合同練習から一日明けた月曜日の放課後、僕は次狼と二人でまるで揃わない足並みで街中を歩いていた。学校から帰った僕を家の前で待っていた次狼が開口一番「出かけるぞ」と誘ってきたのが発端だった。
「なんか久しぶりだね。次狼の方から誘ってくるなんて」
「何、そろそろお前にも男のなんたるかを教えないとな」
やけに得意げに鼻を鳴らして僕をリードするように先を歩く次狼。その背中から溢れる空気もそうだけど、彼から聴こえる音楽もどこか楽しげなものだった。昨日リサさんを家まで送り届けた後、僕がキャッスルドランに戻ってからだけど、そこには妙に機嫌のよさそうな次狼がいた。その時は大して気には留めなかったけど、今日になっても変わらないその空気が気になって尋ねてしまう。
「次狼さ、急にどうしたの?」
「別にどうもしないさ。ただ、麗牙が一つ大人になった事が誇らしいってことくらいか」
「大人に?」
「ふん、俺は応援してるぞ……今井リサか」
「っちょ!?」
なんで次狼が知ってるの!? 僕まだ次狼にはそういう報告までしてなかったのに? とそこまで考えて、僕の所属するバンドのギター担当とキーボード担当の顔を思い出す。あぁ、うん、あの二人なら次狼には言ってそうだな……逆に他には絶対に言わないという自信はあるけど。
「悪いが昨日の一部始終も見せてもらった。良かったな麗牙、あんないい女滅多にいるもんじゃないぞ。安心しろ、俺の女を見る目に狂いはない」
「じ、次狼にそこまで言ってもらえるのは嬉しいけど……なんか、すっごく恥ずかしい……」
次狼は今は僕の従者として側にいてくれているけど、同時に僕より何倍も多く生きている人生の先輩でもある。そんな彼に自分の成長を喜んでもらえるのは嬉しいけれど、こうして面と向かって恋の応援をされるとやはり恥ずかしいものがある。昨日のリサさんとのやりとりもバッチリ見られていたようだし、思い出して身体中が熱くなりそうだった。
「そこでだ麗牙。男なら女を誘う店くらい二十や三十は最低限把握しておくべきだ」
「そんなに!?」
「持つ手札の数の差が男の優劣を決めると言っても過言ではない。そこでお前にレクチャーするというわけだ。女を誘う場所ってやつをな」
「僕たち高校生だから、夜のバーとかそういうの無しだよ」
「……そうだな」
「今一瞬空いた間は何!?」
絶対その手の店にも連れていく気だったと、そっぽを向いた次狼を見て確信する。頼むから変な店紹介しないでよ……? 急に不安になってきた僕を尻目に次狼は街中をどんどんと進んでいく。やがていつもの都会の街並みから抜け、拓けた土地に辿り着く。しかしこの道は僕も何度か通っている道でもある。そうして次狼は一軒の静かな、しかし昔ながらのお洒落な雰囲気を残した喫茶店の前で立ち止まり……。
「カフェ・マル・ダムール。ここに誘えば間違いない」
「っていつものじゃん」
「ここよりいい珈琲を俺は知らん」
それだけ言い残して次狼は店へと入っていくので、僕もそれに続いて入店する。次狼が連れてきたカフェ・マル・ダムールは、僕の行きつけの喫茶店だ。内装は昔からほとんど変わらぬ昭和の香りを漂わせており、部屋の広さに対して椅子の数が少ないためゆったりと落ち着いた空間を作り出している。ここのマスターの出す珈琲は確かに美味しい。それこそ世界中の珈琲を一通り飲んだと豪語する次狼でさえ、その味に惚れたほどだ。
ただ、デートスポット紹介で初っ端から行きつけの喫茶店を紹介されて力が抜けていたりしている。次狼の世界は広いのか狭いのか分からない。
「あら、次狼ちゃんに麗牙くん。いらっしゃい。いつものスペシャルブレンドでいい?」
「ああ」
「はい、お願いします」
僕らを出迎えてくれた眼鏡の似合う穏やかな顔立ちをしたカフェのマスターは、急に来た僕たちの望みが分かっているのかいつもの珈琲を淹れる準備をしてくれる。ここのスペシャルブレンドは絶品の一言に尽きると、次狼だけでなく僕も感じている。一杯千五百円とは思えないほどの香りと味、飲んだ後の満足感を有したそれを好む客は多い。聞けば次狼は、初めて飲んだ時にその余りの美味さに一万円を払おうとしたとかしてないとか。それ以来他の店では珈琲を頼まなくなったとも聞く。確かにアレを飲んだ後だと、他の珈琲に満足できないというのは決して過言ではないだろう。それほどのものなのだ、マスターの淹れる珈琲とは。
「あれ?」
と、僕はそこで初めて店内の中の異様さに気付く。マスターの淹れる珈琲は間違いなく素晴らしく、僕や次狼のようにその虜になったファンは多い。伊達に三十年以上も続いているわけではない、正に知る人ぞ知る名店なのだが今日はやけに客が少ない。いつもなら座るのがやっとというくらい人で賑わっているだけに(そもそもの席が少ないのも理由だけど)、いやにしんとした空間に違和感を感じていた。
僕は今一度店内を見渡してみる。僕たちを除いた客と言えば、一番奥のテーブル席に座っている制服姿の女の子が一人だけ……ってあれ?
「紗夜さん?」
「えっ? く、紅さん? それに次狼さんも?」
なんとカフェにいたただ一人の客は紗夜さんだった。隣の席にギターを立てかけて一人珈琲を嗜んでいた彼女は、僕たちの姿を認識するや否や目を丸くして、強張ったように体が固まり背筋が伸びていた。何をそこまで驚くのかは分からないけれども……。それに僕としては紗夜さんがここにいることの方が驚きだ。行きつけの店なだけに、今まで見なかった人を見かければそれは驚くものだ。知り合う前に実はすれ違っていたという可能性もあるかも知れないが、多分それはないと思う。そうでなければ今の彼女から流れる、どこか遠慮しがちな音楽が説明できないから。
「紗夜さん、奇遇ですね。一人ですか?」
「は、はい、たまたま学校が早く終わりましたので……あ、席どうぞ」
「ありがとうございます」
紗夜さんに許されたので、彼女の目の前の椅子に僕と次狼が腰を掛ける。僕が目の前に座った途端、紗夜さんの心の音が僅かに高鳴ったように聴こえた気がしたけど、僕は気にせず彼女へ話の続きを促す。
「今日はRoseliaの練習まで大分時間があったので、それでLiFEの方を少し見てきていたんです」
「LiFEを? どうしてまた?」
「それは……もしかするとですけど、私たちも世話になる可能性がないとは言い切れないので、一応と……」
LiFE──僕たちTETRA-FANGの活動拠点となるライブハウスを見学してきたらしい紗夜さん。確かに僕たちも先週と今週末は普段と違ってCiRCLEでライブを行うし、彼女たちがLiFEを使うことだって十分あり得る。何だったら、今週の合同ライブの結果次第だけど、僕の方からお願いしたいくらいだ。今度は彼女たちを僕らのライブに参加してもらうのもありかもしれない。そうすればまたリサさんとも一緒になれるし……っと、今はそんなこと考えている場合じゃなかったっけ。
ここは位置的にはCiRCLEや近くの商店街よりも、LiFEや僕の家の方が近かったりする。彼女は恐らくその帰りでここを発見したのだろうと推測できる。
「その帰りでたまたまここを見つけたと?」
「ええ、そうです。ですが、正確には……その……」
「?」
予想は当たったものの、紗夜さんは言いずらそうに視線を逸らして……いや、ある一点へ視線を向けていた。そこにいたのは一匹の黒いパグ犬だった。彼女はカフェ・マル・ダムールの二代目看板犬──さゆりちゃんだ。
「……犬、好きなんですか?」
「……っ」コクッ
頬を僅かに赤らめさせて、小さく頷く紗夜さん。ここまで照れる彼女の姿をあまり見たことが無かったからか、その光景が意外で少しだけ呆気に取られてしまう。
「さゆりちゃんに釣られて入っちゃったわけだ……だってさ次狼」
「何故そこで俺を見る」
「え? 犬好きって言われて嬉しくない?」
「噛むぞコラ」
ちょっとした冗談なのに……とわざとらしく肩を竦ませる。ともあれ、紗夜さんはさゆりちゃんのお陰でこのカフェを発見できたわけだ。普段の行きつけの店だけに彼女が僕と同じ発見をできたのは嬉しく思うし、この店の珈琲の嗜み方を教えたり等、少しだけ先輩風も吹かしたくなったりしていた。
「だけどいい店を見つけたと思うよ紗夜さんは。ここの珈琲は最高に美味しいし雰囲気もお洒落だし、僕も贔屓にしてる行きつけの店なんです」
「行きつけ……そうですか。私たち、カフェなら普段は商店街の珈琲店にいくので、それなら今まで会えなかったはずですね」
「そうなんですね。僕も今度はそっちの方にも顔出してみようかな……」
「ちょっと麗牙くん。目の前で浮気宣言されちゃったら僕拗ねちゃうよ?」
そんなこと本気で思っていないマスターの軽口に僕らの顔に笑顔が灯る。マスターの珈琲の味に勝てる店がそうあるとは僕も思っていないけど、みんながいるならば偶にはそちらの方にも顔を出したくなってしまっても仕方ないだろう。こうして紗夜さんと──同世代の友人と揃ってカフェに行くことも最近は少なくなってきてしまっただけにね。そこはキングとしてやることが多くあるから仕方ないんだけど。
CiRCLE近くの商店街と言えば何があっただろうか、と紗夜さんに尋ねると、どうやら「羽沢珈琲店」という店があるらしい。最近はRoseliaも顔を出すようになったようで、CiRCLEに通い詰める他のガールズバンドのメンバーたちもよく入り浸るそうだ。なるほど、確かに僕はRoseliaとPastel*Palettesくらいしかよく知らないわけだし、そこで他のバンドの子たちとも知り合って話すのもいいかもしれない。
──ま、本当はリサさんと話したいという願望も含まれているんだけどね……。
「はい、お待ちどう様。スペシャルブレンドです。ごゆっくり」
「っ、それ……一杯千五百円のやつですよね?」
「? そうですけど、味を考えたら安いものですよ」
「……紅さんって、結構裕福な家系の方ですか?」
そんな紗夜さんの質問には一応肯定で答えたけれど……もしかして僕って金銭感覚狂っている? そんな小さな不安に襲われながらも、そんなものは目の前の至高の珈琲の香りを感じ、口に運んだ途端に消え失せてしまう。この深いコクの前には些細な不安や悩みなど露へと消える、それほどの魔力が宿っているとさえ思ってしまう。僕が珈琲を堪能する間、あまりに幸せそうな表情を浮かべているのが気になるのか、紗夜さんは興味深そうに僕の方を見てくる。
「……少し飲みますか?」
「っ!? い、いえっ、大丈夫ですっ。お気遣いなきように……」
まだ半分以上残ったカップを紗夜さんに向けたけれど拒否をされる。このスペシャルブレンドの味を知ってほしいがための布教のつもりだったけれど、やはり失礼すぎたかもしれない、と反省する。紗夜さんの顔が耳まで真っ赤になっているけれど、そこまで憤慨させてしまったのだろうか。と、そこで足に鋭い痛みを感じた。理由は分かる。隣に座る次狼が僕の足を踏んづけたのだろう。そして次狼は僕にだけ聴こえる声で、地に響くような低い声色で言ってきた。
「麗牙……そういうことは迂闊に他の女にするものじゃないぞ」
「は、はい……」
どうやら今の発言は次狼的にはナンセンスだったようだ。声だけで伝わるその凄みに、僕は小さく頷き返すことしかできなかった。
僕と次狼はただ無言で珈琲を味わい、紗夜さんはまだ怒っているのか、ずっと俯いたまま表情が見えない。そんな状況が続く中、先に沈黙を破ったのは紗夜さんだった。彼女は軽く息払いをすると、落ち着いた声で僕に問いただしてきた。
「こほんっ……そ、それはそうと紅さん、この店が行きつけだと言っていましたが、普段からこんなに空いているのですか?」
「いえ、そんなことは。この店も普段はもっとたくさんお客さんがいるはずなんですけど……マスター、今日はどうしたんですか? 珍しく空いていますけれど」
紗夜さんの質問は先ほどから僕も気になっていたことだった。丁度よかったので、妙に人が少ない店内についてマスターに問いかける。まさか商店街のカフェに客を取られたとも考え辛いし、たまたま人が少ないだけならそれで構わない。だけど何故だか、僕には嫌な予感がしてならなかった。
「それなんだけどねぇ、なんか最近ウチ変な噂立てられててねぇ」
「変な噂?」
「そう。『カフェ・マル・ダムールで珈琲を飲んだカップルには不幸が訪れる』ってさ」
「はい? 何それ?」
「営業妨害甚だしいな」
僕の呆れの声と、次狼の怒りの声が店内に溶けていく。紗夜さんはその噂を聞いたことが無かったらしく、僕と同じように呆れと、そして怪訝そうな表情を浮かべていた。
「もうバッカみたいよねぇ? でも最近って昔と違ってSNSとかあるからさぁ、こういう噂一日もあればすぐに広まっちゃうのよ。でも実際さ……ウチに来たカップルで最近見ない人もいるし、もしかしたら本当に何かあるかもって思っちゃうんだよね」
「マスター、それってもしかして──」
「それ以上は言わなくていいから。麗牙くんは麗牙くんの、平和な日々を過ごしてくれればいいの。僕は今のままでも大丈夫だからさ」
「──っ……」
僕が何を言おうとしているのか分かっているのか、マスターはそれ以上を話させてはくれなかった。マスターは知っているのだ。僕がファンガイアであること、キバであること。もしこの店に流れる噂がファンガイアに関連することならば、僕は必然的に動くことになる。だけどマスターはそれが僕を苦しめていることを分かっている。だからこそ彼は言ったのだ、僕はいつもの日々を過ごせばいいと。
しかし、僕はそれを聞くことはできない。何故なら僕はキングだから。もし仮に人を襲うファンガイアがいるならば、僕は掟を背く者に鉄槌を下さなければならないから。彼の言う平和な日々は、今の僕にとっては遠い未来の話だ。
「そうだっ。ねぇ、貴女……紗夜ちゃんだっけ? せっかくだからさ、ちょっとここで何か弾いて行ったらどうかな? 練習とかしてていいからさっ」
僕の心から流れる重苦しい音楽がマスターにまで届いてしまったのか、彼は声を一段階上げてそんな提案を紗夜さんに持ち掛けてきた。あまりにも突然の展開で紗夜さんは一瞬目を見開いて、困惑の表情を浮かべてしまう。
「え……でもここじゃ迷惑じゃ……」
「どうせお客さんいないんだし、いいんじゃない? 機材なら奥にあるし。あ、次狼ちゃんと麗牙くんも何かやる?」
「俺は結構。麗牙はどうする」
「じゃあ久しぶりにベースで」
「オッケー今から持ってくるね~」
嬉しそうに足を弾ませて店の奥へと入っていくマスター。一方で僕は、紗夜さんが物珍しそうな顔をして自分を見つめているのに気が付いた。
「紗夜さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ、紅さんってベース弾けるんですか?」
「うん、ちょっと経験があってね」
TETRA-FANGが結成されるよりも昔、僕は健吾さんと、今は共にいないけれど女子二人を含めた四人でちょっとしたバンドをやっていた時期があった。バンド名は恥ずかしいから聞かないでほしいんだけど、その時期に僕はギターやベースを弾けるように練習していた。今の健吾さんや次狼ほどの実力は無いけれど、人前で演奏しても恥ずかしくないほどの腕は身に着けているとは思っている。少なくとも健吾さんは「やっぱり天才やで麗牙は!」って褒めてくれていたけど、それが本心なのかお世辞なのかは今になって聞く勇気はない。
「お待たせ。はいベース」
「ありがとうございます」
マスターから手渡された赤いベースギターを機材につなげて、細かい調整を施す。一つ一つ、僕の思い通りに音が出るかを確認してから、同じようにギターを調整していた紗夜さんに向けて提案する。
「紗夜さん、何か一緒に弾きませんか?」
「え……?」
一人で練習する気でいたのか、不意な提案に抜けたような声をあげる紗夜さん。その姿が可愛くて笑いが出そうになるのを耐えて、僕は記憶の中に残るRoseliaの曲からとある曲のベースのリズムを刻み始める。ある意味、僕がRoseliaと出会った曲になるそれを……。
「それ……一ヵ月前に出来たばかりの……」
タイトルは何だったかな……そうだ「Determination Symphony」だ。紗夜さんと初めて会った日の後、Roseliaというグループに興味を持った僕が初めて見た彼女たちのステージ。そこで発表された新曲がこの曲だった。そしてあの日あのステージにおいて、この曲と同じような決意の調べが心から流れていたのが紗夜さんだった。僕の耳に聴こえてきた彼女の心の音は、あの雨の日に聴いた壊れそうな音じゃなく、彼女の人となりを表すような真っ直ぐに力強く伸びた美しいものだった。あのステージで紗夜さんはきっと、決意を新たにしてギターを奏でることができたに違いない。僕はそんな彼女を見て安心し、そして新たに期待もしていた。彼女なら自分だけの音を必ず見つけられる、そして僕もいつかそれを聴いてみたい、そう思うようになっていた。
「紗夜さん。音を」
「は、はい……ですが、どうしてそこまで弾けるんですか……」
「さあ、なんでだろう。何故か記憶に残っているんですよね」
僕は基本的にその場で奏でられる複数の楽器を聞き分けることができる。故にベースの音がどういうものだったかは聞けば大体分かるが、それと曲を覚えるのはまた別の話になってくる。その上で僕がこの曲を今弾くことができる理由は、正直なところ僕にも分かっていない。強いて言うなら、記憶に強く残っているからだろうか……。でも流石に歌詞までは覚えていない。だから──
「紗夜さん、歌えますか? と言うより歌詞は覚えていますか?」
「えぇ? お、覚えていますけれど……どうしてですか?」
「歌ってくれた方が気持ちよく演奏できますし、歌ってほしいなと。ダメ、ですか……?」
「ぅ……わ、わかりました……」
紗夜さんは恥ずかしがりながらも了承してくれた。やがてギターとベースのハーモニーが織りなす色彩豊かな喫茶店を、綺麗な歌声がより色鮮やかに美しく変化させる。
♬~~
──思うままBring it on down 決意の調べ
「(すごく綺麗な歌声……)」
今まで彼女の歌声をまともに聴いたことはなかったけれど、こうして初めて聴く一人の時の彼女の歌声は、僕の想像を超えるほど綺麗なものだった。普段はしっかりしたような、ぴしゃりと締めるような強い声色で話す彼女だけど、歌声となるとそれはもう別物だ。こんなにも繊細で優しい音を出せるのかと、提案した僕自身驚いている。それに……。
「(今の紗夜さんの音……すごく楽しそうに笑っている……)」
ギターを弾き語る彼女の心の音は、今まで彼女から聞こえたことのないくらいに明るいものだった。嬉しいような恥ずかしいような、でもすごく楽しくて跳ね回っている、そんな音を彼女の心は奏でていた。そして彼女の楽し気な音につられて僕の心の音もまた楽しくなる。音と音を、心と心を繋ぐ……やっぱり音楽の力は凄いと、紗夜さんとのセッションを経てそう改めて思い知っていた。
「ふふ──」
「っ」
一瞬だけ、歌の合間でこちらへ向けて笑顔を見せた紗夜さん。それを見て心が飛び跳ねるような感覚に襲われる。思えばこれまで紗夜さんが心から笑ったような顔を見たことが無かったかもしれない。それをまさか、一瞬だけとは言えこんなタイミングで見ることになるとは思わなかった。驚きと、そしてその美しさについ息を飲んでしまった。リサさんが見せる純粋に明るい笑顔とはまた違った、奥深さのある微笑みに……。
できれば、このままずっとここで音楽を奏でていたい。そう思っていたのはきっと僕だけではないはずだ。彼女の心から流れる音楽を聴いて、そう確信していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
麗牙は変わらず氷川紗夜とのセッションに現を抜かしている。麗牙は純粋に楽しんでいるだけだと思いたいが、少なくとも彼女の方は単純に楽しいという気持ちだけではないことは分かる。言葉を語らずとも、彼女の視線を見ればわかる。何度も麗牙を追うような、まるでこちらを見てほしいと言わんばかりに向ける視線。というより、あそこまで色気のある笑顔を見せれば普通は気づくものだが……本当に麗牙は気付いていないのか?
その女がお前に惚れているということに。
……いや、きっと麗牙は気付いていないだろうな。アイツは自分の恋でいっぱいいっぱいだ。だが、そうなると氷川紗夜が不憫に思える。彼女自身まだ無自覚という可能性もあるが、もしそうならばこのままだと自分の気持ちを自覚する頃にはもう巻き返しが不可能な事態になっているかもしれない。俺としては麗牙と今井リサの仲を応援してやりたいところだが、こうも空回りしそうな小娘を見ていると哀れに思えてくる。だから少し手助けしてやっても……バチは当たらんだろうな。
「……ん?」
その時、俺の視界に妙なものが映り込んだ。窓の外の遠くからカフェの中の様子を伺っている、薄気味の悪い帽子を深く被った男か女かも分からない輩の姿であった。ヤツは俺の視線に気づいた様子はない。何故ならヤツの視線はカフェの中の一つの空間にだけ向けられていたからだ。そう、今もなお楽しげにセッションしている麗牙と氷川紗夜に。
──『カフェ・マル・ダムールで珈琲を飲んだカップルには不幸が訪れる』
先ほどマスターが言っていた噂話を思い出し、俺は「なるほど」と顎に手を当てて鼻を鳴らす。
──これはまた今夜にでも一悶着ありそうだ。
意味は「恋煩い」だそうです。
そして青き狼が牙をむく……。