「死ぬ勇気があるなら生きれるだろ」「世界にはお前より不幸なやつがいるんだぞ」とか、きっと言われるだろうな。誰がどのくらい不幸なんて関係なく、僕は不幸だというのに。
もしかしたら、ありふれた不幸だと断じられるかもしれない。そんなことで死のうとするなと、誰かが諭すかもしれない。それならそれでいい、僕の心が弱かったということで構わない。
もう決めたのだ。
これが最後に登る階段だと。これが最後に聞く靴音だと。これが最後に開ける扉だと。これが最後に感じる風だと。これが最後に見る景色だと――。
そう、決めたのに――、
貯水タンクとか、得体の知れない何かとか。そういうものが並んだ屋上から見ゆるのは、美しい夕日のはずだった。なんせ、あの太陽が沈むと同時に僕も飛び降りようと、少しロマンチックな最後を飾るつもりだったのだから。
だというのに、屋上の重たい扉の先に、想像していたような真っ赤な夕日は見えなかった。
先客がいるのだ。僕の視界から太陽を隠すように、その男は佇んでいる。
扉を開く重々しい音で、男はこちらに顔を向けた。
いかにも不健康そうな肌色に、目の下に大きな隈が張り付いている。どこかやつれた雰囲気をまとっていて、服装は乱れていた。そして何よりも、死んだ目をしている。
柵の外側に居るからとか関係なしに、僕はその男が死ぬつもりなのだと悟った。男は僕を視界に入れた途端、なぜか顔を綻ばせる。
「貴方もですか?」
「ええ、貴方も?」
まるで、昼から呑みに居酒屋に行ったら知り合いがいたかのような、そんな雰囲気で言葉を交わす。場所だけを除けば、穏やかな時間ともいっていい。
「それで、貴方はどうして?」
そう僕は尋ねた。
男は茜色の空を見上げてから、観念したように肩を下げる。男の気持ちを代弁するならば、本当は言っちゃ駄目なんだけど、どうせこれから死ぬなら別にいいか、だろう。
「今朝の朝刊見ました?」
「見てないですね。ニューヨーク・タイムズなら読んだんですけど」
「なんでそんなの読んでるんですか……」
やっぱ世界情勢を知るのは大切かなって。
余談であるが、別に僕は英語が得意なわけではない。ニューヨーク・タイムズなんて洒落たもの読んでも、トラックからチンパンジーが逃げ出したことくらいしか分からなかった。
「それで、朝刊がどうしました?」
「ああ、とある会社の横領事件がでかでかと載っていましたよ」
「……話の流れ的に、貴方の会社ですか」
「そういうことです」
僕は大きく頷いて言う。それは死ななきゃいけない、と。嫌悪感は抱かない。この人にはこの人なりの、そうせざるを得なかった理由があるはずだから。
「そういう貴方はどうして?」
今度は男が尋ねてきた。僕は男のように迷うことはなく、率直に答える。
「恋人が死にました」
僕はついさっき、恋人をなくした。まだ現実味がないって感じるくらいに、本当に、ついさっきの出来事だ。
病室で寝込んでいた彼女は死の間際、此方に瞳を向けて、四回だけ唇を動かした。すでに喉を震わすだけの力はなく、残念ながら声とはなりえなかったが、何かを言いたかったということだけは伝わった。
それは、『ごめんね』とか『Thanks』だったかもしれない。彼女のことだから、意外と『腹ペコ』だったりしてな。
いつだって明るかった、そんな彼女が死んだんだ。恋をしたら世界が色づくなら、それを失えば世界はモノクロと化す。
――愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。
こんな詩だって、世の中にはあるんだ。期待と不安が入り混じる春、僕の心の中は、限りなく空っぽだった。
「うん、それは死ななきゃいけない」
僕がしたように、男もまた大きく頷いて断じる。太陽は大きく傾いており、もうすぐに夜が来る。沈黙の中、僕らはじっと日暮れを待った。
ちょうど、そんな時。僕らの足が、あとほんのちょっとで屋上から離れるといった時だ。屋上の扉が開く、重々しい音が耳に入った。振り向いてみると、ビジネススーツを身にまとった女性が立っている。
ああ、鏡を見れば、僕もこんな顔をしているのだろう。
貴方もですか、と僕は顔を綻ばせた。
男は僕を視界に入れた途端、〝なぜか〟顔を綻ばせる。