拗に訴えてくる胸の痛みを誤魔化すには、煙草はもってこいだった。何故痛んでいるのかは自分にもよく分からない。あのマスターは不思議だった。そして自分も不思議だった。どうして自分はこんなに彼女に入れ込んでいるのか、どうして憤りを感じるのか、己の心に聞いても納得のいく答えは返ってこず、不可解なものばかりが増えていく。
心は常に真ん中に置いていた。それがどうだ、召喚されてからたった数日で、あの夕焼け色の女にここまで執着している。何か精神的異常が起きているに違いない。
――それとも己も狂っているのか?
「……かもなあ」
ふ、と短く吐いた紫煙が澄んだ空気に溶けた。
長閑なものだ。快晴、無風、おまけに敵も来ないときた。あまり美味しくない煙草でも、この雰囲気に助けられて多少はマシな味になる。
あっという間に一本吸いきって、さて吸殻をどうしようか、と灰皿の無いことに気づいた。きっとポイ捨てはあの赤い弓兵にしこたま怒られるだろうから、何か灰皿の代わりになるものを探さねばなるまい。適当な石に押し付けて消火した短い煙草を摘んだまま、うろうろ視線を動かす。
「キャスター!!」
そのとき、聖骸布をはためかせて突然屋根から降り立ったアーチャーが切羽詰まった表情で叫んだ。
キャスターはうげ、と口をへの字に曲げる。彼はどうやら屋根の上で見張りをしていたようである。己がまさにポイ捨てをせんとしているのだと勘違いしたのか、それにしたって目敏すぎるだろう。誤解を解くべくキャスターは口を開いた。
「んだよ弓兵、別にその辺に捨てようとした訳じゃねえぞ、灰皿持ってないか」
が、その弓兵は一瞬の逡巡もせずに叫んだ。
「違うわこのたわけが! 五キロ先だ、バーサーカーが高速で接近してくる!」
「何だと!?」
瞠目したキャスターはもはや吸殻のことなど思考の外に放り捨てた。ついでに吸殻自体もその辺に捨てた。
未だ結界に破壊は感じられないが、五キロ先では時間の問題としか言えない。何せあのマスターをして『化物』と言わしめるサーヴァントである。
「貴様はマスターに知らせに行け、私がある程度時間を稼ぐ!」
「馬鹿言え! テメェ一人で何とかなる相手じゃねえんだろ!?」
反論した瞬間、ばきりと結界が裂かれた感覚がして息を呑んだ。
かなり時間をかけた防御壁を、こうまで容易く破壊するとは!
「結界が破られた。来るぞ!」
もういがみ合っている暇すら無い。二人それぞれの得物を構えたそのときであった。
眼前の森が、割れた。
否、それは爆風と雷による嵐の蹂躙である。竜巻状に螺旋を描くそれが、木々を根こそぎ薙ぎ倒し、草を表土ごと剥ぎ、ばらばらと宙に舞い上げる。
二人とも、何も言えなかった。
数秒で消えた嵐のあと、更地に立つのは刀を抜いた菫色の鎧武者。氷の如き無表情に、らんらんと光る藍色の双眸が獣を思わせた。
キャスターは初めて対峙する。これが源頼光。母性に狂ったバーサーカー。
「……殺す」
怨嗟である。
その細い喉から怨念が吐かれる。
「よくも、よくも我が子に妖術を使いましたね。あの子を怯えさせ、泣かせた罪は重い」
何を言っている。
思い当たる要素がまるで無く、キャスターは内心訝しんだ。ちらと隣の弓兵を見れば、彼は苦く唇を噛んでいる。自分よりは何かしら知っているようだと判断し、キャスターはこっそり彼に尋ねた。
「おい、あいつが何言ってるか、分かるか? 妖術って何だよ、お前そんなのかけたか?」
「馬鹿を言え、刺激すると分かっていてそんな愚はせん。……だが、一つ確実になったことはある。彼女の主は、我らのマスターを元にして出来たものだ」
「……何だそれ」
話が突拍子も無い方向に飛んだ。
「言葉通りの意味だよ。あのホムンクルスにはおそらくマスターの遺伝子が混じっている。魔術回路の構成も意図的に似せた痕跡があった。マスターが悪夢を見たのだろう。それに同調して入り込んだ、としか考えられん。彼女はよくサーヴァントの夢に迷い込んだからな」
「何でわざわざそんなこと」
「
謎が謎を呼ぶ言い回しだったが、そこにさらに言い募る時間の余裕は無かった。
破裂音が大気を揺らす。紫電が散る。空には暗雲が垂れこめ、空気が生温く澱んでいく。
「お喋りは結構。我が子に害を為す虫どもは、全てこの童子切安綱の錆にして差し上げます」
雷を纏った太刀が青眼に構えられる。鬼神のような凄まじい殺気が肌を刺す。
小さく舌打ちした弓兵が応じるように双剣を構えた瞬間、轟音を鳴らしバーサーカーが地を蹴った。
「ぐうっ……!!」
袈裟懸けに振り下ろされた剣戟を何とかいなしたアーチャーが苦悶の声を零す。僅かに下がったキャスターは即座にルーンを組んで火球を放ったが、あっさりと距離を取り回避したバーサーカーは再び突進してきた。
まずい。これはアーチャーでは対処しきれない。理解できてしまったキャスターの背に冷や汗が浮かぶ。敏捷値、筋力値、使える魔力、全てにおいてバーサーカーが上回っている。
二撃目をようやく躱したアーチャーに雷電の刀が迫る。支援のため魔術を放とうとしたが、二人の距離が近すぎた。対魔力の低い彼を巻き添えにする訳にはいかない。
くそ、と悪態を吐きかけたそのとき、横から弾丸の如く突撃した金色が、菫色の武者を弾き飛ばした。吹っ飛んだ彼女はそのまま木立の中へ叩き込まれる。
「すまない、遅くなった」
涼しい顔で金の槍を一振りし、キャスター達を庇うようにランサーが立った。
「二人とも、無事!?」
「立香か。すまない、助かった」
たった数合の打ち合いで力量差を悟ったのか、アーチャーは駆け寄った青年に礼を言う。
それで、と立香はバーサーカーに目を向ける。
「状況はだいたい分かった。二人はランサーの援護をお願い。アーチャー、念話でオルタに連絡してくれ」
てきぱきと指示を出しつつも、その海色はしっかと敵を見据え状況把握を怠らない。彼もまた、戦場に慣れていることにキャスターは気づいた。
だがランサーが駆けつけたとて、戦況は大きく変わらない。
「……また、虫が増えましたね」
轟、と嵐が再び渦巻く。
木々を薙ぎ払って無傷で現れたバーサーカーは、冷えきった怒りを全身から滲ませていた。それはまさに鬼の如き有様であった。
さらに膨れ上がった怒気を隠しもせず、バーサーカーは紫電を散らし駆ける。向かう先は、おそらく最も大きな脅威と判断されたであろうランサーである。
「――ランサー!」
凛とした声が言外に叫ぶ。迎え撃て、蹴散らせ。
それに応じて、太陽の半神が槍を構えた。直後、金色の槍と雷電の刀が激突する。
開けた土地での場合、リーチのある槍兵に分がある。だが片やホムンクルスを主に持ち先程から惜しげも無く魔力を消費しているバーサーカーと、片や人並みよりやや少ない程度にしか魔力を持たないマスターを削り殺さぬようセーブしているランサーである。必然、バーサーカーが攻勢を強め、それをランサーがいなし反撃する、という先手後手の決まったような闘いが繰り広げられていた。
キャスターはそこを補うのが役目とばかりにアーチャーと二人で後方支援を繰り返す。アーチャーは既に目に見える距離にはいない。はるか遠くから降る矢は悉くバーサーカーの動きを阻害し、あわよくば致命傷を喰らわせんと猛威を振るう。キャスターも、無防備な立香を守りつつ僅かな隙を突いてバーサーカーに炎弾を叩き込む。
身体の回転を加え水平に振り切られた刃を、垂直に身体の横に添わせられた金色の槍が受ける。痩身が沈み、刀を弾かれ一瞬生まれたバーサーカーの隙を逃さず穂先を下から突き出す。後退することで仕切り直したバーサーカーに雨あられと矢が飛ぶ。しかし彼女はそれら全てを刀で叩き落とし、同時に地から高速で突出した鋭利な木の杭をまるで予知していたかのように軽やかな跳躍で避けた。空中で刀を収めた彼女の手は次の瞬間身の丈程もある和弓を握り、もはや目に見えぬ速度で大量に矢を撃ち込む。広範囲を襲うそれらをランサーは槍で、キャスターは即席の結界で弾く。その間に着地したバーサーカーは再度抜刀し大きく振りかぶった。
「雷よ!」
振り下ろされた刀から、極太の紫電が飛ぶ。
さすがにこれは防げるものではない。そういう次元は超えている。咄嗟に立香を小脇に抱えたキャスターは横っ飛びに回避した。ランサーは身を捻って避け、そのまま紫電の帯のすれすれを身を低くして駆けバーサーカーへ迫る。
「せえっ!!」
気合一閃、振るわれた槍と刀が再び激突した。紫電となった魔力が四方八方に散る。
援護を続けるキャスターであったが、直後、新たな気配を破壊された結界の向こうに感じ取って思わず動きを止めた。
こんな時に限って!
高速で接近するサーヴァントの気配。セイバーか、ライダーか、どちらにせよ今この状況を悪化させはしても、改善は見込めない。
なお悪いことに、気配はバーサーカーとは真逆の方角から近づきつつある。隠れ家を背にして戦う自分達の、家を挟んで向こう側ということだ。つまり、そちら側にも戦力を割かねばならない可能性が出てきた。エミヤオルタがいるにしても、彼一人で対処するには厳しい相手かもしれない。あのセイバーなら尚更だ。
「アーチャー、反対側だ!」
唇の動きとて絶対に見えていると確信して、キャスターは矢の降ってきた方向に叫ぶ。途端に支援射撃はピタリと止んだ。
どうやらもう一体の襲撃者を見つけたらしい。再開された弾幕はバーサーカーとは見当違いの、しかしキャスターが察知した気配の位置ぴったりに降り注いでいく。
これでいい。最悪相手がセイバーでも、多少の足止めにはなるはずだ。その間にこのバーサーカーを何とかしてしまわねば。
「――あらあらまあまあ、随分と余裕がお有りで」
吹っ飛ばされたランサーが、縁側の柱に激突した。立香が思わずといった様子で悲痛に叫ぶ。
「ランサー!」
「問題ない、下がっていろマスター」
何事も無かったかのように立ち上がった彼は確かに無傷だが、確実に消耗はしているはずだ。内部魔力の残量もかなり減っているに違いない。先程からどこか精彩を欠いた動きしかできなくなっている。
くるりと振り向いたバーサーカーが、キャスターを見て妖しく微笑む。
「ところで、先程面白いことを仰っていましたね? あの子が貴方のマスターと同調した、と」
ぞっとする程冷徹な声音であった。
キャスターは戦慄した。聞こえていた。聞こえてしまっていた! ならば彼女が狙うのは――
「五月蝿い虫が一匹別の獲物に飛んでいったようですし、さくっと終わらせてしまいましょうか」
紫電が飛ぶ。
初めてランサーやキャスターではなく家に向かって放たれた雷光の帯。ランサーが咄嗟に間に入り、槍を構えてそれを防ぎきった、が。それすら彼女の読み筋であった。バーサーカーはもはやランサーになど見向きもしない。雷を受け止めた衝撃で数秒動きを止めた彼の真横をするりとすり抜けて、彼女は容易く障子を切り裂き家への侵入を果たす。
「待て!!」
ランサーが追うも既に遅い。キャスターも追撃を放とうとしたが、二次被害があってはマスターにも危害が及ぶと判断して炎熱を用いるのは中断、代わりに室内に張り巡らせていた結界を強化する。気休めにしかならないと分かっていても、もうこれくらいしかできることがない。まだエミヤオルタがいる。彼に預けるしかない。
それでも、キャスターは駆け出した。
追ってもどうにもならない。当たり前だ。不可能に決まっている。守れない。
けれど、ああ、だけど。
見捨てるなど、この
「マスター!!」
室内に入る。数秒で、動きを止めたバーサーカーが目に入った。
ランサーが背後から槍を振り下ろす。それをあっさりいなした彼女は返す刀でランサーを再度吹っ飛ばした。着地の直後立ち上がろうとした彼はがくりと屈んだままだ。
形振り構っていられない。ルーンを刻む。炎を纏わせた杖を振るってバーサーカーに一撃でも食らわせてやろうとしたが、これも刀で防がれた。その刃が不気味に光る。ゼロ距離の雷光が来る。
マスターの悲痛な叫びが聞こえる。己とて、ここでリタイアなど御免だ。瞬時に張った防御壁に、雷が直撃した。
「がっ……!!」
感電など生温い。もはやそれは内側から食い破られる感覚に近い。これでも半分は威力を削ったはずなのだが――ああ、視界がぶれる。どさりと遠くで音がした。何だ、自分が倒れた音だ。
バーサーカーが背を向ける。黒い弓兵が対峙する。
マスターが震えている。後退ろうとして、脚が縺れて座り込んで、表情の消えた顔でぼろぼろと涙を流している。
夢を見ているときと同じだった。彼女にバーサーカーは見えていない。あのガラス玉の琥珀は、もっと別の、過去の何かを見つめている。本人が逃げようとしないのだ、もう打つ手も無かった。
それでも、とキャスターが動かぬ身体を叱咤した、そのとき。
マスターの悲鳴に、
*
「……チッ。了解した、貴様は援護を続けろ。オレはマスターを叩き起して離脱を試みる」
ふと意識が浮上した。
久しぶりにあの夢を見た。だからだろうか、何だか外が騒がしいというのに、身体が重くて動けない。
頭上にはエミヤオルタの厳しい顔。援護、離脱――敵襲か。
「起きたか。状況を説明するぞ」
手短に聞かされたバーサーカー襲来、続くもう一騎の敵影の旨に、一気に頭が覚醒する。今はランサーが抑えているというが、あのバーサーカーである。
するりと腕が離れた。先に腰を上げたエミヤオルタに支えられて立香は立ち上がり、よろめく脚を何とか奮い立たせる。いいか、と彼は言い聞かせた。
「もしこちらに敵が現れた場合は、オレがある程度足止めする。お前は手筈通りに逃げろ」
「……エミヤ」
「そんな顔をするな、オレとて死ぬつもりは無い。殺してやると言ったろう、せいぜい足掻いてやるさ」
不敵に笑う彼は、もう何も言わせてはくれなかった。
駄目だ。結局自分は何も変わっていない。あの日から、あの災厄から、結局自分は周りの人達を殺してしまうだけの存在だ。
何もできない。
「――見いつけた」
奥の襖が破断され、埃と紙屑を舞い散らせ現れたバーサーカーは笑んでいた。たいそう嬉しそうに、幸せそうに。
「これであの子は魘されずに済むのですね……あら?」
直後、土埃を切り裂いて背後から迫ったランサーに、ゆるりと振り向いた彼女は言った。
「貴方、もう燃料切れでしょうに。無駄なことはするものではないですよ」
一閃、たった一撃。
それで終いだった。吹っ飛ばされたランサーの動きが目に見えて鈍く、緩慢になる。槍を支えに立ち上がろうとしても、それすらできない。無傷なのに、動けない。立香の魔力が切れたのだ。
「マスター!!」
駆けつけたキャスターが炎熱を帯びた杖を振るいバーサーカーに挑む。
――やめて。
いとも容易くその一撃を受け止めた童子切安綱が、紫電を帯びる。
――殺さないで。
「やめてえええーーーー!!」
――ばちん、と。
それはとても軽く、無機質な音であった。
あ、と自分の喉が小さく震える。
天地の属性を悉く滅ぼすその特性。そうだ、初めに殺したのは彼だった。一番近くにいたのだから。一番傍にいたのだから。
震えが止まらない。フラッシュバックが身体を硬直させる。
全身から煙を上げ、キャスターが倒れ伏す。バーサーカーがこちらに歩み寄ってくる。
「……逃げろ、マスター」
低い声が、何を言っているのか分からない。
かちかちと歯が鳴る。脚が震えて立っていられない。尻餅をついて、藺草の感触も判然としない。
殺したくない、殺したくない、殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない――!!
「あ、ああああああああああああああああああああああ!!」
振り下ろされた刃など、見えなかった。
*
――何が起きたか、一瞬全く理解できなかった。
雷撃で脳がショートでもしたか、それとも、あまりに来訪者が奇怪すぎたからか。
天井をぶち破り、飛び込んだのは、青。
金の瞳を殺気と怒りに爛々と輝かせ、マスターを背後に庇って雄叫びを上げる、一頭の巨大な狼。その背には、両手に鎌を携えた首の無い騎士が乗っている。その背後にしがみついていた、そして今まさに降り立ったのは赤い弓兵だ。
獣が唸る。バーサーカーの喉笛のみを睨みつけ、青い狼はトラバサミの着いた前足の爪を畳に食い込ませて前傾姿勢をとった。
「ヘシアン・ロボ……!?」
黒い弓兵が驚愕の一声を上げる。
同時。弾丸の如く地を蹴った狼がバーサーカーに襲いかかった。
「……っ!?」
とんでもない見た目のインパクトで反応が遅れたのか、初めて後手に回ったバーサーカーが騎士の振りかざした鎌と刃を交えた。
守っている。間違いない、あのサーヴァントはマスターを守護している。
「話は後だ、私!! ライダーを援護するぞ!!」
アーチャーが双剣を手に叫ぶ。逡巡を一瞬で切り捨て、エミヤオルタが銃剣を携えバーサーカーに立ち向かう。
三対一、しかし鎧武者は未だ平然と三騎の猛攻を捌ききっている。
「ぐ、う……あ、ちくしょう、が。はよ治れってんだ……!!」
ぎしりと軋むぼろぼろの身体をルーンで無理矢理補修し、キャスターは床に手をついて何とか立ち上がろうと試みる。ここで指を噛んで観戦なぞ死んでも嫌だった。己とて、守らなければ気が済まない。
「マスター……!」
足を引きずり必死の思いでマスターの元に辿り着く。虚空を見続ける彼女を抱きしめて、囁いた。
「マスター、大丈夫だ。オレはまだ生きてる。まだ戦える。
腕の内の細い身体が大きく震え、キャスター、とか細い声が名を呼んだ。
「……私、殺して、ない?」
今、何と言った。
殺していないか? キャスターが死んでいないか、ではなく、キャスターを殺していないか、と聞いたのか。
浮かぶ疑問符を叩き潰し、キャスターは頷く。何にせよ、それが今彼女を縛りつけているものには違いないのだ。ならば己は否定してやろう。何度でも、何度でも。
「ああ、死んでねえよ。お前さんは誰も殺してない。だから、な」
そっと瞳を覗き込む。徐々にその琥珀に色彩が戻る。帰ってこれたのだ。
「キャスター、ロボが」
「あの狼か?」
頷いた彼女は、どうして、と呟く。
忘れているはずなのに、とも。
「まさかあいつも、アンタの元サーヴァント――」
言いかけた途端、紫電がずたずたの部屋をさらに引き裂いた。
後退しキャスター逹の元まで戻った狼の毛皮は既に血に汚れ始めている。返り血ではない。バーサーカーは未だ無傷である。
「ロボ! ああ、こんな、どうして……! どうして私を守ろうとするの、全部無くしたはずだったのに!」
痛みに満ちた叫びを聞き届け、狼と首無しが同時に振り向く。
狼は一転して優しく金の瞳を細め、ぐる、と一つ喉を鳴らした。首無しは小脇に鎌を二本とも抱え、空いた両手で何やら手話を繰り返す。
「……それ、私が教えた」
今度は違う手話、それから先程のものをもう一度。
「私、逹、忘れる、無い…………? ま、さか、
また、手話が一つだけ。
それはキャスターにも分かった。『YES』と。
「忘却補正、なの? ずっと憶えてたの? 聖杯まで使ったのに、十年前を、ずっと!」
再び、『YES』。
そうして一人と一頭はまた敵に向かい突進していった。
しかし、僅かな時間でキャスターには分かってしまった。あれはもう長くは保たない。どこにもパスが繋がっていないのだ。はぐれサーヴァントの身の上で、弓兵でも無いのにここまで激しい戦闘を繰り広げればすぐガス欠になるのは当然と言える。
「マスター、ありゃ駄目だ、もうあと数分も保たん。あのままだと戦闘中に魔力が切れて消滅するぞ」
「……っ」
唇を噛みしめ、マスターが必死の形相で考え込む。見れば弓兵逹もいくつか傷を負い、決定打は見込めない。このままではじわじわと戦力を削られる。
数秒後、何かを決意した表情でマスターは顔を上げた。
「キャスター、魔力は残ってる?」
「……? ああ、まあ半分はあるな」
「キャスターの魔力量とアヴェンジャーの魔力量の比率からして、私の限界値と……よし、分かった。計算できた」
ぶつぶつと呟いた後、マスターはとんでもないことを命じた。
「私に全体の一割でいいから魔力を逆流させて。できれば、一気に」
キャスターは、一瞬、絶句した。
何ということを言い出すのだ。無茶どころか自殺行為だ、下手をすれば死ぬ。
「なっ……アンタ何言ってるか分かってんのか!? 第一、アンタの魔術回路じゃ受け止めきれるか分かんねえんだぞ!!」
「それくらい分かってる! 無茶は承知、でもこうでもしなきゃバーサーカーを倒せない。やって、キャスター。それとも私に令呪を使わせたい?」
手元の赤は未だ三画、一度も消費されずに残っている。
キャスターはマスターの苛烈な眼光を真正面から受け取る。決意を固めた眼差しであった。きっともう己が何を言ったところで聞く耳を持たない、そんな真っ直ぐな意志を感じる。
仕方ない。命令を寄越せと言ったのは、こちらであるのだから。
「……タイミングは預ける。言っとくが、上手くいく保証はできねえぞ」
「ありがとう、それでいいよ。元々この身体は多少無茶しても壊れないようにできてるから、心配しないで」
不敵に笑い、マスターはしっかと地に足をつけて立ち上がった。
すう、と彼女は大きく息を吸い、それから叫ぶ。
「――来て、アヴェンジャー!!」
鶴の一声とはまさにこのことであった。
高速の戦闘を繰り広げていた狼が、躊躇うことなくその声に咆哮で応え後ろに下がる。何かを察したのか二人の弓兵も後退し、追撃の姿勢をとったバーサーカーに牽制の弾丸と矢を放つ。
「へシアン、手を!」
マスターが駆ける。手を伸ばす。
首無し騎士が身を傾け、鎌を一本、狼の口元に預けた。もう片方の鎌は魔力に還り消えていく。
狼が鎌の柄を咥える。バーサーカーが何かを察知して追撃の手を止め後退を始めた。
首無しの手とマスターの手が、触れる。
「キャスター!!」
「おう!!」
命令のままにキャスターは自身の魔力を逆流させ、通常はマスターからサーヴァントへと向かっているパスの流れを反転させる。きっちり一割、寸分の狂いもなく。
マスターが血を吐いた。それでも彼女は騎士の手を離さない。受け取って、と小さく囁いて、魔術回路を青く光らせる。
「霊子、譲渡……! 同時に命じる。へシアン・ロボ、宝具解放!!」
狼が吼えた。
その口から漏れ出るのは蒼炎。蒼く、蒼く、死体を彩るリンの炎。瞳もまた炎を宿し、蒼い影を長く残す。足からはトラバサミが消え、獣を完全に解き放つ。
首無し騎士の外套がざわりと蠢く。黒い布が後ろに広がり、その内から青黒い刃が五指を広げたように展開する。まさしくそれは、命を刈り取る形をしていた。
変貌した狼と騎士が、駆ける。
騎士が、マスターから離した手を存在しない頭部の横に挙げて、ひらひらと小さく振った。
マスターが息を呑み、ぐっと何かを堪えながらも唇を動かす。
「行っておいで、私の、アヴェンジャー……!」
応えるように速度を増し、獣が奔る。
蒼く、蒼く、燐光を靡かせ、その毛並みは血に濡れてなお威風堂々と美しく。
青黒い刃がぶわりと広がり、バーサーカーを捕らえた。突き刺さった刃から逃れようと彼女はもがくが、もはやそれは無駄な足掻きでしかない。
狼が鎌を振り上げる。
物言わぬ彼らの代わりにとでも言うかのように、マスターが吼えた。
「行け、
*
――金色の淡い光が、蛍のように二つの霊基から浮かび上がった。
片方は、首を無くした菫色の鎧武者から。ごろりと転がった頭の、瞼をマスターがゆっくり閉じた。
そしてもう片方は、全ての魔力を使い果たした一人と一頭から。
「……アヴェンジャー」
マスターの伸ばした腕の中に、炎の消えた狼が鼻先を収めた。
巨大な頭部を抱きしめて、彼女が青い毛並みに頬を寄せる。その手は狼の耳の後ろを優しく撫でていた。
首無し騎士が狼から降り、マスターに寄り添う。
「……ねえ、いつかまた、あの夕焼けを見に行こうね」
狼が喉を鳴らす。応と言っているかのようであった。
首無しの指が彼女の夕焼け色の髪を撫でた。
さらり、その指先が虚空に溶けていく。
「ありがとう、ごめんね、こんな私を守ってくれて、ありがとう……」
さらさら、さらさら、金砂の山が崩れるように。
やがて青い毛並みが、黒い外套が、薄れて溶けて消えていった。
そうして、ライダーとして喚ばれた、されど彼女のためだけのアヴェンジャーであった一人と一頭は、静かに座に帰っていった。
*
「……行っちまったな」
「うん」
キャスターはふらつくマスターの肩を支え、彼女がそこまで消耗していない弓兵二人に歩み寄る手助けをしてやった。
ランサーは何とか動けるようにはなったらしい。外に向かったのは、おそらく魔力切れで倒れているであろうあちらの立香を回収するためだ。
「エミヤ、アーチャー、怪我は?」
「問題ない、私達よりキャスターの方が重傷だと思うがね」
長身二人を見上げるマスターに、アーチャーが肩を竦めている。確かに、とキャスターは冷静に自分の損傷を確認して内心頷いた。何せ雷の直撃を食らったようなものだ。多少動けるようには回復したものの、身体の中身はずたずたである。正直もう動きたくない。
エミヤオルタはといえば、何故かずっと黙ったままマスターを見下ろしていた。来ているスーツのあちこちが破け血が滲んでいるが、あの程度傷のうちにも入らないと彼なら言うだろう。
「ん、私の魔力は……ちょっと残ってるか。キャスター、今治すからね」
スカートの裾をひらめかせてマスターがキャスターの元に戻ってくる。足取りが覚束無いもので転けたりしないかとはらはらしながらキャスターは見守り――
とん、と。白い首筋に黒い弓兵が手を振り下ろすのを、確かに見た。
「……あ?」
何とも間抜けな声が自身の声帯から落ちたのを確かに聞いた。マスターの身体が前に傾いでいくのが、ひどく克明に見えた。
細いその身を黒い腕が抱きとめる。
もう片方の手に握られた、今まさにピンを抜かれた筒のようなものを認めた瞬間、そこを中心に真っ白な煙が噴き出した。煙幕だ。視界が霏に包まれ何も捉えられない。
「……っ!? くそ、上か!!」
気配の移動を感じて破壊された天井を見上げる。後を追おうにも跳躍すらできない身体である。激痛の走る脚を叱咤して、外へと駆けた。
「オルタ、テメェ!!」
理解が追いついていない。だが一つだけ分かることがある。
あの弓兵は、裏切った。
「何を驚くことがある。オレは守護者だとは言ったが、こいつを守るとは一言も言っていない。何より、『エミヤ』がよく裏切るのは知っているだろう」
気を失ったマスターを抱きかかえて、エミヤオルタは半壊した屋根の上で嘲笑う。
そこへ跳躍したアーチャーが双剣を振りかざし肉迫した。キャスターと違い彼にはまだ余力が残っている。だが。
「――令呪を以て命じる。『オレを見逃せ』」
左手の赤が光った。
アーチャーの身体が硬直し、そのまま室内へと落下していく。
軽やかに屋根瓦を蹴り、エミヤオルタは森の中へと紛れ込む。アーチャーの追撃は無い。令呪の強制が作用している。
「待て!!」
追いかけようとした矢先、弾丸が飛んだ。
咄嗟に展開した防御壁に弾が罅を入れる。その隙に凄まじい速度で気配が遠ざかっていく。
「キャスター!?」
「いい、あいつを追え!!」
ランサーに支えられ、家の反対側からよろめき出た立香にキャスターは叫ぶ。
しかし、駄目だと彼は首を振った。
「ごめん、もう、俺……」
それで気づいた。彼にはもう無理だ。ランサーを追撃に遣るには、魔力が足りなさすぎる。
「くっそ、待ちやがれオルタァ!!」
自分とて限界だった。膝に力が入らない。走ることはおろか、歩くことさえできそうにない。
なんてことだ。肝心なときに動けないなど!
唇を血が滲む程噛みしめる。既に、探知可能な領域にあの弓兵の気配は無い。
口惜しさに気が狂いそうになる中、ただマスターとエミヤオルタの消えた森を忸怩たる思いで睨むことしかできなかった。
*
「もうすぐだ、マスター。もう少しで、お前を――」