「キャスター……? おいキャスター、どうした!」
痛い。
痛い、痛い、痛い。
頭蓋が割れる。脳が融ける。何だこれは、痛くて痛くて壊れそうだ。
「しっかりしろ、ここで止まっていては本当に――」
隣にいるのが誰だったかも分からなくなる。頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるようなおぞましい感覚が全身を硬直させる。
『キャスター』
――誰かの声がした。
そんなはずは無い。さっき目の前で撃ち殺されたじゃないか。結局、自分は何も知らぬまま彼女を見ていることしかできなかったのに。
『どうしてそんな顔するの。大丈夫だよ、私は大丈夫だから』
髪の短い、幼い面立ち。
傷だらけの手。
『今幸せなんだから、いいの。こんなの勿体ないくらいだもの、これ以上なんて望まないよ』
忘れるなと声がする。
手を離すなと叫んでいる。
ぽつりと一つ、染みのように読めない記録がそこにはあった。まるで鍵のかかった手帳のようだ。封をされて、本棚の奥深くに押し込められていた一冊の記録。
――封じられたというのなら。
忘れたのではなく、消されたのでもなく、ただ封じられただけというのなら。
それは読めない。存在すら知らなかった。けれど自分は持ち出してきたのだ。中身は知らない。覚えていない。それでも大切なのだということだけは分かっていて、その記録を無意識の内に持ち出してきた――!!
『……そんな顔しないで。決して救われないのだとしても、私はちゃんと受け止めるから』
手を離さないと誓ったのに泥の海に沈んだ。託すことしかできなかった。
もう手を離すなと誰かは言った。
当然だ。これ以上彼女に何かを諦めさせて堪るものか。そんな結末なんて認めない。破り捨てられた何十年分もの
頭痛は止まない。明滅する視界に今一度あの獣が映る。
たとえばここがあまりにも息のしづらい世界だとして、彼女が溺れたままでこの十年を歩んだとして、その結末がこれではあまりに惨い。優しい人だった。世界を愛した人だった。その末路が人殺しの獣なんて、そんなのあまりに酷ではないか。
もう一度手を伸ばせ。
まだ届かないとしても、もう一度。
世界から弾かれた彼女が、深海に沈み窒息する前に。
第七章 足掻け、人の子
肥大し続ける獣はとうとう社殿の天井をぶち抜いた。ばらばらと古い木材の破片が落ちる中から後退したアーチャーは、蹲ったまま動かなくなってしまったキャスターを背に庇い考える。
マスターの死によって彼は現在世界への拠り所を失くした状態である。加えてそもそもの寄る辺であった此度の聖杯が獣に消費された以上、いつ消滅してもおかしくない。アーチャーはといえば、既に契約元とリソースはアラヤ本体へと切り替わっていた。つまり彼はもう守護者そのものである。その変更自体は十年前にも行われたことであるから、受け入れることは容易かった。
それにしても問題はキャスターだ。別にこのまま現界したところでたいした戦力になるとも思えない。だが、黒い弓兵は彼をもここに呼び寄せたのだ。そこに何らかの意図があるのかもしれない。となると、迂闊に座に帰す訳にもいかなかった。
仕方ない。アーチャーは一つため息を吐く。本当は多少自分の燃料にしたかったのだが、この際文句は言っていられないだろう。
「……これしか残っていないか。まあ、願い倒したあとに一つ残っていただけでもよしとせねばな」
ずっと隠していた願望機を霊基から切り離す。オルタの方はああ言っていたが、経験の蓄積を主な概念とするあの剣の丘は聖杯をも『蓄積』したようだった。おそらくは唯一の例外であろう。
アーチャーは膝を折り、キャスターに聖杯を翳す。いとも容易くドルイドの霊基に杯は溶けていき、やがて完全に飲み込まれた。
外から見ても特に変化は無い。相変わらず彼は頭を抑え苦悶の表情を浮かべている。
「マスターが死んで、それからこの反応……いや、まさか」
どんな確率だ。他の戦争の記録を、しかも封印され無かったことになっていたものを持ってくるなど通常ならば絶対に有り得ない。
それはともかく、ここからアーチャーは無防備なキャスターをどうにか守りつつあの獣と相対せねばならない。
と、ビーストから距離を取り、既に原型を留めていない社からアーチャーのもとまで二人の男が後退してきた。一人は黒い弓兵、そしてもう一人は――
「……なるほどな、限界まで隠していたのはそれか」
「うん。ごめんねアーチャー、騙したみたいになって」
「構わんよ。ああそうか、それで遅れたのだな」
白くなってしまった髪と濁った瞳に最早あの青年の面影は無い。やや若返った彼から感じられる気配はあの巨大な獣と酷似していた。
「最初はさ、俺も
「つまり、救世主でなければいいと?」
「そういうこと。救世主じゃないけど世界を救ったオレを引っ張ってきた。ビーストØ/H、向こうの世界ではそう呼ばれてたんだって。立香より前にこうするとさ、アラヤがこっちに強く反応しちゃうだろ? 今はほら、どさくさに紛れてって感じ」
「多少のことには目を瞑れと」
「うん。アラヤは何か言ってきた?」
「何も。作戦は成功したと見ていいな」
そうかあ、とくすくす愉快そうに少年は笑う。歪な笑みであった。快活な笑顔はどこかに消えて、少年は獣になっていた。
「……怒った?」
ふと、少年はそんなことを聞いた。
少しばかり申し訳なさそうな上目遣いに、アーチャーは否を返した。
「納得はいったよ。この状況に持っていきたかったんだな」
「でも、俺達何も言わなかった」
「欺くにはまず身内からという方針は間違っていない。私でも同じことをするだろう。……それに、生きたまま救うのは不可能だと自分でも分かっていたさ」
君よりさらに出来損ないだからな、オレは。
自嘲気味にそう言い足せば、少年は何か言おうとしたがすぐ口を噤んだ。
「さて、パスはどうだ、オレ」
ほんの一時の主であった同位体の質問に答えようとしたアーチャーは、その気配の変化に気づいた。人間でなく、サーヴァントである。魔力で編まれたエーテルの体。受肉していたはずの男は既にその身を変換させられていた。守護者としての再起動の影響であろう。
「問題無い。アラヤめ、随分と切り替えが早いものだ」
「大方、保険はしっかりかけていたのだろうさ」
そうでなければここまでスムーズに再起動できるものか。鼻で笑う黒い弓兵の声音には嘲りが多分に含まれていた。
彼はもうスーツではなく、雀蜂を思わせる黒と黄色の礼装を纏っていた。そのポケットから赤いアンプルが数本取り出される。アーチャーは片眉を吊り上げた。
「禁止されていたのではなかったのかね?」
エミヤオルタも鏡合わせのように眉を上げた。きっと、思い出しているのは同じ人だ。無茶をするな、身を削るな、そこまでさせないために私がいると、かつての己らと似た色彩の眉を寄せて、こんこんと説いてきたかつての少女。
黒い同位体は視線を外し、屍の獣へと真鍮の目を向ける。もはや身の丈十メートルにも達したビーストØ/Dは、上半身の大きさはそのままに、小山の如く膨れ上がった肉と泥の塊の上で虚ろな呟きを漏らしている。
「いつの話をしている。あれはもうオレに怒ることすらできん」
「……そうだな」
アーチャーはただ、頷くことしかできなかった。
二人の弓兵が双剣と拳銃を投影したのと同時、今まで停止していた獣がゆっくりとこちらを向いた。立香は身の内で渦巻く泥の魔力を軋む回路に回していく。同時にあちらの獣の手の内を知ろうと自身のスキルによる解析を行い――気づいた。
ビーストØ/D。あれもまたØ/Hと同じく『獣を滅ぼしうる獣』である。故に相克。振るう力はどちらもネガ・ビーストと呼ばれる対獣スキルを秘めたものとなる。そこまでは今までの立香にも判じられた。だがその先は正直、予想外かつ最悪の一言に尽きた。
「二人とも、残念なお知らせがいっこ。今さ、ネガ・ビーストのスキルをちょっと変質させて向こうのビーストの解析やってみたんだ」
ほう、とエミヤオルタが興味深そうに相槌を打つ。
果たしてその解析で得たものは……無かったのである。
「解析自体が弾かれた。あれはたぶん、こっちのスキルを同じネガ・ビーストで打ち消してる。で、俺の宝具はこのスキルの延長線上にあると思ってもらっていい。つまり何が言いたいかっていうと――」
「お前の宝具による直接的な破壊、もしくは滅殺は望めない、と?」
少年は頷くしかなかった。
相克であるならば気づくべきであったのだ。共食いのようにスキルが潰され、こちらの必殺は届かなくなる。加えて向こうの手の内も分からない。あちらのスキルにより立香が死ぬことはない、というのが唯一の救いだろうか。
手の内が読めないということは、何が飛んできてもおかしくないということだ。屍の獣の行動パターンを脳内でシミュレートしていた立香であった、が。
「……は?」
思わず漏れた呟きは、羽音と耳障りな笑い声に掻き消された。
『オイデ』
汚泥と肉の山の至る所がぼこぼこと膨らみ、気泡の弾けるようにして中から異形の何かが這い出てくる。地を歩くものも、空を飛ぶものもいる。その全てが縦に裂けた口から意味不明な文字列を垂れ流していた。
「 jm; ff jm;」
きぃきぃと、ガラスを爪で引っ掻いたような音が連鎖していく。
「……なあ、二人とも。あれを実際に相手したことは?」
冷や汗が青白い肌に流れ落ちる。
知っている。藤丸立香はその子供達を知っている。カルデアの映像データと、同期した
「無い。オレ達が召喚されたのは第七特異点の後だ」
「まさかあれは
増える、増える、大地がみるみるうちに不気味な赤紫色に覆われていく。
その数、数百。
ティアマトの十一の子、その一つにして、かつて絶対魔獣戦線バビロニアを壊滅させた異形。
名を、ラフムという。
まずい、と立香は増え続ける異形を睨みながら考える。これでは手数が足りなすぎる。背後で死んだように蹲ってしまっているキャスターを勘定に入れるとしても、四対数百では話にならない。
いやその前に、彼らは空を飛ぶのである。ここから人里まで容易く移動するのである――!
「……っ、俺が何とかする。飛散しなきゃとりあえずは問題ないだろ」
それが可能な宝具は、ある。この場を陣地に、絶対的な権限を示す宝具と権能。それを手にかつてバビロニアを救った女神が一人いる。
だが。
「でも、俺に権能の完全再現は無理だ。できるのはたぶん留めることだけ」
あれもまた、本来は神のみが為せる業であった。今のビーストが真似できるのはそこが限界。増えに増えたティアマトの子の模倣どもを滅ぼす力までは引き出しきれない。
歯噛みした立香であったが、しかし。
「それで構わん。というか朗報だ。お前に不可能だと言うのなら、あれにも不可能ということだろう。ティアマト神のように無限に生み出すことはできない」
ならば、その限界まで滅しきってしまえばよいのだと黒い弓兵が言った。赤い弓兵もまた頷き、蠢くラフムの一体を指さした。
「ああ。それに見ろ、お前なら違いは分かるだろう」
言われて、立香は気づいた。
「……ちっちゃい、みたい?」
記憶のものより一回り程小さい。まだ人語を話してもいない。
「やはりそうか。いくら何でも
「そういうことだ。オレ達相手にその程度とは笑わせる。武器の選択を誤ったんじゃないのか?」
そうして二人のエミヤは不敵に笑う。眼前には天地を埋め尽くす赤紫の異形。
「さて、ではまず私の番だな。展開範囲は立香に準じよう」
いつでもやってくれ。
聖骸布が魔力の波に押されて揺らぐ。赤い背中はいつものように真っ直ぐ伸び、堂々と全てを背負っていた。
少年は思い出す。その背中は幾度となく見たのだ。自分ではない自分の記憶の中に焼きついた、幾度となく敵を斥けてきた男の背中。
「――天に絶海」
ならば応えてみせようではないか。
いま己ができる最高の、その再現を――!
「地に、監獄」
手にした槍が重い。彼女はあの細腕で、こんなにも重たいものを振るっていたのだ。
ぎしりと嫌な音を立てる回路を無理矢理励起させる。脂汗が背を伝う。やはり権能を使うのは厳しいらしい。だがそれはあの屍の獣とて同じこと。我慢比べといこうではないか。
アーチャーが詠唱に入った。エミヤオルタは後退し、じっと魔力の波を見つめている。
ラフムに動きはまだ無い。好都合である。今ならまだ彼らをここに留め置ける。
「……っ、我が踵こそ冥府の怒り!」
槍を大地へ突き立てる。展開範囲は自身を中心に半径六十メートル。
聳り立つは冥界の絶壁。内にはかつて母なる神を封じ込めてみせた、かの女神が絶対権限を有する地底の国。
借りるよ、エレシュキガル。胸の内でそう呟いて、高らかに真名を叫んだ。
「――『
*
突如出現した絶壁の外に弾き出されたランサー――カルナは、消えかけの体に鞭打って、壁に侵食される空を見上げた。
何故、何故忘れていたのだろう。
歯を食いしばって消滅に抗う。身の内の聖杯を拠り所にすれば、辛うじて現界は可能だ。既に契約が切れているのも分かっている。だが。
「まだだ」
まだ彼の名を一度も呼べていないのに。
ここに留まっていてほしいと彼は言った。きっとあの壁の向こうには地獄があって、彼は自分にそこまで来てほしくなかったからそう願ったのであろう。
それでも。
こんなところで無様を晒していられる程、カルナは弱く在れなかった。意外と我儘な自分に少しだけ呆れてから、彼は重い体を引きずり壁に向き合う。
中からきいきいと耳障りな音がする。次いで、剣戟の鋭い音が響き渡る。
一目会って伝えなければ死んでも死にきれぬ。その意志だけで施しの英雄は現世に留まっていた。
*
「―― So as I pray ,〝unlimited blade works〟!!」
剣の丘が仮初の冥界を埋める。
同時に中空に出現した大量の剣が、まだ動きの鈍いラフムに向かって凄まじい速度で射出されていく。
剣の雨を逃れた壁際のベル・ラフムが上空を目指している。絶壁を乗り越えるつもりであろうが、しかしそれは。
「許可しない。ここから出ることを禁じる」
発した本人でも驚く程に冷酷な立香の声に従って、冥界の壁が赤紫の火花を散らす。それはまるで結界のように空を覆い、飛び上がろうとしたラフムの羽の尽くを焼き切って地に墜落させた。
立香はその様を認めて即座にビーストØ/Dへ視線を移す。新たなラフムが生まれ始めている。しかし、遅い。どう考えても最初より生産性が落ちている。
それでも敵の数が多いことに変わりはなく、剣戟を躱した個体がこちらに襲いかかってくる。
「チッ、やはり撃ち漏らすか」
アーチャーの舌打ちには悔しさが滲み出ていた。そこへ赤紫の脚部が振り上げられる、が。
「貴様らは動くなよ、オレがやる」
的確な射撃がその尽くを破壊する。二人の前に躍り出たエミヤオルタの弾丸はラフムの硬い表皮をいとも容易く貫通し、たった十秒程で接近していた個体全てを殲滅した。息がぴったりなんだけど、とは言うに言えない立香である。
「立香、宝具の展開は可能か?」
変わらず剣を投影しては撃ち出しているアーチャーが、振り向いてそう尋ねた。立香は肯んじる。宝具とスキルの両立ならば可能だ。
「やれるよ」
「ならいい。何、固有結界に加えてここまで投影のペースが速いと、さすがに一時的なガス欠になるかもしれんからな。援護が間に合わなくなっては話にならん。早いうちにやってくれると助かる」
アーチャーの言葉に頷き、少年は仮初の冥界から意識を一旦逸らした。
――ビーストØ/Hの宝具は形の定まっていない概念宝具である。対獣宝具のカテゴリの通り、それはビーストに対する切札となるが、その真の役割は破壊ではない。
救済。そして希望。
相対したビーストから何かを救うために、最も適した能力を発揮する。そして顕現のためのカタチは既存の英霊の宝具のいずれかに似る。彼自身のオリジナルと呼べるものは無い。中身は全く違うものだが、概ね類似効果の宝具を模して象られる。
今回救うものは決まっている。では救う手段は?
簡単だ。彼女は殺したくなかった。アラヤとの契約を一度は結んでしまう程、周りの誰かを殺したくなかったのだ。そのままいけばやはり人殺しの道を進むことになっていたにも関わらず。
救われない分かれ道だった。どうしようもない人生だった。
それでも、彼女は殺したくなかった。
彼女をアラヤの呪縛から解き放つ仕事はエミヤオルタが担った。ならばその次の救いは何だ。
獣と化してしまった彼女の遺体がもう何人たりとも殺さぬように、食い止め続ける。
破壊は不可能だと分かった。あの獣が誰かを殺す前に速攻で滅するという方針は取れなくなった。ならばもうそれは叶わずともよい。自分には壊せないというのなら、二人の守護者に任せよう。それで駄目でもまだ抗おう。絶対に殺させて堪るものか。これ以上、彼女を人殺しにさせて堪るものか。
救われない分かれ道から引きずり出してみせるのだ。もう二度と彼女に背負わせないために。
ではそのカタチ、救済を体現する宝具の元になるのは何か。
決まっている。自分達が死ななければよいのなら、
「……宝具解放、『
瞬間。
花が咲く。花が咲く。枯れた大地に光が満ちる。
誰も殺させない。誰も死なせない。只管生かし只管立ち続ける。彼女を悲しませないために。
故に――『
半永久的に傷を癒し、
再生を。修復を。回復を。どこまでもどこまでも、立香の心が折れるまで。
「……ああ、なるほど。君の決意、しかと受け取った」
地に咲いた花を見つめ、アーチャーが一人呟いた。投影のペースが上がっている。魔力の供給源が二つになった今、最早彼を止められるものはここにはいない。
「二人とも、俺はこのままエレシュキガルの宝具を張り続けてあいつをここに閉じ込める。やばい攻撃はなるべく相殺するけど、残りは」
「分かっている。そろそろラフムも生まれなくなってきた頃合だ、固有結界を解くぞ」
「……十五秒後だ、そこからは」
二人の弓兵が、あの獣を押し切れるかどうか。
立香はきつく唇を噛み締める。十年前は防戦の一方で、一矢報いることすらできなかった。
だが、今は自分がいる。
きっかり十五秒、二人が走り出したと同時に剣の丘は消失した。歯車の消えた天は楽園の碧空に覆われていく。
残りのラフムをアーチャーの撃ち出す剣の雨とエミヤオルタの弾丸が驚異的な速度で殲滅していく。ようやく本体、ビーストØ/Dが丸裸になった。
「
アーチャーが手に黒の洋弓と捻れた剣を投影し、すぐさま飛び上がって剣を弓に番えた。狙いはおそらく弱点とも思われる上半身、人のかたちを保ったままの部分である。
しかしやはり、一筋縄ではいかない。
獣の頭上に黒い剣が出現する。禍々しい魔力を纏ったそれが独りでに振られた。
『『
「チッ……! 『
アーチャーが再び舌打ちを漏らす。同時に放たれた黒紫の暴流にカラドボルグが激突して大爆発を起こした。だがそれでも、光を呑む暗黒は止まらない。
そう、十年前もこうやって、こちらの攻撃が悉く相殺されたのである。それどころか返しの一撃で凄まじいダメージを食らっていた。
「させるか、よっ!!」
立香は地を蹴る。中空で暗黒の一撃とアーチャーの間に無理矢理割って入り、手にした星の聖剣を
瞬間、光と闇の聖剣のそれぞれ放った衝撃波が真っ向からぶつかった。爆風に押しやられた立香は背後のアーチャーと共に花畑に墜落する。アーチャーの方は上手く足から着地したが、立香は背中から受け身も取れずに落ちた。ぐしゃりと嫌な音が体内で響く。
「すまない立香、無事か!?」
「ぐ、う……無事、だから。俺は気にしなくていい、次を」
立ち上がろうとして立香は気づく。右腕が、肘の辺りで抉れて取れかけている。黒い血かぼたぼたと落ちていた。道理で痛いはずだ、と泥に侵された脳がぼんやり感想を抱いた。
やはり相殺しきれなかったが、いい。後ろにいたアーチャーは無傷だ。
「……まさか、お前」
その弓兵が信じられないと言わんばかりに見つめてくる。
立香は歪に苦笑した。何故あの聖剣の真名を謳わなかったか、どうやらバレてしまったらしい。
「あは、気づいちゃった? 今は、ほら。
一度に真名解放できる宝具は一つだけ。それが、藤丸立香の成れの果てたるビーストØ達への制約である。
宝具を呼び出すだけならいくらでもできる。だが、その本来の力を引き出すとなれば一つが限界だった。
そして、ビーストØ/Hはそのたった一つの装備スロットを、エレシュキガルの宝具で埋めた。
故にØ/Dの放つ真名解放の一撃、つまり十全に威力を引き出された一撃を、魔力放出程度の威力で受けなければならない。当然先程のように相殺しきれずダメージを負う。本来ならば数回の撃ち合いで勝敗は決する。
しかし忘れてはならない。彼自身の宝具は何のかたちを模して顕現したか。
「すぐ、治る。死なないよ、俺は絶対死なない。だから気にしないで、攻撃を続けて。どうしようもないやつは俺が防ぐって言ったろ?」
言うや否や、花園から供給された魔力が瞬く間に傷を修復していく。ちぎれかけの腕も元通りに、まるで時計を巻き戻しているかのように。
それを見届けたアーチャーは何かを言おうとして、また口を固く閉ざし再び屍の獣へ矢を番えた。
それでいい。立香は星の聖剣を解除し、虚ろな獣を睨みつける。
エミヤオルタもまた攻撃を重ねている。だが弾丸は全てビーストの張った魔力障壁に罅を入れるだけで、本体に届かない。
そしてまた嵐のような一撃が来る。天に現れた三叉の槍は、どうやら自分ではなく守護者達に向けられていた。二つのビーストは互いが互いの対獣スキルを潰しあってしまうので、結局は決定打に欠ける。それよりはまず他の敵を消そうとでも判断したのだろうが、甘い。
『――『
天より放たれる青い雷撃。それらを全て受け止めるのは同じく三叉槍の雷だが、それもやはりただの魔力放出でしかない。
「がっ……!」
自分以外への防備を優先し、その結果雷撃をまともに浴びた。明滅する視界の端で、アーチャーの放った
治しても治しても次が来る。攻撃を受けきることはできない。だが致命傷を負ったとしても死ぬことは許されない。自分自身にそれを禁じた。
まるで地獄の責め苦のようであった。諦めない限り永遠に続く耐久戦。
――それでも、誰も殺させたくなかった。
誰一人として殺させはしない。もう二度とあの救世主に地獄を味わわせはしない。
自分が立ち続けることで皆を守り、同時に自分をも癒す。
出来損ないの救世主が至った、彼なりの救い。
「……まだだ」
吐く血は泥の色。暗く濁った血の瞳からは、けれど決して意志の光を消しはしない。どこまでだって耐えてみせる。
「まだ、まだ、まだだ、まだ俺は立ってる。死んでない。死んでないんだから、まだ足掻いてみせる。なあ立香、俺は死なないから、絶対お前に殺されないから。皆生かしてみせるから!!」
もう届かない約束でも、吼えずにはいられなかった。
何度でも、何度でも、何度でも、意思なき獣に立ち向かってみせるから。
だからどうか、救われぬままのあの人に光を。
生きている間は決して救われることの無かった
「――ああ、決して」
応えたのは、黒い弓兵。
その首にアンプルが突き立てられる。金継ぎのように罅の入る身体が、今までとは段違いの速度で攻撃を重ねる。
無茶な使い方で潰れる霊基を、立香の宝具によるさらに無茶な再構築で維持している。激痛どころの話ではないだろう。だがそうまでしてでも譲れない願いがあるから。譲れない祈りがあったから。
いつかどうか幸せにと、十年前に散っていった皆の祈りがあったから。
『其はエジプトの洛陽、終焉を示す時の蛇』
詠唱が無慈悲に続く。
アーチャー達が自分の背後に回ったのを確認して、立香は再び星の聖剣を手に身構えた。クレオパトラの宝具が来る。相殺は不可能、それでも可能な限り威力を削らねばならない。
「ふっ!!」
短い呼吸と共に放った衝撃波は一直線にビーストØ/Dへと向かう。焔を纏ったコブラがその頭上で輝き――
まるで霞のように、掻き消えた。
「……え?」
ごしゃ、と肉を消し潰す壮絶な音が鳴り響く。
ビーストØ/Dはその上体の右側をごっそり削り取られていた。間違いなく、立香の放った攻撃によって。本来なら防ぐどころか圧倒することすら可能なはずの一撃を、それは無防備なまま受けていた。
ぼたぼたと降るのはØ/Hと同じ泥の血液。立香は何が起きたか分からず、一瞬頭の中が真っ白になっていた。
だが次の瞬間、彼は悟る。
『逆しまに、死ね』
あえて攻撃を食らった、その理由を。
「あ、がっ……!」
激痛。
いっそ死にたいと思える程の苦痛。
鏡合わせのように抉り取られた。己の右半身、その腰から上を全部持っていかれた。
『『
先程キャンセルされていた宝具の再展開。襲い来る焔の蛇の向こうに、既に先程の損傷を再生しきった獣が見えた。朦朧とする頭でも分かる。自身の宝具からの修復が間に合わない。攻撃を防ぐ力が残っていない。
おそらくは先程から攻撃を防がれ続けていたことにより、ビーストØ/Dの中での破壊優先順位が変動したのだ。優先対象は守護者達からビーストØ/Hへ。しかしやはり互いの対獣スキルは相克であり、決定打に欠けてしまう。だからこそ敢えて一撃受けることで
「立香!」
アーチャーが叫んでいる。駄目だ、と少年は首を振った。今ここに来たら巻き添えを食らってしまう。共倒れだけは防がなければ。
立香は残った左手を地につけ何とか立ち上がろうと藻掻く。しかし失われたものが多すぎた。血も、臓器も、魔力も、何もかも。再生には時間を要し、その隙はあまりにも大きかった。
「立、香……」
諦観がどんどん大きくなる。残った左手で花を握りしめる。それしかできなかった。焔の蛇が牙を剥き出し襲いかかってくるというのに。
迫りくる死を受け入れたくないのに、足掻く術が残っていない。
目を、閉じかけた。
「――諦めるな」
誰かの声が、聞こえた。
予想された熱と痛み、そして死はいつまで経ってもやってこない。どころか、体の修復スピードが増している。
「お前はあいつなんだろ。なら、んな早々に諦めんじゃねえ。あいつが何度立ち上がったと思ってる」
閉じかけていた瞼を開く。顔を、上げる。
「……キャスター?」
焔の蛇をルーンで組まれた高密度の魔力障壁で防ぐ、一人のドルイドがそこにいた。
「ああクソ、あったま痛えなちくしょうが。まだガンガンしやがる」
男は片手で杖を地面と平行に掲げていて、もう片手で乱暴に青い髪を掻きむしる。ちらりと見えたその顔は、憔悴を色濃く残していた。
「立て
言われて、少年は既に上体が右腕まで完璧に再生していることに気づいた。アヴァロンにルーンを掛け合わせた効果は絶大で、失われた魔力も最大限まで補充されている。
「キャスター、アンタ」
「……そうだよ、持ってきちまったんだよ。読める訳も無かったのに」
コブラが力を失い消えた。キャスターもまた障壁を解除する。
覚束無い足取りで立ち上がった少年に、屍の獣からふいと視線を外したドルイドは悪戯っぽく笑いかけた。
「あの
「……ふは、そうだね」
思わず少年も吹き出した。確かにこれでは、お人好しお人好しと揶揄えまい。
さて、とキャスターは杖をひと回しして地に突き立てる。
「オラ出番だ
瞬間、花を散らして現れたのは木々で編まれた緑の巨人。
一部始終を見守っていたらしいアーチャーとエミヤオルタがその巨人の肩に着地する。
「オレァこのまま坊主と援護に回る、行け!!」
キャスターが吼える。一つ頷いて応じた二人の守護者が、それぞれ戦闘を再開した。
キャスターの参戦にも関わらず、戦況が大きく変化することはなかった。
否、確かに安定はした。立香だけでは防ぎきれない攻撃にも何とか対処できるようになっただけ、キャスターの援護は的確かつ強力であった。立香自身、損傷は格段に減ったのである。
だがそこまでだった。こちらの攻撃は相変わらず通りきらず、通ったとしても再生が速すぎて話にならない。
幾度目かの攻防の後、あれは地脈に接続しているかもしれんと苦い顔でキャスターは言った。
「あいつには自己改造スキルがあるんだっけな。だがいくら魔力炉心をそれで作っても、あんな無茶苦茶な再生は無理なはずだ。あの下半身、おそらく地下まで根を張ってるぜ」
「一撃で殺しきらなきゃ駄目ってこと?」
尋ねた立香に、おそらくとキャスターは頷く。
「あの上半身が弱点なのは間違いないと思うんだがな。弓兵の攻撃、上半身に向けたやつだけ全部防がれてるだろ。逆に言えばあの小山みてえな下半身には無頓着だ。斬られても抉られても再生できるんだから」
言った傍から、その上半身を狙ったアーチャーの矢が下からずるりと伸びた肉の触手に阻まれた。次いで矢が爆散し、その部分の肉が粉々になる。
「まさに肉を切らせてってやつだな」
苦虫を噛み潰したような顔でキャスターが呟いた、そのときだった。
『……神々の王の慈悲を知れ』
ビーストØ/Dが再び頭上に宝具を喚んだ。アーチャーとエミヤオルタが一気に後退し、立香の後ろまで戻ってきた。無論、あれを防げる訳も無いからだ。
「ハァ!? ウッソだろおい! 悪い坊主、最初は任せた!
「だろうね……!!」
瞠目したキャスターがじりと退ったのを尻目に、立香は自分の再現できる最高威力の宝具を必死で脳内検索した。何としてでも防がなければ。まともに食らえばまず死ぬのは自分ではなくキャスターだ。
その宝具は知っている。忘れるはずもない。その効果も勿論
だが解せない。あれは確かに高火力ではあるが、この場に神性持ちはクー・フーリンただ一人。あの獣がわざわざ神殺しの槍を、しかもこの中で唯一通常のサーヴァントであるキャスターのために――?
考えるのは後回しだ。とにかく何とか捌ききらねばと立香は乖離剣エアを喚ぶ。現在の全魔力を込めれば辛うじて相殺は可能か。
「キャスター、減衰できるのは良くて八割だ、残りは頼む!!」
「チッ、しゃあねえ!」
全員の周囲に青いルーンの防壁が展開される。いけるか。立香の額に汗が滲む。
さすがにこれは無傷でもいられないだろう。とにかく、追撃までにはそれを治して――
「――リツカ!」
…………瞬間、確かに己の中で時が止まった。
声、が。
声が、聞こえた。
いるはずのない者が、叶うはずのない呼び声を。
「…………うそだ」
どうやって壁を乗り越えたのかとか、何故まだ現界しているのかとか、どうしてこの変質した獣がかつての藤丸立香であると分かったのかとか。
どうして名前を呼んだのか、とか。
聞きたいことが浮かんでは消える。近づいてくる。来ないで、と叫びたくてもどうしてか喉が痛い。声が出ない。
立香の前に躍り出た男が巨大な槍を構える。
「相殺する! 焼き尽くせ、『
全く同じ二つの宝具が火を噴いた。
威力は当然互角。ぶつかった攻撃同士が誘爆を起こし、一瞬その閃光で何も見えなくなった。
追撃は、無い。振り向いた男の藍玉が、安堵の色を滲ませる。
「リツカ、無事か。よし無事だな。この場ならば魔力も満ちるようだ、オレも加勢しよう」
再び鎧を纏った男が言う。その目に映るのは最早人ではなくなった、かつての面影も無いはずの獣であるのに。
どうして、名を。
「……リツカ?」
吐き気がする。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
だってこんなの聞いてない。今回は名前なんて一度だって呼ばれていなかったのに。
別の自分に侵食されていた脳裏に、十年前の言葉が過ぎる。
「すまない、リツカ。お前はオレに来てほしくはなかったのだろう」
だが、とカルナは金の槍をきつく握りしめた。
「それでも、此度のオレはお前だけの槍だから。命令を。
その言葉で、立香は分かってしまった。
「……何で」
何で、何で、血を吐くように問を叩きつける。
「何で持ってきちゃったんだよ。そんな記録、何でっ……!」
来ないでほしいと言伝を頼んだ。無関係だと思ったからだ。彼に十年前の記録は無く、獣と相対する義理も無い。巻き込みたくはなかった。自分と彼はただのマスターとサーヴァントであったのだから。聖杯の失われた今、その関係すら宙に消えたのだから。
なのに、彼は持ってきてしまった。
あの記録を。あの記憶を。封じられていたはずの思い出を。
「……大切だと知っていたから」
上手く言えないけれど、とカルナは前置いて、かつての主の屍を見上げる。
「オレはきっと後悔していたのだろう。そこのキャスターも、オレも、次があるならと願ったのだろう」
キャスターは黙っている。それでも、その表情には否定の気配は無い。
「それにリツカ、
心臓が、止まるかと思った。
そうだ。ずっと呼ばれはしなかった。それでいいと思っていた。違う分霊、繋がらない記録、ならば未練がましく強請るのはやめようと、気持ちに蓋して目を背けていた。
だから、こんなにも息が苦しい。
差し伸べられた手に応えたいのかも分からない。
「――来るぞ!!」
エミヤオルタの警告で我に返った。
再びビーストØ/Dがその頭上に宝具を喚んでいる。あれはおそらく
「坊主、同じの出せるか!?」
「う、うん……!」
立香は右手に同じく騎士王の槍を携える。頷いたキャスターが防壁を展開する間に、大きく息を吐き出した。
後ろを振り向く。真っ直ぐ己を射抜いてくる、藍玉の瞳。
もう自分は主ではない。いや、最初は主ですらなかった。如何なる縁に依ってか彼を召喚したときも、こうして心臓が痛い程鼓動を強く刻んでいたっけ。
「この一撃を防いだらアーチャー達と動いて。出し惜しみはしないでいい。全力で」
「……ああ」
自分の不出来さのせいで、その命令はついぞ言えなかった。彼を動かすには魔力が足りなかったから。
けれど今は。
「思いっきりやってくれ、カルナ」
「……! 承知した、リツカ!」
ああ、この聖杯戦争で、確かにささやかな願いは叶ったのかもしれないな、と。
泥に塗れた思考の中で、ふと小さな幸せを抱きしめた。
――だが。
『――地に増え』
最初にその相違に気づいたのは、果たして誰であったのか。
『都市を作り』
違う。
あれは違う。
あれはただの再現ではない。ただの騎士王の模倣ではない!
『海を渡り』
かつて、第六特異点にて聖都を造った者がいた。
『空を裂いた』
かつて、千五百年もの放浪の末に女神にまで至った王がいた。
『何の、為に』
その名は女神ロンゴミニアド。
かつての名は、アルトリア・ペンドラゴン。
「ま、ずい。一旦退け! 信じられんが、あれはこの山ごと消し飛ばすつもりだ!!」
アーチャーが叫ぶ。
だがそれは叶わぬ話であった。既に天にてその聖槍は抜錨され、唸りをあげて大気を掻き乱している。
「……まだ、だ!」
諦めるものか。立香は咆哮と共に今まで張り続けていたエレシュキガルの宝具を解除する。もう形振り構っていられない。真名解放を禁じたまま対処できる代物ではなかった。
だが、致命的なことが一つ。存在そのものが悪である彼ら人類悪に、
『聖槍よ、果てを語れ』
「――っ、頼む王様!」
その手に掴んだのは乖離剣エア。英霊界でも一二を争う威力の二つの宝具が互いに回転数を上げていく。
しかし、この時点で立香は悟ってしまった。間に合わない、と。
エアの力を十全に引き出せるだけの時間が無い。もう聖槍は放たれる。エアの真名解放が間に合っても、同時に消し飛ぶ可能性が高い。
それでもやるしかない。諦めるつもりも毛頭無かった。最悪にして最後の手段だが、高速再生を続けながら攻撃を受けるという選択肢がある。とりあえず死にはしない。死にはしないのだが、もうそれは拷問を通り越した何かである。
けれど、諦めはしない。
『『
やはり間に合わなかった。
逃げて、と背後の仲間に目だけで告げる。
乖離剣の真名を紡ぐ。おそらく半分も減衰できない。残りは耐え凌ぐしかない。
覚悟を決めた。今から始まる責め苦のために、襲い来るであろう想像を絶するような地獄のために、できる限り身を硬くして――
――鐘が。
鐘が、鳴っている。
「『
不可能であったはずの白亜の城壁が聳り立つ。
地形すら変える一撃をあっさりと受け止めて、対悪宝具が煌めいている。
少し高めの、女性の声。
どこからか旋律が流れてくる。
からん、からん。
鐘が鳴る。それは祝福か、それとも。
「――サーヴァント、セイヴァー。世界の危機に応じ参上した」
宣戦布告か。
「ラスト・グランドオーダー。実証を、開始します」
青かった空に、夕焼け色が輝いた。