胃の中のものが、全部出てくるかと思った。
「おぇ……」
あまりの気持ち悪さに吐き気がした。
何度も目を擦ってみても、何度瞬きをしても、目の前にいる人物は消えない。
だから、これが現実なのだと理解してしまう。
「嘘だ……」
いや、嘘じゃない。己の感覚と経験は、これが変装や幻術の類いではないと告げている。だとするのなら、これは現実だ。
いきなり景色が変わったことも、大人びた昔馴染みと弟子がいることも、死者が生きていることも、全部理解が追い付かないが、それでも、わかることがある。
ここは戦場だ。
漂う空気には殺気が混じっており、昔馴染みと弟子からは焦りが感じられる。
こちらの方が押されている。
「ははっ、最高だ……!」
男の声が響く。それは、とうに忘れた声。だから覚えなどない。けれど、その顔は忘れられなかった。
五年前、自分が殺した男。
体が震える。心臓が恐怖に支配される。
でも───、俺にはやるべきことがあるはずだ。
足を動かすと、何かにぶつかったような感触と同時に、カランと軽い音がした。足元を見ると、膨らんだ巾着袋がある。
中からは四角い箱が出てきている。残念ながら、見覚えが全くない。
つい、それを拾う。
「なんだこれ……」
「桂木さん!」
「!」
草壁の声と同時に鋭い殺気と気配がして、地面を蹴る。直後、自分が先程までいた場所から、破壊音と共に煙が立ち込める。
「イタチ……いや、ビーバー?」
そこには青い炎を纏ったビーバーがいる。………は? なぜにビーバー?
混乱する俺を他所に、灰色の髪の男は笑う。
「ありがとよラウロ! お前ならまだしも、この時代の常識を知らねぇ十年前の桂木明祢だ!」
この時代の常識? ……十年前?
疑問が浮かび、草壁を見る。
黒いスーツを身に纏ったその男は、老成したような雰囲気というか、中学生らしい子供らしさが抜けている。まるで、大人になったかのように。
いや、違う。草壁が大人になったのではない。
十年もあれば人は変わるし、常識も変わる。
「……そうか、俺が十年後に来たのか」
視界の端で青い炎が揺らめく。青を纏った獣が襲いかかってくる。
幸いなことに、それは草壁達を襲うことはない。それだけ、彼の憎悪は俺に向いている。
避ける。今はそれしかできない。
「……ぐっ」
左腕をビーバーの歯が掠める。専念しても、体には傷が増えていく。まるで貧血でも起こしたかのように、世界が遠くなっていく。
「桂木さん、匣と指輪はありますか!?」
「はこと指輪……?」
ふと、手に持っていた巾着袋を見た。中には四角い箱二つと、藍色の宝石が填められた指輪があった。
「無理だ。十年前から来たお前に死ぬ気の炎は灯せない! 灯せたとしても、ラウロのようなちんけな炎なら同じことだ!」
「死ぬ気の炎……?」
ふと、脳裏に跳ね馬の言葉が甦った。
『ツナの死ぬ気の炎と同じだ。リングを媒介としてエネルギーを炎に変換している……って感じだな』
──覚悟を炎に変える。
そうだ、俺は知っている。実際に見たこともあった。跳ね馬が指輪を通して灯して見せたオレンジ色の炎を、俺は知っている。
手元には指輪がある。
「やってやる」
手早く、指輪を左手の中指にはめる。不思議なことにサイズはぴったりだ。
灰色の髪の男を見ると、俺が指輪をはめたことに驚いているようだった。
……ところで、覚悟とはなんだろう。
日本語としての意味は知っているけれど、覚悟なんてものは目に見えないし、普段意識するものでもない。
俺の覚悟とはなんだろう。
俺は今、何がしたいんだろう。
目を閉じれば、背後の気配を感じる。そうだ、今は彼等を守らなくちゃいけないんだ。
だって、大事な人だから。
「……!」
藍色の炎が灯る。けれど、それは手のひらに収まってしまう程度に弱く、拙い炎だった。
「……はは、やっぱりだ。お前じゃ無理だ。俺の覚悟の方が上だ!!」
「お、おい草壁! はこをどうするんだ!」
「炎を匣に注入してください!」
男が笑う。いや、冗談じゃないぞ。男が灯す炎は、俺の二倍……いや三倍は優に越えている。彼の言う通り、俺は彼より下なのだろう。
だからといって、逃げるわけにはいかない。
例え俺の覚悟が、泡沫のようなものだったとしても、ここから退くわけにはいかないのだ。
ぶつけるように、匣に炎を注入する。草壁の言い分なら、多分これで何かが起こるのだ。
──そう思ったのに。
「え」
「嘘だろ……」
匣は、うんともすんともいわなかった。
「は、あはははは! 最高だよ桂木明祢! お前はエンターテイナーの才能がある!」
「く、草壁ぇ……何も起こらないんだが!?」
「炎の量が足らないのか……?」
俺としてもこんな筈じゃなかったのだから、笑わないでほしいし、冷静に分析しないでほしい。
俺の予想が正しければ、これはこの時代の俺が準備したはずだ。よくわからないけど。
だというのに、俺が使えないとはどういうことか。
「ははっ、俺はもうお前には負けない。俺の方が強い!」
男は容赦がない。凄まじい憎悪と攻撃を俺にぶつけてくる。避けてはいるが、攻撃は掠めてばかりで、段々と消耗していく。
絶体絶命とはこのことだろう。
「どうすれば…………っ!?」
ガクン、と膝が落ちた。指を動かそうとして、ろくに動かないことに気づいた。
何かが阻害しているかのように、体が動かない。
「さっきと同じ……あぁ、お前は知らないか」
「雨の沈静……」
草壁の焦った声が聞こえる。
でも、頭だけは妙に冷静で、あの炎にはそういう効果があったのか、と考えている。
青い炎が迫る。男の笑い声が聞こえる。
衝撃がして、気付いたときには自分の体が宙を舞っていた。遅れて、腹に酷い衝撃。突っ込まれたのか。
世界が遠い。全てが、遠い。
「終わりだ」
俺の炎は、覚悟は、ちっぽけだった。
それをどこかで、仕方がないと思っている自分がいた。
だって、そうだ。自分には覚悟なんてない。何もない、空虚な自分。それが、俺の正体だった。
それを十年後の自分はわかっていたはずだろうに、どうして……どうして、俺に開けない匣なんて託したんだろう。
「兎の人!!」
「桂木さん!!」
声が聞こえる。けれど、あまりに遠い。
どうして、こんなことになったかな。
ただ、怪しいやつを見つけて、追いかけて、揉み合っただけなのに。
それは奇しくも、あの時思ったのと似たようなこと。
自分にとって当たり前のことをしただけなのに、理不尽にも全てを奪われようとしている。そんな現実に直面している。
死にたい感情は、あった。
生きたくない感情は、あった。
自分が嫌いな自分は、自分を認められない自分は、きっと何者にもなれやしない。
誰も、守れない。
あぁ……せめて、匣が開けられたらな。
もしかしたら、何かできたかもしれないのに。
守れたかもしれないのに。
『たぶん、色んなものが色んな方向から乗っかってくるからじゃないかな』
その通りだった。色んな物が乗りすぎた。重すぎる体は、もうびくりとも動かない。
死を覚悟する。そして、
「せめて……」
思う。どうせ死ぬのなら。
そう、せめて。
最期に、恭弥に謝りたかったな……。
「明祢さん!!」
迫るのは銀色の刃。狂喜に染まった男の表情。
とどめだけは、自分の手でやりたいらしい。
後悔が降ってくる。けれど、迫り来る死に対する恐怖はなかった。緊迫した状況で、心臓は喧しく動いている。
ただ、緩やかに世界が動いていく。
遅い。体が遅い。流れる景色が、時間が遅い。
頭が回る。思考が回る。世界が分割される。
複数の画面を、全て早送りで見ているようだった。
遥か遠くの方から、声が聴こえる。
海に漂う海月のように静かな世界が、急速に変わり出す。
誰かが、名前を呼んでいる。
いきなり十年前から来た奴が勝てるわけないのです。
なんで匣が開かなかったのかは、また次回