事の始まりは[いつも]とさして変わらない[日常]だった。
それは人の記憶も遠くなる程、ずっと昔の事だったろうか。
それとも、つい最近の出来事で只知らない場所で起きていた事かも知れない。
険しい山道と、眩暈を起こす程の絶壁の先にある物語だ。
*
夜を我が物顔で飛び回る梟も、闇に潜み草を食む草食獣達も眠りに付く深い夜だった。
草むらに微かに残った跡を辿り、焼ける匂いと、空へと立ち上る煙が見えれば、もう直ぐそこである。
絶えず篝火を灯し、くゆりながら立ち上っていく煙を見つける事が出来る者は、極一部の[特殊な者]達だ。
篝火は大事な灯り。
これが無ければ、幾ら特殊な者であったとしてもこの森で迷ってしまう。
その篝火の火の番をする、黒い子鬼が一人。
つまらなさそうに火かき棒で地を抉り小さな穴を掘っていた。
宵闇を切り取って塗り付けた髪色と、黒曜石の玉を二つ磨き上げはめ込んだ様な瞳の小鬼だ。
癖の強そうな髪は、手を翳せば刺さって傷がついてしまう位に元気に四方八方飛び跳ねている。
子鬼は大口を開けて欠伸をしたかと思えば、火かき棒を乱暴に地面に刺し、腕をゆるゆると組む。
全ての動作が面倒だと身体で現して居る子鬼の態度は、見ている此方が憎たらしくなってくる程のふてぶてしさがあった。
羽音がした方へ、子鬼は顔を上げる。
夜を舞う鳥は羽音を立てない。
空が白み始めていた。
朝焼けの空に向かい、飛び始める鳥達を子鬼は見送る。
篝火が置かれている広場はポッカリと穴が空いていると言った方が分かり易い。
木が火を、煙を避けて上へ上へと伸びているのだ。
薄らと青く、ほんの僅か朝焼けの朱色が消え始めた辺りに子鬼は重い腰を上げる。
朝が来たのだ。暁だ。
この篝火も今宵の役目は終えた。
そして、再び来る夜に備えなければ成らない。
子鬼は燃え盛る火を調節し、小さく縮こまらせればそれに蓋をした。
また今日も頼むぞ、と労わりの言葉を掛けて。
呪いの様に声をかければ、その夜も勢い良く燃え盛るのだ。
火かき棒でや熊手を使い、周りに散った灰や落ちた燃えカスの枝を掻き集め、近くに掘られている穴に落とす。
こうして周りの後片付けをしなければ、帰った時キツく言い聞かせられるからだ。
子鬼の帰る場所は、師の待っている小屋だ。
子鬼の師は、妖術と怪力で有名な仙女である。
その仙女の宅である桃仙香岳に有る屋敷に押しかけ、半ば強引に弟子になった。
しかし、面倒見の良い彼女は呆れながらも子鬼を受け入れ、今ではすっかり一番弟子が板に付いている。
仙女の修行仲間である蝦蟇池の蝦蟇仙人にも、名前を覚えられ久しい。
手を灰だらけにして、子鬼は頭から滴る汗を拭う。
顔に線を引くようにして灰が付いたが、それを指摘する者は此処には居ない。
やれやれと腰に手を当て、背伸びをすると、縮こまった身体が冷えた朝の空気を肺に取り込み。
夜にあてられ、薄らボンヤリとした意識を目覚めさせる。
夜の凍える空気と、朝の冷え冷えとした空気は[味]と[匂い]が違う。
子鬼はそう思っている。
ツンと鼻に入ってくる、何処か雪の気配を感じさせる空気は好きだ。
ひやりと頬を掠めて行く、風も小屋を一層恋しくさせる。
火を眠りにつかせ、悴みだす指先を擦りながら子鬼は火かき棒を肩に掛け、熊手を引きずるようにして持ち直した。
子鬼が歩くと熊手が地に五本の爪痕を、ガリガリと残していく。
それを気にする事なく、子鬼は意気揚々と住処へと足早に戻っていくのであった。
* * *
人も獣も、踏み入れれば己が何処から来て、何処へ行くのかさえ忘れてしまう森の奥深くに一軒の屋敷があった。
屋敷の側には畑は田が有り、野草も植えつけられている。
子鬼の師である仙女は、薬草を使い様々な薬を生み出す事にも才がある者だ。
しかし、子鬼は薬には興味が無く、妖術や咒いばかりを教えろと師にせがむ。
だが、彼女はヤンチャを過ぎている子鬼を窘めながらもゆっくりと噛み砕きながらも教えてくれるのだ。
子鬼はそんな師の厚く包むような優しさを好ましく思っている。
その彼女が苦行の一つだと、子鬼に任せた篝火番を返事一つで引き受けた。
言い訳ばかりしている子鬼にしては、珍しい程に素直だった。
子鬼は母屋を見やれば、もう灯りが消され、朝日を取り込むために小さく雨戸が開いていた。
それを確認すると、子鬼は大きな白塗りの倉庫へと向かい立て付けの悪い戸を足で乱雑に蹴り上げ、喝を入れると戸がすんなりと開く。
戸の直ぐ横に肩に掛けていた火かき棒と熊手をを掛けると、後ろ手で戸を閉める。
そして、畑の横にある井戸で軽く身体の汚れである、すすや灰をを流していく。
冷たい水に顔を顰めながらも、着物の上を脱ぎ頭から水を被る。
もうここまで来れば、寒いなど言ってはいられない。
頭を振り、水滴を飛ばすがしつこいすす汚れは取れにくい。
師の作った薬を身体に塗りこみ、熱い湯をに浸からなければどうせ取れないのだと、諦め着物の帯をキツく締め直す。
残っている水が髪から垂れ、地面に丸い跡を残す様をジッと見詰め、白い息を忌々しげに吐き出し母屋の方へと歩き出した。
「今帰りましたー」
間延びした声を張り上げ、屋敷の門を潜ると何やらいい香りが子鬼の鼻を擽った。
鼻をヒクつかせれば今日は朝食は野草の粥と、鹿を出汁に使った煮物だと分かる。
鹿は昨晩、篝火番へ行く前に子鬼が仕留めて来たモノだ。
久々に肉にありつけると、子鬼は笑みで顔が歪むのを止める事が出来ない。
秋に脂肪を蓄え、冬明けに全て使い果たしてしまうが、まだ冬が始まったこの時期の鹿は美味い。
脂の乗ったモミジ肉と、師の料理の腕を思うと自然と唾液が口を潤した。
足拭き用の桶には、熱い湯が入っていた。
添えられた手拭いを浸し、草履を脱いだ足の裏や、指の間まで丁寧に拭い洗っていく。
まだ、湯は熱かった。師が足先まで冷やして帰ってくる子鬼の事を思って、熱過ぎる程に沸かした湯を入れてくれたのだろう。
子鬼が帰ってくる間に、それは丁度良い温度へとなり、凍えた足を人肌に戻していく。
洗い終わると、下駄を引っ掛ける。
土と灰で汚れた湯を捨てる為、玄関先の野草が生い茂ったそこへと勢いをつけて中身をカラにした。
そして、漸く母屋に上がれるのだ。
匂いの元を追い、師が居る筈であろう台所へと顔を出した。
台所は師の仕事場である薬庫を隣接してある、高い天井にまで引き出しだある大箪笥の中身は、全て貴重な薬草だ。
その下にはズラリと大きなガラス瓶に詰められた薬草。
干してあるそれ等は、一見茶葉の様にも見える。
師も朝早くから薬を煎じていたのだろうか。まだ、仕事場から苦々しくも何処か甘く、青臭い匂いが漂ってきていた。
「シショー、お早う。今帰ったぞ」
「お帰りなさい。ほら、ぼさっとしてないで手伝ってちょうだい」
生意気にもまるで身内に語るような口調にも、師は簡単な返事を返し、朝飯の用意を手伝うように言った。
白い前掛けをした、桃色の髪を二つに結った女性が、忙しそうに釜の前で粥の具合を蓋を取り見る。
香りが良く、師の顔も綻んだ。
「マダラ、ねぇっ!いい匂いでしょう?」
嬉しそうに振り返った彼女の顔は、照り出した朝日の為なのか。
己の視界がそうさせているのか、眩しく直視が出来ない。
マダラと呼ばれた子鬼は、熱くなる顔を隠すように背を向け盛り付ける食器の用意をし始めた。
今日も忙しい、一日が始まる。