天照すそれは
すべてを塗りつぶす光が穿つように突き刺さり
射抜いて、地の果て、遍くすべて
それでもそれは、熱く、熱く、熱く、
熱く、あたたかい、太陽。
ぎりぎりと掴まれた腕が痛い。押さえつけられた頭が痛い。
ルーシィは気を抜けば震えだしそうになる体にちからを込め、必死にそれをこらえた。―――――噛みしめた奥歯が嫌な音を立てる。
それは、意地だ。今この状況をうまく理解しきれていないながらも、自分を嘗め回すように見下ろしてくる男たちに、けして弱いところを見せたくなかったルーシィの意地だった。
ぎゅう、と喉にちからが入る。いろいろな感情が渦巻いて、そうして、絞り出すように。
「――――― どうして……っ!」
■
華やかな船上パーティ。華美ではないが清楚で上品に飾り付けられた船の甲板。優雅な音楽が雰囲気を彩り輝かせる。
「―――――ああ、来てくれたんだね」
「はい、もちろん。
「嬉しいよ。……そのドレス、とても素敵だね。よく似合ってる」
ルーシィがこのパーティのために選んだドレスは、鮮やかだが落ち着いたブルーの生地が美しく波打つ一品だった。デザインは可愛らしいが揺れて見える裏地は深い青にラメが入っており、その夜空のような品のあるきらめきで雰囲気を引き締めるものだ。
めかしこんだルーシィは船上の誰よりも美しかった。
そんなルーシィをボラは嬉しそうに迎え入れ、「来てくれてありがとう」と礼を言う。その姿は非常に紳士的で―――――ルーシィの中でボラの株価上昇がとどまるところを知らない。
「今宵は49名ものレディにお集まりいただき―――――」
彼のそんな姿にうっとりとしているのはなにもルーシィだけではない。集まった女性たちも、きっちりとした礼装に身を包み丁寧な一礼をする彼へとびきり甘くて熱い視線を向けていた。
挨拶を済ませたボラは周囲の客と軽く談笑し、少し食事やワインをとってからルーシィの元にやって来た。
ハルジオンのレストランが用意したという美味しい料理に舌鼓を打っていたルーシィは、自分の元にやって来たボラにパッと頬を染め目じりを緩ませる。
ボラはそんな彼女に微笑みかけてから、「ギルドの話をしよう」と船長室にエスコートした。
彼はどこをとっても素晴らしく紳士的だった。しぐさも、言動も、対応も、そのどれもが
―――――遜色ないほどに、完璧な演技だった。
ボラはルーシィをエスコートしながらも女性たちに言葉をかけ、女性たちは笑顔で応える。参加している女性全員を尊重したもてなしは、たとえ彼がひとりの女をエスコートしていようと周りに不満を抱かせず、もちろんエスコートしている相手に「よそ見をされている」だなんて思わせない絶妙なバランスで行われていた。
パーティ会場を見渡せば煌びやかに着飾った女の子たちが楽しそうに笑い合っている。
ああ、このための
青いフリルがふわりと揺れる。素敵なパーティーだと楽しくて仕方がなかった。
楽しくて、楽しくて。自分の憧れが眩いばかりに嬉しくて。
信じていた。尊敬していた。幸せだった。それなのに―――――船長室で注がれたワインには睡眠薬が盛られていた。
■
「へへ、残念だったなァ嬢ちゃん」
ぱしゃりとはじき落とした葡萄色。間一髪で睡眠薬を回避したルーシィは、しかし後ろから襲いかかってきた男たちに拘束されてしまった。
屈強な男にふたりがかりで抑え込まれれば華奢なルーシィでは抵抗のしようがない。ましてや、今何が起こっているのかを理解もできていない状態でなんて。
ワインに睡眠薬が入っていると気がつけたのは本当に偶然。それをはじき落としたのは反射的な行動。
―――――だから、じゃあなんで、ワインに睡眠薬が入っているのかなんて。そんなワインを何故、
「っは、……な、なに、を………」
呆然と呟くルーシィが愉快愉快と、彼女を押さえつけている男たちがぎゃあぎゃあ笑った。
「んはは、分かんねぇか? 騙されたんだよォお前さん」
ぴち、と汚い唾が頬にかかる。それに気づいていないのか、ルーシィはただ見開いた目で男たちを見上げた。
だまされた? 騙された、……騙された? そんなの、いったい、―――――いったい、だれに、だまされたっていうの。
そんなの。
それは拒絶。分からない、分からないと、分からないと思いたいと。分かりたくないという拒絶。
だってそうしないと、ルーシィの頭の中はパチパチとピースを当てはめていってしまう。
「ぜぇんぜん気づかなかったなぁ」
くくく、と忍び笑い。それはルーシィを嗤う声。いやだ、とこころが言った。けれど視線は声に引き寄せられて、それを見る。
―――――嗤う男が居た。それはルーシィがよく知る男だった。睡眠薬の入ったワインを飲ませようとした男だった。船長室までエスコートしてくれた男だった。パーティに招待してくれた男だった。
ルーシィの憧れた、
「、…… ―――― ― 」
どうして、と声にならない声が唇を震わせる。ボラはそんなルーシィに薄気味の悪い微笑みを浮かべ、出来の悪いかわいい子に教えてやる優しい気持ちで、朗々とすべてを語って聞かせてやった。
それは耳を腐らせるような醜悪な
「なあ、分かるかいお嬢さん」
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくなかった。
この人たちは、何を言っているの。
そんなの、そんなの―――――
ルーシィは震える唇でか細く息をした。
拘束されていれば耳もふさげない。首を振って拒絶しても誰も意に介さない。
悲しいくらいに現実はそこにあった。今までの
目を逸らそうとしたって、どこを見ても見たくないものに溢れていて視線の行き場がない。震えて目を瞑ったって、吐き気のする声が優しく優しくルーシィに語りかける。
嫌って、嫌って、そう言ったって誰も助けてくれやしない。
分かりたくないのに、分かりたくなくても、分かってしまった。
受け止めろと差し向けられた矛先は、いともたやすく胸を貫き磔に。砕けて壊れてしまうほどの大波に揉まれて、揉まれて、揉まれて―――――
そしてそれは、涙を越えて言葉にならない激しい感情を呼び覚ます。
「素直に睡眠薬飲んでりゃ、怖い思いもしなくて済んだのになぁ?」
ぎゃあぎゃあと汚いつばが飛んでルーシィを嘲笑う。それが、それが堪らなく―――――
「―――――この、外道……!」
―――――堪らなく、許せなくて!
ルーシィはぐう、と頭に血が上ったのを自覚した。目頭が痛いくらいに熱くなる。
現実が突き刺さった胸の穴から、血が沸騰するような怒りが沸いて。もはや自分が台風になったのではないかと思うほど、心が荒れ狂う。
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。それは悪魔の笑い声。
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。乙女の
ぎゃあぎゃあ。ぎゃあぎゃあ。無慈悲な外道の笑い声。
この男は、この男たちは―――――
「騙したのですねっ、わたくしを、この船に乗っている皆さまを!」
「オゥ~ウ~……純粋に『優しい
く、……くくく、笑いが止まらなくて、はは、あはは! ああ、苦しかった!」
体の中がぐちゃぐちゃと荒れ狂う。世界がどれだけ広かろうと、この男ほど厭らしく汚らわしいものはいないだろうとすら思った。
―――――好意が失望により反転すれば、それは何倍もの大きさに膨れ上がる。
だいすきだったのに。
笑うなよ。そんな顔で、そんな声で、こんなことをして!
言葉にできない黒くて赤い感情が暴れ出す。その激情に触発されたように、僅かに魔力の渦が踊った。
しかし―――――怒りのままどんなに身をよじろうと、ルーシィの細腕では屈強な男たちの拘束は振りほどけない。星霊さえ呼べればと思っても鍵には手が届かない。
悔しい、情けない、そんな感情がこころを締め付ける。どれだけ何を思っても、何かをできるちからがルーシィにはなかった。
ボラは歪むルーシィの表情にニヤニヤとした顔を隠さずゆっくりとその体に近づく。そして、見せつけるように手を伸ばし、ドレスの上からゆっくりと彼女の腰のラインをなぞった。
体温を馴染ませるようにじっくりと、そのキレイなくびれを堪能するように、ゆっくり、ゆっくり、指が這う。
―――――ああ、気持ち悪い!
真実を知った今、ルーシィからボラへ向ける感情に好意的なものはひとつもない。許せなくって、許せなくって、―――――嫌いだ。嫌いになった。
嫌いになってしまった!
だいすきだったのに!
嫌悪感を抱く相手に撫でまわされる屈辱が、ルーシィの体を悪寒となって這いまわった。
グッと目を閉じて、耐えがたい屈辱から意識をそらす。……そうでもしないと、目の前の男に触れられていることに泣き叫んでしまいそうだったから。
ボラの生温かい指先が気持ち悪い。苦しい。ああ、ひどい。こんなひどい話ってない。
しばらく撫でまわしてから離れた手にようやくかと安心して―――――
ちゃらり。
―――――すぐにルーシィから血の気が失せた。
「な―――――なん、な、っは、離してっ、返してっ!」
「ふふ……知ってるよ。君、星霊魔導士なんだろ?」
つい、と立てられたボラの指先。そこに不安定に引っ掛かってチャラチャラと音を立てるのは、鍵だ。
ルーシィの鍵。大切なルーシィの
慌てて自分の腰元へ視線を向ければ、空っぽになったキーケース。ああ、伸びてきた指はそのためだったのだ。あの手が体を這っていたのはあれを奪うためだったのだ。
目を閉じなければよかった。睨み付けて、鍵に触れられる前になりふり構わず噛みついてでも抵抗すればよかった。堪らない後悔が押し寄せる。
「返して……!!」
あんな男に大切なものを奪われた不安感に、ルーシィは必死になってもがいた。けれどやっぱり、ルーシィのちからでは拘束をほどけない。男たちは必死に抵抗するルーシィの動きを歯牙にもかけず、柔らかく揺れる胸元を下卑た笑いで見世物のように眺めるだけ。
ボラもまたルーシィの訴えには視線も向けず、奪った鍵束を見て「ほお」と声を上げ、しげしげと観察をしていた。
「こいつはまさか―――――ああ、間違いない。金の鍵! すごいな、本物は初めて見た……しかもこんなに」
「はぁ。そいつは何か特別なもんなんですか? あいにく、魔法のことはからっきしで」
ははあ、と感嘆の息を吐いたボラに、男のひとりが不思議そうに尋ねる。ここに居る男たちはボラに出会うまで魔法とはほとんど関わりなく生きてきた。そのため、ボラの持つ鍵束の価値がいまいちよく分からない。
そんな男たちの疑問に、ボラは簡潔に「世界で12種類だけ、1本ずつしかないお宝さ」とだけ答えた。
「こんなレア中のレア、どうやって手に入れたんだ? はは、そのでけぇ胸ですり寄ってオネダリでもしたのか?」
品の無い物言いで嗤うボラを、ルーシィは強く、強く睨みつけた。しかし彼は気にした様子もなくすぐに視線を鍵束に戻す。
まったくもってキラキラしいお宝だ。1本でもお目にかかれればラッキーなレアものが、こんなにも揃っている姿を見るなんて。この先どんな金持ちになったってそうそうないだろう。
「―――――まあでも」
でも、まあ、ボラにとってはレアなだけだった。
「俺はこういう人外との契約が好きじゃあないから必要ない。かといって売ろうにも、契約者のいる星霊じゃあ面倒なことになる。
……ふふ、君に『はい』と言わせて契約を切らせてもいいけど、レアモノすぎて足がつきそうだし、金なら今のビジネスで十分稼げるからそこまでしてリスクを負う理由もない。
つまり―――――」
嫌に説明口調でつらつらと話すボラの話の内容は、どう聞いたってルーシィに鍵を返すつもりがない。もちろん抵抗手段を返してあげるような馬鹿ではないので当然のことだが、それにしても、話の内容があまりに不穏で。
言葉を途切れさせたボラはルーシィと向き合うように立つ。指先に引っ掛けられた鍵束が不安定だった。
―――――何か、すごく嫌な感じがする。とてもとても不安な感じがする。
ルーシィはサッと青ざめた。ずっと危機的状況ではあるけれど、それに加えて、今すぐボラから鍵を取り返したくてたまらなくなるほどの不安が沸いてくる。
分からないけれど衝動として、その鍵を取り返そうとくちを開いて。
「は、―――――」
声は出なかった。のどが音を作る前にボラが動いたからだ。―――――その動きはひどく緩慢に見えた。
■
手首が揺れて、指先が手前に少し折れた。
ちゃいん、と鍵が鳴る。
その手は今度、ちから強く後ろに跳ねて。
ぢゃぢ、と鍵が引っ張られ。
指から離れる。指から離れる。目を見開いた。
それは放物線を描いて真後ろへ。
まっすぐ後ろ、その先は―――――開いた窓の、外。
「―――――つまりこの鍵は、僕には必要ない」
鍵は、窓から海へ投げ捨てられた。
■
「あ、」
あ、あ、あ、―――――あ?
大きな瞳がぱちり、その耳に音が届く。ぼちゃんとひとつ、何かが水面を叩く音。
「、あ、あ―――――」
何か、何が? ―――――鍵、が。
ルーシィの、
「あ ―――――――――― !! 」
―――――鍵、鍵だ。ルーシィの鍵。ルーシィの持っていた、ボラに奪われた鍵。ルーシィの大切な
それを奪われたのだ。捨てられたのだ。
奪われて、海へ、放り棄てられたのだ!
「ハハハハハ!! あーらら、叫んじまって……カワイソーだなあ、んー?」
なぜ。何で、なんで、なんで。
何でそんなことするの。
どうしてこんなひどい事ばかりするの。
どうして、どうして、どうして!
この男のせいで!!
違う。―――――自分のせいだ。
「あ―――――ああ、あ………」
騙されたから。弱かったから。悪意に気づきもしないでのこのこと着いてきて、許せないと
だから奪われた。大切なものを、海の底へ。
ぜんぶ、自分が弱いせいだった。
■
ガクリ、拘束する腕に吊られているように脱力したルーシィの姿を見て、ボラは高らかに笑う笑う。
まじめで警戒心の強い、正義感で元気いっぱいの爪の甘ァいクソガキ。こういうガキはこころを折っちまえばいい。ぐちゃぐちゃになって空っぽになったところに薬と快楽を詰め込んで、使い道のねぇ馬鹿にしてしまえばいいのだ。
憧れの魔導士の裏の顔はどうだった? 大切な
ああ、この顔を見るのが楽しくて仕方ない。これだからこのビジネスはやめられない!
声に出せば聞いている相手を震え上がらせるようなことを考えつつ、ボラは極めて軽い動きで控えて居た男たちのひとりから鉄の棒を受け取った。
―――――こころは折った。あとは仕上げだ。
「ふふん、ふん、ふ~…ん……」
低く、穏やかに鼻歌を歌いながら、手の中の棒をくるくると遊ぶ。
鉄の棒。それはただの棒ではない。これは棒の先に分厚い正方形があり、その表面には気味の悪い
趣味を疑うナンセンスな、髑髏を思わせるその
ボラは手慣れた様子で魔法を使い、その奴隷印の部分を熱した。
熱く、熱く、赤く、赤く。
そうこれは、奴隷印を刻むための
「よーしよし、じゃあ奴隷の烙印を押させてもらおうか。ちょっと熱いけど我慢できるよなァ。っとそうだ、舌を噛んだりすんなよ。商品価値が下がっちまう……」
焼きごてを掲げたボラはニタニタと下品な笑い方でルーシィに話しかける。その醜い容貌は、昼間やパーティ中の紳士然とした男と同一人物とは思えないほど歪んでいた。
「不安かな? 熱そうだもんなァ。大丈夫、焼き印を付けたらちゃんと治療してやるさ……ああそれから、君が立派な商品になれるように
―――――ひどい、ひどい話だ。ルーシィは歯を食いしばって、涙の溜まった瞳でボラを睨み付けた。
好き勝手なことばかり。人の苦しむ姿で悦を貪る外道の極み。
いったいどれほどの人を傷つけた。今まで何人の女性をこんな目に合わせた?
他人の明日を食い潰して煽る酒はそんなに美味いか。
反抗的なその態度に、やあ思ったよりこころが強いな、まだ折れないか面白い、と男たちが口笛を吹いた。
小馬鹿にしたような態度だ。ルーシィの抵抗程度、何の支障もきたさないと舐め腐った視線だ。
―――――そのとおりだった。睨みつけたって何ができるわけじゃない。抵抗らしいことのひとつも成せやしない脆弱さ!
けれど屈服したように這いつくばって、見上げる
「ぜったい、っぜったい許さない………っ」
「ほーう、許さない? クク、クヒヒ、―――――誰も許してくれだなんて言ってねぇんだよ!」
ヒャハハハッハハッハハ !!!
ボラの笑い声が響く。焼きごてがルーシィに近づいてくる。
耳に痛い品のない笑い声。人を害することに躊躇のない悪逆無道。
これが、こんな人が、―――――こんな最低な男が
別に、あのギルドに所属している全員が善人だと思っていたわけではない。
それでも、魔法を悪用して、他人を騙して、挙句は奴隷商―――――人の堕ちきった外道が、こんな人の皮を被ったような悪魔があのギルドの名前を背負っているのかと思えば、……どうしようもない失望に囚われる。
知った時から憧れていた。出会って尊敬した。だから紹介してくれると言われた時、たまらなく、たまらなく嬉しくて、幸せで。
ずっと抱いていた夢も理想も、すべてを踏み荒らされ、唾を吐きかけられたような屈辱―――――
裏切られた。そんな気持ちが頭の中を埋め尽くす。
真実が突き刺さった胸の穴は悲しいくらいに痛くて、痛くて、……とうとう、瞬きをしたルーシィの瞳から一筋の涙がこぼれた。
ひどい、ひどい話だ。こんな最低ってない。信じられない、信じたくもない。
それなのに現実ばかりが目の前に立つ!
よくも騙したな! よくも、よくも、大切な
ひどい、最低、最低、最低……
「だいきらい………!」
だいすきだったのに。
■
たぱり、と頬を伝った涙が顎先へ。
しとり、と顎先から離れた雫が宙を舞い。
悲しい悲しいと鳴くひと雫が、ころころころりと宙を滑って、
■
――――― バギャアアアアッッッ !!!!
■
「―――――」
■
「うわぁ!」
「な、なんだ!?」
「っぐ、何が…!」
「―――――あ、」
あ、あ、あ、―――――ああ。
鳴いた雫は、けれど地べたに堕ちずに吹き飛んだ。
ぐちゃぐちゃに壊される前に―――――まるでそれを、遮るように。
■
立ち込める土煙。砕け散った木片がつぶてのように周囲に飛び散り、ぱちぱちと肌を刺激する。
原因は何か? ―――――天井だ。
ルーシィたちの居る船長室の天井。けたたましい破壊音は、船の造りのとおり頑丈にできていたはずのそこが唐突に陥落した音だった。
全員が呆気にとられ無防備になる。精一杯、土煙や木片から顔を背けて防衛するばかり。
ルーシィはとっさに目元を腕で覆って防御して、ハッと気づく。
―――――拘束が外れている。
男たちも同じように目元やくち元を守っていて、そのためにルーシィは解放されたのだ。
破壊の衝撃が男たちからルーシィへの意識を反らした。誰も―――――誰も、ルーシィが自由になったことに気が付いていない。
―――――今なら、と。
木片は落ち着いてきたが土煙はまだ立ち込めたまま。防御に失敗したのか咳こんだり呻きながら目をこする男たちの、その喧騒に紛れて逃げ出すための煙幕にできる。
―――――今なら、ここから逃げ出せるかもしれない。
気づかれないようにそっと距離をとる。誰もルーシィに意識を向けない。
誰もルーシィに気付かない。
衝撃と好機が、喘いで憤っていたルーシィを冷静にさせた。
悲しいという気持ち。辛いというこころ。毒のように身を蝕むそれに囚われて泣いている場合ではないだろうと、冷えた頭が叩きつけるようにルーシィの苦しみに蓋をさせた。
「しっかりしろ」と。
だって危険に晒されているのは自分だけではないのだから。
( 助けなくては、 )
さっと頭が冷えた。冷静になった。そうしたら気づいたこと。
それは、今が最大の好機であるということ。―――――そして、今この時、ルーシィにしか助けられない人たちがいるということ。
助けなければいけない相手がいる。―――――それがルーシィが動く理由になる。
■
それはある種の現実逃避。
助けたいと思う以上に、見たくないものから目を逸らす大義名分が欲しかっただけ。
■
冷静になれば、ぱっと思考が整理される。
すべきことは女性たちの救出・保護と、この悪魔の一団を軍と評議会に通報すること。
けれどその前提条件として、沖へ沖へと出てしまったこの船を港に戻せなくてはいけない。国境を越え他国に逃げられてしまえば、女性たちの保護も一団の逮捕も遠のいてしまうのだから。
そのための一手は―――――ルーシィには策があった。
頭は次の行動を計算している。思考は『ここから離れろ』と体に命令を下した。そしてルーシィは――――
ルーシィは、動けなかった。
■
けれどそれは脆く、儚く。
張りぼての虚勢は、身も心も守ってはくれなかったから。
■
周囲を見回したのだ。走り出す前に、警戒して周囲を見回して、見まわして、男たちを見て―――――
そして、ボラを見てしまった。
ボラは腕で土煙を防ぎながら、天井が落ちてきた場所を睨みつけていた。その姿を見た途端、ルーシィの体はピタリと動かなくなってしまったのだ。
だってその姿を見たたけで、使命感で蓋をしたこころの鍵を壊されるように、どうしようもない感情が溢れてきてしまったから。
ぎゅう、と唇を噛みしめる。
小さな新聞記事。
喧騒の見て取れる騒がしい写真。
写っている人たちの笑顔。
楽しそう。楽しそう。幸せそう。
素敵だなって。……いいなぁって。
ハルジオンの街。素敵な街。
偶然の出会い。
優しくて、紳士的で、素敵な人って。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、幸せで。
夢だった。憧れだった。
その想いは、こんな踏みにじられ方をされなきゃいけないものだったのだろうか。
視界が歪む。無理矢理ボラから視線を引きはがして、けれどモクモクと上がる土煙を見るばかりで体はなかなか動かない。
なにをしているのか。助けなきゃいけないのに。動かなきゃいけないのに。頭がどれだけ冷静な判断をしてもこころが追い付かない。ピクリともしない体は思考の命令を拒絶し続ける。
結局。
結局の話だ。
いくら厳重に鍵をかけても、胸に大きな穴をあけ止めどなく血を流させる苦しみを、そう簡単に忘れられたりはしない。
付け焼刃の使命感で取り繕うには痛くて、痛くて。
こんなにも簡単に溢れて。
頭がどれだけ合理的な判断を下しても―――――泣き続けるこころがルーシィの体を縛り付けて離さない。
『
ああ、苦しい。自分はこんなところで何をしているんだろう。
何だかとても疲れてしまった。
悲しいなあ。悲しいなあ。
助けなきゃいけないって思っているのに。動かなきゃいけないって思っているのに。
からだはとっくに、悲しいという気持ちに蝕まれてしまって、指の一本も動かす気になれなくなってしまった。それが余計に苦しくて。
―――――自分の気持ちばかり優先して、為すべきことも成せないような我が身がこんなにも。
歪んで揺れて、滲んだ視界。―――――不意に、
「、―――――………」
瞬きを、ひとつ。何かに視線を引き寄せられた。
それは土煙の中。何かが―――――何か……鮮やかな、色が。もうもうと立ち込める土煙の中からルーシィを煽った。
―――――あれは、桜、色?
ぱち。ぱち。ぱち。瞬きの度にころりとしずくがこぼれ、記憶がフラッシュバックする。
これは、………既視感。
ふう、となぜか、先ほどまで身を蝕んでいた悲しみが薄くなる。
それは救われたのでも忘れたのでもなく、まるで幕一枚後ろのことのように意識から距離を置かれた感覚。
視線が、次第に晴れていく土煙に惹きつけられて逸らせなくなる。それは先ほどまでとは違う感情。
何だろう。この既視感は、一体。
捕まった自分。身に迫る
まるで崖っぷちのルーシィを、ぎりぎりで引き揚げてくれるようなタイミング。
そんなとんでもない割り込みをよく知っている気がした。ずっと近く、そう、例えば。
今日の昼間、とか。
『 ――――― !!! 』
あの時、ただ無邪気に、偶然に自分を救ってくれた神風が頭の中に響く。
漂っていた土煙はもうずいぶんと薄くなった。ああ、身を紛れさす煙幕にするはずだったのに、ここまで薄くなってしまったら隠れようがない。今ならぎりぎり間に合うだろうか。
そんなことを考えながらも結局からだは動かなかった。―――――見逃してはいけない気がしたのだ。目を逸らさないで見ていなくてはいけないと思ってしまったのだ。
それはこの場にいる全員がそう思っていただろう。誰もが雰囲気に呑まれたように身動きもせず一点を見つめ、息を呑んだ。
ゆらり。『何か』の影が土煙の中立ち上がる。
何が起こっている。あれは、なんだ。あれは―――――誰だ。
その答えがそこにある。
「―――――あ、」
ルーシィは思わず声を零してしまった。こっそり逃げようと息をひそめていたことも忘れたように。
けれど、だって仕方がない。目の前の現実にどうして黙っていられようか。
驚愕。どうして、という思いは言葉になっただろうか。
「ナツ、さん…!?」
既視感の正体、まさかの存在。真新しい記憶の先で、偶然にもルーシィを救ってくれた真昼の出会い。
――――そこに居たのは、ナツ・ドラグニルだった。
ねえ、イカロスは太陽に焼かれたというわ。
それはつまりは自然の摂理で、同時に与えられた領分を超越しようとした罪への罰。
けれどね、思うの。
熱く、熱く、熱く、焼き焦がされて。
それでもこの身が、太陽の