鈴ノ聲   作:芦田 夏糸

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前兆と始まり

 


第三話

 

 

異変は突然表れた。

 

最初は小指の自由が効かなくなった。

疲れか何かだと思い、弟子の仔鬼にも話さず何事も無い様に過ごした。

 

次は両中指だった。

流石に生活に支障が出始めた。

物を掴むにも、支える指が動かないと成ると何をするにも庇ってしまう。

可笑しいと思い、痺れ治しを飲み下しても効果が無かった。

 

その三日後、遂に右腕が痺れ始める。

サクラは薬を使うのを止めた。

右腕が完全に動かなくなってしまったからだ。

 

疲れではない。

これは呪いだ。

[誰か]が自分に[呪い]をかけている。

 

上級、否、それよりも格が上の呪いだ。

それも、仙女として力が強いサクラの片手を蝕む呪い。

 

しかし、これ程の威力を秘めた呪いは術者にも何らかの影響が出る。

それならばこの近くに術者が居る筈だと、千里眼の薬を使ってもサクラは見つけ出すことが出来なかった。

ならば呪い返しだと策を練る。

 

薄く紅を塗ったかの様な唇を噛み締め、サクラは奪われた右腕を爪が食込む程に掴んだ。

痛みは無い。

その虚しさが、サクラの闘志を燃やす。

薄緑色の目が好戦的に閃いた。

 

(負けるもんかっ…!)

 

それならばと、桜から仕掛けることを決意する。

 

 

弟子の仔鬼に呪い返しの準備をさせ、三日三晩術式を唱えた。

呪い返しは他者を部屋の中に入れてはならない。

完全な密室で行われなければ、完全に術者を捉え損ねるのだ。

紅い布を天井から垂らし、蝋に囲まれた薄らと常闇に浮かび上がる女の姿は、妙に生々しい。

片手を縄で縛り、印を組ませたまま固定されている様は、何かの怪しげな宗教、又はその筋の遊びにも見えてしまうのは、サクラが額に滲ませた珠の様な汗と、苦しげな表情が差し向けた危なしげな想像力の所為である。

 

絞る声で術を唱え続けた。

呪いを掛けた阿呆に己の犯した罪の大きさを見せる為の罰。

その筈だったのだ。

 

しかし、呪い返しは更に大きな呪いとなってサクラの元へと還ってきてしまう。

サクラは術者に必要な[声]と[左腕の自由]も失ってしまったのである。

 

 

師の様子が可笑しいと気づき、マダラは何重にも重ね貼られた札を払い、扉を蹴破った。

噎せ返る程の薬香と、紅い布の海を両の手でかき泳ぎ、師が書いた呪い返しの陣へと辿り着く。

彼の予感は当たっていた。

師の周りを囲むようにして灯された灯りは全て消え、陣の中心で師が蹲り気を失っていたのだ。

 

灯りの火はマダラの世話する[篝火]のものだ。

あの篝火は意志を持っている。そして魔力も持ち合わせていた。

その火の分身である蝋が全て消えているのだ。

 

先ずはこの場からサクラを離さなければならない。

悪い気が香の煙に紛れて渦を巻いていた。

術の行われた部屋から引きずり出し、サクラの自室へと運ぶ。

 

師は気を失っていただけでは無かった。

 

そこから数日。

サクラは眠ったままだった。

 

 

 * * *

 

 

湯から上る煙が低い天井を擽り、それに我慢が出来なかった天井は家鳴りでぱちんと笑う。

黒い硬い質の髪から微かに見える二本の角を持つ仔鬼の表情は晴れない。

その黒々とした目は完全に映す光を失い、目下で静かに一定の呼吸を繰り返す美しい人の顔を、湯で湿らせた布で拭った。

反応はない。まるで人形の様である。

 

成長期に差し掛かり丸みを失い始めた指で、マダラは美しい人形の頬を撫ぜた。

表情が豊かだった師の顔を見ていると、耳の奥に仕舞われていた彼女の声が蘇る。

 

 

 -私に喧嘩売るなんで良い度胸じゃない!

マダラ、この呪い返しが終わったら思いっきりお酒飲むから、用意しておいて!!

 

 

結局、用意していた果実酒は主に飲み干されること無く、蔵の中で眠り続けていた。

主と同じ様に。

 

(酒、強くねぇ癖に)

 

瞼を布で何度もなぞり目覚めてくれと願う。

その思いに反する感情も、己の中に有る事をマダラは知っていた。

 

師の寝巻きの合わせをそっと開き、肌を陽の下に晒す。

再度湯で湿らせた布で、白い肌を磨き上げる。

最初の内は形の良く小ぶりな乳房を目にするだけでも恥ずかしく思ってしまい、目を背けながらの清拭だったが、ここ数日で慣れてしまった。

しかし、何も感じない訳ではない。

 

その美味しそうな肌に齧り付きたくもあったが、反応が無いのでは面白く無いと、己の[獣]が欠伸をつくがそれでも眼はギラギラと怪しげな光を放っていた。

今この、尊い人を[支配]しているのが自分である事に感じた事のない興奮を覚える。

幼い弟が遊びで捕まえた駒鳥を籠に閉じ込め、世話した日を思い出す。

小さく柔らかい生き物を生かすも殺すも己次第だと、狩りでは味わえ無い[感情]だった。

 

布が手から滑り落ちる。

宙に浮いたままの両の手は、彷徨う事無く細い首筋に手をかけた。

 

そして、ゆっくりと締め上げる。

 

深く静かな呼吸、上下する胸元。

きっと締められている事も知らないであろう、安らかな表情。

 

(サクラ…)

 

己が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

仔鬼の瞳が紅く染まる。

手の中にある温かさは彼女の鼓動。それを握るのは己であり。

それだけでも、言い表せぬ喜びが腹の底から込み上げた。

 

しかし、同時に虚しさが心の蔵を貫く。

 

これでは本当に[人形遊び]である。

自分の欲しかったのはこれではない。

動かぬモノは見ていても楽しくない質なのだ。

 

閉じられたままの瞼に口付けを落とす。

柔らかな感触を唇越しに感じ、それでも幸福を感じてしまう自分は、何と単純な生き物であろうか。

 

首から手を離し、ほぅ…と、溜息をついた。

師の唇に数滴、薬を垂らし、只黙々と彼女の意思が戻ってくるまで世話をし続ける。

それしか方法が無いのが悔やまれた。

 

(ごめん な…)

 

それは虚しさからの謝りか。

それとも。

 

マダラは思考を止め、サクラの身なりを整える。

すっかり微温くなってしまった桶を、小脇に抱え部屋を出ようとした時。

 

 

 

 -まだら。

 

舌足らずな、覚束無い念波がマダラの背を撫でたのはサクラの聲だった。

呪い返しに失敗してから数日後の話である。

 

 

マダラには眩し過ぎる程の光だった。

 

 

 

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