ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

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『決死の思いでロードに挑む麗牙。その結果、愛音は戻ってきた。でも……その代償は余りにも大きすぎた……』


第158話 それでも世界は回る

 紅麗牙の散華よりおよそ一週間。

 

 世界は、至って平和であった。

 

「結局何だったんだろうな。先週の嵐」

 

 羽丘女子学園の教室。昼休みの穏やかな青空を眺めながら、Afterglowのメンバーはのんびりと過ごしていた。長身で目立つ巴が、ぽつりと先週末の話題を振る。海岸で起きた局地的な異常気象──ニュースではほとんど取り上げられなかったが、あの空はまるで天変地異の前触れのように恐ろしかった。そんな風に不安を感じたのは、きっと巴だけではなかったはずだ。

 

「そうだね。ま、何ともなくてよかったんじゃない?(多分また紅さんか愛音だと思うけど)」

 

「そうだよねーやっぱり平和が一番だよー」

 

 不思議なことが起きればそこにきっとあの兄妹が絡んでいるのだろうと、それを知ることのない巴やモカには伝えず、蘭は一人心の中で思うことにした。結局あの後は嵐も止んでしまい、その後も特に異常が発生することはなく、今日までずっと平和な日常が続いていた。紅兄妹が変身して戦っていることを知る蘭は、いつものように彼らが戦って平和を保ってくれているのだろうと考えていた。

 

 そう、世界は今日も平和である。しかし同時に、彼女たちには懸念していることもあった。

 

「平和っちゃあ平和なんだけど……ねぇ?」

 

「うん……今週ずっと来てないよね。愛音ちゃんとアゲハちゃん」

 

 この一週間ずっと教室にいない二人の席を眺め、ひまりとつぐみの心配する言葉が漏れる。新学期が始まり二年生となった際、Afterglowの全員がようやく同じクラスになったのと同時に、愛音とアゲハも彼女たちと同じクラスとなっていた。同じバンド仲間として既に交友を深めていたために、クラスメイトとして関わることはこれまで以上に増えていた。だからこそ、一週間も顔を見せない二人の不在は、誰の胸にも小さな棘のように刺さっていた。

 

「やっぱ二人揃って仲良く風邪でも引いたのか?」

 

「いやそれはないでしょ」

 

「でも分からないよ? ひーちゃんなら引かないだろうけど、二人とも賢いからねぇ」

 

「ねぇ!? 今バカって言った!? バカは風邪引かないってこと!?」

 

「あ、あははぁ……でも、なんか寂しいよね。たった一週間会えないだけでも」

 

 つぐみの言葉に皆が頷く。Afterglowの仲間程ではなくとも、沢山話もして仲良くなれたと誰もが思っていたのだ。同じ音楽が繋げてくれた仲間として、そして友達として、その姿が見えないことには寂しさを覚えてしまうものであった。

 

「……あーもしかしてー」

 

「モカ、何か知ってるの?」

 

 そんな中、ふと思い出したように声を上げるモカに皆の注目が集まった。

 

「前にリサさんが言っててさ。今日、麗牙さんの誕生日なんだって」

 

「それだぁ!!」

 

「うーん……うん? けど流石に誕生日だからって一週間も休むかぁ?」

 

「……(ファンガイアのキングだったら有り得るのかな?)」

 

 教室のカレンダーを見ながら蘭は一人思う。自分はファンガイアの掟やしきたりなどはよく分かっていないが、もしかすると盛大に誕生日を祝う風習があるのかもしれないと。しかも紅麗牙はファンガイアのキングである。その祝祭となれば一族を上げた壮大なものになるのかもしれない。当初は馬鹿げた考えだと思えたそれも、考えれば考えるほど現実味を帯びてくるものであった。

 

「誕生日かぁ……ねぇ、あたしたちも何か用意しない? ちょっと遅いかもだけど」

 

「いいねいいねっ! ついでに心配かけた愛音にも目一杯よしよししてやろうじゃないの!!」

 

「アタシも賛成。紅さんにはあこも世話になってるみたいだし……てか、ひまりは愛音と遊びたいだけなんじゃ……」

 

 蘭の提案にひまりと巴が即座に乗る。残りの二人もきっと賛成してくれるだろう──そう蘭が思った矢先、モカが不敵な笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、二人も今日の放課後に買い物ってことで──」

 

「ふっふっふ……」

 

「──な、なに、モカ。なんか怖いんだけど……」

 

「ちっちっち。甘いなぁ蘭は。このモカちゃんがそれを知っていて何もしていないとでも〜?」

 

「え?」

 

 そう言えばと、この情報を教えてくれたのはモカだということを思い出した蘭。その口ぶりからして、モカは既に麗牙へのプレゼントを用意していたのだろうか。そう問い出そうとしたところで、モカは諦めたように手を振りながら真実を白状した。

 

「まぁ、あたしからっていうのは嘘で、本当はつぐの方だよ」

 

「つぐみ?」

 

「うん。実は私も知っていたんだ。紅さんのお誕生日。だから、私の方でプレゼントの用意はできているんだ」

 

「……そっか。すごいね、つぐみは」

 

 よく考えてみれば、かつて麗牙に恋していた彼女が彼の誕生日を忘れるはずがなかったと、蘭は己の至らなさに苦笑いしてしまう。

 

 

 

 

 つぐみから、麗牙に告白して玉砕したと聞いた時のことを蘭はよく覚えていた。自分の危惧した通りの結末になってしまったこと。それでいて自分に何もできなかったこと。結果としてつぐみと麗牙に負担をかけたこと。その全てに負い目を感じた蘭は頭を下げてつぐみに謝罪をしていた。当然、何も悪くない蘭に頭を下げられたつぐみは狼狽えてしまう。しかし蘭は、自分がいればつぐみを泣かせることはなかったかもしれないと考えていたのだ。そんな蘭に対してつぐみはすぐにこう返していた。

 

 ──私、紅さんの前で泣かなかったよ。

 

 あまりにも眩しい笑顔でそう答えるつぐみを前にして、蘭はそれ以上何も言えなくなってしまった。とても辛い経験をしたはずなのに、どうしてそこまで強くいられるのだろうか。どうして恨み言の一つも言わないのか。いろんな思いが生まれてくる中で、蘭はつぐみに質問してしまう。

 

 ──忘れたくないの?

 

 辛い思い出なら忘れた方が楽なのに。麗牙に恋していた自分のことも忘れた方が楽なのに。蘭が思わず尋ねると、つぐみはあっさり首を振った。

 

 ──絶対に、いや。

 

 とても可愛らしく、向日葵のように明るく笑ってそう答えるつぐみを見て、今度こそ蘭は口を閉ざしてしまう。それもこれも、つぐみがこれまでの麗牙との経験の全てを自分の大事な思い出として昇華させていたからである。あのひと時の淡い想いは、今の彼女にとって無くてはならない大切な思い出となってたのだから。

 いつの間にか自分よりも少し大人になってしまったつぐみを想い、蘭は少しい寂しい気分になったのである。

 

 

 

 

「(そりゃあプレゼントも用意するよね……)」

 

 自分に恋を教えてくれた大切な人の誕生日。そんな一大イベントをこの少女が見逃すはずがないと、改めて蘭は思い返していた。

 

「でも……」

 

「どうしたの?」

 

「紅さん、私のメッセージ見てくれてないみたいで。それで電話したら、電源が入っていないとか電波が届かないとか……」

 

「携帯壊れたんじゃない?」

 

「だよねっ。そう思ったから愛音ちゃんかアゲハちゃんに聞こうとしたんだけど……ね?」

 

「あ〜……」

 

 麗牙との連絡が取れないと、困った様子のつぐみを見て蘭たちの顔にも納得の表情が表れていた。麗牙に連絡が取りたいのに本人どころか関係者にも行き当たらないのだ。このままではせっかくのプレゼントも無駄になってしまうの。故にどうにかして彼らと接触しないといけないと、そんな気持ちが彼女たちの中で強くなっていた。

 

「あっ、じゃあRoseliaのみんななら知ってるかも! ほら、TETRA-FANGともコラボしてたしっ」

 

「巴、あこは何か知ってると思う?」

 

「あ、あぁ〜……あはは……」

 

「巴?」

 

 この学園で愛音とアゲハ以外で麗牙に近い知り合いということで、Roseliaが挙げられることは自然な流れであった。この中で最もRoseliaのメンバーに近いのは妹がそこに所属している巴であり、当然彼女に注目が集まる。しかしいざ視線を向けられた巴はバツが悪そうな顔をして、苦笑いを浮かべていた。

 

「いやぁ実はあこさ、今日学校休んでて……なんか体調悪いらしくて」

 

「ああ、だから愛音たちも風邪かもって……」

 

 先ほど愛音とアゲハが風邪かもと巴が考えたのも、あこが体調不良で欠席だということに合点がいった蘭たち。しかしそれならばこの学園に残るは友希那とリサしかいないため、学年を超えて会いに行かなければならないということになる。少し億劫になるが、目的のためならば仕方ないと、蘭たちは三年生の教室を目指すことにした。

 

「あ、日菜先輩」

 

「……あっ、やっほーつぐちゃん! それにみんなも! 今からみんなでお昼?」

 

「それはもう終わったよ。私たち、ちょっと友希那先輩とリサ先輩に用があって」

 

 三年生の教室へ向かおうと自分たちの教室から出た途端、一行は学園の生徒会長でもある日菜と遭遇した。何故三年生の彼女がこの学年の階にいるのかと皆が疑問に思うも、彼女が生徒会長として学園の見回りでもしていたのだと考えて自分を納得させようとしていた。

 

 しかしその様子がいつものように楽しく跳ねるようなものでなく、どこか落ち着いて慎重な雰囲気を醸し出していたことには誰も気付くことはなかったが……。

 

 そして、彼女の口から出てきた言葉に蘭たちは困惑することになる。

 

「今日、いないよ。Roselia」

 

「え……?」

 

 Roseliaがいない? それは学園にということなのか? 突然彼女の口からもたらされた情報が理解できず、蘭は一瞬身体が固まってしまう。蘭だけでなく、Afterglowの皆が同様に目を見開いて固まっていた。そんな彼女たちを気にすることなく、日菜は更なる詳細を蘭たちに開示していた。

 

「今日学校にRoseliaのみんなは来てないよ。友希那ちゃんもリサちーもあこちゃんも。それにね、おねーちゃんも今日は学校休んでるんだ。生まれて初めてのずる休みっ」

 

「え、ええっ!?」

 

 今度こそ、衝撃が全員を貫いた。

 

 教室の喧騒が遠くに聞こえる中、Afterglowの面々は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 場所は変わり、花咲川女子学園。同じく昼休みのひと時を過ごしていた彩は、目の前で難しい顔を浮かべて窓の外を見ている千聖に声をかけようか否か迷っていた。

 

「……」

 

「あの……」

 

「……」

 

「ち、さとちゃ〜ん……」

 

 まだ蚊の羽音の方が大きな音が出ると言われるほどの小さな声で、彩は遠慮がちに千聖に話しかけようとする。当然その程度の音量で考え事をしている千聖に届くはずもなく、無視(と彩は感じているが)され続けてしまう。そんな彼女に助けの手……と呼べるものではないが、彼女の存在に目を向けてくれる少女が現れた。

 

「彩ちゃん?」

 

「あ、花音ちゃん」

 

 千聖と同じクラスでもある花音が、苦戦を強いられている彩に声をかけていた。花音自身に手助けする意図は無かったが、彩にはそれが救いの手のように思えていた。故に彩はすぐさま花音の元へ近寄り、千聖に聞こえないような小声で尋ねていた。

 

「千聖ちゃん、何かすごく考え事してて、ちょっと話しかけづらくて……花音ちゃん何か知ってる?」

 

「え? えぇ……なんだろうなぁ……」

 

 千聖の親友である花音なら、自分の知らない千聖の事情も知っているかもしれない。そんな期待を込めて彩は花音に答えを求めて迫っていた。

 

「あ、もしかして……」

 

「何か分かる?」

 

「ぅ、う〜ん……もしかすると関係ないかもだけど……あの、彩ちゃんは隣のクラスだから知らないと思うんだけどね」

 

「うっ、ちょっと気にしていることを……」

 

 学年が上がったことにより再編されたクラス分けでは、どういう訳か自分の友達が悉く隣のクラスに行ってしまったのだ。同じPastel*Palettesの千聖も、バンド仲間である紗夜と燐子も、皆違うクラスになってしまった。そんな疎外感に軽く打ちひしがれたのもそこまで懐かしい話ではなかった。そのため、前置きとして花音の話したその事実でさえ、彩にとっては心に突き刺されるものであった。

 

「ご、ごめんね……あ、それでね、実は今日なんだけど……紗夜ちゃんと燐子ちゃんが学校休んでるの」

 

「えっ、Roselia二人とも?」

 

 教室に入った時から見えないとは思っていたが、それも昼休みか生徒会のためだと彩は考えていた。しかし実際は学校に来てすらいないことに、しかも二人揃って休んでいることに彩は驚かずにはいられなかった。

 

「じゃあ、千聖ちゃんがあんな顔してるのって……そのせい?」

 

「うん、まあ……関係はある、かな。でも、それだけじゃないと思う」

 

 花音は少し考えるように視線を泳がせ、やがて決心したように千聖の方へ向き直った。

 

「ねぇ、千聖ちゃん」

 

「っ……花音。それに彩ちゃんも」

 

「本当に気付いてなかったんだ……」

 

「え、もしかして私、話しかけられてた? ごめんなさい、少し考えごとをしていたから……」

 

 花音も自分の予想を確かめたくなったのか、千聖に話しかける。その呼びかけに対して千聖はようやく二人の存在に気付き、ずっと思考の海を漂っていた自分にも少し驚いた様子だった。ここに来るまで全く気付かれなかったことに少々傷付いた彩であったが、そんなことで一々気にしているわけにもいかず、千聖がそこまで無心になっていた理由について問い質すことにした。

 

「考えごとって、紗夜ちゃんや燐子ちゃんが休んでること?」

 

「そういうわけじゃないわ……関係はあるかもしれないけど」

 

「……ねぇ、千聖ちゃん。もしかしてなんだけど──」

 

 花音にはある確信めいた予想があった。そうでなければ、あの千聖があそこまで放心することもないのだから。

 

 そして静かに、しかしはっきりと花音は尋ねた。

 

 

「──健吾くんにも何かあった?」

 

 

「っ!?」

 

 その言葉が千聖の耳に届いた時、千聖の肩が僅かに跳ね上がった。その小さな反応だけで彩は頭に疑問符を浮かべ、花音は納得したように小さく息を吐き、眉を寄せた。

 

「それは……」

 

 

 

 

 それは先週の嵐が巻き起こった日のことであった。

 ドラマの撮影のために学校を早退していた千聖は、偶然その光景を目撃した。白を基調とした見覚えのあるバイクと、それに持たれて座り込む健吾の姿を。何かに耐えるように拳を握り締め、頭を抑えて震えている健吾。どう見ても普通じゃないと思った千聖は、足取りを止めて健吾の元へと駆け寄ったのだ。

 

 ──あの……健吾、くん?

 

 今まで見たことのない、泣きそうな彼の表情が信じられず、本当に本人なのかと確認するように恐る恐る声をかけた。

 

 ──っ、お、おおっ、千聖ちゃんか。なんやなんや? こんな昼間から。そっちもサボりかいな?

 

 先ほどまでの苦悩の表情が嘘のように隠れ、いつものような晴々とした笑顔で千聖に振り返る健吾。しかし、長年女優をやってきた千聖には、それが作り物だと一瞬で見抜いていた。

 

 ──仕事よ。でも、それよりも大事なことができたわ。たった今。

 

 健吾が何かに苦しんでいる。それがハッキリと分かっていた千聖にとって、今の彼のそばにいることは、これからの仕事よりも大切なことであった。苦しみのわけを教えてほしい。抱えている悩みを打ち明けてほしい。これまでたくさん彼に助けてもらったのだから、それを少しでも返したい。

 それが苦しむ健吾を見てしまった千聖の想いであった。

 

 ──俺のことはええ。俺のことは、そう、ホンマに……。

 

 ──健吾くん……。

 

 健吾の顔には不安と焦燥の色が現れていた。

 本当はこんなところでじっとしていたくない。今すぐに走り出したくてたまらない。何かを耐え忍ぶかのような苦悶の表情を浮かべる彼に、千聖はもう一度声をかけようとした。

 

 ──大丈夫やて。次会う時は、おもっくそ元気になった俺らのライブ見せたっからよ。だから……またな。

 

 しかし、それだけ言い残した健吾は、千聖から逃げるようにしてバイクに跨って走り去っていった。

 

 

 

 

 その後、街の近くで大きな嵐が発生した。局所的に発生した不可思議な現象であったが、被害を生む前に消失してしまった。恐らく健吾か、紅兄妹が関わっているのだろうと千聖は直感していた。あの時も彼らの活躍があったのだと、千聖は今日まで続く平和を思って感謝していた。

 しかしその日を境として、健吾とは一切の連絡も付かなくなってしまったのだった。

 

「今も思うのよ。やはりあの時、無理にでも健吾くんの話を聞くべきだったって……」

 

「私も……健吾くんと連絡取れなくて。やっぱり何かあったんだよね……」

 

 健吾に何かあったのは間違いない。それは千聖と花音だけでなく、話を聞いていた彩も同様に感じていた。

 しかし未だ疑問に尽きない点もあった。

 

「でも、それとRoseliaがいないのって何か関係あるのかな?」

 

「それは……」

 

 健吾の話はRoseliaの件とはやはり無関係なのでは? そんな思いが再び彼女たちの脳裏によぎった。しかし全く無いとも言い切れず、否定の言葉も出てこなかった。

 ではどうすれば良いのかと、三人は再び思考の渦に飲み込まれる。誰が事情を知っている人はいないのか。答えを持っている人はいないのかと、思い巡らせる。

 燐子と紗夜、そして健吾と共通の知り合いで、尚且つ今すぐに連絡の取れる人物……そんな都合の良い条件に当てはまる人物は……そこまで考えたところで、ふと花音が声を上げた。

 

「あ……」

 

「花音? 何か分かった?」

 

「うん。でも、なんで忘れてたんだろ……名護先生に聞けばいいんだ」

 

「あ」

 

 花音の告げた名を聞き、千聖は間の抜けた声を出してしまう。

 自分たちの担任であり、健吾の師匠でもある存在。故に彼らの事情も熟知しており、燐子を始めとした花女の護衛としてずっと自分たちと共にいた男のことを、どういうわけか今の今まで頭から抜け落ちていたのだ。

 

「あ、あまりに普通に先生をしていたから、関係者だってこと忘れていたわ……」

 

「じ、実は私も……」

 

「ん? え、何? 名護先生がどうしたの?」

 

 先ほどもここに来る途中ですれ違ったイケメン教師の顔を思い浮かべて彩は尋ねる。彼女にとってみれば、名護はあくまで突然隣のクラスに赴任してきた超絶ハイスペック先生でしかない。そんな彼がこの行き詰まった状況を打開できるとは思ってもみなかったのだ。

 

「私、聞いてくる。健吾くんのこと心配だもんっ」

 

「花音っ? 待って私も行くわ」

 

「えっ? ね、ねぇってばぁ?」

 

 共に健吾のことが心配でたまらない花音と千聖は、勢いよく教室を飛び出そうとする。

 

 事情を知らない彩は、置いていかれないよう慌てて二人を追いかけるしかなかったのであった。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 街から遠く離れた暗い山奥。

 

 そこに愛音は一人佇んでいた。

 

「……」

 

 瞳は曇り、頬はこけ、足取りも重い。まるで死人のような姿で、痛々しい傷を残した手を水源に近づけ、僅かな水を掬って口に運ぶ。ここに至るまで、彼女は水以外ほとんど何も口にしていなかった。

 

「……兄さん……」

 

 何度目かの儚い呼び声。空を見上げて呟くその姿に、生気は感じられなかった。

 

 

 

 

 麗牙の身体が砕け散った直後、愛音は感情のままにその場から逃げ出していた。その身をエンペラーバットへと変化させ、嘆きの叫びを上げながら空を切り裂き飛び続けた。

 このまま果ててしまいたい……そんな自殺願望とも違わない無謀な逃避行の果てに、力尽きた愛音はいつしか人里離れた山奥へと辿り着いていた。

 

 しかし彼女はそう簡単に死ねる身体でもなかった。空腹で目を覚ました愛音は、一瞬、自分は悪夢を見ていただけではないかと錯覚した。あまりにも有り得ない、有り得てはならない非現実的な悲劇を体験し、今ようやく解放されたのだと錯覚していたのだ。

 

 だが意識がはっきりするほどに、現実が彼女を押し潰そうとする。

 

 ──ぁ、あああっっ、ああああ゛あ゛あッ!!

 

 あれは夢ではない。自分がこの手で最愛の兄を手にかけてしまった現実を、愛音は再び受け止めざるを得なかった。

 

 ──死ねっ! 死ねっ!

 

 今でもこの手は覚えていた。

 

 ──なんでっ、なんでお前()が生きてるんだ!

 

 兄の腕を断ち斬った感覚も。

 

 ──なんで兄さんじゃなくてお前()が……!

 

 兄の眼を奪った感覚も。

 

 ──クソッ、クソッ! クソォ!

 

 兄の胸を貫いた感触も。

 

 ──死ねよっ、死んでしまえよ!! このクソ野郎(紅愛音)!!

 

 愛音は叫びながら、浅い水溜まりに映る自分の姿に何度も拳を叩きつけていた。そうでもしなければ自分を保つことはできなかった。兄を排した愚か者として己を侮蔑しなければ、理性を保つことができなかった。自らを傷つけることでしか、自我を繋ぎ止められなかった。

 

 しかし、自ら命を断つことは兄の行動を全て無駄にしてしまう。愛音はそれを理解していた。

 

 故に愛音は、死人同然として生きることを自ら選んだのであった。

 

 

 

 

「兄さん……」

 

 麗牙が果てて八日が過ぎた。もはや日の感覚が無い彼女には、今日が最愛の兄の誕生日であることも把握できていなかった。

 

「会いたいよ……」

 

 もはや叶わぬ望みであっても、愛音は望まずにはいられなかった。

 

 兄を想うこと。

 

 兄の音楽を想うこと。

 

 それだけが、今、彼女を辛うじて生かしている。

 

 大罪人として闇の中で生き続ける。

 

 それが彼女なりの贖罪であった。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 さざなみが静かに響き渡る丘の上。

 

 先日まで激戦が繰り広げられていたとは誰も思わないほど、静かな風が吹いていた。

 

 その風はゆっくりと、しかし確実に変化を見せていた。

 

 そんな海の見える丘の……その地下深く。

 

 

「……ッ……!」

 

 

 悠久の時を過ごした棺の中で、何かが胎動を始めていた……。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さて、行きますかっ」

 

 ギターケースを肩にかけ、リサは立ち上がった。

 

「ええ、この日のためにやれることは全てやりましたから」

 

 紗夜もまた、静かに自分のギターケースを背負った。

 

「おねーちゃんに嘘ついちゃったけど……でもこれだけはやらないと!」

 

 あこの瞳が力強く輝き、進むべき方向をしっかりと見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 そこはキャッスルドランが眠るビル。

 

 その麓では、先に到着していた二人の少女がいた。

 

「友希那さん……」

 

「燐子……」

 

 互いを見つめ合い、何も言わず静かに佇む二人。

 

 かつては怒りや苛立ちを覚えていたはずの相手だったが、今となってはその感情はどこにも残っていなかった。

 

 二人の間には、ただ一つの、確かな覚悟の音楽が流れていた。

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