だが、知っての通り鏡に映ったお前の姿は左右が逆転している。なら、お前が鏡越しに見たお前の姿は、本当にお前自身のものかな?
お前によく似た、別の何かかも知れないな。
中庭に設えられたベンチから黄昏色の空を見上げて、老婆は疲れたため息を漏らした。
かつて、自身の先祖は大赦で高い地位にあったと聞いたことがあった。住み慣れたこの家も、屋敷と言って差し支えないくらいに広く、かつての栄華を物語るが――夕方だというのに窓から漏れる灯の一つもない様は、もはやここに将来がない事も静かに示している。
老婆が幼いころにはすでに大赦の中枢からは離れて久しく、親戚ももはや縁遠く、子供たちも自立して家を出ていき、夫も――。
人生の老境を迎えて、手のひらから消えていったものを数えることが増えた。
残された時間を、時代から取り残されたこの家でただもの寂しく過ごすしかないのかと、冬の寒さにふとそう思うことが増えてきた。
「母さん」
ふと呼びかけられて。顔を下すと、壮年の息子がこちらに歩いてくるところだった。
「体冷やして風邪をひくよ。ほら、温かいスープでも飲もう」
「そうねぇ」
優しい息子の声にこたえて、老婆は屋敷へと入っていく。
どこにでもありそうな光景が、そこにあった。
ある朝、友奈は珍しく一人で通学路を歩いていた。
普段なら美森と一緒に登校するのだが、この日は美森に始業前の勇者部の活動が入っていて先に学校に向かってしまっていたのだ。
日ごとに寒さが増していく朝に季節が進むのを感じながら道を歩いていると、ふと、芳しい香りが鼻を突いた。
「花の、匂い?」
足を止めて周りを見ると、胸元に花を一輪差して飾りにした老女と目が合った。
背筋は曲がっているが上品そうな顔立ちのその老女は、友奈に気付くと微笑んで会釈をしてきた。友奈もつられて頭を下げる。
「お嬢さん、どうかなさったかしら?」
老女の質問に、不躾だったかと思いながら友奈は弁解を返した。
「あ、えっと……。花のいい香りがしたから、つい」
その答えに、老女は、まあ、とほほ笑んだ。
「いえいえ、この花を褒めてくれて私こそうれしいわ。ありがとうねぇ」
そっと老女が示した花弁を見返すと、その薄黄色の花は友奈の見たことのない花だった。押し花が好きとは言え友奈自身が花博士のように知識豊かなわけではないが、あまりこの辺りで見かけない花のようだ。
「なんだか、珍しいお花ですね?」
「ええ。前に息子が、珍しい花を見つけたといって、花と種を持って帰ってきてね。今はうちの中庭で育てているのよ」
「へぇ~。そうなんですね」
見とれたような目つきで花を見る友奈に微笑みながら、老女はふと気づいたように友奈に尋ねてきた。
「お嬢さん、讃州中学の方?」
「あ、はい!」
「なら……勇者部というのはご存じかしら。実は助けてほしいことがあってね」
「それで、このお屋敷の掃除を頼まれたのね?友奈ちゃん」
「うん!」
放課後、風にスケジュールを調整してもらった友奈は、美森と涛牙と共に件の老女の自宅を訪れていた。
「……大きいな」
ボソリと涛牙が呟いた通り、老女の家は普通の一軒家よりずっと大きかった。
住宅街から少し離れた場所にあるその家は、ドッシリとしたレンガ造りの塀に透かしの入った金属製の門扉。その向こうにこちらも年季の入った西洋建築風の邸宅が聳えているといった具合だった。
「たしか、昔は結構お金持ちだったって言ってたかな……?」
思い出すような様子で友奈が言う。
3人が館を見上げていると、不意に横合いから声がかけられた。
「あら、今朝のお嬢さん。来てくださったんだねぇ」
向き直ると、今回の依頼人である老女が穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ!さ、讃州中学 勇者部です!今日はよろしくお願いします!」
「あらあら。よろしくするのはこちらなのに。ご丁寧にどうも。私、有村 尋美と言います」
お互いに挨拶を済ませると、老女は門扉に手をかける。すると、門扉は微かに擦れたような音を立てて開いた。
「それじゃあ、お掃除お願いしますね」
「はいっ!」
元気よく答えて敷地へと踏み込む3人の背後。門扉は触れる者も無いままに閉まっていた。
踏み込んだ館の中は、もの悲しい寂しさを漂わせる空気に満ちていた。
エントランスの先には来客を迎えるためだったろうホールと、その奥に上階へと上がる階段。中途の踊り場からは左右それぞれに階段が伸びていて、そこから左右それぞれの棟に繋がっているようだった。
「広くて立派なのだけど――手入れには手間がかかってねぇ。かといって手放すには思い出が多くて」
どこか呆れたように有村がいう。夫には先立たれ、子供たちも独立して久しいとは友奈を通して美森たちも聞いていた。
「おばあさん、このお屋敷全体を掃除するのですか?」
美森の確認に、今度こそ有村は笑いながら首を横に振った。
「さすがにそれは業者さんを呼んで1日作業ねぇ。そこまではしなくていいわ。向かって左の棟はあまり使っていないから、そっちの2階でホコリを払ってほしいわ」
「それなら、3人いれば大丈夫そうね」
美森の言葉に頷きながら、有村は近くの収納庫の扉を開いた。中には、屋敷の広さに応じただけのモップや雑巾、バケツが詰め込まれている。
「はい、掃除道具はこの中よ。自由に使ってちょうだいな」
「助かります。では、始めるか」
袖をまくりながら涛牙がバケツや箒を取り出す。と、ふと思い出したように有村が口を開いた。
「ああ、そうそう。結城さん、あなたは花壇の手入れを手伝ってくれないかしら」
「花壇って――あの花のですか?!もちろんです!」
はしゃぐ友奈を微笑ましく見やって、美森もにこやかに言う。
「友奈ちゃんはお花の事が大好きですからしっかりと手入れしてくれますよ。じゃあ友奈ちゃん、私も終わったら手伝いに行くね」
「アハハ。東郷さんはお掃除得意だもんね。……じゃあ、わたしと東郷さん、どちらが相手を手伝いに行けるか競争しようか?」
「するな。仕事だ」
盛り上がりだした女子2人の会話に冷たく割り込むと、涛牙は掃除道具を持って2階へと歩を進めた。
「じゃあ東郷さん、頑張って!」
「ええ、友奈ちゃんも」
中庭へと出ていく友奈を見送って、美森もまた涛牙の後を追いかけた。
2階に上がると、奥まで伸びる廊下の片面には大きい窓、もう片側には個室が並んでいた。
かつては家族がそれぞれに個室を使っていたのだろうが、使う者がいなくなって久しいのか、窓からの日差しがあってもなおその廊下には薄暗く冷めた気配が漂い、なお一層のもの寂しさを醸し出していた。
涛牙が窓の桟に指でなぞると、その軌跡がうっすらとわかるくらいに埃が積もっていた。
「……使われた様子がないな」
かすかに眉間に皺を寄せて涛牙が呟く。
「多分、一人暮らしなんですよ。ご家族は――たまに遊びに来るくらいでしょうか」
涛牙に答えながら、自身もきれい好きな美森も眉をしかめながら涛牙の後をついて廊下を進む。
「――だからと言って清掃は常日頃の心がけこそが肝心なのに。あの方、存外に不精なのかしら……」
ボヤキから苦言になりそうな美森の独り言に内心ヤレヤレと思いつつ、涛牙はホウキと雑巾を手に廊下の奥へと進みだす。
「ひとまず、手分けして部屋から綺麗にしていくか」
「そうですね」
美森も応じて、涛牙の入った部屋の隣の部屋の扉を開ける。
中庭に面した出窓から入り込む光が照らす部屋の中には、当然と言えば当然だが家具は何もない。ただ壁に全身を映す姿見がポツンと残されているだけだ。
「はて……」
一点の曇りもなく磨かれた様子の姿見に小さく首を傾げながら、美森はひとまず掃除を進めることにした。出窓を開けて空気を入れ替えると、雑巾を使い分けながら出窓のガラス面や窓枠を拭き、床もホウキで掃き清めていく。
そうして掃除を進める中で、不意に美森は視線を感じた。
「?」
涛牙が覗き込んでいるのかと思い扉を向くが、いつも間にか扉は閉じていた。当然誰の視線が届くはずもない。
「あら?」
扉が閉じていては換気がうまく行かない。開けなおして掃除を始めるが、ほどなくして再び視線を感じる。今度は視線だけでなく、気配まで。
「なにかしら?」
今度は気配の方を見る。
視線の先には、いつの間にか人影があった。
美森よりも少し低い背丈に、肩口が膨らんだ白い袖と身体部分が濃い黒茶色の制服の姿。そして、長い黒髪を結い上げた髪型。
「え……」
そこにいたのは、鷲尾 須美――2年前の美森当人だった。
「おお~」
行き届いた手入れのおかげで整えられた中庭の中でも、その一角は明るく見えた。四方を屋敷に囲まれた中庭の隅、日陰がちな花壇に、その薄黄色の花は咲き誇っていた。
「こんなに咲いてるですね!冬の花なのかな?」
「どうかしらねぇ。私はあまり花には詳しくないから」
はしゃぐ友奈を微笑ましく眺めながら、有村は花壇近くのベンチによっこいしょ、と腰掛けた。
「それじゃあ、悪いけど雑草をむしったりしてくれるかしら」
「はい!わかりました!」
軍手に手を通しながらハキハキと答えて友奈は花壇に近づき。
「わぷっ」
不意に視界が薄黄色に染まった、そんな気がした。芳しい香りが鼻を突き――。
友奈はそのまま花壇のそばに倒れ伏した。その様子を、有村はただ穏やかに眺めたままだった。
鷲尾 須美――2年前の自分の姿を前にして、美森は微動だに出来なかった。
かつて鷲尾家の養子だったころの記憶はすでに蘇っている。今目の前にある鷲尾 須美の姿は、あの頃、身支度の折に鏡越しに見ていた自分の姿と寸分違わない。
ただ一つ違いがあるとすれば、自分を見ている目だ。美森を見ている須美の瞳からは怒りが漏れ出し、その感情こそが美森を金縛りにしていた。
そして、須美が不意に口を開いた。
『――国賊め』
声色は当然ながら美森のソレと同じ。だが、込められた怒りと侮蔑にあてられて、美森は無意識に後ずさる。
「こ、く――?」
あえぐように漏れた声に、須美はフンと鼻を鳴らして踏み込んでくる。
『国に、社会に、人々に。誰にとっても害しか為さないことをやった者が国賊と蔑まれるのは当然でしょう?』
鋭く返された言葉に、美森は息を呑んだ。
『国を滅ぼすような企みを働いておいて、よくものうのうと生きられるものね。恥を知りなさい』
「ち、ちがう……。私は、みんなのためを」
糾弾をはね返そうと口を開くが、須美はそんな美森をなお一層冷たく睨み据える。
『その“みんな”の中で、誰が世界を滅ぼそうと言ったの?自分がしたくてやったことの言い訳に友達を持ち出すなんて――情けない』
吐き捨てるように言われて。何か言い返そうとしても言葉が浮かばず、美森はただただ後ずさるしか出来ない。
怯えた様子を見せる美森に更に冷たい眼差しを深めて、須美は美森に向かって歩を進める。
『私は、もっと立派な人間になると思っていた。積み重ねられてきた歴史を尊び、国を愛し、正しく次代を担えるようになると。勇者に選ばれた私には、そんな成長が義務であるとも』
情の一切を排した冷たい声と表情で、須美は美森に詰め寄る。
『なのに、実際になったのは、国よりも、友達よりも、自分が気に入るかどうかが大事な人間だなんて。挙句に世界を滅ぼす振る舞いをしておいて、みんなが許してくれるからと何食わぬ顔で変わらぬ生活を送る……。そんな卑劣漢に成り果てるのが、私の未来だなんて』
不意に美森の足がもつれ、尻もちをつく。キャ、と悲鳴を上げて顔を上げれば、須美の冷淡な目が美森のすぐ前にあった。深淵のような深く昏い瞳ににらまれて、美森は喘ぐような息を零した。
「あ、あぁ」
『こんな風になるくらいなら、あの日、私が銀の代わりに死んでいればよかった』
その言葉に、美森の目が見開かれる。
三ノ輪 銀。私と園っちのズットモ。強く、明るく、正しく勇者であったあの子。
「あ、あああ……」
私たちの力が足りなかったばかりに――いや、勝利を重ねた驕りと油断が、あの子の命を奪っていった。彼女の死を嘆き、怒り、悲しみ、その果てに受け止めて、私たちは世界を守ろうと誓いを新たにして――。
『その世界を滅ぼそうとしたお前が、銀の事を語るな』
告げられた言葉に、今度こそ美森の心が軋み、ひび割れ。
『銀だけじゃない……。自分から御国のために何もしないのなら、愛国さえ口に語るな!』
「あああああああああ?!」
美森の喉から絶叫がほとばしる。その悲鳴と共に昏い影が美森から立ち上って須美の口に――
「東郷っ!」
その叫びと共に、何かが砕けるような音が辺りに響き――。
「ハッ?!」
忘れていた呼吸を不意に思い出したような感覚と共に、美森の視界が焦点を結びなおす。
いや、実際に呼吸を忘れていたのかもしれない。尻もちをつき後ずさっていたはずの美森は、先ほど視線を感じて振り向いた場所と同じところに立っていた。須美に詰め寄られた時は真っ白に見えていた視界も、古ぼけた壁紙に囲まれた室内に戻っている。まるで立ったまま気絶していたようだ。
そして美森の前には、鉄色の鎧を纏った涛牙の背中と、その向こうで両断し砕かれた鏡があった。
「こ、これは……」
放心したように呻く美森を他所に、ディジェルが涛牙にトドメを促す。
『焼いちまいなぁ、涛牙!
「おう!」
掲げた魔戒剣に白い魔導火を灯し、まだ残る鏡面の残骸に涛牙は刃を突き立て、
「燃えろっ!」
魔導力を込めて鏡全体が白く燃え上がる。その炎の中に、黒い影が一瞬形を成そうとしたが、すぐにほどけて細片と化していく。
ニョグオアオァオォォォ……
そんな、聴覚を介さぬ苦悶の声が響き、やがて消える。
白い炎が消えたあと、そこにはただ姿見の残骸が転がっていた。燃えた痕こそ残っていないが、鏡面が粉々に砕けた以上もうゴミにしかなるまい。
『よし、仕留めきれたぜ』
ディジェルの言葉を聞いて、涛牙は鎧を解除した。ふぅ、と息をつき、美森を振り返る。
「――無事、か?」
「は、はい……」
呼びかけに答えたところで、美森は今度こそ腰が抜けたようにへたり込む。ほんのひと時といえど突然に異常事態に巻き込まれて理解が追い付かないのだ。
「いったい、今のは……」
呆然とした様子で問いかける美森に、涛牙はバツの悪そうな顔を見せた。
「気づかなかったが、ここにホラーがいた」
ディジェルが涛牙に補足を加える。
『ホラー、スペッキオ。物に憑依するホラーの中でも一等変わり者でなぁ。ヤツ自身が潜んでいるのは鏡面の中なのさ』
「鏡面……?」
『アア。普段はただの鏡そのものでホラーの気配も放たない。で、獲物が来て初めて表に出てくるのさ。おまけに映った相手をそのまま喰うんじゃネェ。ヤツの好物は陰我で満たされた魂そのもの。獲物の奥にある微かな陰我を膨れ上がらせてソイツを舐め取るのさ。犠牲者が出ないものだから、スペッキオの存在は気づかれ辛い』
その説明に、美森はふと引っかかった。
「陰我を、膨れさせる――?」
陰我とは、人の邪心や欲望という。だが、涛牙が来るまで自分が見ていたものは、そんな邪なものではないはずだ。あれはむしろ、自分の所業に対しての叱咤ではないか――。
戸惑い呆けていると、涛牙が手を差し出して来た。
「後悔や自責も、度を越せば陰我になる」
「そう、ですか……」
釈然としきれないものを内心抱えながら、手を取って美森も立ち上がる。多少よろけはしたが、身体を動かすと少しずつ頭もハッキリとしていく。ホラーの影響で思考が緩慢になっていたようだ。
改めて鏡の残骸を見返し、これからどうしようかと考える。
「有村さんは、気づいていなかったのでしょうか。この鏡が危ないものだとは」
『多分なぁ。捨てないように、大事にするように暗示をかけるくらいはしてただろうがなァ』
美森とディジェルの会話を聞き流しながら、涛牙は言う。
「掃除の最中に手が滑った、でいいだろう」
「……それで済みますかね?」
「暗示の影響で大事にしてたなら、問題ないだろう」
涛牙が言った、その瞬間だった。
中庭に、青い火柱が立ち上がったのは。
『なぁっ?!』
突然に窓の外を染めた青い炎に、涛牙も美森も絶句する。荒れ狂う炎は、夕暮れの空さえ焼こうとするようだ。
驚愕に微動だに出来ず、数瞬。ハッと気づいた2人は出窓から中庭を窺う。
中庭の一角を焼き払う青い炎。その傍らには人影が2つ――いや、3つ。
「友奈ちゃん?!」
美森が悲鳴を上げた時には、涛牙は魔戒剣を抜き放ちながら飛び出していた。壁を蹴って勢いを増しながら、花壇のそばに立つ人影――黒いマント姿の男に斬りかかる。
だが、美森の悲鳴が聞こえていたのだろう、マント姿の男は入れ替わるように屋根まで跳びあがり涛牙の一閃を避ける。屋根上に立つ影に、涛牙は吠えた。
「久那牙ぁっ!」
久那牙の後を追って自分も跳ぼうと膝をかがめて、
「うぅん……」
倒れ伏した友奈のうめき声に、ジャンプを押しとどめると、久那牙と友奈の直線上に割り込むように陣取る。勇者の力を持っていない友奈を狙うことに何の意味があるのか。分からないままで友奈を捨て置くわけにはいかなかった。
そんな涛牙の様子に、小さく頭を揺らすと、久那牙はそのまま後方へと跳んだ。
「逃げるかっ?!」
涛牙が叫ぶが、久那牙は意に介さないようにそのまま姿を消す。
奇襲でもしてくるかとも思い構えたまま辺りの気配を探るが、久那牙が来る気配はない。中庭に繋がる門が音を立てて開かれたと思えば、それは美森が凄い速さで友奈のもとに馳せ参じるところだった。久那牙が美森にも手を出そうとしていたわけではないらしい。
「友奈ちゃん、しっかりして!」
抱え起こしながら友奈の名を呼ぶ美森の様子はすさまじく切迫していた。友奈が御役目の果て意識を取り戻さずにいたのはほんの2か月弱前だ。無理もない。
もっとも、今回は。
「うぅ~ん、むにゃむにゃ……」
友奈は単に寝ているようだ。見た限り怪我を負った様子もない。
「……なんだったんだ」
警戒は続けながらも剣を鞘に納めて呻く。中庭の一角を燃やしておいてそれ以上はなにもせずに去っていく、その理由が涛牙にはまるで分からない。
まどろみの中にいる友奈と必死に呼びかける美森、そして、
「あ、ああああああっ!?」
這いつくばりながら燃える花壇に手を伸ばそうとする有村。炎に飛び込みかねない様子をさすがに見かねて涛牙が押しとどめるが、老婆の物とは思えない力に涛牙も抑え込むのに両腕を使う他なかった。
「な、なんだこの力っ?!」
土を掻いてでも進もうとした尋美だが、やがて力尽きるとその場に蹲った。
「テツヤ、テツヤの花ぁぁぁ……」
悲痛な泣き声に、よほど大切にしている家族からの花だったのだろうと涛牙も同情して、
『オイ涛牙』
不意に、ディジェルが真剣な声を掛けてくる。
「どうした?」
『ちょっと、燃え残りの花を見てくれ』
小首を傾げながら、涛牙は燃えずに残っていた花を一本取り上げる。薄着色のその花は、多くの花弁が折り重なって小さなバラのようにも見えた。その花を見て、ディジェルは小さくつぶやいた。
『コイツは――』
それから数日。
涛牙が再び有村邸を訪れると、そこには「売り家」の看板が掲げられていた。
火事――正しくはボヤだが――の話を聞いた親族が駆けつけてきて、さすがにもう一人暮らしは止めようと説得、以前は折れなかった尋美も意気消沈したのか反論せず、とりあえず近場の親族が引き取っていったという。友奈たちの謝罪にも力なく首を振り、溌剌としていた有村は年相応に疲れ果てた様子で街を去っていった。
勇者部がボヤの一件で咎め立てられることは幸いにもなかったが、有村が街を去ることを聞いて、友奈たちはひどく心を痛めていた。
だが、涛牙は勇者部の面々が知らないことを知っている。
番犬所を通して探ってもらったところ、有村 尋美は確かに夫に先立たれ、子供たちも1人を除いて独立して、この屋敷で一人暮らししていた。その1人、有村 哲也も数年前に事故死しているため、尋美が友奈に語っていた身の上は間違っていない。
だが、この中庭に咲いていた花は。
『コイツは――魔界の花だな』
「魔界の?」
妙に潜めたディジェルの言葉に合わせて小声で聞き返すと、ディジェルはああ、と相槌を打ち、
『ナリは綺麗だがこれでも食獣植物――要するに動物の死骸をエサにする花でなぁ。コイツの香りを嗅ぐと警戒心が緩み、近寄れば幸福な幻を見られる。で、更に多く吸い込むとそこで深い眠りに落ちるのさ。幸せな夢を見ながらなぁ』
言われて涛牙も花弁の香りを嗅ぐ。その爽やかな香りは確かに涛牙をリラックスさせ、なんなら久那牙への警戒さえ緩んだ。
「?!」
さすがに久那牙への警戒も緩むのは異常だと察して花を振り払うと、花は燻る程度に落ち着いた青炎に呑まれて燃え尽きる。
『そうして眠った獣の魂や血肉を生きたまま自分の養分にする。そんな花さ』
「なんでそんなものが、人界に?」
『用量を守れば、一種の麻酔や幻惑薬の素、或いは幻術の媒体にもなるからなぁ。大昔から人界で育ててる魔戒法師もいるさ。そんな種がどこかで人界に紛れたんじゃねぇかなぁ』
そういうと、ディジェルは涛牙に花壇の縁を示すと、
『涛牙、ちょっとその辺掘ってみな』
「ああ」
言われる通り、花壇の縁を掘り返すと、そこから小動物の骨らしきものが現れた。
「!」
『香りの量によっては幻覚を見れる、そういったろ?花壇からの距離なんかを上手く調整できれば、自分にとって望みの夢を、獲物になった動物が息絶えるまで見ていられる。そんな使い方をするバカもいたそうだ』
そこまで言われて、涛牙は蹲る有村を見た。彼女が嘆いた人名らしき名前、そして友奈を中庭に誘ったこと。それらが不意につながる。
「まさか」
『死ぬまでやるつもりはさすがに無いと思いたいがねぇ。結城の嬢ちゃん、そして気づかずに近寄ったら東郷の嬢ちゃんや下手したら俺らも。自分が長く夢を見るために使う気だったのかもなぁ』
説明を受けて、視線だけで涛牙は美森たちの様子を窺った。
幸い、友奈に寝ぼけた様子の友奈に気を取られて、こちらの話は聞こえていないらしい。それに内心安堵しながら、涛牙はディジェルに問いかけた。
「……どうする?」
『――記憶を消すにも、繊細な処理が必要だろうなぁ。番犬所に頼んだ方がよさそうだ』
涛牙からの報告を受けた番犬所はすぐに動き、派遣された魔戒法師の手で有村 尋美から魔界の花についての記憶はうまい事調整された。ホラーを呼ぶほどの陰我もなかった以上、有村もそのうち普通の老婆の生活に馴染むだろう、とは番犬所からの連絡だった。
そんな後始末の話を思い返しながら、涛牙は売りに出された屋敷をしばし眺め――踵を返した。
歩きながら、ディジェルに話しかける。
「久那牙は、なぜあそこに現れた?」
番犬所にはこのことも報告しているが、その後の久那牙の足取りは不明のままだ。すぐそばで美森を襲っていたホラーには何もしなかったことも引っかかる。ホラー喰いの暗黒騎士なら花を燃やすよりスペッキオを潰しそうなものだが。
『ヤツが何考えてるかなんて、もう俺にゃあ分からんよ』
ディジェルの返事にため息を一つついて、涛牙は街並みを見渡した。
風景のどこかに、黒い人影が紛れていないかと警戒しながら。
ハイ、すいません。
まさかこんなに続きを書くのに時間をかけるとは思ってませんでした……。
エタらずに書きたいと思っていても、調子よく掛けずにいるとネットの誘惑が無数に襲い掛かってくるものですね。
何とか進めようとは思いますので、どうか生温く見守ってください。