ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

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『Roseliaとのライブを終えて帰路に付く麗牙と健吾。しかし健吾は麗牙に「燐子とは関わるな」と告げるのであった』

「普通に前回のあらすじ始めちゃったよ……」


第6話 殺人鬼のウワサ

「え……健吾さん? 燐子さんと関わらない方がいいって、どういうことですか?」

 

 僕は一瞬自分の耳を疑った。だってまさか、あの健吾さんがそんなことを言うとは夢にも思わなかったからだ。燐子さんは優しくてすごくいい子で、でもRoseliaの中でも特に引っ込み思案で大人しくて、それこそ昔の自分を見ているようで妙に親近感も覚えたりしていた。だから、わざわざ健吾さんが僕と燐子さんを遠ざけようとする意味がまるで解らなかった。

 

「あ~……まあ、そう言うこっちゃ。別に俺はこれ以上言うつもりはないし、お前も嫌やったらそれでいい。ただ俺が一言言いたかっただけやからな」

 

「でも──」

 

「言うて俺の気の迷いや。だから今言ったことは忘れてくれていいから。まあ確かにあんなかわいい子、麗牙にはもったいないくらいやしな。痛い目見る前に距離とっときや~なんてなっ。あははっ」

 

「──そこまで言うのなら、とりあえず今のはなかったことにしておきます」

 

「悪いな」

 

 結局、健吾さんからは事の真相は聞けずじまいになってしまった。きっと健吾さんには何か考えがあったはずなのに、彼はそれを頑固として口にしてくれなかった。でもやはり、健吾さんが気にするなと言っているわけだから、今のところは僕もそれに準じておこうと思う。健吾さん自身も言いたくない何かがあるのなら、僕はそれを無理に聞き出したくはない。それに燐子さんとはこれからも、よきバンド仲間として接していきたいから。

 

「ごめんな麗牙、なんか変な空気にしてもて。今日もこれから大変やろうけど、何かあったら俺を呼ぶんやで? すぐ駆けつけるから」

 

「別に大丈夫ですよ。次狼やアゲハ、それにみんなもいるし、健吾さんは今日はゆっくり休んでください」

 

「何言うとんねん、俺やって親友やで。『青空』のオッちゃんたちからもお前を守るよう言われてるっつー建前もあるしな」

 

「そうだったね。じゃあ分かりました。もし今日何かあれば真っ先に健吾さんを呼びます」

 

「そうかっ、そりゃよかった」

 

 そうして僕は健吾さんへ別れを告げ、彼は僕に手を振りつつ闇に沈みかけていく街並みへと姿を消していった。それと入れ替わるようにして、僕の背後から声が聞こえてくる。

 

「麗牙……」

 

「次狼、出迎えありがとう」

 

 僕が振り返ると、そこでは無性ひげを生やした堀の深いダンディな顔つきが僕を見下ろしていた。身長は僕と同じくらいだというのに、その溢れ出す年上のオーラのためか、時折僕よりも大きく見えることがあるのだ。普段TETRA-FANGのJIROとして活動するときはジャケットを身に纏った姿を見せるが、今の彼はタキシードを着崩した姿でいた。

 

「そろそろ勤めの時間だ……が、健吾を帰すのが早くは無いか? 聞いているだろう、最近流れてきてる『殺人鬼』の噂を」

 

「そうだね。でも僕なら大丈夫だよ」

 

「はぁ……本来なら油断してると命がないぞと言うところだが、お前なら本当に大丈夫そうだから始末が悪い」

 

「そりゃあ、おかげさまで」

 

 目を閉じて片手で頭を抱える次狼には少し申し訳ないと思うけど、やはり過保護すぎる環境と言うのも最近は苦しくなってきているのが正直な気持ちだ。次狼の世話焼きっぷりはここ数年でどんどん大きくなっている。愛音とアゲハと、それと僕の弁当まで作り始めた時は本格的にお母さんにでもなるのだろうかと疑ったものだ。心配してくれるのは本当に嬉しく感じているけどね。

 

「まあ殺人鬼とやらもそのうち捕まるだろう。行くぞ麗牙。お前にはお前の責務がある」

 

「うん……キングってやっぱり大変だね」

 

「まあそう言うな……だが、歩いてる間くらいは面倒なことも忘れて話すのも悪くない。麗牙、確か今日はRoseliaのライブに一緒に参加してきたんだろう? 少しその話が聞きたい」

 

「もちろん! 前に話したギターの紗夜さんなんだけど、今日はさ──」

 

 そうして、次狼に今日のライブで起こったことを喜々として話しながら、僕たちもまた黄昏の中へと溶けていく。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「麗牙、やっぱり忙しいのかな~?」

 

 CiRCLEでのライブが終了した夕方時、アタシたちRoseliaは打ち上げとしてファミレスに集まっていた。ダメ元で麗牙たちも誘ってみたんだけど、見事にフラれて結局いつものようにアタシたち五人での打ち上げが開催されるに至った。いくらダメ元だったとは言え麗牙たちと一緒できなかったのがちょっと残念で、アタシはさっきからストローでコップの底に息を吹きかけ、ぶくぶくと泡立たせていた。

 

「今井さん、いくら何でもはしたないですよ」

 

「だって~麗牙たち来てくれなかったし~。っていうか紗夜だってガッカリしてるでしょ?」

 

「っ、べ、別にガッカリなんてしていませんっ。彼らには彼らの都合がありますし、それを私たちの都合で振り回すのは彼らにも悪いです」

 

「ええ、本来ならライブにだって来れなかったのよ。それをわざわざこんなことにまで付き合わせる必要はないわ」

 

 こんなことって~……一応は交流が目的でもあるわけだし……。とアタシの心の中の文句に気付くこともなく、友希那は今日の彼らのライブのまとめとしてみんなに質問を投げかけた。

 

「たった一曲だけだったけれど、今日彼らのライブを間近で見られたことは、私たちにとってきっとプラスになるはずよ。いい刺激になると思って提案したのだけど……みんなはどうだったかしら?」

 

「わたしは……すごく……気分が乗ったような気がしました」

 

「あこも自分の『カッコイイ』にまた一歩近づいた気がします!」

 

「やっぱりよかったよねぇ。こんな刺激なら毎日でも大歓迎だよっ」

 

「はい。今回湊さんが提案してくれて本当に良かったと思います。私も一度は、彼のステージをもっと近くで見てみたかったので」

 

 TETRA-FANG……ではなくて今日はDUAL-FANGだっけ。彼らのステージを一番近いところ、ステージの裏側から見られたことに対して誰もが同じ感想を抱いていた。綾野さんのギタータッピングは凄まじくて正直目を回しそうだったし、麗牙の楽しそうに歌う顔が眩しくて、ずっと見てみたいようなステージだった。麗牙は歌っている最中でも綾野さんとよく目を合わせていたけど、時たまステージ裏のアタシたちにもその視線を向けていた。っていうかあんな素敵な笑顔を向けられて照れないわけないよね? アタシ正直何度かドキドキしちゃってたからね。

 

「(でも……やっぱり、ねぇ……?)」

 

 アタシは相変わらず涼しい表情を浮かべる紗夜へ目を向ける。他のメンバーは気づいているか分からないけど、今の紗夜は明らかに麗牙を気にする素振りを見せている。それは他の人が言う「興味を持つ」なんてレベルではなくて、もっとこう踏み込んだレベルでの興味、つまりは好奇心か……あるいは好意を彼に向けている。紗夜にその自覚があるのかは分からないけど、同じ女の子として彼に好意を持っているなら……もし彼を好きだというのなら、アタシはやっぱり応援してあげたい。

 

「ねぇ、紗夜。紗夜はさ、もし麗牙に遊びにとか誘われたら……行ったりする?」

 

「……何故今そんな話を? わざわざ二人そろって遊びに行くなんて、そんな時間──」

 

「じゃあ紗夜が断って、それでアタシを代わりに誘ったりしたら、紗夜はどう思う?」

 

「……紅さんがそういうことをしない人だと思いたいです」

 

「あはっ、紗夜~やっぱり麗牙のこと大分気に入ってるよねぇ~♪」

 

「へっ? わ、私は別に気に入っているとまでは……ないはず、です」

 

 やだ……この紗夜ったら可愛い……。えっ? マジで? マジで大分好意持っちゃってる感じ? しかも無自覚? えっ何それめちゃくちゃ可愛いやつじゃん。ついに紗夜にも春が来たってやつですかこれは!?

 アタシがそんな予感を抱く中で、紗夜が不安げな表情を……威圧を与えるようなものではなく、どこか臆病な色を含んだ表情を浮かべて聞いてきた。

 

「あ、あの、もしかしてですけど今井さん、あなた、彼から誘われたりしているんですか……?」

 

「えっ!? そうなのリサ姉!? もしかして恋の予感!?」

 

「リサ……本当ならそこまで踏み込んで言うつもりは無かったけど、もしそのことで演奏に集中できないようなことがあるなら──」

 

「ちちちっ、違うって。アタシじゃないって! 紗夜もっ、アタシ別に何にも誘われたりしてないからね! 例え話だって。だからそんな不安そうな顔しなくていいから!」

 

 ああもう! なんでこうなっちゃうかな~。でもやはりというか、ここで少しだけ不安そうな表情をしていた紗夜の様子を見て、アタシのお節介な部分がどんどんと大きくなっていくのが感じられた。

 うん、間違いなく紗夜は麗牙に好意を抱いている。それが恋にまで発展しているかは分からないけど、せめて紗夜が悲しまない程度にはフォローしてあげなくちゃ。もし紗夜の想いがさらに上にまで発展した時に、彼女が後悔しないように、迷惑かもしれないけどアタシが支えていきたい。そう思うようになっていた。

 

「紗夜が心配することなんて何もないからさっ」

 

「それならいいですけれど……」

 

「うんうん。あっ、そろそろ来たよ。とりあえず食べよっか」

 

 私たちのテーブルに注文した食事が届き始めたことで、一旦その話は終わることになった。だけどアタシは紗夜のどこか煮え切らない表情が抜けきっていないのを見て、なんだか申し訳なくなってなってしまう。話題は他のバンドの話にもう移っているというのに、だ。紗夜がこんなにらしくない態度をとるのもここ最近のことだし、やはり麗牙が関わっているのかと疑ってしまう。いい加減に話してほしいんだけどなぁ、紗夜と麗牙の出会い……。

 

 なんてアタシが一人無粋なことを考えている中、後ろの席の女子高生グループから少し興味深い話が聞こえてきた。

 

「ねぇねぇ知ってる? 最近──校の女子生徒が行方不明になってるって話あったじゃん。あれさ、花咲川(はなさきがわ)の子もいなくなったって」

 

「えぇ嘘~? それってアレだよね? いつの間にか服だけが残ってたってやつ」

 

「うわぁ何それキモイぃ。絶対変態の仕業じゃん」

 

「一応行方不明扱いだけど、でも絶対ヤバイよね。絶対ヤられてるし死んでるって。もうクラスでも殺人鬼のウワサで持ち切りだよ」

 

 ああ~アレね。最近アタシたちの周りでも噂になっている女子高生失踪事件。なんでもここ最近、羽丘近くの高校の女子生徒が立て続けにいなくなってるという話。対象はどれも一人で夜の道を歩いていた女子高生で、しかもいなくなったと思われる現場にはその女子高生の衣服や鞄だけが残されていたとか何とか。そのため現在は行方不明事件として扱われているけど、やっぱり誘拐されたとみんな思ってるし、本当に誘拐だとしたら……その人たちはもう……。

 それに今の話が本当なら、花咲川女子学園──紗夜と燐子の通う学校の生徒も被害に遭っているということだ。二人は大丈夫なのかな……?

 

「本当、最近物騒ね」

 

「あのさ、紗夜とか燐子は知ってるの? 花女の生徒が消えたって」

 

「はい。昨日学校中に伝えられて警戒するよう呼びかけられました。ですので今日も、遅くとも十八時までは解散するつもりですので」

 

「うん……やっぱり……わたしも怖いから」

 

 だけど本当に不可解だとも思う。普通こんなに立て続けに同じような条件で被害が出ればもっと対策もとれるはずだし、そろそろ犯人も捕まっている頃だ。服も鞄も綺麗なままで誰かと争った感じはないって聞いてるし、本当に人だけがそのまま消えたような不可解な事件だ。まあアタシは探偵でも何でもないから、いくら考えても分かるはずはないんだけど。

 

「じゃあそうだね、今日はできるだけみんなで固まって帰ろっか」

 

 要はいつも通りなんだけど、みんなで一緒という言葉を強調してしまう。アタシだって本当は怖いしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──って言ったのに……なんでアタシ一人になっちゃうかなぁ~……」

 

 Roseliaの打ち上げが解散し、アタシは友希那と共に自分の家に帰り着いた。友希那とアタシの家は隣同士で、何かと幼い頃からずっと一緒だった。一時は離れていたこともあったけど、Roseliaとして活動している今はかつて同様、いつでも同じ帰り道を共にしていた。だから今日も一緒に帰ってきて、家でゆっくり過ごしていたんだけど……。

 

「(うっかりしてたなぁ~クリーニング出してたのすっかり忘れるなんて)」

 

 学校の制服をクリーニングに出していたことを思い出し、急遽走ってきたのだった。アタシが普段使っているのは家からそう遠くないクリーニング店で、リーズナブルな価格でいつも助かっているんだけど……なんと日曜日はやってないんだよねぇこれが。だから今日の朝に出した制服をクリーニングに出した場合、店が閉まる今日の十九時までに受け取りにいかなければ、月曜日には制服が無くてかなり恥ずかしい思いをしなければいけなくなる。だから絶対に今日中に受け取らなければならず、アタシは仕方なく夜の道を一人歩く羽目になっていた。

 

「うぅ~でもやっぱり怖いなぁ……あぁ~こんななら友希那に付いてきてもらえばよかったよ……」

 

 つい先ほど殺人鬼の話をしていたせいか、ただ一人歩くだけのいつもの道が酷く恐ろしく感じる。

 

 どうか何も起こりませんように。そう祈りながら帰路を恐る恐る歩いていた。

 

 だけど、神様は本当にイジワルだと思う。

 

 アタシが家まであと五分くらいまでのところまでたどり着いた時、アタシの耳にとんでもないものが聞こえてきてしまった。

 

 

 

 

 

 

「ぃやあァァァァァァァァァァァ!!!」

 

「ひっ!? な、何々っ!?」

 

 夜の闇を劈くような女性の悲鳴がアタシの耳まで轟く。突然のことと、そして怯えるような、助けを乞うような絶望的な声色を耳にしたことで、今は心臓が酷く早鳴っていた。ガラスを引っ掻いたような嫌な悲鳴が耳から離れず、身体まで震えてしまう。しかもその声はかなり近くから聞こえてきた。具体的には、今アタシのいる通りの先にある丁字路のどちらかに曲がった先……あそこまで歩いてしまったら、アタシはその恐怖の正体を知ってしまう。

 

「(いや……なんか……怖い……)」

 

 家に帰るにはこの道を通らなければいけない。遠回りしようかな……そこまで考えた時、アタシの耳にまた同じ女性の声が届いた。

 

「誰か! 誰か助け────」

 

「っ!?」

 

 それと同時に私の目の前の丁字路の左側から、一人の女子高生が無我夢中で走り抜けていくのが目に映った。周りが見えていないのか、辺りが暗すぎたのか、彼女はアタシの姿に気づくことなく丁字路の右側へと駆けていった。それと同時に彼女の助けを求める声が突然、急に途切れるようにして沈黙が生まれた。今、一体何が起こったのかは分からないけど、ともかく何かすごく恐ろしいことが起きている気がしてならなかった。でも襲われているなら、それを無視できるほどアタシは薄情にはなりきれなかった。怖いのに、逃げたいのに、まだ彼女が無事なら助けられるのでは、と青い正義感を少しだけ抱いてしまっていたから。アタシは携帯から110番のダイヤルをセットして、いつでもかけられる準備をする。

 

 そして、意を決して彼女が消えていった路地へ向けて足を進めようとした瞬間だった。

 

「……クフッ」

 

「ひっ!?」

 

 彼女が出てきた路地から、全身を黒のコートで覆われた長身の男性が姿を現した。長い髪を無造作に垂らしてその表情は見えなかったけど、その口から洩れた下劣な笑い声を聞いた途端、アタシは全身に鳥肌が立つのが感じられた。生理的な嫌悪感というものかもしれないけど、それを目の前の存在から感じていた。そして男性は、さっきの女子高生が消えていった路地へ向かってゆっくり歩みを進める。

 

「(だ、ダメだよ……逃げたいのに……でも見捨てちゃうなんて……)」

 

 彼女を助けるか、わが身可愛さに逃げ出すか。さっきまでだったらまだどちらも選べたかもしれないけど、今ここまで足を進めてしまったなら、今更戻ることはできなかった。

 

 アタシはもはや風前の灯火となった勇気を必死にとどめながら足を進め、そしてついに彼らが消えていった路地へ視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 そこにあったのは、あの気味の悪い長身の男性の姿。

 

 そして、彼に見下ろされている、女子高生のものであった服と鞄。

 

 それだけだった。

 

「っ……(え……さっきの彼女は……?)」

 

 おかしい……なんであの子の姿が見当たらないのか……なんで服だけが綺麗に残されているのか……。混乱しているアタシを他所に、男性は夜空を仰ぎ見て、口元を指でなぞらえていた。

 

「アハー……気持ちよかった……」

 

「ひっ……」

 

 思わず声が出てしまった。男性の態度に怖気が走ったのか、彼の言う「気持ちよかった」の意味を変にとらえたのか、いろんな理由はあるけど最悪なことにこの場で声を発してしまった。

 

 それは男に、こちらの存在を知らせるのには十分な情報だった。

 

「うーん……クフ……クヒヒヒヒッ……」

 

「ぁ……嫌……」

 

 男はアタシを見つけるや否や、身の毛がよだつような恐ろしい笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 

 その目に見えたのは、悍ましい捕食者のような瞳。相手の喉元を噛み切る猛獣の様な眼光が、私を捉えて離さなかった。

 

 その目を見ただけで、アタシはその場から動けなくなってしまう。本能的に感じ取ってしまったから……この人は危ない人だと……逃げないとこの場で命はないと。

 

 ただそこにいるだけなのに、アタシはその男がとても恐ろしい存在だと確信をもってしまった。

 

 だというのにアタシは恐怖から腰を抜かしてしまい、逃げることすらままならない。

 

 アタシの心を、恐怖の闇が包み込んでいた。

 

 ──や、やだ……やめて……来ないで……っ!

 

 しかし恐怖のあまりから声も出せず、できることと言えば目から溢れる涙で訴えるしかなかった。

 

 もちろん目の前の存在がそんなもので立ち止まってくれるような人のはずもなく、彼はアタシの目の前まで迫っていた。

 

 

 ──もう……だめ……。

 

 ──アタシ……ここで死ぬのかな……?

 

 ──やだっ! 嫌だ! 誰か……誰か助けて……っ!

 

 

 いくら心の中で嘆いても、ぬたりと舌なめずりをして私を厭らしい目で見下す男を前に、アタシはただただ泣くことしかできなかった。

 

 本当にここまでなのかな……そう思った次の瞬間、しかし男はアタシの前で膝を付けて視線を合わせた。

 

 そして……。

 

 

 

「今度は……キミだね……楽しみにしてて……クヒヒイヒッ」

 

 

 

 たったそれだけ告げ、気持ちの悪い笑い声を残してアタシの目の前から姿を消し去ってしまった。

 

 

 

「……ぁ……」

 

 

 

 助かった……のだろうか?

 

 夜風に吹かれるまま、アタシはただ地面にへたり込んでいた。

 

 右手側には落として画面が割れた携帯が。左手側にはクリーニングしてもらったばかりの制服が入った袋が。胸元には涙でぐしゃぐしゃに濡れたシャツが。下腹部には恐怖から漏れた液体でほんのり生暖かい湿り気が。そして目の前には、今しがた襲われたばかりであろう女子高生の衣服と鞄が、それぞれ捨てられるように転がっていた。

 

 ──何なの……アタシは……どうなってしまったの……?

 

 もう、心の中がぐちゃぐちゃして……何が何だか分からなくなって……怖くて……その上……っ。

 

 

 ──『今度は……キミだね』

 

 

「っ!? ……はッ……っぁ……ぃゃ……っ」

 

 明らかに、次の獲物としてアタシを選んだというその言葉。アタシは助かったわけじゃない。次に襲われるのは自分……今日助かったのはあの男の気まぐれ……だけど次は……次こそは……目の前の少女だったもののようになってしまう……。

 

 

「……ぅぅ……っぐすっ……ぅえぇぅ……っ……ひっぐ……」

 

 

 恐怖と絶望で壊れそうになるアタシの心を支えてくれる人なんてここにいるはずもなく、アタシはただその場で泣きじゃくることしかできなかった。

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