この章だけ、別の並行世界のお話です。
「ホント、物好きにも程があるぜマスター? オレなんか強くしてどーすんのって」
最後の聖杯を取り込んで、悪が嘆息した。
要らなかった? と少年が問えば、貰えるもんは貰うけど、と彼は嘯く。
「しっかしこんだけ聖杯取り込んでも弱いものは弱いんだなあ……逆にすごいと思うよ、オレ」
今度は少年がため息を吐き、タブレットの画面に表示されているステータスに目をやる。確かに弱い。聖杯をいくつも飲んだのに、とんでもなく弱かったのがまあまあ弱いといった程度に改善されただけだった。ここまで徹底的に弱いと最早ギャグである。流石は元一般人、と少年は肩を落とした。
「死滅願望無かったらオレと戦闘力同じくらいじゃね?」
「ガンドしか使えないへっぽこよかマシですぅー」
「あっひでえ! 気にしてんのに!」
けたけた笑うアンリマユと少年は、見た目の年齢が近しいからか悪友同士のようであった。
「……まあ、さ」
笑いの波が引いたあと、ふとアンリマユは静かな声で呟く。
「それなりに嬉しいからさ、アンタがピンチになったら、これ使って助けてやるよ」
「……この世全ての悪が、人助け?」
「ヒヒッ、そうだなおかしいよな。ほらどこぞの正義の味方みたいにはいかないからさ、どーしても助けたようで助かってないみたいな有様になるだろうけど」
愉快そうにくつくつと喉奥を鳴らしたアンリマユに、少年はきょとりと首を傾げてから言った。
「それでいいよ。アンリがオレに手を貸してくれるっていうんなら、どんな手だって構わない」
「……は」
ピタリと動きを止めたアンリマユは、少年の真っ直ぐな青い瞳を凝視した。
嘘でも冗談でも無いのだ。凪いだ海のような瞳をした救世主の表情には、そんな気配は微塵も無かった。
「…………もしかしてさあ」
「うん?」
「オレ、めちゃくちゃ信頼されてる?」
「何を今更」
少年が顔を綻ばせる。
――それは、時間神殿に突入する前日のこと。
少年と悪魔が交わした、一つの約束。
断章 星に憧れて
――届かなかった。
誰が悪い訳でもない。ただ力が足りなかった。
霊基を維持できず消滅していくサーヴァント達。金の粒子は極天の流星雨の輝きにかき消されて、もう跡形も無かった。
たった一騎を除いては。
「諦めるかい? マスター」
こんな時まで飄々と、何とも気軽に言葉を放る男がいた。
とある世界の正義の味方の殻を被った、この世全ての悪がいた。
赤い腰布は血を吸って黒ずみ、体表の蛇が這うような刺青は、ずたずたに裂かれて見る影もない。片目は潰れ、両腕は折れて武器を握ることすらできず、霊核とてとうに砕かれ、それでもその悪は、痛みなど苦でもないと言うかのような、いつもの薄っぺらな笑みを浮かべてしゃがみ込んでいた。
その潰れていない片目が見下ろした、白い礼装を血に汚してうつ伏せに倒れていた少年の、投げ出されていた手が握りしめられる。そこには既に令呪は無く、使い切られた三画の跡だけがあった。
黒髪が揺れ、ひどく緩慢にその上体が持ち上がる。海色の瞳はまだ光を失っていない。
「……諦めない。諦める訳にはいかない。ドクターのためにも、マシュのためにも、オレは絶対諦めない」
血を吐くような苦悶の声は、しかし泣き言の一つも作らなかった。
悪は笑っている。先の質問を放ったときと同じ薄紙のような笑顔のまま、二つ目の問を落とす。
「その先の世界に、アンタの椅子が無くても?」
「…………」
少年の瞳は、露程も揺らがなかった。
いっそ苛烈とも言える光が、見下ろす悪のガラス玉に吸い込まれていく。
そして、悪は初めて血濡れた口から笑声を漏らした。感嘆ともとれたし、嘲りともとれる、不思議な笑いであった。
「ヒヒッ! いいねいいね、よく言った! ――じゃ、約束通り助けてやるよ。アンタの忠実なサーヴァントからプレゼントだ」
ぐちゃり、傷口に折れた腕が突っ込まれ、そこから何かどす黒いものを零す金の杯が引きずり出された。
それは今まで彼の霊基の消滅を瀬戸際で防いでいた最後の力であった。呪いと怨みを詰め込んだ、泥の杯の集合体であった。
「せいぜい気張んな、マスター」
その杯から手を離すと同時、今まで止まっていた時を再び進めたかのように彼の霊基は崩壊を始め、やがて一握りの塵を遺して音もなく消え失せた。
残された少年は一人、泥に手を汚して杯を掴む。
「プレゼント、ね。これ、元はオレがあげたやつだろ」
呆れたように鈍く微笑んで、少年は満たされた泥を飲み干した。
魔神王は荒廃した神殿の中心に堂々と立ち、最後に黒いサーヴァントが消えていくのを見届けた。
その身体は決して無傷ではない。数多の英雄に切り刻まれた獣は、しかしそのどれもが致命傷ではないことを知っていた。
少年は届かなかった。届く訳もなかった。
たとえこの獣がソロモン王の宝具によって殺され得る存在になっていたとしても、少年は遠く及ばない。
ゲーティアはふと空を見上げた。
星が瞬く。神殿の外縁では今でも英霊達が奮戦しているのであろう。たった一人の、平凡でどこにでもいるような少年を信じて。
くだらない、何ともくだらない。
見ろ、この少年は結局敵わなかった。英霊達の信じた少年はここで呆気なく返り討ちにあった。
そんなことを、つらつらと考えた。
――ゲーティアに敗因があるとするなら。このときその少年から目を離してしまった、その一点に尽きるだろう。
少年に止めを刺そうと思い立つまで、そのわずか十秒足らずの時間に、勝敗は決したのである。
「これで終わりか。大口を叩いておいて何と呆気ない。では、死ね」
突っ伏した少年に、魔神王は手を翳す。
少年の地に伏せたままの口から、礼装の袖口から、襟元から、溢れる泥に気づかぬまま。
「――宝具解放」
少年の声に応えるように、ごぼり、溢れた泥が泡立った。
「………………? っ、これ、は……っ! 貴様、そうまでして抗うか!!」
それでようやく事態の急転を理解できたとて、焦って第三宝具を放ったとて、もう全てが遅かった。
「『
そして。焼却された人理の燃えカスは不屈の壁に阻まれた。
奇しくもそれは、燃え尽きてでも少年を守りきった少女の、以前展開していた宝具に酷似していた。
少年は立ち上がる。射干玉の黒髪は空虚な白へ、古代王の好んだ海色の瞳は濁った血の色に転変し、死体色に変じた肌に歪な黒の亀裂が走る。纏うは泥のドレス。その手が握るのは、彼が最も愛した英霊の武器を模した何か――
「さあ、聖杯戦争を続けようぜ、ゲーティア」
少年だった何かが歪に笑う。
その笑顔は、その力を託して消えたこの世全ての悪のそれと、よく似ていた。
*
貴方が生きた世界を愛していた。
貴方の愛した世界を愛していた。
ねえ、確かにこの世界には悲劇もたくさんあるけれど。
――それでも、世界は美しいんだと思う。
*
神殿が崩壊していく。
絶え間ない地揺れの最中、地割れに滴り落ちる泥を眺めていた少年――もう一体の獣は、ふと後ろを振り向いた。
そこに浮かんだ、金色の燐光を散らす最後の欠片に静かに勝利宣言をした。
「……終わりだ、ゲーティア。オレの勝ちでもあり、お前の勝ちでもある」
金の髪を靡かせる獣の残滓は崩れかけの口を開き、そして一度閉じて、また開いた。
「……そうだな、私の勝ちでもあり、貴様の勝ちでもある」
少年だった獣は緩く相好を崩した。
「不思議な心持ちだ。私の行った全ては無為となった。ここで貴様を道連れにしたところで、何の意味も無いというのに。何故、私はこうも達成感を得ているのか」
金の獣は訥々と語る。それを聞き届けた白髪の獣がぱちりと血の色をした瞳を瞬かせ、それから言った。
「それが、人間だよ」
初めて金の獣が表情を変えた。薄く、儚く、風花のように微笑んだ彼は、ただ一言。
「そうか、これが、人間か――」
感嘆に満ちた呟きを遺して、消えた。
流星雨が綺麗だった。
少年だった獣は、もうわずかも安定しない足場から離れ、宙に浮遊し天を仰いだ。
見飽きること無く見つめていた。
自分にはもう手を伸ばすことも許されないけれど、この目に焼きつけていこうと思った。
だって、あんなに綺麗なのだから。それくらいは赦してほしいと落ちる星々に願いながら、その場にずっと佇んでいた。
「先輩!」
聞こえるはずのない声が、聞こえた。
咄嗟に振り向けば、遠く最後に残された神殿の外縁で手を必死に伸ばす少女がいた。
「……ああ、マシュ。よかった、生きてたんだな」
よかった。獣はあたたかいものに満たされていく胸にそっと手を当てた。
一番守りたかったものだった。彼女を守れたのなら、守られるのではなく守れたのなら、それはどんなに素晴らしいかと思っていた。
これでいい。十分だ。平凡で何も持たない自分にしては上出来すぎる終わりだった。最後の最後で大切なものを守れたのだから。
「先輩、こちらへ! そこは崩れます、早く!」
ほんの少しだけ胸が痛んだ。
彼女とて、もう面影を留めていない獣の有様を認識しているはずだった。なのに躊躇いなく小さな手が伸ばされる。先輩と、まだそう呼んでくれる。こんな泥に沈んだ獣を、先輩と。
ここではこちらの声が届かないな、と獣は気づいた。泥のせいか、喉が涸れて碌に大声が出せない。ふわりと宙を漂い、獣は少女の目前に、けれど決して彼女の手が届かない位置に移動した。
嬉しそうに安堵のため息を漏らした少女に触れたい気持ちを押さえつける。会えただけでよかったのに、人の欲には限りが無い。
「……ごめんな、マシュ。オレは行けない。そっちにはもう戻れないんだ」
掠れた声で、きっととても残酷なのだろう謝罪を一つ。
少女の顔から血の気が引いた。菫色の瞳が見開かれて、ふるふるとわなないてみるみるうちに滴を溜めた。
いやです、と。小さな拒絶が繰り返される。
「いや、いや! いやです先輩! どうして、どうして!!」
可哀想なことをしたかもしれない。獣は泣きじゃくる少女を見て少しばかり後悔した。別れなど告げず、彼女のすぐ後ろに開いているレイシフトゲートに突き飛ばしてしまえばよかったのだろうか。
それでも、人の欲には限りが無いのだから。きっと別れを告げるくらいは仕方のないことだ。決して触れない代わりに、彼女を汚さない代わりに、言葉くらいは捧げてもいいじゃないか。
――少し、汚染されすぎたようだ。獣はどこか他人事のようにそう思った。ゲーティアを倒した後、もう必要ないとスキルを使っていなかったからだ。自分にしては我儘すぎる。それとも、最期だからと少し羽目を外しているのだろうか。もう泥に塗り潰された思考回路はまともに動いてくれないから、どちらなのかは分からなかった。
そうだ、願いだ。願いを伝えよう。泥に塗れた頭蓋の中に最後に残った一つの願いを。
そのために戦った。そのために堕ちた。これだけ伝えてしまえたら、もう自分は満足だ。
「行って、マシュ。生きてくれ。君が世界の中で生きてくれるなら、オレも嬉しい。……そのために、オレは」
「……っ、せん、ぱい」
涙を拭ってあげることもできないのは、恨めしい。はらはら落ちる透明な滴は宝石のようで、ただ、綺麗だった。
一際大きく地面が揺れた。本格的な崩壊が始まった。これ以上、彼女をここに留まらせてはいけない。
触れることなどできないから、周囲の空気を動かし、風を作ってその身体をゲートへ押した。
「さようなら、マシュ。大好きだよ」
空を切る手に最期まで応えてはあげられなかった。ならばせめて、笑ってみせようと軋む頬を動かした。
ゲートの向こうへ飲まれていく愛しい後輩が、また、先輩、と獣を呼んだ。
――そうしてゲートは閉じられ、崩壊の進む神殿の端で、獣は最後に己を壊す。
「……宝具、解放」
『
そして、この宝具は彼の従えた英霊達の武具や宝具を模して象られる。
その手に握られたのは無骨な大剣。死を与える者が持っていた、銘のないひと振り。
少年だった獣は、両手の武器にまじまじと視線を落とし、それから苦笑した。
「あは、何だ、やっぱりこの形になるんだ」
刃が首筋に当たる。獣は流星雨の走る天を見上げ、そうしてそのまま、自身の喉をかき切った。
――星が、綺麗だったのだ。
汚れた泥の両手では触れられない。もう届かない。だからせめてこの目に、あの輝きを焼きつけて逝こうと思った。
ああ、きっとそれでよかった。
自分の椅子は、無くなったのだから。
*
「……神殿、崩壊。藤丸立香、ロストしました」
コフィンの中から出ようともせず、菫色の少女が泣き崩れている。
千の刃に切り刻まれたように痛みに満ちた、オペレーターの声がした。
万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチは美しいかんばせを伏せて、砂嵐しか映さなくなったモニターから目を逸らした。
「……馬鹿だ」
砂嵐に塗り潰される直前、白髪になった少年が緩く笑ったのが映された。それまでの彼とはかけ離れて歪だったけれど、彼らしく、他人を思いやるあたたかな笑みだった。
血反吐を吐き出すように、天才は管制室の床に罵声を叩きつける。馬鹿だ、馬鹿だと何度も。
「馬鹿だ。あの子は馬鹿だ。ロマニはそんなこと望んでなかっただろう。生きて帰れって言っただろう。マシュを置いて逝くなんてどういうことだ。
ああ、ああ、どうしてだ! どうしてあの子はこんな選択をした! どうして私達は、あの子にこんな選択しかさせてあげられなかった!!」
喪失に切り裂かれた数多の喉が、追従するように慟哭した。