ボーカルでヴァイオリニストな彼は   作:春巻(生)

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『心に大きな傷を残し、失意の中に沈む麗牙と燐子。そんな彼らを再び立ち上がらせるべく、青薔薇の少女たちが動き始めた』


第98話 微かな光

「……本当に着いたわね」

 

『さっすが友希那だぜ。あ〜頼んでよかった』

 

 キバットに促されてから早十数分。耳に鳴り響く薔薇の音に導かれて、私はまたも麗牙の住む屋敷へと辿り着いていた。以前来た時と同じ道を通っている気がしなかったけれど、あのヴァイオリン──ブラッディ・ローズの誘うような旋律が私の耳から離れることなく、最後まで私たちを彼の元まで導いてくれたのだ。

 

「湊さん」

 

「ええ。上がらせてもらうわよ、キバット」

 

『おう、頼むぜ』

 

 私も紗夜もここに来た目的を忘れてはいない。あの屋敷の中で打ち拉がれている麗牙と会い、立ち上がらせること。そしてもう一度燐子の前に立って欲しかったから……。

 

『あー……開けるけど、一応心の準備はしておけよ』

 

「? どういう……っ!?」

 

 屋敷には鍵はかけられてなく、容易に入ることができた。玄関戸を開けようとするキバットの忠告の意味が分からず首を傾げるが、その開かれた扉の向こう側の光景を見て思わず息を呑んでしまった。

 

 玄関口から奥の部屋、更には上に続く階段へと、床に赤い血の跡が続いていたのだ。

 

「こ、これは……」

 

『前にやられた傷が深くてな。今は大丈夫だと思うけど……刺激が強かったか?』

 

「っ……大丈夫です。こんなところで止まっていられませんから」

 

「ええ。ここまで来て今更帰るなんてできないわ」

 

 しかし麗牙の血がどうだというのだ。むしろこれが彼の血だと分かればこそ、私たちはここから去るわけにはいかなかった。血に濡れる床を踏み越えて私たちは屋敷に上がりこみ、階段を昇り、そして彼の部屋の前に辿り着く。

 

「麗牙、そこにいるのよね? 入るわよ」

 

「……」

 

 ノックをし、部屋の中にいると思しき人に話しかけるも返事は戻ってこない。予想はしていたが、勝手に入るしかなさそうだ。ドアノブにも微かに血の跡が残っていたが、お構いなしに手に取った私はその扉を開いた。

 

「……」

 

「麗牙……」

 

 ソファーの上で膝を抱え込み、小さく縮こまった惨めな姿の麗牙がそこにあった。

 

 傷が止まってから着替えたのか服に汚れは見当たらなかったが、やはり酷い(なり)だと感じてしまう。お風呂にすら入っていないのか髪も肌も荒れているし、彼の纏う空気全体が沈んでいる。キバットの言う通り、本当に生きているかどうか分からないほど、物置みたいな状態でそこに蹲っていた。

 

「麗牙、こっちを見て。私が誰だかくらいは判別できるでしょ?」

 

「……」

 

 とりあえず彼に話しかけるも反応は全くない。私の声なんて最初から聞こえていないかのように、部屋に入った時から変わらないまま時が過ぎていく。

 

「紅さん……ごめんなさい、全部キバットさんから聞きました。あなたの身に起きたこと……白金さんのことも」

 

「っ」

 

 紗夜が燐子の名を出した途端、彼の身体がピクリと反応した。しかしそれも当然か。彼がこうなったら原因は彼女との関係にあるのだから。彼についての身の上話は私よりも紗夜の方が少しは詳しいはずだし、ここはしばらく紗夜に任せるべきかと思い、私は二人から少し離れて様子を見守り始めた。

 

「私に話してくれたあなたの初恋の少女……それが白金さんだったんですね。あなたの本当の姿を見せて、怖がらせて、拒絶された。それと同じことがまた起きたと……そうなんですね?」

 

「……なんで……ここにいるんですか」

 

 紗夜の振り返る言葉に我慢できなくなったのか、その重い頭を上げてようやく麗牙は言葉を発した。しかし、何故ここにいるのかと彼は問う。恐らく「何故ここに来ることができたのか」という質問と同時に、「何故わざわざ自分の前に現れたのか」という疑問も訊ねたいのだろう。少なくとも紗夜は後者の方で捉えたらしく、光の消えた麗牙の目を見つめ、優しく微笑みながら答えていた。

 

「いてはダメなのですか?」

 

「……ダメですよ……僕は……人間じゃない……恐ろしい怪物なんですから……」

 

 燐子に拒絶されたことが相当尾を引いているのか、麗牙は自分が人間でないことを理由に私たちを遠ざけようとしていた。既に彼が人間でないことなど私たちは知っているし、その上で受け入れている。それにも関わらず、麗牙は自分から心を閉ざして私たちを拒絶しようとしていた。

 

 それはきっと、自分がこれ以上傷付かないようにするために。

 

「紅さん。私がそんなことであなたを見限ると思いますか? 言ったじゃありませんか、人間とかファンガイアとかでなく、あなたをあなたとして見ると。その気持ちは今も変わりません」

 

 紗夜も一歩も引かず、自分が彼を拒絶しないと必死に訴えていた。自分の目の前にいるのは怪物ではなく、紅麗牙という一人の存在だと、かつて自分が言った言葉を再び彼に向けて語っていた。

 確かに紗夜の言う通りだと私も感じていた。人間だとか怪物だとか言う以前に、彼は私たちと同じで音楽を奏でる一人の芸術家だ。その人が抱く気持ちに出生なんて関係なく、自分の歩いてきた道こそがその人を形作る。だからこそ紗夜は言うのだ。麗牙は麗牙なのだと。

 

「あなたはあなたです。自信を持ってください」

 

「僕は……僕……」

 

 紗夜の言葉が彼の中の何かに触れたのか、彼は縮こめていた身体を解放し、その脚を床に下ろした。ようやくソファーから立ち上がった彼に私たちの顔に希望の色が灯るが、残念ながらそうはいかなかった。

 

「そうです……僕は僕です」

 

「紅さん……っ!?」

 

 紗夜の前に立った彼の体表をステンドグラス状の模様が覆い尽くす。

 

 幻想的とも破滅的とも言えるその光景が見えた直後、彼の身体は変貌を遂げていた。

 

 そこにいたのは私たちの知る紅麗牙ではなく、紅い魔人だった。

 

 血に濡れたような紅いローブを纏った、蝙蝠を思わせる禍々しい異形がそこに立っていたのだ。

 

「麗、牙……?」

 

「紅……さん……?」

 

「僕は僕ですよ……これが本当の僕。僕は、どう足掻いてもファンガイアでしかないんですよ!」

 

 彼の言葉を信じるなら、私たちの目の前にいるのは麗牙の本当の姿……吸血鬼としての正体を現したファンガイアのキングの姿なのだろう。見るも恐ろしい真っ赤な異形を目と鼻の先にして、私と紗夜は思わず身震いしてしまっていた。人間とは明らかに違う存在だと、本能が感じてしまっていたのだ。

 

 ──恐ろしい。

 

 今まで彼に対して感じたことのない、恐怖の感情が芽生えてしまっていた。それほどまでにこの蝙蝠の魔人が恐ろしく感じてしまっていたのだ。憤怒に燃えるような顔も、禍々しい蝙蝠の翼も、鋭い爪も、目に見えるあらゆる物が人間という種族に本能的な恐怖を与えていた。ただ立っているだけの彼から放たれる威圧感は凄まじく、この存在を前にして自分たちが正気を保っていられるのが今でも信じられないくらいだ。

 

「……分かったでしょう。これだけはどうにもならないんです。僕はファンガイア。人間とは触れ合うことができない化け物……」

 

「麗牙……」

 

「僕が怖いと思ったなら、それは間違いではありません。それが人間の本能ですから。僕は、きっと……最初から人間を好きになっちゃいけない存在だったんです」

 

「っ……」

 

 おかしい。そんなこと絶対に間違っている。

 

 卑屈になる麗牙の言葉に、胸がそんな感情で埋め尽くされていた。

 

 人間を好きになっちゃいけない? そんなことあるはずがない。

 

 だって、私は知っているもの。楽しそうに音を奏でる麗牙を。私たちと音楽で繋がり、嬉しそうにしている麗牙。私たちに何かあれば助けようとしてくれた麗牙を。

 

 間違いなく、彼は人間のことが好きなはずだ。そして人間の中にいる時、彼は間違いなく幸せを感じていたはずだ。

 

 だから、彼が人間を好きになってはいけないなんて、絶対に正しいはずがなかった。

 

「麗牙……」

 

 それでいてなお卑屈になる麗牙に、我慢ができなくなっていた。

 

 彼の姿を見て感じた恐怖など、どこかに消え失せていた。

 

 だから私は……。

 

「なんです──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 異形と化した彼の頬に、思いっきり平手打ちをかましていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──っ!!?」

 

「み、湊さんっ?」

 

「ふざけないで……いつまでそうやって自分の境遇に甘えているつもりなのっ」

 

 彼をひっ叩いた手に鈍い痛みが走る。彼を打つ時にどこかに触れて切れてしまったのか、血も滲み出ているようだ。しかしそんな痛みは今はどうでもいいことだった。私は彼に、色々と思い知らせてやらなければ気が済まなかったからだ。

 

「っ、友希那さん、血が……っ」

 

 私からの平手打ちで一瞬呆気に取られていた麗牙も、私の手に浮かぶ血を見つけて息を飲み、慌てて異形の姿からいつもの彼の姿へと戻っていた。先までの悲壮感はどこへ行ったのか、顔一面に焦りの色を浮かばせて私を心配する素振りを見せる麗牙。そう、これこそが彼の本当の姿。この優しさを見せる目の前の人物こそが、紅麗牙という男のはずなのだから……。

 

「ええ、確かに痛いわ。でも、あなただって同じはずよ。何故だか分かる?」

 

「それは……」

 

 掌に負った痛みは次第に広がっていく。しかしそれがどうしたと言わんばかりに私は彼に問い質す。いや、思い出させようとしていた。私の掌に感じるのと同じくらいの……いや、それ以上の痛みを彼は感じているはずなのだから。

 

「あなたは人の心を感じることができる。人の痛みに共感することができる。そういう人だからよ、あなたは」

 

 リサが襲われてその心が壊れかけた時、麗牙もまた心から悲しんで彼女に寄り添おうとしてくれた。音楽で人の心を繋げようとすることができるのも、彼が人の心を感じて理解できるからこそだ。

 

「そんなことが出来るのに人間もファンガイアもない。誰かの心を……音楽を感じるのに種族は関係ない。だからあなたはあなたとして、今まで人の音楽を聴いてこられたはずよ」

 

「僕は……」

 

 彼には人の心から奏でられる音楽が聴こえるという。それはきっと、彼が純真な心で人の心と向き合って生きてきたからに他ならない。故に、自分の心よりも他人を優先してしまいがちでもあったのだろう。以前のリサと紗夜の時のように……。

 

「リサと紗夜から告白された時だって、あなたは二人の心を優先しようとしてくれていた。自分を後回しにして、だから苦しんでいた」

 

 それが少し前までの紅麗牙だった。二人の心を思うあまり自分の心を無視して、それで答えを出すことができずに余計に苦しむことになった。彼はそんな考え方ができる、世界で生きるには優しすぎる人だった。

 

「なのにどうして……今は燐子の心には触れようとしないのっ?」

 

「っ!?」

 

 そんな彼が、今は逆に自分のことだけしか考えていなかった。自分をファンガイアだと決めつけ、周りを遠ざけて自身をその境遇に閉じ込める。自分のことを傷付けないものにだけ囲まれようとして、その身を守ろうとしていた。

 

「一度……いいえ、二度も拒絶されて怖いというのは理解できるわ。でも、今は逃げないで欲しい。今一度、あなたは燐子のことを考えるべきよ」

 

「……そんなの……」

 

 思い出すだけで自分の心が苦しんでいくから、麗牙は深く燐子について考えようとはしなかった。彼女が今どんな気持ちでいるかなど、想像もしたくないのだろう。彼の中の燐子は、自分を拒絶した時から止まったままなのだから。

 

「苦しんでいるのは麗牙、あなただけじゃないわ。それとも何? あなたにとっての燐子は何なの? 自分が人間かファンガイアかを決めるための指針でしかなかったと言うの!?」

 

「そんなことっ……そんなことは……」

 

 私の見えすいた挑発に乗り、否定の言葉を発しようとする麗牙。最後まで言葉にできなかったけど、私たちには分かっていた。彼が燐子のことをそんな目で見るはずがないと。

 

「はぁ……」

 

 力なくソファーに座り込み、麗牙は頭を抱えて重くため息をついていた。しかし先ほどまでのただ打ち拉がれるだけの状態でなくなっただけ幾分かはマシだ。今の彼は、自分が燐子をどう思いたいのか悩んでいる。燐子の心から逃げようとしていた先までのことを考えれば大きな進歩だ。

 

 あと一息……何か、彼が燐子と再び会えるようになるきっかけがあれば……。

 

「紅さん。以前私に、小さい頃の白金さんと出会った時の話をしてくれましたよね」

 

 その時、私の隣から彼に向けて投げ掛けたのは紗夜だった。

 

「はい……」

 

「一つ知りたいんです。紅さんは、どうして幼い頃の白金さんのことを好きになったんですか?」

 

「僕が……燐子さんを好きになったわけ……」

 

 紗夜から麗牙に投げられた質問は、今の彼を形作った根底的なものだ。全ての始まり……幼い日の麗牙が、同じく幼少の燐子と出会い、恋を抱いたその理由。

 

「……」

 

 麗牙は黙り込み、片手で頭を押さえながら思慮に耽り始めた。恐らく自身の記憶を辿っているのだろう。自分が燐子に惹かれた理由を……。

 

 そして手が頭から離れることはないが、しばらくしてから再び麗牙の口が開いた。

 

「僕が昔の燐子さんを好きになったのは……実はよく覚えていません。ずっと一緒にいて、それが心から幸せで……気が付けば好きになっていたから……」

 

 彼が幼い燐子を好きになったことに劇的な理由はない。恐らく多くの人がそうであるように、共に過ごした時間が自然と二人を近付けさせていったのだろう。幼き二人の相性が良かったというのもあるかもしれないが、彼にとっては燐子の側にいることが何よりの幸せだったのだろう。

 

 それは昔も、今も……。

 

「麗牙……あなた、今でも燐子のことが好きなのね……」

 

「……はい……」

 

 消え入りそうな声で沈みながら麗牙は答えた。

 

 単に昔の初恋の少女というだけではなく、燐子は今の麗牙にとっても恋い焦がれる存在であった。そうでなければ、彼がここまで打ち拉がれることもなかったのだから。

 

「昔のあの子だとか関係なくて……それを知る前から本当に好きだったんです。もしかすると、僕の心が無意識に彼女の音楽を覚えていたからなのかも知れませんけど」

 

「昔の燐子の音楽……それは覚えているの?」

 

「いえ……僕はもう覚えて…………あれ?」

 

「?」

 

 麗牙の頭が彼の手から離れ、何かに気が付いたかのように目を見開く。

 

 その手は震えており、信じられないものを見たかのような顔で彼は呟いた。

 

 

 

 

「違う……僕……昔の燐子さんの音……ちゃんと聴いてない……」

 

 

 

 

「え?」

 

 それは私と紗夜にも予想だにしない発言であった。麗牙は音楽家として自分の音を他人に届けることを求めているが、同時に彼は誰かの音楽を聴くことも等しく求めていた。単に教養のためかと思ったが、きっとそうではない。人の音楽を聴くことに対する彼の熱意は、単なる享楽では片付けられない強い想いが感じられたからだ。

 

 しかしそんな彼が、幼い頃の燐子の音を聴いていない……その事実に私たちどころか、麗牙本人すら驚愕していた。人の心の音楽を聴くことを強く望んでいるはずの麗牙が、よりによって初恋の少女の音楽を聴いていなかった。今の麗牙であるならばあり得ないことだろう。

 

 しかし、まだその情熱に目覚めていない頃の麗牙ならば話は変わってくる。

 

 とすれば考えられる理由は一つ……。

 

「なんで……僕は聴いていなかったんだ……」

 

「……聴こうとする前に二人は離れてしまった。そういうことでは?」

 

「燐子さんの音を聴く前に……」

 

 紗夜も同じ予測を立てていたのか、麗牙にその仮説を提唱していた。その予想を頼りに己の記憶を辿り、正解を探し出そうとする麗牙。しかし未だ見つからないのか、苦悶の表示で首を振り、溜め息をついていた。

 

 だがそんな彼に対して紗夜は空かさず言葉を投げかけていた。

 

「紅さん。そもそもあなたは、どうして人の音楽を聴きたいと思ったのですか?」

 

 それはきっと、彼にとって最も大切で、全ての始まりとなる答えに繋がる言葉だった。

 

 彼が人の音楽を聴くきっかけとなった出来事がそこに……過去の燐子と関係していたのだ。

 

 だからこそ、必死に記憶の中を探す麗牙の口から、その言葉が漏れていた。

 

 

 

 

「……約束……」

 

 

 

 

 その時の彼の瞳には絶望の色はなく、黄金に輝く微かな光が作り出されていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 燐子の部屋は電気も付けられず、カーテンで外の光も遮断されていたために夜のように暗く沈んでいた。あこが言っていた通り、燐子はベッドの上で布団を被って蹲りながら、念仏のように同じ言葉を何度も唱え続けていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

「りんりん、また来たよ。今日はリサ姉も一緒だよ」

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 あこの言葉が全く聞こえていないのか、燐子は同じ動作を繰り返すだけだった。ずっと麗牙に向けて謝り続ける燐子は、その胸に抱く罪悪感に耐えきれず壊れてしまったというのだろうか。以前のアタシと同じように……。こういう時に麗牙がいてくれたらと思うも、今は麗牙自身も助けを必要としている状況で彼を求むのは酷なことであった。

 

「っ、りんりんっ! こっちを見てよ!」

 

「っ……ぁ……」

 

 膠着した状況に耐えられなかったあこは、彼女を包む布団を無理やり剥がすと、その肩を掴んで燐子をアタシたちの方へと向けさせていた。突然目に見える世界が変わり、無理にアタシたちを視界に入れた燐子の口から繰り返す言葉が止まっていた。

 

「あこ、ちゃん……今井……さん……」

 

 光を失った目でアタシたちを見つめ、燐子はようやくアタシたちの名前を呼んでくれた。あこの顔に薄らと安心の色が浮かぶが、大事なのはここからだ。今はとりあえずこちらに意識を向けさせるという最低限のことをクリアできただけなのだから。彼女の瞳は未だ絶望の闇に埋め尽くされているのだから。

 

「燐子ごめん。アタシたち……燐子に何があったのか全部聞いたんだ。燐子と麗牙の──」

 

「ぃゃ……イヤァ!」

 

「りんりん!?」

 

 麗牙の名を聞いた途端、燐子は自分の肩を掴むあこの手を振り払い、再び布団を頭から被さって蹲ってしまった。余程ショックな出来事のためか、麗牙の名前を聞くだけでその時の記憶が蘇り、燐子は半分錯乱してしまっていた。

 

「ご、ごめんなさいっ……ごめんなさいっ!」

 

「りんりんっ! ここに麗牙さんはいないよ! いくら謝っても届かないよ!」

 

「っ! ……ぅ、ぁ……っぐ……」

 

 あこの正論が響いたのか、燐子の口から力ない声が漏れていく……。そうだ、ここに麗牙はいない。いくら燐子が彼に罪悪感を抱いて謝ろうとも、ここからでは彼に届くことはない。燐子がしていることは、ただ自分の心を壊さないようにするための自己防衛でしかなかった。

 

「りんりん。あこたちがいるから……あこたちに話してよ……りんりんの辛いこと悲しいこと、全部聞いてあげるから」

 

「ぅ……」

 

「燐子。今は逃げないで……全部アタシたちに話してよ。ね?」

 

「ぁ……わた、し……」

 

 辛いことだとは分かっているけど、彼女には抱えている悲しみをそのまま溜め込んでほしくなかった。一つ一つを言葉にして、全て吐き出してほしかった。友希那がアタシにしてくれたように、今度はアタシが燐子の苦しみを全て受け止めてあげたい。その覚悟は既にできていたから。

 

「ま、また……またやってしまって……もう逃げないって……心に誓ったのに……」

 

「うん……」

 

「あの子に会えたら……謝ろう……謝ろうって……ずっと……ずっと思っていたのに……っ」

 

「りんりん……」

 

 燐子が内なる後悔を言葉にするにつれて、その瞳からは止めどなく涙が流れていく。既に何度泣いたか分からない燐子の目蓋は僅かに腫れており、この二日間ずっとこうして泣いていたのだと思い知らされる。

 

「わたし……結局何も……ぐっ……変われなくて……ひっぐ……またあの子……麗牙さんのこと……っ、き、傷付けて……も、もう……自分が……嫌になって……ぅっ」

 

「りんりんっ……」

 

 嗚咽混じりに泣いて告白する燐子を見ているのが辛くなる。あこは激しい自己嫌悪に陥った燐子に寄り添わずにはいられず、それ以上はいいと言わんばかりに彼女を抱き寄せていた。燐子の口から言葉は消えるも、その喘ぐような苦しい息遣いは耐えることなく続いていた。

 

「ぅ……っぐ……ひっ……」

 

「ねぇ、燐子……」

 

 ここまで悲愴に暮れる人を見るのは初めてで、アタシの心まで抉られるような痛い気持ちにさせられてしまう。しかしそれでは燐子は助けられない。もはや一人で立ち上がれない彼女には、きっとアタシたちが必要となっている。アタシは燐子に向けて、一つの質問を投げ掛けていた。

 

「燐子はさ、どうして昔の麗牙のことが好きになったの?」

 

「ぇ……」

 

 燐子がここまで心を痛めたのは、単に彼女が優しいからだけじゃない。よりによって、当時好きだった少年を酷く傷付けたことが彼女にとっての何よりの苦しみとなっていた。そこまで幼い燐子は麗牙に恋焦がれていたのか。それならばどうしてそこまで好きになったのか。悲しみに暮れる燐子に思い出させたくて、アタシは彼女に問い質していた。その答えがきっと、今の燐子を救い出す鍵になると信じていたから……。

 

「……よく、覚えていません……二人でいる時間が……とても心地良くて……気が付けば……好きになっていたんだと思います……」

 

「麗牙といる時間がとても幸せだったんだ」

 

「はい……あの頃は麗牙さんも……わたしと同じで……引っ込み思案な人でした……似たもの同士……だったのもあるのかな……」

 

「へぇ……引っ込み思案な麗牙かぁ」

 

 確かに前にも麗牙自身が言っていたっけ。昔はもっと引き篭りがちだったって。その頃の麗牙を知る燐子が少し羨ましくなるも、その気持ちは見せることなく胸の奥に仕舞い込む。

 

「それなのに麗牙さん……当時伸び悩んでたピアノのことも……ずっと応援してくれて……」

 

「そうなんだ。じゃあ、アタシたちの中じゃ麗牙が一番最初に燐子のピアノを聴いたんだ」

 

「あこよりも先か〜……なんか羨ましいなぁ……」

 

 隠すことなく素直に羨ましがるあこに微笑ましくなって、アタシは少しだけ緊張が解けていた。麗牙が誰よりも早く燐子と出会い、そのピアノのことを知っていたなら、麗牙が一番先に燐子の聴いているのは自然なことだ。アタシもあこも、完全にそうなのだと思い込んでいた。

 

 それは多分、燐子も……。

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 

 アタシたちの言葉で何か引っ掛かりを覚えたのか、燐子の口から疑問の声が漏れていた。

 

「え、いや……あれ……?」

 

「り、りんりん? どうしたの?」

 

 両手を所在なく振りながら、燐子の顔は次第に困惑の色が濃くなっていく。先程までとは意味が違うけれど、明らかに様子のおかしくなった燐子にアタシたちの間にまで動揺が広がる。一体燐子は何に行き着いたというのか……。

 

「嘘……」

 

「燐子?」

 

 やがて燐子は信じられないものを見たように目を開き、その頭を両手で押さえつけ、そして……。

 

 

「違う……わたし……聴いてもらってない……麗牙さんに……わたしの音楽……」

 

 

 そんなことを口にしていた。

 

「聴いてもらってない……?」

 

「え? どういうこと? 麗牙さん、りんりんのピアノ聴いてくれなかったの?」

 

 あの麗牙が彼女の音楽を聴かず仕舞いで終わったということが意外で、一瞬呆気に取られてしまう。誰かに音楽を届けることが好きで、同時に聴くことも好きだと言っていた麗牙が、自分のかつての想い人の音楽を聴いていないなんて……。そんなアタシたちの驚きも束の間、燐子はその理由を自信無さげに語ってくれた。

 

「多分……わたしが……彼の前で弾く勇気を……出せなかったから……」

 

「そう、なんだ……」

 

 聞けば今よりも大分引っ込み思案だった燐子が、気を許したとは言え幼い日の麗牙に自分のピアノを聴かせるのは相当の勇気がいることだと思う。伸び悩んでいた頃なら尚更だ。だから彼女の言葉に納得してしまい、それ以上の言葉を投げることが出来なかった。

 

「でも……あれ……?」

 

 しかし燐子の口から出る疑問の反応は尽きない。自分でもついさっきまで、麗牙に音楽を聴いてもらっていたのだと記憶違いを起こしていたくらいだ。何が正しくて何が間違っているのか、彼女は今も記憶の中の荒波に飲み込まれていた。

 

「わたし……彼に……」

 

 自分が忘れていることの中に大切な何かが眠っているのだと、燐子の様子からそんな予感がしていた。

 

 自分の過去へと迷い込み、しかし逃げまいと見えない暗闇の中からそれを見つけ出そうとしていた。

 

「ぁ……そう、だ……」

 

「燐子?」

 

 そして記憶の(よすが)を辿り、やがて何かに触れたのか燐子の顔が僅かに上がった。

 

 その顔には迷いも困惑もなく、しっかりと目を開いて彼女は呟いた。

 

「どうして……忘れてたんだろう……」

 

「りんりん、何か思い出したの?」

 

「うん……

 

 

 

 

 

 

 彼との……約束……」

 

 

 

 

 

 

「麗牙との約束?」

 

 かつての燐子は、麗牙との間で何か約束をしていたのだろうか。

 

 今の今まで忘れてしまっていたが、それが燐子にとって何よりも大事なものだったことが、次の彼女の言葉でアタシたちにも理解できていた。

 

 

「わたしが……ピアノをやめられなかったのも……それはきっと……」

 

 

 そんな彼女の瞳には悲しみではなく、希望にも似た微かな光が宿されていた。

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