ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

53 / 168
『突如現れたマミーレジェンドルガを迎え撃つキバ。しかし彼の想像を上回る力を発揮するマミーはキバの身体を軽々と吹き飛ばしてしまう。どうなる! キバ!』


第52話 不協和音

 マミーの攻撃により吹き飛ばされ、壁に打ち付けられるキバ。衝撃で壁が崩れ落ち、土煙が舞い上がりキバの姿が完全に見えなくなる。

 

「紅さん!!!!」

 

 想い人の生命を案じる紗夜の悲鳴が轟く。

 

 しかし煙の向こう側から返事はなく、ただ瓦礫の崩れていく音が無残に響いていくのみであった。

 

「もう終わりか? なら俺は……こっちの人間でも使わせてもらおうか」

 

「ひっ……!?」

 

 マミーは紗夜へと目を向けると、その足を踏み出そうとする。異形の纏う凍てつくような空気が紗夜の身体を遅い、恐怖から小さく悲鳴を上げてしまう。キバのいない今、自分を守ってくれる存在はいない。しかし紗夜は後退りしながらも、それでも必死にその人の姿を求めるしかなかった。

 

 自分が恋してしまった、紅色に染まる青年の姿を。

 

「っ……(紅さん……!)」

 

 麗牙を求める紗夜の心の叫びが雷鳴と共に轟いた瞬間、更なる声が一面に響いた。

 

 

 

 

『ドッガハンマー!』

 

 

 

 

 重厚な管楽器の調べが雷鳴の如く響いた瞬間、瓦礫の山が噴火を起こし、その中から紫電と共に新たな影が姿を現した。

 

「ムッ……」

 

「っ、あれは……」

 

 現れたるは紫、重厚な闇の色。全身を紫色に染め、片手で巨大な大槌を引きずりながら空の元に帰ってきたキバ──ドッガフォーム。初めて見るキバ第四の姿に、紗夜は安堵と共に更に気を引き締めて唾を飲み込む。

 豪腕の戦士へと変身したキバは、地面から火花を飛び散らせながら紫の鉄槌を引きずりつつマミーに向けてゆっくりと前進していく。闇の如く静寂を保ったままただ歩を進めるだけの紫の影にマミーは警戒し、再び攻撃を再開する。

 

「フンンンッ!」

 

「きゃっ!」

 

 マミーの身体から閃光が走り、キバの周囲で爆発が巻き起こる。無論キバの身体の表面でも激しく爆発が起こり、眩しい火花と爆炎でその姿が見えなくなる。短く悲鳴を上げて両手を胸の前で組んで握りしめ、キバの無事を祈る紗夜。マミーは先ほどよりも威力を上げた攻撃ということもあり、目標が黒焦げになっていないか期待していた。

 

 しかし……。

 

 

 

「……」

 

「なっ……!?」

 

 煙の中から、先程までとまるで変わりない歩調で歩き続けるキバが現れる。その紫の身体には傷一つ付いておらず、マミーは息を飲み、紗夜の顔には薄らと安堵の笑みが浮かんでいた。魔鉄槌──ドッガハンマーを引きずりながらジワジワと距離を詰めていくキバを、マミーが許すことはない。

 

「ッ、ハァァァァッ!!」

 

 先ほどキバを吹き飛ばした無数のミイラの布を身体の周囲に浮かばせ、マミーは一斉にキバに向けて攻撃を放った。一枚一枚が毒蛇のように鋭くキバの身体に食らいつくように迫り、その身体で爆発を起こす。最初こそ歩き続けるキバであったが、際限なく続く攻撃の前に僅かに進む足が止まってしまった。

 

「グゥ……」

 

「(今だ)フンッ!」

 

 キバの進む足が止まった一瞬をつき、マミーはその腕からキバを拘束するための布を放った。二度も喰らうわけにはいかないとキバは身体を僅かに逸らして躱そうとするも、動きの遅いドッガフォームではそれは叶わず、紫色の籠手が装備された左腕がマミーの布に絡め取られてしまった。キバの全身を捉えられなかったことにマミーは舌打ちするも、再びキバを捉えたことには内心ほくそ笑んでいた。まだまだ痛ぶりがいがありそうだと、嘲笑いながらキバに絡ませた布を引き寄せようとした。

 

「ッ! ……ッグ!? な、何っ!?」

 

「……」

 

 しかしマミーが幾ら力を込めようとも、キバの身体がピクリと動くことはなかった。ドッガフォームへと変身したキバは、他の三つの形態と比べて最も重く、腕力もそれらを凌駕していたのだ。今のキバに力を与えているのはフランケン族のドッガ。ファンガイアすら恐れるほどの力を持つフランケン族の力を有した今のキバを止められる存在は数少ないだろう。

 

 そして、キバの反撃が始まった。

 

「フゥンン!!」

 

「ゥオオッ!?」

 

 拘束された左腕を思い切り振るい、逆にマミーを自身の元へと手繰り寄せた。突然の衝撃に耐えられることもなく、マミーは勢いよくキバの元へと飛んでいく。

 

「ゥガァァァッ!!」

 

「グファァァアッ!?」

 

 マミーと接触する瞬間にキバは紫の鉄槌を振りかぶり、その巨大な塊をマミーの身体へと叩きつけた。人間ならいざ知らず、下手な異形ですら一撃で生命が終わる魔鉄槌の一撃。それを全力で放たれ、マミーはその身体を大きく吹き飛ばされていく。

 地面と衝突し激しく転がっていくマミーを眼下に見据え、キバはチャンスとばかりに魔鉄槌の真髄を起動させた。

 

『ドッガバイト!』

 

 ドッガハンマーの持ち手をキバットに咬ませ、大槌全体にアクティブフォースが注入される。キバが拘束を解かれた左手を翳した途端、周囲を紅の濃霧が包み込み、光が失せて闇夜が訪れた。キバの周囲に朧雲が形成され、音を立てて激しく紫電が走る。そんな彼の背後には満月、否、薄く滲んだ朧月が浮かんでいた。

 

「ッグ……」

 

 ようやく立ち上がろうとするマミーに向けてキバはドッガハンマーの封印を解くための調整具──カテナウインチを緩め、拳型の槌──サンダーフィンガーが開いていく。拳から五本の紫の指を全て解放した時、その掌から真実の目──トゥルーアイが解放される。

 

「ッ!? ッグオっ!? (う、動けん……!?)」

 

 トゥルーアイから放たれる強烈な魔皇力がマミーを襲い、その身体を拘束する。これまで散々標的を拘束してきたマミーも、まさか敵によって身の自由を奪われるとは思いもしなかっただろう。いくらもがこうとも力が入らず、マミーはただ目の前で行われる攻撃を眺めることしかできなかった。

 

 そして再び五指が閉じられたドッガハンマーから、巨大な紫電の拳──ファントムハンドが形成される。落雷のエネルギーをその拳に宿した圧倒的な破壊の力がキバの元に集まる。

 

「グゥゥゥゥウ……!」

 

 目の前で己を襲うであろう暴力の化身が生み出されているにも関わらず、逃げることも出来ないマミーはその布に隠された奥歯を噛みしめる。

 

 キバも、動けないからと決して手心を加える気はない。全力で目の前の脅威を叩き潰す、それしか考えていなかった。

 

 そしてキバは鉄槌を振るい、紫電を纏いし幻影の拳をマミーへと振りかぶった。

 

 

 

「ゥガァァァァァァァアアア!!」

 

「ゥオオオオオオオオッ!!」

 

 

 

 

 ドッガ・サンダースラップ──雷の鉄槌がマミーの身体を押し潰した。

 

 大地が激しく揺れ、拳の着弾地から土煙が舞う。

 

 手応えはあった……そう感じたキバであるが、本能が彼に安堵を与えることはなく、未だ警戒心を保ちながら煙の中へと意識を向けていた。

 

 そして煙が晴れ、その先の景色が明らかになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ッグ……」

 

 煙の中に、一人の異形の姿が健在しているのをキバと紗夜の眼は捉えていた。驚愕で二人の口から大きく息を飲む音が聞こえる。

 

「ッ(まさか……)」

 

「嘘……」

 

「ふッ……はは……こ、ここまでとはな……他種族の力を身に纏わせるのか、今のキバは……はは、イかれてる……」

 

 身体は震え、各部に痛々しい生傷が顔を覗かせ、更に節々から煙が立ち込め、もはや立つことすら困難であると思わせる風体であるにも関わらずマミーは健在していた。間違いなくマミーの身体には大きなダメージが入っていたが、マミーはそんな自身の状態も厭わず嘲るように笑い続けていた。

 キバもまたマミーの生存に戦慄していた。今のキバが変身できる四種の姿のうち、最も破壊的な攻撃を彼は放ったはずだったのだ。動きを止め、抵抗すら出来ない状態での紫電の一撃。そんなドッガフォームのトドメの一撃を耐え抜いた存在を彼は今まで見たことがなく、故に目の前の唯一の生還者を恐ろしく感じていた。

 

「ははは……ぅぐッ……少し手を出しすぎたか……。また会おう、キバ」

 

 マミーはこれ以上の戦いを不利と睨んで撤退を図った。キバの一撃を喰らったとは思えないほど俊敏な動きでキバから離れるように駆け出すマミー。無論、それを見ているだけのキバではない。彼の体が紫色から紅色へと変化し、彼の隣に紫色の巨大な怪物──ドッガが出現する。二人して追いかけようとしたその時、キバの身体が僅かに揺れた。

 

「待っ……っぐ」

 

「麗牙っ?」

 

「紅さん!?」

 

 足を踏み出そうとした瞬間、胸を押さえて苦悶の声を上げるキバ。ドッガと紗夜は思わず麗牙の方へと視線をやり駆けつける。ドッガの姿はフランケン族のそれから力へ──人間の姿へと変え、普段無表情の彼からすれば珍しく、心配するように眉をひそめていた。しかしそんな力にも麗牙は構わず声を張り上げる。

 

「いいからっ……追って! 力!」

 

「……分かった」

 

 キバに先ほどの異形を追うよう指示され、ゆっくりと重く返事をして力はマミーの逃げ去る方へと駆け出していった。力の後ろ姿が見えなくなったところでキバは変身を解除し、麗牙の姿へと戻る。

 

「っ……はぁ、はぁ……っつ……」

 

「紅さん! 大丈夫ですか!?」

 

 変身を解いた途端、抑えていた全身の痛みが彼に襲いかかってくる。腕で自分の身体を庇い荒く息をつく麗牙を見て、紗夜は迷わずその身体を支えるように彼の腕を取り、自分の肩に回した。自分の意思ではないが、自分より小さな少女に肩を貸されている状況が何とも情けなく感じ、麗牙は苦笑気味に紗夜に話しかける。

 

「ごめんなさい、紗夜さん。なんか、カッコ悪いところ見せちゃって……」

 

「格好なんてどうでもいいですからっ。とりあえず、あそこに腰を下ろしましょう」

 

 紗夜は麗牙を並木の植えられている段差の前まで連れていき、そこへ彼をゆっくりと座らせて自分もその隣へ腰をかけた。深く息を吸って呼吸を落ち着かせる麗牙を紗夜は注意深く観察する。あれ程激しく吹き飛ばされていたのだ。怪我をしていないはずがないと、紗夜は不安で潰れそうになる自分を押さえて麗牙の身を案じていた。

 

「紅さん、先程から胸を押さえてましたけど……やはりここが痛みますか?」

 

「はい……いッ!? ……結構派手にやられましたからね。あはは……」

 

「笑い事じゃないでしょう……」

 

 紗夜に不安を掛けたくないのか、麗牙は無理にでも笑顔を作り出そうとする。紗夜もまた麗牙の痛々しい笑顔が辛く感じていた。辛いなら辛いって言ってほしい。笑ってないで、もっと自分に弱みを見せてほしい。そう紗夜は願うも、多少なりとも男としてのプライドを持つ麗牙にはとっては簡単な話ではない。

 

「ごめんなさい……あなたがこんなにも傷付いているのに、私、何も出来なくて……」

 

「そんなっ。肩、貸してくれたじゃないですか。それだけで十分です」

 

「(どうしてそこまで強がるのよ……)」

 

 あんなものは助けたうちに入らない、と紗夜は心の中で謙遜する。彼女の心は悔しさで溢れていた。あの雨の日、彼は悲しみの中に沈む自分を助けてくれた。それなのに自分は彼の助けにはなれない。それが悔しくて仕方がなく、紗夜は耐えるように奥歯を噛みしめる。

 

「胸だけではないのでしょう? 他にどこか痛みませんか?」

 

「いえ、他は特に大丈夫ですよ。それに、胸の痛みもだんだん治ってきましたし。これでもファンガイアですし、紗夜さんが思ってるより身体は丈夫なんですよ」

 

 麗牙はまたも笑顔を見せて自身の無事をアピールする。身体を動かすたびに口の端が歪むのが紗夜の目にも見えており、彼が無理をしているのが分かってしまっていた。やはり彼は自分に弱みを見せないようにしているのだと紗夜は思ってしまう。弱みを見せてくれないということは即ち、まだ自分は彼に信用されていないのだと、そう痛感して紗夜は更に心を曇らせていく。

 

 故に彼女は考えてしまう。

 

「(私では……紅さんの支えにはなれないの……?)」

 

 それを口に出せば間違いなく麗牙は否定するだろう。しかしそれが本心なのか、紗夜を悲しませたくないがために語る出任せなのかは判断が付かない。初めて彼の苦悩を知った時から、ずっと麗牙の支えになりたいと思い続けていた紗夜。しかし現実は虚しく、彼女は未だ彼の助けとなることが出来ていないと感じていた。

 

「(今井さんなら……あなたの助けになるというの……?)」

 

 それどころか抱いた慕情をどんどんと募らせて、友人であるはずのリサに対しても黒い感情を抱いてしまうほど変わり果ててしまっていた。抱いた想いに対してもはや紗夜自身ではどうにもならず、肥大化していくそれは彼女の身体から溢れ出そうとしていた。

 

 そして……。

 

 

 

 

「ごめんなさい紅さん……こんな時にですけれど、どうしてもあなたに聞きたいことがあるんです」

 

 彼女の迸る熱い想いもまた、その身体を突き破ろうとしていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 聞きたいことがあると僕に告げた紗夜さんは、腰の位置を動かして僕へと身体を近づける。そして僕の眼を真っ直ぐ見つめながら、その柔らかそうな桃色の唇を動かした。

 

「私……先ほど見てしまいました……今井さんが……あなたに告白するところを……」

 

「っ……」

 

 紗夜さんの言葉に驚いて軽く肩が跳ね上がってしまう。まさか、紗夜さんにあの瞬間を見られたというのか……知り合いに見られていたとはまるで予想だにせず、僕は息を飲んだまま彼女の眼を見たまま固まってしまう。いや、たとえ見られていたしても何故今なのか。リサさんが去ってから紗夜さんが僕の前に現れるまで大分時間があったはずなのに……。

 

「私は……その……紅さんがなんて答えたかまでは聞き取れませんでした……あなたは……何と答えたのですか?」

 

 痛いところを聞かれてしまったと苦笑するも、その質問を投げかけた紗夜さんの顔があまりにも鬼気迫るものだったためにその表情を引っ込めさせる。先ほど僕の元に走ってきた時のように眉をひそめ、不安そうに口を震わせる紗夜さん。またも先の弱々しい彼女の姿を見てその泣きそうになる顔に手を添えたくなる。しかしその衝動を押さえて、僕は事の顛末を彼女に告げた。

 

「それが……何も言えなかったんです。言おうとした言葉が全然口から出なくて……だから、リサさんには答えを待ってもらうことになって……」

 

 自分で言っていて情けなくなるが、それが事実なのだから仕方がない。僕を待つと言った不安そうなリサさんの表情を思い出して後ろ髪を引かれる思いがし、紗夜さんに説明する言葉も歯切れが悪くなってしまう。

 

「……なんと言おうとしたのですか? 紅さんの答えは……もう決まっていると……?」

 

 もちろんそんな歯切れの悪い説明で紗夜さんが納得するはずもなく、核心を付いた言葉を僕に投げかけてくる。紗夜さんには言ってもいのだろうか。僕が抱いた気持ちを……僕の抱く困惑を……。健吾さんやアゲハにならばすぐにでも語れるだろうが、紗夜さんに対して僕の苦悩を託してもいいのかと心が待ったをかける。

 

 本当にいいのだろうか……彼女に僕の気持ちを教えても……。

 

 その葛藤から視線を逸らそうとするも、彼女は僕のことを逃がしはしない。

 

「教えてください……私は……あなたの気持ちが知りたいです……」

 

 瞳は震えているが、僕に向けるその眼差しは真剣そのものであった。

 

 そこに抱く気持ちは分からない。

 

 紗夜さんの音は、今も激しく荒れ狂っていたから。

 

 そして、折れてしまいそうなほど、か細くもあったから……。

 

 しかし、彼女が覚悟を抱いていたのが伝わってきた。

 

 絶対に僕をここから逃がさないと、僕の気持ちを知りたいという強い覚悟、それだけははっきりと感じていた。

 

 だから僕は、意を決して彼女にも伝えた。

 

 僕が、リサさんに対して想っていたことを……。

 

 

 

 

 

 

「……僕は……リサさんが好き、です」

 

 

 

 

 

 

「っ!!」

 

 瞬間、僕たちの上空で雷鳴が激しく轟いた。

 

 それと同時に、僕の目の前の少女の胸からも同じような音が聴こえてきた。

 

 ガラスを割るような、楽譜を引き裂くような、激しく耳に劈く痛々しい音が。

 

 息を飲み、目を大きく見開いて僕を見つめる紗夜さん。

 

 今まで見たことのないほど衝撃を受けたような、まるで信じられないものを見たような、悍ましさを孕んだ表情を僕に向け彼女は震えていた。

 

 今すぐにでも耳を塞ぎたくなるような悲痛な音楽、そして目を覆いたくなるような痛々しい表情。

 

 そんな彼女の様子から逃げるように、僕は先の言葉の続きを紡いでいく。

 

「……なのに、すぐに言葉が出せなかったんです。僕は彼女が好きだったはずなのに、答えが出せなかった。それが何故なのか、今も分からなくて……」

 

「…………」

 

 紗夜さんの様子は変わらない。当たり前だ、僕はただ自分の気持ちを話しているだけなのだから。彼女のことを助けようだなんてしていないのだから。僕は依然として紗夜さんの音楽から逃げながら、ただただ自分の言葉を紡いでいく。

 

「僕は……本当にリサさんのことが好きなのか……分からないんです……」

 

「…………」

 

 やめて……そんな顔をしないで……そんな音を奏でないでくれ……。いくら心の中で願っても、紗夜さんの音楽は変わらない。僕の心すら抉るような痛々しい金切り声のままだ。何故? 何が貴女を苦しめるんですか? 自身の心すら分からない今の僕に紗夜さんの気持ちなんて読めるはずがなく、焦りと恐怖から喉の奥が乾いていく一方だった。

 

 その時、ようやく紗夜さんの声が僕の耳に流れてきた。

 

「答え……決まっていないのですよね……」

 

 ゆっくりと俯いて、表情が隠れたまま紗夜さんは僕に問いかける。心で痛々しい音楽を奏でているとは思えないほど、澄んだ綺麗な声だと感じてしまう。そんな彼女にも僕はただ一言「はい」とだけ頷き、その場に居座り続ける。どうしてこういう時に限って先ほどみたいに彼女に触れられないのだろうか。そう自分を責めるも、そんなことで今の紗夜さんが満足するはずはないのだろう。

 

 彼女の前髪が下され、その綺麗だった瞳が完全に隠れてしまう。

 

 唯一、肩と同じように口が震えているのが見えていた。

 

 細かく震え、息を荒げるその様子だけでも彼女が無理をしていることが分かってしまう。

 

 だけど僕は動けない。動かない。

 

 何故なら、彼女の方から僕へと近づいていたから。

 

 ゆっくり立ち上がり、僕のすぐ目の前に来た紗夜さんは、その細い手で僕の手を優しく掴んだ。

 

 そして……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私では……いけない……でしょうか……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「え……」

 

 先ほどのリサさんの言葉を聞いた時と同じように、僕の身体は縛り付けられたように固まってしまう。

 

 私ではいけない……その言葉の意味を理解しようとして、しかし心が拒否してしまう。

 

 なぜなら、もし僕の考えようとしていることが正解なら、僕はとんでもないことを彼女に話してしまったことになるのだから……。

 

 彼女の心を傷付けたのは、紛れもなく僕だということになってしまうから……。

 

「……」

 

 僕は何も言えず、ただ俯く彼女の前髪だけを見つめ続ける。

 

 そんなまさか……そうであってほしくないと願うも、僕に触れて震える彼女の様子を見てその予想がどんどん確信へと変わっていってしまう。

 

「紗夜さん……貴女は……」

 

 僕の問いかけに、優しく僕の手を掴んでいた紗夜さんの手の力が強くなる。

 

 彼女の身体の震えは一向に止まる気配を見せない。

 

 そして紗夜さんが顔を見せたその時だった。

 

 

「っ?」

 

 

 紗夜さんは僕の手を手繰り寄せた。

 

 

 僕を自身の元に引っ張り、そして彼女自身も僕へと迫る。

 

 

 僕の眼には、紗夜さんの小さな顔が近づいてくるのが映っていた。

 

 

 まるで現実味がない光景で、映画のワンシーンを見ているような感覚を抱いてしまう。

 

 

 白くて綺麗な顔だと、ふとそんな感想を抱いてしまうほどには……。

 

 

 しかし次の刹那──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──唇に、柔らかな感触が……温もりと共に溶けるように訪れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ……!?」

 

 

 一瞬だったのか、長い時間だったのかは分からない。

 

 

 気が付けば、唇から温もりは消えていたのだから。

 

 

 僕は今、何をされた……?

 

 

 紗夜さんの顔が迫った直後、唇に何かが触れていた。

 

 

 柔らかで甘く、温かな……今まで感じたことのない体験が訪れていた。

 

 

 いつの間にか僕から離れていた紗夜さんの様子を見ると、彼女は自分の口元へと手を添え、泣きそうになりながら震える手で桃色に熟れる唇をなぞっていた。

 

 

 そして僕は、その答えを導き出してしまう。

 

 

 間違いなく、僕の唇に触れたのは……紗夜さんの……。

 

 

「私も……紅さんが……好き…………好きなんです……!」

 

 

 直後、紗夜さんの泣くような音楽と言葉が僕の胸に深く突き刺さる。

 

 

 言ってしまった……言われてしまった……。

 

 

 予感した時から考えないようにしていたその言葉を。

 

 

 しかし紗夜さんは僕に告げてしまった。

 

 

 リサさんと同じく……僕のことが好きだと。

 

 

「(僕は……なんて言えばいいんだ……)」

 

 

 何か言葉を返さなければと考えるも、リサさんの時と同じく言葉が出てこない。受け入れる言葉も拒絶する言葉も、等しく僕の口から出てくることがなかった。

 

 しかしそんな折、紗夜さんの心の音が大きく変化する。

 

 僕に迫り口づけをし、想いを告げた時のような激しく高鳴る音楽ではなく、初めて僕と出会った時のような……いや、それ以上に酷い豪雨が降りしきる、凍てつくような音楽を彼女の心は奏でていた。

 そして、彼女の様子にも変化が表れていた。

 

「……っ!? わっ……私、は……っ」

 

 いつしか紗夜さんは自分の口元を押さえて、全身を震わせていた。自身の一連の行動が信じられないのか、僕の顔と自身の押さえる手を交互に見やりながら一歩一歩と倒れそうになりながら後退していく。紗夜さんらしくなく感情を爆発させていたと感じていたが、少しだけ冷静になった途端、彼女は自分の行動を思い返して衝撃を受けてしまっていたのだ。

 

「わ、私は……なんて……」

 

 目尻に涙を浮かばせて僕から離れていく紗夜さん。溜めた涙が溢れるのは時間の問題だったが、僕は立ち上がる力も、声をかける気力も湧いてくることはなかった。僕もまた、紗夜さんをどうしたいのかという答えが出せなかったから……。僕はリサさんの時に引き続き、何も行動に移せないままであった。

 

「ご、ごめんなさい……私……私は……っ!」

 

 遂に紗夜さんの眼から涙が溢れ、彼女の白い頬を伝う。

 

 涙の跡が彼女の肌に筋を描く度に、壊れた時計のような酷い音が響いていく。

 

 そして紗夜さんは僕に詫びる言葉を残し、泣きながら僕の前から走り去っていってしまった。

 

「待っ──(待って! 紗夜さん!!)」

 

 彼女を止める声すら僕の口は出してくれない。彼女を追いかける脚すら踏み出してくれない。僕の身体は、もはや僕の意思だけではどうにもならないほどおかしくなってしまっていた。

 

「どうして……」

 

 身体は動かずとも思考は動いてしまう。僕の目の前から走り去った紗夜さんの泣き顔。そして彼女の心から奏でられる、身を裂くような痛みを伴う慟哭の音楽を脳内でリフレインしてしまう。そして同様にリサさんの心で引き鳴らされていた、傷付き不安そうに震える音楽も。二人の奏でる音楽は、僕が聴きたくない最悪の音楽だった。

 しかしきっと、彼女たちの音楽はこれが底辺ではない。僕の答え次第では、二人の音楽はもっと残酷なものに変貌するのだろう。僕がいずれかの答えを出すその時、彼女たちのどちらかは間違いなく傷つき壊れた音楽を奏でることになってしまう。

 

 そのことが……僕自身が誰かの音楽を壊してしまうという事実が耐え難かった。

 

 

 ──もう嫌だ……何も聴きたくない……。

 

 

 脳内で幾度となくこだます彼女たちの音楽に対して、僕はただただ耳を塞ぎ続けるだけだった……。

 

 

 いつしか、僕の肌に冷たい雨の雫が落ちていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。