あかいあくまが微笑んでいる。
遠坂家の家訓である『常に余裕を持って優雅たれ』を象徴するような笑顔である。
藤丸立香はその顔を内心冷や汗だらだらで、しかし必死で恐怖を押し殺して愛想笑いを顔面に貼り付けていた。いつものように突然呼び出されたと思ったら、呼び出した本人は古めかしいオーク材の机に向かって綺麗な姿勢で座したまま何も言わないのである。しかも優雅な微笑みを崩さずに。
立香は知っている。彼女がこの状態であるとき、それは自分に無茶振りが降りかかってくる直前であることを。だいたいこのあと自分が碌な目に遭わないことを!
「さて」
彼女のたった一言で、立ちっぱなしの少年はびくりと肩を震わせた。
その反応を意にも介さず、遠坂凛はダークブラウンの机の天板に、あるものを置いた。それは真ん中に星のあしらわれた、赤色の玩具のようなステッキ。
あかいあくまが唇を動かす。死刑宣告であると、藤丸立香は知っている。
「単刀直入に言うわ。藤丸くん、あなた魔法少女になりなさい」
そうしてそれは、死刑宣告より重い命令だったのであった。
第六章 出来損ないの救世主
それは、十年程前の話。
目が覚めたら、琥珀色の綺麗な瞳が己をじっと凝視していた。
真っ白な病室の、真っ白なベッドの上で。飛び上がった立香はその瞳の持ち主としたたかに額同士をぶつけ、二人して痛みに悶絶した。
ここはどこ、と額を摩りつつ尋ねれば、カルデアだよ、と自分と鏡合わせのように額に手を当てた少女が答えた。
そうして一通りの説明を受けた。人理焼却、カルデアの事故、自分はずっと眠っていたこと。
話し終えた彼女は一つ提案した。もしよければ、私のもとで二人目のマスターとなってくれないか、人員が足りないのだ、と。それに、保険にもなるから、とも付け加えて。
立香は首を捻った。自分の記憶が正しければ、もっと優秀なマスター候補はそれこそ何十人もいるじゃないか。
思った通りを聞いてみると、彼女は苦笑した。一般枠の人達は怖がって拒否し、魔術師の人達は怒って拒否したのだそうだ。魔術師さん達はとてもプライドが高いのだとか。一般枠の小娘に従ってくれる人はいなかったよ、と少女は言った。
残るはあなただけだと言われた。遠慮がちな提案であった。当然だろう、魔術師ならともかく、ただの一般人である自分が承諾するとは考えられなかったに違いない。現に他の一般枠の人々は逃げ出したのだから。
だが、違った。
何故か最初に浮かび上がったのは、『残りたい』という言葉だった。普通の生活に戻ることもできるのに、何故かそんなことこれっぽっちも考えられなかった。まるでここにいることが自分にとって当たり前であるような、酷く馴染み深い感覚。理由など全く分からない。不可思議な感覚である。
それでも、この感覚に従うことこそが正しいような気がした。
そこで立香はあっさり首を縦に振った。びっくりしている少女に、これからよろしくと頭を下げた。慌てて返礼した彼女が何だか可愛らしくて、笑みがこぼれた。
そう言えばと名前を尋ねたら、自分と全く同じ名を教えられた。
名乗り返すとまたびっくりされた。どちらからでもなく、噴き出した。
何だか他人な気がしないな。
私も同じこと思ってた。不思議ね。
じゃあよろしく、立香。
うん、よろしく、立香。
こうして二人目のマスターとなった立香だったが、最初は病み上がりということで召喚もレイシフトもなく、ただカルデアの中を彷徨くことになった。
自分へのサーヴァントの反応はまちまちであった。歓迎する者、よそよそしい者、誤認する者――最後のはほんの数人であったが。安珍様が二人って何だろう、と立香に聞けば引き攣った笑いしか返ってこなかった。
しかし、そういったちょっとおかしいのを除けば、概ね彼らは不干渉であった。それもそうだと納得できた。いくら自分に令呪があっても、今まで彼らと絆を育んできたのは
だからこちらも不干渉、のつもりだったのだが。
「あ、マ……いや、り……いやこれも、うむ…………」
途方に暮れた顔の大英雄なんて、早々拝めるものではない。
「どうしました、えっと、カルナさん?」
呼び止められている気がしたので振り向いたらその大英雄がいたのである。
カルデアでも有数の能力を誇る施しの英雄は、少々戸惑いながらも言った。
「お前のことを何と呼べばいいか、分からなくてな。オレのマスターはあの人だが、お前もまたオレのマスターに変わりはない。しかし名前で呼ぶのも、二人が同じ名だからと」
なるほど、こんなところで弊害が生まれていたのだ。納得した立香は暫く考えて、まあこれしかないかな、と案を出した。
「じゃあ、俺のことは名前で呼んで、あっちの方はマスターって呼べばいいんじゃないですかね。俺からも立香に言っておくから、間違えられることはないと思いますよ」
「……! そうか、感謝する、リツカ。では呼び止めた用件だが、マスターが呼んでいる。部屋へ来いと」
「ありがとうございます」
「それから、リツカ。敬語や尊称は必要ない。オレはお前のサーヴァントでもある」
実直で、真っ白な布のような人だと少年は思った。
それから、遠巻きに眺めてくるサーヴァントの中で、カルナだけが少年の話し相手になった。確かに自称する通り一言足りない人だけれど、根はすごく良い人なのだから、立香はちっとも気にしなかった。
徐々に立香が戦闘に加わり、サーヴァントを召喚するようになっても、カルナは会話を厭わなかった。
「……俺さ、思うんだ。立香と俺は全くの赤の他人じゃあなくて、きっと何か縁があるんだって」
いつかどこかで、そんな話をしたのを覚えている。
カルナはいつも通り、そうか、と言って、それから珍しく言葉を続けた。
「オレは最初にお前に話しかけようとした時、お前もマスターだと言った」
「うん」
「その、オレは話すのが下手だから、上手く言えないが。あのときオレは、確かにお前を『マスター』だと思ったのだ。あちらのマスターと同じ、と、いうか」
そこで話が止まって、やはり上手く表現できないな、と施しの英雄は眉間に皺寄せ呻った。
立香はそんな彼を可愛らしく思いながら、そうだね、と呟いた。
きっと、そうなのだろう。カルナが言うその不思議な感覚は、自分も感じていたものだったから。
リツカと呼ぶ彼の声が、立香はとても好きだった。
叶うならもう一度だけ、名前を呼んでほしかった。
そうして、あの災禍は何の前触れもなく起きた。
生き残った立香は一人、諸葛孔明の依代となった人物、ロード・エルメロイⅡ世を訪ね、そこで名目上は彼の弟子となり、『立香』を守るため奔走した。
そんな中出会ったのが遠坂凛であった。
彼女は何故か自分をいたく気に入り、弟子という名の玩具に仕立て上げた。それから恐ろしい弟子時代が始まるのだが……それはいいとして。
あるとき、自分と『立香』の間の奇妙な共通点に、遠坂凛は目をつけた。
他人とは思えないという立香の言葉を裏づけるような共通点――則ち、
さすがにおかしいと訝しんだ凛は、立香にある礼装を貸し出した。それが愉快型魔術礼装、カレイドステッキであった。
並行世界の自分を検索してインストールするという、見た目に反してとんでもない性能を誇る(ただし性格は最悪な)そのステッキを半分脅すようにして立香の『可能性』を探った凛であったが、その真実はあまりにも数奇であった。
それはもう一人の『救世主』。いくつものifが重なってできた可能性の獣。
もしあの日、床で寝ていたのが
もし、あの日。燃え盛る火の海に飛び込んで。
あの血だらけの少女の手を取ったのが、
無限とも思える数の並行世界のおよそ半分で、
そして同時に、どちらの立香も獣への変生を遂げる可能性があった。
その経緯もまた多岐に渡る。今回のように外的要因であったもの、世界を救うため自ら望んで転変し、あの魔神を滅ぼしたのち自ら命を絶ったもの。ありとあらゆる可能性が、ルビーによって明かされた。
他人ではなかった。藤丸立香は元から、二人で一つの運命体であった。どちらかが眠り、どちらかが戦う。異なる世界線の異なる立香が、全く同じ末路を辿ることもあった。
そうか、と。驚愕する遠坂凛の傍らで、立香は妙に安堵していた。
だから、
彼女は自分を救えなかった。救えるようにできていなかった。泣いて泣いて、痛みに悶えて、それでも自分を救うことなんてこれっぽっちも考えない救世主だった。
彼女は諦めたのだ。救いも幸福も全て諦めて、自分を救おうとすれば世界を敵に回すことになると分かっていて、寂しく笑って未来を拒んだ。
ならば彼女は自分が救ってみせる。だって彼女は
救いたいと、この世界で出来損なった
あの日少年だった青年は駆ける。先程の
――足を動かせ。前を向け。
この先に、救うべき『自分』がいる。
もう誰も殺したくないと泣いた、優しい優しい『自分』がいる!
*
「――っ、立、香」
朽ちかけた社の入口に至る。
剣の花を咲かせた彼女が中空にいた。その前に、この計画の発案者であり立香の協力者であるエミヤオルタ。そして、茫然と突っ立っているサーヴァントが二騎。ランサーはいない。
よかった。立香は安堵の息を吐く。自分は間に合わなかった。無事、エミヤオルタの邪魔にならずに済んだ。
「リツカ」
エミヤオルタが振り向いた。いつもと同じ仏頂面にも見えたが、違った。彼はほんの少しだけ柔らかく笑んでいた。
「遅かったな」
「――
違いない、と弓兵は笑い、身の内から一つ聖杯を取り出して寄越した。受け取った立香は金の杯の中身を見る。不思議な色に揺らめく魔力の波がそこにはあった。
「もう、変わった方がいい?」
「そうだな。おい腐っていないオレ、キャスターを連れて下がれ。ここは泥に呑まれる。その男を反転させるのは本意ではないからな」
話しかけられてびくりと身を竦めていた赤い弓兵であったが、泥という単語を聞いた途端ぐっと表情を引き締めた。キャスターを引っ張って社殿の外へ向かった赤い背中を見送り、立香とエミヤオルタは救世主の遺体から少し離れた場所に立つ。
胸の剣から流れ出ているのは泥。その量が、突然ごぼりと音を立てて倍増した。木の床に汚濁が広がっていく。
始まる。
この世界を救った少女の末路が、産声を上げる。
「ルビー」
『……やっぱり嫌です』
どこからともなく現れたステッキが、頑として拒絶を発する。
真正面を見据えたまま、立香はもう一度口を開く。
「ルビー、頼む。俺は立香を救いたい。俺はもう、立香に誰も殺させはしない」
『何でですか。いくらあれがあなたでも、関係無いじゃないですか! いいえ違う、あれはあなたじゃない、あなたなんかじゃない! あなたが救う必要なんて――』
「そうかもしれない。でも、俺が救いたいと思ったんだ。俺がやらなきゃきっと救えないんだ。俺達は、そういう存在だからさ」
だから、あの宝石の魔女に無理を言ってステッキを借り受けた。
「頼むよ、ルビー。遠坂先輩に怒られたくないだろ?」
ぼこり、と汚泥が泡立った。
『――ア』
死体が目を開く。琥珀色ではなかった。赤い血の色の虚ろな瞳。
『ア、アアアアアア――――』
上半身はそのままに、スカートに覆われていた下肢が膨張する。ぼこぼこと不気味な音がして、肉が膨らみ上体を押し上げていく。
スキル、自己改造。彼女は低すぎるステータスを、他の英霊のスキルや身体能力をトレースすることで補う。それは癌の如く肥大し続ける災厄の獣である。髪の色は白く変わり、蒼白な手に光る赤い令呪が異様であった。
立香とエミヤオルタ、そしてアーチャーが以前見た異形と全く同じものである。この膨れ上がった殺戮者こそがビーストØ/D。
彼女の死体は意思無き虐殺者へと変貌した。それを生前の彼女は望まなかった。一番恐れていたのは、死ではなく自ら滅ぼすことだった。
時間が無い。歯を食いしばった立香の正面にステッキがふわりと浮いて、覇気のない声で呟いた。
『……何で、あなたみたいな辛うじて見所のある人ばっかり死んで、どうでもいいヤツばっかり生き残るんですかね』
「はは、ルビーにちょっとでも認めてもらえたのは、嬉しいな」
恐れはない。そんなもの、彼女と会ったあの日にどこかへ忘れてきた。
「――今までありがとう、ルビー。遠坂先輩に伝えてくれ。才能の無い俺にたくさんのことを教えてくれて、背中を押してくれて、ありがとうございましたって」
『……っ、失敗したら殴りますからね、マスター!』
ぱちん、と。身体の中で、最後の線を切る音がした。震える手で聖杯を掲げ、飲み干す。
――鼓動が爆発した。
「ぐう、あっ……!」
身を折り、膝を地について、体内で吹き荒れる暴風に苦悶の声を溢す。
激痛なんてレベルじゃなかった。四肢を引きちぎられるような、気絶するぐらいの壮絶な痛み。げほ、と何かを吐き出す。血かと思ったそれは真っ黒な泥だった。
反転する。身の内から出る泥が、自らを飲み込み汚染しようと暴れ回る。
痛みにぼんやりと薄らぐ意識の中、その泥をどこかで見たな、と思った。
この可能性の自分の記憶が引っ張られてきているのか、そこは初めて見るはずの海だった。見渡す限りの泥、泥、泥。飛び回る異形の怪物。増え続ける反転した武者。
金色の、王。
――飲み込まれて堪るか。飛びかけた意識を引き戻し、歯をくいしばって耐え続けた。汚染されて堪るものか。
願いを見た。声を聞いた。
極天を堕ちる流星雨にただ憧れた。
自分でない自分の記憶を受け止める。たった一つ悲しいのは、愛しい後輩に触れられなかったこと。
苦しかったんだな、とぼんやり思う。それでも、その思いに塗り潰されないようもがいた。理性だけは手放さない。でなければ、あの獣を止められない。
そして突然、全ての痛みが消え失せた。
「……終わったか」
「うん」
身体を起こす。肥大化するあの獣とは違い、己の身は元のまま。ただ少しばかり若返り、肌が病的に白く、髪も白く、全身に令呪の刻まれた、人ならざる異形の姿。
これでいい。最早戻ることは叶わないけれど、元よりこの日のために生きながらえてきた身であった。後悔は無い。
「やろうぜ、正義の味方。俺とお前であいつを救う」
「言われなくてもそのつもりだ。足を引っ張るなよ、救世主」
二人、呪いに塗れて不敵に笑う。
泥の海で、
*
十年前、時計塔を訪れたその少年は酷い顔色をしていた。
「……死んでる」
ロード・エルメロイⅡ世を通じて少年を時計塔に呼び寄せた宝石の魔女、遠坂凛は、古めかしいオーク材のデスクに置かれたタブレット端末が表示した映像データを見て呆然と呟いた。――尤も、彼女がこんな最新機器を扱えるはずもなく、操作しているのは隣に立つ少年なのだが。
画面の中の真白い部屋の内壁と床は、中の人間が固い平面に頭を打ちつけるなどの自傷行為に走らないよう、一面クッション材に覆われていた。
この映像を送信している天井の隅の監視カメラが、たった一人の住人を映している。造りつけの白いベッドの上に腰を落とした、夕焼け色の髪の少女であった。琥珀の虹彩は焦点の合わぬまま、青白い虚空を反射している。
「何よこれ、完全に心が死んじゃってるじゃない。何が、何が『利用価値は失われていない』よ。何でこんなになってまで生きてるのよ。あの子はこんな風になっていい子じゃなかったのに!」
くしゃりと背中に流した艶やかな黒髪を掴み、凛は叫んだ。
親交があった。初めは、ただ魔術協会側のお偉い方と、カルデア代表という立場だけの付き合いだった。だが数回の視察を重ねていくうちに、人類最後のマスターというにはあまりにも幼い元一般人の少女のことを、女はそれなりに気に入っていた。
だからこそ怒った。理不尽すぎる結末に、少女のサーヴァント達が望んだ幸福とはあまりにもかけ離れた地獄の末に、怒らずにはいられなかった。
「……遠坂さん、ごめんなさい。俺、立香を死なせたくなかったんだ。俺が、立香を生かしてしまった」
少年の声が震えている。それに気づいた宝石の魔女は瞬時に平静を装って口を噤んだ。それでも蓋をしきれなかった憤りが両の手をきつく握らせる。自分の爪が掌に食い込む痛みすら自らを落ち着ける手段として、凛は低く鎮めた声を慎重に発した。
「……藤丸くんは何も悪くないわ。取り乱してごめんなさい、そこ、かけてもらえる?」
「は、はい」
そこ、と指された窓際の一人がけソファにおずおずと腰掛けた少年を認め、凛は組んだ手に額をぶつけて目を閉じる。
――悲劇だったとは、聞いていた。
だがここまでだとは思っていなかった。紙面の文字を追うのと、実際に破壊された少女を見るのとでは受ける衝撃がまるで違った。何を見たら、何をしたらあそこまで空っぽの人間が出来上がる?
あれこれ推測したところで意味もないと分かっていたから、そこで凛は思考を切り上げ回転椅子の座面を回して少年に向き合った。
「聞かせてちょうだい、藤丸くん。何があったの?」
そうして、彼女は地獄の端に足を踏み入れた。
原因は、たった一人の魔術師であった。
カルデアはこの一年前、四十八人のマスター候補を方々から集めていた。うち殆どは魔術師、それもエリートと呼ばれる類の人間であり、残りは一般人からレイシフト適性の高い者が選ばれた。
しかし、職員レフ・ライノールの引き起こした事故により一名を除く全員が大きな損傷を負い、コフィンの中で冷凍睡眠に入ることとなった――グランドオーダー、その始まりの日の出来事である。
一年が経った。ただ一人残った少女とサーヴァント達、そして生き残ったわずかな職員の尽力によって、ビーストⅠと呼称される人類悪の野望は阻まれた。そこでようやく重傷のまま放置されていたマスター候補達は外界で治療を受けられたのだが。
もう一人マスターが欲しい、と少女が言った。
理由は単純、戦力強化と保険である。少女は冷静であり、またどこか達観したところがあった。もし自分が今後命を落としたら、人理焼却の後始末は誰がやる? カルデア自体に余裕の生まれた時点で、マスターのスペアを用意するのは当然の処置である、と彼女は判断した。たとえサーヴァント達が反対しても、彼女は決してマスターの増員を諦めなかった。
故に少女は治療を受け回復した元マスター候補を一人一人訪ね、もう一度カルデアで働く気はないかと打診を繰り返したのだが、結果は芳しくなかった。同じく一般枠であった一人の少年を除き、全員が申し出を拒否したのである。
理由は概ね二つ。一つはこれ以上恐ろしい目に遭いたくないというもの。もう一つは魔術師特有のプライド。
だがそうしてカルデアから離れた魔術師の中に、一人だけ舞い戻ってきた者がいた。
「……最初は、すごく好意的に見えたんです。警戒してるサーヴァントは多かったけど、協力してくれる人を無碍にはできないって、立香が」
一度は断っておきながら数ヶ月後にふらりと現れ、一転して協力的になった魔術師を、立香は歓迎した。
今となっては、その優しさが最大の過ちを生んだのだと凛には分かる。彼女はいつも優しかった。いつか付け入られるのだと何度忠告しても、聞かなかった。
「それで、そいつが聖杯を盗んで何かの魔術を行使したのね? 結果としてあの子は……『獣』になったと」
少年が頷く。
俄には信じ難い話だった。ただの一般人だった少女が、少女自身の打倒した『人類悪』と同等のものに変わるなど普通なら有り得ない。彼女は人間だったし、何の変哲もない、どこにでもいる少女だった。
「詳しいことは言っちゃダメだってオルタが言ったんです。ただ事実だけを伝えるべきだって。……俺も、そう思います」
「…………いいわ。そこについては私も触れない」
彼らが何を黙秘しているか、凛には予想できても断定できはしない。だが当事者達が口を噤むのであれば、無闇に聞き出すことではないと彼女は判断した。
重要なのは、一つ。
彼女が変生した『獣』が、英霊達の宝具を使い、カルデアにいた全てのものを文字通り殺し尽くしたことである。
生き残ったのはたった二人。それも、人間は一人――今、凛の眼前で青を通り越し土気色の顔で俯く、黒髪の少年だけであった。
凛は報告書に記された被害者数に改めて目を通す。人間のみならずサーヴァントまで記録したその紙面には、恐ろしい数字が並んでいた。
「死亡者百二十二名、うちサーヴァント九十八名。重傷者一名……後に座に帰還。生存者は藤丸くんと、エミヤオルタのみ、か」
皆殺しだった。
手当り次第、人もサーヴァントも関係なく、一切の容赦も加減もなく、凄まじい速度で殲滅されていった。
人類悪とは殺戮兵器のことであったかと錯覚できる程、それはただ殺しに殺して殺し尽くした。
「あの子は、自分でやったと知ってるのね」
少年が再び首肯する。
だからこそ、あれは壊れてしまった。
完膚なきまでに破壊されてしまった。
「詳しいこと、話せる? 無理にとは言わないわ、できないなら黙っていてくれていい」
スラックスの上できつく握られ震えている少年の両手を、凛は己の手でそっと解して包み込んだ。可哀想な程冷えきった手であった。
「……初めに、立香の一番近くにいた人達が」
俯いたままの少年は、それでも必死に声を絞り出した。
「雷撃だったと思います。たぶんテスラ博士の『
「……二撃目は、何だったの」
少年の手が大きく震えた。
聞かなければならない。凛は酷だと思いながらも、促すことをやめなかった。今後、彼女が再び変生したときに何を使ってくるか把握せねばならない。近くにいるサーヴァントによって発動する宝具を変更するのなら、その法則性を見つけねばならない。
「……『
それで、残っていたサーヴァントの殆どが消滅したのだと。
凛は頭痛を訴え始めたこめかみから必死で意識を逸らし、考える。二つの宝具の能力は凡そカルデアの情報をサルベージしたことで知ることができていた。だから獣が何を考えそれらの宝具を使用したか、賢い彼女には理解できてしまった。
つまり獣は最適解のみを使っていたのだ。初撃は周囲にいた英霊達の中に天地の属性が多く見られたため。二撃目はさらに範囲を広げて捕捉できた英霊達を、なるべく一撃で、効率良く、一気に殲滅するため。
こんなものはただの大量殺戮兵器でしかない。いかにして多くを確実に殺すか、それのみを考え実行したのだ。
「残ったのは数人で、それで、その人達を虱潰しに、一つ一つ、ほうぐ、が」
「もういい、もういいわ藤丸くん。話してくれてありがとう」
凛の手を振り払って、少年は両手で顔を覆い背を曲げて全身を震わせていた。歯の根が合っていなかった。少年を抱き寄せ、払われた手でその背をさすり、凛は目を閉じる。
虐殺の後、獣と化した藤丸立香が下界に降りるのを食い止めたのは二人の守護者であったという。人類の総意思に遣わされる、抑止力の一端。元々サーヴァントとしてカルデアに現界していた彼らは、唯一奇跡的に生き残っていた少年を守り獣と戦った。うち一名はその時に重傷を負い、霊基の維持が難しくなったため座に帰った。
あの、赤い弓兵。
「バカアーチャー……死に物狂いで生き残りなさいっての」
ぼそり、立香にも聞こえない程小さく呟く。
反転した方の弓兵は何とかこの世に留まり、身の内の聖杯で受肉、今も心を失った藤丸立香を守っているのだと報告書には記されている。
遠坂凛は黙って少年の背を抱き直した。彼らに向かって、これからどうするのとは聞けなかった。今はただ負った傷を時間をかけて癒すしかない。心も、身体も。
それが済んだら、この少年に手を貸そう。凛はそう決めていた。もう一度獣になどさせて堪るか。あの少女のたった一つのささやかな幸福すら踏みにじった惨劇を、二度とは起こして堪るものか。
有益な研究対象? 稀有な事例? そんなの知ったことではない。彼女を獣の可能性としか見られない人間に、彼女を任せる訳にはいかない。
何より、あのアーチャーが救おうとした相手ならば。
「大丈夫よ藤丸くん、私がいるわ。ヤツらの思い通りになんてさせるもんですか」
それが再起の出発点。
惨劇を生き延び心身共に深い傷を負った少年が、それでも足掻こうと時計塔を訪れた日のこと。
*
遠坂凛は時計塔の一室にてマジカルルビーの泣き声を聞く。姉妹機であるサファイアを通じて、ルビーの慟哭と録音された別の声が再生される。
「あの、馬鹿弟子」
送り出したときから分かっていた。ああこの子はきっと戻ってはこないのだと勘づいていた。
『凛さん、姉さんはこのまま見届けたいと』
「いいわ、勝手にしなさい。でもちゃんと戻ること」
才能の無い男であった。それはもう一人の方も同じ。二人の藤丸立香はどちらもまるで魔術師に向いていない。サーヴァントを率いるよりも、平和な世界で呑気に笑っている方が余程似合う子らだったのに。
今日もロンドンの空は陰鬱な鉛色の雲に覆われている。今にも雨の降り出しそうな天を部屋の中から見上げ、凛はあの青年の最後の言葉を噛み締めた。
「お礼なんて言うんじゃないわよ」
教えられたことはほんの少し。挙句ステッキを貸すことで彼の背中を押してしまった。それが彼を崖から突き落とす行為であると知っていたのに。
藤丸立香は帰らない。もう二度と、同じ海色の瞳を見ることはない。
この道はきっと間違いではないと信じている。それでも、凛にはそれがどうしようもなく寂しかった。