「お願いします、恭弥を、助けてください……!」
ボロボロの体で、黒い少年を背負った少年は、泣きながら男に縋った。
少年の背に負われた少年は、呼吸が浅く、あと少しもすれば命を落としそうだった。
男は戸惑いながら少年たちを見た。友人を助けようと自分に縋る少年が、輝いて見えた。
目が覚めると、白い天井が見えた。
「……起きた?」
聞き慣れた声がして、ゆっくりと顔を動かす。腹の辺りがズキズキと痛んだ。
「父さん……」
自分と似た顔立ちの男に、ほんの少し安心する。ここは安全なのだと、もう危険はないのだと。
「親切な人が病院まで運んでくれたんだって」
「恭弥は?」
「恭弥君は……」
父さんの目が、横に逸れる。
それで、最悪の想像が頭を過った。それと同時に、あの酷い光景も。
……ゾッとした。
「恭弥!」
「明祢!?」
痛い体を無理矢理動かして、病室を飛び出た。恭弥はどこにいるのか、大丈夫なのか。大丈夫なわけがない。
だって、体を銃で撃たれたのだ。想像を絶するような痛みがあったに違いない。あの出欠量では、生きているかどうかもわからない。
廊下を歩く看護婦を掴まえて、恭弥の病室を聞く。戸惑う看護婦は、俺の鬼気迫る表情に圧されたのか、集中治療室にいると教えてくれた。
集中治療室……名前だけなら俺も知っている。ICUと呼ばれることもある、重篤な患者がいる部屋だ。
つまり、恭弥は重篤なのだ。
走る。病院には父の関係で何度も来ているから、場所は知っている。
後ろから名前を呼ぶ声がしたけれど、そんなものはどうでも良かった。
恭弥はどうしてそんなところにいる?
答えは簡単だ。俺が、不用意に恭弥の名前を読んだからだ。
恭弥は感覚が優れている。だから、聞こえないはずの俺の言葉を聞き取ったんだ。それが、不自然に途切れていることにも、当然気づいたはずだ。
俺が悪いんだ。俺が巻き込んだんだ。
ごめん、恭弥。
「恭弥は………?」
集中治療室とはいうものの、恭弥のことだから個室なのだろうとは思っていた。部屋の前まで行くと、慌ただしそうな人達が俺を見て驚いた顔をした。
「雲雀君ならさっき峠を越えたよ」
院長が、そんなことを言った。
権力に弱い人だけれど、悪い人ではないということを俺は知っている。俺はじっと院長の目を見た。嘘は言っていないように見えた。
看護婦の一人が、そおっと扉を開ける。そこには、胸を上下させる恭弥が眠っていた。
安心したら、ぽたり、ぽたりと涙が出てきた。
……あぁ、恭弥はまだ生きている。
「よかっ、た」
「明祢」
父さんが肩に触れる。慈しむような、優しい手のひら。
「昨日のことは、忘れなさい」
「え……?」
「父さんが、後のことはなんとかしておくから」
父さんの顔は、見たことのないくらいしっかりとした大人の顔をしていた。
これが、親ということなのだろうか。
父さんは俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ごめんな、明祢」
父さんは笑う。俺には、どうして謝っているのかわからない。
父さんの笑顔の意味がわからない。
「父さん……」
オチミズって、何?
そう言おうとした言葉は、全部喉の奥で飲み込んでしまって。
瞬時に悟ってしまったのだと思う。これを聞いたら、俺はもう、普通には戻れなくなるって。
だから、聞かなかった。とっくに普通じゃないって、頭のどこかではわかっていたのに。
病室に帰ると、父さんに言われた言葉が頭の中を何度も何度も走り回った。
父さんは忘れろ、と言った。けれど、あの鮮烈な光景を忘れることなんて不可能に思えるし、むしろ、あれは忘れてはいけないことだと思う。
俺は人を殺した。間接的だろうが、直接的であろうが、それはもう変えようのない事実だ。
人は罪を犯すと、大小の差はあれ、自らに何かしらの罰を与える。良心があればあるほど、多分それは大きくなる。
俺はこれから、殺した七人の命ぶんを背負って生きていかなくてはならない。それが悪人か善人かは関係なしに。
奪ってしまった命の分、俺は自らに罰を科した。
『どうして人を殺したら駄目なの?』
物事をよく知らない子供が、無邪気に聞く問い。
人を殺してから、漸くその答えを知った。
───命が軽くなるからだ。
人が背負える命の数は決まっている。
人は本来、自分一人分しか命を背負えない。
それなのに、人を殺してしまったから、俺は殺した人数分の命を背負わなくちゃいけない。だから、俺の中で自分の命は軽くなってしまった。
俺はもう、俺の命の正しい重さがわからない。
「………恭弥」
病室の窓から見える夕暮れは、昨日と同じ色をしている。
考えた。
恭弥を巻き込んだのは、俺が名前を読んだのもあったけれど、そうじゃないのだ。
それ以前に、俺が桂木だからいけないのだ。
「オチミズ……」
オチミズは知らないけれど、若返りの水……すなわち、不老不死の水は知っている。
いいや、本当はオチミズだって知っていた。
冷静になって考えてみると、若返りの水ときてオチミズといえば、あれしか思い浮かばない。
『月夜見の変若水』
桂木家が信仰する神様が持っているとされる霊水のことだ。
飲むと若返るというやつで、現実には存在しない代物。
当然、俺が持っているはずもない。
けれど、桂木家には、ああいう人達に拐われる理由があったのだ。
だとするなら、俺が親しい人間たちは、俺のせいで狙われる可能性がある。
恭弥はたまたま生きているだけで、今度あったら、殺されるかもしれない。……それは嫌だ。
俺は決意した。
もう、諦めると。
恭弥と仲良くするのはやめよう。哲矢と仲良くするのもやめよう。
放課後の見回りもやめよう。
誰とも仲良くならないでおこう。距離をおいて、俺なんかの事情に巻き込まないようにしよう。
怖かった。怖かったんだ。
恭弥が死ぬと思ったら、どうしようもなかったんだ。
だって、恭弥も哲矢も俺の大事な人だから。
父さんと母さんは当分は家族だから仕方ないけど、守れるようになろう。
強くなろう。誰も仲良くならないように、学ぼう。
もう、誰も傷付かないように。
この日から、俺は恭弥たちとは極力会わないように、話さないようになった。
「最近おかしいですよ、あんた」
「……俺のことは、これから名字で呼べ草壁」
「!!」
徹底した。
「………どうしたの?」
「きょ、雲雀には関係ない」
「どうして、戦わないの?」
「そんなの、俺の勝手だろ!」
徹底したんだ、俺は。
恭弥との会話に、刺が付き始める。
それと同時期だっただろうか。気付けば、雲雀は町の不良の頂点に君臨していた。
小耳に挟んだ情報によると、憂さ晴らしなんだとか。
それに少し、喜びを感じるのは間違いだろうか。いや、間違いに決まっている。
それは、桂木明祢には要らないものだ。
そう、自分との関係が悪化したことに苛立つ雲雀恭弥に喜ぶ桂木明祢なんて必要ない。
「……ははっ、馬鹿みたいだ」
夜を出歩くようになった。前までは嫌いだったのに、眠れないからしょうがない。
アンダーグラウンドなところにも立ち寄るようになった。境界線を理解するために。
夢を見る。
雲雀が死ぬ夢。自分が、人を殺す夢。
目覚めは最悪で、本当に笑えない。
『こっちまで堕ちてこいよ』
聞き慣れた自分の声が、嗤いながら囁く。
あぁ、本当にうるさいな。
貰った煙草を口に咥えてみる。拾ったライターで火を着ける。
数秒ほどで白い煙が立ち上がって、口の中になんともいえない苦味が広がった。
大人って、こんなのに依存するのか。
息を吸い込む。煙が鼻からの息に踊らされる。
纏わりつく紫煙が鬱陶しい。
「まず……」
雨が降る。
俺はすっかり、汚れてしまった。
打上花火の終幕のように、ドンッという音が連なる。耳を塞ぎたくなるような不愉快な音。
赤い液体を噴き出して倒れた男。おぞましい笑い声を上げて自らの首を絞めた男。頭を抱えて怯え、とうとう表情を失った男。
雲雀はそれを作り出したのが誰なのかを直感した。
気付けば隣にいた、自らの手足ですらない、牙を持った兎。最初はただの草食動物だったのに、標的に成り代わっていた奇怪な生き物。
自分とは違い、群れを許容していたそれが、群れを見て苦しい顔をするのを知っていた。
それが傍にいることを許した理由の一つだった。
(………泣いてる)
視線の先のそれは、嗚咽を漏らして蹲っていた。
兎の涙を見るのは、これが初めてのことだった。
憐れとは思わない。
倒れている弱い子どもは自分だったのだから。
(………僕は弱い)
だから彼はあんな光景をつくった。
だから彼は血の海にいる。
だから彼は、泣いたんだ。
───僕は強くなければならない。
こんなものでは、草食動物と一緒だ。
こんなものでは、自分の領域を荒らすものを満足に咬み殺せない。
こんなものでは、彼の庇護する対象に入ってしまう。
それは嫌だ。それは許せない、許容できない。
僕は強いのだから、弱い自分は許せない。
体は焼けつくような痛みを訴えている。
今も泣いているその兎をまっすぐ見て、雲雀はそんな姿は見たくないと思った。
「明祢」
「きょうや?」
雲雀の凛とした声が、場に響く。
明祢の表情は、行く場所を見失った迷子のようだった。
ただ、命が軽くなっただけ。
明祢は優しい少年でした。だから、命を大事にしてしまう。それがたとえ、悪人だったとしても。