ぐしゃりと草と土を重く踏みしめながら、麗牙は夜空の星の光を受けて輝く異形へと近づいていく。一見静かに見える彼の動きであったが、その眼の奥には誰が見ても分かるほどに焔が揺れていた。自分が尊いと感じるものを穢されて生まれた、静かな怒りの焔が。
「て、テメェ何者──」
「貴方ですね。青空の会の施設に忍び込んで職員二人を殺し、童室さんを連れ出したのは」
「──ヒッ!?」
麗牙の鋭い眼光がポーラベアーを射抜く。視線だけで殺しかねないほどの強烈な殺気と、圧倒的な強者の風格を受けてポーラベアーの身体は思わず震えていた。何故自分がこんな若造に恐怖しなければならないのかとポーラベアーは自分に言い聞かせようとするが、目の前の存在から発せられる強大な“何か”を感じ取ったが故に声を上げることは叶わなくなっていた。
「童室さんに日菜さんを誘拐させたのも、日菜さんの命を奪おうとしたのも、童室さんを傷付けたのも、全部貴方なんですね」
「……ぁ……(なんだコイツ……なんで俺はこんなにビビってんだよ!)」
青空の会の監視カメラの映像から、麗牙は目の前の異形が童室を唆していたことは分かっていた。その言葉に乗って、童室が日菜を誘拐したことも。それ以上のことはどの記録にも残っておらず、ハッキリした真相は分からなかった。
しかし麗牙には全て感じていたのだ。日菜を助けるべく夜の世界を走る中で耳に響いてきたブラッディローズの音色を。それは間違いなく必死に日菜の命を守ろうとする童室の魂の叫びであった。それだけで麗牙が理解するには十分であった。今も日菜の前で力なく倒れている童室が、最後の最後まで日菜を守り抜いたことを。そして目の前のファンガイアが、自分が美しいと感じたものを壊そうとする存在であることを。
「だからもう、弁明も命乞いも無用です」
「な、に……?」
彼の心の中の怒りに反比例するように、重く冷たい言葉が闇夜に木霊する。
初めて聞く麗牙の恐ろしく、そして悲しい声色に、彼について駆けつけてきた紗夜は短く息を飲んでいた。
そして麗牙が手の甲に紋章を浮かび上がらせてポーラベアーに向けた瞬間、異形は恐怖の悲鳴を上げて腰を抜かすことになった。
「ヒッ!? ハッ、ヒャアアッ!?」
永く生きた時間の中で、その紋章の意味を知らないポーラベアーではなかった。
それは絶対強者の証。
闇の祝福の中で継承された、唯一無二の存在を示す刻印。
全てのファンガイアを統べる、一族の頂点──キング。
そして、キングによる絶対不可侵の宣告がその口から告げられた。
「王の判決を言い渡す……『死』だ」
左手を翻し、掌にも刻まれた刻印を示し、麗牙は冷たくポーラベアーに告げた。
「ァ……アアァァッ!? キ、キキキ、キングゥゥッ!?」
ポーラベアーは情けなく声の裏返った悲鳴を上げ、地に尻を付けたまま争うように両足をじたばたと動かして後退を図る。無様に狼狽えるポーラベアーの様子を、紗夜は、そして薄らと意識の残っている童室には不可解に見えたことであろう。しかし殆どのファンガイアにとって、ポーラベアーの怯えた反応は当然と言う他ないのだ。ファンガイアにとってキングの言葉は絶対の掟。そのキングによって死刑宣告を受けた者の結末に例外はない。一族の中で最強と称される存在であるキング直々に狙われた者は、確実に死を迎えるのである。そう、今のポーラベアーは正に、自分の生の終わりが確定したのと同義であった。
「う、ウソだ……な、なんで……ッ(アイツが言ってた邪魔者って、イクサじゃなくてキバ……キングのことだったのかよ!?)」
今更気付いても手遅れだとは感じても、ポーラベアーは童室を恨まずにはいられなかった。あまりにも世間を知らなさすぎた純情な彼の言葉に結果的に騙される形になってしまい、叫びたい思いであった。無論、童室にはポーラベアーを嵌めるつもりなど毛頭なかったのだが、彼の無垢な知識が結果としてポーラベアーを陥れる罠となっていたのだ。
「……」
「嫌だ……嫌だ! 俺は……俺はまだ生きるんだ……俺はァァアアア!!」
ゆっくりと迫りくるキングの恐怖に耐え切れず、ポーラベアーは自身を奮い立たせて力の限りを尽くし、地を蹴って彼の前から逃げ出した。彼は自分より弱い者にはどこまでも高圧的だが、自分より強い者には決して挑もうとはしない臆病な性分でもあった。故に彼は今までも危険な匂いには決して近寄ることはなかった。それが彼が生き抜くために見つけた方法であったからだ。しかし今日、彼は童室の無垢な罠によって最悪の相手と相見えることになってしまったのだ。キングという最悪の敵を前に予知することすら叶わず、死を宣告されるこの瞬間まで街に残っていたことを彼は後悔していた。今戦えば間違いなく殺される。それを確信したポーラベアーは、恐怖の対象である麗牙を見ることなく必死に駆け出していた。
「キバット」
しかし麗牙は決して罪人を逃がすことはない。キングの言葉は絶対。それに抗うことは、誰にも出来ないのだから。静かにキバットを呼んだ麗牙は、彼に刻印の浮かんだ自分の左手を差し出して噛みつかせた。
『お〜怖い怖い。じゃ、キバっていくぜ! ガブッ!』
「変身」
麗牙が最後の言葉を告げた瞬間、彼の身体は変身し、全身を紅に染めた戦士──キバが降臨した。キバは逃げていくポーラベアーを睨みつつ、落ち着いた動作でベルトの左側のホルダーからエメラルド色の笛を取り出し、キバットに吹かせた。
『バッシャーマグナム!』
キバットが吹かせた笛──バッシャーフエッスルの音色に、キャッスルドランの城内の一部屋で暇を持て余してボードゲームに勤しんでいた少年が反応した。昨晩に紗夜が城内で出会った、ラモンと呼ばれるセーラー服を身に纏った少年であった。
「あ、呼ばれた」
ラモンは笛の音に応じると、その身を変化させた。
全身をエメラルドグリーンに染めた異形の身体。
全身を鱗や鰭に覆われたその姿は正に半魚人。
各地で半魚人伝説として、日本では河童伝説として、古くから世界中でその姿を確認された種族。
それこそ地球上に存在する十三魔族が一つ、マーマン族であった。
ラモン……否、その姿を本来のマーマン族のものに変えた彼の真の名は、バッシャー。
ガルルと同じく、キングを守護する者として彼に仕える一人である。
「ふふんっ」
やがてバッシャーの身体は眩い光に包まれ、手に収まるほどの小さな彫像へと姿を変えていた。
光に導かれて翠玉色の彫像はキャッスルドランから射出され、即座にキバの元へと舞い降りた。
キバがバッシャーの彫像を右手で掴んだ瞬間、彫像は翠玉の銃となり、キバの身体に変化が訪れた。バッシャーが姿を変えた銃──
「あれは……」
紗夜は初めて見る翠玉のキバの姿に息を飲む。
この姿こそバッシャーの力をその身に宿した、キバの
全ての感覚を研ぎ澄ませし、僅かな先の未来すら聞き取る翠玉の射手である。
『バッシャーバイト!』
姿を変えたキバは即座にバッシャーマグナムの撃鉄部に位置する鰭をキバットに噛ませた。噛み付いたキバットの牙から魔皇力──アクティブフォースが注入され、銃身全体に流れ込む。
直後、夜の森に風が吹きすさび、赤い霧が辺りを包み込んだ。
「っ、これって……」
キバの脚に埋め込まれた魔皇石が光り輝いた瞬間、辺り一面は静かな水面へとその景色を変えていた。
バッシャーフォームが形成する、彼専用の固有結界、疑似水中空間──アクアフィールド。
大気中の酸素と水素を使って生成された水の空間は、森にいたはずの紗夜たちを巻き込んで一面に広がっていた。
それは当然、今も必死にキバから逃げ続けるポーラベアーの足元にさえも……。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
闇夜に映る巨大な半月が水面下にも映り込む。キバは幼い少年のような高い唸り声をあげ、水中に身を任せるようにその身体を広げていた。その姿はまるで、静かな水面の上で華麗にバレエを踊る白鳥のように紗夜は感じていた。
「ふっ」
キバのエメラルド色の眼光が眩く輝く。その手に握る魔海銃の銃口を空に向けた瞬間、彼を中心として水が激しく巻き上がる。静かだった水面から一転、荒々しく渦を形成しながら巻き上がる水の中で、キバは静かに両手で魔海銃を構えて銃口を前方へ向けていた。
「……」
彼の目には全て見えていた。
今も闇の中を逃げ回るポーラベアーの姿も。
キバに与えられた五感が全て教えてくれる。
目標の動きから想像できる未来の図も。
一秒後に起こる未来さえ、今のキバには見通せていた。
そしてそれは、これより発射される断罪の一撃を放つには十分な予知であった。
「ハァッ!!」
バッシャーマグナムの銃口に収束されたアクアバレットが一気に放たれた。強烈な一撃として放たれた水の収束弾は、しかし真っ直ぐ飛ぶことはなかった。木々の間をすり抜けるように避けていく弾丸。放たれたそれは敵をどこまでも追尾する捕食者そのものであった。
そして自分の意志を持ったように動き回るその姿は、ポーラベアーの目にも見えていた。
「ハァ、ハァ……ヒャッ!? ィエァァアアアアッ!?」
異形は逃げる。
自分をどこまでも追いかける水の悪魔から。
どこまでもどこまでも。
そう、どこまで逃げても、決して逃がさない。
キバの怒りと執念が籠った弾丸は、決して敵を逃したりはしない。
一度狙われれば最後、王の判決からは誰も逃げることができない。
やがて弾丸がポーラベアーの脚を掠めて、彼はその場へと倒れ込んでしまう。
「ッアァッ!? ァア!? アア! ァア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッ!!」
すぐさま起き上がろうとしてもそれは遅すぎた。
高速で目の前に迫る水の弾丸に、もはや彼は何もできない。
抵抗すら忘れてただひたすら怯え、目の前の処刑に悲鳴を上げることしかできなかった。
そして──
「ギャア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァ──」
水の一撃──バッシャー・アクアトルネードが異形の身体を貫いた。
青年の純真な心を利用しようとした男の、あまりにも無様な断末魔が夜空に轟く。異形の身体はひび割れるような音と共に固まり、やがて全身がステンドグラスのように光り輝いたまま動かなくなってしまう。
「……」
既にこと切れ、ただの大きな置物となったポーラベアーの元に、翠玉の射手──キバが歩いていく。彼はゆっくりと動かなくなったポーラベアーの前に立ち、コツンと、左拳でその身体を軽く叩いた。その瞬間、異形の身体はガラスのように派手に砕け散り、辺り一面にステンドグラスのような綺麗な破片が散らばっていった。
「……」
キバは……麗牙は静かにその光景を目に焼き付け、踵を返して振り返ることなくその場を後にするのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「童室さん!」
ぐったりと力なく地に倒れている童室さんは今は紗夜さんの膝を借りて頭だけを起こし、駆け付けた僕を虚ろな目で見ていた。
「紅さん……彼は、もう……」
「っ……」
剣を貫かれた胴体から止めどなく溢れる血が彼の身体を伝い、大地に還っていく。ミシミシとひび割れるような音を立てて身体がガラスのように固くなっていく様は、ファンガイアの最期の瞬間が近づいている証であった。彼の命はもう助からない。僕は……間に合わなかったのだ……。
「ひ……な……ちゃ……」
「っ、童室さん……?」
その時彼は唯一動く視線だけを日菜さんに向けていた。
もはやそれだけしか力は残されておらず、喋ることすら彼には苦痛であったはずだ。
しかし、彼は最期に残った力を振り絞って日菜さんに言葉を投げかけていた。
例え彼女に届いていなかったとしても、どうしても伝えたい熱い想いが彼の口から溢れていた。
「ぼく……あえてよかった……」
彼の言葉と共に、終わろうとしていた彼の心から温かな音楽が聴こえてきた。
純粋に人を想う温かな心。優しく綺麗な童室さんの音が、僕の耳に響いてきた。
「ひなちゃん、の……おかげで……ぼくは……またいきることが……」
自分がファンガイアと知った後の生は、童室さんにとってはもはや死んだのと同義であった。だけど、日菜さんとの出会いが彼を人に戻していた。死人であった彼が、彼女のお陰で再び生きることができたんだ。
「ありが、と……」
死にそうだというのに涙を流して幸せそうに笑う童室さん。そこには命を賭して愛する人を護り抜いた誇りもあっただろう。しかしそれ以上に、心から好きになった人と出会うことができた人生そのものに彼は喜んでいた。
彼の心から流れてくる喜びと感謝に溢れた輝かしいメロディが、僕たちの心も優しく包んでいた。
「ほんと、に……ありがとう……」
もう一度、純朴で幸せそうな笑みを浮かべる童室さん。
そして──
「ひな……ちゃん……」
──最期に彼女の名を呟いて……彼の身体は砕け散った。
彼のものだったステンドグラスのような破片が雨のように降り注ぎ、闇夜を色鮮やかに照らしていた。それはまるで、愛する彼女に見せる最期の輝きと言わんばかりの、煌びやかで温かい光であった。
「……」
「……」
沈黙が夜の森の中を冷たく包み込む。僕も紗夜さんも、彼の綺麗な最期に何も言うことができなかった。
「紅さん……」
「今は……何も言わないで……」
「……はい」
彼の光が静まり返った闇の中で、僕たちは静かにその場に佇んでいた。
「ようやく森を抜けますね……紅さん、大丈夫ですか?」
「うん。日菜さん、紗夜さんと同じで結構軽いから」
重い足取りで森を進む中、僕たちの眼前には街明かりが近づいていた。僕は未だ目覚めない日菜さんを背負いつつ、一歩一歩と道なき道を歩んで森を抜けていく。隣では紗夜さんが僕の背中の日菜さんの様子を、そして僕の顔を何度も伺いながら歩いていた。
「彼は……幸せだったのでしょうか……」
「僕はそう信じてる」
紗夜さんも僕と同じで、童室さんのことを忘れられずにいた。そんな彼女の問いに、僕は迷うことなく答えた。そうでなければ、最期にあんな笑顔を浮かべることはできない。例え命を失ったとしても、最期まで誰かを愛し抜いたこと、愛する人と出会えたこと、そんな奇跡に巡り合えた人生はきっと幸せだったのだと僕は信じたかった。愛する人と出会わずにファンガイアとして何百年も生きるよりも、その人と出会える人生の方がよほど価値のあるものなのだと信じていたかった。
「日菜には、一体なんて説明すればいいのでしょう……」
「……」
しかし紗夜さんのその質問には即答できず、僕は黙り込んでしまう。恐らく日菜さんはファンガイアとしての童室さんの姿は見ているだろう。しかし誘拐されてからの出来事は彼女に意識が無かったから何とでも説明できる。怪物が逃げたとでも、最悪僕が斃したとでも説明ができてしまう。だけど……。
「私はあの人のことを……日菜に嘘を付きたくありません。あんなに真剣に日菜を好きになって、命を懸けてまで守り通した、あの人のことを……」
「僕だって同じです……」
日菜さんは知らない。自分を本気で愛してくれた存在のことを。自分を守るためにその命を賭した異形のことを。僕らが語らない限り、真実は永遠に闇の中だ。しかし彼のどこまでも純真な覚悟をこのまま隠してしまっていいのかと、僕の中でも葛藤が生まれていた。
「でも、やっぱり怪物が逃げたってことにするしかないです」
「そんなっ、そんな悲しいこと……っ」
「それ以外に説明のしようがないよ……自分のせいで死んだなんて思わせたくないし、日菜さんまでこっちの世界に巻き込むことになる」
「そう……ですね……」
何が正しいか、どうするべきかという答えは既に出ている。僕も紗夜さんも納得はしていないが、そうする他にないと分かっていた。だから僕たちは、日菜さんには隠し通すことにした。彼女の知らない優しい羊の真実を。彼女が一番傷つかない説明で……。
「……」
景色が街明かりに照らされて明るくなっているというのに、僕らの間には依然として暗い雰囲気が消えないでいた。土や草を踏みつける重い足音だけが僕らの周りで響いていく。
しかしひたすら静かな夜が続くかと思われたその時、僕の耳に思わぬ音が届いていた。
♪~♬~♬~
「っ……」
その音に思わず立ち止まってしまう。
音楽が聴こえてきたのは、僕の背中からだった。
静かに悲しく、雨が降るような音。
しっとりと、鳥も飛ばぬ雨空が思い出されるよな悲しい旋律。
そんな聴きたくない音が、僕のすぐ背後で奏でられていた。
それが意味するところを理解して、僕は息を飲んで歩みを止めてしまう。
あまりに非情な現実に心が張り裂けそうであった。
「……」
「……紅さん?」
「っ……いえ、何でもないです……行きましょう」
「……?」
紗夜さんに何事も悟らせることなく、僕は立ち止まらせた足を何とでもないように再び前へと踏み出した。
こんな悲しい音楽は、今は僕の心の中にだけ閉じ込めておきたかったから。
僕の哀しみも、紗夜さんに知られたくなかったから。
だから僕は歩き続ける。全ての哀しみを胸に秘めたまま、吸血鬼らしく闇の中を……。
「っ」
背中で僅かに揺れる感覚を敢えて無視して、その真実を誰にも悟られることなく僕は夜の世界を歩み続けた。
20話以降で登場したファンガイア
・プローンファンガイア
真名『あしながおじさんが見守り続ける幻想』
・シープファンガイア/童室穣
真名『七面鳥は暖炉の前で満たされぬ夢を見る』
・ポーラベアーファンガイア/迫間
真名『腐肉を漁る餓鬼への戒め』