ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

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『危機が迫るこころを救い、そして現れた運命の鎧――サガ』

『キバット兄ぃ。麗牙さん、もうキバには変身しないんでしょうか?』

『それは……この先のお楽しみだ』


第127話 順風満帆な日々に

 快晴に恵まれた土曜日の昼下がり。一見平和に見える明るく広がる青空の下で、しかし大地を叩く重い音が鳴り響いていた。

 

『ドッガバイト!』

 

 キバットの宣告と共に地に魔鉄槌ドッガハンマーを突き立てる剛腕戦士形態(ドッガフォーム)のキバ。辺りには紅い濃霧が立ち込め、太陽の登っていたはずの景色はいつしか闇の世界に誘われていた。

 

「ァガ──ァァ──」

 

 キバの手によって解放されたドッガハンマーのトゥルーアイから放出された魔皇力により、全身が金縛りに遭い一切の身動きが取れなくなるファンガイア。もはや抵抗は許されず、異形はただ破壊の音が振り回されるのを黙って見ることしかできなかった。

 

 そして──

 

 

 

「ゥガァァァァァァッ!!」

 

 

 

 ドッガ・サンダースラップ──ドッガハンマーから放出された紫電の鉄槌が異形の身体を盛大に押し潰した。粉々に砕かれ、ステンドグラス状の煌びやかな破片が弾けてゆっくりと夜空の下から舞い落ちていく。

 

「ふぅ……」

 

 やがて暗闇は消え失せ、青空が戻ってきたところでキバは変身を解除した。そして未だ降り注ぐ色とりどりの雨の中、素顔を見せた愛音は自身の戦闘を見守っていた二人の少女の元へと早足で歩いていくのだった。

 

「逃げてって言ったのに……見せ物と違う……」

 

 物陰に隠れて彼女の戦いを見ていたのは、先ほどまでのファンガイアに命を狙われていたはぐみと、そして彼女とお揃いの姿をした少女であった。二人とも野球のユニフォームらしき姿で妙に汗臭く、何かしら運動してきた帰りだったのだと愛音も察していた。疲れた帰り道で襲われたことはご愁傷と言わざるを得ないが、できれば自分に構わず逃げて欲しかった愛音は二人に注意を促していた。

 

「ご、ごめんねあいちん……でもでもっ、今のあいちん、すっごくすーっごくカッコよかったよ! はぐみ、ずっとこうして手を握り締めて汗びっしょりだもん! ねぇあかり!」

 

「……」

 

「? ……あかり? どうしたの?」

 

 話には聞いていたが初めてキバを目の当たりにしたはぐみの興奮は大きなものであった。しかしそれ以上の衝撃を受けたものが彼女の隣で立ち尽くしていたのだ。

 はぐみが「あかり」と呼ぶ少女はじっと愛音の瞳を見たまま視線を外さず、ファンガイアの体表が放つ輝きよりも眩しい眼差しを放ち続けていた。あまりに眩しい視線に愛音は目を逸らしそうになるが、とりあえずは我慢して何かを言おうとしている少女の言葉を待ち続けた。

 

「……か……」

 

「?」

 

「かっこ……いい……」

 

 ようやくその小さな口から出てきたのは、混じり気のない称賛の言葉であった。両手を胸の前で強く組み、まるで祈るかのように愛音の眼を見続けるあかりについに耐えきれなくなり、愛音は彼女から眼を逸らしてしまった。

 

「……流石に照れる」

 

「あ、あの……あなたは……? わ、私……あかりですっ」

 

「……紅愛音……」

 

「愛音さん……カッコいい……っ」

 

「えーと……(なんなんだこの子……)」

 

 元よりヒーロー番組が好きであったあかりは、目の前に現れた現実に頭が追いついていなかった。テレビの中だけと思われていた人ならざる異形が突然目の前に現れたかと思えば、それが自分たちに襲いかかり、人生で二度目となる命の危機を感じて絶望することになってしまった。しかしもうダメだと思ったその時に、まるでヒーローの如く颯爽と少女が駆けつけたのだ。そして少女はなんと変身して見たこともないカッコいい姿に変わると、あっという間にあれほど恐ろしかった怪物を倒してしまったのだ。

 

 命を救われただけではない。今の自分が目指しているものとは違うが、ある意味で自分が一番好きな形のヒーローがいたという事実にあかりは舞い上がり、その証明である愛音に一瞬で惚れ込んでしまったのだ。

 

「わぁ……」

 

「(なんだろう、また何かに巻き込まれそうな予感……)」

 

 ここまでの眩しい視線を向けられることには正直悪い気はしない。しかし愛音の感じたその予感は、後日現実となって彼女に襲い掛かることになるのであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 春休みが始まって最初の日曜日。と言っても、わたしたちRoseliaにとっては春休みなんて関係なく、普段と変わりなく音楽に打ち込む日々を過ごしていた。今日も午前のうちからCiRCLEに集まって課題の確認や音合わせ、次のライブへの調整などをこなし、気が付けば今日も練習の終わりを迎えていた。

 

『なんかほーんとにあっという間ね。Roseliaの練習を聴いているだけですぐ時間が過ぎちゃうわ』

 

「ふふっ……キバーラさんも……楽しんでくれて嬉しいです」

 

 時間が早く過ぎるのは、それだけ味わっている時間が濃密であったことの証だと思う。わたしたちの練習を……Roseliaの音楽を聴いている時間をキバーラさんはちゃんと楽しめているのだと分かり、音を作り出した一員としてわたしも嬉しくなっていた。

 Roseliaの音楽自体も昨年までとはまるで違うと言える程の成長を遂げているし、友希那さんの目指すFWFも確実にすぐそこまで近付いていると直感していた。何もかもが上手くいっていると感じているのは果たして自分だけだろうか。

 

「わたしたち……とても順調ですね……」

 

『ホントよねぇ。燐子ちゃんも無事生徒会長に就任できたし、愛音もTETRA-FANGでバンド再開したし、Roseliaの音楽はとても気持ちがいいし、最近いいこと尽くしでちょっと怖いくらいよ』

 

「確かに怖いですね……ふふ」

 

 いいこと尽くしで怖い、というのはちょっと分かる。わたしなんて幼い頃の罪と罰の象徴であった少年と再会でき、更には想いが通じ合って今では恋人同士となっている。彼やRoseliaのおかげでピアノのコンクールでも過去の自分を乗り越えて、今のわたしは変わることができたのだと胸を張って言えるようになっていた。正にいいこと尽くしだ。これ程の幸福が一度に巡ってくると、この後に跳ね返りとして不幸が一気に訪れるのではないかと少し不安になってしまったりするものだ。でもそんなこと……きっと無いよね……。

 

「だからって気を抜かないで燐子。そういう油断は慢心や怠惰に繋がりかねないわ」

 

「は、はいっ……大丈夫です……分かっています」

 

 こんな時でも自分を甘やかさない友希那さんは流石だと思う。順風満帆に進んでいる自分たちに浮かれないようにしっかり釘を刺し、今のRoseliaをより高みに進ませようとする意思を強く感じさせてくれる。そんな彼女の姿にも惹かれてここにいるのだから、わたしももっと気合いを入れないといけない。もうこれ以上、みんなに迷惑をかけるわけにはいかないから……。

 

 それから練習後のスタジオの後片付けも終え、各々が荷物を持って解散しようとしていた時だった。

 

「あ、りんりん。さっきから思ってたんだけど、その荷物って何なの?」

 

 あこちゃんが指摘したのは、わたしがスタジオに持ち込んだ小さな鞄のことだった。普段は持ち込むことがないにも関わらず、結局練習には使わなかったその鞄の中身が気になったのか、あこちゃんは興味津々でわたしを見つめてくる。

 

「こ、これは……その……っ」

 

「りんりん?」

 

 しかし、たとえあこちゃん相手だとしてもそれを正面切って話すことには恥ずかしさや照れ臭さがあった。中身に関しては特に変なものは入っていない。どこの家庭にも置いてある一般的なものだし、見せたところで変な人と思われることはないはずだ。それでも、わざわざ持ち運びする理由を聞かれることになるのは明白であったため、わたしは言葉が詰まってしまっていた。

 

「! ……なーるほどねー。あーこー、ここは察するところだよ?」

 

 そんな中、わたしの態度を見てピンと来たのか、今井さんは猫のような遊び心満載の顔付きになるとどこか楽しげにあこちゃんに話しかけていた。今井さんのあの顔は何となく分かる。完全にわたしの考えが分かって楽しもうとしている顔だ。

 

「えっ、リサ姉何か分かったの?」

 

「あったり前じゃん。だって……ねぇ? そういうことなんでしょ、燐子♪」

 

「ぇ、あ……ぅぅ……」

 

 やっぱり今井さんはわたしのこの後の予定のことを見抜いていた。眼を輝かせて口元もニヤニヤさせて、まるで自分のことのように楽しそうな今井さんに文句が無いわけではない。しかし気付かれ指摘されたことが恥ずかしくて顔が焼けるように赤くなり、今は両手で顔を覆って隠さずにはいられなかった。

 

「? 察するってリサ、私も分からないのだけど……」

 

「湊さん、ここは流石に察するべきかと。私も今の白金さんの反応でよく分りましたし……」

 

『友希那ちゃん、基本様子の変化に機敏なのにこういうことには結構鈍いのね』

 

 余計に首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべる友希那さんを見てると、彼女は本当に音楽の世界にのみで生きる人なんだと思ってしまう。友希那さんの生き方もカッコいいとは思うけど、わたしは彼女ももう少しいろんな感情を知った方がいいのではと思うのだ……恋、とか……。

 

「ほーら、燐子がこんなに赤くなるなんて一つしかないじゃん♪」

 

「ぇ……あっ、もしかしてりんりん、麗牙さんのとこ行くの?」

 

「……はい……」

 

 ここまでヒントを出されればあこちゃんも気付かざるを得ないわけで、おかげでわたしは羞恥で顔を上げることができなくなってきた。

 そう、今日は練習の後に麗牙さんの家に行くと約束をしていたのだ。彼の家で共にお昼を食べて、その先の予定は決めていないけれど、何が起きてもおかしくないという心の準備はしてきている。彼の家に行くのはこれが初めてではないのに、今日のことを考えるだけで緊張し、ずっと落ち着かない日々を過ごしてきた。正直、今日までの演奏にその緊張が表に出なかったのが不思議なくらいだ。やっぱり好きな人の家に行くという行為は、わたしにはまだ慣れそうにはないみたい……。

 

「麗牙の家に?」

 

「……はい」

 

「そう……」

 

 友希那さんもようやく話の全貌が見えたのか、わたしに彼との逢瀬について確認をとってくる。しかし何故だろうか……その時の友希那さんの顔は少し曇ったというか、どこか面白くなさそうな表情を浮かべていたのだ。何故友希那さんがそんな顔をする必要があるのか分からない。わたしが麗牙さんと会うことに何か悪いことでもあるのだろうかと、わたしは少し突っ掛かるようにして彼女に問い質そうとした。

 

「あの……何か問題でも?」

 

「いえ、あなたの好きにすればいいわ。ただ……麗牙の迷惑にならないように……彼の音楽の邪魔にだけはならないようにして。それだけよ」

 

「は、はい……(友希那さん……?)」

 

 彼の音楽活動を邪魔なんてできるはずがないし、友希那に言われるまでもない。しかし、わざわざ友希那さんがそれを強調して注意喚起することに少し驚いてしまう。わたしのことを信用していないわけでないのは分かるけど、ならどうして? 友希那さんは麗牙さんの音楽に何を見ているの?

 

『燐子ちゃん、どうかした?』

 

「いえ……」

 

 結局は彼女の注意の意図が分からずじまいで、少しだけモヤモヤした気持ちを心に秘めたままその場は解散となってしまった。そしてこのムズムズした気分を晴らすためにも、わたしは走って彼の家に向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃあ、邪魔しちゃ悪いし私は退散ねっ』

 

 麗牙さんの住む屋敷に着いた時、そう言ってキバーラさんは小さな翼をはためかせてわたしから離れて空へと飛び去っていった。気を遣ってもらったことに内心で感謝しつつ、わたしは唾を飲み込み、そして小さく揺れる指で彼の家のドアホンの鳴らした。

 

 ♪〜

 

 あぁ、押しちゃった……何度やってもこの瞬間だけは緊張してしまうなぁ……。

 

 でもこの後、扉の向こうから麗牙さんが出てきて、あの笑顔を見せてくれる。それを想像するだけでも頬が緩んでしまいそうだった。

 

 まだかな……まだかな……。

 

 彼が扉を開けてくれるのが待ち遠しく、今か今かと首を長くして扉を見つめていた。

 

 逢いたい……早く逢いたい……。

 

 待つ時間が長引けば長引くほど、わたしの中の熱い炎はどんどん燃え盛り大きくなっていく。

 

 ……と、その時だった。

 

 

 

 

「燐子さんっ」

 

「ひゃっ!?」

 

 

 

 

 突然、わたしの後ろから声が掛けられると共に、身体が包み込まれる感覚に襲われた。

 

 意識を向けていたのは真逆の方から、あまりに急な出来事のために驚いて声を上げてしまう。しかしその聞き覚えのある声、そして肌で感じる優しい音楽を感じたから、すぐに心を落ち着けて彼の腕を抱き返すことができた。

 

 世界で一番愛しい……わたしの大好きな人の腕を……。

 

「……もう……急になんてびっくりします……麗牙さん」

 

「ごめんなさい……燐子さんのその反応が見たかったから……」

 

「……他の人に……こんなことしたらダメですよ?」

 

「うん……そうします」

 

 後ろから腕を回して優しくわたしを包み込む麗牙さんに少しだけ抗議の声を上げる。でも彼にこうして抱き付かれているのがとても心地良くて、強く出ることができずにされるがままその温もりに身を委ねていた。

 

「お仕事お疲れ様です……麗牙さん」

 

「燐子さんも……練習お疲れ様」

 

 わたしを傷つけないように優しく、でも力強い彼の抱擁には強く愛を感じさせられる。背中から感じる彼の体温、心臓の鼓動、そして髪にかかる彼の吐息。何もかもが愛おしくて、緊張よりも安心感が優ってそのまま夢の中に吸い込まれてしまいそうだった。このまま彼と一緒に夢の世界に飛び立ってしまいたいとすら思ってしまっていた。

 

「……麗牙さん。まだお昼……食べてませんよね」

 

 でも、ここで事切れるのは早すぎる。それでは今日わざわざこの荷物を……エプロンを準備してきた意味が無くなってしまうからだ。

 さっきまであこちゃんが気になっていた鞄の中身は実はいろいろあるけれど、その中でもメインはお手製のエプロンだった。

 

「うん。燐子さんがそう言ったんですから」

 

「そうでしたね……じゃあ、上がってもいいですか?」

 

「もちろん。どうぞ……」

 

 その理由はもちろん、彼のためにわたしがお昼を作るために……。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 やはり未だに夢を見ているのではないかと思う時がある。

 

「どうぞ……お口に合うか分かりませんけど……」

 

 目の前にはお手製の可愛らしいエプロンを身に纏った燐子さん。そして僕の着いたテーブルの上には、彼女が僕のために作ってくれたオムライスが二人分並べられていた。そう、これは所謂「彼女の手作り料理」! あの燐子さんがっ、僕のためにっ、好物のオムライスを……大丈夫かな僕? 明日うっかり何かの拍子で死んでしまわないか? いきなりみんなに裏切られてクーデター起こされたりしない? 流石にそれはないか? なんて不安になるくらいに今の状況は幸福度が強すぎた。今が食事時でなければ外に飛び出して空に向かって幸せを叫んでしまいそうだった。

 

「ほ、本当は……料理の得意な今井さんに特訓してもらおうと思ったんですけど……どうしてもわたしだけの手で作ったものを……麗牙さんに食べてほしくて……」

 

「僕、もう嬉し過ぎてなんて言っていいか……」

 

 燐子さんは本当に健気だし、そこまで僕に対して想ってくれているのだと思うと嬉しくて涙が出そうだ。本当に夢じゃないよね? いや夢だったとしても今は覚めないでほしい。せめてこの幸せを味わい尽くしてから覚めてほしい。

 でもやはり疑わしくなってしまい、手の甲を少し強く捻って痛みを確かめようとしてみた。

 

「うん、痛い」

 

「……何してるんですか?」

 

「え、いや……これ、現実かなって……」

 

「……わたしだって……ちょっと疑ってます……」

 

「……っはは──」

 

「……ふふ──」

 

 しばらく顔を見つめ合わせ、それからおかしくなって二人一緒に吹き出してしまっていた。二人揃って現実の幸せを疑うなんてとても滑稽な話だ。でも、やはりこうして燐子さんと二人で笑い合うことが未だ夢みたいで、それ以上のことは何も考えられなくなる。今幸せならば後はどうでもいいなんて、王様らしくない考えまで浮かんできてしまう。でも今は……今この時だけは僕を王様でなく、一人の男として世界に受け入れてもらいたかった。

 

「さ、燐子さんも座って」

 

「うん……じゃあ……」

 

「うん。いただきます」

 

 店で出されるような綺麗な形ではないが、十分にオムライスと表現できるその料理へゆっくりとスプーンを突き立ていく。焦げ目のない綺麗な玉子のベールの上には燐子さんによって器用にケチャップでキバの紋章が描かれており、それを崩すことに非常に抵抗があるが(自身の立場以上に燐子さんが描いてくれたものであることが理由だけど)、心を鬼にしてスプーンの上に燐子さんの愛を乗せた。救い上げた愛をゆっくりと口元に運び、慎重に口の中へと含み、そして噛み締め、彼女の愛をこれでもかと味わい尽くす。

 

「どう……ですか……?」

 

「……」

 

「ら、麗牙さん……?」

 

「……美味しいです。うんっ……とっても美味しい……」

 

「〜!」

 

 あまりの美味しさについ言葉を忘れてしまっていた。今まで食べたどんなオムライスとも違う味だけれど、食べた瞬間に口の中に広がり、そして全身に伝わる幸せの味は正に美味としか言いようがなかった。

 彼女の作ったものなら何でも食べられると僕が勝手に思い込んでいるだけかもしれないけど、それでも僕の身体を作り上げる細胞の一つ一つはこのオムライスが美味しいと叫んでいるのは確かだった。

 再び彼女の愛の味を確かめたくて再びスプーンに乗せて口へ運ぶ……そんな動きがほとんど無言で続けて行われていた。

 

「──っ!?」

 

 しかし彼女の料理を食べることに無我夢中だったことが原因か、間抜けなことに喉を詰まらせてしまっていた。急いでスプーンを置いてコップを握り、水を喉に流し込んで何とか事なきを得た。危なかったとは思うけど、意外とこれで死んでも本望かもしれない。好きな人の愛に塗れて死ねるなら、それはもう大往生と言ってもいいのではないだろうか。

 

「っ……っ……っぐ……ハァ……ごめんなさいお騒がせして……ってあれ?」

 

 コップの水を飲み干した時、気が付けば僕の目の前にはあったはずの皿が消えていた。まだ皿の上にはオムライスが残ったいたはずなのに、一体どこに消えたのか。

 

 その疑問は、目の前の燐子さんを見た途端に解決した。

 

 僕の食べかけのオムライスの皿を自分の元に近付けて、燐子さん自身が使っていたスプーンでオムライスを救い上げ、そして……。

 

「危ないから……ゆっくり食べてください。はい……あーん……」

 

 そう言って僕の口にスプーンを近付けてきたのだ。

 

「……え……あ……」

 

 燐子さんのその行動を目にした瞬間、僕の頭はフリーズした。

 

 え、これは……アレだよね? 食べさせてくれるっていうアレ? 親が子にするアレ……恋人同士がするソレ……だよね?

 

 あの燐子さんが僕にソレをしてくれる……? にわかに現と夢の区別が付かず、一瞬何も考えられなくなってしまっていた。

 

「麗牙さん……」

 

 彼女の呼び声で現実に戻ってきた僕は、その時になってようやく燐子さんの顔が真っ赤に染まっていることに気が付いた。それに彼女のスプーンを持つ手が震えているのも分かり、今の燐子さんは相当な無理をしていることが容易に想像できた。

 これは何もしないわけにはいかない。燐子さんの想いを無駄にしないために、そして自分の欲望のままに、彼女の差し出したスプーンを口に含んだ。

 

「あー……ん……」

 

 味はさっきよりも数段甘い気がした。

 

 けど、幸せが過ぎてオムライス本来の味が分からなくなっていた。

 

 だから……。

 

「あの……もう一口……いいですか?」

 

「……ふふっ……はい……」

 

 燐子さんにねだって、確認のためにともう一口を彼女に差し出してもらおうとする。すると燐子さんは嫌な顔一つ浮かべず、むしろ頬を綻ばせて再び僕にオムライスを乗せたスプーンを近付けてくれた。

 

「ちゃんと噛んでくださいね……あーん」

 

 心臓が高鳴り過ぎて胸から突き破って出てきそうなくらいだが、全神経を口に集中させて再び彼女のスプーンを口に含み、そこに乗せられた彼女の愛を深く味わおうとする。

 

「……っ……ふふ……」

 

 どうしよう、自然と顔がにやけてしまう。きっと今の僕は顔中の筋肉が弛緩してだらしない表情を浮かべているに違いない。燐子さんの前でなんという顔をしているのかと思うが、押し寄せる幸せを前にしてこの顔の緩みは止められそうになかった。

 

「うん、美味しいです」

 

「嬉しい……っ」

 

 今度こそ彼女に言葉を伝えられて、燐子さんの笑顔を引き出すことができた。今も僕は彼女の作ってくれたオムライスを口の中でしっかり噛みしめ、幸せを堪能している。多分、今が人生で一番油断している瞬間かもしれない。

 

「ふふっ……はい」

 

 僕が頼んでいなくとも、燐子さんはまた僕に食べさせくれようとスプーンを伸ばしていた。そんな彼女の行為に甘えるまま、僕はまた顔を差し出して彼女のスプーンを咥えようとする。

 

 これを食べたら、次は僕の番かな?

 

 燐子さん、僕の差し出したスプーンで食べてくれるだろうか?

 

 そして、食べ終わったら何をしようか?

 

 まだ次の一口を食べていないにも関わらず、そんな先のことを考えていた。

 

「あーん……」

 

 そしてだらしなく三度目の施しを彼女から受け取ろうとした。

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ、兄さんヘル……プ…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 玄関から僕らのいる部屋に続く扉が、突然音を立てて勢いよく開いたのだ。入ってきたのは僕と同じくこの家に自由に出入りできる妹──愛音だった。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 僕たちは元より、愛音もこの光景を見て時が止まったかのように固まっていた。何せちょうど今、燐子さんから差し出されたスプーンを咥えたところなのだから。恋人同士の熱い時間の真っ只中に足を踏み入れてしまった愛音は、目の前の光景に一瞬脳が付いていけずにいた。

 

「ぁ……ごめん……どうぞ……ご自由に……ホント……失礼しました……!」

 

 すぐさま正気を取り戻した愛音だったが、あまりに気不味すぎる場面に出会したことにバツが悪くなり、言葉も尻すぼみになりながらバタンと音を立てて扉を閉めて僕たちの視界から消えていったのだった。

 

「……え……えっ?」

 

「よ、洋式だから……客に気付かなかった……のかな? あ、あはは……」

 

 靴を脱いで上がるタイプの家じゃないから、燐子さんがいることにも気付かなかったのだろう。せめて玄関で靴を脱ぐ様式の家なら愛音も気付いただろうに……なんて呑気に推測を立てている場合ではない。

 愛音が何やらトラブルを抱えてそうなのは今ので何となく察することができたが、しかしよりによってこの状況で来るというのが問題であった。兄として妹の相談には乗るべきなのだろうが、燐子さんとの時間が惜しくもある。正直、どちらを選ぶべきなのか迷っているのだ。

 

「……麗牙さん……愛音さんの話……聞いてあげたらどうですか?」

 

「え?」

 

 しかし燐子さんは迷うことなく愛音の相談に乗ることを提案してきた。本当にそれでいいのかと、そして僕との時間はこれだけでいいのかと、燐子さんに問い質すように視線を投げかける。

 

「愛音さん……きっと今……麗牙さんを頼りにここに来たんだと思います……それに……」

 

「そ、それに?」

 

「……それに将来……わたしにとっても……妹になるんですよね……? わたしも……妹の悩みは……聞いてあげたいですし……」

 

「……」

 

 今の二人きりの時間のことを考えるなんて杞憂だった。そもそも燐子さんはその先のことも考えていたのだ。愛音にとっての義姉になるということは、僕の伴侶になるということ。つまりクイーンとして生涯僕の側にい続けるということだ。以前に自分が言ったことだが、燐子さん自身の口からそれが聞けて舞い上がりそうになっていた。

 

「行こう、さぁ」

 

「えっ、あ……うん……っ」

 

 彼女の言いたいことを認識してからは行動が早かった。僕はいつも立ってもいられず即座に立ち上がって燐子さんの手を掴み、食卓を後にして玄関へと向かう。当然、将来の花嫁と共に妹の相談に乗るためだ。

 玄関の戸を開けると、すぐそこに愛音はいた。玄関口と門の間で一人頭を抱えて蹲っている少女に僕らは近付いていき、優しく話しかけていた。

 

「話聞くよ、愛音」

 

「ぁ……兄さん……燐子も……」

 

 若干顔が赤くなっているのは先ほどの光景を見てしまったからだろうか、それとも余計な邪魔をしてしまった自分を恥じているからなのだろうか。その答えは問わずともすぐに彼女から返ってきた。

 

「あの……マジで……邪魔してごめん……無視してくれていいから……」

 

「もういいから。何か困ってるんでしょ? 僕たちに話してみて」

 

「わたしも……話くらいは聞けるから……」

 

「ぅわぁ……なんだこの余裕……早よ結婚しろ」

 

 できればすぐにそうしたいところだが、生憎そういうわけにもいかないのが世間体だ。愛音の謎の煽りをスルーして(燐子さんは顔を真っ赤にして爆発しそうになっていたけど)彼女に話を促す。

 

「……多分後悔するけど……うん、じゃあ聞くよ兄さん」

 

「? うん」

 

 何を後悔することがあるのか分からないが、ようやく話してくれる妹の方に意識を集中させようとする。さて、藪をつついて蛇を出すのか、それとも取り越し苦労になるのか……。それを全て受け入れるのが兄、ひいては未来の兄夫婦の役目だろう。

 

 そんな風に兄としての余裕を持って待ち構えていた僕に、愛音は遠慮がちに告げた。

 

 

 

 

「兄さん……ソフトボール……分かる……?」

 

 

 

 

「……ゑ?」

 

 言われた内容を理解できず、一瞬時間が止まったような感覚に包まれた。

 

 燐子さんに、そして妹にカッコいい姿を見せようとして少しだけ……ほんの少しだけ後悔することになる予感がしていた。

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