ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

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『世界中の音楽定義において、ロックほど曖昧なものは無いと言われている。様々な演奏様式や楽器を取り入れて発展したロックは、そのジャンルだけでも100を超えるという』

「僕に向けた言葉じゃないよね。ねぇ?」


第2話 心の音:Determination Symphony

 私が初めて彼──紅さんと出会ったのは、一月以上前のことだった。だけどその前に、私は自分のことを説明しなければならない。

 

 私──氷川紗夜には、日菜(ひな)という双子の妹がいる。私と同じ血、同じ顔を持って生まれたはずの彼女は、しかし私よりも多くの才能に溢れた人物だった。それだけならば……才能があるだけならばまだよかったのに、彼女は事あるごとに私がしていることを次々と真似していき、そしてあっさりと私を追い抜いてしまう。自分がどれだけ長い時間をかけてその分野で努力したとしても、日菜は持ち前の才能だけで、ほんの少し手を付けただけで何の苦もなく私の上を言ってしまう。それを目の当たりにして自分が苦しんだことは数知れず。だけど今の私にあるもの……ギターだけは絶対に私だけのものにしたかった。始めたきっかけは、ただ「日菜が絶対にやらなさそう」という身勝手な理由だったけど、ギターの実力だけは誰にも譲りたくないと思っていた。しかし結局、私に憧れて日菜はギターを始めることになった。芸能事務所から発足したガールズバンド『Pastel(パステル)Palettes(パレット)』のギター担当として活動を始めた日菜を目の当たりにして、しばらくは潜んでいたはずの彼女へのコンプレックスが大きくなっていくのが嫌でも感じられた。「また私を追い抜いていくのか」「私からギターまで奪おうというのか」そんな黒い感情を、ただ一人の妹に向けなければならなかったことは今でも苦しい思い出だ。日菜のやっていることは私には苦しいけれど、心の底から彼女を嫌いになることなんてできなかったのだから。

 それでも紆余曲折あり、何とか互いにギターを続けて来られたある日、家で日菜と二人でPastel*Palettesのライブの様子をテレビで見ることがあった。あまり日菜のギターを見ないようにしてきた私だったけど、いい加減に日菜と向き合わなければと自分に言い聞かせ、その日、久しぶりに日菜のギターを真剣に聞くことになった。そこで見た日菜の演奏は、彼女自身のように勢いに乗った少し急いだような演奏に感じられたけれど、私にはない決定的な“何か”を感じてしまった。

 

 それは音楽を楽しむ心、そしてそれによって生まれる、"氷川日菜という彼女だけの音”。

 

 そんな独創的な、アイデンティティを感じさせる日菜のギターを聞いてしまった時、私は自分の演奏が非常につまらないものだと感じてしまった。自分のギターを振り返った時、とにかく技術だけを、正確さだけを追い求めてきた自分しかいなかった。いつも湊さんからは素晴らしく精確な演奏だと言われているが、所詮はそれだけでしかない。それを自覚してしまった時、私は今までのようにギターを弾くことができなくなってしまった。

 

 その日、私はRoseliaの練習を休むことになった。湊さんは私が戻ってくることを信じてくれはしたけど、それでもやはり日菜に面と向かって話をするとなると臆する自分があった。その日は日菜はテレビの仕事という事で、街にはいるけど帰るのは少し遅くなると言っていたから、少なくとも話すのは夜になるはずだった。その時だった、繁華街を覆っていたな鈍色の空から、ぽつぽつと雨が降り始めたのは。店の屋根の下に退避して様子を見ていたけれど、雨の勢いは増していくばかりで、私はそこから動くことが出来ずにいた。

 土砂降りの雨を眺めている中でも、やはり私は日菜のことを考えてしまう。私から才能も特技も何でも奪い取ってしまう妹……だけど私に取ってはただ一人の大事な妹……こんな自分に憧れていつまでも慕ってくれる妹……どれだけ私が邪険に扱っても、見捨てずに構ってくれる妹。

 何故だろう……何故自分はこうなのだろう……。日菜からの憧れに耐えきれず、苦痛に思い、突き放してるのに、彼女は私を見限ろうとしない。なのに何故自分は日菜の想いに応えてやる事が出来ないのだろう……何故自分は、日菜を受け止める事が出来ないのだろう……。

 そんな自分が情けなく、消えてしまいたくなり、涙が零れそうだった。

 

 ──日菜とまっすぐ話せますように

 

 あの日、短冊に願った気持ちが遠くに行ってしまいそうで嫌だった。それだけは心から消したくなかった。だけど、日菜に自分の全てをさらけ出す事が怖くて、出来そうになかった。

 

「どうして私は……」

 

 つまらない音を奏で続け、短冊の願いからも遠ざかっていく自分が嫌で、嫌で、たまらなくて……だから私は……。

 

「……ごめんなさい……日菜」

 

 また逃げ出してしまった。

 

「──おねーちゃん!」

 

 土砂降りの中、日菜の声が幻聴として聞こえてきたけど、がむしゃらに走る私の耳にはそれ以降同じ声が聞こえてくることはなかった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……っはぁ、はぁ……」

 

 雨の中、どれだけ走ったか分からない。髪の毛や衣服が濡れようが構うことはなく、何も考えられずにただ無心で走っていた。日菜への重圧から逃げるように、変わることのできない自分から逃げるように。そうして逃げた先に何もないことなんて分かっているはずなのに、私は足を止める事が出来なかった。

 だけど、そんな私を立ち止まらせたものがあった。

 

 ♪〜〜♬〜〜

 

 それは音だった。

 

 私が逃げようとした、楽器を奏でる音。しかしそれは人の歌声のように柔らかく、癒しを与えるような優しい音色だった。バンドの世界ではまず聴くことのないそれ……ヴァイオリンの音色が、土砂降りの中でも響き渡り、そして走り疲れた私の足を止めていた。

 

「……」

 

 公園の池のそばに建てられた屋根の下で、男の人が悠然としてヴァイオリンを奏でている姿が目に映った。歳は私と変わらないくらいの若い人だけど、その姿、その音色があまりにも自然体で、そして綺麗で、ついつい側まで足を運ばせてその調べに耳を立ててしまう。彼の音を聴いた時、即座に感じたことがあった。これは日菜が奏でていたものと同じで、だけど正真正銘彼だけの音なのだと。技術だけではない、その人の心を映し出すような純真な音なのだと、私は直感していた。

 揺れるような歩調、だけど決して弱々しくなく、そこに確かな強い意志を持った調べがこだまする。運命の渦に巻き込まれるような音に乗せて、しかし彼の物語は歩むことをやめない。最後まで自分の意志を貫くが如く、自分を見失わない強い輝きが、音となって私の心の中にまで浸透していくようであった。

 そして最後にポロロン、と音を立てて優しく弓が弦から離れていく。演奏を終えた彼は、途中から聴いていた私に気付いていたのか、こちらへ向いて軽く一礼をした。

 

「……ありがとうございます。最後まで聴いてくれて」

 

「ぁ……いえ、こちらこそ勝手に聞き耳立ててごめんなさい」

 

「いいですよ。それに僕の音で、貴女の音も少しだけ軽くなれたようだから」

 

「私の……音?」

 

 私の音……それは私自身も見つけられていない、今の私にとって最大の悩みの種で、今の状況を作り出した根源であった。だけど彼の言っている言葉の意味が理解できず、つい声に出して疑問を投げかけてしまう。すると彼はどこか困ったように、照れるように答えてくれた。

 

「僕には聞こえるんです、人の音楽が」

 

「いや、まだよく分かりませんが……」

 

 人の音楽と言われても、楽器も持っていない、歌も歌わない人の何の音楽が分かるというのだろうか。彼の言いたいことがまだ理解できず正直に口から漏らしてしまう。

 

「やっぱりそう思うよね。でもね、人はみんな心の中で音楽を奏でているんだ。変なことのように聞こえるかも知らないけど、本当はみんな一人一人、それぞれが毎日違う音を響かせている。僕は昔からそんな人の心が奏でる音楽が好きで、ずっと聴いてきたんです。そんないろんな音を僕はもっと聴きたくて、そして僕の音を届けたくてヴァイオリンを奏でているんです」

 

「心の中で……音楽を……」

 

 普通ならば何を変なことを言っているのだろうか、と真に受けることはないだろう。だけど今の私には、その言葉を戯言だと切って捨てることは出来なかった。何故なら私は知っているからだ。自分という存在、自分の心を音楽に乗せて表現できる人たちを。日菜がそうであるように、彼らは皆それぞれ違う音楽を奏でている。それが可能だというのなら、彼の言う心の音楽というのは存在するのだろう、私は何故かそう信じられた。

 だけど、一人一人違う音を奏でるという言葉を前に、私はつい縋るように彼に投げかけてしまっていた。

 

「それは、本当にみんなにあるものなのですか? 私にも?」

 

 私は未だ自分の音というものが分からずにいた。正確さだけしかない自分の演奏はつまらなく感じるし、それが自分の音だとは到底思えなかった。だからどうしても思ってしまうのだ。自分の心の中にも、本当に音楽は流れているのか、と。

 

「もちろん貴女にも貴女の音楽があります……でも、さっき聞こえてきた貴女の音が、なんだかとても哀しそうだったから……」

 

「そ、それは……」

 

 哀しみに暮れていたのは間違いないが、泣きそうになりながら、何もかも置いて逃げようとした情けない自分の心を見透かされているようで非常に恥ずかしく、言葉を閉ざしてしまう。

 

「私は……自分の音なんて分かりません。それの聞き方も、表現することも、どうにもできないんです……」

 

「あの、もしかして貴女も何か楽器を?」

 

「はい……ギターです。でも、もう嫌になって……」

 

 その時の私は本当にどうにかしていたのだろう。あまりにも精神が参っていた私は、初対面の他人にここまで走ってきた経緯を説明していた。あの真摯で優しいヴァイオリンの音を聴いて、目の前の彼のことが信用出来ると、話を聞いてもらいたいと本能的に感じていたのかもしれないけれど。

 自分のこと、自分の妹のこと、妹に抱く劣等感のこと、比べられるのが嫌なこと、私に憧れる妹とそれが苦痛だった自分のこと、妹のギターを聴いて自分のギターがつまらないものに感じたこと、妹の想いに耐えられずに結局また逃げ出したこと。思い出すだけでもいろんな感情が湧き上がり、彼に話す時にどんな態度だったかすら覚えていない。怒っていたか、泣いていたか、一周して無表情だったか、ともかく関係のない彼には迷惑なことであったはずだ。だけど彼は一言も口を挟まずに最後まで耳を傾けてくれた。そして私が話し終えた途端に一言──。

 

「妹さんは、どんなに頑張っても貴女にはなれませんよ」

 

「え?」

 

「たとえ妹さんがどんなに天才だとしても、紗夜さんの音を真似しきるなんて不可能だということです」

 

 どうしてそんなことが言い切れるのだろうか。日菜のことを何も知らないくせに。あの何でもできる天才の恐ろしさを知らないから言えるのではないかと、そう思ってしまう。そもそも、私が苦労の末に自分だけの音を奏でることができたとしても、日菜があっさりとそれを真似してしまうかもしれない。今までの経験からそう思わずにはいられないのだ。

 そんな私の視線を知ってか知らずか、それとも私の心の音楽に諦めの色が付いているからか、彼はそんな私の気持ちに答えるように話を続けた。

 

「僕だって周りから『天才』と持て囃されている身ですけど、たとえ人の心の音を聴いたとしても、完璧にその心を演奏できたことはないんです。だって、その人の心はその人にしか理解し得ないから」

 

「……」

 

「誰かが僕の演奏を真似したとしてもそれは僕にはなれない。真似した結果僕より上手に演奏したとしても、それはもうその人の音楽なんです。だから、僕は僕として、この音を奏で続けたいんです」

 

 彼の言う心の音楽、それは人の心のそのものだ。心の奥底は誰にも理解出来ないし、打ち明けることもない。だからこそ、それを表現する方法の一つとして音楽がある。楽器は己の心を映し出す……故にそれを持って演奏する限り、奏者は自分以外になる事は出来ないのだ。

 

「(他人がどう演奏しようが『僕は僕として』……そうね、その通りね)」

 

 それは私たちも同じ。例え双子であったとしても、私の音は私にしか弾けないのだと今ようやく理解することが出来た。

 

「紗夜さんの音は、紗夜さんにしか出せません。それだけは断言できます。だから、今度また聴かせてもらえませんか?」

 

「え……?」

 

「紗夜さんの音です。紗夜さんにしか弾けない紗夜さんだけの音。こんな哀しいだけの音じゃない、心の底から音楽を楽しんでいる貴女の音が聴きたいんです」

 

 何故そんな恥ずかしそうなことを真顔で言えるのだろうかこの人は、と思うも、その言葉に少しだけ心が浮き立つ自分がいることに気づいてしまう。

 そう、私は誰かに言って欲しかったのかもしれない。私にも私だけの音楽が弾けると。誰も真似できない氷川紗夜だけの音が存在すると。

 しかしその前には大きな困難があった。それは日菜と同じように音楽を楽しむということ。そもそも私にとっての音楽は、日菜と比べられないようにするために利用し始めた道具でしかなかったのだから。今更、私は音楽を楽しむことなどできないと思っていた。しかし……。

 

「今の私に、音楽を楽しむなんて──」

 

「嘘ですね」

 

「──なっ」

 

 はっきりと断言されてつい言葉を失ってしまう。

 

「音楽を好きでない人が、音楽が楽しくない人が、音楽のことでここまで哀しむはずがないじゃないですか」

 

「そ、それは……」

 

 彼の確信めいた言葉を前にして、またもや言葉に詰まってしまう。私が音楽を楽しんでいる……日菜のように? 音楽のせいで苦しい思いをしていたのは事実だけど、それが私が音楽を楽しんでいるという証明になるのだろうか。そんな疑問を抱いていた私に触れることもなく、彼は再び自分の得物に手を伸ばし、ベンチから立ち上がった。

 

 そして──。

 

「……」

 

 ♪〜〜♬〜〜

 

「ぁ……」

 

 また、あの優しい音色が響き渡る。私の心に直接語りかけるように紡がれていく、彼の優しい心の音。耳から入り込んでくるそれを、私の脳も身体も全く拒絶することなく、初めからそうであるように私の身体に溶けていく。彼の織りなすメロディがあまりにも心地よく、わたしはついついリラックスして聴き入ってしまう。いつも激しい音楽に身を包まれてばかりだっただけに、こうしてゆっくりと心落ち着かせて音楽を堪能したのは久しぶりな気がした。

 そしてそれを奏でている彼自身も、非常にリラックスをしている風に見えた。むしろ話している時よりも、ヴァイオリンを触っている方がよほど幸せそうとすら思える。そんな楽しげに弾く彼の音色だからだろうか、彼の奏でる音にまでその楽しさが乗っているように、私の心の中で跳ねているようだ。

 そして、それが心から楽しいと感じる気持ちなら、私はその気持ちを既に──

 

「どうかな? 少なくとも、僕の音楽を楽しむ気持ちは伝わりましたか?」

 

「……そうですね。少なくとも、あなたが音楽に対して真摯に向き合っていることはよく理解できました」

 

「ありがとうございます」

 

 今感じた気持ちが、真に音楽を楽しむ気持ちなのか、正直なところ今の私には判断はできない。でも、何故だろうか……少し……ほんの少しだけだが、私は今なら日菜とも向き合える気がしていた。「自分の音」というものに少しだけ活路を見出すことが出来たからだろうか。単に心が落ち着いただけなのだろうか。それとも、彼の演奏が織り成す力なのだろうか。

 いや、違う……心の中で燻っていた本当の気持ちに気付けたからだ。彼の演奏を通じて一つだけ確かだと感じたこと、それは……。

 

「私……やはりギターは弾きたいです」

 

 表現力では妹に先を行かれ、独創力でも自分の音が出せず、嫌になっていたはずのギター演奏。しかし、心から音楽を愛し、楽しんで演奏する彼の姿を前にして、自分もまた楽器を手に持ちたくなってしまった。私には、どうしてもギターを捨てることができないのだと思い知らされてしまった。

 

「日菜に先に行かれたとしても、これだけは辞めることはできない。今更Roseliaを見捨てることもできないし、今はギターが私のプライドなんです」

 

「ギターだけは負けたくない」「私にはギターしかない」いつも日菜への劣等感を抱く度に思い続けていた言葉、そこには「私にとって最後に残されたギターだけは」という言葉が頭に付いていた。だけど今は、「私が好きなギターだからこそ」という言葉こそ相応しく感じている。後ろ向きな姿勢ではなく前向きな姿勢で自分はギターを奏でることが出来るはずだと、彼の前では何故かそう思えた。

 

「いつか私も……自分だけの音、これが『氷川紗夜の音』だと言えるものを見つけるまでは、辞める気はありません」

 

 それが私の決断。私の決意。もう決して曲げないと決めた言葉だった。そんな今の私の心の音楽は、彼にはどう聴こえているのだろうか。私は……少なくとも交響曲(シンフォニー)くらいの大きな気持ちで言っているつもりなのだけれど、彼もそう聴こえてくれているのかな……。

 

「それは……本人に直接言った方がいいんじゃないかな?」

 

「え……?」

 

 彼に返事をしようとした瞬間、何処からともなく声がした。

 

「おねーちゃ──ん!」

 

「日菜……っ」

 

 声が聞こえた方へ顔を向けると、公園の池を挟んで対面側から日菜が私の名前を呼び続けているのが目に映った。傘を片手に持っているのに、肩や足元がびしょ濡れになっていたのは、なりふり構わず必至に私を探していたからなのだろうか。そう思うと、より一層彼女に向き合わなければという気持ちが強くなっていった。こんな私を見捨てないでいる妹に、いつまでも甘えてられないと私は自分を奮い立たせて、私はようやく立ち上がった。

 

「雨、止みましたね」

 

「え……あ、本当ですね。あの……色々とありがとうございます。ですが、すみません。私、まだあなたの名前を伺ってませんでした。失礼ですが、お名前は?」

 

 ちょうど雨が止んだようで、雲の隙間から綺麗に夕日が差し込んでいた。その時、私は目の前の彼の名前をまだ聞いていなかったことに気付き、情けなく感じながらも彼の名前を訪ねた。

 

「紅 麗牙です。麗しい牙って書いて麗牙……僕は気に入っているんです。だから名前で呼んでもらえると嬉しいんだけど……」

 

「あの……すいません、でもこればかりは私の性分ですので……本当にありがとうございました、紅さん」

 

「どういたしまして。今の紗夜さん、凄くいい音が流れています」

 

 そう言って満面の笑みで見送ってくれた彼が眩しくて、胸の奥が少しだけきゅっと引き締まるような少し苦しい感覚に襲われた。心労が祟って心臓発作でも起こしかけたのだろうかと思ったのでとりあえず無視はするけども。

 でも、彼の言う通り確かに今の気分はもう土砂降りではない。今の空のように、僅かに日が差し込み始めた夕立のような、希望を抱たものであった。

 

「そうだ。紗夜さん、これを」

 

「え……?」

 

 日菜へ歩き出そうとした自分を止めて、紅さんは私に二枚の紙切れを渡してきた。

 

「ライブのチケットです。実は僕も、こう見えてバンドをやってるんですよ。もし良かったら、妹さんと一緒に見に来てください。あ、もちろんRoseliaのライブも見に行きますから」

 

「TETRA-FANG……」

 

 渡されたチケットの紙面に印字されたその名を、私はゆっくりと呟く。こんな人畜無害そうな優男もバンドをやるのだと言われると大抵は驚くだろうが、私は大して驚きはしなかった。Roseliaでもあの内気な白金(しろかね)さんがキーボードを華麗に弾き鳴らしているし、意外にそんなバンドマンも少なくないらしい。それに、ヴァイオリニストのくせに紅さんが妙に私のバンドの話にも詳しく乗ってきてくれたことに対する疑問が晴れたこともあり、心の内ではむしろスッキリしていた。

 

「そうですね。気が向いたら、ですけれど……」

 

「厳しいなぁ。でも、待ってますから」

 

「はい。また、いつか」

 

 そうして、私は踵を返して日菜が駆け寄ってくる方向へと歩み始めた。ここからは私の戦いなのだと、誰かに頼るのはここまでなのだと自分を奮い立たせ、私は日菜に自分の気持ちを伝えるべく前を向く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の事は、わざわざ説明するまでもないだろう。「何があっても互いにギターを続ける」という日菜との約束を破りかけたことに関しては、珍しく彼女から本気で怒られたのは驚いたけど。

 ただ日菜も、無意識だったのだけれど私を苦しめていたことを謝ってくれたし、後は私自身の問題だった。紅さんに言ったことと同じ決意を──これが氷川紗夜の音だと、胸を張って言えるようになるまではギターを続ける、と日菜に告げることができた。

 

 

 因みに、あの日の日菜のテレビの仕事というのが紅さんに関わることだったと知ることになるのは、二人で TETRA-FANGのライブを見に行った時だったけど……それはまたいつかの話。

 

 

 ともあれ、こうして私は再びギターとしての活動を続ける事ができるまでに至った。

 

 

 

 

 

 

 ……というのが一ヶ月ちょっと前の話であった。

 

「紗夜さん、RAIGAさんと知り合いだったんですかぁ!?」

 

 宇田川(うたがわ)さんの声が通りで轟き、彼女を含めRoselia全員が私の方へ物珍しそうな視線を向けてくる。

 

「宇田川さん、あまりこんな場所で大声を上げるものではないでしょ。それに彼とも、少し前にたまたま知り合っただけで……」

 

「へぇ〜たまたまかぁ〜……ニヤニヤ」

 

「今井さんもそのワザとらしいニヤケ顔やめてもらえないかしら」

 

 私と彼を交互に見ながら楽しそうに詰め寄る今井さんを遇らいながら、私は少しだけ恨めしげな視線を紅さんに向ける。

 

「あぁ〜……と、ごめん、友達と来てたってこと忘れてたね。あはは……」

 

「友達というより、Roseliaのメンバーです。貴方も一度見に来ているのでは?」

 

「友達じゃないの?」

 

「紗夜〜……アタシたち友達じゃなかったんだ〜……オヨヨ〜……」

 

 紅さんの言葉につられてあからさまに嘘泣きを決める今井さんは無視して、とりあえず何かしらの返事をしようとして、しかしそこへ横から湊さんが割り込んできた。

 

「そんな言葉だけで片付けられるような間柄ではないわ、私たちは。それよりもあなたたちは、今日はこの後予定とかあるのかしら?」

 

「? ええと、僕とアゲハならば午後は空いていますけれど」

 

「湊さん……?」

 

 湊さんは一体何を考えているのか……いや、薄々は感づいているけど、正直それは今の私はあまり乗り気になれないわけで……。

 

「今度、CiRCLEで私たちのライブが行われるのだけど……あなたたち TETRA-FANGにも参加してほしい、共にライブをしたいと考えている。だから、その打ち合わせに参加してほしいのだけれど……構わないかしら」

 

 相手に対して全く臆する事なくズバズバ言う彼女の性格を、この時ばかりはほんの少しだけ恨むこととなった。

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