それは微睡みだった。
「始まりと終わりは常に表裏一体で、永遠なんぞは存在しない」
リアリストは皮肉げに片眉を跳ね上げた。夢を謳う者を救いがないと首を振る。
「いかれた話だぜ。世界が誰にでも優しかったことがあるか? いつだって恵まれた者だけが平和と幸福をアクセサリーのように身にまとって道の真ん中を歩いていく。微睡みはいつか覚醒するもんだ。現実はいつだって眼前にあっただろ」
理想を謳って何になる。言葉は暴力の前に無力だ。それがどれだけ美しかろうが、ちからでねじ伏せられれば無価値でしかない。
「
いっそ憐れむように吐き捨てた男に、それでも少女は微笑んだ。
部屋についたナツは、背負っていたルーシィを備え付けのソファに降ろした。
ちなみにルーシィは部屋番号を教えていなかったのだが、ナツは
まったく訳が分からない、という顔をしたルーシィが戸惑いがちにナツへ声をかける。
「あの、ナツさん?」
「軍に捕まるのはメンドクセーけど、一晩くらいなら大丈夫だろ。俺もう眠ィし、明日朝一にマグノリア行こうぜ」
何を言われるまでもなく、あっけらかんと答えるナツ。―――――聞かれる前に答えたということは、ルーシィが混乱することを分かっていたということ。問われることを分かっていたということ。
分かっていて、何故独断専行に走ったのかと言われれば―――――この
ナツが仲間のために稀に見せるファインプレーだった。
にっかりと笑うナツに、ルーシィは何となく大体を把握した。それは仲間のためにあんな美しい炎を燃やすナツが、仲間の一員になる予定の自分を労わってくれているということ。
申し訳ないと思う。足手まといだ。しかし、ここで謝ることはナツに失礼だろうと出掛けた謝罪を飲み込んだ。淑女たるもの、殿方のお心遣いを無得にするものではないのだ。
それに、そう。そんな建前は置いておいて。
「…ええ、始発の列車に乗って、三つ隣の街まで移動いたしましょう。とっても素敵なカフェテラスがあるとお聞きしましたの。昼食はそこで……朝食はわたくしがご用意させていただきますわ。せっかく備え付けのキッチンもあるのですから」
嬉しい。受け入れられていることを、こんなにも分かりやすく伝えられていることが。
嬉しくって、たまらない。
「お、ルーシィが料理すんのか………食えるんだよな」
「まあ! そうでなければ用意するなどと言いませんっ」
「へぇ~」
「もうっ、ナツさんがわたくしのことをどうお思いなのか、よく分かりましたっ! 少なくともお腹を壊したりはしませんから、ご安心ください!」
「つかこの部屋広いよな。いつもこんなにデケェの借りてんのか?」
「えっ? ああいえ、今回はこのお部屋しか空いていませんでしたの。宿がないときは野宿することもありましたわ」
料理と聞いて揶揄えば、面白いほど引っかかってふくれっ面を披露するルーシィ。揶揄い甲斐があると満足するナツだったが、本当に拗ねられればめんどくさくなる。ので、ちょっと雑に話題転換をすれば、ルーシィはまんまと釣り上げられた。
流石のナツも『ちょろすぎる…』と呆れる流されやすさだ。あんな貧相な釣り針で釣り上げられるとかどうなってんだこいつ…という感じである。そのうち
…いや、そういえば騙されてたなコイツ。ナツはちょっと残念なものを見るような目でルーシィを見た。
にしても、野宿もできるのか、と思考を変える。地べたに寝転がるルーシィがあんまり想像できないのは当人の『虫の一匹も殺せません』みたいな雰囲気と、どこぞの令嬢じみた言葉遣いや所作のせいだろう。それが野宿。予想外の逞しさだった。
「高額でしたが街はずれにしては整った設備でしたから、ちょっとした息抜きになると思いまして。キッチンもトイレもシャワーもなかなかに上質なのです。―――――あっ、ナツさん! どうぞシャワーをお使いになってください! たくさん動いてらしたから、汗もかかれたでしょう?」
「んあ? そんなこと言ったらお前なんか砂だらけだろ。入って来いよ」
女ってすぐ話変わるなぁ、と呆れた顔をしたナツにそう言われて、ルーシィはようやく自分の恰好がどんなものだったか思い出した。そうだ、海水でべたべただし砂でじゃりじゃりだし、髪も肌もとんでもないことになっていたのだった。
「お、お先に頂戴いたします!」ハッとした顔をしてシャワールームへ駆け込んでいったルーシィの背をなんとなく見送っていたナツは、ふと―――――どこからともなく、コツンコツンと何かが叩かれている音に気がついた。
辺りを見回す。発信源は―――――窓だ。
「あ、ハッピー」
「ナ~~~~ツ~~~~」
何の音だと窓を覗いたところで、そこに居た青色にナツは相棒の存在を忘れていたことを思い出した。
窓を開けて迎え入れてやれば、ナツの荷物を抱えたハッピーがふらふらとしながら部屋へ入ってくる。
抱えた荷物が窓枠を超えて部屋に入った時点で、ハッピーは耐えられないとばかりにそれを床へ放り捨て、そのままベッドに飛び込んだ。………まるで力尽きた魚のようにぐったりとしている。
沖にいる船までナツを運んで、ルーシィを捕まえて銃弾をよけて、大波に巻き込まれて、極めつけにナツの大きな荷物を持っての飛行だ。しかも途中で疲労から減速したハッピーに対して、ナツとナツにおんぶされたルーシィはすっ飛んで行ってしまった。
おいて行かれたハッピーの心情たるや。必死に宿を探し当ててちからの入らない手で窓をノックした時点で、ハッピーの魔力はもう空っぽだった。
猫が魚とはこれ如何に。羽毛布団に埋もれる相棒に、ナツは少し申し訳なさそうな声で「悪い」と謝った。てっきり普通に付いて来ていると思っていたから、すっかり忘れていたのだ。
「ううう酷いやナツぅ…ルーシィといちゃついてオイラのこと忘れてるんだもん…」
「あ? 別にいちゃついてねーだろ」
「あれ? ルーシィは?」
「無視かよ! シャワー」
音を立てるシャワー室を一瞥したハッピーは、ナツへ振り返って真顔で言った。
「覗いちゃだめだよ、ナツ」
「覗かねーよ!」
■
「はあ……」
少し熱めのシャワーを浴びながら、ルーシィは蕩けるようにリラックスしたため息をこぼした。海水のベタベタや張り付いた砂が落ちていく感覚がたまらなく気持ちいい。多少は傷が染みるがさほど気にかからないほどの快楽だった。
残念なのは後がつっかえているので湯船につかるほどの時間がないことと、捻挫した患部を温めすぎないようにすぐ出なくてはいけないこと。
ルーシィは備え付けのシャンプーに手を伸ばした。
たくさんのことがあった。騙されたり、奴隷にされそうになったり…まるで
なにより―――――
ずっとずっと憧れていた。夢が叶う多幸感が、ルーシィの頬をにやけさせる。夢のようだ。いや、実際夢かもしれない。ああ、けれど、これがいつかは覚める夢だとしても、有り余るほどにルーシィは幸せだった。
「あ、」
しかし脱衣所に立ったときそんな幸福感をふっ飛ばすピンチに遭遇することとなる。
―――――着替えを用意していなかった。
■
結局、ちょっと泣きそうになりながらナツにトランクごと取ってきてもらうことになり。
ルーシィは羞恥心で染まる頬を何とか冷ましながら、それを誤魔化すようにナツにシャワーを譲った。というより押し込めた。……ところで、ハッピーも一緒に入って行ったが、彼はネコなのに水は大丈夫なのだろうか。
( ……あら? ハッピーさん? )
―――――ハッピーに関することを、何か忘れているような。
ルーシィは首をひねる。あんまりにもナチュラルにいつの間にか合流していたハッピーの存在によって、ルーシィはハッピーを置いてけぼりにしていたことに全く気付いていなかった。
( 気のせい、かしら )
ルーシィは考えるのを止めた。
―――――話は少し戻るが、ルーシィのトランクは大きなものだから受け渡しにはドアを大きく開けなくてはいけない。つまり備え付けのバスタオルだけを纏っている姿を晒すことになったのだからルーシィが羞恥心にかられるのも無理はない話なのだ。
ちなみに、ルーシィは『唯一の救いはナツがそれほど気にしてないことだ』と思っているが、むしろ普通の女の子だったら『見といてその態度は何だ』とキレていいくらいにはナツの態度は淡白だった。
頬に籠っていた羞恥心を脱ぎ捨てるようにひと呼吸置いたルーシィは、そういえばひとりと一匹が着替えしかもっていっていないことに気が付いた。そして、備え付けのタオルはルーシィが使ってしまったことも。
うっかりしていた、とルーシィは慌てて自分の荷物の中から(他人のカバンを漁るわけにはいかなかった)バスタオルとハンドタオルを一枚ずつ持って脱衣所の扉をノックする。
「ナツさん、ハッピーさん、タオルを置いておきますわね。どうぞお使いください」
「お~~~サンキュ」
「あーい」
ジャバジャバ、わぁわぁと騒がしいシャワールームへ声をかければ、間延びした返事がふたつ。それを微笑ましく思いながら、ルーシィのタオルを着替えの近くに置いて脱衣所を後にした。
「………ありがとうございました」
ほんの小さく、それでもたくさんの気持ちを込めた言葉を呟くように落として。
「…? ナツ何で笑ってるの?」
「…べっつにぃ?」
■
さて、備え付けのドレッサー前に座ったルーシィはナツが上がってくる前にすべてを済ませようと構えた。女の子はすべきことがいろいろあるのだ。
化粧水を顔に給水させ、美容液を塗り込み乳液でふたをする。目元にはまつ毛の美容液を与えて仕上げにリップクリームを塗る。
タオルドライした髪には洗い流さないタイプのトリートメントを毛先に馴染ませてから、ブラシを使いながらドライヤーで乾かした。
ルーシィの髪は長い。そのため、時短のためにちょっと高めの
ひと通りを済ませたルーシィは、買いだめの傷薬を取り出して丁寧に顔や足へ塗り込んだ。傷薬はよく染みるが、慣れたもの。旅を始めた当初はあちこちが傷だらけになって、ルーシィはそのたびにべそをかきながら傷薬を塗っていたことを思い出した。
薬の上からガーゼをかぶせ、包帯で固定すれば足の裏はもういいだろう。割れた足の爪も、そこまで酷いものではなかったのでペディキュアを塗ってごまかした。
ふう、と塗料を乾かすように息を吹きかけながら、ルーシィは捻挫した足首に指を這わせた。くじいた後に散々酷使された足首は熱を持っている。これはまだ腫れるだろうか……ルーシィは脳内で今日のトータル支出金額をはじき出した。
……まあ、出し惜しみしてこれ以上ナツに迷惑をかけるわけにはいかないので。取り出したいい値段のする特製湿布を足首に貼って、処置は全部終了した。
後はペディキュアが乾くだけ、というところでナツがシャワーから出てきた。―――――半裸で。
ルーシィは咄嗟に出そうになった悲鳴を飲み込んで、少しむせる。
「ケホッ……ナツさん、あの、お洋服を……お洋服をお召しになってください……!!」
あん? と片眉を上げたナツに同じく脱衣所から出てきたハッピーが「セクハラだよ」と言えば、ナツは少し不機嫌そうに上着を着た。
それを確認して、ルーシィはひと息つく。なんだか体力を吸い取られていく気持ちだ。
「あ、そうだわ。ナツさん、お休みの際はどうぞベッドをお使いになって下さいまし」
「お! まじかサンキュー! お前も一緒に寝るか?」
「寝ません!」
「あはははナツがフラれた!」
何言ってんだこいつという感じである。思わず聞き返そうかと思うようなことを言われた。何言ってんだこいつ。大事なことだから二回言っておく。ルーシィはナツの情操教育がどうなってるのかもの凄く気になってきた。
―――――いや、もしかしたら冗談だったのかもしれない。友人にするような軽口に対してルーシィが過剰反応してしまっただけかもしれない。笑い転げているハッピーはともかく、ナツの顔を見れば本当に下心なく純粋に言っていることはわかる。だからルーシィは五歳児に説明するような丁寧さを心がけて言った。
「さすがに、年頃の男女が同じ寝具を使うのは…そういった距離感は、恋人や夫婦や親子のものですわ」
「そうか?」
ナツは、一瞬「ギルドに入るなら俺とルーシィは家族だろ」と言おうとした。けれど、ふとギルドのメンバーを思い返す。特に女性連中をだ。
例えば宴会からの雑魚寝だったら気にしないだろう。でも、改めて同じ部屋で同じベッドに入るというのは―――――確かに、ちょっと落ち着かない話かもしれない。
「そうです」
ちょっとゴリ押し気味に重ねたルーシィに、ナツも頷いた。
「ルーシィ~、オイラはルーシィと一緒に寝てもいい?」
「まあ! ええ、構いませんわ。ですがその前に体を乾かしましょう?」
「は!? なんでハッピーはいいんだよ!」
「…ナツさん、ハッピーさんはネコさんですわ。ネコさんと人間の殿方を同列に判断するのはどうかと思います」
頷いたところで、ナツは相棒に裏切られた。
すりり、と寄ってきたハッピーにルーシィは喜んで許可をだす。それにナツが抗議の声を上げたが、バッサリと切り捨てられる。
なんかルーシィが冷たくなった気がするぞ。ナツは歯ぎしりした。
ナツの言い分は聞きようによっては乙女な勘違いをしてしまいそうなものだったが、ルーシィは察しのいい女だった。別にナツのことが嫌いなわけではこれっぽっちもないが、線引きはしっかりしておくべきなのだ。ルーシィは心を鬼にして母親のようにナツへ応えた。
人間とネコの扱いの違いをあまり考えていないのか……種族を差別していないと言えば聞こえがいいかもしれないが、ここまで行けばただの
「……ハッピーだってオスだぞ」
「ハッピーさんはネコさんのレディの方がお好きでしょう?」
「あい! オイラ女の子はネコがいいです」
ルーシィの話し方がちょっと聞き分けのない子供に対するもののようになってきたところで、ナツは押し黙る。それに反応は返さず、ルーシィはハッピーに少しだけヘアオイルを塗ってあげながらその体毛を丁寧に乾かし始めた。
「ん~…オイラ、寝そう、」
「ええ、どうぞ」
人に髪を乾かしてもらっていると眠たくなるのはネコも同じらしい。はじめはヘアオイルに「いいにおい」だとご機嫌だったハッピーは、次第にくち数が少なくなり、ウトウトと舟をこぎ始めた。
ルーシィはドライヤーを止めて、ハッピーをソファーの上の大きなクッションに寝かせる。くるり、普通のネコのように体を丸めて寝始めたハッピーに、ルーシィはブランケットを掛けてやった。
―――――ほほ笑んで頭をひと撫でしてから顔を上げたルーシィは、再び悲鳴を飲み込むこととなる。
めっちゃ至近距離にナツがいた。
「あ、あの…?」
「ん」
そういえば途中で黙ってから気にしていなかった。
眉間にしわを寄せ、不機嫌そうなナツに差し出されたのはバスタオル。ナツの使っていたやつだ。まあ、ものはルーシィの私物だが。
一瞬、返してくれただけかと思ったルーシィだったが、それにしてはナツはがっちりとバスタオルを握ったままで。さすがに『はいありがとうございます』と受け取るような雰囲気ではない。
「……俺も」
意図を読めずに首をかしげれば、ボソリと呟かれる。
―――――その言葉の意味は、ちゃんと分かった。
「……ええ、ふふ、構いませんわ。どうぞお座りになって」
つまり、目の前の彼は不機嫌ではなく拗ねていたのだ。
明言されたわけではない。けれど、何故かルーシィは確信を持って理解できた。
自分より体格のいい男の子がまるで幼子のようにお願いする様はどこか可愛げがあり、ルーシィは滲む微笑みのままドライヤーを握った。
ナツはルーシィの「ダメ」をなんとなく理解できた。ナツはなかなかに野生児だが、そこまで常識知らずではない(多分)。だから納得はした。けれど、優遇される相棒は羨ましい。兄弟みたいな
だからこれは、納得するための妥協案。
ナツはソファーに浅く座ったルーシィの膝を割り開いて、その隙間を埋めるように地べたに座り込む。ルーシィの短い悲鳴は無視された。
レディの膝を割って入り込むなんて、とルーシィは唐突な辱め(ルーシィ基準)に、流石に少しだけ怒ろうとした。……けれど、機嫌よく乾かされる準備をしているナツの後ろ姿に、なんだか握りしめたこぶしのちからも抜けてしまった。
コクコクと船をこぐナツと、その髪を梳きながら仕方なさげに微笑むルーシィ。しかしそこに甘さはなく、あるのはまるで母子のような温かさ。
■
( ―――――あら? )
■
ふと、ルーシィは違和感を覚える。
( あら、あら、あら……? )
勢いで部屋に運び込まれ、シャワーですっきりし、当たり前のように寝る場所を分担して。
( ――――― )
流れるように髪の毛まで乾かしてあげているが、自分はもしかして、同年代の異性と同じ部屋で寝るのだろうか。
―――――いまさらと言われればそれまでかもしれない。
けれど、ルーシィからしてみれば夢から覚めたようなショックだった。
( 何が『その距離感は~』ですか! それ以前に同室で寝泊まりするだなんて、そんな!! )
どうする。寝るのか、同じ部屋で。―――――今からでも遅くない、自分は別の部屋を取るべきではなかろうか。
ルーシィが思わずソファーから立ち上がろうとしたところで、
「―――――んんん……」
「あっ、ご、ごめんなさい」
ナツがうなり声をあげる。ほとんど夢の世界に旅立とうとしているナツにとって、ルーシィの動きは睡眠妨害に等しい。いや、そんなこと言われればルーシィは一歩も動けなくなってしまうのだが。
ルーシィはとっさの判断で音を上げるドライヤーのスイッチを切った。
静かになった部屋の中で、くわん、揺れたナツの頭が、―――――そのままルーシィの太ももに落ちた。
「ナ、ナツさんっ」
思わずルーシィは声をあげるが、……ナツはすでに夢の中に。
距離感が死んでいる。けれど、
「んン~……ルーシ、帰るぞぉ………」
ルーシィはそっと、ナツを起こそうとした手をずらし、その頭を撫でた。
優しく、優しく、起きてしまわないようにそっと、静かに、心を込めて。
お付き合いもしていない男女が同じ部屋で夜を明かすなどルーシィ的価値観としては言語道断である。
―――――けれど、まあ……こんな夜くらいは。
ザザン、波の音と少しの喧騒が聞こえる。散々な1日だった。ひどい目にあった。
ザザン、ザザン、優しい波音が聞こえる。ルーシィは滲むように微笑みでナツの頭を撫で続けた。
それでも、ルーシィは海が好きになってしまった。数時間前まで嫌な思いでしかなかったのに。
この潮風は温かいものとして記憶に刻まれるだろう。ナツという、世界でいちばんきれいな
「おやすみなさい」
それは月のきれいな夜だった。世界でいちばん優しい色をした月に照らされて、ルーシィたちの夜は更けていく。
「ねえ、ロマンという言葉はお嫌いかしら」
謳うように少女は語る。
「とある建国者のお話では、ロマンとは『よりよい明日を夢見る心』を指すそうよ」
―――――それは進化の原点であり、明日へ希望を持つということ。
「そして、
生命は芽生える。その限られたいのちを消費しながら今を経過する。
いつ
「ねえ、真のロマンチストはリアリストから生まれるのをご存じ?」
流れる赤を気にもしないように、少女は再度、笑って問いかけた。
「醜い真実も凄惨な現実も報われない愛も、」
かつて神の子と呼ばれた男は、十字架に手のひらを釘で打ち付けられ磔にされたという。
ならば目の前の少女は、その男の再来だろうか。
「どうしようもない現実を知りながら―――――それでも『明日』に希望を持ち、未来を謳う人」
しかしその微笑みはまるで罪を許す母のようでもあった。ならば彼女はその腹から神の子を産み落とすのだろうか。
「
―――――
その言葉は祝福だった。
沁み込むように、あるいは襲い掛かるように、言葉が場を支配した。
錆びた鉄と女の血の匂いが漂う部屋で、それでのこの時、ここはどこよりも神聖な場であったと、誰かが小さく呟いた。