時は少し遡る。
学校からの帰り道、僕はブラッディ・ローズの音に導かれて人を襲うファンガイアの元へ駆けつけ、キバに変身して裁きを与えた。自律走行で僕の元まで駆け付けてくれたマシンキバーに乗っていつもの家に帰り、日課とするブラッディ・ローズを僕が斃したファンガイアへの手向けとして奏でた後に、戦いの汗を流すためにキバットと共に家の風呂に浸かっていた。
『ふ〜、嫌な汗も洗い流されるな〜麗牙」
「僕は風呂に入ると嫌なことも思い出しちゃうけどね」
この家の風呂は一般のそれに比べて一回りも二回りも広いらしく、今は乳白色に濁った湯に薔薇の花弁が散らされている。僕の好きな薔薇の香りに包まれて入浴していても、水の底のように静かで、だけど全ての音が響くこの空間では、その日の記憶がどうしても振り返されてしまう。
『じゃあそんな麗牙のために違う話題を用意しようじゃないか』
「違う話題?」
『おう……で、ぶっちゃけどっちなわけさ、リサと紗夜。好きなのは』
「は、はぁっ!?」
『オイいきなり立つな! 前見えてるぞ前!』
「あ、ごめん……」
予想だにしない話題に驚き、その場から立ち上がってしまう。キバットのありがたい注意で一先ず落ち着いて湯船に浸かり直すが、すぐにまた体温が上昇を始めてしまう。どっちが好きだなんて、そんな恋バナ今までしてきたことなんて一度もなかったから……。でもキバットも知っている通り、僕の答えは決まっている。
「ど、どっちって……キバットも知ってるでしょ。僕はリサさんのことが──」
『お前のそれは本当に恋なのか?』
「──え?」
だけどキバットの指摘で、僕は言葉を失ってしまう。本当に恋? どういうことなんだろう? 僕が何も話せないと感じたのか、キバットは会話を途切れさせないよう言葉を繋いでいく。
『恋っていうのはな、それはもう燃え上がるような想いだ。その人のためなら命をかけてもいいという気高い感情。一方で、誰にも譲りたくない、自分だけを見てほしいという醜く自己中心的な感情。その両方があって矛盾しない感情こそが恋だろう。お前、それあんのか? 二人のこと考えて、苦しいとか切ないとか思ったことあるか?』
「そ、それは……」
『今のお前から感じるのは、自分を受け入れてくれたことへの歓喜。それともっと仲良くなりたいって想いだけだ。どっちかというと親愛だな。俺に言わせりゃ、昔ならともかく今のお前の歳ではそんなの恋とは呼ばねぇ。それに麗牙、今リサに抱いてるのと同じような気持ちを紗夜にも抱いてるだろ』
「……」
キバットの言葉に僕は何も言い返せない。確かに僕はリサさんに対して好意を抱いている。でもそれは彼の言うような燃え上がるものではなく、朝の日差しのように僕の心を明るく照らすかのような穏やかなものだった。そして同じように僕を受け入れてくれた紗夜さんに対しても、そんな気持ちが芽生え始めていたのは事実だった。震える僕の肩を支えてくれた彼女のおかげで、悲しかっただけの僕の心に少しだけ温かな日が照らしていたから。そんな彼女たちのことを考えて、苦しさや切なさなんてものを感じたことはかけらもない。
そもそも僕が彼女たちに好意を抱いたのも、二人が僕を受け入れてくれたからで……。
『麗牙。お前、リサや紗夜のこと、昔のあの子の代わりにしようなんて思ってないよな?』
「そんなことない!」
『……そうか、悪かった。とりあえずは信じるぜ』
「いや、僕もごめん。怒鳴ったりして」
昔、僕を受け入れることが出来なかったあの少女。恐らく初恋だと思うけど、キバットに今の話をされた後だと自信が持てなくなってきそうだ。だけど、僕が二人をあの子の代わりにするなんて、そんなことあるはずがない。それじゃあまるで、僕の心を埋めるために二人を利用しようとしているみたいじゃないか……。あんなに優しい彼女たちを、自分のために利用するような真似はしたくなかったから……。
『まあ、お前ももう十七だし、そろそろ本物の燃えるような恋ってのに目覚めてもいいころだけどな』
「(逆説的に今は違うってことだよね……)」
恋愛と親愛の違い。健吾さんも次狼も、誰もそんなことは言ってくれなかったし、僕自身も経験がなさすぎて何が恋なのか判断が出来なくなっていた。キバットはこう見えて僕らの中で誰よりも博識だ。そんな彼が真剣に語ってくれた言葉だからこそ、僕はそれが真理だと重く受け止めることしか出来なかった。
『少なくとも、お前の父親はそうだったらしいぜ』
「父さんが?」
『まあ俺も父ちゃんから伝手で聞いた話だけどな、それはもう燃え上がるような恋だったそうだ。お前の母親と愛音の母親もな』
そういえば僕は父さんの恋の話はあまり聞いたことはない。僕にとっての父さんは、ファンガイアの先代のキングで、今のファンガイアの世の礎を築き上げた豪傑とも言える人だ。それだけではなく、人間界においては世界的ヴァイオリニストとしてその名が知れわたり、今でも僕の目標となっている人だ。何もかもが僕では到底及ばない凄い人で、だからこそ僕がこの世で一番憧れる存在としてあの人がいる。
しかし僕が知っているのはあくまで憧れとしての父さんだ。あの人の細かい人間事情については知らないし、聞かされたこともない。そんな父さんも恋をしたのだと……今の僕と違って燃え上がるような想いを抱いていたのだと知り、やはりまだまだ及ばないのだと、そんな気にさせられてしまう。
「僕、リサさんのこと好きだと思ってた……」
『いやいや、麗牙はリサのこと、間違いなく好きだと思うぜ?』
「え?」
キバットの言葉にまたも変な声が出てしまう。今さっき、僕の感情は恋ではないと言ってたはずでは?
『今はまだ育ててる途中なんだよ。恋の種が実るのをな』
「恋の種……」
『せっかく麗牙が好意を持ったんだ。ゆっくり焦らず、それを恋だと決めつける前に、リサや紗夜と関わっていけばいい。いつかきっと、自分でも驚くほど熱い想いってのに巡り会えるはずだからな』
「キバット……」
自分の抱いた感情にどう向き合うか、それをキバットは教えたかったのだとやっと分かった。正直なところ僕は年相応の恋愛感情なんて全く分からない。苦しくも切なくもない、ただ温かいだけの感情を恋だと言ってしまうくらいには。だからと言ってその気持ちを恋だと決めつけるのはまだ早すぎると、キバットに気付かされた。
「ありがとうキバット。僕もう少し二人と、自分の心とも向き合ってみるよ」
『おうおう、充分に向き合え。そして目一杯悩め。悩んでこその恋だ』
「大変そうだね、恋って」
少しだけ、胸に抱く重荷のようなものが取れた気がした。心のどこかで僕は答えを欲しがっていたのかもしれない。自分がしているのは恋なのか、と。キバットの言葉を信じるなら、今の僕の心に生まれたのはまだ未熟な恋の種……これから育っていく僕の大切な感情の第一歩である。それが分かった安心感が、僕の身体を包み込んでいた。
『さぁ〜てと、オレ様は先に出るとするか。お節介な世話係は引っ込んでろってなー』
「ううん、そんなことないよキバット。ありがとう。僕もそろそろ出ることにするよ」
身も心もスッキリしたところで僕らは風呂場を後にして脱衣所へと上がる。
後の展開については特に説明する必要もないだろう。シャツだけ無いことに気付いた僕は、上半身を曝け出したまま家の廊下に続く扉を開き、偶々この部屋に入ろうとしていてドアノブを掴んでいた友希那さんを僕の胸元に引き込んでしまった。彼女の悲鳴とともに突き飛ばされて、床に頭を打ち付けたところで僕の意識は暗闇に沈んでいくのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ぅ……あれ……?」
低く唸り声を立てて、麗牙は目を覚ました。アゲハや紅さんが言う彼のいつものベッドの上で、低い天井が彼の目覚めを出迎えていた。
「麗牙……」
「友希那さん……あっ」
ベッドのすぐ横で彼の容態をじっと見つめる私に気が付き、気を失う前の光景を思い出したのかはっとした表情を浮かべていた。
「あの、さっきはごめ──」
「ごめんなさいっ、いきなり突き飛ばしたりして……」
「──うん?」
紅さんの許可があるとは言え、彼に知らせずに家に上がり込み、家の中を散策して、見つけたと思えば風呂上がりの彼をこちらが勝手に叫んで突き飛ばして気絶させてしまった。誰がどう見ても悪いのは私の方だ。だから少なくとも彼に何か言われる前に謝罪しなければならなかった。
「麗牙、大丈夫なの? 体のどこか動かない部分とかはない? とりあえず病院にでも──」
それに彼は頭を打ったのだ。打ちどころによれば後遺症になりかねないし、もしそうなら病院にも連れていかなければならない。私のせいで彼の音楽人生に支障が出ると思うと恐ろしくて仕方なかった。リサを救い、私の心も動かしたあのヴァイオリンの音が消えると考えるだけで、それは大きな損失であるように感じていたから。
「大丈夫だから……っと、ほら立ち上がれるし指も動くしどこも問題ないから。だからそんな顔しないでって」
「──ほ、本当に大丈夫なのね?」
「はい。むしろぐっすり眠れましたよ」
そう言って彼は立ち上がり、軽く身体をほぐし始めた。寝起きとは思えないほどきびきび動く彼を見て、本当に大丈夫なのだと私はようやく胸を撫で下ろした。
「あれ? そう言えば友希那さん、どうして僕の家に?」
「それは……」
特に隠す理由もやましい理由もないので正直に全て話した。下校途中に麗牙の乗るバイクを見たことが発端でリサと紗夜が走り出し、私はそれを追いかけたこと。ヴァイオリンの音色に誘われてこの家に辿り着いたこと。紅さんとアゲハによって家に上げてもらったこと。そして、家の中で麗牙を探し始めて今に至るというところまで話した。
「友希那さん……ブラッディ・ローズの音、聞こえたんですか?」
私がヴァイオリンの音色に誘われた話をした時もだけど、私にその質問をした麗牙の表情は怖いくらいに真剣そのもので、私もその空気に飲まれて固く唾を飲み込んでしまう。
「え、ええ。リサと紗夜は聞こえなかったみたいだけど……」
「……」
私が答えると、彼は神妙な顔つきで思慮に耽り、自分の世界に入り込んでしまった。何かおかしなことがあっただろうかと彼に話しかけようとした時、現実に戻ってきた麗牙は私に訊ねてきた。
「友希那さん、前に恩を返すって言ってくれましたよね? 今、それを返すつもりで僕のお願いを聞いてもらってもいいですか?」
「ええ。私にできることなら」
そんな彼の提案には即答せざるを得なかった。リサを救ってもらった時の恩は片時も忘れたことはないし、その上今はその恩を仇で返してしまったばかりなのだ。だから私は、自分にできる範囲のことなら何でも聞くつもりでいた。しかし何を望まれるのだろうと、少しばかりの期待と心配が胸の中にあった。
お願いだから、私が幻滅するような望みだけは言わないで……そう祈りながら彼の言葉を待っていた。
「ありがとうございます。友希那さん、今週の合同ライブの後でもいいので、僕の曲作りを完成まで手伝ってもらえませんか?」
曲作り……? 私がTETRA-FANGの楽曲を? その言葉に少しだけ困惑する自分がいた。TETRA-FANGは結成してまだ浅いとはいえ、既に人気は高く、次々と新曲も生み出していっている。そこに行き当たりは全く感じられず、他者の手をわざわざ必要とするような状況には見えなかった。そんなTETRA-FANGのリーダーの麗牙が私にそれを求める理由についてさっぱり見当がつかない。
「私が麗牙たちの曲を?」
「いや、正確には父さんの曲です」
「っ、あの時の……」
麗牙が私に求めたのはTETRA-FANGの楽曲のことではなく、彼の父が残した曲の作成であった。あの曲のことは今でも強く記憶に残っている。あの日、リサの部屋で彼が弾き奏でてくれた奇跡のメロディーとも言える一曲。完全ではなかったけれど、それは間違いなく誰しもの心に響く希望の光のように感じられた。
彼の妹が以前にも言っていたが、それは彼らの父親が生前作りかけて、その完成を前にして当人は天に還ってしまった。その跡を継いで麗牙はその曲を完成させようとしている。
「でも、どうして私に?」
赤の他人であるはずの私にそんな大事なものを手伝わせる理由が分からない。それなら自分たち兄妹で仕上げればいい話なのに……。
「僕もよく分かりません」
「え?」
「ごめんなさい、僕の勘でしかありません。でも感じるんです。友希那さんとだったらいける気がするって。あの時のように、父さんからの生命の輪が繋がるって」
真っ直ぐとぶれない視線を私の眼に向ける麗牙。その眼には一点の曇りもなく、彼の纏う雰囲気も真剣そのものだった。彼が伊達や酔狂で言っているだけの言葉でないことは嫌でも分かった。そんな彼だからこそ、私も乗ってみようと思えた。父の曲を完成させようとする彼の必死な気持ちは、私も痛いほどよく分かっていたから。
「分かったわ。その代わり、Roseliaの活動に支障が出ない程度にしか出来ないわよ?」
「構いません! ありがとうございます友希那さん!」
「っ、そんなに喜ばなくても……」
私が承諾の意思を出すと、麗牙は私の手を両手で握りしめるまで感極まっていた。あまりに純粋に喜ぶ姿が眩しくて、恥ずかしげに少しだけ目を逸らしてしまう。
「あ……そういえば、他のみんなはどうしたんですか?」
「もう日も暮れるからって、ほんの二十分ほど前に帰ったところよ。リサたちはどの道を通ってきたか覚えていないから、アゲハたちが送っていくって」
「日も暮れるって、僕そんなに寝ちゃってました?」
「ええ、二時間ぐっすりと」
ようやく私以外の人の姿が見えないことを疑問に思った麗牙は、自分がどれだけ気を失っていたのかを知った。それもこれも自分の所為なわけだから、私は彼に何も言えないのだけれど。
「疲れが溜まってたのかなぁ……あれ? どうして友希那さんは一緒に行かなかったんですか? 僕が起きるまでずっとここに?」
「それは……あなたがこうなったのも私の責任だし……」
さっきの失態を思い出して顔が熱くなり、また彼から目を背けてしまう。帰ろうとする彼女たちの誘いを蹴ってまで自分からここに残ったのも、麗牙が心配で目を覚ますまで側にいて、謝りたかったからだ。しかし彼が無事目を覚まして謝罪も出来た以上、私がここにいる必要はない。
「だけど、そろそろ私も失礼するわ。麗牙、今日は本当にごめんなさい」
「いやいや待ってくださいって。もう外も大分暗いじゃないですか。送っていきますよ」
「え?」
私が次の言葉を話す間も無く麗牙は椅子に立てかけた鞄から、免許証が入っているであろう財布を取り出しズボンのポケットに突っ込む。同じように鞄を持って立ち上がったまま固まっている私なんてまるで見えていないようだ。
「ここら辺、結構入り組んでるんです。迷いやすいですし、それにバイクに乗っていけば友希那さんの家なら十分もかかりませんよ」
「何もそこまでしてくれなくても」
「夜に女の子一人なんて危ないから。友希那さんも襲われないとは限りませんし」
そう言われては、と口を噤む。暗い夜道を一人歩いていたリサに起こった出来事を思い出して、私は彼の提案を断る反論が出せなかった。観念して私は麗牙の後に続いて紅邸から闇に沈んだ空の下へと出て行く。そして先ほども見た真っ赤で巨大なバイクへと近づいていった。やっぱりこれに乗るのね……。
「友希那さん、先に鞄を」
ここまできてやっぱり止めますとは言えず、麗牙に自分の鞄を託した。バイクの収納スペースに私の学生鞄を格納した麗牙は、どこから取り出したのかヘルメットを被って紅色に染まるバイクへと跨った。
「……っし。じゃあ友希那さん、後ろにどうぞ」
「えっ……え、ええ」
バイクに跨ってキーを回し、軽くグリップを握って唸るようなエンジンの音を確認した麗牙は、相変わらずの人畜無害そうな笑顔で私を後部へ座るように誘う。今までバイクに乗ったことなんてなく、ましてや二人乗りなんてそんな経験あるはずがない。私はその初めての体験に恐れと、しかし小さな楽しみも抱いていた。何事も未知との遭遇には楽しみが付きものだからだ。
「し、失礼、するわ……」
そしてゆっくりと、恐る恐る脚を上げて、彼の後ろに寄り添うようにサドルに跨った。クルーザーバイクの構造上、彼はサドルに深く座り込む形になっている。そのため私が後ろに座ると窮屈になるものかと思われたが、意外にもしっかりと座れ、機体が優しく自分の身体を包み込むような感覚がしていた。柔らかで温かく、まるでこのバイク自身が生きているような気さえしていた。
「はい、ヘルメット」
「……どこから出したのはこの際聞かないでおくわ」
「助かります」
渡されたヘルメットを特に説明も要らずに難なく装着したところで、彼から更なる要求がもたらされる。
「僕のベルトの部分をしっかり掴んでてください。曲がる時も僕に合わせて同じように身体を傾けてください」
「ええ……」
「ははっ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですから」
先の要求なら飲めるが後者は無理だ。麗牙には悪いが、異性の背中に密着したこの状態で緊張するなという方が無理な話だ。彼の背にこうして胸を預けていると、先ほどの半裸の状態の麗牙に突っ込んだ事を思い出して顔が熱くなる。ヘルメットのおかげで真っ赤になった自分の顔が見られないのは不幸中の幸いというものだろうか。
そんな気持ちを振り切るように、私は麗牙の言葉通りに彼のベルトに手を回してしっかりと握りしめる。言外に心の準備は出来たと告げたつもりだが、どうやら彼にも通じたようだ。
「よし。じゃ、行きますっ」
「きゃっ?」
そして麗牙が握ったハンドルを回し、大きな嗎を立てて私と彼を乗せた紅い馬は走り出した。突然の振動に驚き、怖くなって背中や頭を彼の背中に更に押し付けるように密着させてしまう。門から出てしばらくは狭い道をゆっくり走っていたが、それでも振り落とされるのではという恐れが付き纏っていたからだ。
しかしやがて広い道へと出て、それに伴い麗牙がバイクの走らせる速度を上げた時だった。
「っ(気持ちいい……)」
彼の背中から伝わる体温と、身体に当たる涼しい夜風が混ざり合う。先までの恐怖が嘘のように発散し、風と一つになるような心地良さに私は感動していた。
「っ(逆らってはいけなかったわね)」
左に曲がるバイクと傾く彼の身体に合わせて、私は先ほどの彼の要求──というより忠告を思い出し、麗牙と同じ向きに身体を傾ける。転ばないかという僅かな緊張と、彼とシンクロしているために感じる一体感に、ほんの少しだけ気持ちが高揚するようだった。
「(ああ、忘れてた……あの猫耳のこと聞くんだったわ)」
麗牙に掴まりながらだがバイクの乗り心地に慣れたことで、高揚感は消えないが少し冷静になり、私は彼に聞きたかった質問を思い出した。彼と鉢合わせてしまう前に目にしたあの金色の猫耳。恐らく脱衣所まで彼と話をしていたソレは、つまるところ麗牙の知るものであるということだ。あんな見たことも聞いたこともない異常な生物(?)なんて中々忘れることは出来ないだろう。世の中には実に不思議なことが多い。そして不思議なのは、目の前の彼もそうだった。
「(麗牙……あなたは一体何者なの?)」
初めて見た時から只者ではないとは感じていた。しかし実際にそのライブを目の当たりにし、彼のヴァイオリンの音を感じ、その予感は間違いではなかったと確信した。彼の音楽は人を魅了する。彼の人柄に誰もが惹かれていく。果てには彼の奏でる音色だけで、壊れかけたリサの心まで救ってしまった。彼の動作の一つ一つがまるで世界を変えてしまうような、今はそんな予感すらしていた。
「(あなたのこと、もっと知りたい……)」
常人では到底辿り着けない境地に、あくまで自然体でそこにいる麗牙。私はそんな彼を羨ましく感じ、同時にその根底にあるものを知りたいと思っていた。きっと彼には何か大きな秘密がある。TETRA-FANGのボーカルであり、天才ヴァイオリニストでもある麗牙だが、私はそれ以上の何かを感じずにはいられなかった。
夜風に吹かれ、身体全体で彼の体温を感じながら、胸中では彼の秘密を知りたい思いに満たされていた時だった。
♬〜♬〜♬〜
「なっ!?(何この嫌な音……っ)」
私の耳に引き裂くようなヴァイオリンの音が聞こえてきた。幻聴だと思いたかったが、ここまで唐突に、しかもハッキリとしたあの音が幻聴だとは思いなかった。何故なら警報のように喧しく恐怖を煽るその音色は、あのブラッディ・ローズのものだと……理由は分からないが確信してしまったから。あの美しい音を奏でる名器から何故こんな恐ろしい音が生まれるのか。何故バイクに乗っている私の耳にまで響き渡るのか。そんな混乱の中、麗牙は急にバイクを止まらせた。
「ごめんなさい、友希那さん。ここからは一人で……ってどうしました?」
「麗牙……嫌な音がするの……怖い、叫びのような、ヴァイオリンの嫌な音が……」
「っ……ブラッディ・ローズの……」
いつまで経っても消えないヴァイオリンの嘆きが気持ち悪くなり、私はヘルメット越しに頭を麗牙の背中に擦りつけていた。この状態のまま一人にされては精神がおかしくなりそうで、麗牙に離れてほしくなく私は彼の服を強く握りしめていた。
「……分かりました。友希那さん、少し寄り道するけど飛ばすのでしっかり掴まっててください。落ちないように腰に腕を回してもいいですから」
「ええ……」
彼がどこに寄ろうが知ったことではないが、この悩ましい音から解放されるのならなんだってよかった。私は先ほどとは違って麗牙の身体に大きく腕を回して身体を固定させ、それを感じたと同時に麗牙はバイクを発進させた。
今までのドライブが嘘のような、音になったかのように全てを置き去りにする速さで、紅いバイクは夜の街を爆走し始めた。
一方その頃、リサたちは……?
次回、「第20話 愛の証:Half-Blood Princess」