「(うわ〜やっちゃった? やっちゃったよ〜!?)」
右手で麗牙の手を握りながら彼を引っ張りつつ、アタシは熱が立ち込めてぼうっとする頭の中でひたすら叫んでいた。自分の起こした行動に自分自身が一番混乱してしまっていたからだ。一体アタシは何をやってるんだろうか。急に麗牙を止めて一緒にゲーセンで遊ぼうなんて……こんなの、完全にデートじゃん。きっと麗牙にもそう思われているよ……うぅ。
麗牙はどう思っているのかな。気遣ってくれているけど、本当は面倒臭がったりしているのかな。そう思われていると考えるだけですごく怖いし、泣きそうにもなる。こんなことしておいて何を言ってるんだと思われそうだし、それなら今からでもこの掴んだ手を放せばいいだけの話だ。それでもアタシは、麗牙を掴んだこの手を放すことはしたくなかったし、麗牙にもどこにも行ってほしくなかった。だって……。
「麗牙ってさ……」
「何ですか?」
「……ううん、やっぱり後でね。よしっ、じゃあ何か音ゲーでもやろっか」
ああもう、アタシの意気地なし……。麗牙にはどうしても聞きたいことがあったのに、それを口にしようとした途端に腰が引けて話題を先延ばしにしてしまう。だって、もしその質問の答えが肯定だったとして、その時に自分がどうなってしまうか分からなかったから……。そして誤魔化すように麗牙に笑顔を作って振り返り、音ゲーの台が設置されているスペースに指を差して彼をゲームに誘う。
「音ゲー……そう言えばやったことないですね。これってリズムに合わせてタップ、みたいな感じですか?」
「うん、なんだ結構分かってるじゃん。なら大丈夫だって。でも、先ずはとりあえず見ててよ」
先ずは一つ、麗牙に見本を見せるためにアタシ一人で台の前に立つ。プレイに必要な分の硬貨を投入し、腕や指を軽くならしてから曲と難易度を選択した。アタシ自身も前回に遊んだのはそれなりに前になるが、後ろで麗牙が見ているのだから気合いも入ってしまう。
「(よぉ〜し、ここは一つ麗牙にカッコいいところ見せなくちゃね☆)」
そうして、アタシのゲームでの演奏が始まった。背中に麗牙の視線を強く感じるが、あくまで例として自分がクリア出来る難易度を選んでいるため、凄いプレイなんてものは期待しないでほしいかな。上から次々と降ってくるマークをアタシはタイミングよく画面をタップ、或いはスライド等を駆使してスコアを貯めていく。大体どの音ゲーもルールは同じはずだし、他の音ゲーをプレイするにしてもここでルールくらいは把握してもらいたい。
「──っと。ふぅ、まあこんなものかな、久しぶりだったら」
曲が終了してアタシのリザルト画面が表示される。残念ながら途中で上手くタッチ出来ていないものがあったのかフルコンボとはいかなかったが、麗牙の手前で恥をかくことがなくて正直ほっとしていたりする。
「とまあ、こんな感じ? どう? 麗牙もやってみる?」
「そうですね。面白そうですけど……僕は……あっちの方が楽そうだなって」
「ん? あっちって……太鼓のやつ?」
「はい。なんか画面に触れるだけって、あんまり演奏してる気がしなくて……」
麗牙が指差したのは、どのゲームセンターにも設置されている人気の太鼓の音ゲーだった。画面に触れるだけって、それ殆どの音ゲーに当てはまるんだけど……とは思うが実はアタシも麗牙の言い分はよく分かる。音ゲーといっても要はリズムゲーだから、似たようなことをするなら最悪手拍子だけでもリズムに乗って遊ぶことはできてしまう。その分、あの太鼓のゲームなら実際に楽器に触れる体でリズムに乗れ、実際に演奏しているような気分にさせてくれる。だから彼があれを直感的に選んだことも理解できた。
「うん、いいよ。あれにしよう」
「すいません。わがまま言って」
「もう何言ってんの。今日わがまま言ってるのはアタシの方なんだから……ほ、ほらっ」
少し申し訳なさそうに零す麗牙の腕をとって、触れた瞬間に熱くなってしまった顔を見せないように、アタシは彼をそのゲーム台の前まで連れていった。二人揃って太鼓の前に立ち、画面に流れている操作説明と共にアタシも彼に説明を加える。至って単純な操作だから彼もすぐに理解してくれて、いきなり二人プレイで始めることになった。曲は当然初心者である麗牙を基準に選び、難易度は各々の自由なものを選んでようやく曲が始まろうとしていた。
「なんか緊張しますね」
「大丈夫、気楽にいこうよ(って緊張してるのはアタシの方なんだけどね)」
なんで音ゲーって曲が始まる直前に妙な緊張感が走るんだろうね。尤も、アタシが抱く緊張感は麗牙の抱いているそれとは違う緊張なんだけど。麗牙が選んだのはアタシもテレビで何度か聴いたことのあるグループの楽曲だった。確か『Great Blue Sky』だっけ? 麗牙の趣味、っていうか好きな音楽ってこういうのなのかな? ……あれ? アタシって、もしかして意外とまだ麗牙のこと知らない? だけど、そんなことを考え出す前に曲が始まってしまう。
「っ(集中集中っと)」
右から流れてくる印に合わせてばちで太鼓の面を叩いていく至ってシンプルなゲームだけど、これが意外と難しかったりする。割と本物のそれに近い太めのばちを持って叩かなければいけない分、難易度が上がればそれなりに筋力や瞬発力が必要になってくる。そのため、楽器に普段触れない人からすれば中々苦戦するものであるはずだ。麗牙は出来ているだろうかと思い、ふと横眼で彼を確認して、そして少しだけ驚いてしまった。
「(ちょっ、めっちゃ振りかぶってる!?)」
本物の太鼓奏者のように両腕を大きく振りながら交差させ、一々大きな音を響かせるように強く面を叩いていく麗牙。派手に腕を振りかぶって、まるで祭りの中で荒ぶる職人の様に見える。残念ながらそれが結果として出ることはなく、偶にタイミングを外してしまっているけれど……。
いや、確かに本来の太鼓を考えたらそういう姿勢が正しいんだけど……こういうゲームだっけこれ?
「っ……ふぅ……結構難しいですね」
演奏を終えて、額の汗をぬぐいながら屈託のない笑みを見せる麗牙にアタシはついついツッコんでしまう。
「あのさ麗牙、別にあんなに思いっきり本物になり切らなくてもいいからね……」
「そう、ですか? 太鼓を叩くんだし、こうやってするイメージがあったんですけど」
「ま、まあそうなんだけど、あはは……ってなんかめっちゃ見られてるし!?」
気付けば割とそこら中から視線が集中しており、驚いて肩が跳ね上がってしまう。確かにあんだけ派手に太鼓を叩いていればそれは目立つというものだ。もちろん注目の的は麗牙なのだが、隣にいるアタシにも多少の視線を集めてしまっている。ずっと興味の視線に晒されているのも我慢できないので、何がそうさせているのか理解していないであろう麗牙の手を引っ張って即座にその場から離れた。
「はぁ……ゲーセンで注目浴びるなんて初めてだよ」
「ステージだと思えばそういうのもあまり恥ずかしくはないでしょ?」
「今のは完全に奇異の目で見られていたよね」
麗牙の言葉には、偶に本気で言っているのだろうかと思わされることがある。ファンガチ勢みたいな恰好をしてきた二人の仲間に嬉しそうに似合ってると言ったり、とか。どこか微妙にズレてるところはあるような気がするんだけど、でもそんな彼もアタシはとても好ましく感じている。真面目な彼も、優しい彼も、どこかアタシとはズレた彼も全部……考えるだけで胸が熱く、静かに高鳴ってしまうから……。
「ねぇ麗牙。次、アレやってみない?」
とりあえず音ゲーはここまでにして、アタシは麗牙に次のゲームを指さした。
「あ、知ってます。UFOキャッチャーですね」
「おぉ。じゃやったことは?」
「残念ながら一度も」
「だよね〜……」
大人になるまで一度もゲームセンターに来たことのない人はいるんだろうけど、麗牙の場合はファンガイアの王様ってことも理由になっているのかもしれない。だから何でもかんでも初めてで、興味津々になってしまうんだよね。子どもみたいに嬉しそうに……そう──
──燐子と二人で行ったネットカフェみたいに……。
「……っ、じゃ、じゃあアタシがまた手本見せるからさっ。よし、じゃあねぇ……これだっ」
暗闇に包まれそうになる思考を振り払って、アタシは一つの台を選んでゲームを始める。今は麗牙と二人でいるんだ。他のことを考えてる場合じゃないよね。
慎重にボタンを操作して目標の真上に向けてクレーンを動かしていく。この手のゲームってクレーンの強度がキモになるから、大体一回やって無理かどうかって大体分かるんだよね。どう見ても商品を掴めないほどクレーンが弱い台だってよく見かけるし。とりあえずこれで様子を見て、明らかに無理そうだったら別のに変えるかな。
そうしてアタシが下したクレーンが商品をつかみ取り……。
「どうだ……っ……んん~……」
「……っ……」
「……きゃっ! 嘘っ? 一発で取れちゃった!?」
なんとクレーンはアタシの予想に反して、商品を最後に落とす穴まで運びきったのだ。え、嘘? だって、このタイプって何度もしないと取れないやつじゃないの? アタシは落ちてきた商品を手に取り、もう一度確認する。何度見ても、ゲーセンでよくあるタイプの無名ブランドのヘッドホンだけど、まさか一回のプレイで取れるとは露ほども思わず、驚きと共に身体が固まってしまっていた。
「すごいですよリサさん!」
「ぇ? あ、う、うん。そうだね、あはは……なんか自分でもビックリ……」
「早速、僕も何かに挑戦してみます」
「うん、頑張って」
「はい!」
麗牙に褒められて気持ちはいいけれど、やはり戸惑いの方が勝ってしまう。でも、これで麗牙もUFOキャッチャーのやり方は大体分かったかな。麗牙は早速何かしらの台を探しに歩き始めてしまう。アタシもすぐにそれを追おうとするけど、もう一つだけやりたい台が見つかったのでそれを狙いに行くことにした。できることなら麗牙と合流する前に取っておきたいものだけど……。
「さて、取れるかな……?」
意を決してゲームをスタートさせる。一回目は残念ながら取れなかったけど、この感覚ならいける気がしたアタシは、長期戦になることを見越してとりあえず五百円投入してゲームを続ける。正直あまりお金を使い過ぎたくはないけれど、これを取れたら……アタシ、ちょっとだけ勇気が出るかなって……そんな気がしていたから。
「そろそろ……(よし……いけっ……あともうちょい……っ)やった!」
運よく使用額が千円を超える前にソレをゲットすることが出来たアタシは、つい声に出して喜んでしまう。すぐさま振り返って、またさっきのように奇異の目を向けられていないか確認してしまうが、どうやら今回は特にいなかったようだ。アタシは出てきた景品を大事に腕に包み込み、どこかでゲームをしているであろう麗牙を探すことにした。当然同じ種類のゲームが集まる空間のため、UFOキャッチャーをプレイしている麗牙をすぐに見つけることが出来たんだけど……。
「っあ、惜しいっ。次こそ……っ」
怒涛の勢いで失敗を繰り返してコインを連投する麗牙の姿がそこにあった。
「ら、麗牙……え、もしかしてずっとこれでやってるの……?」
「しっ、後もう少しでいけそうな気がするんです……ちょっと待っててください……っ、もう一度!」
「は、はい……(めちゃくちゃ白熱してるぅ~!?)」
真剣に、執拗にチャレンジを続ける麗牙の姿にアタシは口を半開きにしたまま固まってしまう。麗牙ってここまでゲームに熱くなれる人だったんだ。少しだけ驚いてしまったけど、でも彼の新しい一面を知れたようでまた嬉しい気持ちになっていた。
見た感じクレーンの強さはそこまで弱くはないし、取れる可能性はあるんだけど……ここまでやってダメだったら普通は諦めたりしないのかな? だけどここまで真剣に取り組んでいる麗牙に諦めなよなんて言えるはずもなく、アタシも固唾を飲んで彼の挑戦を見守り続けていた。
「っ……っ……」
「……(入れ……入って……っ)」
そして、アタシが来てから何度目かになる挑戦で、クレーンのアームが上手いこと麗牙が狙っていたソレ──ぬいぐるみの全身にがっしりとハマり、ゆっくり持ち上げられていく。しかしやはりアームが強くないのか、宙でぶらぶらとクレーンが揺れていく。そして……。
「……あっ……」
「入った……」
クレーンが商品を落とす穴の上に移動する前に、クレーンに揺らされたぬいぐるみはそのアームから放り投げられ、偶然にも穴の中に入り込んだ。結果、麗牙が必死に狙っていた商品は無事彼の手元に転がり込んだ。
「や……やった! やりましたよリサさん! 見ました今の!?」
「うん! 見てたよ見てたよ! すごいじゃん! 何今の動きっ! あっははっ!」
嬉しそうに跳ねる麗牙に呼応するように、アタシも自分の事のように嬉しくなって飛び跳ねてしまう。麗牙と互いに肩を掴み合って笑い合い、喜びを分かち合う。こんなに子どものようにはしゃぐ麗牙を見てるとこちらまで嬉しくなるし、幸せな気持ちにもなる。だけどずっとこうやって飛び跳ねているわけにもいかない。興奮はいつか冷めてしまうものだから。
「……っ……」
「っ……(ら、麗牙の顔が近い……)」
ほんの少しだけ冷静になった途端、すぐ目の前に麗牙の綺麗な顔があることに気付いて何も言えなくなり黙り込んでしまう。ゆっくり彼から離れるも全身の温度が上がり始め、顔が赤面していくのが分かって麗牙の顔を見れなくなってしまう。だけどふとチラリと彼の顔を覗き込んだ時、あることに気づいてしまった。
「(あれ……麗牙も顔赤い?)」
アタシから視線を逸らす彼の顔は、今まであまり見たことがないほどその白い頬を赤く染めて、戸惑ったような表情を浮かべていた。単に恥ずかしいだけだろうか。それとも、もしかして……麗牙もアタシと同じ気持ち……なの? そんな予感がして、胸の奥がどんどん高鳴っていく。喉が渇いていく感覚にも襲われて、自分の唾を飲み込む音が大きく聞こえていた。
「あ、あの……リサさん。これ、リサさんにあげます」
「え?」
いつの間にか顔の色が元の色白い肌に戻っていた麗牙は、ようやく手にしたウサギのぬいぐるみをなんとアタシに向けて差し出してきた。突然の行動に驚いてしまい、胸のドキドキが瞬間的に収まってしまう。
「いえ、このぬいぐるみ……リサさんのピアスの兎に似てて可愛いなぁって思って」
「え? 麗牙、もしかして最初からアタシのために?」
「え~と……はは、そうですね。実はあんまり欲しいものが見当たらなくて……だからリサさんにこれを上げれたらいいなって……」
なんでそんなことを言うの……収まったはずの胸の高鳴りが再発しちゃうじゃん。麗牙が何度もしつこくゲームを続けていたのも、全部アタシのため……。麗牙のその行動が嬉しすぎて頬が緩んでニヤけてしまう。ってダメダメ、そんなだらしない顔、麗牙に見せられないって。
「受け取ってもらえますか?」
「うんっ。ありがとう麗牙っ、すっごく嬉しいよ。大切にするね」
「っ、喜んでもらえて僕も嬉しいですっ」
麗牙から受け取った大きめのウサギのぬいぐるみを抱きしめて彼にお礼を言うと、彼も子どものように明るい笑顔を見せてくれた。これが麗牙からのプレゼントだと思うと、嬉しくて今にも飛び上がりたい気持ちに駆られるけれど、今はその時でないと必死に自分を抑えつける。そもそも、贈り物があるのはアタシだって同じだから。
「じゃあ、麗牙。アタシからもこれ……」
「え? これって……」
「あはは……実はアタシもさ、麗牙にこれ渡したいなって思って、さっき取ったんだよね。麗牙にこれ似合うと思ってさ」
アタシが袋から取り出したのは、ブランド名も分からない特徴的なデザインが施されたネックレスだった。鎖が繋がれたネックレスの先に、数枚の金属製の羽が飾りとして吊るされており、何となくだけどアタシはそれが麗牙に似合うと感じていた。あと、ちょっと思い上がりが過ぎるかもしれないけど、麗牙がこれを付けてくれたら嬉しいなって思ってたから……。
「ありがとうございます……早速付けてみてもいいですか?」
「えっ? う、うん……いいけど……」
そう言って麗牙はアタシのあげたアクセサリーを付けてくれた。まさかその場で付けてくれるとは予想できず、緊張しながら彼がアクセを付ける様を見ていた……。あっ、アタシが付けてあげれば良かったな……そう思うも既に遅く、麗牙はアタシがプレゼントしたアクセを付け終えて、アタシに見せるように少し胸を張っていた。
「どう……ですかね?」
「うん、やっぱり似合ってるよ。まるでどこかの若社長みたい」
「わ、若社長は言い過ぎなんじゃ……あ、でもキングだから強ち間違いでもないのか……ふふっ」
「ぷっ、あははっ! 若社長だ! あはははっ」
「っはは、そうですね……どうも初めまして、私が若社ち──ぷっ、くっふふ……」
「ちょ、ちょっとっ、ふふっ、言ってる途中で、わっ、笑わないでよぉ、ふふふっ」
「ごめんなさい……なんか可笑しくって……っははははっ」
「あっははははっ!」
麗牙との会話が本当に楽しくて笑いが絶えない。
口の中が甘酸っぱい幸せで満たされていた。
彼といると、いつだって元気がもらえる。
心が温かくなる。
そして苦しくもなる。
彼を想うと心が押し潰されそうになる。
だけど、それが心地良く感じてしまう。
楽しい気持ちも辛い気持ちも、麗牙を想うだけで等しく満たされた気持ちになってしまう。
自分でも何を言ってるのか分からないくらいに反し合う感情だけど、それらが矛盾せずに間違いなくアタシの中に生きていた。
こんな気持ちになるのは初めてだけど、これだけは確かだって言えることがあった。
──アタシは……麗牙のことが好き。
十七歳にして、アタシにとって初めての恋だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
満足に視界を確保できない雨の世界。
太陽は雲に閉ざされ、雨は時として姿を眩ませる一種の闇となる。
そんな蠢く闇の中で、一人の異形が牙を剥いていた。
「シャァッ!」
「っぐ──」
傘を突き破り、一人の男の背中に二本の吸命牙が突き立てられた。男の色彩がじわじわと消滅していき、やがてその場には男の衣服と、そして破れたビニール傘が置き捨てられていた。闇とも見紛える雨の中で、その凶行に気づける者は誰もいない。
「ふふ……」
男のライフエナジーを食らった異形は満足げに雨の中を歩き出した。
その時だった。
「……誰だ」
異形の前方からゆっくりと影が迫ってきた。
雨の中で姿形がよく見えなくとも、異形にはそれが人間でないことは分かっていた。
不気味に雨に打たれながら揺れ動く影に、異形は警戒の姿勢を崩さない。
単に相手が得体の知れない存在という理由だけではない。
本能が、身体が己自身に危険だと訴えていたからだ。
そして、目の前の影が声を発した時だった。
「俺の手下になれ」
「何ッグオオッ!?」
影の手から何かが勢いよく飛び出して、異形の全身を縛り上げたのだ。異形を束縛するそれはボロ切れのようにも白い包帯のようにも見えたが、突然の攻撃に動揺した異形にはそんなことに気を向ける余裕はなかった。異形は暴れまわって包帯を引きちぎろうとするも、その見た目以上の頑強な布を、人知を超えたはずのファンガイアの腕力でさえ破ることはできなかった。そして……。
「ふっ」
「なっ、ガァッ!? ァガァァァァァ!!」
影の体から飛び出した何かが、異形の顔に張り付いた。
目と口を縫い合わせられた──まるでゾンビのような不気味な仮面を付けられた異形は空が割れるような悲鳴を上げ、水溜りが出来た地の上を激しく転げ回っていた。
「ァァァ──」
しかし叫んでいたのが嘘のように途端に静かになり、異形は地の上で倒れたまま動かなくなってしまう。無論、ファンガイアは死する時にその身体が砕け散るため、実体が残るのは生きている証である。そして、仮面が張り付いたまま死んだようにぐったりと力無く倒れ臥していたファンガイアの身体がゆっくりと動き出した。
「ァ……ガ……」
ふらふらとゾンビのように力無く起き上がった異形は、先程自分を襲った影の元へと近付いていく。しかし異形は影に襲いかかることはなく、その影の前で人形の如く立ち尽くしていた。
「俺たちのために働いてもらおうか、ファンガイア」
雨に隠された影の姿が、雷によって露わになる。全身を包帯で巻かれ、異形に張り付けたのと同じ奇妙な仮面を身体の至る所に縫い付けられた、ミイラのような悍ましい姿の怪物であった。自身や仮面の頭部に供えられた薔薇の花が豪雨の中でも青く輝いていた。
「ははは……」
異形を──ファンガイアすらも意のままに操る本物の怪物は、薄く笑みを浮かべながら雨の中へと消えていった。