ナティシア ー平凡幼女はハードモードな世界を生きるー 作:かげはし
男は俺と違って濡れていた。
まるで男の方があの池に飛び込んだかのように……。
滴る赤い液体が男の頬を伝って、地面に落ちていく。
俺と男以外誰もいないこの場所で、もう二度とみることが出来ないと思っていた光景を見渡して混乱する。
あの水の効果ということなのか?
それともあの時衝撃でただ気絶して、夢を見ているのか?
「お前は俺を見て誰と言ったな? でもちゃんと、分かっているんだろう?」
ああわかる。お前が誰なのかは、俺はちゃんと知っている。
それでも理解が出来ない。
知っているけれど、対面して話をするだなんて不可能だと思っているからだ。
だって普通じゃないだろう。
こいつがこうやって俺の目の前に立って、自我を持って話をするだなんてこと。
まるで鏡写しを見ているかのようだ。
いいや、実際に鏡があるならば俺は幼く赤毛の女の子になっているはず。だからこれは鏡じゃない。そんな可愛らしいものでもない。
だから有り得ない。
前世で死ぬ前に幼馴染に会っていた時の服を着た――――血に濡れた格好をしているのに元気そうな俺が目の前で立って喋っているだなんてこと、普通なら有り得るわけはない。
今俺が見ているこの場所が、前世での死ぬ寸前の公園なのも有り得ない。
「お前は誰だ」
「だから言っただろう? 俺は――――」
「お前は俺じゃないだろ! 前世での俺は死んだんだ。今の俺はここにいる! 俺はちゃんと生きている! でもお前は違うだろう。お前は俺じゃない。ならお前は、誰だっ!?」
俺の叫び声を聞いた瞬間、男はとてもつまらなさそうな顔になった。
何かを失望したような顔。血濡れの状態で真顔になると、ホラー映画に出てくるゾンビのようで異様に恐怖心を煽られる。
だが男は俺に向かって殺意は向けない。
ただ、期待していた何かが意味もないと理解できたような顔をして、俺を見下ろしたのだ。
「ああ、お前はまだなのか。そうか、
「……は?」
「前言撤回だ。誰と言う質問に対する答えだが、それはお前の想像に任せよう。後の楽しみはとっておくに限るだろう?」
つまり、男の今の姿は偽りのもの。前世での俺の姿をとってはいるが、それは奴の本意ではない。
本性がどのような姿をしているのかは分からないが……。
「俺を殺す敵じゃないんだな?」
「ハッ。敵だったら何も喋らず一撃で殺してやるさ」
ああ、その態度と口調なら信じられるような気がする。
まあ急に気分が変わって俺を殺す可能性はあるが、ドラゴンの時のような怒りはないし、ルクレスさんと会っているときのような底知れなさは感じられない。
……だから少しだけ、緊張していた身体の力を抜き、息をついた。
男は肩をすくめて口を開く。
「昔々の話をしよう」
「あれ、何か聞いたことあるようなセリフが……」
「まあ昔と言っても少し前のことだけどな」
「それ昔って言わなくねえか?」
「ちゃんと聞け。そして答えろ」
血濡れの男は眉をひそめて俺に一歩近づく。
それに警戒し、俺は後ろへ数歩下がった。
砂利を踏む音が軽く聞こえてくる。ポタポタと水滴が垂れる音がする。
「お前が飛び込んだあの水は普通のものじゃないのは分かっているか?」
「……まあ、それは分かるよ。だってあんなに神秘的な場所だって思えたんだからさ」
「そうか。じゃああの水に飛び込むことで……どうやって神国へ行けると思う?」
男の表情が変わった。
先程の無表情から一変して、ゾンビのような印象から仮装している生きた人間のように見える。
それほどまでにとても楽しそうに俺を見て、笑ったのだ。
「……シスターが言うように、流れに身を任せていけるんじゃねえのか?」
「いいや、実際はそうじゃない。水の流れが速いわけじゃねえし、泳いで渡れるほど短い距離にあるわけじゃない。ただ、あの水は神国に繋がっている。だから国の中へ入れるんだ」
「……どういうことだ?」
「あの神秘的な水そのものが水龍の一部ってことだ。水龍が国に入る者を区別して決める。入国を許可するか、拒否するかを決めるんだ」
「おい待て。いろいろ言いたいことがあるが……何でそんな大事な話をお前は知っているんだよ」
俺の言葉に何故か男は驚いたような態度をとった。
「俺が知っているのは当然だ。ああでも、お前は宝玉を奪い取るために協力者を求めて神国へ来るんじゃねえのか? だから神国について知っていてもおかしくはないと思ったんだが……」
「悪いけど俺はまだ何も知らない。世界についてもまだ知らないことが多いんだよ」
神国へ行くことになったのも全てはちょっとしたトラブルに巻き込まれた流れのせいだ。
でもそれは後悔していない。ルクレスさんたちを置いて先に国家と戦うかもしれないが、俺やマリーを知られないようにするためにどうすればいいのか考えがあるから気にしてはいない。
ただ何故こいつは俺が神国の事情について知っていると思っているのかが気になった。
何故あの神秘的な池水の秘密を知っていると思ったんだ。何故、こいつはそれを知っているんだ。当然っていうのはどういう意味なんだ?
「……何で俺が知っているって思ったんだ?」
「いいやお前じゃない。
「いやどっちも俺じゃねえか」
男はただ笑って、俺の言葉に首を横に振った。
そのせいで垂れた血が派手に地面に滴り落ちていく。
そういう意味じゃないと態度で示して、そうして口を開く。
気のせいだろうか。
男の瞳の色が、月のように淡く光り輝いたような気がした。
「あの水は大昔に流れていたものと同じだ。水龍の一部であるから、神代の頃の力で満ち溢れたものだ。だからお前はここへやってきた。お前の中に潜んだ気配を辿って、水龍に導かれて、ここへな」
「……何で?」
「警告と、ただの挨拶に」
不穏な声色で男は言う。
優しげでもなんでもなく、もう笑うことはせず真顔のまま俺を見下ろす。
「水に飛び込む前に、絵を見たか?」
「っ――――ま、まあ見たけど」
「天使がいたか? それと真下には人間がいたよな?」
「ああ。えっと、一部分は壁が崩壊していて分からなかった。天使が何かを捧げていて、人間は何かに手を伸ばしているのだけは分かったけど……」
「それが、■■の始まりだ」
「はっ? ごめんなんて言ったのか聞こえなかったんだけど……もう一回言ってもらってもいいか?」
「だから■■の……いや、お前がきちんと成長し統合し知らなきゃならないことなんだろう。神国へ行って確かめてみろ」
「成長し……統合ってなんだ? そうだ。お前さっき言ったよな。……俺の中に、何かいるのか?」
男はただ微笑むだけだった。
もう余計なことは何も言わないとばかりに、満足げな顔で。
そうして、不意にそれは始まった。
「な、なん……!?」
何故かはわからないが、周囲が眩く光り輝いている。
まるで水の中で空気の泡がはじけ飛ぶように、端から発生した光の泡が俺たちへ迫ってくる。
「そろそろ終わりが来たみたいだな」
「終わりってどういうことだよ! ってかあれに巻き込まれて大丈夫なのか!?」
「大丈夫だ。お前は水に飛び込んだ直後に戻るだけ。そして次に目覚めた時は神国だよ」
眩い光が周囲を覆う。
男が見えなくなって、声だけが響いた。
「覚悟だけはしておけよ、アルメリア。神国は世界が認める神秘に満ち溢れた国だ。あの頃より劣ってはいるが、神代の力がまだ失われていない国だ。
神国には水龍が存在している。あの馬鹿ドラゴンじゃなくて、ちゃんとした立派な水龍がな」
男の声が、笑ったように聞こえた。