帰りの電車に揺られ、僕と燐子さんは自分たちの街へと帰ってきていた。人で混んでいた電車の中では座ることは叶わず、僕らは密着するように向かい合って立つしかなかったが、それは僕にとって大変な試練となった。
自分の目と鼻の先に燐子さんの頭部が見える光景は、僕の胸の高まりを激しくするには十分な状況であった。他の人に迷惑をかけてしまうからと、僕の胸に密着するように頭を預ける燐子さんも燐子さんだ。そんなの耐えられるはずがないっ。燐子さんの緊張した音楽と、そして彼女の柔らかな香りが僕の鼻をついて、このまま燐子さんのことを抱きしめたくなる衝動に何度駆られたか分からない。このまま彼女が顔を上げて僕のことを見たら、本当に止められそうになかったのだ。
しかし幸か不幸か、燐子さんが僕を見上げることはなかった。彼女はずっと恥ずかしげに顔を俯いて、揺れる車両に合わせて僕の胸をその黒い髪で軽く叩くだけであった。いやそれだけでも十分な破壊力はあるんだけど……。
ともあれ、電車は僕たちの街へと辿り着いたことで今回の旅は終わりを迎えることとなってしまう。
でも、このまま終わるなんて僕の望むところではない。
僕は今日、燐子さんに伝えなければならないのだから。
今日のためにその決心をつけてきたのだから……。
僕が人間でないことを……。
そして、それを彼女に受け入れてもらうことも……。
「燐子さん……もう少しだけ、一緒に歩きませんか……?」
心臓が胸から飛び出すほどバクバク鳴り響いているのが分かる。要はもう少しデートを続けようと言っているのだ。ライブ鑑賞という本来の目的を終えたにも関わらず、僕の勝手な都合で彼女を引きずり回すことには申し訳なさも覚えるが、それでも僕はもっと彼女と共にいたかったのだ。断られるかもなんて考えていないし、考えられなかった。考えただけでも僕は心折れそうなほど、既に彼女に入り浸っていたのだから。
「はい……わたしも……もう少し一緒にいたいですし……」
燐子さんのその言葉で飛び上がらなかったのが奇跡なくらい、僕は心の中で舞い上がっていた。僕の提案を受け入れてくれるどころか、彼女もまた僕と同じで一緒にいたいと思ってくれているのだ。そんなの、嬉しくならないわけがなかった。
「はは、はいっ……じゃあ、行きましょうか」
「はい……」
どこへ、などと目的があるわけではないが、燐子さんの傍に立って僕は歩き始める。辿り着く場所なんてなくていい、ただ燐子さんと同じ時間、同じ景色を共有さえできれば今は他に何も要らなかった。僕から離れないように隣で歩く彼女を愛おしく感じながら、この一瞬一瞬を大切に心に刻み込んでいた。
「……」
「……」
言葉も無かったけれど気不味い空気ではなく、僕たちが好きな穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
可愛い、愛おしい、好きだ、抱きしめたい。
彼女に対するそんな想いが幾度も胸から込み上げてくる。苦しいまでに強すぎる想いが僕の身体を支配しようとする。だけどここで動いてはならないと、何とか自分を制して歩き続けた。今は、僕はまだ燐子さんの友達でしかないのだから。
今はただ、傍に大好きな人がいるだけで幸せだった。
「っ……(あの公園は……)」
街を歩くこと十数分、僕たちの目には小さな公園が見えてきていた。今は誰もいない寂しい公園だったが、僕はこの公園のことをよく覚えている。
あの日……僕があの子の前でファンガイアの姿を見せ、そして拒絶されてしまった場所。
苦い思い出が残る、ある意味で因縁の場所でもあった。
しかし、だからこそ一つ決心したことがあるのだ。
燐子さんに僕のことを伝えるのは、あの公園でしかないと……。
「燐子さん、あの公園で……燐子さん?」
「っえ? ぁ……は、はい……な、なんでしょう、か……?」
あの公園で一休みしませんか。そう告げようとしたが、燐子さんの顔が異様に怯えているのが見えて言葉を飲み込んでしまう。身体は震え、顔色も青くなってきている。何かに怯えているかのような弱々しい燐子さんの姿に僕は困惑してしまっていた。
「だ、大丈夫ですか燐子さん? どこか具合でも悪くなったとか──」
「い、いえ……大丈夫です……大丈夫ですから……だから……行きましょう……」
「でも──」
「行きましょうっ……お願いします……」
何かに追われるように、しかし譲れないものがあるかのように燐子さんは強く僕に懇願していた。今にも泣きそうで、そして真剣な彼女の瞳を前にして拒否できるはずもなく、僕は燐子さんと共にその公園の敷地へと足を踏み入れていた。しかし燐子さんの身体の震えは増すばかりで、息遣いもどんどん激しくなっていく。
「っ……ぁ……」
「燐子さんっ、本当にどうしたんですか? 何があったんですか?」
「……わ、わたし……この公園で……」
「え?」
燐子さんは震えながらもゆっくり言葉を紡いでいく。
この公園で? 燐子さんに何かあったというのか。
この公園で何かあったのは僕の方なのに……。
こんな小さな公園で、燐子さんがこんなにも恐れるような事件なんて起こるはずが……。
「っ(待って……)」
しかしその時、僕はふと過去の燐子さんの言葉を思い出していた。
僕とは関係ないと思っていた、燐子さんの過去の出来事の断片。
──『昔、辛いことがあって……それ以来……』
──『あの子の好きなブルースカイを……わたしがまだ聴いてるなんて……』
「(待って……っ)」
半分忘れていたほどの前の話なのに、何故か今はその台詞が鮮明に思い出されていた。
バラバラになった点と点が繋がり合い、一本の鎖を作り出していく。
──『わたし……失敗しちゃって……本当に最低な……』
──『もう、逃げたくないんです……あの子にも、ブルースカイにも……昔の自分にも』
「……」
僕の脳裏で繋がって出来上がっていく一つの仮説を前にして、僕は息が出来なくなっていた。
待って……もしそうなら……だとしたらあの子は……。
僕の目の前にいる彼女は……まさか……っ。
♬〜〜♬〜〜
「っ!?(こんな時に……っ)はい、もしもし」
僕にとってこれ以上ないほど重要な何かに近付いているというところで、携帯から電話が鳴り響いた。無視すればいいだけのことだったが、意識を切られたことで若干苛立ってしまい、半分怒り気味で通話に出たのだ。頭を冷静にさせる傍らで話し相手に文句の一つでも言おうと思っていた故だ。しかし……。
『ら、麗牙……気ぃ付けや……』
「……健吾さん? 何が……」
しかし端末の向こうから聞こえてきたのは、聞いたことのないほど弱々しい健吾さんの声だった。今にも消えてしまいそうな彼の声に怒りも消え去り、健吾さんの声に全意識を集中させていた。何が彼をそんな風にしたのか、その答えを彼はすぐさま教えてくれた。
『黒麓大地……アイツ……ホンマもんの化け物や……アゲハと次郎もやられてもた……』
「はぁ!!?」
「ひゃっ!?」
僕の突然の大声ですぐ隣の燐子さんを驚かせてしまう。しかしそんなことに構っていられないほど僕は激しく動揺していた。健吾さんだけでなく、あのアゲハや次狼までやられるなんて状況が想像付かず、彼が嘘を言っているのではと思ってしまう。しかし彼の言葉からは嘘は感じられず、その声色も辛うじて生命が繋がっているような弱々しい音楽に聴こえていたからだ。故にそれを真実だと確信して呆気に取られた僕に、健吾さんは更に注げる。
『3WAの職員も皆殺しにされてる……それに、アイツなんや……幾馬って夫婦を殺ったんは……』
「そ、そんな……」
嘘だと言ってほしかった。つい最近になってようやく信じたいと思えた黒麓さんが……あの夫婦を支えようとしていた彼が、その二人を殺した犯人だなんて。愛する者の音楽を、そして自由を好きだと言ったあの黒麓さんが敵だと、彼に少しでも好意を抱いた僕には到底信じたくない話であった。
「残念だけど、本当さ」
「っ!?」
端末からの健吾さんの声も聞こえていたのだろうか、僕と健吾さんの会話に割り込むように答え、僕たちの目の前から黒麓大地が悠然と歩いてきた。
「あ、あなたは……?」
「やあ、また会ったね。白金さんだよね、Roseliaの」
「お前……何しに来た……っ」
彼が軽々しく燐子さんに話しかけることが耐えられず、彼女隠すようにして前に立ち黒麓を睨みつけた。先の健吾さんの言葉があるから、目の前の男への警戒をより一層強めて構えてしまう。
「なんであの夫婦を……貴方は……愛し合う人の音楽が好きなんじゃ……」
「好きだよ、とっても。その言葉に嘘はない」
「じゃあ──」
「愛し合う二人が最高の愛の音楽を奏でる瞬間……その時の味が堪らなく好きなんだ。愛に満たされた幸せの味も、絶頂から落とされる絶望の味も、絶妙に絡み合ってボクの最高の食事になるんだよ」
「──」
言葉が出てこなかった。彼の言っていた言葉には確かに嘘はなかった。ただ、言葉が足りていなかったのだ。愛という尊い感情が好きというのは、僕のように心を満たすものとしての好きではなく、純粋に自分の欲を満たすものとしての好き。好物といった方がより正しかったのだ。
「3WAは……」
「みんな死んだよ。あっさり」
「アゲハと次狼は……」
「どうかな。運が良ければ生きてるかもね。あ、そうだ。ほら、コレあげるよ」
「ひっ!? な、何……?」
そう言って黒麓が僕の目の前に投げ落としたのは、血に塗れた毛の塊であった。突然生々しい物体が目の前に現れたことで悲鳴を上げてしまう燐子さんだが、僕には目に映った瞬間に理解したのだ。これは次狼の毛で、そこにベッタリと染み付いているのが彼の血なのだと。
目の前の男が、次狼を酷く傷付けたのだと。
僕の大切な人の命を奪いにきたのだと。
それだけ分かれば十分であった。
「お前……っ」
「ふふ……やる気になったかい? それは結構。ボクも待ったかいがあったよ。レイキバット」
「キバットォ!!」
僕と黒麓の呼び声に反応して、互いの元にそれぞれの姿を変えるための相棒が飛来する。初めて見る黒色に染まったレイキバットが黒麓の腹部に留まるのと同時に僕もキバットを掴み取り、彼の牙を僕の左手に咬ませた。
『ガブッ!』
キバットからアクティブフォースが注入され、僕の身体をステンドグラス状の模様が覆い尽くさんとする。そんな僕の様子に、後ろで見守っている燐子さんは半分怯えた声で僕に訊ねようとしてた。
「ら、麗牙さん……?」
「燐子さん下がって……変身!」
「変身」
しかし今は彼女の質問に答えられる時間ではない。僕は目の前の……あの黒いレイを討ち滅ぼさなければ気が済まなかったのだから。
僕の身体を白銀のベールが包み込み、それは一瞬で弾け飛ぶ。
そこにいたのは紅麗牙ではなく、王の鎧……キバであった。
「ら……麗牙、さん……?」
「ハァァァァァァァッ!」
燐子さんの驚愕も戸惑いを全てを後に残していき、僕は黒いレイに向けて駆け出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キバの紅い拳がレイアライズへと襲いかかるが、レイは自身の腕に備えられた巨爪で難なく防いでしまう。しかしキバもその一発だけでは終わらず、畳み掛けるように鋭い拳の連打をレイに浴びせかけていた。
「ハァァァァァッ!」
レイのギガンティック・クローに幾度もの強烈な拳が入り、その衝撃を殺しきれずレイは僅かに後退してしまう。その瞬間を見逃さずにキバは腰を低くして地面すれすれで回し蹴りを放ち、レイの脚を払い除けようとするが、レイは華麗に宙返りしてそれを避けてキバから距離をとる。そんなレイを逃すまいと、キバはその着地よりも早くレイに飛びかかった。
「フゥゥン!」
「っ、ぐっ」
しかしキバの接近もレイの肩から伸びた槍が許してくれなかった。ブロウニングショルダーから伸びた爪がキバの身体を貫かんとし、キバはガードしながらそれを受け流すことで難を凌いだが、それでも勢いを殺されてしまっていた。
「次はボクからだね。ハァァッ!」
キバの勢いが止まったと同時にレイが駆け出し、その身体に爪を立てようと両腕を振り払っていた。ギガント族を連想させる巨大な腕と爪を軽々しく振るレイの攻撃を食らえば一溜まりもないが、あくまでも冷静にその動きを観察し、その隙を狙ってなんとか攻撃を加えようとキバは企んでいた。しかし……。
『フシャァォッ』
「なっ!?」
レイの爪を避けようとしたところでキバの足元の地面が割れ、地中から毒々しい色をした蛇が何匹も現れていたのだ。そして蛇たちはキバの脚に絡みつき、一瞬だけその動きを奪っていた。キバの力を持ってすれば、それはほんの一瞬の時間稼ぎに過ぎなかったが、今この場においてはその一瞬が命取りであった。
「ハァァァァッ!」
「ぐぁあアアァァァッ!?」
レイの鋭い一撃がキバを襲い、キバは大きくその場から吹き飛ばされてしまう。更に飛んでいくキバにレイは素早く追いつき、態勢を立て直される前に更なる連撃をキバに浴びせていた。
「ハァァァァァッ、ダアァァァッ!」
「ぅぐァ、がッ、ッア!? ゥアアアアッ!?」
「ッ!?」
レイの攻撃を喰らい地面を転がっていくキバ。なんとか立ち上がろうとするもダメージは酷く、既に肩で息をしている状態であった。力の差は歴然であり、そんな一杯一杯のキバに向けてレイは淡々と、そして期待するように言葉を投げていた。
「今のままじゃキミはボクに勝てない。だから変身しなよ……闇のキバに」
「な、に……?」
闇のキバ……それはファンガイアの王の鎧の中でも最強と謳われる闇の鎧。一族の力の象徴であり、今の麗牙が纏う紅の鎧よりも遥かに強大な力を持つ鎧のことである。
そして同時に今は扱える物がいなくなってしまった、失われた力でもあった。
「ボクが憎いんだろ? 殺したいんだろ? だったら、これはもうなるしかないよね。闇のキバに。そのためにわざわざここまでしてきたんだから」
しかしレイは、その鎧を纏うことをキバに求めている。彼は今もなお闇の鎧が現存すると……その目で見ることができると信じていた。それが叶わないことだと知っているのは、この場ではキバとキバットだけであるというのにだ。
その力を完璧に扱えるのは、今は深い眠りについているキバットの父のみ。他者に扱わせれば力が暴発して装着者の命に危険が及ぶことは必至である。故に今の麗牙は、闇のキバの鎧を纏うことは出来なかったのだ。
「さあ、ボクに見せてよ。闇のキバ」
「……ふざけるなっ!」
『
挑発するように闇のキバを乞うレイに吐き捨て、キバはウエイクアップフエッスルをキバットに奏でさせた。辺りが紅い濃霧に包まれ、闇の世界に誘われる。巨大な三日月をバックに振り上げた右脚の封印が解き放たれ、ヘルズゲートは紅き翼へと変容していた。
「ハッ」
天高く跳躍したキバは、己の最大の部下である右脚を突き出してレイへと急降下していく。
今の自分の持てる力を全て費やし、目の前の敵を叩き潰すために。
「ハァァァァァァァァ──ッ!!」
そしてキバの必殺技──ダークネスムーンブレイクがレイに襲い掛かった。
幾人もの同族を葬ってきた必殺の一撃が、今まさにレイを葬らんとしていた。
この一撃が届けば全て終わると、キバは内心そのように確信していた。
そう……レイの身体に届けばだ。
「ハァァァッ!!」
レイは両腕の巨爪をクロスさせ、キバの攻撃を真正面から受け止めた。火花を散らして激しくぶつかり合う二つの力。それはいつかの夜に、レイがキバの攻撃から幾馬夫妻を守った時と同じような構図が、図らずとも再演されていた。
しかし、あの時と決定的に違うのは二人の間にある殺意。
そして、力の差であった。
「ッッ! グゥゥゥ……がァァァッ!?」
拮抗していた二人の激突は呆気なく崩れた。レイが爪を振り切ってキバの一撃を完全に塞き止め、その瞬間に肩の爪が伸びてキバの身体を強襲したのだ。鋭い槍がキバの身体を突き、吹き飛ばされて地面を転がっていく。
「がはッ……っぐ……」
「嘘だよね……まさか変身できないのかい?」
「ぅぐ……」
しかしそれでも姿を変えようとしないキバを見て、レイは半ば確信してしまっていた。
目の前の存在は闇のキバに変身することはない。
今の麗牙は闇のキバに変身できないのだと。
それを確信した途端、彼の声から楽しそうな音楽が消え去り、凍てつく冷気の如く肌を刺すような声色を放つようになっていた。
「はぁ……なんだろ……急にキミのことがどうでも良くなってきたよ……フゥゥン!」
「ぅア゛アアアアアァァァッ!?」
「ッ!? 麗牙さん!?」
キバが完全に立ち上がる前に、レイの身体から無数の蛇が飛び出しキバに襲い掛かった。無防備な身体に何十という鋭い攻撃を喰らい、キバは全身から火花を散らして吹き飛んでゆき、遂に変身が解除されてしまった。鎧が剥がれた中から傷だらけの麗牙の姿が姿を現し、地面に横たわったままレイを睨みつけていた。
「ぅ……ガハッ、ゴホッ……」
「麗牙さんっ!!」
立ち上がろうとするも血を吐きながら地に伏せる麗牙を見て、燐子の悲痛な叫び声がこだまする。目の前の現状に理解が追いついていないが、それでも目の前の彼が酷い怪我を負っていることだけは分かっていた燐子は、涙目になりながらその名を呼ぶことしかできなかった。
「嘘だろ……本当にガッカリだよ……闇の鎧も纏えないキング……ならせめて、ボクの好きな音楽を奏でてよ。愛する者を壊される絶望の音をさ」
「ゴォァァァァ!」
「な……」
心底失望したと言わんばかりに麗牙に言葉を捨て、その赤い眼は燐子に向けられた。そして彼の隣に、巨大な蛇の怪物──ヨルムンガンドレジェンドルガが現れていた。当然黒麓本人ではなく、自身が眷属化させた元人間の怪物。既に自我は失われ、完全なレジェンドルガとして転生を果たしたもう一体の怪物であった。
「ひぃっ!?」
「待、て……」
「キミが悪いんだ……ボクを失望させるから。せっかくのレイアライズも宝の持ち腐れになってしまったよ…………殺れ」
「ガゴァァァァァァ」
巨大な異形が雄叫びを上げながら少女へと迫る。
想像を絶する恐怖から腰が抜けてへたり込んでしまった燐子へと、その口から覗かせる長い舌を滴らせて近づいていく。
「や、めろ……」
麗牙もまた動けない。
キバに変身していてもなお、鎧を通り越して自身の身体に生じた激しいダメージは、麗牙の行動を制するには十分過ぎた。
今でさえ、麗牙はその様子を目の当たりにして歯を食いしばるだけで精一杯なのだ
人間の身体に擬態している状態では、もはや麗牙は満足に動くことは叶わなかった。
「ゃ……いやっ……」
「やめ、ろォ……」
しかし怪物の進行は止まらない。
刻一刻とその魔の手は燐子に迫る。
彼が守りたいと願うものへと。
彼が心から好きだと思った彼女へと。
ようやく、再び自分に恋という気持ちを抱かせてくれた尊い存在へと……。
「ゴォォォォォォ!」
「ひ──」
怪物の腕から伸びた蛇の頭が燐子に迫った。
そんな目の前の光景から逃げ出したい燐子は目を閉じることしかできなかった。
次の瞬間に自分の意識は消えてしまうのだと、気が狂いそうになる恐怖の中でそれだけしか考えられなかったのだから……。
そして──
「やめろォォォォォォォォォォォォッッ!!!」
──その瞬間、あたり一帯に紅の嵐が吹き荒れた。
レイが嵐へと目をやる間もなく、突風がヨルムンガンドを少女の前から連れ去ってしまった。
そして嵐が晴れた時、そこに居たのはヨルムンガンドだけではなかった。
「ルオォォォォォォォォアアア゛ア゛ッ!!」
「何……?」
そこに居たのは二体の異形。
一体は、地面にその身体を押し付けられている無様な姿のヨルムンガンド。
そしてもう一体は、全身を紅に染めた異形。
血に濡れたかのようなコートを纏い、鋭利な爪と禍々しい翼を生やした蝙蝠のような魔人。
バットファンガイア──紅麗牙の正体たる異形が、巨大な蛇の身体を踏み付けていたのだ。
「……う、そ……」
その姿を目の当たりにし、衝撃以上の果てしない感情を抱いた者がいたが、彼にはそんなことは全く気にするところではなかった。今の彼は、ただ目の前の脅威を潰すことしか見えていなかったのだから……。
「ガァァァァァァァッ!!」
踏み付けた蛇の身体に己の拳を突き立て、その鋭い爪で肉を突き刺す。ズタズタと引き裂く音を立てながらバットファンガイアは大蛇を持ち上げ、もう片方の手で何度も殴り掛かった。強力な力を持ったヨルムンガンドではあるが、あまりの圧倒的な暴力を前にされるがまま身体が壊されていくのを受け入れるしかなかった。
「ゥルォアアアアア!!」
「ガゴァァァ!」
「なんて野蛮な……っ!?」
まだ息のある大蛇を投げ捨て、次の標的をレイに向けてバットファンガイアは駆け出す。少なくともレイは駆け出すものかと思っていた。自身の身体を紅色の無数の蝙蝠に分散させ、突如として後ろから現れたりしなければ。
「グルォアアアッ!!」
「ッグ!? くっ、この醜悪な……っ!」
レイの背後で実体化したバットファンガイアはその爪を容赦なくレイに振り被り、その身体を引き裂いた。キバに変身した状態では触れることすら難しかったにも関わらず、いきなり手痛い一撃を喰らってレイは思わず動揺してしまっていた。故に距離を取ろうとするも、それすら蝙蝠の魔人は許さなかった。
「ガァァァァァッ!」
「っ!? くっ? グハッ!?」
両腕から飛ばされた刃がブーメランの如く飛び交い、レイの身体を斬り裂いて魔人の元へと返っていく。ようやく地に膝をついたレイに向けて今度こそ魔人は駆け出していく。
「チッ……いい加減っ、くたばれェ!」
「グゥオ!?」
二度は喰らうまいと、魔人の腕を躱したレイは自身の左腕の巨爪を逆に突き立てた。銀色に輝くギガンティック・クローに搭載されるは対ファンガイア用化学兵器のクルセイダー。如何にファンガイアのキングであろうと、その効果は例外なく発揮される。レイの仮面の裏で、クルセイダーの効果が発揮されて魔人の身体が溶かされていることを感じた黒麓は薄く微笑んでいた。
しかし……。
「ゥグ……グォ……ッ、ゴオォォォォ!!」
「何ィ!?」
身体が崩壊を始めているにも関わらず、魔人は動いていたのだ。自身に突き刺した巨爪が備えられたレイの左腕を掴んで固定し、逃げられなくする。
そして……。
「ガァァァッ!!」
「ッ!? ィギァァァァア゛ア゛ア゛ッ!?」
魔人の振るった鋭い一撃がレイの腕を絶ち切った。千切れたレイの腕から止めどなく血が吹き出し、レイの苦悶に満ちた悲鳴が轟いていた。それでも魔人は止まることを知らず、自身の身体から千切れたレイの腕ごとギガンティック・クローを引き抜き、その巨爪をレイに向けて振るったのだ。
「グゴァァッ!!」
「ッグフッ!?」
自身の爪を喰らって地を転がっていくレイ。だが、その一撃は放った魔人もまたクルセイダーによるダメージで膝をつき、息も絶え絶えになっていた。それはレイも同様で、肩で息をしながらも自分の失った左腕を庇って立ち上がり、忌々しい視線を魔人に送っていた。
「……グッ……ハァ、ハァ……」
「く……これは……またの機会にした方が、ハァ……良さそうだね……ハァ、ハァ……」
「グゥ!?」
そしてレイは地を蹴り、その場から離脱してしまった。魔人は後を追おうとするも自身の背後で更なる気配に気付き、追跡を諦めて振り返る。そこにはボロボロになりながらも地を這い、燐子に向かって進もうとするヨルムンガンドの姿があった。
「ギギギ……」
「……」
燐子もまた、異形が近づいているにも関わらず依然動けないままであった。茫然として意識が飛んでいるのか、燐子はその様子を前にしても動かず、焦点が合っていない視線を彼方に向けていたのだ。
「ォオオオオオオオオッ!」
燐子の一歩手前まで迫った大蛇に、魔人は迷うことなく飛び掛かった。その頭を地面に叩き付け、再び宙に持ち上げてから地面に思い切り蛇の全身を叩き付けた。
「フンッ! グァァ! ガァッ!」
仰向けになった蛇の身体に、レイの腕からもぎ取った巨爪を何度も突き立てる。肩を、胴を、首を、あらゆる急所を爪で突き刺し続ける。真っ黒な血が飛び散り、魔人の身体はその返り血でドンドン濡らされていく。敵の意識はほとんど消えかけているにも関わらず魔人の動きは止まらない。彼にはもはや手加減という言葉は消えていたのだ。ただ目の前の生命の鼓動が消える時まで、その手を休めることはなかった。
「フゥンッ! ハァァァァァッ!!」
そして、もはや動かなくなり物置と化した蛇に向け、魔人の手からドス黒い闇を孕んだ紅の波動が放たれた。波動が蛇を飲み込んだ瞬間に激しく爆発が起こり、辺りに砂塵を巻き起こる。一瞬の後に砂塵は収まり、その中には一人血に塗れた魔人の姿だけが残されていた。
「ゥグ……グッ……」
しかし魔人の身体も限界が近付いていた。キバとして負ったダメージもさることながら、レイの爪に搭載されたクルセイダーの効果が彼の身体を蝕んでいたからだ。
崩れそうになる我が身を庇いながらも、魔人は振り返って少女へと視線を移す。
自分が守りたいと願った、愛すべき少女の無事な姿をその瞳に収めようとして。
しかし……。
「ぁ……ぁぁ……」
そこにあったのは、焦点が合っておらず激しく息切れを起こした燐子の姿であった。
その身体には傷一つ付いていないが、精神は既に限界を迎えていた。
記憶の中のトラウマを作り出した怪物が出現し、更に目の前で凄惨な光景を見せつけられ、燐子は錯乱状態にあったのだ。
「ぁ……ゃ……」
今、燐子の目に映っているのは紅麗牙ではなかった。
いや、それが麗牙だという意識は当に彼女の中から消えてしまっていた。
見るも恐ろしい怪物が何体も現れ、血を流しながら荒々しく殺し合う最中に放り込まれた彼女には、夢と現の区別を付けることすら困難であった。
今の燐子にとっては、目の前の存在が過去の怪物がどうかなど意識にはなかった。
想像を超える恐怖が、彼女自身を目覚めさせたまま悪夢の世界に引き摺り込んでいたのだ。
「りん──」
魔人は……麗牙は、その名を呼ぼうとする。
しかし、彼女には何も見えていなかった。
目の前には血に濡れた怪物しか映っていなかった。
彼女はただ壊れかけた自分を守るのに必死になっていた。
だから……。
「嫌ァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
少女は再び、少年に拒絶の叫びを浴びせてしまった。
「ッ!?」
その叫びを聞いた時、魔人は立ち止まってしまう。
異形の姿が歪んでいき、紅麗牙の姿へと戻っていく。
この状況に覚えがあったから……。
その叫びに覚えがあったから……。
彼女こそがあの時の少女なのだと、麗牙は確信してしまった。
「……ぁ……」
同時に燐子も、麗牙の姿を感じたことで錯乱状態から解放されていた。
目の前にいるのが紅麗牙だと、ようやく認識することができていた。
しかしそれはあまりにも遅すぎた。
自分は今、彼に向けてあの時と同じことをしてしまったのだから……。
あれほど謝りたいと願っていたあの少年に、またも拒絶の言葉を投げてしまったと気付いたのだから……。
「……」
麗牙は何も言わず、ただ茫然とした顔で燐子を見つめていた。
燐子もまた自分の言葉にショックを受けて何も言えず固まっていた。
あの時と同じ公園で、同じ状況で、再び巡り逢ってしまった二人は、しかし同じ悲劇を再演してしまっていた。
「っ……」
しかし麗牙の身体が再び先ほどの魔人へと姿を変えると、彼は自身の身体を無数の蝙蝠に変え、その場から消え去ってしまった。
「っ……待っ……(いや……違う……っ)」
燐子が静止の言葉をかけるも時すでに遅く、公園からは麗牙の姿は完全に消えてしまっていた。
ここにあるのは、悲痛な顔で空に手を伸ばす燐子ただ一人であった。
「……どう、して……」
伸ばした手の先に雫が垂れ落ちる。
天から降り注ぐ雨が、茫然と固まる燐子に容赦なく降り注ぎ始めていた。
「……ぁ……(携帯が……)」
ここからどうにか動こうとして、辺りを見回し、地に落とした鞄を拾おうとする。しかしその中から端末が転がり出し、明るく画面が映されていた。
そこには彼女の友人から送られたメッセージが。
幼い日の麗牙の写真が、彼女の端末の画面に映されていた。
「っ……そんな……」
もしかすると別人かも知れない、と薄らと希望を抱いていたのだろう。自分は同じ人を二度も傷付けたのではないと思いたかったのだろう。しかしその希望も完全に打ち消されることになる。リサから送られた幼い麗牙の写真は、紛れもなく燐子の記憶の中にある少年の姿そのものであったのだから。
もはや逃れられない現実を突きつけられ、燐子は今度こそ打ち拉がれて崩れ落ちてしまった。
「どうして……わたしは……っ」
雨は止むことなく、立ち直ることもできなくなった少女の背中に降り注ぐ。
今度こそは逃げないと……今度こそは謝ろうと強く思っていたはずなのに、彼女はそんな自分の決心すら裏切ってしまった。
彼女が折れるには、それだけで十分過ぎた。
「また……また、やって……」
あの日に恋した少年に、そして自分を助けてくれた青年に……同じ人を二度も傷付けてしまった事実に、燐子は耐えることができなかった。
頬を流れる涙も、降り込める雨の中では目立つことはない。
泣く資格はないと、雨が彼女を罵っているかのようであった。
希望も決心も何もかもを打ち砕かれ、燐子は立ち上がることができなかった。
「ぅ……っぐ……ぅぅ……」
ここに崩れ落ちていく彼女の心を救ってくれる者は誰一人としていない。
涙が止まらない少女を責めるかのように、冷たい雨が小さな背中に突き刺さり続けていた。
それでは皆さま改めまして、ネコウモリ改め、春巻(生)です。
今回からは本来の名前でこの作品を投稿していきます。
これからも本作を応援よろしくお願いします。