自分が人間でないと青年が知ったのはほんの三ヶ月前のことであった。親は既に他界しており、彼自身に特に夢や目標は無かったが、バイトをしながら定時制の高校に通い、友人たちと馬鹿をやるだけの日々をそれなりに楽しく過ごしていた。
しかしある日、青年は自分の中に眠る異形の血に気付くことになる。バイトが終わり、学校へ行く準備を整えようと家に走っていた彼は、偶然にも他校の不良グループに襲われていた友人を目撃してしまう。青年は生まれてこの方喧嘩などしたことはない。しかし傷付けられている友人を目撃したまま見て見ぬ振りをすることが出来ず、咄嗟に彼を救うために駆け出していたのだ。そしてその身体を敵意を向ける相手に晒した瞬間、本来有している彼の闘争本能が目覚めてしまったのだ。顔を埋め尽くすステンドグラスのような模様と共に、彼の身体は世にも恐ろしい怪物の姿に変化した。
その後の展開は呆気ないものだった。異形の姿に恐れおののき、悲鳴と共に殴りかかってくる不良たちを戸惑いながらも彼は軽く腕を払い、それだけで不良たち全てを吹き飛ばして壁に叩きつけていた。ものの十秒足らずで不良グループを全員のしてしまった青年だったが、その光景に恐怖したのは不良たちだけではなかった。
『ヒイッ! ば、化け物ぉぉー!』
彼が守ろうとした背後の友人さえ、彼のことを恐怖の眼で見つめ、そして「化け物」と叫んで逃げ出してしまった。青年はそれを追おうとして走り出した途端、凄まじい風と光が自分を包む感覚がしていた。あまりにも速い脚であったために、彼は全てを置き去りにする光景に慣れていなかったのだ。ほんの少し走ったつもりだった彼は逃げ出す友人をあっさり追い抜いてしまい、慌てて立ち止まる。異形が振り返ると、その友人は怯えのあまり蹲り、あまつさえ自分の財布を出して命乞いまで始めていたのだ。
『お、お金なら上げますっ! だ、だから命だけは!』
そんな友人の姿を目の当たりにして、異形──シープは目の前の色彩が全て消えていくかのような感覚に襲われる。つい昨日まで自分たちは友人だったはずだ。なのに何だこれは? 自分は人間じゃないのか? 皆に怖がられる怪物なのか? 色々と頭の中で疑問が浮かんで彼の脳内を圧迫し始めるが、そんな疑問の中でも一つだけ確かだと言えることがあった。
──もう、この町にはいられない。
その日を境に彼は生まれ育った町を飛び出した。口座から今までバイトで貯めた全ての金を引き出し、家から必要最低限の日用品を持ち出して、彼は旅立った。親が遺した財産に手を出さなかったのは彼なりの良心であったが、旅の中で彼は何度も死んだ両親に恨み辛みのこもった言葉を投げかけていた。二人とも怪物だったのか? 何故僕に全てを話してくれなかったのか? 僕はこれからどうやって生きていけばいいのか? 天に向かって嘆くもそれに答えてくれる人はいない。シープは当てもなく、ただ風に流されるままに日本中を旅するのであった。
──僕は、何のために生きてるのかな……。
旅を始めて二ヶ月経ち、しかし未だシープの心が晴れることはない。彼の心は未だに物音立てぬ無音であり、眼に映る景色も無色のままであった。憧れだった都会に行っても、景勝地と呼ばれる名所に行っても彼の心に変化をもたらすものはなく、いつも決まって思い出すのはあの日の友人の恐怖の顔だった。そしてその度に思ってしまうのだ、自分は生きていていいのか。こんなにも何もない世界に生きていて意味はあるのか。このまま消えてしまった方が、誰かにとっても自分にとってもありがたいんじゃないのか、と。
怪物としての能力に目覚めた彼は、生きるためにその力を駆使して盗みも行なっていた。元々文字通り目にも止まらぬ速さで動き回る彼を見ることなど人間に出来るはずもなく、店側が盗まれたと気付くには大分後のことになるのだが、シープはそんな行為を繰り返す自分にも嫌気がさしていた。
──もう、充分我慢したよね……。
放浪の旅の中で精神が疲れきり、元々ほとんど無かったような生きる希望も完全に失われようとしていた。
そんなある日のことだった。
ふらふらと電気街を歩く彼の耳に、突然跳ねるような音──いや、声が聞こえてきた。
それは店頭に並べられたテレビに映った一人の少女の声であった。
『なんて……綺麗な……』
短いニュースの中で紹介されて、そのインタビューに答える快活で不思議な雰囲気を放つ少女の映像が流れていた。薄い液晶の中で、しかしそれすら超えてキラキラと輝きを放つ彼女の姿を見た瞬間、彼の心臓は今までにないほど激しく飛び上がり、息が詰まりそうになっていた。奇跡かと思うほど整った顔に、太陽の如く輝かんばかりの笑顔、人生の全てを心の底から楽しんでると思わせるハツラツとした元気さに、彼は一瞬で惹かれてしまっていたのだ。
ほんの僅かな時間のニュースであったが、彼にはその時間がとても長く感じていた。今でもあの瞬間は忘れることはないのだろう。自分のモノクロの世界の中に突如として光を放ち、色彩を取り戻してくれたあのギタリストの少女を初めて知った時のことを。今までどんなドラマや映画を見てもこれだと思える女性はいなかったが、この時初めて彼は一人の女性に魅力を感じていた。それは、初恋と呼ぶには充分すぎるほど熱い想いであった。
それからの行動は早かった。生きる気力を取り戻したシープは早速彼女のことを調べようとした。ニュースで知った氷川日菜という名と彼女の所属するPastel*Palettesというバンド名の他で、事務所が公開する日菜のプロフィール、彼女たちの活動拠点を知り、Pastel*Palettesのライブが行われるCiRCLEへと辿り着いたのである。
会場入りした彼は他のバンドなど目もくれず、ただPastel*Palettesを、いや日菜の出番を待ち続けていた。そしてその出番が訪れ、その姿を直接目の当たりにしたシープは感動で涙を流していた。自分の心に光を照らし出してくれた人は実在したのだと、あの天使のような子が目の前にいるのだと、その奇跡を噛み締めていた。その上ライブの最中、偶然にも日菜が彼のいる方へ向けてウインクしたのを見て、シープは狂喜乱舞していた。無論、観客全員が盛り上がっているライブ会場ではそこまで目立つ挙動ではなかったが、シープ自身は世界に自分と彼女しかいない感覚であった。自分は今、恋をしている。それを強く自覚出来るほどまで彼の感情は昂ぶっていたのだ。
しかし彼の行き過ぎた想いはその行動をどんどんエスカレートさせていく。ファンレターなどでは飽き足らず、ライブや打ち上げの終わった日菜の後をつけて彼女の家を特定し、彼女の買い物の内容も記録するなど、氷川日菜という人間の行動を全て自分の手帳に記録するまでに至っていた。もちろんそんな彼の行動を見た者も知る者もいない。キバすら苦戦するシープの俊足を持ってすれば、誰にも気付かれることなく全てをこなす事など朝飯前であった。
しかしそれでも日菜のバイト先に顔を出したり、直接顔を合わせることには抵抗があった。初恋を前にして彼は小心者であり、どうしても日菜の前に姿を出すことが出来なかったのだ。
それがどうして昨晩、彼女の前に現れたのか。それは、旅を始めてようやく逢えた同類の後押しがあったからである。
日菜のストーカーを始めて数日後、彼は一人の強面の男性に声をかけられた。偶然見かけたシープの様子が普通じゃなかった、と語る男はシープ同様、怪物だった。その身体にステンドグラス調の模様を浮かべて紹介する男を前に、シープはまた一つ感動を覚えていた。自分だけではなかった、他にも仲間がいたのだと、彼はようやく出逢えた怪物仲間に感激したのだ。そして男は悩むシープの相談を快く受けてくれた。同族の吉見だ、遠慮するな、と逞しい言葉であった。
初めての仲間、そして自分を助けてくれた男にシープはすぐに懐いていた。彼の元でシープは自分がファンガイアという種族であること、長寿であること、そして人間よりも圧倒的に強い存在であることを知らされる。
『お前は強い。だから自信を持て。お前がその気になりゃどんな女もお前のものだ』
ある日、日菜の件について男からそんな励ましの言葉を受け取ったシープは、その発言をそのまま鵜呑みにしてしまった。兄貴分のように慕う存在からの言葉に、ある意味で純粋過ぎた青年はその男の発言の意図を汲み取る前に、昂り過ぎた感情を抑制出来ずについに行動を起こしてしまった。
『日菜ちゃん……ですよね?』
そして昨晩、彼は日菜の前に姿を現した。
しかし日菜の側にいた千聖の悲鳴に驚いて逃げ出してしまうあたり、彼の女性に対する気の小ささがよく分かってしまうのだが……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「本当にごめんなさい!」
机にドンと音を立てて頭を打ち付け、青年──
「はぁ……こう言ってますけど、紗夜さんはどう思います?」
「人間でしたら即警察に突き出してます」
「ですよね……」
誰にも気付かれることなく行動していたためか、ストーキング期間の割には日菜さんを始めとした誰も怖がらせていないのがせめてもの救いか。日菜さんを除けば現状精神的な被害者としては、昨日出くわして怖い思いをさせた千聖さんだけとなる。だからと言って彼のストーカーの罪が消えるわけではないが。
「僕……本当にただ会ってお礼が言いたかっただけなのに……でも実際会ってみると、やっぱり日菜ちゃんが可愛くて、それで自分を抑えられなくなっちゃって……」
「紅さん、この人即刻どこかに閉じ込めてもらえませんか?」
「俺も賛成」
「二人とも落ち着いて。ね?」
紗夜さんは大事な妹がストーカーに遭ったということでかなりお冠のようだ。次狼に関しては面倒そうだからとりあえずそうしておけ、みたいな感覚なんだろうけど。とりあえず僕にはどうしても彼に確認したいことがあるため、有罪判決はもう少し待ってほしいところだ。
「童室さん、貴方は本当に日菜さんのことが好きなんですか?」
「ハッ、自分の元に好みの人形を置いておきたいってところだろ」
「そんなことありません! 僕は本気です! 真面目にっ! 日菜ちゃんのことが本当に好きなんですっ!!」
次狼の心無い言葉に反応して彼は顔を上げ、勢いよく椅子から立ち上がって叫んだ。その目には一点の曇りもなく、清々しいまでに純粋な叫びだと僕には感じられた。何より、彼の心から流れてくる透き通るような音楽が、その言葉が嘘ではないと証明しているようであった。
「そこまで好きなら、どうしてストーカーなんて真似を。日菜さんが怖がるかもしれないって思わなかったんですか?」
「それは……その……僕、こんな気持ちになるの初めてで、だからずっと話しかけたくて……でも相手は芸能人だし、いきなり飛び出して話しかける勇気なんて出せなくて、どうしていいか自分でも分からなくて……だから、好きな彼女の後を追うくらいしか……」
「そんな気持ちが溜まりに溜まった結果が昨日のアレというわけか」
「本当に……なんてお詫びを申し上げたらいいか……」
悲しそうな音楽を奏でる彼の心にも耳を傾けて、僕は紗夜さんと次狼を一瞥する。二人も僕の視線と気持ちに気付いたのか、次狼は軽く瞳を閉じ、紗夜さんは眉を潜めながら溜息をついて頷いてくれた。
「分かりました。じゃあ本人に直接謝りましょう」
「はぇっ!? 直接って、日菜ちゃんに!?」
「あと千聖さんにもね。それ以外に誰がいるんですか」
僕が童室さんに最後のチャンスとしてもう一度日菜さんに会うことを言い渡した時、彼は突然顔を赤らめて椅子から飛び跳ねた。手足をじたばたと振り回して駄々っ子のように慌てふためく様は、本当に高校生かと思うほど幼く見えた。
「い、いやいやいや! 無理だって! 僕もう日菜ちゃんの前に顔を出す勇気なんて無いから!」
「これが最後のチャンスでも、ですか?」
「もう無理だって! だって、向こうだって僕のことなんかもう見たくないかもしれないし、もし日菜ちゃんに拒絶されたら僕……もう本当に生きていけない……」
「……あなたはそれでいいんですか?」
「え?」
無理だ無理だといじける童室さんに、紗夜さんが静かに問いかけた。
「日菜のことが本気で好きなのなら、逃げないでください。例えあなたがファンガイアだとしても、人間の日菜を好きだという気持ちに目覚めたのは真実なのでしょう?」
「は、はい……」
「でしたら、その気持ちに嘘をつかず、日菜に真剣に向き合ってください。あなただって好きになった人とこれっきりだなんて認めたくないでしょう? 大丈夫です。日菜は……私の妹は、相手の真剣な言葉から逃げるような子じゃありませんから」
「紗夜さん……」
本当は妹のストーカーに手を差し伸べるのも嫌だったはずなのに、紗夜さんは真剣に日菜さんに恋する童室さんを見捨てられなかった。それが何だか嬉しくて、つい笑顔を浮かべてしまう。僕のニヤついた顔に気付いた紗夜さんはふいと首を振って僕から顔を背けてしまうけど、耳まで真っ赤になっているのは言わないでおこう。
「でも、一人だとやっぱりまた何か起きるかもって」
「大丈夫ですよ。僕たちも同席しますから」
「次何かあったら、その時は本当に覚悟してくださいね」
「わ、分かりました……頑張ります」
というわけで事情聴取及び今後の対策会議は終わった。紗夜さんはすぐ日菜さんたちに連絡を取り、細かい事情は掻い摘んで説明、何とか明日に会う約束を取り付けることができた。
童室さんは、今日はこの建物──『素晴らしき青空の会』の所有する施設の一室へと泊まることになった。
待機させてた日菜さんたちはカフェ・マル・ダムールを後にし、紗夜さんもRoseliaの練習に赴き、僕と次狼も仕事のためにキャッスルドランへ歩き出し、今日は解散となった。
明日の童室さんの件、穏便に収まってくれたらいいのだけど……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「オイ。起きてんのか? オイっ」
闇が深まり、人々の多くが寝静まり返った頃、童室の枕元で大きな人影が話しかけていた。翌日に備えてしっかり睡眠を取ろうとしていた童室も、聞き覚えのあるその声に夢から目覚めてしまう。
「ア、アニキ!?」
男は童室が初めて出会ったファンガイアであり、今では自分が最も慕う兄貴分のような存在である。昼間の取り調べの中でも彼はアニキに迷惑をかけられない、と麗牙たちにもその存在については深く語ることはなかった。その人が今目の前にいることに、童室は驚いて完全に覚醒していた。
「全く、気が付けばこれだ。まあいい、さっさと逃げるぞ」
「え? 逃げるって何で?」
「あ? お前ここが何か知らねぇのか? ほんっとガキだなぁ」
童室は大きく困惑していた。久しぶりにまともな食事と寝床を与えられ、心穏やかになっていたところだっただけに、逃げると言い出した男の言葉が理解できなかったのだ。
「ここはな、『素晴らしき青空の会』つってなぁ、人間が俺たちファンガイアを殺すために作られた恐ろしい組織なんだよ」
「は? なんだよそれ……有りえねぇよ、だってみんな僕に優しくして──」
「ストーカーなんかやったお前をか? そりゃあお前、いくらなんでも夢見すぎだって。今は甘い言葉で油断させてるだけ。お前は、他のファンガイアを誘き寄せるための餌にされたんだよ」
そういう男の言葉に童室の心には迷いが生じていた。確かに日菜をストーキングして迷惑をかけたというのに、皆彼を執拗に責めることなく、一日だけとはいえ衣食住を与えている。確かにこれはあまりにも出来すぎた話ではないのかと、童室の中で男の言葉の信憑性がどんどんと高くなっていく。しかし、自分のために日菜に謝る機会を作ると言ってくれた人たちを、彼は信じていたかった。
「う、嘘だ……あの人たちはそんなこと……」
「そういやお前、ファンガイアの姿見せたのに呆気なく捕まったそうだな。どういう奴だった?」
「え……さ、最初はよく覚えてないけど、姿が変わったと思えばそこから青くなって剣も持ってて……」
「青色に変わって、剣……『イクサ』だな」
「イクサ……?」
「青空の会がファンガイアを殺すために作った迎撃システムってやつだ。いや、お前よく生きてたと思うぜ?」
童室は昼間の戦闘を振り返っていた。今まで誰にも見えたことのない俊足を、あの青い鎧は捉えていた。そして逃げられると思った次の瞬間には捕らえられていて、本当に殺されるかもしれないと思った。自分みたいなファンガイアと戦える人間なんておかしい、有り得ない。ならば、それは目の前の男の言う通りイクサ……自分たちファンガイアを殺すための戦士なのだと思うと、自然と納得がいってしまった。
「で、でも今逃げたら、僕は日菜ちゃんには……」
「ばっかだなぁ! 人間なんかの約束信じんのかぁ? お前、自分が人間に向けられた感情忘れてんじゃねぇよな?」
「そ、そんなことないです」
「それにだ、その日菜って女。もしかすると既にソイツの女なんじゃないか?」
「え?」
「鈍いなぁ穣ちゃんはよぉ。そもそもなんでお前捕まったんだよ? 最初から女にソイツが付いていたからだろ? つまりはアレだよっ、お前最初から嵌められてたんだよ!」
「っ……」
男の言葉で童室の足元が揺らぐ。足元だけでなく、景色も、音も、感じるもの全てが揺らいでいた。彼はいつだって正しい。自分の知らないことを何でも教えてくれる。今までもそう信じてきた童室が、その言葉に逆らえるはずがなかった。
そう、自分は最初から袋の鼠だったのだ。憧れの彼女に近づけるという甘い蜜に誘われて、無様にも捕まってしまった哀れな鼠。童室は今までの出来事と、自身が信用する目の前の男の言葉とを掛け合わせ、その結論に至ってしまった。
「ぅぅ……」
頭を抱え、枕に顔を埋めて唸る童室。
そんな彼に、男は最後に優しく呟いた。
「だからよ、今がチャンスなんだよ……」
「チャンス?」
「ああ。お前を邪魔した男から、女を奪い返すためのなぁ……」
そう告げられた童室の瞳からは、揺れが消えていた。
そして……。
「日菜っ! 今の音は──日菜……? 日菜っ!? 日菜ぁっ!!」
割られた窓ガラスの破片が散らばる部屋から、そこにいるはずの一人の少女の姿が消えていた。
攫われた日菜。童室を誑かす男の本性とは……。