Oracion   作:若布.

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――こんな救いしか与えられないが、これがお前の正義の味方だ。
文句は言うなよ、マスター?


第五章

 いつかはこうなるのだと、予感はしていた。

 『私』は爆弾になってしまったのだ。人類を救い、世界を救い、ようやく辿り着いた未来の中には、『私』の席は無い。要らない。もう要らない。私という個人ではない。『救世主(わたし)』はもう必要無いのだ。『私』が救った世界にとって、『私』はもう使う機会の無くなった道具と同じこと。むしろ、数多のサーヴァントを従えるこの在り方は危険とすら取られるだろう。早いところ潰してしまった方が良いし、生かしておいたところでデメリットしかないのなら誰が『私』の席を用意するだろうか。

 薄々そんな気はしていた。

 だから、あの人からの通達も落ち着いて聞くことができた。

 英霊召喚システムによって、私は自分と英霊の縁、繋いだ絆を触媒としサーヴァントを喚ぶ。この身は既に聖遺物。私にしか召喚できない英霊だっている。であれば。

 私を触媒にすることなど、皆が簡単に思いつく。

 私はどうやら死なせてももらえないそうだ。所謂コールドスリープとかいうやつで、封印扱いのままずっとずっと眠り続けることとなる。何でも、私が死んだことを知ったらサーヴァント達が暴走する、とか。

 私の封印は秘密裏に行われ、サーヴァント達には知らされない。何か遺伝子疾患にでも罹ったということにしてカルデアから引き離すのだという。……千里眼持ちを舐めすぎである。別の方策は私から提示することにしよう。

 ――この世界に、もう『私』の席は無い。

 私の席も、無くなった。

 それでも世界を愛している。たとえどんなに裏切られても、それは『私』の、私の救いたいと願った世界だった。恐れられようが邪魔と言われようが、それは私が愛した世界だった。

 だから、これでいい。

 これでいいから。

 ――ねえ。何故、泣くの。

 

第五章 正義の味方

 

「はああああっ!!」

 

 裂帛の気合と共に振り下ろされた大剣を、両手で掲げられた金の槍が受け止める。ランサーの足が地に沈む。衝撃の余波は風となって砂礫を吹き散らした。

 ランサーが大剣を弾き、返す槍でセイバーの懐を狙う。しかし必殺かと思われた刺突は大剣から離れた片手の銀色の篭手に阻まれ、次の横薙ぎは距離を取られて回避される。かと思えばセイバーがその場で剣を振り――

 

「チッ!!」

 

 キャスターは舌打ちしつつ杖を地に突き術式を起動させる。直後彼と他二人をそれぞれ囲んで展開された木の根の防壁が、半円状に広がった魔力放出の衝撃波を受けきった。二擊目は耐えられん、とキャスターは砕かれかけた根を見て再び舌を打つ。数日前一度目にしたときに既に悟っていた。こんなもの、何度も防げるとは思えない。

 

「すまない、助かった」

「おう」

 

 やや離れた位置にいるアーチャーの礼を短く受け取ったキャスターは、次の瞬間息を呑んだ。

 ランサーが防壁を飛び越えて天空で槍を掲げている。その鋒には灼熱を孕み赤々と燃える一つの光球。そして、柄に蛇のように絡みつくフレア。

 

「もはや小さな太陽だな……」

 

 アーチャーの呟きは畏怖を帯びていた。

 全力全開のランサーを止められる者などもはやここには存在しない。聖杯の中身を惜しげも無く使って顕現した極小の太陽、それは彼の炎を極限まで圧縮した爆弾だ。

 無論、そんな破壊兵器をぶっ放してしまってはセイバーとて保たない。が、キャスターやアーチャーはもっと保たない――通常なら。

 出立前、ランサーは淡々とある忠告をした。

 

『セイバーの宝具を突破できるだけの火力となれば、貴方達を巻き添えにする可能性が高い』

 

 そして今、キャスターの前に赤い聖骸布をはためかせ降り立った赤い弓兵はこう言った。

 

『一撃くらいは耐えてみせるさ。遠慮せず、思いきりやりたまえ』

 

 キャスターはそれが誇張でも慢心でもないことを知っていた。遠い遠いどこかの世界で、あの紅い必殺を防ぎきった彼ならば!

 

「さて、このあとしばらく私は戦力にならんが、構わんかね」

 

 右手を前に。

 何でもないことのように、そして余裕たっぷりに。この場に不似合いな自信に満ちた笑み。

 構う訳がない、とキャスターも口角を吊り上げ応えてみせた。

 

「やっちまえ、アーチャー」

 

 空には太陽が二つ。

 セイバーは回避も不可能と悟ったのか、大剣を構え膨大なる魔力をその刀身に集約させていった。柄が開き蒼い宝玉が現れる。

 宝具だ。真っ向から迎え撃つつもりか。

 

幻想大剣(バル)――」

梵天よ、(ブラフマーストラ)――」

 

 真名が双方の口から紡がれる。既に渦巻く魔力は大気の流れをも変え、霧を急速に晴らしていく。

 

「――天魔失墜(ムンク)!!」

「――我を呪え(クンダーラ)!!」

 

 太陽の焔槍と滅龍の黄昏が同時に放たれた、その瞬間。

 

「I am the bone of my sword」

 

 光の中に、薄紅色の華が咲いた。

 

「――『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

 

 

 同時刻、斜面の反対側。

 

「……馬鹿な」

 

 男は呆然と呟くのみであった。無理もないと立香は思う。氷の杭は確かに標的目指して一直線に宙を駆け、そして確かに命中した、はずなのに。

 

「うん、問題無いね。オレの片鱗だけでもこれかあ」

 

 自分は何事も無かったかのように、抉れた地面に立っているのだから。

 

『そりゃああなた、借りてる宝具が規格外すぎますから。ルビーちゃんの防壁と合わせたらもう誰も敵いませんよ』

「そうだね。よし、誰も来ないから今のでギリギリセーフってことでいいかな? もう一回くらいは怒られないよね」

 

 青年は改めて杖を体の前に掲げる。何とも場違いなファンシーなタキシード姿は正直誰にも見られたくない。特にキャスターあたり。だってオプションで猫耳とか尻尾とか着いてるし。

 たぶん敵がショックから立ち戻ってこないのは、攻撃が防がれたことだけでなくこのふざけた見た目も原因なのだろう。ちょっと申し訳なくなってきた。

 

「ルビー」

『了解でーす! 並行世界への部分介入開始、対象の霊基を再確認、スキル再認識。いきますよお、ちょっと汚染されますがそこは気合で耐えてください!

――夢幻召喚(インストール)、局所展開!』

 

 ああ、流れ込んでくる。

 ほんの僅かな泥だけでも、こんなに脳を潰されていく。

 別に、構わない。意志さえ残れば、決意さえ残れば、それでいい。あとは前に進むだけ。もう戻る場所なんてどこにも無い。

 

「おま、え、まさか、馬鹿な、ありえない、彼女は回収した! ビーストは一つじゃなかったのか!? ありえない、ありえないありえないありえない! お前は――」

 

とてもうるさかった。

耳障りで、うるさくて、我慢できなくて。

 黙らせたのに、耳鳴りが遠く騒いでいて。

 これは、誰?

 

 

 流星雨が綺麗だった。

 あの人と最期に見た景色。あの人が消えていった宇宙。

 そして約束を果たせなかった自分。

 泣き声が聞こえる。

 耳鳴りが響いている。

 極天を星が墜落していく。

 

 

「………………あ」

 

 ふと我に返った。

 足元は血で濡れている。死骸が一つ転がっている。

 

「ルビー、俺どれくらい呑まれてた?」

『二分くらいですねえ、やっぱり汚染が酷いです』

「そう。ランサー達は……突破できたかな」

 

 耳鳴りは止んでいた。

 ここからでは戦闘の音が聞こえない。セイバーのマスターを処理できたのはよかったが、マスターが死んだからといってすぐにサーヴァントが消えることにはならない。最後の足掻きだってするだろう。

 変身は解けていた。セイバーのマスターに息が無いことを改めて確認してから、青年は山の斜面を再び登り始める。

 その後ろを、ステッキは黙ってついて行った。

 

 

 衝撃と爆風が周囲の草木を薙ぎ払っていった。

 爆弾の落ちたかとも錯覚するような、凄まじい威力の一撃同士の激突。キャスターはゆっくりと目を開く。衝撃はようやく収まったが、まだ土煙で視界が覆われていた。

 目の前には赤い背中。美しい七枚の花弁は全て砕け散り、見る影もない。

 だが――防ぎきったのだ。この男は宣言通り、あの激突の余波を完全に遮断してみせた。

 

「……は、君の必殺の方が、堪えた気がする、な」

 

 ぐらり、その身体が傾ぐ。

 キャスターは咄嗟にそれを受け止め、肩を貸して支えた。筋力値は最低だが大柄な男一人くらいならどうということはない。

 

「そりゃどうも。おら手ェ回せ、立てるか?」

「すまない……ああ、これなら大丈夫だ。だが移動速度が遅くなる、のは」

「分かってる、気にすんな。オレじゃアレは防げなかったんだから」

 

 息も絶え絶えなアーチャーである。無理もない、剣以外の投影はかなり魔力を消費するのだと聞いたことがある。内部魔力はもういくらも残っていないはずだ。回復には時間を要する。

 

「……で、どうだ、見えるか?」

「生憎この目は魔力で動いていてね、今は少し、効きにくい。君に見えないなら私にも無理だ」

 

 つまり、暫くアーチャーの斥候としての機能は封じられたも同然ということだ。キャスターは自身の感覚を頼りに状況を把握しようとする。

 やがて、土煙が緩やかに晴れていった。徐々にクリアになっていく視界の端、キャスターはランサーの背を捉えた。どうやら五体満足、特に出血も損傷も見受けられない。

 

「ランサー」

「……感嘆に値するな。本当に防ぎきったのか」

 

 歩み寄ったキャスターに支えられているアーチャーへ、やや藍玉の瞳を見開いてランサーが呟いた。

 

「暫し休息は貰うがね。……どうだ?」

 

三者三様に、流れていく土煙の先の影を睨む。

 セイバーにはどれ程のダメージを与えられたのか、それとも彼はあの太陽を相殺しきってみせたのか。

 果たして、土煙の完全に晴れ渡った先にいたセイバーは――

 

「……あれを受けて、たったあれだけの損壊で済むとは」

 

 余波を受け止めるのすら精一杯だったのに、と言外に滲ませながらアーチャーが零した。畏怖すら混じった言葉であった。

 セイバーは頭から僅かに血を流し、肩の鎧は片方ひしゃげている。が、目に見えるダメージはそれだけだ。宝具による相殺もかなり効いたのだろう。この英雄の誇る要塞級の防御力と攻撃力を改めて思い知らされる。

 これでは真っ当に押し通ることなど不可能、とキャスターは歯噛みする。悲観的になったつもりはなかった。純然たる事実であった。この男は、硬すぎる。

 だが。驚愕していたのはキャスター達だけではなかった。

 

「マスター……?」

 

 呆然と、セイバーが呟く。その翡翠の双眸が山の向こう、彼の背にしていた方角へと向けられる。

 そこでキャスターは気づいた。魔力の流れが途切れている。セイバーのマスターと思しき反応が山の反対側にあったのは気づいていた。それが、消えている。

 立香だ。いったいどうやったのかは知らないが、立香がセイバーのマスターを打倒した。たった数秒でキャスターは悟った。彼はこれがやりたかったのだ! 立香の狙いはセイバーのマスターだったということか。

 

「ランサー!」

 

 キャスターの叫びに込められた全ての意味を汲み取り、ランサーが槍を振りかざし駆ける。

 金の槍をセイバーは防いだ。先程と同じに見える。だが違う、確実に精彩を欠いている。宝具を撃ち、またもう一つの鎧の宝具をフルに使ってランサーの太陽を防ぎきった。だからこそ今はガス欠で、加えて魔力はもう絶対に供給されない――!

 

「このまま抑える、先に行け!」

 

 ランサーが吼える。元よりそのつもりであったキャスターはアーチャーから手を離し走り出す。既に走れる程度には回復しているだろうと見込んでの行動だった。予想通り、アーチャーはキャスターに追随してくる。

 

「行かせるか!」

 

 セイバーも吼えた。同時に鍔迫り合いの大剣から放たれる魔力の衝撃波。方向を定めず、あたかも水面に一石を投じたときのように波状攻撃が広がる。

 しかし。

 

「私を忘れてもらっては、困るな……!!」

 

 走りながらアーチャーが再び魔力を回す。背後に振り向きかけの無理な体勢ながらも投影された陰陽剣の片割れが投擲され、衝撃波に触れたと同時に起爆した。衝撃に衝撃がぶつかり強引に塞き止める。

 

壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)というのは、こういう使い方もあるということ……だ」

 

 明らかに消耗の度合いが増したアーチャーは、それでも不敵に笑ってみせた。

 

 

 

「……行ったか」

 

 セイバーの声にランサーはふと違和感を覚えた。これは何だ? どこか安堵を感じさせる、この呟きはどういうことだ。

 

「聞きたいことがある、竜殺しの大英雄よ」

 

 ランサーは鍔迫り合いを解き距離を取る。セイバーは追ってこない。いや、追っては来られないのか。

 

「何だ」

「貴様はこの戦争の歪みを知っているか?」

 

 ぴくりとその眉が動いた。

 沈黙の帳が落ちる。やがて、彼は徐に口を開いた。

 

「知っているとも。人類悪、願いを叶える力の無い聖杯。マスターは後者を最後まで隠そうとしていたようだったが」

「……ならば何故、オレ達の行く手を阻んだ」

 

 セイバーの顔はいつの間にか穏やかなものに変わっていた。慈しみすら感じられた。

 

「頼まれたからだ、と言っておこう。貴方達の到着を遅らせてほしいと。そうすれば、きっと」

 

 金色の粒子がセイバーから立ち昇り始めた。時間切れだ、と彼は歌うように告げる。

 

「俺の役割はここまでだ。願わくば、ランサー。貴方はここに残っていてほしい。あのマスターからの伝言なのだそうだ」

「……オレの、マスターの?」

「令呪を使うことも考えたのだという。その意味の分からぬ貴方ではあるまい」

 

 分かるとも。ランサーは混乱する頭に片手を当て、消えゆく男をただ見つめる。分かるからこそ分からない。あの青年は、あの夕焼け色を救おうとしていたのではなかったのか? これではまるで彼とあの黒い弓兵が繋がっているかのような――

 

「ああ、それと。できれば彼女に伝えてくれ。初めに会ったとき、致し方なかったとはいえ殺す気で襲って、すまなかったと」

 

 最後にそれだけ言って、竜殺しの大英雄は消滅した。

 

 

 黒い弓兵がエミヤと主に呼ばれるようになったのは、召喚から間もない頃であった。

 こんな、記憶も記録も名すら棄てた男を真名で、しかもオルタナティブとも呼ばずに。何故そのような呼び方をするのか、と男は聞いた。その記憶は今残っていない。古ぼけた日記の初めのページ、掠れたインクはその一部始終を伝えていた。

 

『だってあなたは私の正義の味方でしょう』

 

 そんなもの理由にすらなっていない。そもそも前提が間違っている。この腐り果てた黒い守護者は、最早正義など振りかざせる存在ではない。

 

『そうなの? でも、私は知ってるよ。あなたは確かに正義の味方なの』

 

 根拠は? と聞けば、内緒、とはぐらかされた。

 

『キャスターから聞いたよ、赤いあの人も正義の味方になろうとしたのだって。だから、何ていうか……あなたを反転(オルタナティブ)と呼ぶことに、抵抗? があるというか』

 

 不思議な少女であった。

 エミヤ、と少し高めの声が呼ぶ。()()()エミヤが召喚されてもそれは変わらなかった。ずっとずっと変わらなかった。

 だから、だろうか。

 いいじゃないか、正義の味方――なんて。

 言ってみたところで、なれるはずもないのに。

 何だか妙に泣きたくなるのは、そのせいではないと思うけれど。

 

 

 

 轟音と衝撃が社殿を揺らした。

 パラパラと木屑や埃が落ちてくる。崩れないだろうな、と一瞬心配にはなったが、どうやら保ってくれそうだ。

 

「なあマスター、オレはアンタの正義の味方になれたかな?」

 

 ふと、振り向いて聞いてみる。返事は無い。揺蕩う夕焼け色の彼女は硬くその瞼を閉じたままだ。

 随分髪が伸びた。赤い方の己もそう言っていた。憶えている。まだ肩口までしかなかった、あちこち跳ねるお転婆な髪。今ではもうそんな溌剌さは消えてしまった。あの少女は死んだのだ。十年前のあの日、泥に呑まれて死んだのだ。

 記憶を零すのは不便だが、抱き続けるのもあまり良いことでは無いのだと黒い守護者は思う。古ぼけた黒い革の日記は十年前に役目を終えて、今ではポケットのスペースを圧迫するだけの代物である。けれど、捨てる気は何となく起きなくて、ずっとジャケットの内ポケットに突っ込んだまま、たまに捲っては読み返す。

 抱き続けるのは、きっと良いことでも無いのだ。

 それでも文字を追っていく。取り零した記憶の欠片を一つ一つ拾い上げるように。二度とは復元できぬいつかの日々を、僅かでも埋めていくように。

 レイシフト先で無茶をやってしこたま叱られた。反転した騎士王にマスターごと連行され、三人でジャンクフードを食べた。ハロウィンの仮装で軍服を着た。戦闘のことから本当にくだらない馬鹿騒ぎまで、擦り切れた革の日記帳に残る現界の記録。

 それももう、捨てなければならない。

 

「随分、早いご到着だな。セイバーを振り切ってからの移動速度を甘く見ていたか?」

 

 マスターを背に、エミヤオルタは社殿の入口へと顔を向ける。

 苛烈な眼光の青いドルイドと、反転していない自分。

 

「……オルタ」

 

 そう、今のキャスターのように、そう呼んでくれれば見限ることもできたかもしれない。

 オルタナティブ。それがこの■■■■の成れの果てに相応しい呼称。そう呼んでくれたなら、頑なに真名のみを呼ぶ主でなかったなら、まだ切り捨てられたのかもしれない。彼女の肯定した正義の味方なんて幻想(ゆめ)を、放り投げることだってできたのかもしれない。

 こんな、彼女の救った人類の一人もいない寂しい場所で、彼女を終わらせることもなかったのかもしれない。

 ――なんて。そんな詮無いことを、どうして今ここで考えるのか。

 

「これ、は。おい、この男は……!!」

 

 そういえば放っておいたのだったか。床に打ち捨てたままの若い男の死骸を見た赤い弓兵が叫ぶ。

 

「どういうことだ、私!!」

「どうもこうもない。そいつはもう用済みだったからな。マスターを反転させるための駒だった、ただそれだけの話だ」

 

 魔法陣を見る。完全起動まで残り数分、誤差の範囲とするにはやや長い。

 

「さて、残念ながらこちらはまだ少々時間が足りていなくてな。悪いが足掻かせてもらうぞ」

 

 左手に宿ったマスターの証はあと二画残っている。いつかどこかでこの赤を見たのだろう。そんなことはもうどうでもいい。使えるものは何だって使う。立香とセイバー、それぞれがそれぞれに足掻いてくれた。ならば最後の帳尻合わせくらい成し遂げてみせる。

 

「二画の令呪を以て命じる。キャスターを足止めしろ、アーチャー」

「き、さまっ……!!」

 

 怒るか。エミヤオルタは真鍮の目を細める。最後まで言わなかったのだから、当然だろう。彼は知らないのだ。同じくカルデアの記憶を抱き続けても、あのエミヤはこの計画には関与していないのだから。

 重ねた令呪の効力は絶大で、わずかな抵抗も許さずアーチャーに剣を持たせた。振り下ろされた干将莫耶をキャスターが杖で受け止める。

 

「くそっ……! オルタ!! テメェいったい何が目的だ!!」

 

 目的、目的、目的ときたか。

 思わず口元に笑みが浮かぶ。馬鹿な質問をしてくれるな。そんなもの、初めから正直に言っていたじゃないか。

 

「オレの目的だと? 決まっているだろう。オレはこいつに召喚された。聖杯を探し、回収し、人理を修復するために雇われた。こいつが役目を果たそうと望むなら、オレはそのために動く。それ以外に何がある」

「……なん、だと」

 

 キャスターの動きが止まった。同時にアーチャーの攻撃も停止する。命じたのは『足止め』であり『殺害』ではない。初撃はともかく、向こうが手を出さなければアーチャーも無理な追撃を行わない。

 痛快で、馬鹿みたいだった。聖杯の回収をしなければならないとマスターも最初から言っていただろうに、何をそこまで驚くことがあるのか。

 

「聖杯を破壊する。二度と悪用されないように。それが、マスターが出した最後の命令だ。ならばオレはそれに従う。たとえ、こいつを獣にしてでも」

 

 その聖杯は既に見える場所には無い。このビーストの顕現に必要な材料は莫大な魔力だけではなく、聖杯という概念そのものだ。故に、彼女の体内に杯は呑まれた。それこそがこの世から魔術王の聖杯を滅却し、かつアラヤの指示と折り合いをつけられる唯一の道だった。

 

「知らなかったか? オレ達サーヴァントに取り込まれた聖杯は、その分霊が座に帰るのに従ってこの世から消える。今までこいつが集めた聖杯は、そうやって消滅した……たった一つを除いてな」

 

 だが、それももう終わりだ。

 

「最後の一つはこいつに取り込まれた。獣の材料として聖杯が吸収され消滅するのは前回で証明済みだ。たった今、我らがマスターの最期の命令をオレは完遂したという訳だ」

「……まさか、そのためだけに今まで」

 

 キャスターは既に戦闘態勢ではなかった。好都合だった。もう術式は完全に起動する。

 

「フッ、どうだろうな。マスターに命じられたことは終わったが、もう一つ別の命令が残っている」

 

 ぱち、と床の魔法陣が火花を散らした。

 途端に迸る魔力の生み出す風が、ただでさえ脆くなっている社殿の骨組をぎしぎしと不穏に鳴らす。

 同時に、エミヤオルタの背後、そしてマスターのさらに背後に巨大な白い何かが顕れた。……とは、この場にいる全員が視認できていない。ただ感じ取ってはいる。莫大な力を有する何かが中空にいるのだ、と。それと契約したことのあるアーチャーは、その正体に気づいているようであった。

 

「そら、現れたぞ。見えないだろうが気にするな、アレはそういうものだ。大方、獣への変生を防ぐことを条件に契約を持ちかけているのだろうさ。今殺すか後で殺すか、どちらでも人殺しになるのは避けられないがね」

 

 術式は起動した。最後の仕上げ、則ち彼女に死を贈る仕事は自分に任されている。アラヤが契約を結んだ後に殺すこと。本来獣として成り立つその死体は、アラヤの力により封じられて事なきを得る。代わりに彼女は掃除屋になり、擦り切れるまで使い倒される。

 今獣になり現代の人々を殺し尽くすか、守護者になりどこかの時代の人々の命を刈り取るか。結局、救われない分かれ道。だがたった一つ違うのは、ここで獣にならなければ、少なくとも彼女は大切なものを壊さずに済むということだ。あの悲劇を繰り返さずに済むということだ。無論知らない誰かなら殺してもいいなんて神経をしていない彼女にとっては、その後の世界も地獄でしかないのだろうが。

 ここからはもう誰も彼女に関与できない。契約するか否か、彼女の内面での葛藤は見ることができない。

 令呪の効力が切れた。アーチャーが膝をついて荒い息を吐いている。

 その後ろに何も知らないままの男が一人いる。少しくらい教えてやってもよさそうだとエミヤオルタは考えた。気まぐれである。どうせ時間はまだ残っているし、手持ち無沙汰でもあった。

 

「暇つぶしに、昔話をしてやろう。何、大して長い話じゃない。世界を救ったのに自分だけ救われなかった、哀れな救世主の話だ」

 

 ――本当は、哀れだと思ったことはない。けれど理不尽を感じたことはある。これくらい赦されるのではと誰かの夢見たささやかな幸福を、引き潰される理不尽さ。

 

「よくある話だ。救世の英雄は、用が済んだらもう要らないと言われたのさ。……ただ、それで穏やかに終われたなら、こんなことにはなっていなかったのにな」

 

 いつか、どうか幸せに。

 只管願う者がいた。叶う訳がないと悟りながらも祈らずにはいられなかった者がいた。純粋に世界に怒りを抱く者がいた。

 皆、悉く死んでいった。

 目の前で戸惑いを露わにしているドルイドの分霊もその一人であった。

 

「恨んでいたかもしれない。そいつは何も言わなかったが、腹の中では憤っていたかもしれない。聖人でもないのに全てを赦せなど、馬鹿な話だろう」

 

 ジャンヌ・ダルクという聖女がいる。彼女は火刑に処されても最期まで恨まなかったという。それこそ異常で、人間離れしていることだ。故に聖人であったのだ。

 だが藤丸立香は聖人ではなかった。狂人でもなかった。彼女はただの人間だった。怒りもするし、悲しみもする、エミヤオルタより余程人間らしい人間だった。

 

「世界を丸ごと救ったのに、救世主なのに、自分だけは救えなかった。世界から弾かれたものをどうやって救う? ハッピーエンドなんて無かったのさ、この救世主には。御伽噺の中のような『いつまでも幸せに暮らしました』なんて一文は、こいつの人生には一度だって記されなかった。誰も彼も、こいつの傍にいた奴等が幸福を願っていたにも関わらずだ」

 

 背後の気配が動いた。

 もうすぐ契約が成立する。いや、もう成立したのだろうか。きっとアラヤはその白い手を伸ばし、彼女の頬に触れるのだ。その行為こそ契約の完全なる成立を意味する。

 

「――だから」

 

 ――いいじゃないか、正義の味方。

 そんなことも言っていたっけ。遠く遠く、白い星見の館で彼女と過ごしたわずかな日々を、十年の月日に塗り潰されぬよう、柄にもなく必死に足掻いた。残っていない記憶の代わりに、古びた日記のページを捲った。

 もう日記は必要ない。くだらない記録は必要ない。それでも読んだ。読み続けた。捨てなければならないこのときになってもまだ、未練がましく内ポケットに忍ばせ続けた。一番馬鹿らしいと嘲笑するのは自分自身なのに、それでも。

 正義の味方になろうと決めた。

 万人でなく、ただ一人あの救世主のために。彼女の望んだ最期のために。

 手を伸ばす。魔力を回す。振り返る。

 揺蕩う彼女の瞼の奥の、儚い琥珀の色彩を想う。

 もう二度と硝子玉の空虚を抱かぬようにと。泥と愛する者の血に塗れた地獄を映さぬようにと――!

 

 

 

 発砲音はいつもと同じ。

 剣の花が咲く。

 

 

 

 心臓は砕けただろう。動脈は裂けただろう。きっとこのまま安らかに眠れるだろう。

 ああ、やっとだ。これでやっと、正義の味方に任せておけと、子供みたいに胸を張って、輪廻の外へ見送ることができる。

 

「何があっても救うと決めた。腐り果てたオレには、こんな救いしかくれてやれないが」

 

 なあ、マスター。契約なんぞするもんじゃない。お前に人殺しなどさせて堪るか。

 彼女の背後の気配が停止した。勝手に動き無断で彼女を殺したことへのペナルティは、どうやら特に生じていない。このまま現界を終わらされるかとも危惧していたが杞憂だった。

 聖杯を回収する。壊れてしまった救世主にただ一つ残ったその意志を一緒に背負って、彼女を地獄行きの分かれ道から引っ張り出す方法を探した。だがそんなもの、十年彷徨っても結局一つしか見つからなかった。

 救うために抗うならここしかなかったのだ。彼女が契約を結ぶこの瞬間に、殺害により強制的にアラヤの呪縛を断ち切るしかなかった。聖杯を呑み込ませてから殺すしかなかった。限界まで唯々諾々と従って、最後の最後で抵抗するしかなかった。

 救世主がゆっくり目を開ける。綺麗な琥珀色だった。

 正義の味方は歩み寄って、浮遊する彼女の正面に立つ。

 

「マスター。マスター、聞こえるか」

 

 名を呼んだことはなかった。彼女はどこまで行っても『マスター』だった。それでよかった。それで、十分だった。

 

「……エミ、ヤ?」

「ああ、オレだよ」

 

 焦点の合わない双眸に、それでも微笑んでみせた。安心させたかった。もう見えていないのかもしれない。けれど、どうしても。

 

「言っただろう、マスター。何も殺させずに終わらせてやると。守護者になどさせない。お前にこれ以上人殺しはさせないから。獣は必ず食い止める。アラヤと契約する必要はない。だからもう、いい」

 

 もう、いいんだ。

 救世主は瞳を閉じた。はずみに目から涙のように泥が流れた。

 

「…………アラヤ」

 

 わずかに開いた唇の隙間から、どろりと血ではなく汚泥が落ちた。

 

「契約を拒否します。わたしの」

 

 咳を一つ。床に落ちた泥と、胸に咲いた剣の先から滴り落ちる泥とが入り混じっていく。

 

「……わたし、の。せいぎのみかたが、すくってくれると、いった、から」

 

 ――巨大な気配が掻き消えた。

 救世主が再び目を開く。うろうろと眼球が揺れる。もう見えていないと分かってしまった。これはもうすぐ、終わる。

 

「えみ、や、えみや、どこ」

 

 幼子のようであった。一緒にいてとねだる小さな迷い子。

 正義の味方は手を伸ばす。血の気を失った青白い頬に触れる。

 

「ここだ。ちゃんとここにいる。見ててやるから、安心して逝くといい」

 

 じわり、彼女の顔に安堵の色が広がった。泥に汚れた唇が、最後の笑みを浮かべる。

 

「……あり、がとう」

 

 

 そうして。

 世界を救い、自分を救えず、それでもなお世界のためにもがき続けた救世主は、従者に看取られ静かに息を引き取った。

 

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