夜半の月
走っている。
いたるところが燃え、泣き声と暑さと血の匂いが包む町を、周りに見向きもしないでただひたすらに走っている。
嗚咽のような声を漏らしながら、正気なのか狂っているのかもわからずに、目的地を目指していた。
目的は唯一つ。ある男を殺すためだ。
───
明祢は発狂しそうになった。その事実を認められなかった。
全てが変わりだした中学生時代から、十年が経っていた。
あのときは、なんだかんだいってまだ平穏だったと、明祢はぼんやりと思い返す。
今は違う。
少し前から始まったボンゴレ狩りは、ボンゴレに属す者だけでなく、それに関わった者ですら対象にする恐ろしい作戦だった。勿論、明祢自身もこの対象になっていた。
幸いなことは、彼が曲がりなりにも術師であったことだろう。だからこそ彼は、今日という日までなんとか生き延びてきた。
多くの犠牲を払って。
町は彼の少年だった頃から随分と様変わりしてしまった。
空爆にでも襲われたかのように、あらゆるものが燃えていた。
明祢が好きだった並盛の姿は、もうどこにもない。
「殺す……」
呟いた言葉は、獣が唸るような声だった。
大切なものを全て奪われたことによる、身を焦がすほどの憎悪は、とうとう自己嫌悪すら呑み込んだのだ。
鉄製の扉を開ける。錆びついているのか、キィという音が響いた。
……そこに、目当ての男がいた。
白い髪に、白い服を纏って、薄ら寒い笑みを浮かべて、その男は燃え盛る町がよく見える中学校の屋上に立っていた。
「あれ? もう着いたんだ。早かったね」
「───」
いざ目の前にしてみると、声がうまく出ない。
明祢は荒い息でふらつきながら、それでも男を睨んだ。
許せない、許さない。そんな憎悪が、彼を包んでいた。
「お前を、許さない」
「許さない? 何言ってるの明袮クン。君が悪いんだろ?」
「……俺じゃない」
確かに、明祢にも罪はあった。だが、一番悪いのは目の前にいる男だ。
明祢が懐から取り出した立方体の箱から、黒く小さな影が飛び出した。しかし、すぐに景色に溶けるように透明になって見えなくなる。
「君のそれって、結構厄介なんだよね」
「思ってもいないことを……!」
周辺の空気が、明利の怒気で震えているようだった。
空気が動く。
その時、笑みを崩さないまま、白い男が両手を前に広げ、勢いよく手を合わせた。
──パァン
音が場に広がる。
それと同時に、尋常では考えられない圧力が、桂木を襲った。
白い男の周囲から黒い影が現れ、地に墜落する。
それは明祢の持っていた箱から飛び出たものに違いなかった。しかし、それは先程とは違い、灰色の石のように固まってしまっている。
「…………」
「……あぁ、なるほどね」
自身の攻撃が外れたことで、明祢の表情は暗い。
その様子を見た男は何かに気付いて頷くと、背後の空間に蹴りを入れた。
「遅い」
「知ってるよ」
男の目の前にいた明祢が霧散し、代わりに背後から霧が晴れるかのように本物の明祢が現れる。
「死ねっ……!!」
藍色の炎を纏った右足が、白い男に蹴り殺さんと迫る。
それでも、男は軽薄な笑みを浮かべたままだ。
「君の蹴りは受けたくないんだよね」
明祢の脚が、男に掴まれる。
彼の蹴りは尋常ではない程の勢いと力があった筈だが、体が一瞬たりとも傾くことなく、男はしっかりと受け止めていた。
「……くそ、放せ!」
「放せって言われて放すわけないでしょ。明祢クン、賢いから分かるだろ?」
「俺の名前を呼ぶな!!」
なんとか男の手を振り払い、男から距離をとる。
その目付きは、本当に人一人殺せそうなほどに恐ろしかった。
「怖いなぁ……でも、そろそろかな?」
「何を───……!」
目の前の男が笑みを深くする。
見えたものに、明祢は目を見開いた。
「あ………」
───幻覚を見た。
黒い髪。黒いつり目。白のカッターシャツ。黒い学ランに、赤い腕章。まだ幼い顔つき。
記憶に焼き付いた、過去の思い出。
紛れもない、十年前の雲雀恭弥の姿だった。
死んだはずの昔馴染が、そこにいた。
過去の姿で、変わらずに自分を睨んでいた。
酷く懐かしい姿。
込み上げてきたのは涙だけじゃなかった。
黒い幻覚に手を伸ばす。
触れられるまであと数センチ。
背に隠したナイフを振りかざす。
感情を殺せ、心を殺せ。
刃が幻覚の雲雀の首をかき切ろうとしたところで、明祢は目を閉じた。
───わかっていたことだ。
「…………」
ナイフは黒い幻覚のほんの手前で止まっていた。
明袮は悲痛な笑みを浮かべた。
カラン、と音をたてて、ナイフが手から零れ落ちる。
その手は痙攣するかのように、カタカタと震えていた。
「…………ごめん、やっぱり無理だ」
自分には殺せない。
彼はわかっていた。目の前の雲雀が幻覚であることも、攻撃が迫っているのだということも。けれど、その体は避けようと動かなかった。いや、動かさなかった。
前から迫ってくる攻撃を、彼はわざと避けなかった。
───グチャッ
鋭い一突きが、胸を穿った。
息が止まる。体が揺れる。
胸が軽い。痛いのに、痛くない。
明祢は自分の胸を見た。
血が流れて、赤に染まっている。
「ゴホッ……」
心臓と左肺がなくなった。上手く息をすることができない。
言葉を紡ごうとすると、口から血がゴポリと溢れてきた。手を見ると、自分でも驚くくらい真っ赤に染まっていた。
幻覚で何とか補おうにも、そんな気力も集中もなかった。だから、不完全に命を維持している。
ただ、苦痛が延びるだけの幻覚だった。ただただ、苦しいだけだ。
それでも、幻覚をやめない。
「やっぱりね。君に雲雀クンは殺せない」
男が言う。
だが、そんな声すら、今の明祢にはどうでもよかった。
それは事実だからだ。
それでも、震える唇で、明袮は笑った。
言わなければならないことがあった。
目の前の男に、一矢を報いることが出来るのなら、それで良かった。
これは、復讐だ。
「おま、えは……神、じゃ…ないよ……」
離れたところにいる男の両目が、ほんの僅かだけ丸くなったのを、彼は見逃さなかった。
表情を崩せたことに満足して、力が抜けた。
とうとうその場に立っていられず、体が傾く。
手をつくことも出来ないで、そのままの衝撃を体に受けた。
地についたのに、感覚がない。
力が入らなくなっていく。目の前が暗くなっていく。体が震える。寒くて仕方がない。
これが死ぬということか、と明袮は笑みを深める。
「そう、か……」
死ぬ間際、明袮は唐突に全てを理解した。
ここはもう、
どこにも行けない、可能性のない、全てが終わってしまった世界。
ここじゃ駄目なんだ。もっと別の場所、もっと別の時代。こことは別の可能性───いや、可能性がないといけないんだ。
ここに至った時点で、この世界は終わっていた。
自分ではこの男を殺せない。
……なら、しょうがないな。
殺せないのなら、何もできないのなら、生き長らえる意味もない。
そして、全部諦めた。
あとに残ったものは、憎悪でもなんでもない。
燃え残った残滓のようなものだった。
「ゴフッ……あァ……」
明祢は幻覚の少年を見た。
霞んだ視界の中で、幻覚の少年は何も答えない。彼の記憶の中と変わらずに、不機嫌な顔つきで彼を睨んでいる。
その姿に、言い知れぬ懐かしさが湧いてきた。
雲雀を殺せなかった。
どうしても、どうしても、殺すことが出来なかった。
でも、それは仕方がないことだ。
勇気がなかったとか、覚悟がなかったとか、そういう次元の話じゃない。
自ら輝きを放つ、眩しい光。
初めて見たときから、ずっと。雲雀は俺の太陽だった。
月は太陽がないと輝けない。それと同じこと。
雲雀は俺の憧れだった。
だから、殺せなかった。
そんな簡単な事実。
涙に濡れた顔で、明祢は笑った。震えた腕で、幻覚の雲雀に手を伸ばした。
返ってくるものは一つもない。
別に、なにか期待をしていたわけじゃない。
お前が生きていたらそれでよかったのに、それすらもない。
死に恐怖を抱いたのは、ずっと昔のことだ。今はもう、怖くもない。
死は断絶だ。けど、先の虚無に恐れを抱いたりなんかしない。
何故なら、もっと恐ろしいものが俺を包んでいるから。
大切なものは失ってからはじめて気付くという。失いそうになって、はじめて気付いたけれど、いざ失ってみれば、その喪失がどんなに辛いことかを実感した。
……お前のいない世界は、こんなにも息苦しい。
「ほん……と、最悪な世界、だったよ……」
今も、自分のことは嫌いだ。
それでも、それなりに良いこともあったのだ。あれもかれも全部失ってしまったけれど。
だから、心残りはたくさんある。
世界も自分も嫌いだけれど、そこにいた人々は嫌いじゃなかった。
結局、それが最後の言葉になった。
そのうち、視界が完全に真っ暗になった。
何も見えない。何もわからない。
幻覚の少年ですら、どこにいるかもわからない。
何も感じないはずなのに、パチパチと何かが燃える音だけが彼の耳に入る。
やがて、そんな音も遠ざかっていく。
鳥の鳴き声すら、もう聞こえない。
そして、全てが終わってしまうその最期に、
『悪いね、■■』
───そんな幻聴が、聞こえた気がした。
これは異なる枝の話。
……最後まで、自分が嫌いだった。
そんな一人の青年の物語が終わった話。