花嫁も五人居ていいんじゃない 作:なでしこの犬
三玖の胸を揉んでから、二週間が経った。九月に入って、ほんの少しだけ肌寒い日も増えてきたような。まだまだ暑さは残っているが。とにかく、この二週間は俺としても生きた心地がしなかった。しかし、何とかこれまで通りの日常に戻ったような気もする。
生焼けハンバーグを食べたせいでか、あれからしばらく腹痛に悩まされたが、病院代も勿体無かったせいで無視。現に回復しているのだから、人間とは不思議なものだ。
あれから彼女は、これまで通りに接してきている。ただ、俺と話すときは少しだけ上の空になったような。あくまでも俺の直感だが。
俺はというと、あの日以降自らの性欲がおかしくなったように感じる。それまでは一人で慰めることなんて滅多になかったが、この二週間で両手分に到達しそうなほど。これまでの自分を考えれば、無駄な進歩なのだ。
両手には、あの日の彼女の感触が確かに残っていた。
それを思い出すだけで、欲が湧き出てくる。どうなってるんだ、俺の心は。いや今はダメだ。今日こそ一人で勉強をして、迫り来る二学期の中間試験に備える必要がある。今のうちに蓄えておかないと、しばらくすれば奴らの対策に時間を取られる。そう考えた。
それはそうと、今日は久しぶりに家で一人になっていた。親父はらいはを連れて遊びに出かけているらしい。基本らいはが勉強の邪魔をすることはないが、親父がウザい。そういった意味でも、今日は集中できそうだ。
小さくて、ボロい折りたたみ式の机を広げる。数少ない俺の相棒とも言える存在だった。家が貧乏なせいで彼女たちが持っているような立派な机なんて買えるはずもなく。唯一買ってもらったコイツには、人には理解出来ないであろう愛着が湧いていた。
それからはひたすら集中して、部屋に夕陽が差し込むぐらいまでノンストップで勉強。こんなに一人の時間が良いものかと、改めて実感することができた。ボロい壁時計は十七時を指している。この辺りで一度落ち着いてみるか。背伸びをして、床に横になる。畳が固く、痛い。
タイミングを見計らったかのように、らいはと親父が帰宅した。
気怠そうな親父の声とは反対に、らいは。いつもの輝かしい笑顔を見せている。それだけで勉強頑張って良かったと思えるほど、愛おしく可愛い。
らいはの手にはビニール袋。何かを買ったのだろうと気にしていなかったが、天井を見上げていた俺の視界が遮られた。
「じゃーん!」
「……なんだ?」
ビニール袋の中身は四角形のようで、角が顔に当たって痛い。
袋を受け取って上半身を起こす。中身を確認する前に、うっすらと透けて見えるが、どうやらこれは花火のようらしい。
よく見る大きな四角形ではなくて、かなりコンパクトなモノ。いきなりどうしたのかと問い掛けると、らいはは少し照れくさそうに答えた。
「花火大会の時、四葉さんに花火買ってもらったから。そのお礼で」
「あぁ、そんなこともあったな」
「お金無くて、その時よりはかなり小さいけどね……」
季節的には遅い気がするが、そのおかげで在庫処分のための安売りにでもなっていたのだろう。追及することなく、俺は袋から花火を取り出した。たしかに小さめだが、逆にそれが
らいはの言う事。それは、五月が俺に給料を渡しに来た日のことだ。つい先日のことだが、昨日のことのように覚えている。あの時、初めて彼女たちとの関係性を考えたような。
関係性といっても、好き嫌いの話ではない。俺は彼女たちの何なんだ? そう自問しても家庭教師以外出てこなかった。それが、少しだけ、ほんの少しだけショックだったというか。別に事実なのだから、気にする必要なんて無い。そんなことは分かっていた。
その時、
結局、その日は一花の
「なるほどな。確かに俺もお礼を言わないといけない」
「うん。喜んでくれるかな?」
「喜ぶに決まってる」
俺はこういうのに気が利くタイプではない。高校生ではあるが、妹にもその辺りは勝てそうになかった。
だが、お返しというのは値段や大きさじゃなくて気持ちの問題だとは思う。家が貧乏だと知っている彼女たちからすれば、らいはがお返しをくれたというだけで嬉しいに決まってる。俺とは違って、らいはには好意的な態度を持っているのだから。
心配そうな彼女にそう言うと、ニコッと微笑んで見せた。その笑顔が天使みたいで思わず抱きしめたくなる。
「持って行くか? 付いて行くぞ」
らいはが持って行くのなら、彼女たちも嬉しいに違いない。俺としても、ついでに四葉へお礼を言えればそれでいいのだから。しかし、らいはは「ううん」と首を横に振った。
「今日は疲れちゃった。代わりにお兄ちゃん持って行ってくれる?」
「俺が? まぁ別に構わんが」
笑ってはいるが、確かにいつものような元気オーラは無い。それを察した親父が台所に立つと、らいはも大人しく床に横になる。よほど疲れたのだろう。今はそっとしておいてあげたい。
それに、俺だって四葉には礼を言わないといけないのだ。もうすぐ日も暮れる。らいはを連れて行くよりは、一人の方が気は楽だった。
親父に一言言って、俺は家を出た。
それからしばらく歩けば、もう見慣れたタワーマンション。夕焼けに染まる街並みからは、一線を画している。あれほど入るのを躊躇っていたのに、今ではオートロックにも慣れたものだ。入り口には誰もいない。インターホンを押す。
「……フータロー?」
「み、三玖か。悪いな、いきなり」
こちらからは顔は見えない。声だけで三玖だと判断する。
ハッキリと話してくれれば、声だけでも判別できるようになりつつあった。二週間前みたいに、変な声を出さなければ問題ない。
「どうしたの?」
「四葉居るか? 渡したいものがあって」
「いまは出かけてる。もう少ししたら帰ってくると思うよ」
「あーそうか。参ったな……」
留守だった時のことを考えていなかった。
三玖に預けようかとも考えたが、それはそれで何というか。らいはがそれで納得してくれるだろうか。そんなことを考えていると、インターフォン越しの三玖が口を開いた。
「家で待ってていいよ。いま誰も居ないし」
「だったらそうさせてもらうか……」
「うん。誰も居ないから」
「……なぜその部分を繰り返す?」
「胸、また揉んでくれる?」
何を言ってるんだコイツは。誰かに聞かれでもしたら、色々とマズい。明らかに俺が悪者になるのは目に見ている。いや、確かに悪いんだけどな。
だがどうする。玄関を開けると全裸の彼女が出迎えてきてみろ。理性が崩壊する未来しか見えない。それなら、ここで待っているのも手だ。今、モニターにはどんな顔が映っているのだろうか。考えたくもない。
「じょーだん。開けるね」
いたずらっぽく、三玖は言う。いつからそんな冗談を覚えたのか。生きた心地がしない悪い冗談だ。自動ドアが開く。この光景にも慣れた。俺とは正反対の世界で生きている彼女たち。その存在がつくづく不思議に思える。
家にはもう少しで全員が集まる。四葉もそのうちの一人。彼女の冗談を信じて、出直すよりは家で待たせてもらう方がいい。アイツらが休日にどう過ごそうが気にならないが、夕方には全員が帰宅しているイメージは強い。それだけ仲が良いのだろう。エレベーターを待っている間に、そんなことを考えた。
「あれ? 上杉さーん!」
自動ドアを抜けて、見慣れたリボンが俺の元に近寄ってくる。噂をすれば何とやら、だ。四葉の声が鉄筋コンクリートの壁に綺麗に反射して、よく響く。うるさいぐらいだ。そんな彼女は、大きめのリュックを背負っている。運動でもしてきたのだろうか。
「うるさい。それとナイスタイミングだ」
「ふぇ?」
ナイスタイミング。いや本当にナイスタイミングだ。彼女はその言葉の意味が分からなかったのか。首を傾げて、俺を見つめている。顔は全員一緒だが、こうしてみると雰囲気は若干の違いがある。
となればだ。身体の感触だってそれぞれ違うのではないか。特にこの四葉は、五人の中で一番運動神経が良い。それだけ締まった身体つきをしているに違いない。
「………って何考えてんだ俺!」
「ふぇ?」
全てを否定するかの如く、言葉を洩らしてしまった。首を振って、意識を現実世界へ引き戻す。完全なる無意識。何度も言うが、人間とは不思議なものだ。
そんな俺の様子に、四葉は目を点にしていた。ナイスタイミングだと言いながら、それを否定するような発言。どっちがどっちかよく分かっていない様子。現に俺もそうなのだから、四葉に分かるはずもない。
気を取り直すように、一回だけ咳払いをした。
「悪い。……これ、らいはからのお礼だ」
「お礼? 私何かしましたっけ?」
「ほら、花火大会の時」
ビニール袋を差し出すと、彼女は恐る恐るそれを受け取る。俺は二乃じゃないんだ。別に毒なんて渡さない。
よく分かっていない様子の彼女に、花火大会の時のことを説明する。それと、らいはの想いも。面倒を見てくれたお礼に、らいはが四葉に感謝の気持ちを込めて、この花火を贈ったことを伝える。すると、四葉はうるうるとその大きな瞳を潤ませた。
「わ、私……感激ですっ!」
小さな花火セットを、ぎゅっと力強く抱きしめている。中の花火が折れてしまわないか心配になったが、今の四葉にそれを告げるのは野暮だろう。俺としても、ここまで喜んでもらえるなら嬉しいし。
四葉も、五人の中では一番と言っていいほど、らいはのことを気に入っていた。顔をスリスリしたり、ギュッと抱きしめたり。そればかりは、四葉に嫉妬すら覚える。思い出すだけでな。
「その…俺からもお礼言わせてくれ」
「う、上杉さん…」
「ありがとう。遅くなったけどな」
らいはが買ってきた花火セットに、俺の想いも乗せる。身勝手な兄貴かもしれないが、この気持ちは本物だ。あの時、四葉が居なかったら、らいはが迷子になっていたかもしれないのだから。
「そんないいですよ。私だって、らいはちゃんと一緒に居るの楽しかったですし」
「らいはも言ってたよ。本当に助かった」
「えへへ」
満点の笑顔だ。その満点をお前のテストで見てみたいよ。
なんて毒づいてはみたものの、そんな四葉の笑顔にこっちまで笑ってしまう。エレベーターの到着音がすると、四葉の方を向いていた身体を正面に移す。誰も乗っていないようだ。
そこでふと思う。よくよく考えれば、目的は達成出来たのだ。ここでエレベーターに乗る必要も無い。俺はドアが閉まらないように手で押さえ、四葉に中へ入るよう誘った。
「……四葉?」
「上杉さん。少し遊んで行きませんか?」
「…なぜ?」
「花火、やりましょうよ」
四葉は俺が渡したビニール袋をクイッと顔の横に上げ、そんな提案をする。表情は微笑んだままだが、少し赤く染まっている。よほど嬉しかったのだろうか。
だが、それは俺とやるべきではないだろう。そう自己完結する。そもそも、俺はそれを買ってもいないし、買おうとすらしていない。だからそれは、らいはとやるべきなのだ。
「それは俺とやるべきじゃない。らいはとやってくれ」
「どうしてですか?」
「……どうしてもだ」
彼女の直球すぎる疑問。どうしてと言われれば、上手く言葉に出来なかった。こんな誤魔化しは、コイツら姉妹に通じないことは分かっているのに、まだそうやって逃げようとする自分が居る。
「自分が買ってないから、とでも言うつもりですか?」
「……………違う」
「嘘、下手です」
お前にだけは言われたく無い。あくまでも、これは言葉が出てこなかっただけなんだ。そう言い聞かせる。
「私は、上杉さんとやりたいです」
四葉は畳み掛ける。俺が困っていることを理解しているようで。いつの間にそんな小悪魔キャラになったのだろうか。
エレベーターのドアが一定間隔で俺の腕を刺激している。この体勢もきつくなってきた。だが少しでも顔を歪めると、四葉に引き離されそうで、少し意地を張ってみる。
「俺は別に。今日じゃなくていいだろ」
「今日じゃないと、ダメなんです」
「なぜ?」
そこまで言う理由があるのだろうか。大して期待もせず、聞き返す。
「今、すごく幸せなんです」
ドクンと心臓が高鳴った。……急にそんな顔をしないでほしい。力が抜けそうになる。
微笑みながらそんなセリフをよく吐けるなと、毒づきたい気分だ。しかし、俺の喉はそれを許さなかった。
らいはからのプレゼントが相当嬉しかったようで、見ているこちらもつい笑ってしまいそうになる。
「四葉が幸せなのは結構。だが俺はそうでもない」
「あー。さっきはお礼言ってたのに。幸せじゃないんですかー?」
「いや、そういうわけじゃなくてな…」
「なら、私の幸せをお裾分けしますよ」
そもそも今の俺にとっての幸せというのは、お前と花火をしないことなのだ。用は済ませたし、ここに長居する理由もない。それを分かっているのだろうかコイツは。
いい加減、腕にも限界がある。塊がぶつかってきているのだ。別に痛くはないが、それが蓄積されていくと相応の痛みが出てくる。諦めて手を離すと、待っていたかのように四葉が俺の右手を引いた。
「ささ! 行きましょう!」
「お、おい待てって!」
俺の言葉なんて、彼女の耳には届いてすらいない。
颯爽と手を引かれ、マンションを出て行く。彼女の顔は見えないが、腕には結構な力が込められている。ここまで来れば、もう逃げるのも嫌になった。そもそもコイツから逃げ切れるわけないが。
少し走ると、ゆっくりとスピードを落とす。振り返ればマンションが大きく見える距離。それでも、俺の息を切らせるのには十分すぎる。一方の四葉は余裕の表情だ。化け物か。
「花火とは言いましたけど……まだ明るいですね」
「日の入りまであと一時間近くあるぞ」
「んー」
考えているようで、コイツは何も考えていない。断定は出来ないが、多分そうだと思う。
夕焼けが空を覆っている。花火が生きるのは今じゃない。どうやって時間を潰すべきか。いつの間にか俺も行くテイで考えているのが自分でも笑えた。
「らいは、呼んでくるか?」
「疲れてるのに申し訳ないです」
「俺も疲れてるんだが」
「上杉さんは別です」
何を根拠にそんなことを言えるのだろうか。
俺だって朝からさっきまでノンストップで勉強をしてたんだ。疲れているのは事実。それを根本から否定された気がして、少しだけイラついた。そのイラつきをぶつける体力は残っていなかったが。
それから数分、道路の路肩で二人して考えた。俺としても、遠方まで行く体力なんて無いし、あわよくばこのまま帰りたい。しかし、四葉はそれを認めようとしなかった。そして、彼女は一つの結論を導き出した。
「………うん。公園でお話しましょうよ」
新しく高評価してくださった
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