『明祢』
『………それ、やめて。嫌いだから』
何年前だったかな。まだ幼稚園児だったから、十年くらい前のことか。
その頃の雲雀は、俺のことをそう呼んでいた。でも俺は、この辺りからそう呼ばれることが嫌いだった。
だから、このときも相当不機嫌そうな顔をしていたはずだ。
『なんで嫌いなの?』
『だって、女っぽいって馬鹿にされるし……』
『ムカついたんなら、まとめて咬み殺せばいいのに』
『それが出来るのは恭弥くらいなんだよ』
拗ねたように吐き捨てた。
この時の俺は今よりもずっと弱くて、雲雀に殴られてばかりいた。杵を振り回すことも出来なかったから、当然悪ガキたちには敵わなかった。
『………君の名前って漢字でどう書くの?』
突然、雲雀がそんなことを言った。俺は驚いて、どうしたんだろうと訝しげに雲雀を見た。
雲雀は他人の名前に興味なんか示さないからだ。
『こう』
ゆっくり、丁寧に、恐る恐る、地面に指で名前を書く。
──明祢
そういえば明祢の「祢」の字は、恭弥の「弥」の漢字と似てる。
書いてから、そんなことを考えた。
雲雀は、書かれた俺の名前をじっと見つめた。それから数十秒して、何かを思い付いたのか、足を動かした。
『じゃあ、こうすればいい』
恭弥は俺の名前の「祢」の字を、足で消した。
──明
残ったのは、それだけ。
『……なにこれ?』
『今日からこれが君の名前だよ。いいね、
鈴の音が鳴るように、その声は染みていく。
胸の辺りがぽわぽわとしたのを覚えている。暖かくて、心地が良かった。どうしようもなく嬉しかった。
時間はとうに止まっていた。
停滞され、引き延ばされた時間の中で、俺は膨大な量の映画を見ていた。
無限に続くかのような螺旋を降りていく、そんな感覚に近い。
記憶が戻っていく。忘れていた記憶が、泡となっていた記憶が、全部が濁流になって甦る。
『明祢さん、恭さんが……』
『恭弥が?』
『見て、自転車』
『へー自転車……って、待って??』
『なにさ』
『それは自転車じゃなくてバイクだろ!?』
甦る。
『なにそれ』
『並盛中の校歌だよ』
『お前、自分の年齢知ってる?』
『興味ないね』
『馬鹿……』
甦る。
『母さんが買ってくれた!一緒にやろうぜ!』
『……これ、なに?』
『ゲーム!』
甦る。
『なにあれ』
『ん? ……あぁ、鬼ごっこだよ。」
『群れてる』
『……確かに』
『でも、追いかけるのは楽しそうだね』
『………わぁ』
甦る。
そんな記憶の先で、俺がいた。
幼稚園に通い始めたばかり、それくらいの歳。幼い顔は頬が今よりも膨らんでいて、全体的に丸い。触れればすぐに壊れてしまいそうなほどに、弱く頼りなさそうに感じた。
幼い俺は、清泉のように澄んだ瞳で俺を見た。アルバムの写真で見た俺は、こんなだっただろうか。
そんなこと覚えちゃいない。
自分の記憶だというのに、何故か別の視点から見ている。それが不思議だった。
幼い自分が何かに気づいて、急に走り出した。ぱたぱたと足音をたてた先には父さんがいる。俺は父さんの足に、笑顔で抱きついた。
『とうさん、聞いて!』
『どうしたんだ明祢』
『俺さ、幼稚園ですっごいやつを見つけたんだ!』
『すごいやつ?』
『うん、すっごく強くて、かっこよくて、なにより誰よりも自由なんだ!』
………あ。
これは、雲雀と出会った直後の記憶だ。
殴られた以上に、雲雀と出会えたことが嬉しくて、仕事から帰ってきた父さんに真っ先に伝えに行ったのだった。
それくらいの衝撃だった。
忘れてたけど。
なんだか泣きたくなった。
何かを、忘れているような気がした。
螺旋は続く。濁流は止まらない。
俺は自由になりたかった。
だから、雲雀恭弥に憧れた。
でも、俺はそうはなれなかった。重たくて、飛べやしなかった。
鳥みたいに、空は飛べなかった。
(雲雀恭弥なら、どうするだろう)
唐突に、頭に浮かんだ。
雲雀恭弥はどの世界でも雲雀恭弥だっただろう、と。
もし仮にあの出来事がなかったとしても、恭弥は今と大して変わらなかっただろう。
例え俺がいなくても、恭弥は今と変わらない強さであり続ける。
それが雲雀恭弥だ。
例え人を殺したとしても、彼は孤高で気高いまま。何者にも縛られずに自由に生きていく。
俺はあの秋の夕暮れに取り憑かれたまま、大事なものを見落としていたんじゃないだろうか。
あいつみたいになりたかった。
強くなりたかった。
それはどうしてだったのか──?
螺旋が、終着点を迎える。
まだ俺が純粋無垢だった頃。
幼稚園で、一際目立つのに、一人の奴がいた。
幼いながらに強者としての素質を漂わせていたそいつは、触れる全てのものを切り裂く抜き身の刃のようで、誰一人として近寄ろうとしなかった。
だから、そいつに友達なんてなかった。
そもそも本人は、そんなものを必要としてすらいなかっただろう。
でも、俺はどうしてもそいつと仲良くなりたくて。
どうしても、そいつと話してみたくて。
どうしても、友達になってみたくて。
『はじめまして、俺は桂木明祢。俺──うぇ』
勇気を出して笑顔で近寄ったら、思いっきり殴られた。
それが、俺と恭弥の始まり。
(あ、そうだ……)
友達になりたかったんだ。
ずっと、なりたくて、仕方がなかった。
『桂木さん。貴方は、諦めたんですか?』
『……そうだよ。出来なくなったから、諦めたんだ』
なにが諦めた、だ。結局諦めきれなくて、死に際になって後悔してるんじゃないか。
そうだ。死にたくない。このまま死ぬくらいなら、どうして雲雀に何も言わなかったんだろう。言いたかった言葉の一つも、未だに言えていない。
友達になりたいって、結局一度も言ってない。
死ねない。まだ、死ねない。生きたい。言いたい。
俺の罪は、誰にも裁かれることがなかった。
警察は証拠がないと捕まえられない。
彼等は裏社会の住人で、しかも密入国者だった。銃も持っていた彼等を、どうやれば十歳の子供が殺したと思える?
指紋なんて付いているわけがない。何せ、幻覚で撹乱されただけなのだ。
証拠は何一つなかった。
後で、彼等は仲間割れをしたのだという結論に至ったと教えられた。
こうして俺の罪は、誰にも裁かれることがなかった。
誰にも裁かれないのなら、俺は自分で罰を背負うしかない。
そうして俺の天秤は、壊れた。
でももういい。
多分、この罪は永遠に痛み続ける。永遠に癒えることはない。
それが俺に与えられた罰だ。
仕方がない。
だから、重くたって無理矢理飛んでやる。
前に、前に歩いていってやる。
許されない罪を抱えたまま、生きて、償い続ける。
今は、それが俺の覚悟だ。
「だからお前には──」
「なにっ!?」
「殺されてやらないッ!!」
動かないはずの体を、無理矢理動かす。
軋み始める体、痛みはない。感覚が薄い。それでも、動かす。
脚が動いて、銀色の刃──ナイフを吹き飛ばした。
胸が、熱い。
不思議な感覚だった。やけにすっきりとしていて、視界がいつもより明瞭だ。
「あ、明祢さん……それ……」
丁度胸の辺り。服の下が、
「……あぁ、そういうことか」
俺は、そこにあるものを知っていた。
服の下にある銀色のチェーンを引き上げる。
そういえば、これも指輪だった。
チェーンの先には、紫色の宝石が埋め込まれた指輪と、これまた紫色の装飾がされた小瓶がある。
指輪は燃えていた。
ゆらゆらと空に浮かぶ雲のように、紫色の炎が揺らめいている。
この指輪は、本来煤けて黒い筈だが、炎のお陰で本来の姿に戻ったのだろう。
それをチェーンからゆっくりと取り外し、自分の左手の中指にある指輪と取り換えた。
「………うん」
炎が、俺そのものを包み込むほど大きくなる。
先程のグリージョとは比べ物にならないほどの炎の量だ。
「わかってたんだな、俺」
これが本当の炎。
本当の、覚悟だ。
「馬鹿な、雲の炎だと!?」
「雲の炎……わぁ、アイツと同じだな」
雲雀の炎なんて見たことがないけど、きっとそうだ。アイツは雲のリングとやらを持っていたのだから、絶対にそうに決まっている。
気付いたときには、落ちてしまっていた匣を拾う。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
「……させるか!」
青い炎を纏ったビーバーが動く。
……でも、手遅れだ。
「なっ!?」
ビーバーが向かった先は、何もない虚空。いや、彼にはそう思えたのだろう。
「させない……!」
「ナイス、髑髏」
ビーバーが見たのは、髑髏の作った俺の影。
「さぁ、ぶっ飛んでいきますか!」
どうせなら、月まで飛んで行ってしまおう。
地球の重力さえ無視して、自由に生きてやる。
指輪は燃える。
匣にこぶしをぶつけるように、炎を注入する。
カタカタと、匣が動き始める。
膨大な紫色の炎は、確かに匣の鍵だった。
……なぁ、恭弥。俺はあの時『俺と友達になってよ』って、言おうとしたんだ。
ずっと、自由に憧れていた少年。
知ってます?兎って一羽、二羽って数えるんですよ。