広い聖堂の中では外の豪雨の音が激しく轟くはずだった。しかし煉瓦やガラスを叩く雨の音は、聖堂で奏でられる荘厳なパイプオルガンの音によって打ち消されていた。陽が差し込まないためにステンドグラスはその真価を十二分に発揮出来てはいないが、オルガンの重厚な音色で満たされた空間の中は、外とは隔絶された聖なる空間へと成り代わっていた。
「……さて、燐子はまだもう少し時間あるかな?」
これほどの雨では礼拝者がいなくても仕方ないだろうと踏んでいたアゲハは、予想通り聖堂の長椅子にたった一人座る燐子の隣へと腰をかけた。燐子も、隣にちょこんと座る小さな少女が今しがたあの巨大なパイプオルガンを演奏していたとは未だ信じられず、アゲハへと尊敬の視線を送っていた。
「アゲハさん……やっぱりすごいです……あんな大きな音を出す楽器……なんの躊躇いもなく弾けるなんて……」
「そんな凄いことじゃないよ。燐子も弾いてみればいいよ」
「そ、それは……パイプオルガンって……ピアノとは違うって聞くし……わたしには……ちょっと厳しいかも……」
「まあ確かに、管楽器だしねパイプオルガンって。ピアノと同じように弾くと違和感が半端無いもん。でもさ、こういうことにチャレンジしてみるのもいいことだと思うよ」
「チャレンジ……」
アゲハの言葉に、燐子は以前に学校の様々な部活を体験した記憶を思い出す。新しいこと避けようとする自分を克服するため、いろんな仲間の協力があって始めた体験入部。結局は部活に入ることは無かったが、彼女の中で一つの結論が出たことは間違いなかった。
「あの……それなら今度……ちょっとだけ……迷惑がかからないなら……」
「うん、大丈夫だって。流石に今日はダメだけど解放できる日はあるからさ、その時にやってみてよ」
「はい……ありがとうございます……アゲハさん」
体験入部の果てにとある挑戦を決心した燐子。今の彼女であれば、アゲハの誘いにも乗ることはできた。尤も、肝心の挑戦というが二ヶ月も先の話となるため、その結果次第では彼女は再び元の臆病な白金燐子に戻ってしまうのだが……。
「……」
「どうしたの? 燐子?」
しかし二ヶ月後に控えた挑戦……正確には再挑戦を心の中で思った時、どうしても彼女の中には恐怖が湧き上がってしまうのだ。顔に表れた恐れの感情をアゲハに問われ、燐子は恐る恐るその事情を縷縷として語った。
「あこちゃん以外には……まだ話していないんですけど……わたし……ピアノのコンクールに……出ようと思うんです……」
「コンクール! いいじゃん! 私応援するよ! で、それっていつなの? 私も見に行きたいなぁ」
「今から二ヶ月後です……でも……」
燐子の挑戦、それはピアノのコンクールへの出場であった。過去にも同じようなコンクールに出た経験のある燐子が、今再び出場するという報告にアゲハは顔を綻ばせるが、燐子の暗くなる表情を見てそれが単なる挑戦ではないことを感じとっていた。
「わたしが小さい頃……最後に出たコンクールで……緊張して……ちゃんと弾けなくて……」
「それって、もしかして今回出るのと同じコンクール?」
「はい……」
そして燐子は再び語り始めた。かつてコンクールの大舞台に立ち、今までに見たことのないほどの数の観客を前にして、彼女は今まで通りに演奏することが出来なかった。初めて目の当たりにする有象無象の客の顔。初めて感じた演奏することへの恐怖。自分のいる空間全てが未知の恐怖で覆われ、幼き燐子はピアノを奏でることが出来なくなってしまった。それ以来、人前で演奏することの恐怖に囚われた彼女はピアノの舞台に立つことは無くなってしまったのだと。
「でもさ、もう一度挑戦する気になったんだよね。それって凄く勇気のいることだと思うよ」
燐子が辛そうに話す過去にアゲハも同様に表情を曇らせるも、アゲハは燐子が過去の失敗に対して再挑戦することに強く感心を抱いていた。過去を振り返ってそれでも進むことは誰にだって出来ることではないと、そう思っていたからだ。
「それだけじゃないんです……」
「え……?」
しかし、アゲハの励ましにも関わらず燐子の顔は一向に明るくならない。そもそも燐子にとっての過去のトラウマとは、コンクールの失敗以上の意味を持っていたからだ。
「それだけじゃないんです……ピアノすら……弾けなかったんです……わたし……。あの時は……それが本当に辛かったんです……」
「ピアノすら……?」
そして燐子は、「アゲハさんになら」と静かに自身の心底を語り連ねた。
「わたし……昔、好きだった男の子がいたんです。今でも思い出せる……わたしの初恋でした……わたしのピアノのことも応援してくれて……だけど……」
「……」
「わたし……あの子のこと凄く傷つけて……それがずっと忘れられなくて……思い出すのも辛くて……それで、あの子のことを思い出すものを出来るだけ……遠ざけようとしたんです……」
アゲハは燐子の言葉を噛み締めながら静かに聞いていた。過去を語る燐子の痛々しい表情を見ているだけでも辛かったが、それが彼女にとって必要なことなのだと自分を律して聞きに徹していた。
「でも、ピアノだけは……ダメでした。どうしても辞められなかった……大好きなピアノ……それだけはずっと……続けてきたんです……なのに……っ……」
「捨てることが出来なかったピアノすら、コンクールを前にして満足に弾けなくなった」
「はい……」
最後の言葉が出てこなかった燐子に代わり、アゲハは言葉を繋げてあげた。アゲハの思い通りの展開であり、二人の顔は揃って重たいものとなっていた。好きな人を傷つけ、好きなものを捨て、それでも残ったピアノすら自分から逃げてしまった。そもそもの発端が彼女の罪故なのかそうでないのか分からないが、その後のどうにも上手くいかない彼女の人生を思った時、アゲハは人間が信仰する神とやらを恨むしかなかった。
しかし彼女の物語はそこで終わってはいない。長い月日の果てに、彼女は再びその舞台に立とうとしていたのだから。
「それでも、燐子はまたコンクールに出ようって思ったんだよね。どうして?」
「それは……今回のコンクールを演りきれたら……わたしは変われる……今度こそ新しい自分になれる……怖いけど、そうなりたいって思うようになったから……」
今の彼女は一人ではない。支えてくれる人たちが側にいるから、彼女は先に進もうとする意思を手に入れられたのだ。
「Roseliaに入らなかったら……きっとコンクールも……参加しなかったと思うんです」
美しく強かに咲き誇る青薔薇。その一部である彼女もまた強くあろうと願い、再び咲き誇る覚悟を決めようとしていた。燐子がコンクールに出場するきっかけとして、先ず一つはRoseliaの存在がある。そしてもう一つ……。
「それに……わたし……一つだけ取り戻せました……わたしの好きな……音楽を」
「ふ〜ん……当てていい? 多分、麗牙が関わってるでしょ」
「えっ? どうして分かるんですか……?」
「あっははっ。ううん、全然分からないよ。でも強いて言うなら……女の勘、かな?」
「女の勘……」
可愛らしくウインクしてアゲハはしたり顔で彼女を見据えていた。幼い頃にかの少年を傷つけた燐子はかつて好きであった「ブルースカイ」を遠ざけていた。だがそんな彼女を再びその道に戻してくれたのは、他ならぬ麗牙であった。
「麗牙さんは……わたしに言ってくれました……誰にも音楽を聴く権利はあるって……耳を塞ぐだけだったわたしに……もう一度あの音楽を……思い出させてくれました」
少し強引に自分を引き込んだその時の麗牙を思い出して、燐子は薄く微笑んだ。もう二度と聴くことのない、聴くことのできない、そう信じてた彼女の壁を壊してくれた彼が、燐子にはとかく眩しく見えていた。
「彼のおかげで……取り戻せないと思っていたものが戻ってきた……だから思うんです……次のコンクールも成功させられたら……また一つ……わたしは進めるんだって……」
燐子は胸の前で両手を握り合わせ、想いを強く抱いていた。コンクールに再挑戦し成功させる。それは自分が前に進む以上に、彼女に更なる勇気を与える予感がしていたからだ。
「そして……その時なら、わたしはもう一度あの子に会える……そんな強い自分になれる気がするんです……」
失ったものを取り戻した時、自分は変われるのだと燐子は強く信じていた。コンクールで成功させるという厳しい前提があるが、それでも燐子は前に進むことを諦めたくなかった。諦めたなら、それは今までの自分と同じ……Roseliaに出会う前の自分に戻ってしまうということだから。燐子は、自身のひた向きな思いの丈をアゲハにぶつけていた。
「っ、ごめんなさい……わたし、一人で勝手に話して……」
「ううん。燐子、やっぱり凄いよ。今の自分が嫌でちゃんと変わろうと思ってるし、今も実行しようとしてる。普通の人は怖くて出来ないこと、燐子はやろうとしてるんだもん。凄いよ本当に」
「そ、そんなに褒められると……」
「いいや褒めたいっ。目一杯褒めてあげる! きゃー! よしよしっ」
「っ……恥ずかしいです」
アゲハはその小柄な身体で燐子に抱きつき、細く小さな手で燐子の頭を撫で回していた。自分より小柄な少女に褒められるように頭を撫でられる経験は初めてのことであり、嬉しくはあるが恥ずかしさから燐子の顔はみるみると紅葉していった。
アゲハもまた、燐子の強い意思に心から感動していた。ファンガイアの秩序を守る者として数多の同族を見てきた彼女にはよく分かるのだが、変わろうとして変われるものはほんの一握りでしかない。時代と共にファンガイアの在り方もまた変化していかなければならないのだが、古いしきたりに縛られて変化することを拒絶する者が多いのが現状である。
人は変わることができる。ファンガイアだって変わることができる。そうアゲハたちが信じてきて裏切られたことは百回などでは足りない。だからこそアゲハは思う時があるのだ。いつだって本当に強いのは、変わろうとする意思のある者なのだと。そして他人の変化を受け入れられる者なのだと。故に、自分から己を変えようとする燐子の姿が、アゲハにはとても尊いもののように感じていたのだ。
「燐子って強いなぁ。ねぇ、TETRA-FANGに入らない?」
「い、いえ……それは……ごめんなさい……わたしはRoseliaのメンバーなので……」
「あっははっ冗談だって。ホント可愛いなぁ燐子は。でも燐子って案外さ、麗牙のこととか気になったりしてないの?」
「気になるって……?」
「う〜ん……恋したり、とか?」
「こ、こここ恋って!?」
突然のアゲハによる恋バナによって燐子の頭は沸騰寸前になる。今現在誰かに色恋沙汰があるわけではないが、自分にとってのそれは触れるにはあまりにも未知の領域であり、そして恐ろしいものだと感じていたからだ。
「ら、麗牙さんは……とても素晴らしい人だと思います。優しくてカッコよくて……わたしなんかと友達になってくれるのが……不思議なくらい。彼と一緒にいると楽しいです……心が安らいで……心地良くて……でも……この気持ちが恋とは……思いたくないです……」
「思いたくない?」
「わたし……恋はまだ怖いんです……あの子のこともありますし……」
苦い初恋の記憶を思い出して燐子の興奮は覚めてしまう。かつての初恋の結末を思い返すと、どうしても再びそれに触れることに恐怖を覚えてしまうのだ。人を好きになること、愛すること、それが素晴らしいことだと頭では考えることが出来ても、一度抱いたその気持ちを自分は拒絶という形で裏切ってしまった。その後悔が今でも彼女を捕らえて放さなかったのだ。
「だから……今のわたしに……恋はできません……少なくとも……今はまだ……」
消えるような小さな声で燐子は零した。しかし「今はまだ」と自身で告げたように、燐子はその恐怖がいつか消えることを望んでいた。きっと今彼女の抱えている恐怖は、コンクールの成功と共に消えるのだろう。そうアゲハと燐子が同時に考えていたことなど、彼女たちは知る由もなかったが。
「じゃあ、まずはそのコンクールを成功させないとね。私、精一杯応援するからっ」
「はい……ありがとうございます」
目の前で小さな勇気を掲げて大きな挑戦に臨む友の姿を見て、いつしかアゲハは可能な限り燐子のことを支えていきたいと願うようになっていた。
彼女が自身のトラウマを克服できるように。
新しい自分に変身できるように。
幼い頃の初恋の相手に出会える勇気を得られるように。
その相手が自分の主君であることなど露知らないアゲハは、そこに横たわる茨の道に気付かないまま燐子の進む道を応援することを心に決めたのだった。
次回、篠突く雨の中で迫る影。そしてアゲハの真の姿が……?
「第46話 燐を纏いし姿:Eternity Blood」